↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
72/89

5章_10

 大永六年の冬である。


 上杉修理大夫朝興は、陣屋の外へ出て江戸城を睨んでいた。


 冬枯れの葦原の向こう、台地の端に城がある。堀の水が鈍く光り、櫓の屋根に降りた霜が、日の当たるところから順に消えていく。風は川筋から来て、頬と手の甲を削るように吹いた。


 城を奪われてから、もう幾年になる。取り返しに出て、五千の兵が入っただけの城を攻めあぐね、河越へ引いた。堀の一つも埋められず、味方の中から病人ばかりを出して帰った。あのときのことは、修理大夫の中でまだ片づいていない。


 山内とは長く争って来たが、去年から対北条より連携を密にしている。左馬頭が代替わりしてからは、一層話が通るようになった。両家が揃って触れを回せば、関東の家はさすがに動く。動かねば、後で立場がなくなる。そういう仕掛けである。


 脇には太田美濃守が控えている。この男は寒がりもせず、腕を組むでもなく、ただ同じ場所に立って城の方を見ていた。具足の上に着ているものは古い。修理大夫が新調を勧めても、着馴れたものが良いと言って替えなかった。


 背後の斜面には、幕と旗が並んでいる。山内の左馬頭が盟主となり、両家の争いを収めて関東へ触れを回した。その触れに応じて集まった旗である。数を数えることは、このごろやめていた。数えるたびに、数が違うからであった。


「御屋形様、渋川右兵衛佐殿参りました」


 使いの声がした。


 間もなく、案内されて一人の国人が上がって来た。具足も陣羽織も新しく、後ろに連ねている者の数も少なくない。旗指物を数えれば、書いて寄越した通りの人数はいるようであった。身なりは堂々としている。


 だが、修理大夫の前まで来ずに一度足を止め、こちらを窺うような間があった。烏帽子の紐へ手をやり、それから下ろした。


 美濃守がその手を取った。


「よういらした。渋川右兵衛佐殿」


「美濃守殿、修理大夫様、江戸城の折は兵を出せず申し訳ござらぬ」


「何を申されるか。今日兵を出され、ともに戦ってくださる。それだけで十分にござろう」


 美濃守は手を取ったまま、右兵衛佐を修理大夫の前へ連れて来た。周りに控えている者たちが、そちらを見ないようにしているのが分かる。ここへ上がって来るまでに、右兵衛佐は何人の脇を通って来たであろうか。


 遅い、と言いかけた。


 喉のあたりまで来ていたのを、修理大夫は噛み殺した。美濃守がこちらを見ている。手は右兵衛佐の手を握ったままで、目だけがこちらへ来ていた。


「よう参られた」


 右兵衛佐が頭を下げる。兜を脱いだ額に、この寒さでも汗の筋があった。馬を急がせて来たのであろう。遅れたことは、当人がいちばん分かっているらしい。


「次は」


 次はもっと早く参られよ。そう言おうかと思った。


 もともと、出兵はこれよりずっと早い手はずであった。今川の先代が死んで、ひと月も経たぬうちに出る。それが図であった。喪に服している間に東を片づけてしまえば、駿河が動くころには江戸は落ちている。美濃守と幾度も紙の上で数えたことである。


 関東の国人らが早く呼応さえすれば、できたはずであった。


 実際には、触れを回してから半年が過ぎた。来る来ると言って来ない家があり、様子を見ていた家があり、こうして冬に入ってから、新しい具足で上がって来る家があった。


 だが、いま言っても詮のないことでもあった。


「次こそは勝ちましょうぞ。右兵衛佐殿」


 言って、肩を叩いた。籠手の革が、相手の陣羽織の上で乾いた音を立てた。右兵衛佐が深々と頭を下げる。


「左馬頭殿にはご挨拶されたか。まだならば行かれるとよい。此度の盟主であられるゆえ」


 右兵衛佐は何度も頭を下げ、来たときよりも早い足で去って行った。斜面を下って行く陣羽織の背が、途中から供の中へ紛れて見えなくなった。


 美濃守が目を細めている。責めている目であった。


「言うな。軍勢を率いて気が大きくなっている。そう申したいのであろう」


「いえ、焦りは禁物と申したく。待てば優位にござる」


 修理大夫は両の手で顔をぬぐった。手甲の革の匂いがした。


「今どれほど集った」


「足立筋はほぼこちらに靡きました。ただ」


 言いかけて、美濃守は言葉を切った。


「わかっている。勝てると踏んできただけだ。頼りきりにはしない」


 美濃守は先を言わなかった。ただ、懐から出した書付を膝の上で開き、また畳んだ。どの家が何人と書いてあるはずのものである。


 修理大夫は、また城へ向き直った。城は動かない。堀の水も、櫓の旗も、ひと月前に見たときと変わらなかった。中の者が籠ったまま冬を越す気でいるのは、煮炊きの煙の上がり方で知れる。


 控えていた三戸駿河守義宣が、ふと口を挟んだ。


「美濃守殿、まだ待たれるのですか」


「まだ待つ。小弓と房総が加わるまでは待たねばならぬ」


 小弓の公方が動けば、房総の家は付いて来る。付いて来れば、江戸の後ろが締まる。締まってから寄せる、というのが初めからの図であった。


「今川を恐れすぎではないでしょうか。諏訪に集まったのは三万弱。今川は代替わりで揺らいでおりますし、今の我らは」


 諏訪の話は、信濃から来た商人と、碓氷を越えて来た僧が、それぞれ別に持って来たものである。武家法度の披露目に、五か国から三万近くを集めたという。数は人の口を通るたびに膨れるものだが、二筋が同じことを言った。


「以前の我らは、江戸に五千の兵が入っただけで攻めあぐねた。三万入ればどうする」


 駿河守が黙った。あの折に城を攻めた者は、この陣にもまだ何人もいる。


「まずは兵で圧する。援軍など無駄と、軍略の余地がないようにふさぐ。さすれば負けはない」


 美濃守はそう言った。言いながら、目は修理大夫の方に置かれている。


 わかっている、と修理大夫は胸の内で答えた。


 わかっているが、身の内が落ち着かない。これだけの軍勢を動かすのは初めてであった。山内の左馬頭と分け合ってはいる。それでも、後ろの斜面に並んでいる旗の数を思うと、震えが来る。恐ろしいほどの兵であった。


 この兵を、日を追うごとに食わせなければならない。冬の間、動かさずに置けば、来た家から順に帰る。今日上がって来た右兵衛佐にしても、半年待たせた挙句にようやく来たのである。待たせれば減り、急げば足りない。触れを回した半年で、それは嫌というほど分かった。


 早く終わらせたい。早く江戸城を落としたい。北条を関東から追い出して、この落ち着かなさから解き放たれたい。そう思っている。


 修理大夫は手甲を外し、また嵌め直した。革が冷えて硬くなっている。掌に押しつけると、指の付け根のあたりが痛んだ。


 斜面の下の方で、人の声が上がった。一つではない。幕の間を伝って、こちらへ近づいて来る。


「小弓公方様、房総勢、着陣しましてござる」


 使番が斜面を駆け上がって来た。膝から下が泥だらけである。小弓と房総を待つと決めてから、二十日あまりが経っていた。


 修理大夫は美濃守を見た。


 美濃守が頷く。


「陣ぶれぞ」


---


 太田源六郎資高は、江戸城の物見櫓に上がっていた。


 冬の風が、櫓の板の隙間から真っ直ぐに入って来る。欄干の木は霜を吸って、手を置くと掌に貼りついた。


 源六郎は、江戸城が落ちる前まで上杉方にいた男である。兄弟とともに上杉を見限り、内応して北条へ転んだ。

 北条の当主に心酔したというようなことはない。勢いのある方とない方を見比べて、この城に上杉方として籠って持ちこたえられるかどうかを、肌で測っただけである。


 江戸城は堅い城ではある。堀は深く、曲輪の切り方も悪くない。太田の家が普請に関わった城だから、どこが弱いかも知っている。だが今川の後押しを受けた北条を相手に、自分一人が武ばったところで何にもなるまいと思った。忠義に固執し、武ばった者がその後どうなるかは、上杉の下にいたころに幾つも見ている。

 特に祖父、太田道灌が良い例であった。

 

 上杉は人の心を纏められず、そのうち落ちていく。そう見ていた。

 山内が左馬頭を養子に取ったと聞いたときには、確信に近くなった。なるほど家格は重要である。だがそれだけを重視して、譜代や一門が納得するかは別の話だ。まず揉める、そして揉めればもう、軍など起こせまい。


 その見立てが、いま眼前で裏返っている。


 葦原も、田の跡も、道も見えない。人が虫のようにひしめいて、江戸城を取り囲んでいる。地の色より、人と旗指物の色の方が多い。旗は近いところで幾重にも重なり、遠いところでは霞んで、どこまで続いているのか追えなかった。


 昨日まで、あのあたりには枯れた葦が立っていたはずである。それが今朝はもう踏み倒され、幕の列に変わっていた。煮炊きの煙が、あちらこちらから細く上がっている。数えようとして、源六郎は途中でやめた。


「美濃守、駿河守。あれは難波田か。渋川もいる。葛西の大石まで来たか」


 源六郎はさらに北へ目をやった。そこには扇谷と異なる勢力の旗が翻っている。


「あちらは山内方。長野、それに白井長尾か」


「だけではござらん。小弓公方、その後ろに真里谷武田。里見勢もおりますぞ」


 遠山隼人佑がつけ加えた。隼人佑は北条の譜代である。

 この櫓へ一緒に上がって来たのは、案内のためばかりではあるまい。源六郎が何を見て何を言うか、見張る役目も幾らかは負っているはずであった。それを咎める気はない。自分が北条の当主なら、同じようにする。


「総勢いくらになり申す」


「十万、と物見は答え申した」


 隼人佑が苦々しく吐きだした。

 源六郎は首を横に振った。


「それは号してでござろう」


 上杉の軍勢は確かに多い。号して何々万などということも良くあるが、実際はその半分もいれば十分なのが実態である。

 だが隼人佑の表情は変わらず、苦い顔のままだ。


「見た限りでは扇谷上杉勢二万五千近く。それに武蔵国衆も二万は超え、小弓、房総勢も同数程度にござる」


 源六郎は息をのんだ。隼人佑の様子から、それが真実であるとようやく受け止められた。手甲をさすりながら、目の前の軍勢をあらためて見た。


「今あげただけで六万以上が江戸城か」


「そこに山内方が加わり申す。こちらは一万程度」


 合わせて七万になる。

 源六郎は唾を呑んだ。城の中の兵を思えば、口の中が乾くのは道理であった。

 源六郎にしても、実数七万の兵など合戦で見たことがなかった。


 ただ唾を呑みながら、胸の底では少しほっとしてもいた。関東でいちばん力のある家が、一万しか出していない。

 これは明らかに付け入る隙でもある。


「山内は代替わり間もない。本気ではないのだろう」


 ならば、そこから崩せる道筋はある。山内と扇谷の温度の差。家格の差。これを使い、疑心の種をまき争わせる。北条の当主ならばできなくはないだろう。

 それに数は多いが、これだけの兵を毎日食わせる兵糧が続くとも思えない。今川が後ろを脅かし、兵糧を焼きでもすれば、守り切る算段も立つ。


 隼人佑が首を振った。


「山内方二万、西武蔵衆一万と合流し、甲斐口をふさいでおります。号して十万、コケ脅しではございませぬ」


 源六郎は欄干から手を離した。


「今川は動けるのか」


 隼人佑の頬が動いた。


 今川は先代が死んだばかりである。代替わりの混乱があってしかるべきだろう。北条の当主、新九郎氏綱が直々に駿府へ下り、同盟に変わりのないことを確かめ、姫を人質に近い形で預けて来たことは、源六郎も聞いていた。


 北条と今川の盟が生きていることは、これで疑いようがない。城中の者も、そこを頼りにしている。


 だが、それでも本当に、文字通り十万の軍勢へ手を出すだろうか。

 甲斐口を抑えられた段階で、言い訳はできる。こちらを対処していたとし、江戸城など見捨てられる。


 自分ならば出しはすまい、と源六郎は思った。城をいくつか落とされたあたりで仲裁を買って出る。それくらいが関の山ではないか。


 まずい。


 源六郎は唇をなめた。思考が今この瞬間から、先のことに及んだ。


 戦のことだけではない。上杉が関東の家々に号令をかけ、北条に勝った、という形が出来上がるのがまずいのである。

 内訌でがたついていた関東管領に、実が伴ってしまう。

 そうなれば、この先何十年か、関東で誰の下に付くかを決めるのは上杉になる。


 上杉を見限った者の見立てが、丸ごと間違っていたことになる。


 いっそ、また寝返るか。


 そう考えたとき、下から声が上がった。


「扇谷上杉勢、攻めかかりましたぞ」


 伝令が櫓の梯子を駆け上がって来た。


「馬鹿な、直轄兵か」


 源六郎は唸った。

 あの修理大夫が自ら前へ出るとは思えなかった。江戸城を攻めあぐねて河越へ引いたときも、あの男はついに最後まで無理をしなかった男である。折り目正しいと言えばそうであるが、機を見ることはできないと思っていた。


「兵の数で気を大きくされたか」


 胸の内で舌打ちした。


 櫓から見下ろすと、幕の列の一角が崩れて、旗の塊が動き出していた。人の頭が波のように寄せて来る。堀の外の土手へ取り付き、竹束を立て、そのまま城の一角へかかった。

 矢が飛び始めた。こちらの塀へ当たる音が、間を置かずに続く。太鼓が鳴り、その音に遅れて、下の曲輪から人の走る音が上がって来た。


「別口にも山内勢が掛かっておりまする。そちらは某が」


「御頼み申す」


 隼人佑が梯子を降りて行った。

 源六郎も櫓を降り、扇谷の寄せて来る方へ走った。


 寝返るにしてもしないにしても、向こうがその気にならなければ意味がない。

 このまま門を開けても、落ちた城の中で首を討たれて終わりである。

 

 いまはとにかく守らねばならぬ、と腹をくくった。


 源六郎が駆けつけたとき、塀際の兵は、腰が引けていた。

 無理もない。狭間から外を見れば、人の他に何も見えないのである。矢を番えたまま、まだ引いていない者がいた。


「弓、引け。石を落とせ」


 源六郎の声で、何人かが振り返った。振り返って、はっとした顔になった。

 それから、教えられた通りに動き始めた。


 矢を放ち、石を落とし、湯を沸かして浴びせた。土手を這い上がって来た兵が落ち、落ちたところへまた次が来る。

 竹束が倒れ、倒れた上を踏んで上がって来る。湯を運ぶ桶の底が、板の上で滑った。


 源六郎は塀の間を歩き、名を呼び、間の空いたところへ人を回した。手負いが下がって来るのとすれ違い、一度、肩を掴んで押し戻した。


 一刻ほどで、寄せ手はまず引いた。城門にとりつくことも、はしごで乗り越えてくることもなかった。

 果敢に防ぐ城兵により、眼前の扇谷上杉勢は自陣へと引き下がったのだ。


「まずは防いだか」


 源六郎は、後退する兵を見て胸を撫で下ろした。

 やがて隼人佑が戻って来た。


「こちらも押し返し申してござる。あまり勢いというより、兵の質は高くござらん」


「油断召されるな」


 源六郎は汗をぬぐった。手の甲に当たった息が白い。落ち着いていたつもりだったが、臓腑が焼けつくような熱を持っていた。


「味方に気を入れるための様子見でござろう。ここからはじわじわと締めてきますぞ」


 隼人佑が唾を呑んだ。

 源六郎は、遠くまで伸びている上杉方の旗指物を見た。引いた兵は、引いたところで陣を組み直している。散ってはいない。負けた兵の引き方ではなかった。


「道々、村などを塞ぎ、しっかりとこちらの息の根を止めるつもりのようでござろう」


「狙いはなんでござろうか。江戸城は堅城なれど、あの軍勢ならば力攻めも」


「北条家の本隊を引きずり出すおつもりでござろう。あとは関東勢の馬揃えも兼ねておられる。そのあたりか」


 北条を関東から追い出すだけとは思えなかった。


 これを機に、関東の支配を一気に固めるつもりに見える。その飾りになるのが、江戸城の落城か、北条軍の壊滅である。かつて扇谷上杉にいた者として、修理大夫というより、美濃守あたりの考えを、源六郎はそう読んだ。


「相当に厳しゅうございますぞ。隼人佑殿。ご覚悟を」


 隼人佑が頷いた。


 源六郎は、胸の内に苦いものが溜まってくるのを感じていた。


 内応、まずかったかもしれん。


 さて、何をすれば許されるか。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
どんどん上洛できない理由が増えていく。 上杉の策謀を見破っていたから領国を離れなかったっていうのは細川高国のメンツをつぶさずとても納得ができる理由だよね。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。