↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
70/89

5章_8

 大永六年も半ばを過ぎたころ、夜に入って風が落ちた。


 五郎は自室で書状を検めていたが、途中で筆を置いた。養子に行った異母弟、新三郎に対する支援の件、三河の寺社に対する訴訟など、数枚の文がまだ手をつけずに残っている。特に新三郎の一件は、沓掛城に通す道の普請、特に橋の修繕受け持ちを、どの村へ振るかというものだった。村の数と人の数を並べて書いてあるだけで、決めれば済む話である。どれも今日中に済む話だった。


 それが急に、明日に回そうと思い立った。病床の父に顔を見せに行くべきだと感じたのだ。


 虫の知らせというものであろうか。

 近習に灯を持たせ、五郎は館の奥へ回った。


 表の方では、宵のうちまで人が動いていた。この時季は夜になってから蔵をいじる者がいる。

 新調した長槍の本数、俵の数などを改めるため、忙しなく人が動き、蔵の戸を閉める音や、犬を追う声が、渡殿を過ぎるあたりまで届いた。

 だが、それも半ばで切れて、あとは五郎の足音だけになった。渡殿の板には昼の熱がまだ残っている。


 庭の草が濃く匂い、どこかで下男が水を使っていた。六月も末に近い。風のない晩で、灯のまわりに羽虫が寄って来る。

 近習が時おり袖でそれを払った。五郎は肩の付け根が重く、歩くうちに一度だけ首を回した。


 父の寝所は館のいちばん奥にある。病が重くなってから、氏親は医師と身内のほかを近づけたがらなくなった。

 宿直も減らしている。痩せた姿を人に見せたくないのだと、以前、中御門殿から聞いた。

 そのためにこのあたりだけは灯の数が少なく、廊下の途中から先は、手に提げた灯だけが頼りになる。


 次の間には若い宿直が二人いるだけだった。刀は膝の脇へ置き、行燈は隅へ寄せてある。五郎に気づくと手をつき、頭を下げた。

 この時刻に五郎が来ることは、このごろ珍しくない。医師は宵の口に一度診て下がったという。中御門殿も先ほど休まれたと、宿直の一人が声を落として言い添えた。


 取り次ぎは求めなかった。おそらくもう寝顔を見るだけだろうと思っていたのだ。

 近習に灯を預け、五郎は障子を引いた。


 薬を煎じた匂いと、蚊遣りの煙の匂いが部屋にこもっている。庭に面した障子は半分だけ開けてあり、そこから夜気が入っていた。

 枕もとには水桶と、汗を拭うための布が畳んで置いてある。畳んだ布は乾いていた。

 灯明は芯を短く落としてあり、その明るみの中に、褥の上の氏親の顔があった。夏だというのに、夜着は厚いものが掛けてある。


 五郎は枕もとまで行き、そこに立った。

 春に会ったときより、また肉が落ちている。息を吸うたびに、喉のあたりが浅く鳴った。


 氏親が首だけをこちらへ向けた。目がはっきりしている。起こしたというよりずっと眠っていなかったようだ。


「そなた、頃合いが良い。もう行くところだった」


 声も久方ぶりに力があった。


「そんな気がしましたので、参りました」


「して何用か、父が恋しくなる男ではあるまい」


「息子が恋しい方と思うて足を運んだ次第にて」


 氏親が喉を鳴らした。虫の音にかき消されるような、かすかな音だった。


「そのような男であるとしても、そなたは呼ぶまい。そなたが外に出した松寿丸を呼ぶであろう」


「父の寵愛を奪われまいと外に出しました」


 五郎は褥の脇へ坐った。

 夜着の上に投げ出された氏親の腕が、ちょうど灯の届くところにある。手首の骨の形が、そのまま袖の下から出ていた。


「良く言う。今日は饒舌ではないか。幕府の一件、後ろめたいか」


 幕府の一件、と父は言った。

 五郎はすぐには答えず、灯の芯へ目をやってから口を開こうとし、それも途中でやめた。


 幕府の使者である大館伊予守を駿府から帰してから、ひと月あまりになる。

 上洛の日取りについては庵原安房守と承菊に預けたままで、五郎はまだ京へ返事をしていない。

 

 上らぬと決めたのは五郎であり、父にもそう伝えてある。

 伊予守は最後まで得心しなかったが、それきり京からの催促は来ていない。それどころではなくなったからである。


 伊予守が帰ってほどなく、細川道永が重臣の香西四郎左衛門尉元盛を切った。従弟にあたる細川右馬頭尹賢の讒言を容れてのことだという。


 讒言の中身も、あらかた駿府へ届いていた。

 四郎左衛門尉はかねて今川を庇っていた、此度も治部の上洛を妨げた、今川から何か聞いていたのではないか、阿波方とも通じて治部をそちらへ引こうとしている。おおよそそのようなものであったらしい。


 もとをたどれば、四郎左衛門尉は諫めたのである。ここでさらに上洛を強いれば今川は本当に離れる、追い込むべきではない、と。

 それが道永の勘気に触れた。もともと折り合いの悪かった右馬頭が、そこへ言葉を添えた。


 このような経緯で四郎左衛門尉は上意討ちと相成った。だが問題はここからである。


 当の四郎左衛門尉には兄弟がいた。

 丹波の波多野孫四郎元清と、柳本又次郎賢治である。二人はこれを許さず、阿波の細川右京大夫晴元、というよりこれを庇護する三好筑前守元長に呼応して、丹波で兵を挙げた。

 丹波から京までは、山越えの道で二日とかからない。道永は当分、西を向いていなければならぬだろう。

 幕府の使者が重ねて駿府へ下って来ることも、しばらくはあるまいと五郎は見ていた。


 知らせは一筋ではなかった。堺の店から来たものと、京に置いている者からのものと、日付は違うが中身は食い違わない。丹波で兵が起きたという一点については、まず疑うところがなかった。


 そしてその知らせが駿府へ入ったのが、三日前になる。


「随分、燃えている。そこもとにも文が来ているのではないか」


「ええ、動くな。阿波方につくなと」


 堺の商人が継いだ文である。封を切ったのは一昨日の朝で、日付から数えれば、道永は丹波の報を受けたその日のうちに筆を執っている。書かれていたのはそれだけだった。銭の話も、上洛の話も、香西の名も出ていない。


 もし五郎が求めに応じて京へ上っていれば、いまごろは五国の守護に相応しいだけの供を連れて、その只中に坐っていたことになる。いや、そもそも香西は討たれなかっただろうか。むしろ右馬頭が何か思い立ち、五郎ごと諫言しただろうか。


 今となってはとんと分からない話である。


「そのうちに助けに来いと変わろう。覚悟はしておけ。火元は其方だ」


「つけたのは道永殿でありますが」


 薄々察していた事を父は言葉にした。五郎はそ知らぬ顔で額に手をやった。袖が翻り夜陰に布切れの音だけが残った。

 氏親が夜着の下で身じろぎをした。腕を動かして袖口を直そうとし、途中でやめた。


「道永殿の気質を察しておったであろう。阿波方に気を張っているところに、顔をつぶすようなことをすればこうなると知っておったのではないか」


「さて、会ったこともない方ゆえ」


 五郎が一層そ知らぬ顔をすると、氏親はまた喉を鳴らした。


 こちらは事実である。


 道永にも香西にも、実際に会ったことはない。香西四郎左衛門尉という名を、五郎は京から来る書付の上でしか見たことがなかった。

 名の下に添えられていたのは、御所の普請場で今川の扱いをめぐって右馬頭と言い合ったという、それだけの報せである。


「道永殿は、京で随分な顔だったらしいな。一声かければそなたが尻尾を振ると公家らに言っておったと」


 氏親の眼差しは責めるような、面白がるような色が曖昧なままである。

 さて、と五郎は言葉を置いた。


「無い尻尾を振る約束などできますまい」


「確かに」


 氏親が笑った。笑うと咳が出て、そのあとしばらく息が整わなかった。

 五郎は枕もとの湯呑みを取り、父の手もとへ寄せて置いた。氏親は取らなかった。指先が夜着の上で二度ばかり動き、それきり止まった。


 枕もとの水桶に指を触れると、水は生ぬるくなっていた。宿直が替えるのを忘れたのだろう。あとで言えばよいことである。


 五郎は小さく頭を下げた。

 それから氏親は、ふと中空に呟いた。


「父は良い父ではない」


「で、ありましょうな」


「否定せぬか。そなたも良い息子ではなかろうに」


 五郎は膝を引き、居住まいを正した。

 坐り直した拍子に、袴の膝の裏が汗で貼りついた。


「そなたが家督を継いだ折、誓わせたこと今一度申せ」


 忘れているはずがないことは、父も承知の上で言っている。


「今川家百年、二百年の安泰を五郎の代で成しえること」


「良い父親ならば、気にするな、戯言であったと申そうな。健やかであれと手を取ろう」


「良き息子ならば涙いたします」


 氏親が顔をこちらへ向けた。灯を背にしているので、頬の落ちた輪郭だけが黒く見える。

 夜着の襟から出た首は細く、そこだけが灯を受けて白かった。口もとが動く前に、その線が硬くなった。


「一度誓ったことゆえ、取り下げることは許さぬ」


「承知いたしました。必ずや」


 氏親の肩から力が抜けた。夜着の襟が、そのぶんだけ下へずれる。


「怯みもせぬか。分かっておるのか。気楽なものではないのだぞ」


「一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、と思うておりまする」


 氏親はそれを受けて、少し黙り込んだ。その言葉を噛みしめ、反芻し、それから口角を上げた。


「なるほど、良き言葉だ。誰の物だ」


「もはやだれの物でもございませぬが、己が望んだ重荷の一つと思うておりまする」


 なんだそれは、と氏親が目を丸くし、また喉を鳴らした。


「そなたはやはり分からんな」


 氏親は仰向けに戻った。天井の方を向いたまま、しばらく黙っている。

 灯明の油が減ったとみえて、火が細くなっている。五郎は父の呼吸が落ち着くのを待った。庭の水音はやんでいて、そのぶん、次の間で宿直が身じろぎする音まで聞こえた。


「疲れた。今日は帰れ」


 五郎は頭を下げ、片手を膝に置いて立ち上がった。

 長く同じ坐り方をしていたので、膝が伸びるまでに間があった。障子に手をかけたところで、後ろから声が来た。


「荷を下ろすなよ」


 振り返らなかった。


---


 氏親は、五郎と話したその夜に死んだ。


 朝の診察に来た医師が見つけたのだという。夜着の乱れもなく、褥の上でいつもの向きに寝ていたので、初めは眠っているのだと思ったと、あとで医師は言った。長く患った末の病死である。不審なところは何一つなかった。


 知らせを受けたとき、五郎は自室で前夜のままの書状を見ていた。ただやりかけていた仕事に手を付け、今後どうするかと思案に暮れていた。

 五郎はその足で父の部屋に向かった。


 部屋は前夜と変わっていなかった。障子は半分開けてあり、蚊遣りの灰が皿に残っている。中御門殿がすでに枕もとに坐っていた。五郎が入ると場所を空けたが、何も言わなかった。


 父の顔は、灯の下で見たときより白かった。頬の落ち方も口もとの形もそのままであった。

 五郎はしばらくそこに坐り、それから枕もとの水桶を持って次の間へ出た。前の晩に替えさせなかった水である。宿直の若い者が慌てて受け取ろうとしたので、渡した。


 葬儀の支度は、半ばまで済んでいた。


 不謹慎な言い方になるが、去年の暮れから、今川の家は父が死ぬのを待つだけの形になっていた。菩提寺への通知も、僧の割り振りも、駿府へ入る者の宿割りも、書付にして庵原安房守が抱えている。誰にいつ知らせを出し、誰をどの座に置くかまで、順に並べてあった。あとは日付を入れるだけだったのである。


 日付が入り、駿府から諸国へ早馬が出た。承菊が寺方との掛け合いに回され、甲斐へ戻る話はまた先へ延びた。五郎が指図したのは、初めの半日ばかりである。あとは書付の通りに人が動いた。


 家督はすでに五郎が握っている。代替わりの騒ぎというものは、起きようがなかった。


 葬儀は暑い盛りに行われた。堂の中は香の煙と人の熱でこもり、焼香の列はなかなか進まなかった。

 五郎は正面に坐って、順に上がって来る者を見ていた。


 外へ出した弟たちも来ていた。


 那古野からの新三郎氏豊は、名児耶蔵人に手を引かれるようにして上がって来た。齢五つの喪服姿はいかにも小さいが、膝の運びと手のつき方には、教えられた通りのところがある。東条吉良を継いだ孫六郎良真は、西条吉良の三郎と一つ置いた座にいて、堂を出るまでついに口をきかなかった。安祥から上って来た松平七郎昌景は、後ろに酒井や石川などの顔を連れている。


 半分ほどは、三年前には今川の家中でなかった者である。備中守の背後には松尾の小笠原ら信濃衆がおり、甲斐からは穴山と小山田など主だったところが来ていた。

 それが順に父の前へ出て、香を焚き、五郎の方へ頭を下げて下がって行く。寺の門から往還まで人が詰まり、駿府では宿も飯屋も足りなくなったと聞いた。五か国を持った者の父の葬儀として、不足はない。


 同腹の弟たちは、堂の隅に並んで坐っていた。松寿丸は信濃へ発つ支度の途中で、髪も衣も改めさせられている。芳菊丸はその横で、僧の唱える経を耳で追っているようであった。焼香の折、二人は言われた通りの順で立ち、言われた通りに戻った。


 汗が背を伝ったが、五郎は拭かずにいた。


 幕府の使者も来た。公家も下って来た。


 五郎は多少身構えていたのだが、拍子抜けするほど何も言われなかった。上洛のことにも、諏訪大社の法度にも触れない。

 悔やみの言葉を述べ、香を焚き、何かあればいつでも申し付けられよ、とだけ言って帰って行った。帰り際に、駿河の茶を所望した者までいた。


 京へは、香奠の礼と、寺への布施を添えた文だけを返した。上洛のことは、こちらからは書かない。書けば、こちらが日取りを預かったことになる。


 むしろ首をひねったのはそこである。


 丹波では兵が起き、京では御代替わりの支度がある。

 銭が要るのも、人が要るのも向こうのはずであった。困っているのはそちらではないか、とは問わない。五郎はただ頭を下げた。


 葬儀が済み、七七日も過ぎて、駿府から人が減ったころに、中御門殿が髪を下ろした。


 五郎に相談はなかった。落飾の日に呼ばれて行くと、すでに済んでいた。表のことに口は出しませぬ、と以前と同じことを言い、それから、弟たちのことだけを二つ三つ頼んだ。奥の一間へ入り、位牌の前で日を送るようになったが、寺への布施の額などは、いまも自分で決めているようであった。


 暑さが盛りを越えたころ、東から客が来た。


 北条新九郎氏綱である。父氏親の従兄弟にあたり、伊豆、相模を持つ同盟国の当主であった。


 先触れは十日ほど前に来ていた。悔やみのためとあり、供の数も書いてあったが、実際に海道を来たのはそれより少ない。武具を積んだ荷駄もなく、三島から沼津を抜けるまで、道中で人を待たせるようなこともしなかったと、途中まで迎えに出た葛山中務少輔が言って来た。


 館へ通したのは三人だけである。新九郎のほかに、新九郎と顔立ちのよく似た僧形の男が一人。それに、年ごろの娘が一人いた。


 五郎は私室へ通した。


 考え事をするときに使う離れではない。人に見せるための座敷の方である。

 畳は替えたばかりで、床には軸を掛け、違い棚に香炉を置いた。庭も掃かせてある。喪の間は花も掛物も外していたが、この日は元に戻させた。

 北条の当主を、片づけの済まぬ部屋へ通す理由はない。


 障子を開ければ、刈り込んだ植込みの向こうまで見えた。日は高いが、風は先月ほど重くない。


 そこには北川殿が先に坐っていた。新九郎には叔母にあたる。


 息子を送ったばかりの人であるが、坐り方にも声にも、崩れたところはない。

 落飾してからも、人に会うと言えば会う。ただ、頬から顎にかけての線が、春に見たときより細くなっていた。数珠を持つ手つきだけが、以前と違って見えた。


 小姓が茶を運んで来た。駿河の茶である。新九郎は座に着くと茶碗には手を触れず、まず両手をついた。


「この度はお悔やみを申し上げます。先代には誠にお世話になり申した」


「いえ、むしろ今川のほうが北条の先代に世話になっておりますれば」


 五郎も頭を下げた。


 顔を上げてから、しばらく相手を見た。骨の張り方、眉の濃さ、口を結んだときに顎へ寄る皺の形が、父に似ている。

 ただ、父にはなかった太さがあった。物言いも坐り方も、東国の武士が好みそうな図太さで出来ている。


「如何されました」


「これは失礼を。父によく似ていると思うておりました」


「従兄弟にございますれば、さすがに似ておりましょう。とはいえ某は御父君ほどの男ぶりはございませぬ。京生まれであるにも関わらず、すっかり東に染まってしまい申した」


「そちらの方がようございましょう。土地の者らも心を許せるというものにございます」


「某もそう考えておりましたが、さてそれは無作法の言い訳であったとも反省しておる次第に。現に治部殿は折り目正しいにも関わらず、三河や信濃の者らの心を掴んでおりますれば」


「三河は松平や三浦、信濃は朝比奈や小笠原らが固めておるのみにございます。治部のことなど知りますまい」


「ですがそれらの家臣らの心は握っておられる」


「悪戯に忠誠を試すような真似は致しませぬが、心を握るなど考えたこともございませぬ。ただ法度にて結びつけるばかりにございます」


 法度、と新九郎が呟いた。膝の脇に置いた扇へ手を伸ばし、要のあたりを親指で二度ばかり押した。


 そこでようやく茶碗を取り、一口飲んで戻した。


「諏訪大社の一件ですな。聞き及んでござる」


「若輩者が勢いに任せて行っただけのこと。ご放念ください」


「さて、その割に随分用意周到であったとも聞きますが。信濃の者を仕込んだとか」


「まさか、あの折信濃で治部に心を許すものなどおりませぬ。今も必死につなぎ留めておるばかりにて」


 新九郎が、ふうん、と唸った。


 北川殿の袖が少し動き、五郎の方へ顔が向いた。五郎も同じ顔をしていたかもしれない。

 いまの唸り方は、五郎自身の癖に近い。得心したのでもなく、疑ったのでもなく、聞いた話を一度置いておくときの音である。それを他人の口から聞くのは奇妙な心持ちだった。


 この調子で話を続ければ、父がいなくなった穴へ、この男を据えてしまいたくなる。


 五郎は膝の上で指を組み直し、話を移した。


「こちらよりも、北条殿の話を伺いたい」


「おお、何を話しましょうか」


「上杉については如何でしょう」


 新九郎の脇で、坊主の膝の位置が動いた。娘の方は、膝に置いていた手の指がわずかに開いた。


 関東のことは聞き及んでいた。

 碓氷や武蔵に入る商人や、小田原に入る商人からも話はあり、上杉らの目立った動きについてはおおよそのところ握っていた。

 特に、そのあたりについて、北条が隠したがっているであろうことも察している。


「上杉と申しますと、どちらの上杉でしょうかな」


「今をもってすれば、どちらの上杉と分ける必要はさして感じえませぬが、あえて申さば扇谷のほうでしょうかな」


「扇谷の何を話しましょうか。確かに某は江戸城を奪い取り申したが、中々に手ごわい相手でござった。おお、その折は援軍をかたじけなく」


「過去の戦話も聞きとうございます。されど、今はその手ごわい敵が本気になったと窺っておりますれば、先々の話をしたく」


 坊主が膝を一足前へ出した。何も言わない。衣擦れの音だけがした。

 新九郎はそちらへ一瞥をくれただけで、あとは五郎へ向き直った。


「今少し歓談を続けておきたい気持ちもござるが。なるほど事情を承知であればこそ、一つお伺いを立てたく」


 五郎は新九郎を見た。やはり父に似ている。

 似ていると思って見るから似るのかもしれない、とも思った。


「なんなりと」


「北条と今川の同盟、今をもっても変わりなきこと、確かでありましょうか」


 五郎はちらりと視線を感じ、娘の方を見た。


 おそらく新九郎の娘であろう。年は五郎とそう変わるまい。目鼻立ちがはっきりしていて、公家顔というより、気の強そうな武家顔である。美しい少女というより、美しい少年に近い。喪の座ではないので、袖の色は暗くない。


 父の口から、北条の従兄弟が娘を嫁がせたいと言っている、と聞いたのは去年の冬のことだった。あれから五郎は、その話を誰にも回していない。安房守は安房守で、別の方角を向いて動いている。


 哀れなことだと、その娘を思いつつ、五郎は口を開いた。


「変わりありませぬ」


 北川殿が息を吐き、数珠を持ち替えた。

 坊主の肩が下がった。娘は指を握り直したまま、五郎から視線を外さない。


「色々と事情が変わっておりますが、よろしいのですな」


 事情は確かに変わっている。力の釣り合いなど、もはや釣り合いと呼べるものではない。

 穀物だけで二百万石、市と港から入るものを石に直せば四百五十万石になると、安房守は言っていた。

 去年の暮れに聞いたときより、また増えている。矢作と天竜の普請が上がり、信濃と西三河の帳面が揃ったためである。動かせる兵の数を並べれば、比べるだけ無駄であった。


「北条は東に、こちらは西に。なにも変わってはおりませぬ。そちらの敵も変わってはいませぬ」


「確かに。されどそちらが申されかかったように、両上杉が関東勢を巻き込んでおりまする」


 新九郎は、ふいとどこかへ視線を投げた。庭でも軸でもない。

 しばらくそうしていてから、息を吐いた。日が回って、障子の桟の影が畳の縁まで来ている。


「総勢十万。それで攻めかかると諸方に脅しをかけておりまする」


 娘が唾を呑んだ。着物の膝の上で、両の手を握り合わせている。


「号して十万。その内情はいかばかりか」


「本気の上杉ならば不思議ではござらん」


「ですが烏合にございましょう」


 新九郎の目がわずかに開いた。

 坊主が顔を上げ、娘は身を乗り出しかけて止まった。


「今川としても、いまさら上杉に東を押さえられるはよろしゅうございませぬ。東は北条がよろしい」


 衣擦れの音がして、坊主が膝を元へ戻した。

 娘は握り合わせていた手をほどき、北川殿は数珠を袖の内へ入れた。


 そのままの姿勢でいるのは、五郎と新九郎だけだった。新九郎は膝の脇の扇に手を置いたきり、動かさない。


「御身は幕府から呼び出しがかかっておられるのではござらんか」


「動くなというものならばありますが、こちらは阿波の味方をするなというものにて」


「そのうちに助けに来いという文に変わりましょう」


 五郎は笑った。抑えるつもりが、声が出てしまった。

 新九郎の眉が寄った。


「如何された」


「いえ、失礼。父と同じことを申されたので」


 駄目だと思っていながら、やはり重ねている。五郎は小さく首を振った。


 一際強い視線を感じて顔を上げると、娘と目が合った。

 なぜかきっと睨まれた。よくあることなので気にはしない。この年頃の娘にはひどく嫌われる。


 五郎は内心で苦いものを感じつつ、襟を正した。首筋から溜まった汗が背に流れた。


「新九郎殿。改めて申し上げまする。北条と今川の盟は今後も変わりなく。京の騒乱、敵の大小にかかわりなく、今後も今川は約定に沿って力を尽くしまする」


 新九郎は何も言わなかった。しばらく五郎を見ていた。目を細め、何か思案していたが、ふっと息を吐いた。

 新九郎はわずかに力の抜けた顔をし、それから、まず頭を下げた。


「小細工を弄そうとしたことを詫び申す」


 十万という数を、先に出したくなかったのであろう。両上杉が関東の諸家を巻き込んでいることを、こちらが知る前に盟の話を済ませてしまいたかったのかもしれない。

 そのうえで言質を取るつもりであったとも取れる。


「いいえ、何もございませぬ。ただの同族同士の歓談にございましょう」


「今後とも同族として良しなに」


 新九郎が手を差し出した。

 五郎はそれを握った。厚く、乾いた手だった。


「ええ、御身は気に入らぬでしょうが、五郎はしばらく駿府におりますれば、良しなに」


 そっとつぶやくと、握られた手に力が入った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。