5章_5
年も秋に差し掛かろうとしていた。
駿府は朝からよく晴れていた。風は冷たいが、陽の当たる庭には明るさがあり、刈り込まれた植込みの向こうに、葉を落とした柿の木が立っている。北の空には富士が白かった。
このところ館へ届く書状にも、戦の文字が少なくなった。
三河では矢作川の普請がようやく一段落し、人足の多くが村へ帰った。岡崎や安祥では蔵の普請がなお続いているものの、街道を行くのは兵より荷駄の方が多くなっている。信濃でも高遠、知久を討ったあとの仕置きが進み、諏訪大社で法度を示してからは、大きな争いの知らせは来ていなかった。
領国内の国人、寺社に対してじわりと今川の重みがのしかかり、身動きを許さぬ空気が出来上がりつつある。 その空気は確かに重苦しくはあったが、徐々に豊かになる懐事情と目の前で整備されていく道々を見て、納得する者が増えつつあるのも事実だった。
ただ、それは領地内の話であり、今川の外にあるものは皆、危機感からか忙しなく動いていた。
その日の客も、駿府に帰還した五郎にあわただしく昔日の約定の履行を迫った。
駿府館の奥の広間には、西条と東条、二つの吉良家の者が揃っていた。
西条吉良との婚礼について、最後の取決めをするための席である。
駿府の客間は岡崎などのそれとは違い、公家をもてなすこともあり、金箔を用いた屏風や絵などが置かれ、どことなく華美な空気をかもしている。
上座には五郎の他、嫁ぐ娘の実母である中御門殿がいた。五郎はその少し下に坐り、西条吉良と向かい合っている。東条吉良の者たちは西条からやや離れた左手に席を占めていた。
吉良は西条と東条に分かれて久しい。ともに足利一門の名家であり、今川にとっては本流にあたる家だが、その両家は所領を接して争って来た。近年は大きな戦こそないものの、家同士の仲が良いとは誰も思っていない。
現に西条吉良の当主である三郎義堯は、東条吉良の当主、左兵衛佐持広が同室にいることに顔を顰めている。ただ五郎がそのことに当然とばかりに口を閉ざしているためか、表立って文句は言わない。
そしてそのことに隠れているが、五郎の後ろには、元服させたばかりの弟が控えていた。
竹丸、いまは孫六郎良真と名乗っている異母弟である。烏帽子をつけ、膝の上に手を置いて静かに坐っていると、つい先ごろまで竹丸と呼ばれていたころより、いくらか面差しまで変わって見える。
その孫六郎の斜め後ろには、福島弥四郎がいた。孫六郎の母方の縁者で、福島兵庫助正則の甥にあたる男である。福島の立て直しや遠江の役で忙殺されているためか、以前甲斐で見かけたときよりも大人びた、悪く言えば草臥れた様子である。颯爽とした若武者の空気は抜け、僅かに背を丸めながらも、方々に目をやり自分の役目を果たそうとしている。
五郎が弥四郎に目配せをすると、恐れることなくかすかに頷いた。
これならば、まず問題ないだろうと内心で安堵を覚えた。
室内には炭を入れた火桶が二つ置かれていた。広い座敷なので、足らないがまだ秋も深まっておらず十分な熱を足元に伝えてくれる。
五郎はまず三郎義堯へ頭を下げた。平伏と言わない程度の角度、長さであくまで同族としての礼である。
「義兄上殿。長くお待たせして申し訳ございませぬ」
ふっと三郎が息を吐いた。
「何を申される。五か国の守護としては当然のことでございましょう」
三郎はそう言って、膝の上で袖口を直した。
婚礼の話が出たのは、ずいぶん前のこと、先代修理大夫氏親が現役の折である。氏親が吉良の経済基盤であった浜松荘を奪い、そこを治める家臣筋であった大河内を追いやっている。当然、吉良と今川の敵対関係は静かに続いていたものの、今川が二国の太守として立場を固めると風向きが変わる。
表向きは乱世で同族同士で争う愚を悟ったとするが、内情は力関係の逆転した今、敵対関係を続けるのは不味いと吉良が関係改善に動いた。氏親の娘を家督を継いだばかりの三郎の正室とし、一族としての立場を持とうとした。
いうまでもないが、これは一旦止まる。氏親が病に倒れ、五郎が前に出たことで吉良は様子見に入った。いつか倒れるだろうと見て、婚姻の話を口に上げなくなった。
ただ、五郎が五か国を治め数万の兵を即座に動かせると知ると、すぐにこれも改めた。駿府の氏親や中御門殿に文を出し、気を遣って催促しなかったが婚姻の手はずはどうなっていただろうか、などと急にあわただしく動き出した。
五郎はこの婚姻に対して、不満はない。
吉良は明らかに今川よりも名門であり、この家臣筋であった者も今川家には多い。あからさまに粗略にすることは憚られた。
だが、甲斐、三河、信濃と事が続き、五郎が駿府を空けることも多かったため、婚姻の手はずがこの時期まで延びた。
そのことを咎められているわけではないのは分かっていたが、五郎はもう一度頭を下げた。
「守護としての責務は確かにあれど、家長としての責務も軽んじるつもりはございませぬ。妹に三国一の婿をというのは父母の願いでございますゆえ」
五郎は表情を変えずに言ってのけた。
隣で、中御門殿が扇で顔を隠した。寄った眉だけが扇からのぞいている。
三郎が頭をかいた。
「これは、なんとも困りますな。飛ぶ鳥を落とす勢いの治部殿ゆえ、比べられると思うておりましたゆえ、そのように持ち上げられては」
「治部はどうにも粗忽者でございます。むしろ同族であるにもかかわらず、典雅な吉良殿と比べられ、見損なわれると内心怯えており申した」
中御門殿が長く息を吐いた。孫六郎や弥四郎は口を開かない。ただまんじりともせず、息を殺している。
三郎は、手を前に出して振った。
「いえ、武家としては大人しいだけではなりますまい。治部殿の振る舞いこそ、武家の鏡とするべきかと、家中で話しており申す」
三郎はそこで言葉を切った。袖口を一度正してから、続けた。
「いっそ、今川家に本家を名乗りいただくべきか、などという話もあり申した」
五郎は微動だにしない。室内のだれも身動きはしない。
今川は吉良から分かれた家である。それが三河を押さえ、遠江、駿河、甲斐、信濃まで兵を動かすようになった。家の力だけを見れば、いまの吉良と今川を比べる意味はほとんどない。
だが、それと家格とは別の話だった。
五郎はあえて口角をあげた。
「まさか、吉良家は名門でありますゆえ。昨日今日の武威で家格は変わりますまい」
事実である。嘘はない。
ただ、と言って五郎は続けた。
「乱世においては、武辺ものの今川は、この本流を御支えすべきかとも考えております」
五郎の声が切れると、座敷にはしばらく返事がなかった。
中御門殿が五郎を見た。
何か言いたげな様子だったが、そのまま扇を膝に置いている。
今川は吉良から分かれた家である。三河の吉良荘を本貫とする吉良が本流であり、駿河へ下った今川はその支流だった。
そこはもはや変えようがないが、あり方は変える余地がある。
三郎は五郎の言葉を聞いて、聊かまごついた。目が室内を泳ぎ、漸く言葉を放り出した。
「なんと頼もしいお言葉か」
「ええ、何人たりともこれに弓ひくものあらば治部太夫がお守りいたしましょう」
五郎はそこで左手へ顔を向けた。
三郎より一段下がった席に、東条吉良の左兵衛佐がいる。
三郎も左兵衛佐の方を見た。肩の力が抜け、歯を見せた。
今まで合点がいかなかった東条吉良の存在に、話の流れからようやく納得がいったようだった。
「と申しますと、西条の吉良家を悩ましている問題もするりと片付くと考えてよろしいか」
その言葉を受けても、左兵衛佐はただ目を伏せている。
膝の上に置いていた両手の位置も変わらない。ただ、背筋がわずかに伸びた。
「無論のこと」
五郎がすっと答えると、三郎は笑みを深くし、頷いた。
それから身体をめぐらせ、後ろに控えている弟、孫六郎の方を見やった。
五郎が振り返ると、孫六郎は心得て、音もなく膝を進めた。
「これはわが弟の竹丸。いや、元服して今は孫六郎良真と名乗っておりまする」
孫六郎は三郎の前へ出た。
「お初にお目にかかります。義兄上様、孫六郎にございます」
畳に両手を置き、きちんと頭を下げた。
三郎は目を見開く。
「なんと立派な。今川家は兄弟が多くうらやましいことにございます」
「いえ、どうにも男ばかり、それも皆外に出たかるので困った者にございます」
これは半分嘘が混じる。新三郎氏豊は半ば望んで養子に行ったが、それ以外の兄弟らは五郎が外に出そうとしている。この孫六郎も半ば五郎が話を通した形に近い。
「外に、と申されると」
そこで三郎の視線が孫六郎から離れ、左兵衛佐の顔にたどり着いた。
皺の刻まれた左兵衛佐の顔はやはり微動だにしない。だがこうなると泰然とした素振りにも説明がついた。
「まさか」
三郎が感づいて、ぱっと五郎を食らいつかんばかりの勢いで見た。
その顔から、先ほどまであった祝いの席らしい柔らかさが消えている。
五郎は抑揚のない声で続けた。
「今後、孫六郎は東条吉良を継ぎ、吉良孫六郎良真と名乗ることになりましょう。治部太夫も弟が吉良家の連枝を継ぐことになり、畏れ多いと思うておりまするが、左兵衛佐殿より是非にも申されると断るのも心苦しく」
「それは、いつの間に」
「治部太夫が信濃で小笠原殿とにらみ合っていたころにございましょうか。左兵衛佐殿より文をいただき申した」
つまり、三郎の西条吉良が様子見で足を止めている隙に話が決まった。
三郎の言葉は止まっている。あえぐように口を開閉し、やがて左兵衛佐を見たまま動かなくなった。
左兵衛佐はやはりその有様を見ても微動だにしない。何も感じていないわけではないが、固く身を固めている。
五郎は二人の間の緊張は無視し、用意していた言葉をつなげた。
「孫六郎は福島に縁を持つ子故、武才はあれどどうにも礼儀作法には歯がゆい部分もござる」
孫六郎がそこで少し顔を伏せた。元服したばかりの若者らしい照れがそこには残っていた。
弥四郎は孫六郎の後ろで、姿勢を崩さずに坐っている。自覚があるのか文句はないようだった。
「吉良家に入ったからには東条吉良の皆様には手心なく鍛えていただくつもりでございますが、西条吉良も今川を鎹に義兄弟の間柄故、どうかご指導ご鞭撻のほどお願いしたく」
五郎は孫六郎に、そら、と促した。
孫六郎は膝をそろえ直した。動きと動きの間に緩急があり、いかにも武士らしいきびきびしたものだった。
その動きのままに三郎へ身体を向け、先ほどより深く頭を下げる。
「粗忽者にございますが、吉良の名を汚さぬように精進いたしまする」
「治部も兄として、不肖の弟を支える一存にございます。三郎殿に置かれてはなにとぞよしなに」
三郎は唖然としたままだったが、やがて項垂れるように頷いた。
そこで左兵衛佐の後ろにいた東条の者が、そこでようやく身体の力を抜いた。ほかの者も、張りつめていた姿勢を少し崩した。
左兵衛佐自身も小さく息を吐いた。
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氏親の寝所は、館の奥にあった。
冬になってから、障子は昼でも半ば閉めてあることが多い。
炭櫃が置かれ、薬を煎じた匂いが部屋に残っていた。五郎が入ったとき、氏親は褥の上に起きていたが、背には厚く畳んだ夜着が入れてあった。
また痩せた、と五郎にも分かった。
以前は肩に張りがあり、座っているだけでも大きく見えた男である。
いまは重ねた小袖が肩のところで余り、袖口から出した手も、骨ばって見えた。ただ顔つきはさほど変わらない。頬は落ちたが、五郎を見る目にはまだ力があった。
中御門殿は枕元に坐っていた。膝には畳んだ扇を置いている。
五郎が褥の前に坐ると、氏親は息を一つついてから言った。
「随分無理をしたな。松寿丸と芳菊丸を飛び越えて、竹丸を吉良にいれるとはな」
氏親のいう通り、そこには一声必要だった。異腹の弟を外に出すのは家中で異論は上がらない。だが、その出す先が今川の本家ともいえる吉良ともなれば話が違ってくる。松寿丸や芳菊丸というのが妥当なのではないか。そういうことを匂わせる空気は五郎にも感じられた。
だが、孫六郎は扱いの難しい子でもある。気質というより福島という出自がそうせざるを得ない。
福島は間違いなく三浦、朝比奈、庵原などと並ぶ今川の重臣家である。当主が大きな敗戦をしたが、氏親が有耶無耶にした以上粗略に扱うことは許されない。かといって家中で大きな領地を与えられるかと言われればそれも難しい。下手をすれば家内で福島閥が勃興し、統制の邪魔になる可能性すらあった。
それゆえに一旦は外に出し、家中が当主強権に慣れるのを待つことにした。十年、二十年、それぐらいかけて吉良を家臣化するころには孫六郎を家に戻しても問題ないだろう。
「父上の御言葉は確かなれど、福島の家を正しく保つためには、多少の小細工も必要でございましょう。同腹ばかり目をかけていると見られても困りますれば」
氏親はすぐには返さなかった。夜着の上に置いていた右手を動かし、袖口を少し引き上げた。
「どちらかと言えば、そこもとは関口の子を気にかけておるようだが」
「ああ、あれは良いのです。お気になさらず」
五郎の口が勝手に動いた。吐く言葉も荒く、早くなった。
その様子に中御門殿が顔を上げた。
氏親はしばらく五郎を見ていたが、やがて喉の奥で笑った。笑うと息が続かないらしく、途中で一度咳をし、口元を袖で覆った。
「如何いたしました」
「いや、そなたも贔屓するのだと安心したわ」
「虎の子を虎として育てようとしておるだけでございましょう。むしろ粗略に扱っておるほどにて」
「確かに、虎やら龍を育てようとするならば人と同じようにはいかぬな。それ相応に扱わねば」
五郎は頷いた。
確かにあの武田五郎殿の嫡男を育てるとなれば、それ相応の扱いをする必要がある。そう思い何度も頷いた。
氏親は背中を支えている夜着に身体を預けた。少し姿勢を変えただけだったが、そのあとしばらく呼吸を整えていた。
中御門殿が湯呑みを取ろうとしたが、氏親は手を上げて止めた。
「して、そこもとの同腹の弟らはどう育てる。病床の父、館を空けがちな兄の目を盗んで争わせようとする者もいるようだ。あれは龍の子育てかな」
「あれは治部の不徳にございますな」
松寿丸と芳菊丸自身が、刀を取って争っているわけではない。問題はその周囲だった。どちらを立てるか、誰が先へ出るかという話が、二人の年齢に似合わぬところで動いている。そのことは氏親の耳にも入っている。
「なるほど。して、その不徳をどう補う。異腹の弟らが別の家を継いでいった。新三郎も城持ちになり、孫六郎など上の家格の吉良を継いだ。生半可な扱いでは争いはひどくなろう」
「特別扱いはせぬ、そう伝えれば腰も据わりましょう」
氏親は少し眉を上げた。
「ほう」
「先だって治部太夫は諏訪大社で誓ったとおり、家中での諍いは許さぬと申しております。ここには松寿丸も呼びつけ誓わせておりますれば」
「弟と争うようであれば、家臣を抑えられぬようであれば討つと」
中御門殿の手が動いた。みしりと木が軋む音がした。
膝に置いた扇を握ったのである。
氏親はその手を見たが、何も言わなかった。五郎も母の方へは向かず、父を見たまま答えた。
「まさか。まだ元服前の子供に過ぎませぬゆえ、実弟が誓紙に反するのか、と今一度確認いたしましょう」
「そのうえで治まらねばどうする。子供のやることと笑えぬことが起きれば如何する」
「弟を担ぐ家臣らを罰しましょう。それでも治まらねば、寺に入れるなりを考えましょうぞ」
氏親は横になりかけた身体を、もう一度夜着へ押しつけるようにして起こした。
腕に力を入れたため、広い袖が肘までずり落ちた。
「随分遠慮をした言い方をする。いまさら病床の父を気遣っておるのか」
「粗忽者の息子を持った御台様を気遣っております」
五郎はそこで、初めて中御門殿へ身体を向けた。
中御門殿はまだ扇を手にしていた。強く握っていた指は、もう少し緩んでいる。
「治部、いえ、五郎は粗忽者なれど御台様の御子を粗略に扱いは致しませぬ。できれば松寿丸、芳菊丸、双方、身が立つように取り計らい、頼りにしたく存じ上げまする」
中御門殿は口を開きかけて、やめた。
しばらくして、扇を膝の上へ戻した。
「表のことに口出しは致しませぬ。されど弟らは治部殿を慕っておることは間違いなく。どうかそのことだけを心に留めてください」
氏親が中御門殿の方へ顔を向けた。
「御台、もっとはっきり言えばよい。兄が馬鹿をやるから弟が浮ついている。大事になる前にとめよ。そう申してもよい」
「殿」
中御門殿が言った。
声を荒らげたわけではない。
氏親は少し口元をゆるめたが、それ以上は言わなかった。
「無論の事にございます。準備ができ次第、松寿丸と芳菊丸、役目を与え、つまらぬことで争わぬよう目を配る所存にて」
五郎は母へ頭を下げた。
中御門殿はその姿を見ていた。やがて扇を膝の脇へ置き、息を吐いた。
「よしなに」
氏親は褥の上で目を細めていた。
さきほど身体を起こしたためか、呼吸が少し早くなっている。中御門殿が今度は湯呑みを取り、氏親の手もとへ置いた。
氏親はそれを取らず、しばらく五郎を見ていた。
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五郎が退出すると、寝所には氏親と中御門殿だけが残った。
氏親は褥に背を預けたまま、しばらく閉じた障子の方を見ていた。それから夜着の上に置いている自分の腕へ目を落とした。
細くなったものだと思った。
骨ばった手首の上で袖が余っている。病んでから少しずつ肉が落ちたことは知っていたが、こうしてあらためて見ると、以前の自分の腕とは思えない。若いころは馬上で一日を過ごしても苦にならず、弓を引くにも太刀を遣うにも、人より力が劣ると思ったことはなかった。
いまは身体を起こして話をするだけで疲れる。
医師は何も言わない。だが氏親自身には、おおよそのところが分かっていた。春を越すことは出来よう。夏もあるいは、と考えることは出来る。しかし次の秋を迎えている自分の姿は、どうにも思い浮かばなかった。
中御門殿はまだ五郎が坐っていた場所を見ていた。
「そう怒るな、あれの気遣いはわかりにくい。孫六郎や新三郎の養子は父に対する遠慮であろう。松寿丸と芳菊丸を粗略にしてのことではない」
中御門殿が氏親を見た。
新三郎を那古野へ出し、今度は孫六郎を吉良へ入れた。五郎はどちらについても、家のために必要だからやったとしか言わないだろうし、それも嘘ではあるまい。
だが氏親には、ほかにも理由があるように思えた。
自分が死ぬ前に、母の違う弟たちにも生きて行く場所があることを見せておこうとしているのではないか。松寿丸と芳菊丸だけを手もとに残し、ほかの弟たちを追い払うのではない。新三郎にも孫六郎にも、それぞれ立つ家がある。そのことを父に見せておこうとしている。
もっとも、五郎本人にそう言えば、怪訝な顔をするかもしれなかった。
あれは自分が何を気にかけているのか、時折ひどく分かっていないところがある。
幼いころからそうだった。一度、自分が守る側に立った相手のことは、いつまでも忘れない。相手の方がそれを望んでいるかどうかもあまり考えず、自分の手の届くところへ置こうとする。
傲慢な性質ではある。
だが、それだけの人間を抱えて行けるのも器量であろう、と氏親は思っていた。
無論、孫六郎を東条へ入れたことには、もっと露骨な理由もあるのも理解している。西条には今川の娘が入り、東条には今川の男子が入る。長く争って来た二つの吉良の間へ今川が入り込み、いずれ三河の吉良を、家臣とは呼ばぬまま今川の下へ置く。
その先には尾張が、天下がある。いや、きっとこのことにも五郎は気が付いていないだろうと、氏親は思った。
あれはきっと家を守れと言われたから、必死に転げまわって家を強くしているだけなのだろう。
「存じ上げております。松寿丸を信濃に置き、村上殿と縁を結ばんとしたのも松寿丸を守るためでございましょう」
「そこまでは買い被りやもしれぬが」
「殿」
氏親は笑った。
笑うと胸の奥が少し苦しくなったので、身体を夜着へ深く預けた。中御門殿が手を伸ばしかけたが、氏親は大丈夫だというように片手を上げた。
「まあ、松寿丸のことはこちらが思うほど問題はなかろう。あれは周囲と切り離され、備中の下で地道に励めばそのうちに芽がでる」
氏親は一度息をついた。
松寿丸は人が悪いわけではない。武芸がまるで駄目というわけでもなく、人の言うこともよく聞く。ただ、その人の良さにつけ込む者が近くにいると、そちらへ引かれるところがあった。
信濃で備中守の下に置かれたならば、駿府にいるころより余計な声が耳に入らない。それで足場を固め、いずれ村上との縁も結べるなら、身の立て方として悪くない。
問題は、もう一人だった。
「芳菊丸の方はどうなりましょう。あの子だけは外に出すという話をいたしませぬ。治部殿も大御台様も明らかに目をかけております」
「やはり、わかるか」
「以前、家中が治部殿を扱ったように芳菊丸を扱いまする。それを覚えておる者は勘づきましょう」
「治部はともかく母上も露骨よな」
北川殿は、芳菊丸には手厳しかった。
少し出来ると分かれば、すぐに次の師をつけた。書を習わせ、礼法を習わせ、武芸を学ばせる。まだ幼いからという理由で、覚えることを減らした様子もない。
五郎を育てたころとは違う。
あのころの北川殿は、ある程度のところは自分で五郎に教えようとした。いまはそこまで手を出さず、教える者を選んで芳菊丸の前へ置く。だが甘く扱わないという点では同じだった。
芳菊丸だけが特別に厳しくされていることは、昔を知る家臣なら気づくだろう。
「治部殿は何を考えておられるのでしょうか」
氏親は返事をせず、自分の手を見た。
さて、どこまで言うか。
以前の自分ならば、これは中御門殿にも伏せておいたと思う。まだ決まった話ではなく、五郎自身も明言したわけではない。親が口にすれば、それだけで家中に重みを持つ話だった。
だが、氏親にはもう、何年も先を見て黙っているほどの時間はない。
ならばと思い、口を軽くした。
「跡継ぎにしたいらしい」
「な、」
「そう驚くな。明白であろう」
中御門殿が身を起こした。
「ですが、あれは五男にございます。言うべきことではございませぬが、もしもの時は松寿丸が」
「わが子のことだ。言わせるな」
氏親は短く、低く言った。
これは才覚と器量の話である。
松寿丸の屈託のない性質を氏親は嫌ってはいない。親として見れば、むしろ可愛いところさえある。だが今川の家を五郎のあとに継がせる者として見るなら、同じようには見られなかった。
五郎もそこを見ているのであろう。
「案ずるな。止めている。本人も出来が良い悪いで五男を跡継ぎにする危うさも知っている。まず、本気にはしておるまい」
仮に本気で動き出していたら、きっと止められなかっただろう。
中御門殿も同感だったのか、息を吐いた。
氏親はその様子に、僅かに苦いものを感じながらも、だが、と言葉を置いた。
「治部はそれでも、どこかでそうなればよいと思うておる節がある」
「まさか」
氏親はかすかに首を横に振った。
いま五郎に実子はいない。
この先、正室を迎え、男子が生まれれば話は変わる。五郎もそれが分からぬほど愚かではなかった。ただ、何事もなければ芳菊丸を手もとで育て、その才が十分なら使えるところまで育てておきたいと思っているのは確かだろう。
五郎が家中を固めることに執着する理由も、そのあたりにあるのかもしれなかった。
弟の誰かが不満を抱くことは防げない。家臣がその弟を担ぎ出すことも、完全には防げない。
ならば、兵を挙げてもどうにもならない家にしてしまえばよい。
甲斐でも、信濃でも、三河でも、国人同士の争いを今川の法へ吸い上げ、兵も銭も道も今川を通さなければ動かないようにしている。弟一人を旗頭に立てたところで、一国の兵がそのまま従うような形を残さぬつもりなのであろう。
強い家になる。
同時に、ひどく窮屈な家にもなるだろう。
「そう固くなるな。それに一番贔屓の関口の子に継がせる、などと言い出すよりよっぽどましであろう」
「それは、そうでございますが」
中御門殿の返事には、まだ得心し切らぬところがあった。
しかし、それ以上芳菊丸の話を続けず、少し間を置いて言った。
「殿、こちらから婚姻相手を探してもよろしいでしょうか」
氏親は目を上げた。
「なんだ、動いておらなんだか。安房守などは好きにやっていそうなものだが」
「動いておられるようでございますが、ただ、治部殿の身代がすぐに上がるものゆえ」
「狙えるのであればさらに上の姫を狙うか。安房守も強欲よな」
氏親は喉を鳴らす。
確かに、それは安房守だけのせいとも言えなかった。
五郎の勢力は、この二、三年で見違えるほど膨らんだ。まだ十五にもならぬうちに駿河、遠江、甲斐、三河、信濃に勢力を広げ、しかも取った土地を戦のためだけに使ってはいない。
矢作、大井、天竜といった大川の普請が進んでからは、駿府に上がって来る勘定も大きく変わった。内々の計算では石高は百五十万石を越え、それとは別に港や市から銭が入る。
世間では西の大内、東の今川と言う者も出ているらしい。
氏親には、実のところでは今川の方が上ではないかという気さえしていた。大内の内情を細かなところまで知るわけではないから、誰かに言うつもりはない。ただ五郎が動かせる兵と銭を見れば、そう考えても不思議ではなかった。
この力の一端を都へ見せたうえで、今川治部太夫の正室を迎えたいと言えば、どこまで手が届くだろう。
公家なら摂家。あるいは宮家。
武家なら将軍家の姫という話さえ、初めから笑い飛ばすことは出来なくなっている。
少なくとも安房守は、そう考えているはずだった。
中御門殿が、ふと声を落とした。
「霧姫様ではいかぬのでしょうか」
「やめておけ」
考えるより先に、すっと言葉が出た。
中御門殿が目を細める。
「されど仲は悪くないように思えまする。正親町三条の皆様も治部殿には好意的でございます」
「表立って文句を言わないことを、公家らは好意とは言わぬのではないかな。中御門の姫よ」
「殿、そのように」
氏親は口角を上げ、袖口で口を隠した。
「ただ、肝心の治部が姫を見ていない。御台が治部を思っているのはわかるが、無理やりくっ付けたところで良き夫婦とはなるまい」
はっきりとは言わないが、もはや正親町三条と結ぶ利は薄いとさえも思える。
「ですが、治部殿を恐れぬ方は霧姫様の他には」
氏親は息を吐いた。
「心配しすぎだ。あれは其方に似て器量が良い。それに猫をかぶることもできる。良家の姫君の機嫌を取れと申し付ければ、そのように動こう」
中御門殿は何も言わなかった。
五郎が相手の機嫌を取っている姿を考えているのかもしれない。確かに、そのあたりは氏親にも、あまり似合う姿には思えなかった。
氏親は夜着の上へ置いていた手を動かし、脇にあった湯呑みを取った。少し飲んでから戻し、言った。
「北条の従兄弟殿がな、娘を治部に嫁がせたいそうだ」
「しかしながら、北条は」
「まあ、新九郎殿は少し距離を置こうとしていたはずであるが、どうも勝手が違っているかもしれぬ。どちらにせよ治部には話しておいてくれ、あれに女人の話をするのはこそばゆい」
「それはこちらも同じことにございます」
氏親はまた笑った。
今度は長く笑わなかった。
湯呑みを置いた手をそのまま夜着の上に戻すと、痩せた指が白い袖の上にのった。
息子の嫁を誰にするか。
つい数年前なら、まだ先の話だと思っていた。
いまは、その先の話を自分が聞くことになるかどうかも分からなかった。




