5章_13
江戸の陣へ帰り着いて、腰を据える間もなかった。
今川勢五千、再び多摩から府中筋へ現れたという。
今度は渡しや兵糧の集積だけではなかった。こちらに付いた国人の所領を、選んで焼いている。俵を出した家、人を出した家、触れに真っ先に応じた家。そういう順で回っているとしか思えぬ焼き方であった。
三戸駿河守はこれを聞いて、自分の膝を強かに打った。美濃守は眉間の皺を一層深くした。
肝心の修理大夫はただ、項垂れるしかなかった。
二日のうちに、陣へ人が来はじめた。
館を焼かれ、家の者を連れて逃げて来た者たちである。具足も着けず、袴の裾を泥だらけにして、幕の外に立っている。取り次ぎを頼む声が、朝から絶えなかった。中には女子供を連れた者もいて、その者たちを陣の隅へ入れるか入れぬかで、下役同士が揉めているのが聞こえた。
三戸駿河守は気炎を上げた。すぐに取って返すべしと吼えたのだ。みすみす五郎の背を逃したという羞恥、自領を焼かれるという憤怒が全身に満ちており、それが言葉を強くしていた。
実のところ修理大夫も、どちらかといえばそれに賛成であった。ただ、一度目のときのような、体の前へ出て行きたい気持ちにはならない。
あの帰り道が、まだ足に残っている。
誰もいない焼け跡を三万五千で通り抜けて、そのまま引き返した。行きは二日で着いた道が、帰りは三日かかった。急ぐ理由がなかったからである。あの三日を思うと、次を出せと言う口が重くなった。
疲れているというより、どこか間違えたという思いが動き出すのを億劫にさせていた。
ところが今度は、太田美濃守が首を縦に振った。
怒り心頭と言った具合の駿河守もこれには一瞬、目を丸くした。
ただ、美濃守の言葉自体は妥当であった。
一度軍を発した以上、何も取らずに終わるのはまずい。
それに、国人らが陣を離れる相談を、内々で始めている家がある。名は挙げなかったが、数までは言った。五家、と美濃守は言った。心底疲れたという具合である。
やはり手ぶらで帰ったのが響いたか、と修理大夫は恥じた。
顔を顰め両の手で顔を覆った。
だが、美濃守はそこを責めなかった。
流れで敵地へ踏み込むのはよくない、御屋形様の判断はさほど間違っておりませぬ、と穏やかに言ってのけた。
ただ、こちらの顔を見ず、無作法も咎めず、書付の端を折りながら言った。
明らかな慰めであった。常の美濃守であれば、一つ一つ修理大夫の振る舞いを正そうとしたはずだ。
修理大夫が思うに、五郎の背を追うにあたり、前へ、北条領へ出てもよかったのかもしれない。たとえ五郎の首は取れなくとも、何かを取って帰るべきだった。取って帰りさえすれば、いま幕の外に立っている者たちも来なかった。
きっとそれが唯一の正解であった。
修理大夫は気を重くしながらも、再度の追撃を決めた。そして陣容の相談も兼ね、山内へ話を持っていくと、今度は渋られた。
こちらの失敗をなじられたのではない。それはもう済んでいた。
ただ房総勢と小弓勢から、別の報が上がっていたのだ。
此方が背を追っている間、北条方が今川方と合流し、江戸城へ物資を入れようとした節があるという。そしてそれは徐々に強くなっているという。
これを踏まえての山内方の読みはこうだ。
甲斐での治部は、囲みの兵を城から切り離し、伏兵の待つ場所まで誘い込んで討った。
今度は切り離したうえで、城を救う方を先にしている。
修理大夫にしても、なるほどと思うことであった。こちらは追撃にのみ気を払っていたが、江戸城を起点に考えれば自然な考えにも思えた。
であれば、いたずらに軍を割くのはまずい。
かと言って、治部を放っておけば国人の心が離れる。放っておけないから、こちらは動かなければならない。動けば城の囲みが薄くなり、薄くなれば山内が渋る。どこから手を付けても、同じところへ戻って来た。
腹を割っての話し合いにより、追撃自体は許可された。
ただ、二度目の追撃は二万と決まった。
扇谷から一万三千、山内と武蔵の国衆から七千。前の半分である。そのかわり、騎馬と足の速い者を選んだ。今度は捕まえるための軍であった。
江戸城を以前よりも厚くしつつ、追う兵の質も上げる。互いの落としどころである。
追撃が認められた後、修理大夫は再び多摩の報せを頼りに向かった。
二日後、目に入ったのは、焼け落ちている砦と村だけであった。
今川勢は騎馬が多い。多いだけでなく、慣れている。物見の話をもとに近づき、囲もうと手を伸ばすと、そのたびに指の間から抜けた。抜けたと分かるのは、いつも半日遅れてからである。
ただ一度だけ、間に合ったと思ったことがあった。
夕方に煙の上がっている在所を見つけ、夜のうちに二方から人を回した。夜明けに寄せてみると、燃えているのは郷倉一つだけで、あとは何もない。馬の糞は乾きかけていた。前の日の昼には出ていったのである。囲みを組ませた騎馬が、そのまま空の畑の中に立っていた。
修理大夫は全軍に号令をかけ、即座に五郎の後を追った。追って、追って、影すら踏めなかった。
今川軍は気がつけば、また南の北条領へ入っていた。
修理大夫はそこでも追えなかった。今度は自身の躊躇故にではなく、軍の腹事情がそれを許さなかった。
数を減らしたぶん、兵糧には多少の余裕があるはずだったが、五郎は、軍の通れそうな道と、俵を出させられそうな家とを、念入りに潰して回っていた。
不愉快なことに、多摩から南へ下るあたりは、半ば無人の原野になっていた。
通り道になるはずの村が空である。人が逃げ散っている。街道沿いで俵を求めても、出す者がいない。焼かれた家は焼かれたなりに残っているが、残っている家に人がいなかった。戸の開いたままの家の中に、日が差し込んでいた。
二万が、そこを黙って歩いた。これ以上進めば江戸城にすら戻れなくなる。
陣へ引き返す道で、修理大夫はどっと疲れを覚えた。
鞍の上で懊悩した。両の手で顔を隠し、皮の匂いをひたすらに吸い込んだ。
まず一度目は過ちであった。
一度目のとき、絶対に前へ出るべきだったのである。無理にでも北条の領へ踏み込み、治部と北条を相手に一戦を決めるべきだった。決戦さえ始まれば、山内も後ろから来たであろう。あのときの三万五千と十万を並べて数えれば、勝ち目は幾つもあった。
思い切りが足りなかった。その一つで、事態がまた悪くなった。
江戸の陣へすごすごと戻り、幕の内で美濃守と駿河守を相手に話していたところへ、また使番が入って来た。
修理大夫は具足をゆるめてすらいなかった。
「今川勢五千、再度乱入いたしました」
来たか、と思った。
修理大夫が何か言う前に、美濃守が口を開いた。
「どこを狙っている。もはや多摩筋は焼けるところはなかろう」
「多摩筋に広く軍を広げ、村々を焼いて回っていると」
使者の言葉に、美濃守が書付から顔を上げた。口角が上がり、江戸の陣について以来一番の獰猛さが見えた。
「焦れたな。小僧」
声の調子が、この三日ばかりとは違っていた。明らかに若々しい。
美濃守は勢いよく修理大夫へと振り返った。その勢いは消沈する修理大夫の肝をにわかに冷やした。
「御屋形様、好機にございます。軍を出すべきかと」
「まて、美濃守どういうことだ。今までと何が違う」
「今川勢の目的はおそらく二つ、甲斐でやったように国人らの心を離すこと。今一つは江戸城の軍を分けさせた後、攻囲を破ることにございましょう」
その二つは散々話したことである。山内方においても同じ認識をしている。
「それは承知している。だがなぜ治部が焦れたと申せる。なぜ好機と言える」
「こちらが腰を据えて、少数を出したため軍を出してこぬと高をくくったのでござろう。それで国人衆の心を離すことに注力しだした。それで散り散りに軍を分けた」
修理大夫は床几の上で背を起こした。
広く軍を広げた、と使番は言った。広げたということは、まとまっていないということである。まとまっていない五千は、これまでのように、指の間から抜けられない。空の畑に立たされた騎馬のことを、修理大夫は思い出した。
「もはや軽快に逃れられぬか。命が届かぬゆえ、五郎は鈍るか」
おお、と駿河守が唸った。
「これを討てば今少し士気も戻りましょう。それに北条の心も萎えるかと」
美濃守の言葉に、修理大夫は幕の外へ目をやった。逃げて来た者たちは、まだそのあたりにいる。
「だが、どれくらい出す。三万か」
美濃守が苦い顔をした。獰猛な様相が常のものに戻ってしまった。
「数だけならばそれくらいは欲しゅうございます。されど今欲しいのは足の速い兵、五千の精兵を確実に討てる軍にございましょう」
「となると前回と同じく二万にございますな」
駿河守がぽんと言った。つい先日出したばかりで、痛んでもいない兵である。出せないわけがない、とでも言うようだった。
修理大夫はそれに答えられなかった。口を閉じ、また両の手を顔に当てた。そのように答えられずにいると、美濃守が横目でこちらを見て、代わりに口を開いた。
「駿河守殿、それは無理というものにござろう」
「いや、美濃守殿、先ほど、貴殿が好機と申されたのだ。前回同様の精兵二万で参るのが筋ではないか」
「なるほど、こちらは出せる。されど山内方や武蔵衆が首を縦に振らぬ。二度の空振りでござるし、あちらは江戸城を窺う北条の軍を見ておる。もはや精兵を割けといって頷きはすまい」
これである。
山内の内情は、よくない。よくなくなりつつある、と言った方が正しい。
五郎の焼き働きは、山内に付いた国人の所領にも及んでいた。帰りたいと言い出した家があるという。これだけならば扇谷と変わらないが、山内方には異なる事情もある。
当主の左馬頭が養子に入って代替わりしてまだ日が浅いのだ。家中には、それを持ち出してせっつく者までいるらしかった。譜代の家臣を犬のように振り回す、さすがは高貴な御方よと陰口を叩かれることすらあるというのだ。
二度目の空振りを報せに行ったとき、幕の内の空気で、これらは嫌というほど分かった。美濃守も同じものを吸って帰って来ている。あの場で、山内の年寄が一度も目を合わせなかったことを、修理大夫は覚えていた。話は最後まで丁寧であった。丁寧なぶん、こちらから頼みを口にする隙がなかった。
「扇谷勢の一万三千。これで参るほかないか」
修理大夫は呟くように言った。だが美濃守が苦く付け加えた。
「今少し出しましょうぞ。武蔵国衆は二千は出させまする。一万五千。これで治部の背を掴みましょうぞ」
ありがたい言葉である。だが、それでもいささか心もとない数であった。
無論、一万五千は大軍には違いない。相手は五千で、しかもそれが散っている。数の上では、どこから見ても足りていた。足りていない気がするのは、こちらが二度続けて空を掴んだからにすぎない。
「今一つ尋ねるが、今川主力は今どこにおる」
修理大夫がふと尋ねた。美濃守が訝しげな顔をした。
「山内方の話であると、甲斐でこちらとにらみ合っている大軍がいると聞いておりまする。ただ小田原に幾度か兵糧を積んだ軍が入っておるそうですが、こちらは数まではわかりませぬな」
今川は所詮手伝い戦で大軍を突っ込むことはないと思われる。だが、あの五郎は何をしでかすか分からない。修理大夫が二の足を踏むところを平気の平左で飛び越えて、どんどん先へと進んでいく。そう思えば、今川軍の全容が見えないことが修理大夫を思いとどまらせた。
だが、そこへ駿河守が首を突っ込んだ。
「御屋形様、御心配は無用にございますぞ。武蔵は我らが庭も同然にござる。兵を伏せておればわかり申す」
軽い言葉である。だがあまりの軽さに、修理大夫は少しほっとした。
確かに武蔵は庭である。俵の出る村も、水の在処も、こちらが知っている。二度抜けられたのは、追い方が悪かったからで、待ち方が悪かったからではない。
それに何より、もう躊躇する愚は痛いほど思い知っていた。
「美濃守」
呼ぶと、美濃守が顔を上げた。目の下のたるみが、この十日でさらに濃くなっている。その顔のまま、頷いた。
「次は前に出る。良いな」
否定の言葉は出なかった。
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多摩へ入ったのは、陣を出て二日目の昼であった。前回、足の速い兵で固めて来た時と変わらない。このことに修理大夫は苛立ちを覚えない。むしろ感謝すらしていた。二度の空振りと焼かれた自領を見ての出陣である。嫌気が差していたとしても仕方がなかったが、兵らの足は疲れでわずかに鈍りながらも、動いてくれた。
今回の軍は、話し合った通り一万五千。
扇谷から一万三千、武蔵の国衆から二千を出させた。山内からは一人も出ていない。
実のところ、今少し兵を出し、二万で行こうという話も山内方から出た。だがこれは修理大夫が断った。山内方に気を遣ったというのもある、ただここで出す出さないの問答をしていては、機を逃すと見ていた。
もう後で後悔するのは御免であった。
また違うのは軍の数だけではない。前の二度と違って、荷駄をほとんど連れていない。米は三日ぶんを兵に背負わせ、あとは通り道の在所から取ると決めた。歩兵も足で選んだ。槍を持たせて長く歩ける者だけを、家ごとに出させてある。年寄りと、足を病んでいる者は置いて来た。
そのぶん、行軍の列がこれまでより短かった。列が短いというのは、修理大夫朝興にとって初めての心地であった。前を見ても後ろを見ても、以前より列の動きが分かる。一番最初、三万五千のときは、自分がどのあたりにいるのかも分からなかった。
多摩に入った時、焼け跡がまた増えていることに気が付いた。
前に通ったときには残っていた在所が、今度は黒くなっていた。ただ、灰の色が違う。二度目に見た灰は雨を吸って固まっていたが、こちらは軽い。踏むと下からまだ熱が来る場所があった。
この地面の下に、俵を出した家があり、人を出した家がある。今はすべて灰である。そう思うとまた後悔の虫が腹の中でうごめいた。
顔を覆いたくなる気持ちを堪え、兵を急がせた。
その日の夕方近くになって、南へ出していた物見が戻って来た。
「今川勢の一部を見申した。南へ退いております。まだ遠くはござらん」
修理大夫は手綱を持ち替えた。美濃守の読みが当たった、と思った。
それに応えることができたため、三度目にして初めて、こちらが遅れずに来れたのだ。
「治部は味を占めたのだな」
「小僧のやりそうなことにございます。たまたま上手くいったことを繰り返す」
修理大夫の言葉に駿河守が追従した。
確かに五郎の策は功を成している。武蔵の国衆は気もそぞろになっているし、不甲斐ない追撃軍の有様に山内方はわずかに揺れている。
だが、この軍勢は堪えた。
扇谷は山内の内情に寄り添いつつも、国人らを上杉の名でつなぎ留め、軍を維持することができている。これは甲斐を急速にまとめたゆえに脆かった、武田五郎信直とは大きく異なる点である。
きっと五郎はここを見落としたのだ。修理大夫は今は確信をもって、そう考えていた。
ゆえに追った。
離間がうまくいかぬ、と焦れているであろう五郎の背をひたすらに追った。途中、馬を変えつつも夜を徹して進み続けた。
そして翌朝、初めて旗が見えた。
台地の縁から南を見下ろすと、街道の先の、林の切れたあたりに動いているものがある。旗である。
数はさして多くない。色までは分からなかったが、こちらのものでないことは分かった。
修理大夫は、鞍の上でしばらくそれを見ていた。手綱を握りしめると、ぎっと音がした。つばを飲み込もうとしたが、乾ききった喉が痛むだけである。
「御屋形様、これを。声が出ませぬぞ」
側付きが瓢箪を差し出してきたので、それを口に運ぶ。
先日はほとんど何も喉を通らなかったため、驚くほど水がうまかった。
飲みつくさんばかりに瓢箪を傾け、一滴も出なくなってから、漸く口元から離せた。
「漸くだ。漸く捕まえたぞ」
口元をぬぐいながら、修理大夫は呟いた。
二度、ここまで来て、一度も見なかったものであった。焼け跡は見た。乾きかけた馬の糞も見た。渡しの舟が瀬の石に引っかかって黒くなっているのも見た。だが、敵の旗を目で見たのは、これが初めてである。
「御屋形様、御覧じられましたか」
駿河守が馬を寄せて来た。声が高い。口元には笑みが浮かんでいる。
「まだ追えまする。いかがいたしますか」
決まり切った問いである。
「無論、追う」
修理大夫はそれだけ言って、馬の腹を蹴った。
その日のうちに、旗はいくつも見えるようになった。
あちこちから、南へ向かって動いていた。細い筋がいくつも街道へ寄り、寄りながら一つになっていくのが、高いところからは見て取れた。散っていた隊が集まっているのである。
東の外れの一筋は、ずいぶん遅れていた。半日ばかり、それだけが取り残されたように動いている。修理大夫は、そこへ人を向けようかと言いかけて、やめた。街道を外れさせれば、こちらの足が乱れる。
小勢を刈り取るのが目的ではない。五郎の首を取れるのであれば取るのだ。
そう思い、彼らの後を追いつつ、今川の軍の根幹が現れるのを待った。
そしてそれは、まもなく修理大夫の前に現れた。
旗を捉えた翌日の午後には、それが一つの塊になったのだ。
数はやはり五千ほどであった。
修理大夫は物見を四方へ出させた。西からも東からも、同じ返事が戻って来た。ほかに兵はいない。北条の旗も見えない。合流した様子もない。
目の前にいるのは、治部の五千だけであった。
「奴ら、泡を食って逃げておりますぞ」
駿河守が言った。
言葉の通り、今川勢はまとまってから、足を速めていた。
「逃がさぬ。逃がさぬが、まだ無理はさせるな」
「承知にございます」
駿河守が頷き、前に出て行った。
こちらも速めた。距離は、詰まりもしないが開きもしない。ここに来るまで少々無理をしすぎた。幸い、今川がもたつくのを見て少々休むことはできたが、まだ仕掛けることはできない。それにまだ完全に捕まえてもいない。
ただ、修理大夫はさほど焦ってはいなかった。
前の二度のように、半日遅れて抜けられたと知る、ということが完全になくなったからだ。
実際、日のあるうちは、今川の旗が南にあるのを目視できている。
夜になると見えなくなる。見えなくなるのは仕方がないが、朝、また同じあたりに見えた。
修理大夫は、そのたびに肩の力が抜けた。
二度の追撃で、朝いちばんに聞く言葉は決まっていた。影も形もございませぬ、である。それを三日続けて聞かずに済んでいる。
きっとあれらも夜半に動くのを嫌っているのだろう。そう思った。
旗を捉えて三日目の昼過ぎ、先手が後衛に追いついた。
街道が細い流れを渡るところである。今川の後ろの一隊が向きを変えた。こちらの騎馬が突っかけ、槍を合わせた。矢が何本か飛び、飛び返した。
「ここか、ここで来るか治部」
修理大夫はそう言って、手綱を握った。全身の気力を振るいたて、かかれの一言を喉元までのぼらせた。
だが、その一言が出ることはなかった。
今川の攻撃はそれだけであったのだ。
今川方は長く踏みとどまらなかった。二度ばかり押し返し、あとは順に退いた。退き方に慌てたところがなく、渡ってから向き直り、こちらが追い足を伸ばそうとすると矢を寄越した。
行けと、言おうとしたが、命を発するより前に先手の物頭が止めた。
「逸ってはいかぬ。前にさえ出ていればよい」
修理大夫は自分に言い聞かせた。先手の物頭が止めたのは正しい。
川ではこちらもうまく戦えない。大軍の利を生かしきれないのだ。そうなっては五郎を取り逃しかねない。
そう思い、手綱を握りしめていると使いが帰ってきた。
前線を見に行かせたものである。
報せを持って戻って来た者は、鞍の上で息を弾ませていた。手負いは十に足りず、討ち取った首も三つだという。
「まずは良し」
修理大夫は頷いた。確かに届いたのである。
二度、影も掴めなかった相手の背へ、こちらの槍が届いた。あと少し押せば、五郎の本隊に手がかかる。
「今川治部の首さえとれば、関東は上杉で固まる。各々踏ん張りどころぞ」
修理大夫はその知らせを聞いて、声を張り上げた。自分でも不思議なほど声が通っていた。
実際、その声は遠くの兵らにまで届いたようだった。
上杉方の歩き方が変わったのだ。
それが鞍の上からでも分かった。四日近く、焼け跡ばかりを歩かされて来た兵が生き返ったように思えた。
その日の暮れ方、修理大夫は見覚えのある川筋へ出た。
一度目に、ここで止めた。
二度目も、ほぼ同じあたりであった。南に低い丘が並び、その向こうから北条の領になる。
軍が、自然に足を緩めた。誰かが止めよと言ったわけではない。前の方から順に、歩みが落ちていった。
駿河守が馬を寄せて来た。
「如何いたしますか」
修理大夫はふと南を見た。
五郎の旗は、丘の間の道をさらに南へ動いている。日が落ちかけて、旗の色はもう分からない。分からないが、そこにあった。
一度目は、ここで止めた。止めて帰り、三日かけて焼け跡を通り抜けた。
二度目も、同じところで馬を返した。返した先には、館を焼かれた者たちが幕の外に立っていた。
今度は、敵の姿を見ている。先手は後衛に届いた。五千を数えた。四方へ出した物見が、ほかに兵はいないと言って来ている。
五郎の後ろに何かがあるとすれば、それは今度も見えていないだけかもしれない。だが、見えていないものを恐れて止まったのが一度目であった。止まった結果、村が焼かれ、館が焼かれ、国人が帰る相談を始めた。
そこで今が三度目である。
「進む。決着ぞ」
駿河守が笑みを深め、頷いた。
駿河守は、馬首を返して伝令を呼んだ。丘の南へ物見を厚く出せ、と言っているのが背中越しに聞こえた。
丘を越えたのは、翌朝である。
その丘を越えると、空気が変わった。
まず人がいない。
武蔵にいる間は、村を通れば人が道の端に出て来た。何も言わずに見ているだけであったが、それでもいた。丘の南では、その人影がなかった。戸の外れた家が並び、畑の畝が崩れたまま残っている。井戸の縄が切られている家もあった。
鶏も犬もいない。焼け跡から立つ煙もない。焼かれてから日が経っているのである。今度の焼き働きより前に、この一帯はもう片づいていた。
物見の戻りも遅くなった。
武蔵であれば、どの道が抜けられて、どこに水があるかは、こちらの誰かが知っている。ここでは誰も知らない。出した者が道に迷って戻り、聞いて来るはずの村に人がいなかったと言う。そういうことが二度あった。
三日ぶんの米は、すでに半分まで減っていた。取れると思っていた在所から、何も出なかったからである。俵どころか、藁も薪も残っていない。焼いてあるのではなく、持ち去られていた。
誰が持ち去ったのかは分からない。逃げた村の者が担いで行ったのかもしれず、そうでないのかもしれない。
焼けた跡だけが、南へ続いていた。
それでも、旗は見えていた。
日が高いうちは、必ずどこかに見える。先手からは、もう少しで届くという報せが来る。
距離が開かないのである。開かないから、止まれなかった。
夜は火を焚かせずに休ませた。朝は暗いうちに出た。
修理大夫は、鞍から下りている時が日に二度ほどしかなくなった。腰から下の感覚が鈍くなっている。
旗を捕捉してから四日目に入って、今川勢の退き方が変わった。
「なんだ、あれは」
それまでは、こちらが押せば押しただけ、するすると先へ行った。それが、離れなくなった。
後衛がこちらへ向き直っている時が長くなり、治部の旗の位置も、前ほど遠ざからない。街道の脇の高みに人を残し、こちらの足を止めさせようとする動きも出た。
「悪あがきにござる。四日も追われて足が落ちた、それだけにござろう」
馬を並べた駿河守が言った。
確かにそのとおりにも思える。
だがそれ以外に、もう一通り読める。
もう一つは、どこかで戦うつもりになったのかもしれない。修理大夫が、五郎の戦歴を追う限りではこちらの方が妥当に思える。あの男は追い込まれた時大人しく城に籠る質ではない。前に出て活路を開く方だ。
だが、この状況で同じことを選べるのだろうか。数が違い過ぎる。疲れもあるはずだ。
そうなると、どちらとも決められなかった。決められぬまま、追う速さだけは落とさなかった。
落とせば、また離れる。四日かけてここまで詰めたものが、半日で元へ戻る。
そうこうしている間に、今川勢の足が止まりかけた。
「いよいよ、追い詰めましたな」
駿河守が言った。駿河守は手綱を短く持ち、南の丘の並びを、東から西へ順に見ている。見終わると、また東から見直していた。どこから攻めるべきか考えているようだった。
昼を回ったころ、南へ出していた物見の一人が、馬を倒しかねない勢いで戻って来た。
鞍から下りるのももどかしい様子で、片膝をついた。
「前方に兵がございます」
駿河守が鼻を鳴らした。
「知っておる。今川勢の五千。眼前よ」
物見が首を勢い良く横に振った。
「いえ。治部の軍とは別にございます」
数は、と修理大夫は訊いた。
物見は答えなかった。答えられぬ、という顔であった。
「御屋形様、疑兵にございますぞ。気を強く持たれよ」
そういう駿河守を置いて、修理大夫は馬を進め、街道を外れて丘へ、高みへ上がった。後ろから何か声がかかったが、振り返らなかった。
丘から見下ろすと南に、なだらかな丘が幾つも重なっている。
その一つの向こうに、ひときわ大きな旗が立っていた。
「なにが五千だと。話が違うぞ、治部太夫」
修理大夫は声を漏らした。
軍勢の数がおかしかった。明らかに五千以上いる。それどころか、今この時にどんどん数を増やしている。
顕著なのは、丘の向こうから現れる大旗の数だ。最初は一本だけだったものが、見ているうちに、その両側に一本ずつ増えた。
増えた大旗の下の兵を数えているうちに、大旗は増えて、また増えた。丘の稜線に沿って、下から押し上げられるように出て来る。
五郎の五千は、その膨れ上がる軍勢の手前にいた。




