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5章_6

 大永六年の正月、松平七郎は駿府に入った。


 安祥を発ったころには、海道にはまだ年越しの荷が残っていた。岡崎から東へ進むにつれて荷駄の数は増え、遠江に入ると、米俵を積んだ馬や木綿を運ぶ荷車が、ところどころで道を塞ぐほどだった。その間を、駿河へ年賀に向かう武士の一行が通って行く。駿府に近づくころには、道の両側に人家が切れ目なく続いた。


 七郎は以前にも駿河へ来ている。それでも、来るたびに町が大きくなっているような気がした。海道から脇へ入る道には新しい蔵が建ち、店先には甲斐の紙や生糸、遠江から来た木綿、西三河の味噌樽まで置かれている。正月だというのに、荷を担ぐ者や馬を曳く者の声が絶えなかった。


 安祥もこの一年でずいぶん変わった。岡崎から米が入り、城下には蔵が建った。鍛冶や馬具師が集まり、矢作川の普請が始まってからは、人足と荷駄が朝から晩まで往来している。市へ来る商人も増えた。だが駿府へ来ると、その安祥の賑わいもまだ小さいものに思えた。


 今川館の近くはさらに混んでいた。年賀のために参府した国人、寺社の使僧、商人が門前に集まり、その供回りが道の両側へ長く延びている。甲斐衆もいれば遠江衆もいる。見覚えのない信濃の武士もいた。三河から来た者は七郎を見つけると、次々に近寄って来た。


「七郎殿」


「これは安祥殿」


 七郎は小さく礼を返しながら歩を進めた。

 既に安祥殿と呼ばれることにも、いつの間にか慣れた。去年の今ごろ、七郎はまだ西郷を名乗っていた。父は次郎三郎清康と争い、家は滅びかけ、自分もどこで年を越すことになるのか知れたものではなかった。それがいまは松平を名乗り、安祥城を預けられている。

 それどころか妻を迎え、今川領内であればどこに行っても下に置かぬ扱いをされる。これは望外なことである。


 館へ入ってからも挨拶は続いた。広間へ通されて、七郎は少し意外に思った。三河から来た者だからといって、末座へまとめられてはいなかったのである。

 

 上座には今川一門、その下に宿老や有力な城将、奉行が並んでいる。しかし駿河、遠江、甲斐、三河という具合に国ごとに順がついているわけではない。どこの生まれであるかより、いま何を預けられているかの方が重いらしかった。


 七郎の席は、自分で考えていたよりずっと上だった。ふっと目をやればすぐ隣の上座には今川の譜代、その中でも大身の者や今川の血をひく者らがいる。最初は何かの間違いかと思ったほどである。

 ただ周囲を見渡し納得もした。席は名だけを重視したものではない。一門、重臣は尊重されるが、そのうえで重責を担う者も丁重に扱われる。

 現に七郎は五郎から安祥を預けられ、矢作川の普請では西三河の者どもとの間を取り持っている。


 少し離れて、知己である酒井左衛門尉や石川安芸守ら西三河の者が坐っていた。


 彼らの立場は三河の歴史の中で一様ではない。早くから次郎三郎に従った家もあれば、最後まで成り行きを見て家を保った者もいた。次郎三郎が死んだからといって、去年までのことがなくなるわけではない。それでもいまは、皆が同じ広間で今川の膳に向かっている。

 各々穏やかに話しているあたり、火種は念入りに消されているように思えた。


 しばらくして着飾った女中らが膳を運んできた。

 正月の膳は、七郎が見慣れたものとは違った。朱塗りの膳に飯と汁が置かれ、焼いた鯛、鳥、鮑、海藻を煮たもの、酢で締めた魚が並んでいる。そのほかにも小皿がいくつもあり、何から箸をつけたものか少し迷った。給仕の者も多く、広間の縁側に控えて膳の進みを見ながら酒を運び、空いた器を下げて行く。あれだけの人数を相手にしているのに、ほとんど滞りがない。


 正式の膳が一通り済むころには、座も少し崩れた。

 盃を手に旧知の者のところへ移る者が出はじめ、給仕も膳を下げ、酒と肴を中心に運ぶようになった。

 

 そのころになって、左衛門尉と安芸守が、別々に七郎の近くへ来た。

 左衛門尉は途中で二度ほど呼び止められ、そのたびに盃を受けながら進んで来た。安芸守はそれより静かで、知己に短く挨拶をしながら座を移って来る。


 気がつけば、二人とも七郎の近くに腰を落ち着けていた。西三河の者が何人か、こちらへ眼を向けている。

 七郎は気づいたが、何も言わなかった。


「とんでもない宴席でございますな。膳の物も多く、どれから食すか悩んでしまい申した」


 左衛門尉が言った。頬に少し酒の色が出ている。


「左様。駿河ではこのようなものが膳に上るのですな」


 安芸守は、まだ下げられずにいる小皿を眺めた。

 七郎は少し苦笑した。


「さて、どうでしょうな。御屋形様とも普請の折、膳を供にしましたが、むしろ質素なものでありました。飯は麦を混ぜておりましたし、鯛などではなく小魚でしたな」


 左衛門尉が頷く。


「まあ、あの方はそうでしょうが」

  

 安芸守も頬を緩めた。

 

「左様で。御曹司というより、御大将という方でありますゆえ」


「確かに七郎めも同感ですが、まあ、こうしてみれば御曹司でもありましょう」


 七郎は上座へ眼を移した。

 

 五郎は一門や弟妹、宿老らに囲まれて、静かに膳を使っていた。

 話しかけられれば応じている。弟が何か言えば身体をそちらへ向けるし、老臣が近寄れば箸を休めて聞いている。だが、自分から座を賑わせることはない。


 普請場で会うときとは違った。


 外で話せば、案外に話しやすい。人足の近くに腰を下ろして麦飯を食いながら、川の深さや荷車の数を尋ねていることさえある。

 しかし、ああして館の上座にいると違って見えた。坐っている場所と、周囲にいる者が違うだけである。それでも今川家の当主というものが、そこに形を取っているように思えた。


「外で話すと存外話せるのですが、確かに場が整うと目立ちますな」


「いや、先だって大社で誓紙を交わした時など、あれ以上でございました」


 七郎のつぶやきに安芸守が応じると、三人は少し身を寄せた。

 興味深そうに左衛門尉が目を僅かに見開いた。


「ほう、安芸守殿はあの場におられたか」


「おりました。阿るつもりはござらんが、ぐっと圧される気はしました。ただ、安堵も少々覚え申した」


 確かにそれは七郎も感じたことだった。


「そこは某もわかり申す。少しほっと致しました」


 七郎が頷くと、左衛門尉が顎に手を当てた。蓄えた顎髭をいじり、眉間に皺を寄せている。


「安堵と申されたが、とてつもなく苛烈な条項でござろう。それがしなど、時を置いて七郎殿や御屋形様から文を貰っておらねば、納得しづらいものであり申した。それをあの場で聞いて安堵したとは、安芸守殿も豪胆でござるな」


「あの場で初めて知ったわけではござらん。御屋形様は、あの場に出る安芸守のごとき皮肉屋には前もって文を回しておりました。内密にせよ、されど堪忍せよと」


 安芸守は口角を上げ、盃を膳へ置いた。

 左衛門尉は首をひねり唸った。


「それで文の内容と相違のない法度であったので安堵したと」


「それもありますが。一番は御屋形様の物言いでしょうな」


「物言いと申されたが、厳格な法度などどういっても、」


 安芸守は首を横に振った。


「いえ、なんと申しますか。そうですな、あの方は切ると申された方は切るのでしょうが、守ると申されたことは守られるのだなと、腑に落ち申した。ゆえ、恣意的に国衆の土地を取らんと申されたからには、取らんのでしょう」


 そこで七郎も口を挟んだ。


「某も同感にございます。内容自体は既に知っておりましたゆえ、驚きはあり申さぬ。ただ、あの場で御屋形様の言葉を聞いておる内に、この法度を御屋形様ご自身が恣意的にゆがめることはあるまいと、呑気に思うた次第でござる」


 左衛門尉は、七郎と安芸守を順に眺めた。


「二人とも、ずいぶん信用なされる。特に七郎殿など古くからの一門のようにござるぞ」


 七郎は頭をかいた。


「左衛門尉殿の申される通り。されど、御屋形様を信用せねば、国境の安祥など預かれませぬ」


 七郎が笑いながらそう言うと、左衛門尉はふっと口もとをゆるめた。それから盃を干し、また自分で酒を足し、声を少し落とした。


「話は変わり申すが、法度の件、そこまで根回しを行うということは、御屋形様の意思は固いということでござろうか」


「左衛門尉殿が申されるのは、どの部分であろうか」


 安芸守が言うと、左衛門尉は顔を上げ周囲を見渡した。どの席もすでに銘々に固まり、勝手気ままに話している。西三河の三人に気を払う者はいない。

 

「幕府や寺社と争うという件にござる。後で回された文にはあり申さぬが、大社ではそのような言が藤沢何某との問答で出たと」


「それはさすがに言葉が過ぎましょう」


 安芸守がすっと答えた。


「場合によっては今川家が寺社、公方様と今川の家臣の間に立つ。不当な命には従わぬ、従わせぬ。その程度の意味と取るべきではないかと愚考いたす」


 左衛門尉はまた眉を寄せた。


「だが、幕府や寺社が、御屋形様を相手にさがるかな。そしてそうなったとき、それらは今川家中に弓ひく。そうなれば御屋形様は受けて立つ」


 左衛門尉は言い切った後盃を膳に戻した。それから視線を広間の向こうの一席にやった。

 そこには幕府から来た使者の席があった。衣冠を着けた公家ほど目立ちはしないが、その周囲だけは駿河の武士たちもいくらか遠慮している。使者本人は、近くの者と穏やかに言葉を交わしながら酒を飲んでいた。


 安芸守も視線をやり、ふと呟いた。


「確かに此度は幕府の使者殿もいらっしゃっておりますな。先の大社で告知された法度の件、どう見ておられるのでしょうか」


「さて、面白くはないでしょう。内々で法度の改定を考えていても不思議ではござらん」


 七郎が答えると、安芸守が短く言った。


「なさると思われるか。あの御屋形様が」


 左衛門尉、安芸守ともに今度は顔を顰めた。

 七郎は短く息を吐いた。踏ん張りどころと気を入れた。


「幕府や大樹が今川とその家中に(いたず)らに弓ひかねば良い。御屋形様はそう返しなさるでしょうな」


「それで幕府方は納得なさるだろうか」


 そう言った左衛門尉はなお納得しきれぬ顔だった。


「それは七郎めにはわかりかね申す。ただ、以前御屋形様にご教授いただいた範疇では、まず大事にはなりますまい」


「というと」


 ぐっと二人が前に出た。七郎は手を出してそれを押しとどめた後、声を一段と落とした。


「阿波の細川方はいまだ先の管領の道永様に服しておりませぬ。大内もまた、道永様のためにもはや兵を出す家ではございますまい。そこへ御屋形様まで敵に加える余裕が京にあるとは、某には思えませぬ」


 細川道永の力の源、その一端は堺にある。

 (いたず)らに今川を敵に回せば、東海道からの荷が止まる。これは道永にとっては今絶対に避けたいことのはずだ。


 そこまで言うと、左衛門尉はようやく少し安心したらしく、盃を持ち直した。


「ならば、まずは宥めに来るか。猫なで声で懐柔しようとなさる。失敗しても、そう強くは出て来ぬように思えるが」


「いや」


 今度は安芸守が割って入った。七郎の言葉で安堵した左衛門尉とは対照的に、眉間を一層寄せている。


「逆に強硬に出るやもしれぬ」


「と申しますと」


 七郎が尋ねると、安芸守はまた幕府方の席に目をやった。


「御屋形様の怖さは、会わぬと分からないものでござる。直に肌で感じてようやっと実感するものを、京にいて書状ばかり読んでいては首を傾げるばかりにござろう。おそらく、道永様などは若い当主にしか見ておられぬ。先代と重臣が後ろから動かしておると思う者がいても、不思議ではござるまい」


「それは言葉が過ぎるのでは。御屋形様は相当戦にも強い。これを見くびるなど」


 七郎が苦笑すると、安芸守は身体を七郎の方へ向けた。その目に稚気はなかった。

 指でついと幕府方を指し、苦い顔をした。


「見くびっておらねば、あんな聞かぬ名の若輩を送り付けて来ますかな」


 それには七郎もすぐには返さなかった。左衛門尉が盃を手にしたまま、低く唸った。

 正月という忙しい時期に使者を出すだけ重要視されていると言えるが、使者として来たのは別段役職についてもいない若い侍である。


「そこは、まあ確かにであるな。して、御屋形様を軽んじた幕臣らは何を申されると思うので」


「守護の解任ぐらいは、あり得るかもしれぬと見てござる」


 安芸守がぼそりと呟いた言葉に、左衛門尉の声が少し大きくなった。


「まさか」


 近くの者がこちらへ顔を向けたので、左衛門尉はすぐに声を落とした。

 一方の七郎は安芸守の言葉を反芻し、内心が冷えた。その冷たさのままに口を動かす。


「いえ、なくはないかと」


 七郎が言うと、左衛門尉はますます渋い顔になった。


「七郎殿まで何を申される」


「御屋形様がどうというより、昨今の守護職はどうにも軽うございます。管領の機嫌を取り、銭を積めば動く。そういう前例があれば、守護職を不動とは言えますまい」


 左衛門尉はもう盃を口へ運ばなかった。ガシガシと頭をかき、それから居住まいを正した。


「では仮にそうなったとしたら、今川家が揺れますかな」


 その問いには、先ほどまでの酔った調子がなかった。安芸守も口を閉じている。これから来る嵐に対し、じっと何ができるか懊悩している様がありありとわかった。

 二人の様子を見ているうちに、七郎はふいに可笑しくなり、小さく吐息が漏れた。

 

 静まった合間にその吐息は存外大きく響いた。

 左衛門尉はまた眉を吊り上げた。


「如何された。真剣な話でござろう」


「ああ、いえ。申し訳ない」


 七郎は口もとを改めた。


「守護解任という運びになっても、心配はございますまい」


「いや、そうは言えど」


 左衛門尉はなお不安らしい。七郎は、左衛門尉と安芸守の顔を順に見た。


「失礼ながら、今川に下ってわずかな我らが今川家を案じておる。その法度の下で生き延びようとしている。これは守護職ではなく、法度と御屋形様を信ずる一つの証左ではござらんか」


 左衛門尉は口を半ば開いたまま黙り、安芸守も盃の縁を指で挟んだまま、すぐには答えなかった。

 少しの間顔を見合わせていると、最初に左衛門尉が顔を緩めた。


「いやはや、なんともはや」


 左衛門尉が言い、照れくさそうに自分の剃った頭を叩いた。


「七郎殿、さすがにそれは少々、楽観に過ぎますぞ」


 安芸守の声は辛かったが、先ほどよりはいくらかやわらいでいた。


「確かに少し酒に酔い過ぎましたかな。この後、御屋形様と話す場を設けていただいておるのに、よろしくありませぬ」


 七郎は盃を膳の奥へ押した。左衛門尉はそれを見ると、七郎のそばに残っていた銚子を自分の方へ引いた。


「では、これは酒井が引き受けましょう」


 自分の盃に酒を注ぐ。安芸守はそれを見ても酒を求めなかった。


 広間のあちこちでは、いつの間にか笑い声が大きくなっていた。座を離れて挨拶に歩く者も増えている。

 西三河の者も二、三人、七郎のところへ年賀の挨拶に来た。そのたびに左衛門尉と安芸守は少し膝を退いて場所を空けたが、自分たちの元の席へ戻ろうとはしなかった。


 七郎も戻れとは言わなかった。松平の惣領になった覚えはないし、五郎からも、そのようなものになるよう命じられたことはなかった。

 ただ、安祥にいて矢作川の普請を見、西三河の争い事を駿府へ取り次いでいるうちに、何かあれば七郎のところへ話が来るようになった。いまも、その続きなのであろう。


 ほどなく、広間の端に五郎の側付きが現れた。こちらまで来ると、七郎の前で膝をつき、静かに一礼した。


 七郎は袴の膝を整えた。五郎に呼ばれる刻限になったらしい。


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 七郎は宴のあと、館の奥にある離れへ案内された。

 表の広間から渡殿を二つ越えた先である。正月の客で騒がしかった表とは違い、このあたりまで来ると人影も少ない。案内の小姓が障子を開け、七郎を中へ通した。


 ここは五郎が以前、蟄居していたころに使っていた部屋だと聞いていた。

 思っていたより狭い。文机が一つ、壁際に低い棚があり、その脇には紙や板が重ねてある。華やかな調度はほとんどなかった。


 七郎は、棚のそばに積まれた紙へ眼を止めた。


 絵だった。


 鹿、馬、犬、鳥。草木や山を描いたものもある。墨だけの絵もあれば、薄く色を差したものもあった。

 筆の使い方まで一様ではなく、細い線を幾重にも重ねたもの、太い墨で形だけ取ったものが混じっている。


 多芸な方だ、と七郎は思った。一方で残念にも思えた。

 どれも仕上がっていない。鳥は羽先に色が入っておらず、馬は鬣が半端。草の絵も、あと一筆あれば締まりそうなところで止まっている。描き損じて捨てたものには見えなかった。

 書いているうちに飽きでも来たのだろうか。


「あまり見るな」


 声をかけられて、七郎は振り返った。


「これは、申し訳ありませぬ」


 五郎は咎める様子もなく、部屋の奥へ坐った。七郎もその向かいへ腰を下ろす。ほどなく側付きが茶を運んで来た。

 五郎が先に茶碗を取ったので、七郎も口をつけた。


 強い苦み、それから広がる甘味。香気は鼻にすっと抜け、後味も良い。


 七郎は茶には詳しくない。駿府近くの山を茶の栽培地と定め、かなり手を入れているという話は安祥でも聞いていた。摘んだ後の仕舞い方にも工夫を加えているらしい。


「気に入ったのであれば、持って帰ってくれ。妙殿も以前は好んでいた。夫婦で飲むとよい」


「ありがたく」


 妙とは七郎の妻のことである。


 先の大社で誓紙を交わした後、七郎は関口家の姫を娶った。妙は嫁入りに先立って修理大夫の養女となり、それから安祥へ入っている。形の上では宗家の娘を娶ったことになり、五郎と七郎も義理ながら兄弟という間柄になった。


 

 七郎の親族はどうなることかと当初心配した。今を時めく今川の一門から嫁を取り、松平は外に追いやられるのではないかと震えた。七郎も密やかに覚悟はしていた。

 だが、ふたを開けてみると夫婦仲は悪くなく、収まるところに収まっている。


 というのも、妙は気性のきちんとした女だった。安祥へ来てからも家中の女房たちをよく取りまとめていたが、七郎に対して権高に振る舞うことはなかった。五郎が嫁入り前に、七郎を粗略に扱わぬようかなり念を押したらしいことも、あとから聞いている。


「新年早々呼び出して申し訳ない。とみに忙しいゆえ、夫婦ともゆるりと過ごしたかったであろうに」


「とんでもございませぬ。このような折に顔を出さねば、一門として面目が立ちませぬ。奥にも顔繋ぎをするようにと、せっつかれておりますゆえ」


 口にしてから、七郎は一門という言葉に不思議なほど違和感がないことに気づいた。

 去年までなら、自分を今川一門のうちに数えるなど考えもしなかった。

 五郎の切れ長の眼が少しやわらいだ。


「妙殿の外は厳格であるな。内情はきめ細やかなのだが、七郎の器量に甘えているのだろう。気長に相手をしてやってくれ」


「はは、承知しておりまする。ただ、その厳格さで家中はよく纏まっておりまする」


「ほどほどにな。七郎の、今の松平の色をかき消すつもりはない。よくよく言いつけてあるが、気に障ることあれば治部に文を送るように。妙殿には申し付けるようにいたそう」


「とんでもござらん。七郎にはもったいない女房にございます」


 これは偽りではなかった。

 ただ妻は五郎を敬う以上に恐れているらしい。もし駿府から叱りつける文など届けば、しばらく顔も上げられなくなるのではないかと七郎は思う。


 己の主君は、どうにも女子供に畏れられるところがある。

 やはり眼だろうか。七郎自身も、あの冷ややかな眼をまっすぐ向けられると、ときに息が詰まることがあった。五郎もそれを知っているのか、人と話すときには必要以上に眼を合わせないことがある。


「さて、三河衆の様子はどうであった」


 五郎が茶碗を置いた。

 七郎も自然に背筋を伸ばした。


「正月の席では皆したたかに酔うておりました。気を抜ける程度には満足しておられるように見え申した」


「先の大社での誓紙は影響ないか」


「それは、なんとも」


 即答はしにくかった。嘘も言えない。

 大社で示された法度を、三河衆がすべて喜んでいるわけではない。先ほども酒井左衛門尉や石川安芸守とその話をしたばかりである。ただ、正月の席で不満を剥き出しにする者はいなかった。

 憤懣やるかたない、という西三河の国人は七郎の知る限りいないようにも思えた。


 五郎は、ふうんと短く唸った。

 身体を少しずらし、壁際に立てかけてある屏風へ眼をやる。雲をつかむ恐ろし気な龍が描かれているが、これも途中だった。鱗、髭、と精巧に筆が運ばれているが、肝心の眼が入っていない。

 五郎がふと視線を戻した。


「信濃の大社で三万の兵を集めたことで、一旦信濃衆の腰は据わった。備中守がしばらく領土を空けても、まず問題は起きまい」


「恐れながら、三河では不味かったのでしょうか」


 言うと五郎はまた小さく唸った。不快な様子はない。言葉を選んでいるようだった。


「不味くはない。知立の永見、沓掛の近藤、熱田などは、こちら側に大きく心を寄せるようになったやもしれぬ」


 それらは新三郎氏豊の養子先である那古野と三河の間にある国人達である。他の国の国衆同様、強いものが圧をかければ靡く余地はあると七郎は見ていた。


「では、なぜ」


「そこもとに申すのは憚れるが、三河は一向門徒も多い。それを信ずる家臣も多かろう。寺社に弓引くを恐れぬなどと、その地で誓うのも面倒であろう」


 唐突な言葉に七郎は、はっとした。

 それから小さく息を吐き、頭を下げる。 


「それは、なんともお気遣いを」


 七郎は頭を下げつつも、顔を渋くした。

 三河では一向門徒のことを軽く扱えない。それでも、今川が入ってから西三河の市や川筋が潤い始めると、以前ほど宗門の言葉だけで人が動かなくなっているのも事実だった。

 今川へ納めるものとは別に寺へ米や銭を出すことを嫌う百姓もいる。

 宗門の影響下にある村と、そうでない村とで明らかに暮らしぶりが違うことから、こっそりと他所に移るものさえ出始めている。


 また今度の法度には寺社であることを理由に今川の裁定を拒めぬと取れる条項もあり、諸々含め不満に思う門徒がいることは、安祥でも耳にしていた。

 だが、いま兵を挙げようというほどではない。

 どこか蔑ろにされつつも、底上げされる生活と、一向の考えの一つである王法為本をもって今川に迎合しようとする動きもある。


「ただ、それに想定以上に尾張が揺れておる故、新三郎の養子以降は一歩ひきたくもある」


 五郎はそこで手元にあった文を七郎の手元に滑らせた。

 文の差し出し元は先に上げた国人らであり、丁寧な挨拶が記載されている。


「あまり強く圧すると固まって反旗を成そう。ゆえ今は彼らをゆるりと寄せたい」


「たしかに三万の即応兵に、那古野の新三郎殿。このままでは挟まれると知った聡い者らは、七郎にも挨拶に来ていますな。安祥城には誠に挨拶と取次のみでありましたが、御屋形様には臣従の誓などは来ておられますか」


「さて。こちらもあくまで挨拶程度。何も約定はない」


 七郎は茶碗の縁に指を添えた。尾張の国人らに苛立ちを覚えていた。

 そして自分の内心が意外でもあった。

 

「御屋形様は、新三郎殿のおられる那古野と三河との間で人の行き来も増やすおつもりでございましょうか」


「城なり道なりと助けがいるそうなのでな、出さざるを得まいな」


 その手助けをどちらが言い出したか、などとはいまさら七郎は言わない。

 重要なのは南信濃にやったように、膨大な人と物が尾張の那古野とその道筋に流れることだ。尾張は塩に不自由はしないだろうが、それでも目がくらむ富と力のはずだ。

 七郎は茶碗から指を離し、五郎の冷たい目を見た。


「彼らは分かっているのでしょうか。それに美濃の長井が尾張に来ている今、庇護者を求めそうなものですが」


 美濃では内輪の争いが続き、敗れた長井の者が尾張へ流れ込んでいる。越前や近江の勢力も美濃へ手を伸ばしており、その動きが尾張へ及ばぬとも限らない。

 もともと尾張は、清洲、岩倉、那古野、知多と、それぞれの勢力が入り交じる国である。そこへ美濃の争いまで流れ込めば、いっそう落ち着かなくなる。


「分かってはいよう。だがそれでもなおあの条項が受けいれ難いのでは、と安房守らが見ている」


「内側に入れば、そう悪いものではないのですが」


 これは嘘ではない。

 意を決して入ってみれば、むしろ心地よさすらある。


「だが傍目には二の足を踏むのだろう」


 五郎はそう言うと目を閉じ、また外を見た。

 そして、外を見たままそっとつぶやいた。


「それもよかろうよ。あれらはまだ迷う時がある」


 五郎は茶を飲んだ。

 七郎には、その言葉が少し意外だった。


 安祥から那古野までの間にいる者が今川へ寄るかどうか迷っているなら、早く決めさせるものと思っていた。だが五郎は、急がせる気がないらしい。

 相変わらず、何を考えているのか読み切れないところがある。


 これは一門として過ごした妻の妙に聞いても分からぬ部分だろう。


「後知恵にございますが」


 七郎は踏み込むことに決めた。


「法度の披露目は、尾張、少なくとも新三郎殿との間にある国人らを固め、那古野までの道筋をこちらへ寄せてからでも良かったのでは」


 五郎はまた、小さく唸り、頷いた。

 やはり怒りは微塵もない。


 この一年、幾度か差し向かいで話すようになって分かったことだったが、五郎は一々人の言葉に腹を立てることが少ない。何を言っても平静で手ごたえもないが、きちんと話は耳に入れている。

 気軽に酒へ誘いたい相手では決してないが、意見を口にするだけなら、むしろ話しやすかった。


「一理ある。不安定な尾張を固め、美濃を睨む。そうなれば、もはや百年は安泰よな」


「では、なぜ」


 五郎はすぐには答えなかった。

 半ば開けた障子の向こうへ眼をやった。冬の庭には葉を落とした木が数本立っている。


「父がな、死ぬそうだ」


「は」


 七郎は、何を言われたのか一瞬わからなかった。

 五郎がこちらへ顔を戻した。


「そう驚くな。妙殿より聞いているはずだ」


 七郎は返事が出来ず、唾を呑んだ。

 修理大夫の病が重いことは知っている。


 表へ出ることはほとんどなく、見舞いを許されている者も駿府の一部の重臣と一門だけだった。七郎の妻である妙も、修理大夫の養女となる折に御簾越しに一声かけられただけだったという。それも、かなり細い声だったと聞いた。


 だから、知らなかったわけではない。

 だが、病が重いということと、死ぬと口にされることは、七郎の中では同じではなかった。


「父より、自身の死で家中を揺らすなと頼まれている」


 五郎の声は普段と変わらなかった。


「そのため、まず外に出るよりも内を固めに行った。強引な法度の交付、婚姻や養子をつづけさまに行うのも、そのあたりよな」


「それは、なんとも」


 言葉が続かなかった。

 大社での誓紙。新三郎の那古野入り。吉良への養子。七郎自身の婚姻。


 確かにどれも効果はあったため見落としていたが、急いでいるといえばそうだ。

 打診や根回しを重視する平時の五郎らしからぬ、火急の動きが随所にあった。


「許せよ、七郎。そなたにもいらぬ苦労をかける。西三河の国人らの旗頭、松平の惣領を名乗らずに全うするは厳しかろう」


 そこで初めて五郎の冷たさが和らいだ。

 このわかりにくい当主は、心からこちらを労わっているようだった。

 それがわかると言葉は自然と出た。


「なんのでございます。次郎三郎に討たれるところを拾い上げてくださった恩、父の仇を討ってくださった恩、どちらも返しておりませぬ」


 言わないが、それだけではなかった。

 松平を名乗らせ、安祥を預けた。西三河そのものを七郎へ与えることはしなかったが、所領には今川の銭を入れ、七郎の家が自分の足で立てるように取り計らっている。さらに今川一門から妻まで迎えた。


 返すどころか、恩は増えている。


 五郎はしばらく七郎の顔を見ていた。七郎を見ているようで、それを突き抜けて何かを見ているようにも感じられた。その読めぬ瞳がわずかに揺らいだ。


「かたじけなし」


 五郎はそう言って、頭を下げた。


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― 新着の感想 ―
描きかけの絵、龍に目を入れていないのは高ころびを嫌っているのか、癖なのか。一向宗を取り込めれば、長島と安祥で尾張を挟めますね。三河は元々は幕府の領地だったんですね。三管領筆頭の斯波が三河を守るために尾…
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