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5章_11

 庭は霜で白かった。


 五郎は的場の端に立って、弓を引いている。


 夜の明けきらぬうちに起き、書状を三通片づけ、粥を食べ、それから庭へ出る。このところの朝の順である。三通のうち二通は、釣書である。年が明けてから、随分と増えた。公家、武家、寺社と区別なく五郎の元に娘や姪はどうかと勧めるものがやってくる。

 

 正直言えば受けてもよいのだが、少し目を通して流すのは自分の中で天秤が揺れぬという理由があった。

 

 もっと端的に言えば、芳菊丸が惜しい。

 亡き父からも釘を刺され、自分自身も気を付けているが、どうにもあれを跡継ぎにしようと動いてしまう。


 五郎は息を吐き、頭を振った。

 弓に集中するべきである。


 庭の隅に的を据えさせたのは、この夏のことである。館の表からは築山の陰になって見えない。見えない場所にしたのは、表向きは下手を人に見られたくないからとした。裏の理由は、考えを邪魔されたくないからだ。


 禅よりも、こちらの方が性に合っていた。ただ考えごとをしながらだと、的には当たらない。

 冷えた冬の空気の中だとなおさらである。


 特に今日は良く冷えており、手を温めるより先に弓を持ったため、初めの二本は矢がどこへ行くか分からないほどだった。

 三本目を握った時、ようやく指の先が言うことをきいた。


 その三本目は的に入った。入ったが、中黒から指二本ほど右へ外れている。四本目も入り、今度はようやく中心を射抜いた。


 ふうん、と五郎は唸った。


 当たりはする。練習の成果は如実に出ている。だが、ずれる。


 当てようとばかり気を張ると、僅かながら狙ったところから違うところにあたる。相談役としてつけた小笠原正安入道によると、考えすぎとのことだ。矢は射る前から当たっており、射る前から外れている。


 つまり、姿勢が大事ということか。以前、そう問うと正安は困った顔をしたことがあった。

 

 理屈ではないとのことだ。理屈ばかり追い求めていると、肝心要を逃す。

 まずは練習し無心になるところかららしい。

 

 五郎は、正安入道の言葉を思い出しつつ、五本目を放った。

 放たれた矢は真っすぐに飛び、的の真ん中を射抜いた。


「よし、か」


 五郎は少しの手ごたえを感じると、自分で的に歩いた。

 矢取りの小者は下がらせてあったため、撃ち尽くした後は、的から自分で抜き、戻って来て、また番えなければならない。

 霜を踏むと、下の草の根が鳴った。射場の砂は凍っていて、足を置くたびに固い音を返す。


 的の藁は、秋に張り替えさせたものがもう毛羽立っていた。右の下の一角だけが黒く抜けている。

 思えば考えごとのたびにここにきて、弓を引いているため、かなりの回数痛めつけていることになる。


 春になる前に、また替えるべきだろうか。


 五郎は五本の矢を抜いたところで、後ろに人が立っているのに気づいた。


「存外、武家らしいことをなさるのですね」


 北条の朝姫である。


 小田原から新九郎に連れられて駿府へ来て、そのまま置かれている。館の奥に部屋を与え、女房を付け、炭も反物も不足はさせていないはずであった。

 北条の当主が自ら下って来て、同盟に変わりなしと言い置いて帰り、娘だけが残った。

 

 扱いについては向こう側から指定はなかった。

 人質と言えばそうなるし、五郎が室に入れると言えば、そうなるのだろう。


 そのような難しい身の上であるが、朝姫は弟や妹らとは仲がよいらしい。

 芳菊丸などは、坂東の言葉の言い回しを教わったなどと言っていた。妹たちは朝から晩まで奥へ入り浸っているらしい。


 だが、五郎に対しては、いつもどこか一枚壁がある。

 今も、縁からは下りているが、射場の砂までは踏み込んで来ない。沓脱ぎの石の上に立ったまま、綿の入った袖を胸の前で合わせている。


 手が赤い。火桶も持たず、手炉も持たずに出て来たらしかった。


「治部もたまに意外に思います。何をしているのかと」


 言いながら、五郎は矢をまとめた。人に見せながらやるつもりはなかった。

 弓を片していると、朝姫が石から下りているのに気づいた。砂の上に、草履の跡が二つついている。


 常より二歩だけ近い。何かあるのであろう、ふとそう思った。


「よろしいのでしょうか」


 言葉が短い。朝姫が無作法ということではない。

 ただ、この姫は五郎と相対するとき、言葉が短く、切りつけるようになる。


「朝の仕事は終えましたので、今は体を練っております。今少し長く生きねばならぬゆえ、こちらも欠かせませぬ」


 一部嘘ではなかった。

 長く生きるつもりも、畳の上で死ぬつもりもなかった。

 だが、生きている限りは当主の仕事に打ち込み続けねばならない。それにはきっと心身の力がいる。

 

 朝姫が何か言いかけて、途中で止めた。

 袖の内で手を組み替える音がする。霜を踏む足音が一歩ぶん動いて、また止まった。


 五郎は何も言わなかった。歩いてその場を去ることもせず、ただ次の言葉を待った。

 そのうちに、朝姫の息を吸う音がした。


「そうではございませぬ。その」


「同盟のことでしょうか」


 五郎は顎を撫でた。


 随分差し迫ったことを言う姫である。新九郎の血というか、伊勢の血といった方が良いかもしれない。

 五郎は、ふとこの姫を気に入りだした北川殿を思い出す。きっと似通った部分があるのだろう。


 朝姫は言いにくそうな顔をしていた。

 目は合わせず、五郎の胸のあたりを見ている。半歩、下がっていた。下がっておいて、そこから動かない。


 五郎はふと周囲を見た。周りに側付きは一人もいない。

 庭にも、渡廊にも人の姿がなかった。この刻限にこの庭が空になることは、まずない。


 要らぬことを、と五郎は内心で苦みを覚えた。


 このごろ、五郎が女人と二人になりそうな折を、誰かが見計らって作っている。廊下の掃除の刻限がずれていたり、いるはずの取次が井戸端へ行っていたりする。母か、祖母か、庵原安房守か、そのいずれかであろう。

 母は先ごろ髪を下ろして寿桂尼と名を改め、表のことには口を出さぬと言ったが、奥の差配は変わらず自分でしている。安房守は安房守で、婚儀の話をこちらが預かったまま放ってあることを、一度も催促して来ない。催促の代わりが、この人払いなのかもしれなかった。


 身一つで来た果断な小娘に、むごいことをするものだ。


 そう思うと同時に、それ以上におかしくもあった。この姫がつやっぽい話をすると疑っていないあたり、間抜けな話だと思った。

 朝姫は手籠めにできるほど甘くなく、そして女を武器にできるほど器用ではない。


 喉を鳴らすと、朝姫が怪訝な顔をした。


 それすらもおかしく、ふと口に出した。


「朝姫殿は損な性分でありますな」


 朝姫の眉が寄った。

 むっとした顔をされた。損な性分だと言われて怒るところが、また損である。


「北条への援兵、新九郎殿にはああ申せど、難しき事。ですがこちらに気を遣うことはございませぬ」


 言われた意味を取るのに、少しかかったようであった。

 取ってから、今度は一歩前へ出た。出てから、出たことに気づいたらしく、そこで止まる。

 五郎の視線が、足を縫い留めたのだ。


「同盟は、父を亡くした隙に言質を取られたわけではございませぬ」


 朝姫の目が瞬いた。やはり少しは気にしていたようだった。

 五郎は幼い弟妹に言って聞かせるように、そっとつぶやいた。


「今川にとって、東は北条がよろしい。上杉に相模、武蔵に根を張られるは困りましょう。それだけにございます」


 五郎は的の方を見たまま話した。そちらを向いた方が、この娘は言葉を受け取りやすいように思えた。

 

 五郎は縁側に腰を掛けた。朝姫もその傍らに腰を下ろした。


「ゆえ、こちらが兵を出すは今川の利があるため。御身が五郎に縋る必要はございませぬ。どうか寺社仏閣などをめぐり、ごゆるりとなさって下さい」


 朝姫が、ぽかんとした。合わせていた袖が、胸の前で緩んでいる。


 夏に初めて会ったときには、美しい少女というより美しい少年のようだと思った顔である。目鼻立ちがはっきりしていて、こちらを睨むときに顎が上がる。それが、気の抜けたところではきちんと年頃の姫の顔になる。五郎はまたおかしくなった。


 この娘は、父に呼ばれてついて来ただけである。座敷で盟の話が交わされる間、膝の上で手を握ったり開いたりしていたのを覚えている。十万と聞いても顔を動かさなかったのは新九郎で、唾を呑んだのはこの娘であった。あの座で言質を取ろうとしたのも新九郎であって、この娘ではない。


「治部は粗忽者にございますが、人を苛む趣向はございませぬ。駿府をお楽しみいただき、良き思い出を持ち小田原に帰られる日をお待ちください」


 言い終わって、五郎は的を見た。今日は最後の一本が良かった。

 考える前に当たると思い、指を離すとその通り、すっと入った。これをいつでもできるようになれば、一先ずは納得できる。


 的を見て頷きながら、姫のことに思いをやった。

 この姫の扱いも弓と同じく、五郎の表の仕事の外にあることである。


 同盟は同盟、婚儀の話は話として、いま目の前にいる娘をどう遇するかは私事であった。ならば、要りもしない怯えを抱かせておく理由もない。父が死んでからこちら、五郎の一日は表の用で埋まっている。埋まっていない部分まで、表の理屈で塗る気はなかった。


 無論、霧姫のように、何でもかんでも強請るようになられては困る。だが、腹を切る前のように張り詰められても困る。


 気が付けば、朝姫がじっとこちらを見ていた。

 膝の上にあった手が、いつのまにか胸元まで上がっている。何か言おうとして、そこで拳を握った。息を吸い、口を開きかけ、また閉じた。


 その拳が、ゆっくりと開きかけた。


 開ききる前に、渡廊が慌ただしくなった。


 板を鳴らす音が、奥から表へではなく、表から奥へ向かって来る。誰かが誰かを呼び、その声がまた別の声を呼んだ。

 朝姫が振り返り、それから、坐ったまま板の上で少し身を引いた。


 小姓が数人、こちらへ走って来る。走ってはならぬ場所で走っている。先頭の一人は、庭へ下りる沓脱ぎのところで足を滑らせかけた。

 止まって、膝をつき、口を開くまでにひと呼吸あった。決死の顔であった。


「申せ」


「幕府の使者殿が参りました。以前同様、大館伊予守殿にて」


 五郎は朝姫の方へ向き直り、頭を下げた。


「どうか、ごゆるりと」


 朝姫は、開けかけた拳をまた握った。


「いえ、どうかお気になさらず」


 そう言って、頭を下げた。


 五郎は一礼し、弓袋をその場に残したまま、広間へ歩いた。


 渡廊を行くうちに、館の中の音が変わっていくのが分かった。奥の方はまだ朝の音である。

 桶の音、水の音、女房の声。表へ近づくほどそれが消えて、代わりに、人が板の上で身を寄せ合っているときの、低い音になった。


 朝の早い刻限であるのに、広間には家中の者があらかた揃っていた。


 庵原安房守、承菊、関口、瀬名、葛山といった譜代が右の列にいる。座る順も間の空け方も、いつもと寸分変わらない。左には遠江、甲斐、信濃、三河から来た新参が並んでいた。こちらはまだ揃わない。膝の置き方が思い思いで、上座との間合いの取り方も家ごとに違う。

 この一年で家中に入った者は、多い日には知らぬ顔の方が多く見える。


 上座には母の寿桂尼と、芳菊丸がいた。母は数珠を持ったまま、目を伏せている。芳菊丸は背筋を立てて、広間の中ほどを見ていた。


 その中ほどに、大館伊予守が正座している。詮議される者のように衆目の中で、腰を据えている。

 上座ではなかった。座らせた者が上座を勧めなかったのか、当人が断ったのかは分からなかった。


 五郎は横目でそれらを見ながら、足早に上座へ着いた。

 袴の裾に霜の湿りが残っているのに、坐ってから気づいた。


「待たせて申し訳ない」


 伊予守が頭を上げた。


「とんでもございませぬ。早朝より申し訳ない」


 着ているものが乱れている。

 直した跡はあった。だが襟の重ねは合っておらず、袴の膝から下には泥が跳ねたままである。また首まわりは黒く汚れており、烏帽子の紐にも土がついている。頬がこけ、唇の端が切れて、そこだけ色が濃い。


 昨年こちらへ上洛の伺いに来たときの男と同じとは思えなかった。

 道を、替え馬を潰しながら来たのであろう。供の者も次の間に控えているが、そちらも似たようなものであった。


「なにか急ぎの用向きとお伺いしたが、何用でござろうか」


 伊予守が、くわと目を見開いた。


「上洛についてでござる」


 遊びも前置きも一切なかった。声も掠れている。

 この一言を言うためだけに、海道を来たようであった。


「承知した、では安房守」


 五郎はちらりと安房守を見た。何時ぞや同様に煙に巻け、そう命じたつもりだった。

 だが、当の安房守は難しい顔をしている。その脇で、承菊が薄くにやついているのが視界に入った。


「そういうことではございませぬ」


 なんだ、と訝しんでいるうちに、伊予守から制止が入った。

 五郎がそちらを見ると、伊予守がぐっと、日に焼けた拳を握った。


「好機にございます」


 伊予守の声が一際強くなった。


「と仰ると」


「道永様は許すと仰せになっておりまする」


 何を、とは言わない。

 この一年あまり積み重なった不義理と、その不義理に対する京の不信のことであろう。


 伊予守が、ずいと前へ出た。手をついて膝を送るのではなく、畳の縁を掴んで身を滑らせるようにして出て来る。泥のついた膝が、二畳分ばかり近くなった。


「今川が幕府に対して忠節を示すのであれば、昨年より始まりたる非礼の一切を許すと、そう仰せになっておるのです」


 許す、という語を、伊予守は二度とも同じ調子で言った。

 持たされた言葉を、そのまま置いているのであろう。


 伊予守が、五郎に何を言わせたいのかは分かっていた。なぜそれを言わせたいのかもだ。


 しばらく黙り込んでいたが、今日の伊予守は引かない。

 どうやら、こちらが口を開かなければ話が進まないようだった。


「忠節と申さば何になりましょうか」


 五郎がそう言うと、伊予守は、待っていたとばかりに口を開いた。


「武家の奉公と言えば兵にござろう。今川は五カ国の太守を任されておるゆえ、一万はいりましょうな」


 その一万を道永の前に並べ、労いの言葉でも貰えばよいのか、とは訊かない。


 京の趨勢から察することはできた。


 右馬頭尹賢を将とした丹波の征伐は失敗したのだ。

 神尾寺も八上も落とせず、丹波衆に陣を払われ、京へ引き返した。それを機と見た阿波の細川方が、三好筑前守元長を中心に堺へ進出し、畿内を押さえにかかっている。若狭の武田の援兵はあるものの、じりじりと押されているという。


 堺の革屋から来る文は、月が変わるたびに切迫の度合いが増していた。荷が動かない、蔵を開けさせられた、船が入って来ない。値の付け方まで書いてある文が、いまは値のことを書かなくなっている。


 正直に言えば、阿波方の三好からも文が来ていた。

 忠義の臣を疑う細川京兆家こそ天下を乱す元である、という筆の強い文である。文の主の思惑はどうであれ、書いていることの半分は当たっていた。


 それらの情勢を鑑みると、伊予守は直接的に軍を率いて戦えとは言うまい。

 ただ馬揃えでもしてこいと調子のよいことを言い、あくまでなし崩しで戦わせたいのだろう。

 

 そして、一万を京へ置いたが最後、丹波へ、あるいは堺へ回される。

 

 では阿波方はどうかと言えば、こちらも不味い。付いたところで信用されず、使い潰される。


 つまり、行くべきではない。

 つまり、京には燃えてもらうほかない。


 五郎は、さて、と言葉を置いてから話し出した。


「ついこの間、動くなと申されており、兵らは正月も近いため国元に帰しておりまする。ゆえ、まず家中に話を通すところから致さねばなりませぬ」


「なにをそのように悠長なことを申されるか。諏訪では数日で万軍を集めておられたではないか」


「あれは先代の威光あってのこと、治部の力ではございますまい。それは京の皆様方も承知の上と存じ上げます」


 伊予守が黙った。膝の上の拳が、袴の泥をこすった。

 こすられた泥が畳に落ちる。


「御先代の力量は京にも聞こえておりまする」


「父も泉下で喜んでおりましょう」


「当代の力量、この地を訪れた伊予守が見誤るとでも」


「まだ十五の若輩者ゆえ、家臣の支えなくば立つこともできませぬ」


 伊予守がまた口を閉じた。深く息を吐き、それから言った。 


「守護職を与えられた恩、お忘れか」


 声が変わった。

 ここから先は、押しの言葉しか残っていないのであろう。


「忘れてはおりませぬ。忘れておらぬからこそ話し合っておりましょう。ただ、時期が時期ゆえに兵を出すには時が掛かりましょうぞ」


 では安房守、と言いかけたところで、またどこからか走る音がした。


 広間の者が一斉にそちらへ顔を向けた。眉を寄せた者もいる。幕府の使者を迎えている座に、あまりに無作法である。

 新参の列の何人かは、腰を浮かしかけて、隣に押さえられた。


 だが五郎は、おや、と思った。


 伊予守の表情が動いていない。

 走る音を聞いても、広間がざわめいても、その顔は先ほどから一つも変わらなかった。


 足音が近づき、襖の前で一度止まる。それからすっと、襖が開いた。


 汗だくの小姓が、腰を落として静かに上座へ寄り、側付きに文を渡した。急ぎにござる、と小さく言い添えている。

 この寒さに、髷の生え際から湯気が立っていた。


 側付きは受け取った紙を胡乱な顔で見た。それから、剥き出しのままの文面が目に入ったらしく、顔から色が引いた。

 縋る目つきで五郎を見ていた。


「失礼、よろしいか」


 五郎がそう言うと、伊予守が頷いた。その口の端がわずかに上がっていた。

 受け取った文には折り目がついていない。開いたままの紙であったが、端が汗で波打っていた。


 文は簡潔に二文だけある。

 上杉、関東勢七万余、北条の江戸城に寄せる。

 甲斐より武蔵へ抜ける秩父筋にも山内勢を中心に三万ほどが展開し、甲斐口を塞ごうとしている。


 そう書いてあった。

 字は走っているが、書いた者の癖は分かる。日付は三日前になっていた。


 七万という数を、五郎はもう一度目で追った。江戸の城に籠っている兵で受けられる数ではない。

 秩父筋が塞がれているのなら、甲斐から武蔵へ抜ける道も使えない。北条の当主が本隊を動かせば、小田原と相模の内側が薄くなる。


 それが分かっていて、この使者は今朝ここへ坐っている。


 五郎は紙を膝の上へ置き、指の腹で折り目をつけた。


「お困りでしょうか、治部殿」


 伊予守の声が、先ほどより低くなっている。


「ここに来るまで、上杉殿から内々で話がございました。上杉家の城である江戸、これを奪った伊勢の者に対して攻め寄せる。幕府の股肱の臣たる今川には他意はなしと」


「して、伊予守殿は何を申されたい」


 伊予守はすぐに答えなかった。

 一呼吸の後に、腹に響く声で言った。


「返り文は二通ございます。今川は忠臣とする文。もう一方はさにあらずとする文でござる。どちらを出せばよろしいか」


 なるほど、大館伊予守とはこういう男であったか。

 五郎は感心さえ覚えた。


 若い当主が癇癪を起すことさえ承知で、幕府の権威を守ろうとする。

 こういう男が尊氏以降の将軍と幕府を支えてきたため、幕府が今なお存在するのだろう。


 見れば承菊の口もとから笑みが消えていた。広間が静まり返っている。誰かの数珠が鳴り、それきり音がしなくなった。

 芳菊丸が、上座で膝の上の手を握っているのが端に見えた。


「治部殿、良くお考えなされ。ここで幕府に兵を出すことは、親族、同盟への裏切りにあらず。われらが上杉側に和睦を提案することもできまする。忠臣の親族とあらば、粗略に扱うことなどいたしませぬ」


 伊予守は膝を戻さない。前へ出たままの姿勢で、上座を見上げている。


 五郎は膝の上で指を組み、しばし目を閉じた。


 答えはもう出ていた。


 その上で、頭の中に三つの問いを置いた。


 一つ、心は凪いでいるか。

 僅かに焦りは感じている。だがそれは意識すれば鎮められた。


 二つ、無駄に問題を難しくしていないか。

 細川の争い、上杉の援軍、忠義、今川の安泰、などと複雑に見える。だが事の仕組みは驚くほど単純である。


 三つ、事実と決断を混ぜていないか。

 七万が江戸に寄せていること、道永の陣営は不利であること、これらが事実。混ざっていない。


 問いに関しては、全て是である。

 ならば、言葉を口に載せることに迷いはない。


「上洛、御断り申す」


 目を開いて言った。


 広間に、波のように混乱が広がった。息を呑む音があり、膝を崩す音があり、誰かが隣へ何か言った。


 安房守へ顔を向けると、安房守が頷いた。それから、平手で大きく床を叩いた。

 音一つで、広間はまた静まっていく。冬のしんとした寒さだけが残る、常の広間が戻った。


「何を申されているかわかっておられるのか。十万の兵が今川にも来る、そういう話でござるぞ」


 伊予守が言い縋る。五郎はもう立ち上がっていた。

 袴をさばくと、僅かに香の匂いがのぼった。

 五郎はもう待たなかった。ただその場にいる者に対して、命を発した。


「北条への援兵の準備をせよ。朝比奈にも文、できる限りの即応兵をまとめ、こちらへ来るように。各国衆も同様に」


 関口彦三郎が立った。五郎の無理にも慣れた男である。


「甲斐は如何されますか」


「秩父筋に大勢は通れぬ。土地を知った甲斐衆に守らせよ。こちらは予備の守備兵でよい。小山田に任せよ。兵部少輔」


 名を呼ぶと、新参の列から飯富兵部少輔が膝を進めて出た。呼ばれると思っていなかったらしく、出るまでに一つ間があった。甲斐の者を騎馬でまとめて動かせるのは、いまのところこの男しかいない。


「即応の騎兵を纏め、五郎の元に来るように。副将として此度は一層動いてもらう」


 兵部少輔が目を見開いた。それから顔に喜色を上らせ、深く頭を下げた。


「三浦には念のため予備の兵を預け、駿河に置く。東西いずれに事あらば動けるようにな」


 側付きの者が頷き、一人、また一人と広間を出て行く。廊下を走る音が幾筋にも分かれて遠ざかった。

 安房守が指を折りながら何か言い、承菊がそれを紙へ落としている。


 兵糧、兵、馬、荷駄。番匠も要る。人足の触れも要る。海道の宿へも先に人を出さねばならない。用意するものは多い。


 その中で、伊予守が叫んだ。


「治部、そなた馬鹿にしておるのか」


 広間の者はそちらを一瞥しただけで、また銘々の仕事に戻った。それも気に入らぬらしく、伊予守はさらに声を張った。


「一万かそこらの兵を幕府には出さず、北条を名乗る伊勢ごときの者のため、関東管領に歯向かうなど許されぬ。無礼極まることぞ」


 伊勢ごとき、というところで、譜代の列の一人が顔を上げた。北条から養子に入った葛山である。五郎は目で押さえた。


 抑えつつも、確かに、と五郎は思った。

 兵を動かせば、どのみち幕府への不義理は知れることではある。

 だが、かと言って使者の目の前で支度を始めたのは、いささか無礼が過ぎたかもしれない。


「確かに無礼をいたしました」


「なれば」


「ですが、許しは請えませぬ」


 それだけ言って、五郎も歩き出した。

 襖を抜け、廊下へ出る。歩くうちに、指の痺れがようやく抜けた。


 背中に声がかかった。伊予守の供の者である。


「京が燃えるのですぞ。天下が揺らぐ時に、今川は何もなさらぬのか」


 廊下を進むうちに、庭先や、部屋の陰から、こちらを覗いている幾つかの目に気づいた。

 奥はもう静まっていた。表の音が届いたのであろう。


 一つは霧姫であった。庭先から何かを訴えるような、縋るような目をしている。

 そして、もう一つは朝姫である。さきほどの縁側から動いていない。ただひたすらに申し訳なさそうな、罪人のような目でこちらを見ていた。


 置いて来た弓袋を、この娘は片づけずにそのままにしているらしかった。


 何か後ろ髪をひかれる思いがあった。

 また何か人の心を踏みつけ、自分の道を行こうとしている、そんな気がした。


「是非もなし」


 五郎は、小さく呟いた。誰にも聞こえぬようにそっと。

 どう思われるか、自分がどう思っているかなどは、今はどうでもよい。

 大事なのは今川家と、この家の治世が長く続くことだけである。


 五郎は振り返った。伊予守と目が合った。血走った眼は火が着きそうなほどに力が入っている。

 供の者が二人がかりで押しとどめようとしているのを、伊予守は振り払っていた。烏帽子が傾いだままである。


「乱世ゆえ、お許しあれ」


 それからは、もう一度も振り返らなかった。


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― 新着の感想 ―
最後の 「乱世ゆえ、お許しあれ」 言いたい! 今の日本乱世みたいなもんだし言えるタイミングあるかな!
上杉と陽動とか思わせなかったら出してくれただろうに、その脅しは逆効果だよ、使者殿。 京に上洛して欲しかったら、関東を安定させないと。 それこそ北条と上杉の和睦を取り持つとか。
甲斐勢が何処に配置されるか分かりませんが、戦争で兵を任されるという事はその後の扱い・家の隆盛に関わる事。加えて今後の駿河から甲斐への支援にも影響するとなれば、甲斐勢はここがポイントと死にものぐるいで働…
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