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5章_14

 はめられた。


 そう思ったとき、修理大夫朝興の背筋を、下から冷たいものが上がった。


 鞍の上にいるのに、足の裏が地についていないような心地であった。丘の風が具足の隙間へ入って来る。手綱を握り直したが、指の力が思うように入らない。


 自分は間違えた。間違えたと分かって、それを正したはずであった。

 己の慎重居士を扇谷上杉の当主に相応しくないとし、前に出るべき場面を見極め恐れずに前に出た。ゆえに次に得られるは勝利であるはずだ。


 それが、なぜか逆手に取られている。


 なぜだ。なぜこうなった。


「なぜだ」


 声に出ていた。


「御屋形様、なぜ、ではございませぬ。今眼前に敵がおられるのですぞ。こちらより少のうござる」


 丘を駆け上がって来た三戸駿河守であった。息が上がっている。上がっているのに、言葉の勢いは落ちていない。あれだけの旗を見せられて、この男の攻めっ気はまだ消えていなかった。


 修理大夫はそっと窺いみるように南を見た。

 旗の増え方は、すでに落ち着いている。丘の向こうから押し上げられるように出て来ていたものが、いまは並び終えて、動かない。数えた者は一万を超えると言った。


 こちらは一万五千である。まだ勝っている。しかも、こちらは高いところにいる。


 駿河守の言うことには、一理あった。


 五郎の五千は前へ出ており、新たに現れた勢はその後ろで隊を組み直している最中に見えた。合わさりきる前に押せば、崩せぬこともない。


 修理大夫は、丘の上を振り返った。


 こちらの一万五千は、街道から丘の斜面にかけて、細長く伸びたまま止まっている。四日、火を焚かせずに歩かせた兵である。先頭のあたりはまだ形になっているが、後ろは追いついておらず、坂の途中で腰を下ろしている者が見えた。槍を杖のようにして立っている者もいる。


 つい先ほどまでは間違いなく、多少は気力があったはずだ。逃げるだけの五郎を、武蔵を荒らす粗忽者を打ちのめすという気力はあった。それが現れた軍勢を見て疲労がこみあげてきたのだろう。

 責める気も沸いてこない。修理大夫も同じであったからだ。


 自分を顧みて、兵を思った。おそらく今でも丘を駆け降りるだけならできる。降りた先で押し合いになったとき、この足がどれだけ保つか。

 保たせるとすれば、一当てで崩すほかない。

 崩れなければ、押し合いのまま日が暮れる。暮れるまでの間に、下の一万余は組み終わってしまう。


 修理大夫は、南と、自分の後ろとを、もう一度見比べた。


 どちらを見ても、答えは同じ方を向いていた。ただ、口へ出すまでに間があった。


「引く」


「御屋形様」


 駿河守の声が高くなった。咎める、というより泣きつくような響きがあった。

 だが、修理大夫の意見は変わらなかった。


「兵が疲れすぎておる。逃げる兵ならともかく、向き直ったあの数を食えぬ。今すぐに兵をひく」


 駿河守が膝を強く打った。膝鎧が音を立て、馬が嘶いた。


「また機を逃しなさるか」


 その言葉に修理大夫は黙り込んだ。

 その言い分を不愉快に思ったのではない。返す言葉がなかったのである。


「北条による江戸城陥落、今川の二度の焼き働き。どれも前に出ればどうとでもなり申した。御屋形様が上杉の当主として名を響かせる好機は転がっておったのです」


 駿河守はいつの間にか馬から下りていた。


 手綱を供へ投げ、兜も脱がずに丘の縁まで歩いて出る。縁の草は霜で寝ていて、そこへ足を置くと具足の重みで滑りかけた。滑りかけたまま踏みとどまって、下を指さした。


 今川の陣の旗が、悠々とたなびいている。急ぐ様子も、身構える様子もない。上杉を蔑んでいるであろう、五郎の腹が見て取れた。


「今も同じことにございます。軍神を名乗る不遜な小僧の首を取りなされ」


 側についていた家臣が、腰を浮かせて前へ出かけた。いくら重臣と言えども、もはや聞き流せなくなったのだろう。

 修理大夫はそれを手で制した。


 制した手を、そのまま膝の上へ戻す。家臣は坐り直したが、駿河守の背から目を離さずにいた。


 修理大夫の思うところ、駿河守の言葉に、不敬はない。

 この男は昨日今日そうなったのではなく、初めからこちらを案じて言い続けている。前へ出よ、と言い続けたのも、こちらの名が上がる場をこの男が数えていたからである。江戸の陣で膝を叩いたのも、幕を跳ね上げて出て行ったのも、同じ勘定の上でのことであった。


 それが嬉しかった。嬉しく、同時に、自分が情けなかった。

 その羞恥の感情が、ここ一月で一番強くなった。それで急に視野が広がった。


「前には出れぬ。皆、撤退だ」


「御屋形様」


 修理大夫は首を横に振った。

 それから、鞍の上で背を伸ばした。


「すまん。駿河守。頭が冷えた。身の丈に合わぬことをした。わしは腰抜けと笑われようと大敗はできぬ。ここで負け、関東勢を崩すわけにはいかぬ」


 あの身勝手極まる関東の家々をあの陣に留めているものは、二つしかない。


 一つは関東管領上杉という名である。もう一つは、その上杉が手を取って軍勢を用意したという形であった。名と形の二つで、刈り入れだの病だのと理由を並べていた者たちを、ようやく江戸の前まで連れて来た。


 ここで軍を失えば、その一つ、軍を引き締めていた威、が消える。


 また大軍を号しておいて負けた、という話が回れば、名の方も保たない。二つとも一度になくなる。そうなったとき、江戸を囲んでいる七万が、どれだけ形を保っていられるか。焼かれた国人が帰る相談を始めたのは、まだ一度も負けていないときの話であった。


 修理大夫の名が落ちるだけでは済まなかった。

 下手をすれば上杉は斯波などと同じく、歴史の片隅に追いやられうる。


「此度、軍を三度退いたるは、修理大夫の臆病が故。それで許せ」


 鞍の上で頭を下げた。

 駿河守が、ぐっと息を呑んだ。

 呑んだまま、しばらく動かない。丘の縁に立ったきりで、指さした手だけが下りた。それから、その息を吐いた。


「申し訳ありませぬ。御屋形様を逸らせてしまい申した」


 草を踏んで戻って来て、向き直り、深く頭を下げる。兜の錣が、下げた拍子に肩当てに当たって鳴った。


「わかっておる。上杉がためよ。だが、全ては後にせねばならぬ」


 修理大夫は、もう一度眼前の陣を見た。

 旗はもう増えていない。増えないまま、動きもしない。押して来る様子も、退く様子もなかった。ただ、こちらを待っている。


 新たに加わった勢は、遠目にも動きがよかった。十分に腹が満ち、休んだ兵の動きである。

 まず隊の切れ目がはっきりしている。伝令らしい騎馬が横へ走ると、走った先から順に列の形が変わり、変わったところで止まる。止まったあとは、また動かない。

 

 少なくとも、四日追われて来た兵の並びではなかった。


 今からでも死ぬ気になって、丘を駆け降りる勢いでぶつかって、あれを崩せるだろうか。

 いや、と修理大夫は頭を振った。


 崩せるだろうか、と考えている時点で、崩せぬのであろう。


「引き上げよ。相手方は守りを固めているが、急げ。治部の気が変わるやもしれぬ」


 伝令が北へ走った。


 下知は、思ったほど早く通らなかった。


 先頭の隊が向きを変えるのに手間がかかる。細長く伸びた列を、そのまま逆へ送るには、後ろから順に道を空けさせねばならない。坂の途中で腰を下ろしていた者たちは、立ち上がるのにまた手間がかかった。物頭が名を呼び、呼ばれた者が立ち、隣の者が遅れる。


 立ち上がって、来た道を戻り始める。


 誰も何も言わない。四日追って、丘の上まで来て、それだけで帰る。文句を言う声さえ出ないほど、この兵らは歩かされていた。


 修理大夫は鞍の上で、その列が動き出すのを見ていた。


 列の頭が街道へ下りきるまでに、思ったより刻がかかりそうであった。日は西へ回っている。今夜は、丘の北のどこかで火を焚かせてやらねばならぬ。焚かせれば見つかるが、見つかったところで、下の陣はもう追って来ないかもしれない。追って来ないのなら、追って来ないなりの意味がある。


 そこまで考えたところで、丘の南の縁が騒がしくなった。


 北へ戻る列に逆らうようにして、駆け上がって来る者がある。その姿から上杉方の物見であるとわかった。

 

 その物見は明らかに様子がおかしかった。

 馬が途中で膝を折り、乗っていた者が投げ出されるように地面へ落ちた。周りの兵が二人がかりで抱え起こそうとしたが、その手を振りほどいて、こちらへ歩いて来る。


 全身に矢が刺さっていた。背に三本、脇の草摺のあたりにも一本、折れた矢柄が残っている。

 幸いすべて肉に達していないようだったが、息も絶え絶えだった。


 なんだ、と修理大夫が訝しむより前に、その物見が叫んだ。


「申し上げます。後方二万の今川軍。こちらの退路を断つ動きがあります」


「な」


 修理大夫の言葉が止まった。頭の中が白くなった。


「まてどういうことだ。二万。どこから出た。あり得んぞ。知らせもなにもなかったではないか」


 馬を寄せていた駿河守が叫んだ。

 傷ついた物見が首を振る。振ったはずみに、背の矢が一本落ちた。


「わかりませぬ。ただ」


 そこで口をつぐんだ。言うのが辛い、という顔であった。


「申せ。ただ知ったことを申すのだ」


 駿河守が声を強くする。物見が意を決した様子で口を開いた。


「今川軍は焼き払った村々を通って、こちらを大きく迂回したのではないかと」


 修理大夫は、すぐには何も言わなかった。


 迂回、という語だけが頭に残って、そこから先へ進まない。

 二万が動けば、道が要る。水が要る。夜を明かす場所が要る。それだけのものを、この四日、こちらは一度も聞かなかった。


 武蔵に入ってから通った村を、順に思い返した。


 戸の外れた家が並んでいた。畑の畝が崩れたままであった。井戸の縄が切られている家があった。鶏も犬もいなかった。物見を出せば道が分からずに戻り、聞いて来るはずの相手がいなかったと言った。焼けてから日の経った跡が、南へ続いていた。


 どの村にも、人がいなかった。


 そこで、合点がいった。


 三つ目の狙いがあったのか、と思った。


 五郎の焼き働きについて、美濃守が読んだ狙いは二つであった。

 甲斐でやったように国人らの心を離すこと。江戸城の軍を分けさせたうえで、囲みを破ること。


 そこにもう一つ隠されていたのだ。


「あやつら声と目を焼いたのか」


 駿河守が、苦み走った声で言った。


 いま思いつくのは、それ以外になかった。


 村に人がいれば、二万が通れば見える。見えれば、誰かが誰かに言う。北へ走る者が一人でもいれば、こちらの耳へ入る。

 武蔵は我らが庭も同然、兵を伏せておればわかり申す、とこの男は言った。庭であるのは、そこに人がいるからであった。


 人を追い払っておけば、二万が通っても誰も見ない。


 北条であれば、こうはやるまい。武蔵を取るつもりで来ている者が、その武蔵を無人にする道理がない。


 今川ならばやる。


「今すぐに退かねば」


 修理大夫はかすれた声でいった。


 駿河守が頷いた。


---


 五郎の眼前で、上杉の軍が下がっていく。


 街道を北へ、幅いっぱいに使って引いている。列というより、寄せ集めた塊が押し出されて動いているように見えた。旗はまばらで、まとまって動いているのは真ん中あたりの一団だけである。四日追い通して、丘の上まで来て、そこで向きを変えた軍であった。


 遠目にも、疲労の色が見えた。まずは歩き方が悪い。歩幅が狭く、背が丸まっている。

 事実、四日、火を焚かせずに追って来た軍である。荷駄はほとんど見えない。落ちた馬を曳いている者があり、槍を杖にしている者があった。前へ出るときは足が揃うものだが、退くときは揃わない。揃わないまま、それでも北へは動いている。


 五郎はその塊の後ろに視線をやった。数千だけが残っている。


 殿である。


 残された数千の方が、退いていく本隊より形になっていた。誰かが選んで残したのである。

 殿の中に鯨波を送る者が見て取れた。ああ言う者がいる軍は、崩れるまでに手間がかかる。こちらも出し惜しみはできないかもしれない。


 五郎は丘の裾で馬を止めていた。日は西へ回りかけていて、街道の東側の斜面には、もう影が落ちている。

 冬の午後の光が、退いていく兵の背中を横から照らしていた。


「中務少輔、彦三郎、逃がすな。兵部少輔、騎兵は休ませているな、殿を煩わせよ」


 伝令が三方へ散った。


 葛山中務少輔と関口彦三郎の一万は、二日前からこのあたりの林と窪地に伏せていた。

 駿府から回した即応の兵で、足はまだ痛んでいない。


 夜も火を使わせず、朝夕の飯も冷えたまま食わせる、小便に立つ者の数まで決めさせる、馬には枚を含ませるなど、窮屈な暮らしで気を遣わせたのも事実である。

 伏せているだけの二日というのは、歩き通す二日よりこたえる。三日目に入れば、どこかで誰かが我慢しきれなくなる。それを見越して、こちらは三日目の前に来た。


 伝令を受けた両将から、承知の返しが立て続けに来た。返しの早さに、待ちくたびれたぶんが出ていた。


 左手の軍、中務少輔が動いた。


 中務少輔が、号令をかけ、木立の間から槍が先に見え、そのあとから人が出て来た。

 二日伏せていたにしては、出るのが速い。街道の西側を、退いていく敵の横腹へ向けて、扇を開くように広がっていく。


 退く側の後ろの方で、初めて気づいた者の声が上がった。それが前へ伝わっていくのが、こちらからは音で分かった。


「ようやっと釣れましたな」


 天野宮内が馬を寄せて来た。


「釣れずとも良かった。山内は勝手に崩れるだろう。新九郎殿がうまくやってくれた」


 血筋が良くとも養子は養子である。

 先代の実子が残っている状況で、足場固めと思われる大軍を動かせば、家中に疑心も生まれる。


「ああ、あの御仁は文が上手いですな。そう言えば江戸城も内応で落ちたところを見るに、人の心を動かす妙を知っておられる」


「見習わねば、な。今後はああいうのが要る」


「家臣にやらせれば良いではないですか。承菊殿など相当に上手そうです」


「もう少し脂が抜けたら考えよう」


「いっそ還俗させたら如何です。いま御料様が命ずればするりと片付きまするが」


「俗世のほうが迷惑する。あれは一生坊主でおさまりが良い」


 ははぁ、と宮内が唸った。


 そこで、軍勢が動いた。

 中務少輔の隊が街道へ寄った。


 殿を率いている将は、気づくのが遅くなかった。旗が一本、列の中ほどで振られた。

 それだけで、北へ向けていた兵が西へ向き直り始めた。四日追わされた兵に、まだこれだけ動きが残っている。


 向きを変えるには、いったん詰めるほかない。散らばっていた人が寄って、そちらの側が厚くなる。厚くなったぶん、東側が薄くなった。


 その薄い側を、騎馬が走った。


 兵部少輔は突っ込まない。固まったところへ馬を入れれば、こちらが止まる。街道の東の縁を、退いていく列と同じ向きに走りながら、馬上から矢を射かけた。腹を撫でるようにして抜け、抜けたところで馬首を返し、また同じことをする。


 当たった数は知れている。矢は上から下へ落ちるわけでもなく、横から浅く入るだけである。崩れもしない。


 ただ、西へ向き直りかけていた兵が、そちらを気にした。振り返る顔が幾つも出て、列の厚みが揃わなくなった。


 そこへ、中務少輔の槍が入った。


 長い槍である。合わせるのではない。上から叩く。振り上げて、振り下ろす。

 それだけの動きが、揃うと効いた。前の列が二つ三つと潰れ、潰れたところへ後ろの列が押し込まれる。押し込まれた者は、まだ何も分からぬうちに、また上から叩かれた。


「あの槍、悪くございませんな。ただの長い槍でございますのに」


「走り回る際には一切使えぬが、こういうわかりやすい戦では使える。こう振り上げて、振り下ろすだけで兵がつぶれる」


 三間半ある。


 柄は継いであって、持てばしなる。走れば先が地面を叩き、木立の中では抜けない。坂では上げた先が重くて、下ろす前に体が持って行かれる。行軍の間は荷駄に載せておくほかなく、載せれば駄馬が余分に要る。

 そのかわり、平らな場所で列を組めば、こちらの穂先が届くところまで、相手の槍は届かない。


 利点としてもう一つある。突く型を教えなくてよい。上げて、下ろす。それだけを揃える稽古をすれば、去年まで田にいた者でも使える。三河から来た者にも、信濃から来た者にも、同じ稽古をさせた。


 またははぁ、と宮内が唸った。


「よく考えなさる」


「治部が考えたことではない。すでにあった」


 いや、あったのだろうか。

 大陸で覇を唱えた陸軍では長槍などは珍しくないだろうが、山国の日本ではまだないのかもしれない。


「宮内めはとんと耳に入れたことはございませぬ。ゆえ、いっそのこと軍神の知恵とするのは如何か」


「その名も最近重くなった。どこぞの男が三百で一万を倒したなどと嘯くから、皆が十万も倒せると勘違いをする」


「勘違いではございますまい。崩せましょう」


 五郎は息を吐いた。


「勝手に崩れた。無理に集めた軍は、それなりに強いがやはり脆い」


 上杉方は半年かけて集めた十万である。集めるのに半年かかったものは、離れるのにひと月もかからない。

 そもそも軍のまとめ方も良くないように見えた。山内上杉を盟主などとおいているが、その盟主がごたついている。関東勢も信を預けて良いか迷うのは妥当に見えた。


 ゆえに、こちらのしたことは、村を焼き、道を潰し、逃げ、また逃げただけであった。戦らしい戦は一度もしていない。それでも、目の前の軍はもう形を保っていない。


「結局、華々しい勝利よりも、家中を如何に固めるかこそが肝要か」


「何を仰るか。勝たねば、家も何も残りますまい。一度滅んだ天野が申し上げることでございます、心してくださりませ」


 宮内が戯言を言っている間に、右手の窪地から関口彦三郎の隊が出た。


 こちらは初めから街道の北を塞ぐ向きに出ている。中務少輔に押されて西へ傾いた殿の、退き口へ回った。回り込まれた側は、もう向きを揃えられない。北を向いた者と西を向いた者が、同じ場所で肩を寄せる形になった。


 長い槍が上から下りて、そのたびに人が地に伏せる。


 その中で、一人立ち上がった者がいた。


 伏せられかけたところから起き上がり、刀を抜いた。振り下ろされた槍の柄を切り落とす。

 次のも払う。二本、三本と柄が飛び、穂先だけが地面に落ちた。


 柄を切られた者は、下がるしかない。下がった隙間へ、その男が前へ出た。


 周りにいた上杉の兵が、そちらへ寄って行くのが見えた。伏せていた者まで起きて、寄った。一人が立つと、その周りだけ形が戻る。

 戻ったところが、いま殿の中でいちばん厚くなっていた。


 どよめきが起きた。

 今川勢のどよめきである。しかも、兵ではない。


 左手の隊が、押していた足を緩めていた。中務少輔である。明らかに指揮が遅くなった。


 あの男は、ろくに厳しい戦をしたことがない。


 新九郎の弟で、父の従兄弟にあたる。今川に入ってからは駿東を預け、こちらも幾らか気を遣って来た。伏せておけと言えば二日でも伏せている。指図の通りには動く。だが、指図にない場面が出ると、こういうところで襤褸が出る。


「才覚はありそうなのですがな」


「無理に褒める必要はない。今後、勝手に改めるだろう。そういう男だ」


 己を頼むところがなく、自尊心も薄い。今夜のうちに、誰に言われるでもなく自分で考える。そういう男である。呼びつけて叱るつもりはなかった。言いつけた通りに兵を伏せ、この場に間に合わせただけでも、感状は書く。


「に、してもあの武者やりますな。相当気を吐いておられます。上杉にもあのような武士がおられるのであれば、最初に前に無理攻めしてこられたら厳しゅうございましたな」


「その時は北条に頭を下げて、下がってもらわねばなるまい」


 事実、それでも対応はできた。北条勢の前では言えぬことだが、北条領が焼けようと上杉勢が散れば目的は達せられた。


「さて、中務少輔殿は如何なさる」


 宮内が人のよさそうな顔で、顎を撫でた。 

 目線の先、軍勢の寄せ手の押しが、中務少輔のところだけ止まっている。


 あの殿の武者はこれを見逃していない。今川勢が、中務少輔の隙をふさごうと横から回ろうとして、また槍を切られた。

 殿の軍から声が上がる。上がった声の高さで、こちらの兵が浮いているのが分かった。長い槍は、柄を切られると何もできない。切られた者が下がり、下がったぶん列が薄くなる。


 放っておけば、そこから逆に押し返される。

 押し返されたところで大勢は変わらないが、日暮れまでの刻が延びる。


 ただ、その様子は、兵部少輔の側からも見えていたようだった。

 兵部少輔は、目配せ一つを騎馬隊に送ると、手早く馬を返した。


 矢を射かけ終えて東へ抜けていた騎馬が、そのまま北へ回り、中務少輔の隊の切れ目から入って来る。

 四日追い回した疲れなど、どこにも出ていない。


 崩れかけた列の切れ目を選んで馬を入れ、そのまま前へ出た。

 周りの上杉勢が槍を向けたが、届く前に馬が抜けている。


 馬を止めずに槍を出した。


 一度目は武者の刀で払われた。払われた勢いのまま馬が抜け、抜けたところでまた返す。

 だが、二度目は、相手が刀を上げるより早かった。


 兵部少輔の槍の穂先が首に入って、武者の膝が落ちた。

 落ちたところで、周りの上杉勢の動きが止まった。止まって、それから崩れた。


 五郎はただ呟いた。


「見事」


「御料様。相手の心を掴みたいのであれば、褒め言葉は大仰になさってください。そのような声では値踏みされていると思われましょう」


「そこも修練よな」


 そこから殿は保たなかった。

 厚くなっていた場所が崩れると、あとは早い。武具を捨てて北へ走る者が出て、走る者が出ると、隣も走った。


 北へ抜けた者は追わせた。追わせたが、深くは追わせていない。おそらく先は既に塞がれているからだ。

 ゆえに、日が落ちる前に隊をまとめ直すことを優先した。

  

 前へ出していた三人が戻って来たのは、それからしばらくしてである。


 中務少輔と彦三郎は、具足に返り血を浴びていた。彦三郎は左の籠手が裂けており、そこを紐で縛ってある。兵部少輔は、供の者に何かを持たせて来ていた。布に包んだものを、両手で捧げている。


 馬を下り、五郎の前で首を下げた。


「三戸駿河守にござる」


 五郎は頷いた。


 修理大夫を支えていた男である。江戸の陣で、前へ出よと言い続けていたのはこの男だと漏れ聞こえていた。

 そして四日、こちらの背を追わせ続けたのも、半分はこの男の口であるとも、五郎は見ていた。


 ここで討てたのは、確かに大きい。


「各々、戦いぶり見事の一言である。されどこれより敵本隊の背を追う。気力は十分か」


 諸将が頷いた。

 ただ、中務少輔の顔が青い。返り血を拭ってもいない。手も、拭こうとして途中でやめたように、袖の端を握ったままである。

 何も言わずにおくつもりであったが、この顔で追わせるのはまずいかもしれなかった。


「中務少輔」


 呼びかけると、一拍あった。


「は」


「厳しい戦である。治部も自ずから兵を前に出さねばならん。背後を守る任を任せてもよいか」


 中務少輔が唾を呑んだ。

 十万の軍勢を恐れるに足らず、ここで死なぬは恥。などと言って、自分から手を挙げてここまで来た男であった。


 その中務少輔が、唾をのみ、それから首を横に振った。


「恐れながら、未だ武功を挙げておりませぬ。葛山の男としてこのまま帰るならば、腹を切る所存にござる」


 五郎はその目を見た。

 顔色は青いままである。だが、腹は据わっているようだった。

 中務少輔がこぶしを握った。


「それに四日間、囮を勤め上げた御屋形様を前に出すなど、今川の臣としてもありえませぬ。どうか武功を立てる所を中務少輔にお与えください」


 ふぅん、と五郎は唸った。


 それから言った。


「ならば良し。怪我人を下げ、直ぐに追うぞ。備中守に手柄を奪われたくなければな」


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