5章_4
大永五年の春、今川家は信濃を再征伐した。
争いをやめぬ諏訪、高遠、および双方についた国人らへ警告したうえ、三方から一斉に兵を送り込んだ。
信濃から朝比奈備中守。三河からは三浦次郎左衛門。甲斐からは小畠山城守。
村上に遠慮して大それたことはしないと考えていたらしい高遠、知久であるが、あっという間に押し寄せたこれらの兵には太刀打ちできなかった。
高遠の当主は行方知れずになり、それ以外の主だった国人らは、ほぼ討ち取られる運びとなった。
諏訪の当主は、高遠勢を退けてもらい、自家だけは許されたと思ったのか、朝比奈備中守に対して両の手を取って感謝を示した。だが、備中守が五郎から言いつけられたことを口に出すと、唖然とした。
諏訪家、騒乱に際し許しなく兵を挙げたること許しがたく、所領を召し上げる。以降は大社を守ることのみ許す。
これをもって国人として諏訪家は終わり、あくまで諏訪大社の神官としてのみ家が続くことになった。
この征伐の後、五郎は自分の領国に布告を出した。
諏訪大社にて馬揃えと法度の披露目を行うゆえ、各家一名は大社へ参集すること。また、各国に定め置いた即応の兵を、物頭の指揮にて率い参ること。
前々から知らされていた事柄であったため、用意をしていた家々であるが、駿府ではなく信濃の諏訪ということに驚きがあった。
甲斐にて日々政務に精勤している九英承菊も当然、これに参加するように命が下った。
承菊が諏訪へ入ったのは、昼を少し過ぎたころだった。予定よりも数刻早い。諏訪と甲斐を結ぶ道々はすでに整備されており、以前甲斐に入った時より格段に歩きやすい。馬に乗り、ゆるゆると歩を進めていたが、ただの一時も足を止めるような出来事はなかった。そのおかげか、通り掛けの宿場町で酒を引っ掛け、過ごすことさえもできた。
承菊は大社へ続く道を見ながら、笠の下で顔をゆがめた。
「全く駿府で良いではないですか」
甲斐を離れる許しが出たときには、ようやく駿府へ帰れると思った。久しぶりに海の魚を食い、甲斐から届いた書付など、しばらく見ずに暮らしたかったのである。ところが、命じられた行先は諏訪だった。駿府とは反対の方角である。
酒も濁っているし、女もいまいち琴線に触れない。
承菊は道中、二度ほどそのことを口にしたが、供の者は聞こえぬふりをした。御屋形の命を悪く言う僧に相槌を打ち、あとで甲斐の奉行衆に睨まれてはかなわぬと思っているのだろう。その小心さも腹立たしかった。
大社へ近づくにつれ、道を行く兵の数が増えた。
はじめは信濃の国衆かと思ったが、旗を見ればそれだけではなかった。甲斐、遠江、三河の旗があり、駿河から来た馬廻りの一隊も見かけた。
兵は二十人、三十人とひとかたまりになり、前後に間を取って進んでいた。馬上の者は具足を着け、徒歩の者も槍、弓、刀を携えている。荷駄には陣具が積まれ、小者や馬の口取りも揃っていた。
急に田畑から集められた農兵ではない。
「即応の兵か。御屋形様のご気性よな」
承菊がつぶやくと、やはり供の者が顔を顰めた。気づかぬふりをして、兵らを眺めた。
まず歩き方が違った。農兵は歩き方がぎこちなく、着慣れぬ具足に肩を取られ、持たされた槍を杖のようにつく。道が細くなれば、たちまち隊列も崩れる。だが、ここを行く兵には、そうしたところがなかった。
五郎の構想は別に真新しいものではない。すでに畿内では珍しくもない足軽を拡大しているだけだ。それを率いる物頭も、武家の子弟らを府中に集め、役に付け、常日頃から対応できるように構えさせているだけなのだ。
だが、常日頃訓練に明け暮れ、食事に不自由させない日々を送らせている兵は、明らかに肉体の厚みが違った。農村から急遽集めた者と違い、飢えから追い詰められた空気も感じない。
そのような兵が、あちらからもこちらからも諏訪へ向かっていた。
承菊は馬を緩め、脇を通り過ぎて行く一隊を眺めた。率いる者たちの具足もよく手入れされている。馬も痩せてはいなかった。おそらく今川家中から与えられたものだろう。
きっと、誰にどの武具を貸し与えたかまで台帳に記されている。誰がいつ、どこの戦場に、いつまでにたどり着けるかも、おおよそはまとめているはずだ。
「怖や楽しや」
承菊が呟くと、近くにいた供の男が顔を向けた。さすがに聞き逃しはできぬと、眉を吊り上げている。
「何か仰せで」
承菊は無言で馬腹を軽く蹴った。
それから一刻もたたぬうちに、一行は諏訪大社にたどり着いた。
諏訪大社の上社近くには、すでに諸国の陣が置かれていた。社の周囲を兵で埋めるわけにはいかないので、軍勢は街道沿いの原や、村外れの原へ分かれている。道端には札が立てられ、どの国、どの家の陣所であるかが墨で記されていた。
人馬の声は絶えなかったが、思ったほどの混乱はない。信濃の旗頭である朝比奈備中守が、道筋と陣所をあらかじめ割り振ったらしい。使番が馬を走らせ、やって来る人の群れを捌き、人数ごとに別の道へ回している。
「あの方もよう働きなさる」
自分と違って机に縛り付けられているわけではないのだから、もっと楽をしてもいいとも思った。
承菊は人の流れに沿い、上社の境内へ入った。馬を預け、供の者と別れると、案内の小者に従って社殿の脇へ向かった。神事と馬揃えを見るため、今川一門と諸国の主だった者には座が設けられている。
上座には備中守をはじめ、駿河、遠江の重臣がいた。その近くに甲斐、三河、信濃の者が座っている。少し下がった場所に、若い公達がいた。
松寿丸である。
供の家臣を数人従えているが、上座には置かれていない。松寿丸自身はさほど気にした様子もなく坐っていたものの、側付きの家臣らは面白くなさそうな顔をしていた。
血筋から言えば、松寿丸は五郎と同腹の弟である。甲斐や三河の国人より下へ置かれることを、不当と思っているのだろう。だが、ここは今川一門の席次を示す場ではない。各国で実際に兵を預かり、政を動かしている者が上へ置かれている。
そのことが分からぬほど愚かではあるまい、と承菊は思う。いや、五郎の弟ならばと買いかぶり過ぎだろうか。
承菊はちらりと側付きの家臣らに目をやった。全体的に若い者ら、顔も知らぬ者が多いように思えた。年嵩で経験を積んだ者、若く才ある者はどんどん新たな領地で役職を任される。つまりはそういうことなのだろう。
承菊は内心に久方ぶりに面白さを感じながら、一団へ近づいた。
「おお、これは松寿丸様」
声をかけると、松寿丸は一瞬、誰だという顔をした。家臣らも遅れて承菊を見た。露骨に眉をひそめた者もいる。
無礼者と咎めるべきと腰を浮かせた者もいた。ただ、唐突に名前も知らぬ坊主をどう扱うべきかと、考えあぐねているように受け取れた。
遅いな、と承菊は思った。
同じ年ごろの五郎ならば、こちらの顔を知らずとも、衣と供の様子を見て扱いを決めているだろう。
だが、まあやはりこんなものだろうと納得もした。
承菊は両手をついた。
「庵原の九英承菊にございます。ご機嫌麗しゅうございます」
駿府館で五郎にこき使われている宿老庵原安房守の名を知らぬ者はいない。そしてその一族で甲斐に勤めている承菊のことも知らないはずがない。
松寿丸はようやく合点がいった顔をした。
「おお、承菊。そなたも来ていたのか」
松寿丸はそう言って、屈託なく笑った。心から駿河の重臣一族を歓迎しているようだった。
なるほど、育ちのよい御曹司である。これこそが、分かりやすい今川の子なのかもしれない。やはり五郎の方が、少し変わっているのである。
「無論にございます。甲斐を整えるまで戻って来るなと仰せつかっておりまするが、ようやく許しが出て、こちらへ参りました」
酷い話だ。
夫のいる相手に秋波を送ったわけではないのに、罪人扱いである。
「甲斐か」
松寿丸はそこで言葉を切った。
「近ごろ、信濃や甲斐についてもよく聞く。やはり大変であったのだろうか」
要領のつかめぬ問いだった。戦のことを聞いているのか。政のことか。それとも、甲斐の者に囲まれて暮らすこと自体を言っているのか。
承菊は少し苛立った。
「ええ、駿河とは勝手が違いまするな。山国ですので、なにより皆、剽悍でございます。府中からあれをしろ、これをするなと申し付けましても、なかなかに」
「だが、数年で治まったのだろう。そなたと岡部、関口らの力量は凄まじいと、駿府で噂になっておった」
「いえいえ」
承菊はすぐに否定した。
「まったくもって、御屋形様の力量によるところでございます。甲斐の躑躅ヶ崎に腰を据え、国人らの館を巡り、直訴を捌くなど、八面六臂の御活躍でございました」
「ははあ」
松寿丸は感心したように唸った。目に憧れの色があった。
承菊は内心で少し息を吐いた。
五郎の動き方は、褒められたものではない。あえて言えばあれは捨て身に近い。今川に所領を焼かれた者の館へも、金山の利権を取り上げられた者の館へも、平然と入って行った。そして、ときに脅し、ときになだめ、銭や役を与え、今川の法へ組み入れた。
守護が直々に訪れ、話し、約束するのだから、事は確かに早く片づく。だが、一つ間違えば、その場で斬られていた。守護ともあろう者が腰軽く歩き回るなと責められても、返す言葉はなかっただろう。
あの無茶を、手本だと思われては困る。
胆力と知略に優れていることは分かるが、弟がそれをそのまま真似れば、命が幾つあっても足りない。
そんな承菊の内心を知ってか知らずか、松寿丸は呟くように言った。
「松寿丸も、早うお力になりたいものだ」
「これは、なんと殊勝なお言葉でしょうか。されど、焦ることはございませぬぞ」
この言葉に側付きの家臣らがわが意を得たりと頷くが、松寿丸は続かない。ただ少し不満げだったが、それ以上に所在なさげであった。ただ、ぼうと五郎が控えているであろう大社の奥を眺めている。
「弟の新三郎などは外へ出ておる。まだ芳菊丸よりも幼いのにだ」
「ああ、尾張の那古野に養子に入られたのですな。確か、名を氏豊とされたと」
「直々に兄上様から、父上愛用の太刀を渡されたそうだ」
松寿丸はそう言って目を伏せた。承菊は内心でまた嘆息した。
あの五郎は、たかだか鉄の棒切れなど、欲しいと言えばくれる。褒めてくれと言えば、褒めてもくれる。鍛える場を与えてくれと言えば、もっと苛烈な師もつけてくれるだろう。そのうえで胆識を磨けば、少しは頼りにもされるはずだった。
今川にはとにかく人手が足りない。もっと言えば、立場を与えても問題ない人間がほとんどいない。
宿老の朝比奈、三浦、庵原は、それぞれ信濃、三河、駿河に植えられ、それに続く一門らも皆方々で働かせられている。同腹の松寿丸など、人並み程度の力量があれば、いくらでも働きどころがあるはずだった。
まったくもって面倒くさい。いっそ適当に煙に巻くか。そう考えないでもない。
しかし、ここで適当なことを言い、あとで五郎に睨まれ、また甲斐で書付の山へ埋められるのは勘弁してもらいたかった。
承菊は徳の深そうな坊主の顔を作った。
「僭越ながら、それはよろしくないお考えでございましょう」
「分かっておる。異腹なれど、弟を僻むなど」
「そうではございませぬ」
承菊は首を振った。身に着けた数珠が音を立てた。
「松寿丸様は同腹。御屋形様にとって、もっとも頼りになる家臣にございますぞ。外へ出された弟君を僻む、僻まぬではなく、御屋形様の御心を汲まねばなりませぬ」
松寿丸は小首をかしげた。
「兄上様の心、か」
あれに人の心があるかはともかく、考えていることはあるだろう。
「左様にございます。まず、先代様の太刀を下げ渡されたのは、新三郎様を寵愛されたためではございませぬぞ。あくまで尾張那古野が、誰の家の者となったかを示すためでございます。那古野へ触手を伸ばそうとする不届き者は、その太刀の向こうに御屋形様の影を見ることになりまする」
松寿丸は興味深そうに頷いた。家臣らも同じだった。
承菊は、口にしているうちに、さらに面倒になって来た。当人に聞けばよいだろうと心底思った。それはおくびにも出さず、数珠を鳴らした。
「つまりは、お家のためにございましょう。本来ならば御舎弟の松寿丸様へ渡したかったであろう太刀。御屋形様も当然、気にしておられます。同腹の松寿丸様におかれましては、何も気にしていない、新三郎様に何かあれば力になるとお伝えなさればよろしい。そのように今川の一門の結束は強いと内外に示すことこそ、御屋形様の御心に適いましょう」
「兄上様が、松寿丸に太刀を。誠か、承菊」
そこに引っかかるのか、とまた承菊は内心で肩を落とした。
太刀の扱いなど承菊に知る由はなかった。ただ、言えばくれたであろうことは確かである。五郎は物に執着しない。馬でも衣でも茶器でも、必要のない物ならば、惜しまず人に与えた。
承菊は内心を隠し、恭しく頭を下げた。
「無論にございます。一年ほど身近にお仕えし、御屋形様に説法した者として、お約束いたしますぞ」
松寿丸は、そうか、そうかと声を弾ませた。家臣らも満足そうだった。
承菊は知らず知らずのうちに、五郎の控えるであろう大社に目をやっていた。
松寿丸は悪人ではない。愚かでもない。穏やかな世の君主としてなら、五郎より才があることさえ、あるかもしれなかった。無茶をせず、人の言葉をよく聞き、家臣をいたわる。それで治まる国なら、悪い主ではない。
だが乱世では、そうした性質がそのまま弱みになる。
松寿丸の心底嬉しそうな様子を目に納めているうちに、なぜか承菊の胃が痛んだ。扱いの悪い弟君と軽く話し、自身の心を軽くするつもりが、おかしなことになっている。
承菊は嘘が明らかになる前に、太刀から話を移すことにした。こちらは本当のところ聞いておきたいことでもあった。
「そういえば、松寿丸様も婚姻のお相手が決まりそうだと伺いましたが」
承菊が何気ない風に尋ねると、松寿丸は微妙な顔で頷いた。家臣らは、露骨に不満そうな顔をした。
ああ、これもかと承菊はまた内々で息を吐いた。
「村上という国人らしい。知っておるか、承菊」
「無論にございます。北信濃の雄ともいえるお方で、大層な戦上手。御屋形様も一目を置いておられるとか」
「承菊はどう思う」
「まこと、よい縁談かと」
これは嘘ではなかった。
北の越後と事を構える意味は薄い。ただ越後の息がかかった高梨らと国境を接すれば、遠からず火が着くことになる。そのため、越後との間には、少々のことでは揺るがぬ折衝役である村上を置いておきたかった。
無論、この村上とも、できることならば友好的な関係を築いておきたい。まかり間違っても、越後と共に今川を攻めようなどとは思わぬような関係が望ましかった。
松寿丸の家臣らが、堪え切れぬように顔をしかめた。ただ何か口走ることはなかった。
「御屋形様が是非にと申された縁談でございますれば、不満を抱く方がおかしいほどの良縁にございましょう」
冗談かどうかは知らないが、自分の妻にと望んだという話は承菊にも伝わっている。村上の当主に相当嫌がられたという話には、腹を抱えて笑ったのは秘密である。
承菊が家臣らへ目をやると、何人かが顔を逸らした。やがて松寿丸が、小さな声で言った。
「松寿丸もそう思うのだが、母上はあまり乗り気でないような気がしてな」
「おや、御台様が」
家臣らも揃って頷き始めた。承菊はその様子に勝手に眉が寄った。袖口で顔を隠しながら、眉間を揉む。幸い松寿丸は、承菊の挙動に気が付いていない。
「うむ。どうやら、当初は公家から縁談をと思うておられたらしい。兄上様の一言でそれが変わった。無論、村上殿と縁が出来るのはよいと思うのだが」
「確かに、お公家様のお顔を潰すのは恐ろしゅうございますな」
松寿丸が神妙そうに頷いた。
放っておけばよい、というのが承菊の意見だった。
どうせ五郎の機嫌を損ねることを恐れて、誰も何も出来はしない。
今上帝の病が重いという話は、すでに公家とつながりのある家中には伝わっている。当然今川にもだ。そっとこのことを重臣連中に伝え、万一のことがあれば、大葬や新帝の即位にも多くの銭を引き出そうとしているのだろう。
ならば、公家衆も、一つの縁談だけにかかずらっている暇はないだろう。
「ですが、信濃との縁を考えれば、最良ではないでしょうか。おそらくではございますが、御屋形様は松寿丸様に、信濃で所領を与えようとしておられるように思えまする」
「誠か」
松寿丸は嬉しそうにした。対照的に、家臣らの顔には不満が浮かんだ。
無理もなかった。
信濃の顔役は、朝比奈備中守である。松寿丸が信濃へ入れば、その下に置かれることになるだろう。備中守は松寿丸の血筋を敬いこそすれ、傅きはしない。あれは名実ともに、五郎の臣だった。
「まさしく、弟君を思われる兄心かと存じ上げまする。その御心を汲み、信濃を安んじることこそ、松寿丸様の御奉公と愚僧は考えまする」
承菊はそう言いながら、側付きの家臣らを見た。子供のように不貞腐れた顔をしている者もいた。
あの者たちは、いずれ松寿丸の傍から外されるのではないか。ふと承菊はそう考えた。
五郎は一度、彼らを戒めていた。松寿丸と芳菊丸、ほかの弟たちの間に、揉め事の種を作るなと命じたのである。
駿府から届く話が確かなら、五郎が甲斐、遠江、三河、信濃と動き回り、駿府の館へなかなか目を配れぬのをよいことにしたのか、それとも時が経ち、その言葉を軽く見始めたのか、彼らは言いつけを守っていない。
このままでは先がないだろう。そう思いながら、また数珠を握った。
甲斐、遠江、三河、信濃。新しく今川家中へ入った者たちが次々に役を得る中で、松寿丸の側付きであるというだけの者は、やがて風下へ追いやられるだろう。
承菊が薄く笑ったとき、大社の奥から五郎が歩み出て来た。
境内に低く続いていた話し声が止んだ。承菊の座から見えるのは、社殿へ続く石敷きと、その両側に居並ぶ諸将である。
その向こうにも人の列は続いている。振り返れば鳥居を出た先の原には、居並ぶ兵の陣が、山裾に沿って幾重にも置かれていた。
集まった兵は二万を超え、三万に届かんばかりだと聞いている。
これらの兵を従えている今川治部太夫氏景は、これらの光景を一瞥した後、ついと視線を前に向けた。万を超える軍勢に号令することに、何ら感慨を覚えていないようだった。
五郎はまだ十五にもなっていない。
だが居並ぶ大人たちの中へ出ても、頭一つは抜けて見えた。獣肉や魚、雉などを好んで食うせいか、年齢に似合わず身体には厚みがある。弓の鍛錬も怠らぬので、肩や腕もすでに若武者のものだった。
また今日の五郎は平素の直垂ではなく、一際華やかな武家の正装に身を包み、腰には太刀を佩いている。社殿の暗がりから日の下へ歩み出ると、神前の威がそのまま移ったようにも見えた。
「悔しや」
承菊はそっとつぶやいた。誰にも聞こえてはいない。
認めたくはないが、やはりあの男には華がある。
五郎がゆるゆると歩を進め、陣の正面に立った。すると、まず近くの諸将が頭を下げた。礼はその後ろへ伝わり、鳥居の外へ広がった。やや遅れて、遠い原に並ぶ旗も次々に傾いた。
人の波がさざめくようだった。
承菊の横では、松寿丸の側付きたちも息を呑んでいた。先ほどまで席次への不満を隠そうともしなかった者たちが、いまは五郎から目を離せずにいる。
五郎は礼が収まるのを待って、口を開いた。
「よく参った」
低いが、よく響く声だった。声変わりを終え、少年らしい高い響きはほとんど消えている。涼やかではあるが、腹に届く声である。
「諸将承知のことと思うが、此度は単なる馬揃えにあらず」
五郎は言葉を区切り、手を横に置いた。
側に控えていた奉行が、一つの大きな紙面を諸将に向けて掲げた。今川家武家法度と記載されている。
それから五郎は言葉を続けた。
「今川の法度を示す場である」
五郎が頷くと、奉行はまた別の紙を掲げる。五郎は視線を諸将に向けたまま読み上げた。
「一つ。所領、境目、仇を理由として、今川の裁定なく兵を動かしてはならない」
座に並ぶ国人たちの顔が、わずかに引き締まった。
信濃では、境を接する家が互いの田地を奪い、奪われた側が一族や縁者を集めて兵を出すことが珍しくなかった。そうした争いが、高遠と諏訪のような大きな諍いへ育つ。
今後、それを許さぬというのである。
承菊の思うところ、小身の国人にとっては、悪い話ではないと見ている。事実、大身の家から兵を入れられれば、自力で防ぐことは難しい。半面、大身の者にとっては、隣家を押さえて所領を広げる道を閉ざされることになる。
「二つ。今川の安堵を受けた家を攻めることは、今川に弓を引くこととみなす」
そこで、小身の国人たちの顔が上がった。先ほどより明らかに反応がよい。
第二条の言葉は強く分かりやすい。勝手に兵を動かすことを禁じる代わりに、今川が守るというのである。安堵を受けた家を攻めれば、相手が小さな地侍であっても、今川そのものを敵に回す。
第一条、第二条は、小身の国人らにとっては盾、大身の国人らにとっては鎖である。
承菊は、改めて主だった者たちの様子を窺った。さて、五郎はどう動いたかと、興味が湧き上がるのを抑えきれなかった。
ただ、承菊の期待と違い、どうにも顕著な反応はない。
遠江の井伊などは、満足そうに頷いている。甲斐の小山田、穴山なども、表立って不満を見せてはいなかった。この二国の国人らは子弟が駿府へ出入りし、今川家中で役を得始めている。
また戸田、牧野らの勢力が一掃された東三河もおとなしい。
ならばと思い、信濃と西三河に視線をやったが、こちらも騒ぎはない。西三河の国人らは、松平七郎が最初に頭を下げると、それに松平一門らは続き、それ以外の国人らも同様に倣った。
なにより、一番反感を持つと思っていた東信濃の国人らは、むしろ一番神妙に頷いていた。
なんだ、うまくやっているではないか、と承菊は歯噛みした。
承菊が視線を右へ左へと泳がせているうちに、条項は三つ目に移った。
「三つ。法度と軍役に従う限り、現在安堵された所領を理由なく奪わない」
これにも反応はなかった。前々から五郎が諸国の国人らに約束していることでもあった。
「四つ。兵、馬、米、銭、普請の役は書面で定める。書面にない平時の役は課さない」
こちらも同様に、諸国の国人にはすでに実施されていることである。
今川は事細かに台帳に記し、口うるさいことは知られている。隠し田にも厳しいが、反面、約束以上は取ろうとしないことも有名である。それを字に起こしただけで、真新しさはない。
承菊は数珠を小さく鳴らした。
第一条、第二条さえ飲ませれば、ここは反論もないだろう。おそらく主だった国人らには話も通している。
承菊は内心で舌を出した。
「兄上様」
一方で横の松寿丸が小さく呟いた。
承菊が見ると、松寿丸は五郎だけを見つめていた。先ほどまで気にしていた太刀や婚姻のことは、もう頭から消えているようだった。
五郎は弟の視線には一瞥もくれず、最後の条項を述べた。
「五つ。所領没収、死罪、家の断絶は府中の裁定を要する。奉行の処置に不服があれば、訴え出ることを許す」
来たと、承菊は身を固めた。
これがもっとも果断な条目だと思っていた。
これは承菊が、五郎がどこまで呑むかを見るつもりで草案へ滑り込ませた条項であり、消されると思っていたものだった。甲斐から送った草案には入れたが、府中で定まった法度の写しは、まだ見ていなかった。
だが、意外にも五郎は、これを肝要として消すことを許さなかったようだ。
この法を分かりやすくまとめると、既存の国々の法の上に、五郎の判断を置くということである。
水や山林、相続、村同士の争いには、それぞれの国の法や旧い慣わしを残さざるを得ない。だが、人を殺し、家を断ち、所領を奪う最後の裁定は、府中へ集める。
五郎は近ごろ、印判を用いて奉行や代官に書状を処理させており、すでに細々とした裁定は各国、各地区に置いた奉行で対応している。そこから重要なものだけを五郎の手元に送るだけだ。確かに、すでに仕組み上は難しくないだろう。
それでも、直訴の許しをはじめ、当主の権限を明確に強めるこの条目は、国人らには気に入らぬことだろう。
知らず知らずのうちに、承菊は唾を呑んでいた。
大条項をすべて読み上げた五郎は、ゆっくりと居並ぶ諸将へ順に視線を送った。
「この大項目は、定まれば五郎とて安々とは翻さぬ。いま不満があれば、申せ」
そう言って、切れ長の目が座に並ぶ者たちの上を動いた。
堂々としたものだった。
その目つきは以前と変わらず冷たい。その気になれば、居並ぶ国人の誰の首でも落とすだろう。
そのように考えると、承菊の胸にも理屈ではない圧が生まれた。
どうせ、誰も言えぬだろう。
そう思ったとき、列の中ほどで手が上がった。誰だろうと目を凝らすより早く、五郎が言った。
「許す。申せ、藤沢」
藤沢、と聞いても、当初承菊は頭にぴんと来るものがなかった。ただ、信濃衆の中から立ち上がった男を見て、高遠と近い藤沢であると思い至った。
過日の東信濃の再征において、道案内をしたという福与の藤沢だ。
その藤沢が一歩前へ出た。
「いささか、分かりかね申す。この第二条目について、例外はないのでござろうか」
「ない。今川の下の家に弓引く者は許さぬ」
五郎が言い切ると、座のあちこちで息を呑む気配がした。
藤沢は目を険しくした。落ちくぼんだ眼に、目に見えて力が入っている。
「さて、今川に連なる者は多うござる。連枝の方が弓引いたとき、新参者の我らに譲歩を求められることも考えられ申す」
「ない。まず戦を止め、先に動いた者、きっかけを作った者を咎める。制止を聞かず争い続ければ双方討つ」
ここで松寿丸が息を呑んだ。承菊はそれを横目で認めた。
なるほど、松寿丸は間違いなく一門である。それを五郎は、場合によっては討つと言葉にした。
藤沢は続けた。
「争う相手は武家ばかりとは限りますまい。寺社が弓を引き、地獄に落ちると脅すこともございましょう」
「法度に変わりなし。俗世を生きる者として同じく扱うべし。法度により地獄に落ちるとあらば、法度を定めたる治部太夫のみなり」
五郎の目も声も変わらなかった。
一応は出家した僧である承菊は数珠を鳴らした。そうでなければ笑ってしまいそうだった。五郎にとっては、幼き日の塩座も、由緒正しき寺社も変わりがないらしい。
藤沢が一度息を吐き、声を強くした。
「畏れながら、公方様、管領様を相手にしても同じことを言えましょうか」
低いざわめきが起き、すぐに消えた。承菊も体を固くした。先ほど感じた面白さなど引っ込んでいた。
五郎は周囲へ視線を走らせた。
承菊には、それだけで境内の空気が冷えたように感じられた。
他に動く者がいないことを見てから、五郎は頷いた。
「法度に例外なし。公方様が今川家中に弓引くとあらば、これを受けて立つほかなし。今川は法度に則り、安堵した家を守護する者ゆえ」
誰も声を立てなかった。寺社を飛び交っていた野鳥の声さえも遠く、春とは思えぬ暑さだけが大社の中にあった。
承菊は今の言葉を静かに反芻した。
今川は足利の一門である。また、幕府の権威によって甲斐、信濃の守護職を認められ、五郎自身も官位を受けている。
だが、その公方から命じられようとも、今川が一度安堵した家を見捨てはしないという。
五郎と藤沢の目が合った。
互いに言葉がない。だが、藤沢がふっと息を吐き、一歩下がった。
「であらば、某に異論はございませぬ」
五郎は一つ頷いた。
それから再び諸将を見渡したが、今度は誰も手を上げなかった。
やがて五郎は、側に置かれていた誓紙を手に取った。開いた紙の末には、すでに花押が据えられていた。その傍らには、各家へ渡す誓紙が重ねられている。
「ここに記したことは、治部も違えぬ。各々も違えぬと誓え」
奉行が前へ出て、誓紙を受け取った。
備中守が頭を下げた。それに駿河、遠江の重臣が続き、甲斐、三河、信濃の国人たちも礼をした。
礼は鳥居の外へ伝わり、さらに遠い原へ広がって行った。
松寿丸の側付きたちも、深く頭を下げている。
また人の波がさざめいていた。
その流れに逆らえず、承菊も頭を下げていた。
礼が終わると、諸将は家ごとに奉行の座へ進み、渡された誓紙に花押を据えることになっていた。
そのかたわらで、奉行たちが細目を記した書付を運び出した。
どっと疲れたが、まだ法度の披露目は始まったばかりだ。
定めた側の承菊は、残っている条目を頭の中で数えた。
国ごとの旧例、軍役を記す帳面、訴えを出す順序、安堵状の改め方など、考えただけで胸やけがした。




