5章_7
大永六年四月、後柏原帝が崩御した。
京ではその日から、禁裏を中心に人の動きが慌ただしくなった。御葬送の支度だけでも、寺社、装束、供奉の人々と、決めねばならぬことが多い。
その後には御代替わりも控えている。いずれも人と物と銭を要した。
前の関白、二条尹房の邸にも、朝から使いが絶えなかった。
表門には朝から牛車がつき、取次の者が玄関と奥を往復していた。禁裏から来た者が帰らぬうちに近衛家から使いが入り、その返事を書かせているところへ寺社の者が来る。
正式に関白を譲ってかなりの月日が経っているが、摂関家の家格も相まってこの時ばかりは仕事ばかりが降ってきた。
四月も半ばに近く、昼になると庭の日なたには暖かさがあった。
築地に沿って咲いた山吹はすでに色を落とし始め、その上に楓の若葉が伸びている。だが奥の座敷では、障子を広く開けることもなかった。
前関白は、昼を少し過ぎたころに細川道永を迎えた。前々から決まっていた来訪であったが、世情も鑑みて一人で会うようなことはしない。この日その場に呼んだのは、中御門前大納言宣秀と正親町三条備前権守公兄の二人。
備前権守は参議であった折、御所の普請において道永と相対している。また前大納言は言わずと知れた治部太夫の親類でもある。そうした縁もあって、二人には事前に同席を頼んでいた。二人は遠慮したそうな素振りはあったものの、朝廷の一大事という事情もあり、きちんと刻限にはそろっていた。
その二人は前関白の左右より少し下がって坐り、道永の後ろには細川右馬頭が控えている。
座敷の端には、朝から届いた書付が幾束か置かれていた。返事の済んだものには細い紙紐が巻かれ、まだのものは低い机の上に積まれている。硯箱はその端へ押しやられていた。
今日の道永は墨染めの衣を着ている。出家してから以前より頬の肉が少し落ちたようだが、膝を折って坐る姿には衰えたところはなかった。管領を退いたのは事実であるが、とうの本人だけはその自覚がないようにすら思えた。
「この度は、道永殿にも随分とお骨折りを願っておりますな」
前関白が言うと、道永は両手を畳についた。
「何を仰せになります。先帝の御事にございます。出来ることは、こちらでもいたしましょう。近衛関白殿にも申しましたが、遠慮は無用にございますぞ」
前関白は膝に置いた扇へ指を添えた。知らず知らずに力が入り、爪が白くなった。
近衛関白には、すでに同じ話をしてある。その一言が頭に引っかかった。
前関白はあえて口には感情を載せず、穏やかに返した。
「そう仰せいただけると、何より心強い。いけませぬな。どうにもこのような時には情けなく、色々と聞いて回ってしまう次第にて」
「いやいや、それこそ摂家の方にございましょう。折においては気を回される故、滞りなく天下が回るというものにございます」
道永はもっともらしい顔で言った。
前関白も形だけ笑みを作った。前大納言も口もとをわずかにゆるめたが、備前権守は膝の上に手を置いたままだった。
公家のような嫌味を言う男だ。前関白は内心で吐き捨てる。
要は表に出過ぎるなという話である。
この数日、実際に方々へ使いを出していた。先帝のこととなれば、現関白の近衛家に任せておくだけでは済まない。二条家へ尋ねに来る者もいれば、こちらから確かめに行かなければならぬこともあった。
これはあくまで一時のことであることを忘れるな。そう言いたいのだろう。
前関白は扇を持ち直し、ふと思い出したように話を変えた。
「折と言えば、先の御修理でも、方々に随分と助けていただきました」
左様でしたな、と道永が頷く。前関白はそのまま踏み込んだ。
「侍従にも、あの折は随分と骨を折らせました」
道永の頬がわずかにゆるんだ。
それを見て少し前関白は安堵する。
「治部太夫は、ああいうことにはよく気がつきまする」
前関白はその呼び方については何も言わなかった。今は優先すべき事柄ではなかった。
「先帝も、たいそうお喜びでした。御宸翰をという話もございましたな」
「それは治部も喜びましょう。ただ、あれは若輩者ゆえ、大層に扱い過ぎるもよろしくございませぬ。ただ帝への尊崇ゆえ動いただけでございましょう。そっとしておくのがよろしいかと」
道永がピシャリといった。眼が揺れず、肩も動かない。
圧される空気を感じながらも、前関白は心配を装った。
「とはいえ、尊崇の志あればこそ、この度のことも、いずれ知らせてやらねばなりませんな」
道永の笑みが少し深くなった。
「おお、何という御心遣いにござるか。ぜひ、治部太夫へは、こちらから使いを立てましょう」
前関白の指が止まった。
「道永殿より」
「はい。御代替わりでもございます。それに、御奉仕のこともございましょう」
その言葉には、前大納言も備前権守も反応しなかった。
いま御奉仕と言えば、何を指すのかはおおよそ分かる。先帝の御葬送も、これからの御代替わりも、銭なしには進まない。今川には先の御修理でも助けられている。
前関白はすぐには返事をしなかった。
「されど、先帝の御事に、こちらから一言もなく済ませるというのも、いかがなものかと」
扇を開き、口もとにあてる。そうでなければ歪んだ口もとが露わになりそうだった。
道永は少し首を傾けた。
「一大事なればこそ、今は一つにまとめておく方がよろしいかと存じます。尊貴なる御方々が、あちらこちらへ軽々しく御声を掛けられることもございますまい」
「なるほど」
前関白は扇で口もとを隠したままである。唇を噛みながら思案した。
道永の言葉に筋は通っている。
同じ駿河へ、こちらからも幕府からも別々に使いを出すよりは、一つにまとめた方が早い。何を頼むかも重なることになるだろう。
もっともな話ではある。あるが、それをすればあの富強との縁は、幕府に絡めとられることにもなりうる。
ただ、そうはいっても、帝に関わる儀は滞りなく行うべきである以上、ここで道永と揉める愚を犯すのは悪手でもある。
では、どうするべきか。前関白は唇を強くかんだ。
座敷の外を人が通った。板敷を踏む音が近づき、襖の向こうで一度止まったが、取次は声を掛けずにまた遠ざかった。
前関白は机の上の書付へ目をやった。寺への寄進、大葬にまつわる品々の目録と銭のかかる話ばかりである。
これらは道永が来てからも、同様の紙が二枚増えている。
致し方なし。
近衛にも話が通っている以上、粘れぬ話である。
前関白は扇をたたみ、笑みを見せた。
「なるほど、道理にございますな。では、此度は道永殿にお願いするしかございませぬ。頼めますでしょうか」
「無論の事にございまする」
道永は深く頭を下げた。その剃られた頭が憎々しかった。
前関白が白湯に手を伸ばそうとすると、道永が続けた。
「さて、もしよろしければ、官位の礼についてもこちらでお預かりいたしましょうか」
前関白は手をひっこめた。
「はは、いえいえ。こうも時を同じくして用を申し付けてしまっては、あまりに心苦しゅうございますれば」
「左様でございますか。僭越にございました」
二人とも笑った。
道永はそれ以上言わず、前大納言も備前権守も口を挟まなかった。
女房が茶のお代わりを運んで来た。
盆を置いて膝を進め、一人ずつ湯呑みを据えて行く。道永の前に置くときだけ、女房はわずかに身体を遠くした。武家の客に馴れていないのかもしれなかった。右馬頭の分まで置き終わると、裾を乱さぬように後ろへ下がり、襖を閉じた。
道永は湯呑みを取り上げ、茶の色を確かめるように一度傾けてから口をつけた。
「なるほど駿河のものですな」
「お分かりになられますかな」
目ざとい男だと思いつつも、前関白はあえて聞いた。
「ええ、近頃はどこに行ってもこれが出て参ります。確かに味がよい。治部の趣味でしょうかな」
道永が湯呑みを置いた。
「しかし、治部も妙な男でございますな」
「と申されますと」
「茶もそうですが、銭も物も、頼まずともよく寄越しまする。されど本人は、一向に京へ姿を見せぬ」
「そういえば」
前関白は曖昧に頷いた。
確かに治部太夫本人には、まだ会ったことがなかった。だがそれはさほど珍しいことではない。この時勢、守護とはいえ軽々しく京を訪れ、公家や大樹に面会などできるはずがない。
ゆえに道永がなぜいまそれを持ち出したのかは分からない。
そこに備前権守が口を開いた。
「私が駿河へ参りました折にも、どうにも甲斐、三河と物々しいことが続いておりましたゆえ。守護という大任を果たそうと必死になればこそ、上洛できぬのではないでしょうか」
「確かに、その御言葉通りにございますな」
道永はあっさりと認めた。
「才気に甘んじて色々と押し付け過ぎたと言われれば、なるほど道永の不徳にござるな」
備前権守はそこで少し身体を引いた。
道永は笑ったまま、右の掌を膝に置いた。
「ただ、それにしても一度くらいは、と思わぬでもありませぬ。最後に兵を起こしてからもう半年以上経っておる故、ここいらで襟を正すのもよいのではないか。などと、この老人は考える次第にて」
右馬頭がわずかに身じろぎした。
「如何した、右馬頭」
「いえ。治部太夫殿がお見えになるのであれば、諏訪の件、ちょうどよいかと思いまして」
道永が低く唸った。
「ああ、あれか」
それから、座にいる公家たちへ軽く頭を下げた。
「失礼いたした。どうも家中の話を持ち込みましてな」
前大納言が軽く会釈し、備前権守もそれにならった。
前関白には諏訪と治部太夫が結びつかなかった。ただ、それでも何処か道永の言葉の端が気になり問うた。
「して、諏訪が如何された」
前関白がたずねると、道永は少し間を置いた。
「いえ、何。とある武家の当主が家中を引き締めようとしておるそうなのでござるが、少々行き過ぎのような気もしておりましてな」
道永は鼻の脇を指で撫でた。
右馬頭が先ほど治部太夫の名を出したことから、今川に関わる話らしいとは分かった。
こういう時はむやみに踏み込まない方が良い。
「昨今の世情を鑑みれば、多少は致し方ないのでは」
前関白が当たり障りのないところを答えると、道永は頷いた。
「でございましょうが、その行いが幕臣として折り目正しくないものとあらば、見過ごすのもよろしくございませぬ。みすみす過ちを犯すのを見送るは、大樹の臣としてあるまじき行いでもあります」
勢いよく飛び出した言葉に、前関白は鼻白みながらも相槌を打つ。
「それは、そうでしょうな」
「で、ございましょう。まあ、若い者ゆえ、機会があれば呼びつけて、道理に合わぬことをするなと申し付ける腹積もりにございます」
そこまで聞いて、前関白は笑った。
その程度であるならば、まず問題はないだろう。
「まあ、先の管領であられた道永殿から直々に薫陶を授かるとあらば、その当主も嫌がらぬのではないですかな」
「おお、賛同いただけるか」
返事が早かった。
前関白がわずかに眉を動かしたときには、道永はもう次の言葉を口にしていた。
「しからば、さっそく治部めを上洛させましょうぞ」
「それは」
「お気になさることはございませぬ。もともと治部を召すのは、いつか必要なことでございました。一度京を見て、奉仕する方々を目にすれば、帝への尊崇も一層篤くなりましょう」
前関白は言いかけた口を閉じた。
若い武家の当主を呼んで道理を教えるなら悪くない、と言っただけである。それがいつの間にか、自分まで治部太夫の上洛に賛成したような話になっている。
道永は平然と坐っていた。
前関白は扇を開き、口もとを隠した。そして唇をかんだ。
うまく拾われたことは面白くなかった。
だが、治部太夫が京へ来ることまで嫌う理由はない。
侍従であり、昇殿を許された身でもある。先の御修理では朝廷もその奉仕を受けている。
大樹に召されて都まで来ながら、そのまま駿河へ帰られては、こちらとしても具合が悪かった。
しばらくして前関白は扇を畳んだ。そこにはすでに笑みがある。
「なるほど。それは治部太夫にとっても、よいことでございましょうな」
「そう思いましょう」
「侍従も、御代替わりに都へ参って、御所をそのまま通り過ぎるようなことはなさりますまい」
道永がしみじみと頷く。
「それは無論。大樹へ御目通りした後、御拝賀にも参らせましょう。その折は必ず五か国の太守として朝廷に奉仕いたしましょう」
「それならば何よりです」
前関白は短く答えた。
道永はそこで前大納言の方へ少し身体を向けた。見れば前大納言はどこか不安げな顔をしていた。
「無論、そう長く留めることもございませぬ。ただ然るべきところに顔を見せ、済ませることを済ませれば駿河へ戻せばよい。堺から船に乗れば、すぐに帰れましょう」
前大納言は膝の上に重ねていた手を組み直した。眉根は寄り、言葉を選んでいるようにも感じられる。
ほんの僅かな間、息を小さく吐いた。
「道永殿の御心遣い。治部も感謝いたしましょう。今川の衆も、さほど不安なく送り出せることでしょう」
「無論、今川の御子を粗略になど扱いませぬぞ。家中に無事にお返しいたしましょう」
前関白はそれを聞いて吐息が漏れた。かすかな笑いであった。
「いえ、失礼。武勇の大将と聞いておりましたが、御家中ではまだ子供扱いにございますな。いえ、追い出されるよりもずっと良いことにございましょうが」
「おお、なにやら道永めを責めておられまするか」
道永が眉を上げた。前関白は首を振った。
「軍勢を率い、より大きくなって戻ってこられた方が何を申されるか。今となっては御身の権勢を示す良い機会だったのではと、いっそすべて御身の企みかなどと噂する者もおるほどでございます」
「これは失敬を」
道永が殊勝そうに頭を下げ、堪えきれずに肩を揺らした。前関白、右馬頭も口角を上げた。
ただ前大納言、備前権守は形だけ口もとを緩めるに留まっている。
少しばかり棘はあったが、この座で腹を立てるような話ではない。
管領を退き、髪をおろした後も道永の勢いが衰えていないことなど、本人が一番よく知っている。
笑いが収まるのを待って、右馬頭が膝を進めた。
「して、御目通りの折、供の者は如何いたしましょう」
道永はすぐには答えず、膝の前の湯呑みに手を伸ばした。指先が触れたところで、飲まずに手を戻した。
「そうさな。まずは治部に任せればよい。こちらからは申し付けぬこととしよう。ただ、あくまで五か国の守護に相応しき陣容で、とだけ言付けるようにせよ」
「そうなれば相応の人数にはなりましょうが」
「五国を預かる者に、供を十人二十人で来いとも申せまい。家の面目もあろう」
「左様にございますな」
右馬頭は一礼すると、それ以上たずねなかった。
人数を決める必要もないらしい。確かに今川は先々代の折、上洛もしている。書を紐解けば多少は勝手がわかるだろうと見ているのだろう。
だが、そうなると少しは話が異なる。
「格式は重要にございます。されど、此度はことがことでございます。都へ入る折だけ、あまり賑やかになさらぬよう願えれば」
「そこはこちらで申し含めまする。決して朝廷を騒がせることは許さず、ただ武家として筋を通すことのみを心掛けよと」
「なるほど、それならば」
前関白は頷いた。
道中の供まで減らせと言うつもりはない。五国を預かるほどの家ならば、相応の人数も必要だろう。貢物のことも考えれば、それ相応の数となる。
ただ先帝が崩御して間もない都へ、兵威を示すような入り方をされては困るのも実情だ。
話が一段落すると道永が茶を口にした。前関白も湯呑みに口を運んだ。冷えていたが風味は落ちていなかった。
茶を飲み終えた道永が、ふと切り出した。
「こうしてみると、治部には随分と働いてもらうことになりますな」
確かにそうだが、武家には動いてもらわねば困る。
「若い者には働いていただかねば」
その言葉に道永が首をひねる。
「でありますが、先帝への御奉仕に、上洛、大樹への御目通り、御拝賀までございます」
「道永殿」
前関白は口を挟んだ。
「宮中も、若い者の働きを見ておらぬほど薄情ではございませぬよ」
道永は顎を撫でる。こちらの意図を読み取ったとばかりにまた頷く。
「なるほど。それは、治部には覿面でございましょう。感涙し、公家の方々の前でひれ伏しましょうな」
「まだ何も申しておりませぬ」
前関白は苦笑した。また茶を飲み、目を細めた。
「それに侍従は今年で確か十五。重いものを背負わせても酷というものにございましょう」
「左様にございますな。修行中の身には、相応しき扱いがございます。侍従、治部太夫だけでも過分として受け取らねば」
「道永殿。まだ何も、こなたは申しておりませぬ」
「これは失敬を」
道永はすぐに頭を下げた。
前大納言、備前権守は口の端に苦みを見せている。
前関白は二人を一度見てから、道永へ戻った。
「ただ、その心掛け次第では、帝からお褒めの言葉を賜るやもしれませぬな」
「なんと勿体ない」
道永はもう一度頭を下げた。道永と右馬頭が肩を揺らした。
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それからひと月ほどして、幕府の使者が駿府へ下って来た。
使者は大館伊予守尚氏だった。将軍の申次を勤める幕臣で、五郎も名は知っている。
わざわざ伊予守ほどの者を下して来たことにわずかに五郎は陰鬱さを覚えた。常であればこのような男の一門などが下向する程度である。
おそらくであるが、ただ文を渡して帰るだけの用ではあるまいと思った。
謁見には、駿府にいる主だった者を出させた。
庵原安房守、葛山中務少輔氏広、関口彦三郎、承菊、小笠原正安入道。そのほか、遠江、甲斐、信濃から駿府へ出て来ている者も広間に並んだ。人数が多く、末席は次の間にまで続いている。
いまの五郎には、それほど珍しい光景でもない。
だが、伊予守が広間に入って来た時、並んでいる者たちをひと通り見たこと、そしてその眉が跳ねたことには気づいた。
駿河の宿老の後ろに遠江の者が座り、武田に仕えていた甲斐の武士がいる。少し離れたところにはかつての信濃守護、小笠原正安入道がおり、その先には信濃から来た者もいる。数年前までなら、一つの館に集まったとしても、同じ主に仕える者として並ぶことはなかった顔触れである。
五郎は伊予守に上座を譲った。
公方の使者である。それを今川の館だからと下に置く理由はなかった。伊予守もそれを当然とし、遠慮するところはない。
互いに型通りの礼を済ませると、伊予守の供が下がった。広間には今川の家臣が残り、伊予守の後ろには近習が二人控えた。
おそらく、この会談には意味がない。五郎は襟を正しながらそう思った。
先帝が崩御してから、すでにひと月ほど経っている。京からの知らせも、それまでにいくつか届いていたのだ。
「先の一件、京では大層な噂になっておりまする」
伊予守が言った。穏やかだが耳に響く声である。
「いえ、待ちかねていたように捉えられぬかと案じておりました」
「まさかそのような」
五郎は、それならよかった、とばかりに軽く頭を下げた。
先帝崩御の知らせは、公家から正式な文が来るよりも、京にいる商人からの方が早かった。
知らせを聞いてすぐ、五郎は堺の革屋へ文を出している。
念のため、常日頃積み上げていた銭から千貫を出し、大葬の費用として朝廷へ届けること。絹も何反か添えること。幕府へも百貫ほど出しておくことを命じた。
駿府から銭を送るわけではないから早い。堺に置いてある銭を渡せばよく、急がせるのは文だけで済んだ。伝馬を継がせ、途中では船も使わせたから、四月の末には京へ届いていたのではないかと思う。
あとになって、少し早すぎたかとは考えた。
帝が亡くなったという知らせが届くや、千貫の銭が出て来たのである。知らぬ者から見れば、前もって待っていたようにも取れる。穿った見方をすれば、名を売る機会と構えていたようにも取れる。
五郎の言い分としては、単に帝の体調不良が耳に入った時から、年を考え大葬と即位式に使う銭を積み立てて予算を組んでいただけだ。
不敬な考え方かもしれないが、夏場など遺体が痛むことも考慮すれば、こういうのは早い方が良い。
まさにそれだけだった。
「まさしく朝廷を支える武家の有り様と謳っておられまする」
「左様でございますか。父母の顔をつぶさず安堵しております」
氏親も北川殿も、京、朝廷との付き合いを粗末にしたことはない。心からの尊崇の念があったかは態々聞かないことである。ただ、その子が先帝の大葬で銭を惜しんだと見られなかったのなら、今は十分だった。
伊予守はそれにうなずき、少し間を置いた。
「して、上洛はいつ頃になりましょうか」
広間で衣擦れの音が重なった。
大きな声を出した者はいない。だが、安房守の後ろにいた者が姿勢を変え、それにつられるように遠江衆や甲斐衆にも動く者が出た。
五郎が上洛に対してどのような考えを持っているか、今部屋につめている人間ならば凡そ察している。
つまりこれからのことも察しているのだろう。
五郎がそちらへ目をやると、ほどなく静まった。
「失礼を」
「は、いえ、治部殿はまこと家中を良く治めておられる。これならば上洛も容易かろうと、某も安堵いたしましたぞ」
五郎はまず言葉を発した。
「その義、お答えできませぬ」
今度は、広間は静かなままだった。
伊予守もすぐには口を開かなかった。先ほど家臣が動いたことより、この返事の方が意外だったらしい。
伊予守はかすかに唾をのんだ。
「治部殿、これは断れる筋ではございませぬ。前管領道永様、前関白の二条様たっての願いでございますし。なにより御身が申し開きせねばならぬことがございましょう」
「お二方の希望に添えぬことは恥じ入るばかりにございます」
「ならば」
「されど申し開きせねばならぬことはございませぬ」
伊予守の返事が止まった。唖然とした様子である。
五郎は待った。こちらから言うべきことはもうなかった。その様子に伊予守は目を吊り上げた。
「諏訪大社での一件、知らぬと思うてのことでしょうか」
「条項の何が気に障ったか存じ上げかねますが、それを踏まえても治部が申し開きすることはございませぬ」
「不敬に」
「恐れながら」
しゃがれた声。見れば安房守だった。
五郎の右手に座っていた安房守が、まずこちらに一礼してから伊予守へ向き直った。
「不敬と申されたが、それは御両所のどちらに対してでございましょうか」
「無論、先に上げたお二方にとっても不敬にござろう」
それはおかしい、と安房守が年寄じみた動きで髭を撫でつけた。
「公家の御方々におかれては大層喜ばれておられると耳にしております。治部太夫が不敬と言われるのであれば、他の方々がどのように忠勤に励んでおられるか是非にお教えいただきたく」
「それは」
伊予守が言葉に詰まった。安房守は何も足さなかった。
大葬に出した千貫のこと、禁裏修理の三千貫のことを言っているのである。五郎がこれらの儀礼に要する銭の大半を出しているため、公家らが諸国を行脚して銭を無心したなどという話は聞いていない。
細川道永などが骨を折ったという話もだ。
「安房守」
「は」
五郎が言うと安房守はすぐに引いた。
「使者様。無作法をいたしましたことお許しあれ」
頭を下げると、それきり口を閉じた。
言うべきことは既に述べ、必要なものは既に出している。礼節においても現状許される限りは示している。諏訪大社でのやり取りも文を出し、了承すら貰っている。
「使者殿。態々口に出したくないことゆえ、甘えてしまいましたが、知っての通り家中で差し引きならぬ事情がある。だが、治部は駿府より御心を伝えているつもりである。ご理解いただけるか」
「こ、こちらも言葉が過ぎました。されど」
「上洛についてはご容赦いただきたい」
五郎は三度礼をした。
伊予守からすぐに返事はなかった。目に力が入り、そして抜け、手が開閉されていた。明らかに言葉を探している。
今はこれ以上、同じ話を続けても仕方がない。五郎は立ち上がった。
広間の者たちは座ったまま道を空けた。上座から出口までは人の間を通ることになるが、近くに座っていた者が身体を引けば十分だった。
安房守の横を過ぎ、中務少輔の前へ差しかかったところで、背後から声が来た。
「道永様は諏訪大社での一件、御怒りでございますぞ。上洛し御寛恕を請うべきではござらんか」
五郎の足が止まる。
御寛恕。
その言葉が気にかかった。
振り返ると、伊予守はまだ上座にいた。五郎が退出しかけたため、少し身を乗り出した形になっている。
「ゆえあってのことゆえ、ご放念いただきたい」
「そのような言葉で」
「今までの忠勤で納得されぬか」
伊予守は口を結んだ。喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
五郎はその言葉が出てくるのをただじっと待った。だが伊予守はなお何も言わなかった。
「左様か」
五郎は安房守に視線をやる。安房守はこちらを見返し頷いた。
次に承菊へ目を移す。承菊は最初から話を聞いていたが、ここで初めて自分に用が回って来たと分かったらしい。膝の上に置いていた数珠を手に取った。
酷く嫌そうな顔をしている。この男は権高い人間と口を利くのをどこか厭う。五郎の知ったことではないが。
黙って見続けていると、承菊は数珠を一つ繰ってから、仕方がないというように頭を下げた。
「では上洛の日取りについては二人に頼む」
視界の端で伊予守がほっと胸をなでおろしていた。その近習は一層の安堵を覚えていたようである。
その様子を見て、五郎は少しの申し訳なさを覚えた。
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書院を出た五郎は、そのまま自室へは戻らず、館をぐるりと回って離れに入った。
いつぞや蟄居を申しつけられたとき、一年をすごした建物である。六畳ひと間に納戸がついているきりで、板葺きの屋根は苔が浮き、踏石のあいだから枯れた草が伸びていた。あのころのままで、繕いも入れさせていない。近習には、呼ぶまで誰も寄こすなと言いつけてある。障子を閉めると、庭を掃く音が急に遠くなった。
運ばせておいた文箱をひろげ、返しておかねばならぬ書状に手をつけた。三河の代官からの伺い、遠江の寺への安堵状の下書き。書けば書くだけ増える類のもので、片づいたという気の起こることがない。墨が薄くなったので水滴からひとしずく落としてすり直すうち、指の腹が黒くなり、袖口にも点が飛んだ。程よいところで筆を置き、文机を膝の脇へ押しやった。
入れ替わりに、壁へ立てかけてあった画板を膝の前へ据える。描きかけの龍だった。雲の切れ目から胴を半ばのぞかせ、前肢の爪が岩の角をつかんでいる。幾度目かの手直しで、鱗は一枚ずつ濃淡を分け、鬣の乱れ、爪のかかりぐあいまで詰めてある。残っているのは目だけだった。
五郎は面相筆を選び、穂先をととのえて墨を含ませた。
さあ、やるぞと心を込めてみても、そこから筆が動かない。目を入れた瞬間、これは作になる。形を成し、名を与えられる。それがどうにも億劫だった。筆を持ったまま膝を崩し、また直し、膠の匂いのする紙をながめているうちに、どれほど経ったものか。
傍らに人の気配があるのに気づいて、五郎は顔をあげた。
いつのまに開けられたものか、障子が半分ほど引かれて、敷居のうちに祖母の北川殿が立っている。打掛の裾を片手で押さえた立ち姿で、履物は縁の下に揃えてあった。その後ろに、弟の芳菊丸がひかえている。ほかには誰もいない。
「隙を見せすぎです。一家の当主ともあれば、居眠りひとつできぬと知りなさい」
五郎は筆を筆架に置き、膝を回して敷居の方へ向き直った。人払いをしたのはこちらだが、それにしてもこの二人が、供の一人も連れずに屋敷の裏を歩いてくるという法があるものか。
「無用心を責めるのであれば、こちらでございましょう。大御台と今川の若君が二人でこのような場所に来られては困ります」
「当主がそれを申しますか」
北川殿は息を吐き、裾をさばいて一歩だけ内に入った。座る気配はない。後ろで芳菊丸が、笑いを噛み殺したような顔で下を向いている。
「幕府の使者殿を随分手荒く扱いなされましたね。上洛しても良いと修理大夫も申していたでしょうに。良い機会だったのではないですか」
つい先ほど顔を突き合わせていた大館伊予守のことである。隠してはいないが、さすがに耳が早い。
「上洛の日取りについて話している最中でございます。断ってはおりませぬ」
「詭弁でしょう。庵原の二人に煙に巻かれて追い返されましたよ。して、なぜです」
五郎は指先の墨を懐紙で拭い、その手で眉間を揉んだ。長く同じ姿勢でいたので、膝の裏が固くなっている。
「率直に言えば、今の道永殿と二条に近づいても、意味がないでしょう」
芳菊丸が敷居をまたぎ、膝行して前へ出た。
袴の裾を膝の下へきちんと折り込み、両手を腿の上に置いて背を伸ばす。まだ声変わりのしていない喉が、ひとつ動いた。
「御屋形様がそう思われる理由は何でしょうか。お二人とも役職はひかれましたが、まだ京で力はございます。恩を売る利はあるように思えます」
「その前に、芳菊丸。以前の題は見つかったか」
芳菊丸が頷く。その頭のうしろで、北川殿の袖がわずかに動いた。
「なんです、いらぬことを教えておるのではないでしょうね」
「違いまする。御屋形様に以前ご教授いただいた折、上洛に適した時とは何か考えるように、題を預かったのです」
北川殿が何か言い出す前に、五郎は先を促した。
「して、答えは」
芳菊丸は膝の上の手を握り直し、いっそう背筋を伸ばして、声を潜めた。
「京の大半が燃えたときかと」
北川殿が目を見開いた。
「なぜそう思う」
「正安入道殿や承菊殿にも話を聞いたところ、やはり人が何かにすがるときは膝をついたときと知り申した。どれだけ内心見下している相手でも、全てが燃えた、明日も知れなくなった時、膝をついて手を合わせると」
「題は言うなと申したが」
「見下している相手、気に入らぬ相手に縋るときはどんなときか、そう問うたまでにございます」
詭弁であるが、相手は選んでいる。五郎は弟の小さなつむじを見て頷いた。
「両者とも甲斐を思ったか」
芳菊丸が頷いた。察するに話にのぼったようだ。
やはり、承菊と芳菊丸は合わせない方が良い。悪い影響が出ているではないか。
「芳菊丸、そのように、都を」
叱る声で北川殿が半歩踏み出すのを、五郎は片手をあげて制した。上げた手をそのまま下ろさずにおくと、北川殿の目がきっとこちらへ向く。五郎は引かなかった。
目を細め視線を絡み合わせていたが、先に目を逸らしたのは北川殿である。裾を直し、絵の脇まで来て、そこでようやく立ったまま袖を組んだ。
まずは良い、と五郎は祖母の枯れ木のような手を見送った。
「芳菊丸。その見立ては治部の意にあっている。であれば、今、上洛せぬ理由は何か」
「大火に巻き込まれるからでしょうか」
芳菊丸は、そこで大病の父を案じて、などとは言わなかった。弟としてはまるで可愛げがないが、これでよいのだろう。
五郎は頷き、置いた筆を取り上げて、穂先を指で撫でつけた。
「確かに前管領殿の事情はよろしくない。阿波とはもはや弓矢を交えねば落ち着かぬ。家中も佞臣だらけだと聞く。あまり関係は深くしたくない」
「ならば、そなたが火を消してやればよいではないですか」
北川殿の声が、組んでいた袖をほどくのと一緒に尖った。五郎は筆の穂先から指を離した。擦った墨の匂いが鼻腔をくすぐる。
「治部如きに消せる火ではございますまい」
「これだけの家を作った男が、何を申されるか」
北川殿はなおも言い募った。京で生まれ育った女である。今川の家格を上げようという意図はあるが、それ以上の部分もあるのかもしれなかった。
「確かに、謙遜が過ぎましたな」
「では」
と北川殿が言いかけた。
「京を崩してよいのであれば、如何なる大火も消せましょう」
北川殿が黙った。五郎は画板を膝の上で少し回した。日が傾いたとみえて、龍の胴のあたりに、障子の桟の影が斜めにかかっている。
龍が飛びたがっている。
ふとそう感じた。
「結局、粗忽者の龍王丸のやることにございます。綺麗には終わりませぬ。消せぬ悪名を背負うぐらいならば、一歩引いた方がよろしい」
「今は治部太夫。五か国を法度にて治める太守でありましょう」
「知っての通り中身は変わっておりませぬゆえ。人の上に立つなど、とてもとても。法で縛り、家臣らに見張ってもらい、やっとのことにて回しております」
先ほどから膝の上で指を折り、低く唸っていた芳菊丸が、ふと顔をあげた。
「御屋形様が上洛せぬ理由は少しわかりました。しかし道永殿は承知されるでしょうか」
「なさらぬ」
「良いのでしょうか」
「今川の状況は既にお伝えしている。条項の内々、父の容態とともに伝え、それでも上洛せよと申さば」
五郎はそこで、手に持っていた筆で龍に目を入れた。筆は勝手に動いていた。
龍だ。龍の上で筆が動き、目を描きいれた。
「是非もなし」
北川殿が、かすれる声で言った。
「京はすでに、そなたが頭を下げに来るつもりでおります。この流れに背くは厳しゅうございますぞ。今まで恩を売った細川も、裏切られたと憎むやもしれませぬ」
「すでに申した通りにございます」
信濃、三河、甲斐、遠江。これらを実効支配するうえで、幕府からの守護職は確かにそこそこ役に立った。あれば助かるとして、五郎も京と縁をつなごうとしたのである。だが今をもっては、その縁こそが邪魔になりつつあった。
国を固める法度に文句をつけ、五郎を一大事に国元から離そうとする。
「勝手にございますね。名を売り、期待させておいて、手のひらを返すとは」
「これらは幼き日の手習いでございました」
北川殿が短く息を吐いた。身に覚えがあるようだった。
袖を下ろし、絵から離れて、押しやってある文机の前まで出てくる。
「熟慮の上であるならば、これ以上は申しませぬ」
言うなり、北川殿はそこへ膝を折った。片手を畳につき、体をあずけるようにして腰を下ろし、それから両手を前へ揃えて、深く頭を下げた。
白いものの混じった髪の生え際と、襟の後ろがあらわになる。芳菊丸が目をむいて、身をよじるように祖母の方へ向き直った。峻厳な祖母のこのような姿は、見たことがないようだった。
「今川家のこと、どうかお願い致します」
「必ずや」




