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5章_3

 同年の春、信濃の山野で巻狩が催された。


 朝比奈備中守が信濃を預かって以来、国衆を一堂に集める機会は幾度か設けていたが、評定や宴だけでは顔を合わせても話が続かない。そこで信濃衆の間でふと話が上がった。巻狩ならば、馬や弓の腕を見せることもでき、野へ出れば互いの腹も見せあうこともできるだろう。五郎の信濃入りを歓迎するという名目で、府中周辺の国衆のほか、松尾の小笠原衆らも集まっていた。


 勢子の声が山裾に響き、枯れ草を踏み分ける音が近づいた。やがて灌木を割って、一頭の鹿が飛び出した。


 鹿は人馬の列を避けようとして横へ走り、五郎の前へ出た。五郎は馬上で弓を取り、矢を番えた。狙う間もないほど近かった。放った矢は鹿の肩口へ入り、鹿は数間駆けてから前脚を折り、草の上へ転がった。


 信濃の国衆からどよめきが起こった。手を打つ者もいる。


「お見事にございます」


「近くへ出たものを射ただけだ。良き所に出してくれた、勢子のおかげだろう」


 五郎は弓を小者へ渡した。国衆たちはなお鹿を囲み、矢の入り方を眺めて何事か言い合っている。

 五郎はそこから少し馬を離し、朝比奈備中守を伴った。

 まだ若いが、その明らかに武士然とした顔立ちは、年々威圧感を増しているようだった。


「あれらの相手か。苦労を掛けるな」


 備中守は顔を緩め、首を振った。


「何のことはございませぬ。皆、甲斐で慣れたものでございますし、小笠原の衆も協力していただいております」


「左様か。正安入道殿は信が厚いな」


 先代の信濃守護小笠原大膳大夫は出家し、正安と名を変えていた。現在は駿府にとどめ置かれ、家中で弓や礼法を教えている。


「家中においても相当な力量であらせられました。御舎弟の指導役というのは、なかなかのものかと」


「正しくは相談役だ。芳菊丸が勝手にあれこれ尋ねている。入道殿も野心の注ぎ先を探しているのだろうよ」


 正安入道は折り目正しい人間であるが、同時に才覚に見合う野心も備えている。心身を削られるような戦で疲弊していたが、駿府の穏やかな気風で往年の気力を取り戻しつつあった。この文武両道の才人と、学びに貪欲な芳菊丸が結びつくのはある意味当然と言えた。

 駿府の一角で弓の引き方から、頭の下げ方まで細かく聞く芳菊丸。それに対して一歩も臆することなく淡々と返す正安入道。この二人は、はた目には良き師弟関係のように見えたが、今川家中には異なる意見も多かった。


「よろしいので」


 備中守が声を潜めた。


「信濃が盤石になれば、さほどのことはない。芳菊丸も、入道殿に流されぬようには心掛けているようだ」


「御舎弟が聡明なのは承知しております。ですが入道殿は容易ならぬ男でもございます」


「駿府ではそこもとが軽く捻ったという話もあるが」


「兵数で押しただけでございます。最初の少数での差し合いであちらの力量が、こちらを上回っていることは承知しておりました」


「では良き経験をさせてもらったな。弟だけでなく家臣まで鍛えてもらって、入道殿には言葉もない」


「御屋形様」


 備中守が少し語気を強くした。


「弟らの周辺には人を置いている、絶対に二人にはさせぬ。兆候があれば切り離す。備中守にそこまで言わしめた入道殿もそこまで愚かではあるまい」


 五郎がそういうと、漸く備中守が頭を下げた。

 五郎はそこでふと、本題に入ることにした。此度の巻き狩りを見て決めようと思っていたが、やはり考えは変える必要はないと判断した。


「高遠、知久の件だが」


 備中守と、その近くにいた朝比奈家中の者たちが改まった。


「許す。備中守は譲った。だが、あれらはそれでも前に出た。遠慮は無用。甲斐衆を含め、兵は出す。主将はそこもとに任す」


「かたじけなく」


 結局、五郎が信濃守護に任じられる前から続いている高遠と諏訪の諍いは収まらなかった。

 ただそれだけならば、信濃では珍しくもない。だが高遠は今川へ断りもなく村上へ近づこうとした。村上側からそれとなく、こちらにその気はないと伝えられたが、今川方、とりわけ備中守は顔をつぶされた形になる。備中守は一旦怒りを治めた。まずは今川の法度にのっとり、双方の話を聞き詮議しようとしたのだ。

 備中守は高遠、諏訪の両当主に、府中へ来てことの始まりから釈明せよと命じた。ところが、府中へ来たのは諏訪だけだった。


 草のものや、諏訪方の話を聞く限り、高遠方は知久の一族とも結び、緩やかに今川から離れようとしている。

 備中守と五郎はそう見ていた。


「出家するならばそれでよし。難しいならば切れ」


 切れ、という言葉が風に乗ったらしい。遠巻きにしていた国衆の話し声が、しばらく途切れた。


「松尾の小笠原らも連れて行け。さすれば多少は背筋も伸びよう。小笠原の惣領などとこれ以上騒ぐようならば、五郎が癇癪を起こすとでも言っておけ」


「これはこれは」


 備中守が笑みを浮かべた。朝比奈家中の者たちも顔を緩めた。


「笑っておけるのも今のうちではある。三万の件、信濃が揺らぐようでは、なかなかに難しい」


「御信に応えられず、まことに――」


「いや、そうではない」


 五郎は備中守の言葉を止めた。

 朝比奈が信濃を纏められず、そとに出られない。これはそういう話ではなかった。


「単に、治部の国の作りがまずいのだろう。まだ外へ向かえる形になっていない。国人らの子弟を迎え入れ、今川に染める。役を持たせ、家中を守るという心を植え付ける。気の長い話なのだろう」


 備中守は少し黙ってから言った。


「御屋形様は十年もたたずに五か国の領主にございます。僭越ながら、甲斐、東三河が従順なだけでも、内を治めるのが下手などと文句を言われる筋合いはございますまい。それに五年後には信濃、西三河もまとまり、もはや止められる者はいなくなりましょう」


「その五年よな」


 昨今の情勢は明らかに早い。権勢を誇った名門が倒れ、それを支えるはずだった家が前に立っている。幕府は諸国を力で抑えられぬ、と暗に伝わってからは日の本の気風が変わり各々動き出している。

 五年もあれば大きな勢力が生まれる、今川の前に立ちふさがることも十分に考えられた。


「あっという間にございます。御屋形様も奥方を迎えられ、御子を授かるころでしょう」


 五郎はぎょっとして備中守を見た。


「そこもとまで、そのような冗談を――」


 言い終える前に、五郎の耳に風切り音がした。こちらに向かってくる音だった。

 

 五郎は反射的に手綱を引いた。

 馬が嘶き、前脚を高く上げた。その蹄があった場所へ、数本の矢が突き刺さった。


「御屋形様」


 備中守が馬を前へ出した。

 五郎は地面の矢を見て、ため息をついた。


「よい。甲斐で慣れた。任す」


 備中守は頷くと、朝比奈の者たちを促し、矢の飛んで来た方角へ駆けさせた。

 五郎の周囲は、すでに馬廻りと護衛の者たちによって固められていた。弓を構える者、林の中へ目を凝らす者、五郎の馬を囲って盾となる者が、命じられる前にそれぞれ動いている。


 五郎は豪奢な狩衣の裾を少し持ち上げた。じゃり、と下に着込んだ鎖帷子が音を立てた。

 外へ出るときは、おおむねこの姿だった。首も布で覆い、その下には同じように鎖を縫い込んである。重いことは重いが、むき出しの頭部へ矢が当たらぬ限り、即座に死にはしない。遺言を残す時間ぐらいは稼げる算段だった。


「苦労を掛ける」


 五郎が言うと、周囲を固めた馬廻りや護衛の者たちは、警戒を解かぬまま恭しく頭を下げた。


---


 それから数刻もたたぬうちに、下手人は捕らえられた。

 矢が飛んで来た林を人を分けて囲ませたところ、山を下りようとしていた男が見つかったのである。狩人の姿をしており、獲物を狙って手元が狂ったなどと申し立てたが、朝比奈備中守の見立てでは、まず訛りや身に着けていた物から、おそらく信濃衆とのことだった。


「この度は申し訳ございませぬ」


 備中守が頭を下げた。

 この男が頭を下げる姿は、あまり見たいものではなかった。


「よい。済んだことだ」


「されど、」


「もとより、歓迎されるとは思っていない。それに狙われるだけのことはしている。治部の首がつながっているのは、備中をはじめ家中の働きゆえ、咎めるに及ばず」


 五郎はそう言って話を打ち切った。

 だいぶこなれて来たとはいえ、備中守はこういうところが几帳面である。あとは左京進ぐらいだろうか。


 巻狩はそこで打ち切りとなり、一行は山裾の平場へ下りていた。獲った鹿や猪は脇へ運ばれ、勢子たちは離れたところに集められている。五郎の前には、巻狩にかこつけて挨拶に来た信濃衆が並んでいた。

 誰が言うでもなく信濃衆は纏まり、膝をついている。

 また一様に口をつぐみ、五郎の言葉を待っていた。白州で裁きを待つ罪人のごときありさまだった。


「顔を上げよ」


 言われて、国衆はためらいがちに顔を上げた。

 矢を射た者が信濃の人間と聞かされたのであろう。この一件を口実に、所領や過去の振る舞いを咎められるのではないかと案じているように見えた。


「済まぬな。せっかくの招きであったのに、このような仕儀になった。ただこれはすべて治部太夫の不徳の限りである。追って詫びの品を持たせるゆえ、本日は気をつけて帰られよ。ただ、これから名を申す者は残れ」


 五郎が抑揚のない声で言うと、国衆の間から、低いざわめきが起こった。

 よろしいのであろうかと、隣の者へ確かめる声も聞こえた。

 五郎がその様子を眺めていると、列の中ほどで一人の男が手を上げた。


 福与の藤沢であった。諏訪と境を接し、高遠とも近い者である。


「信濃守護としては、いささか手ぬるくございます」


 五郎の馬廻りが動いた。

 藤沢の声が終わらぬうちに、五郎と国衆の間へ進み出た者もいる。今日の当番には、遠江の大河内や天野の者が多かった。その一団のどこからか鯉口を切る音が聞こえた。足音にかき消されたが、物々しい、ひりつくような空気が徐々に匂いだした。

 五郎は手を上げて制した。


「許す。申せ」


 藤沢は、前へ出た馬廻りを見て、わずかに口元をこわばらせた。それでも促されると、一歩進んだ。


「これは信濃守護に弓を引く、諏訪の者にございます。御身を害し、諏訪に咎が及ばんと図った次第にございましょう」


「左様か」


 五郎は腰の矢立てから筆を執った。側付きが心得て、携えていた帖を開いて差し出した。

 帖にはすでに藤沢の名が大きく書かれていた。そこに五郎は今日のことを書き記した。

 やはり、話した方がいいだろうと筆を動かしながら決断した。


 その間も藤沢は強い言葉を発していた。


「この藤沢、先の男を諏訪上社で幾度も目にしてござる」


 向こうも同じであろうよ、とは言わなかった。

 上社へ詣でる者など、信濃衆には珍しくもない。境を接する藤沢の人間なら、なおさらである。


「して、藤沢殿」


 備中守が言った。相当に我慢強いこの男も、いつからか鞘を握りこんでいる。漆が塗られた鞘が軋みを上げていた。


「信濃守護にふさわしき振る舞いとは」


 藤沢は胸を張った。


「諏訪の誅罰にござろう。無論、この藤沢が先導いたしまする」


 五郎はもう一度、帖へ筆を走らせた。

 藤沢は、矢を射た男を見たことがあるという。それが真かどうかは分からない。だが、男が捕らえられたと聞くや、諏訪を討てと申し出たことは確かだった。

 もう十分だ、と五郎は内心で呟いた。


「無用。そこもと以外の者は気をつけて帰られよ」


 五郎は筆を収め、帖を側付きへ返した。

 信濃衆はしばらくその場にとどまっていたが、備中守の家臣に促されると、次々に頭を下げて退き始めた。


 そこへ藤沢の声が飛んだ。


「待たれよ、待たれよ。そのような弱腰では」


「藤沢」


 五郎は顔を上げ、その男を呼んだ。

 藤沢の顔がこわばった。五郎が名を呼んだのは、これが初めてだった。


「近く」


 藤沢は立ったまま五郎を見た。やがて腹を決めたように、馬を進めて来た。

 五郎は馬上から言った。


「今宵は、そこもとの館に泊まりたい」


---


 藤沢の館は、山裾の低い高みにあった。


 土塁と堀をめぐらせ、表門の脇には小さな櫓を構えている。館に近づいたとき、五郎は塀の内側に弓や長柄を持つ藤沢の家人が並んでいるのを見た。国人の館として、守りが薄いわけではなかった。


 だが、今夜はそこへ、五郎の馬廻りが百人近く入っていた。


 門には大河内の者が立ち、厩と裏手には天野の者が回っている。ほかの者も、供待ちや庭先に分かれて詰めていた。巻狩からそのまま来たので、弓矢を携え、胴丸や腹巻も解いていない者が多い。五郎が信濃へ入るときに連れていた供であり、藤沢の館を押さえるために集めた人数ではない。


 しかし、館の内に入ってしまえば、同じことだった。


 藤沢の家人も持ち場を離れてはいなかったが、表門から主屋へ通じる道には五郎の馬廻りが立っている。いま何か起きれば、藤沢方が館の中を自由に動けるとは思えなかった。


 五郎は庭に面した広間へ通された。


 座敷に入ったのは、五郎と藤沢のほかには、護衛が数人だけだった。残りは襖の外と縁側に控えている。

 藤沢の家臣も次の間に詰めていたが、人の出入りを取り仕切っているのは、いつの間にか五郎の側付きになっていた。


 膳には、昼の巻狩で得た鹿の肉。猪肉を焼いたもののほか、川魚、蕨、茸の塩漬けなどが並んだ。椀の汁にも山鳥の肉が入っていた。


 酒も出たが、五郎は口をつけなかった。白湯をもらい、勧められるまま膳の物を食べた。


 藤沢も、初めのうちは巻狩の話をした。鹿が近年少なくなったことや、山へ入る勢子を集めるのに手間がかかったことを話し、五郎もそれに応じた。

 やがて膳の物がおおかた片づくと、五郎は箸を置いた。


「馳走になった。急に訪れたにも関わらず、これほどの歓待を受けるとは有り難きことだ」


「は、いえ。こんなものしか出せず、申し訳ございませぬ」


 山でとれた肉が、五郎の馬廻り、護衛らの膳を満たした。一方で唐突に百人近いものをもてなす米などが出てくることは不思議でもある。

 館にこれだけの米を準備しなければならない理由とは何か、などとは問わなかった。

 五郎は緩やかに頷いた。


「信濃の山の幸を味わわせてもらった。滋味にあふれ、力が湧いて来るようだ。駿河の海の幸よりも、こちらの方が身体に合っているやもしれぬ」


 これは事実でもあった。

 五郎は甲斐でも獣肉を好んだ。当初、一部の甲斐国人らが当てつけのように猪肉などを食わせようとしたことがあったが、五郎はこれをぺろりと平らげた。駿河の御曹司は柔らかく炊いた白米しか食べぬと思っていたところにこれなので、随分甲斐の者らは驚いたようだった。

 藤沢も同様であったようで、口の端をひくつかせた。


「それは何よりでございます。ただ、流行りの澄酒とやらも、茶も出せず、汗顔の至りでございます」


「すぐに手に入るようになろう。物の流れは、道を整え、人が増えれば勝手に増える」


 藤沢は濁り酒の椀を手に取ったが、すぐには飲まなかった。ただ、話の筋が変わったことに安堵したようで、徐々に身振りも落ち着きだしている。


「されど信濃には、他国ほど変わった物もございますまい。同じ山国と思うておりました甲斐には、やれ金、やれ絹とございましたが、信濃にはこれといって」


「麻などよいかもしれぬな」


「麻でございますか」


「備中守や正安入道にも話を聞いたが、麻はもともと広く作っていると聞く。まず、こちらに手を入れたい」


「さて、どうでしょうか」


「気に入らぬか」


「いえ、滅相もございませぬ。ただ絹、木綿、金、塩、米。これらと比べますと、豊かになれるとは、あまり」


 確かに木綿、絹、金と比べれば、麻は随分質素にも思える。五郎は笑った。

 藤沢は椀を膳に戻した。口元に不満そうなものが現れた。


「いかがしました」


「いや、遠江で木綿をやり出したときも、同じ話をしたと思い出した。それを思えば、目はあろう」


 そこまで言ってから、五郎は少し考え、また口角を上げた。


「いや、これも甲斐で言ったな」


 藤沢はじっと五郎を見ていた。


「甲斐、遠江でうまくいったから信濃でも上手くいくと」


「楽観が過ぎるか。信濃は特別過酷な国であると思うか」


 藤沢はそこでぐっと黙った。


「実際のところ、信濃はそう悪くはないだろう。遠江でやったように種も、麻作りを知る者も、すべてこちらで用意する。品質をそろえる。精麻や布を一定量、米や銭と交換する。年貢の代わりにする」


 藤沢はすねたように口を尖らした。


「それは何とも、壮大でございますな」


「確かに迂遠よな」


 そこは五郎も否定しなかった。だが、自分の言葉を取り下げもしなかった。国の仕組み、どのように銭を生み、他国と繋がるかまで整えようとするとそこまで迂遠で壮大に取り込んでいかないと難しい。

 五郎は少し前に乗り出した。 


「だがな、そこまで行くと、信濃は麻の名産地になる。それに麻が気に入らぬならば、馬をやってもよい。甲斐だけでは足らぬ」


 産業を一つに絞ること、米をやめることはやはり恐ろしい。天候などいくらでも麻に打撃を与える要素は考えられるため、それを補う産業は必要である。

 

 そこまで言うと藤沢はようやく椀の酒を飲んだ。

 そのころには、座敷に入ったときから顔にあった硬さも、いくらか薄れているように見えた。


「いろいろと考えなさるものですな」


 五郎は、藤沢が椀を膳へ戻すのを待って言った。


「そこもと同じだ。今日はずいぶん大胆なことをした」


 藤沢の手が止まった。


「何を」


「何も確かなことはない」


 五郎は顎を撫でた。髭の生えぬ顎はつるりとした感触を伝えた。


「信濃衆の歓迎としての巻狩であるが、言い出したのは藤沢、そこもとよな。言い出したのは、ちょうど高遠がそっぽを向いたあとのことか。諏訪に軍勢を差し向けてしまえば、うやむやになる。もしくは、高遠と諏訪、両方の地を得る」


「な、何の根拠があって」


 藤沢が立ち上がった。膳が揺れ、箸が音を立てて落ちた。


「何も確かなことはないと言っておろう。それに、外には伝わらん。座れ」


 藤沢は立ったまま、五郎の左右にいる護衛を見た。

 二人とも片膝を立ててはいない。刀へ手をかけてもいなかった。ただ、藤沢が次の一歩を踏み出せば、間に入るだけの構えは崩していなかった。

 襖の外には、五郎方と藤沢方の家臣がいる。その向こうの庭からは、馬廻りの低い話し声と、馬が板壁を蹴る音が聞こえて来た。


 藤沢は額の汗を袖で拭い、腰を下ろした。


「どうにもやる気のない矢だった。殺すつもりはないことは分かった。ゆえにこちらも何かしでかすつもりはない。治部がここに来、膳をともにした以上、互いにそれは分かろう」


 藤沢はぐっと息をのみ、肩を丸めた。落ちくぼんだ目で、見上げるようにして睨んでくる。その眼は、飛びかかる寸前の獣のように見えた。


「某ではござらん」


「左様か。まあよい」


 五郎は、あらためて藤沢の顔を見た。

 年は五郎よりはるかに上である。頬は痩せ、目尻には皺があった。日ごろから人を疑っている者の顔にも見えたし、少ない土地と家人を守るために、絶えず周囲を窺って来た者の顔にも見えた。

 どちらでもあるし、どちらでもない、そんな気がした。

 

 五郎は顎を撫でる手を止めた。


「ただ、今一度言う。やめよ」


「何を」


「信濃に火をつけて回ろうとすること。備中の足を引っ張ること」


 五郎は目を細めた。


「治部を敵とみなすこと。やめよ。損だ」


 藤沢は口を開きかけたが、何も言わなかった。しばらくして唇を噛んだ。


「御身を敵に回すつもりはござらん。今一度、領地を増やそうとするのを咎められる筋合いもござらん」


 五郎は喉を鳴らした。はっきりとした物言いはやはり心地が良かった。

 それに、藤沢の言にも一理がある。五郎はあっという間に人の領国を奪い、自分のものとした。


「確かに、治部が言えたことではない。だが、領地を増やしても苦労が増えるだけぞ」


「一族が栄えるために、より大きくならねばなるまい。頭を押さえられる気持ちなど知らぬ者が、勝手なことを申すな」


 五郎はまた喉を鳴らした。先ほどより大きい音がした。


「確かに。間違ってはいまい」


 そう答えると、藤沢が少し意外そうに五郎を見た。

 五郎は膳の上で指を折った。


「銭のある苦労、ない苦労。双方存在するが、えてして後者の方がつらいものだ。領地や家格も同じと言われれば、否定し切れん」


 折った指を、そのまま膳の上へ置いた。もうすでに笑いは引っ込んでいる。


「だが、許さぬ。藤沢、今川の法に従うべし」


 藤沢の目が鋭くなった。


「それに従わぬとあらば」


 五郎は膳を指で叩いた。乾いた音が室内に響いた。


「貧しいままだな。酒も濁ったままだ」


「従えば豊かになるとでも」


「そこは約束できる。子供らが独り立ちできるように、役も増えよう」


 藤沢は返事をしなかった。

 視線が膳に落ちた。そこには、ほとんど手をつけられていない川魚と、半分ほど残った濁り酒があった。


「昨日今日来た余所者に全幅の信を直ちに預けよ、とは言わぬ。ただ、高遠に肩入れする動きはやめておけ。諏訪を煽るのもだ。これらはやがて倒れる。両家が倒れたとき、蔵が膨らんでおらねば、その時こそ改めて火を投げ入れることを検討せよ」


 藤沢は顔を上げた。


「そのときになれば、藤沢が広がる余地などない。そこまで今川の法は温くなかろう」


 吐き捨てるような口調だった。

 五郎は少し視線を外に置いた。


「であるな。だが、そこもとも広げたいとも思わぬようになろうな」


 さて、どうする、と五郎は白湯を飲んだ。

 すでに日は落ちていた。開けた障子の向こうに庭は見えず、軒下に掛けた松明の火だけが、地面を赤く照らしている。風が入るたび、座敷の灯明が揺れた。


 藤沢はまた黙りこんだ。額にジワリと脂汗を浮かべ、拳を膝の上で握っていた。年季のいった手には染みが見て取れた。

 五郎は返事を急がせなかった。だが、門と庭には百人近い馬廻りがおり、その者らの上げる声や足音が室内にまで響いていた。


 やがて藤沢が顔を上げた。ゆるりとした動きであり、目がにわかに血走っている。


「一足の距離にござる。御身をここで斬れば、どういたしましょう」


 藤沢が面白いことを言った。五郎は鼻で笑った。


「見誤った馬鹿が二人死ぬ。これはよい。ただ、余波で大勢死ぬ。これは困る」

 

 藤沢が前に出た。小さな体躯であるが分厚い体つきをしている。年老いたとはいえ、まさしく山を駆け回った武士であった。


「藤沢を大きくするという大望を果たせぬのであれば、いっそ軍神の首を取った男として名を馳せたい。これは馬鹿な考えでしょうかな」


「自分に矢を射かけた男の屋敷へのこのこ来て、殺される。その時点でもはや軍神ではあるまい。やはり、馬鹿者を討った馬鹿と、後世の歴史家は語ろうな」


 藤沢の肩がわずかに動いた。それから、すとんと腰を付けた。先ほどまで膨らんでいたようだった体も、どこか萎んでいるようにも感じられた。

 五郎の右手に控えていた護衛が、音を立てずに膝を進めた。襖の外でも、人が身じろぎする気配がした。


 藤沢は護衛を見た。それから、障子の向こうへ目を向けた。

 庭では誰かが松明へ薪を足したらしく、火の粉が数片、暗がりへ舞い上がった。


 藤沢は深く息を吐いた。肺の空気を全て絞り出すような、長い吐息だった。


「もとより、首の根を押さえられておりますれば、御身の器にすがるほかございませぬ。どうか藤沢をよろしくお願いいたしまする」


「信濃のため、今一つ力を借りよう。差し当たって、御子息を府中に出仕させていただく」


 藤沢は五郎を見た。

 何か言いかけたようだったが、口には出さなかった。


 やがて、またため息をついて頷いた。


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― 新着の感想 ―
主人公は自身を「家」というシステムのための部品に見てるんでしょうかね。自分の命を軽く扱いますね。松平との対決は「惣領」と「システム」の戦いだったのかな?と思いました。本領駿河では旧体制で弟を教育し、新…
話が進むにつれ読後感としてのサイコパス味が薄くなってきてるんですがこれは人間が成長したり変わったからなのか、単に一側面の切り抜きが増えてきているだけで本質は変わっておらず、今後またサイコパスを味わえる…
またリスキーなことしてるよこの御屋形…
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