5章_2
矢作川の普請場を見下ろす仮屋で、五郎は筆を取っていた。
手もとに広げているのは、信濃の国人衆から届いた書状である。こまごまとした物は信濃に置いた代官が捌いている。五郎の手元に来るのは、火が付きかねない所領の境、川の堰に関する訴え。そして、村上との境にある小県などの国人衆の扱いである。特にこの小県の国人らは突如国境を接することになった大勢力との間で生き残ろうと必死である。特に新たな隣人である今川には、自分たちの一門を人質に近い形で預けようとしている。
この度五郎の手元に届いた文も、その扱いに困ってのものであった。
朝比奈備中守からの添え状もあり、とりあえずは駿府で預かるかと考えていた。
五郎がそのように返書の文言を考えていると、仮屋の外で声がした。
「若、いえ、御屋形様。午前の普請、終わりいたしました」
顔を上げると、岡部与一郎景親が立っていた。
五郎の元服とともに名を改め、景親と名乗るようになった。官途名はよいのかと聞いたこともあったが、与一郎は照れくさそうに笑っただけだった。これからも与一郎で通すつもりなのだろう。
近ごろは跡継ぎにも恵まれ、岡部家の内も落ち着いている。
算用に強く、人の扱いもうまい。由比小次郎と役目を競うものと五郎は思っていたが、与一郎はふいに土木、とくに治水へ興味を示し、いまは普請奉行の役を得ていた。
「ご苦労、与一郎。なにか気になる点は」
与一郎の後ろには、同役の者が数人控えていた。いずれも若い。
普請奉行は、家中では比較的若い者がつく役である。というのもこの奉行自体が新たに作った部門である。天竜、大井、矢作、そして甲斐の山々と手を入れなければならない地が領国内にいくつも出たため、既存の役職では回らなくなった。
本当ならば年嵩の経験豊かなものを中心に固めるつもりだったが、それらも各地の代官などに引っ張りだこで、若手を起用するほかなかった。
先代、氏親の施政下で揉まれたのか予想外に働いてもらっているが、若さゆえに困った部分もある。
それは特に五郎への態度である。どうにも固い。
御屋形の前で普請の不都合を口にすれば、自分の差配が悪いと受け取られると思うのか、皆、五郎の顔色を窺っては、はっきりしたことを言わなかった。
もと側付きの与一郎を除いては。
「松平よりというより、西三河の国人らはやはりあまり動きがよくございませぬ」
「詳しく」
「こちらを憎んでいるというより、なんでしょうか。そうですな、駿河の人間にあれこれ指図されるのを面白く思っていないようです。さすがに暮らしに大きくかかわる矢作川の普請ですので、邪魔は致しませぬ。それでも進んで汗を流そうともしませぬな」
五郎は仮屋の外へ目をやった。
午前の作業を終えた人足が、川原に設けられた飯場へ集まり始めている。鍬や籠を片づけてから休む者もいれば、合図が鳴る前から道具を置いていた者もいた。
西三河から出た者には、後者が多いらしい。
「賃金と昼飯だけを持っていくか」
「左様にございます」
ふうん、と五郎は唸った。
「上々であるな」
「でありますな」
与一郎も頷いた。
「甲斐を思えば、はるかに良い。あれらは目を離すと谷に落とそうとする」
「甲斐の穴山殿らを間に入れてようやく動き出しましたからな。目に見えて成果が上がり、御屋形様が声をかけ出してようやく、今の三河普請と同程度ですから。それに比べればさすがに」
甲斐では、道を通すにも川を改めるにも、普請を妨げる者を探し出すところから始めねばならなかった。石を落とされ、杭を抜かれ、夜のうちに掘った場所を埋め戻されたこともある。
それに比べれば、西三河の者は銭を受け取り、人を出していた。不満を隠さぬだけ、まだ扱いやすい。
「それに使っている人足の数も段違いでございますからな」
横から声が加わった。気軽な声に普請奉行の者らがぎょっとした。
「父上。失礼ですぞ」
天野宮内が、息子の天野兵馬を伴って仮屋へ入って来た。
兵馬は、再興された天野家の当主となっている。どこかに匿われていた天野の姫を娶り、旧領の幾つかを五郎より任されていた。
兵馬は父より一歩下がって歩いていたが、川原へ目を向けると、そのまま足を止めた。
宮内は御料時代から五郎に仕え、甲斐での戦もともにした男である。わずかな兵と銭をやりくりしていたころからの家臣であり、互いの気心は知れていた。
その宮内が姿を見せると、与一郎は少し身を固くした。
五郎に悪事を教えたのは宮内だと、いまだに思っている節がある。
「愚息めは竦んでおりますが、壮観といってもよい数でございましょう。信濃、東三河、遠江。あとは少しですが甲斐の治水巧者と、今川領国から人が集まっておりまする」
確かに眼前で、普請に出ている者は数万に及んだ。
矢作川の上下に幾つもの工区を置き、土を掘る者、籠を背負う者、土嚢を運ぶ者、杭を打つ者が、川筋に沿って動いている。
各国より集まった人間が、一つの号令で、一つの川に集まっている。
午前の作業が終わり、槌の音が止んでも、川原は静かにはならなかった。これだけの人数の腹を満たすために飯を配る者が声を張り、荷車が軋み、馬が嘶いている。飯場から立ちのぼる煙に、濡れた土と汗の匂いが混じっていた。
宮内はその有様を見渡し、はあ、と息を吐いた。
「ですがよろしいので。こういうのはその土地をなつかせる。いえ、失礼、信を掴むために、土地の者を多く雇うのでは」
誰に聞かせるわけでもないのに、宮内は露悪的な言い方を好んだ。五郎は一々相手にしない。
「国人らの米やら馬やらをな、高値で買った。これだけ人が動くのだから、邪魔をするよりも乗った方が得と、それとなく伝えておいた。銅臭を厭うならば、今川に物だけ任せて楽をしろとも伝えた。まあ、潤っておろう」
直接各家の当主と売り買いの話などはしない。出入りの商人や家宰に対して買い付けを行った。農耕馬、牛を買い上げる話は普通の家々では嫌がれる話であるが、これらは簡単にまとまった。兵をちらつかせたのではない。ただ、向こうが吹っ掛けた言い値を銭束で返した。
今後は早いものから言い値で買うと言っておくと、二度目からの交渉はあっという間に済むようになった。
とはいえ五郎には三河衆の顔色を窺うための売買のつもりもなかった。銭と贅の味を教え、こちら側に組み込むための一歩と見ていた。
「と仰せですが、これほどまでに他所者が来るとなれば治安も悪くなりましょう。蔵が富もうと、三河衆もいい顔は致しませぬのでは」
宮内が顎を撫でながら言った。ひどく楽しげに見えた。
実際のところ、普請場では、すでに喧嘩や盗みも起きていた。飯場で博打を始め、身ぐるみを剝がされた者がいるという報告も来ている。三河者の中には顔役に泣きついたものもいる。
「それで訴訟が来るのであれば、良い機会ともみておる」
宮内が嬉しそうに頷いた。
兵馬も父の言葉の意味を知っているらしく、困ったように口元を緩めた。
「なるほど、いつものでございますね。この年になっても御料様の名裁きを見られるとは、宮内は嬉しゅうございます」
「父上、失礼ですぞ。御屋形様と」
宮内はそ知らぬ顔だった。
「よい。もう慣れた。あと、何もかにも御料と同じとはいかぬ。あの時から工夫もするつもりだ」
ほう、と宮内が唸った。
与一郎と兵馬、それに同役の者たちも、似たような顔をした。
五郎は手もとに残した信濃の書状を見た。
人が集まれば争いが起こる。争いが起これば、誰がどの家に属し、どこの法に従うのかが表へ出る。
「松平七郎様がいらっしゃいました」
小姓の声がした。
飯富家当主の弟であり、兄と同じく声がよく通る、実直な男である。
その小姓に案内され、西郷弾正の息子、西郷七郎改め松平七郎が姿を見せた。
七郎の後ろには、西郷のころから仕えて来た家臣と、一門の者が数人控えている。
五郎は少し頷いた。
「よく来てくれた七郎殿。安祥城に移ったばかりなのに、矢作川は聊か遠かろう」
「七郎とお呼びください、御屋形様。家臣に遠慮は無用でございます」
五郎は七郎の後ろに控える家臣らを、視界の端に捉えた。
年嵩の者が、わずかに顎を引いた。この呼び方に不満はないようだった。
「では七郎。この度は助かった。そこもとの父の名、使わせてもらった。酒井をはじめ松平縁故の者、普請の件、ようやく納得してくれた」
「矢作の川を鎮めること、西三河に住まう者にとっては悲願でございます。父も泉下で喜んでおりましょう」
五郎は七郎だけでなく、その家臣、一門の者へも目をやった。
皆、静かに目を伏せている。ひりついた空気は漂っていない。少なくとも、いまの言葉に反発する者はいないようだった。
少し歩くかと言い、五郎は七郎を伴って普請場へ近づいた。
川原では、西三河の国人らが出した人足が休息を取っていた。配られた握り飯を膝の上に抱え、味噌をつけて食べている。
今川と松平の若い当主が姿を見せると、話し声が少しずつ止んだ。
中には目を見開く者もいた。土を運んだにしては手のきれいな男も交じっている。おそらく各国人から、普請の様子を探って来いと出された者だろう。
七郎と話したいのは嘘ではないが、それ以上に彼らに聞かせたかった。
「普請の件、今年、どこまでやるとしているのか話は聞いているか」
「確か水の取り口を増やし、暴れ水を少しでも減らすという話はお伺いしております」
「少し変える」
「と言いますと」
「川を増やそうと思っている」
あのあたりにな、と五郎は指を差した。
その先には、米津の野が広がっていた。低く湿った土地で、雨が続けば水が溜まり、乾けば草の色が鈍くなる。
周囲にいた人足の顔が動いた。
その中に混じっていた草者らしい男も、握り飯を口へ運ぶ手を止めた。
「川を増やす、と仰せでございますが、それはまたなぜ」
「思い付きというわけではないが、想像以上に人を出してもらった。加えて家中で治水の知見も増えた。数年先に予定していた大普請にも手を出せよう。そういう見込みができた」
七郎は目を見開き、それから首をひねった。
無理もない、と五郎は思った。
川を増やすと言われて、すぐにその形を思い描ける者は多くない。
五郎は声を少し和らげた。
「そう難しくはない。川を作ると申したが、まずは幾つか川の流れを作るだけ。徐々に行うが、とりあえずはこの普請で分流、そうであるな、米津のあたりに水の逃げ道を作ろうと考えておる」
結局、普段行っていることを大きくしただけだった。水の逃げ口や、増水時の貯水池などは珍しくもない。それを拡大し、既存の小さな川につなげようというだけである。
七郎はしばらく米津の方を眺めた。
やがて川筋を思い描けたのか、顔を上げた。だが、別の懸念が浮かんだらしく、眉を寄せている。
「そうなりますと、矢作川の下流である吉良様がお困りになるのでは」
現在の矢作川は、吉良の勢力圏を通っている。これが細ることに対しての懸念は当然であった。
「義兄殿には承知していただいた。西三河のこととなれば、二つ返事であった」
実際は脅しと銭だった。
吉良は、川筋を変えれば自領の田畑が損なわれると渋った。そこで損が出れば今川が補うと約し、それでも受けぬなら致し方ない。三河守護として別の道を考える。そういった。
吉良は五郎の母である中御門や、今川家中を通じて五郎の翻意を図ろうとした。しかし、この動きはすぐに止まった。今川家中の誰も彼も、動き出した五郎の前に立とうとはしなかった。
そこで改めて吉良の利を損なわぬよう取り計らうと文を書くと、吉良からは了承の返事を得た。
「そのような」
七郎は低く唸った。
「故、今しばらく七郎にも力を貸してもらうことになる」
「無論でございます。家臣に遠慮は無用でございますぞ」
そこで、七郎付きの家臣がわずかに身体を固くした。
五郎はそれを見た。
「助かる。しかし、そこもとも尾張との国境故、普請の役料も人足の雇いもこちらで持つ」
「しかし、満足に御恩も返しておらぬのに、重ね重ね」
「よい」
五郎が言い切ると、七郎の家臣は、わずかに息を吐いた。
国境への城替え、家督相続と出費がかさんでいるのは、五郎も承知していた。いま七郎へ新しい負担を負わせれば、普請の間に立たせるどころではない。
「ただ、特にそなたには普請の間に立ってもらいたい。甲斐で学んだが、今川が表立って声を出すと、皆こわばる。五郎が陣頭に立つと特にだ」
後ろについて来た与一郎と、その同役の者たちが苦笑した。五郎の譜代であるはずの者まで、同じような顔をしている。
随分、七郎の家臣と反応が違う。そう訝しんでいると七郎の力強い声が響いた。
「若輩者の自分にはどれだけのことができるかわかりませぬが、微力を尽くさせていただきます」
「一つ、頼む。そこもとと弾正の名、使わせてもらう」
七郎と、その後ろに控える一団がそろって頭を下げた。
その姿を見届け、五郎は次に済ませねばならないことへ移った。
「そういえば七郎。そこもと、名を改めたいのだったな」
七郎が恐れ多いとでもいうように、身体を小さくした。
「は、お許しをいただければ」
「構わぬ、許す。だが、」
七郎とその家臣らが、わずかに訝しそうな顔をした。
五郎は少し間を置いた。
周囲には与一郎、宮内、兵馬、普請奉行たちがいる。少し離れた場所には、西三河の国人から出された者もいた。
ここで名を与えれば、日の暮れぬうちに西三河の方々へ伝わるだろう。
「そうであるな。父君弾正にあやかって、松平七郎昌景とするのが良かろうな」
「いえ、景昌とさせていただきとうございます」
七郎の返事は早かった。
この流れはある意味でお決まりの流れである。父祖伝来の名前を崩さないようにと、主君が譲る。そこを家臣が殊勝に断る。どちらの字が上か示すことで、改めて周囲に家臣となったことを示すのだ。
七郎もまた、五郎の一字を上へ置き、今川から名を受けたことをはっきり示したいのであろう。
「岡崎を返さず、安祥城に据えざるを得なかったのだ。弾正殿に顔が立たぬゆえ、父君同様、昌の字を上にせよ」
五郎は黙って七郎の目を見た。
景昌では、今川が西三河へ送り込んだ家臣に見える。
昌景であれば、西郷弾正の子が松平を継ぎ、そのうえで今川から一字を受けた形になる。西三河の者が受け入れるにも、その方が収まりがよかった。
何より今川に面白くないものを感じている旧松平、そしてそれに近い国人らは七郎の元へ集うだろう。
七郎はしばらく五郎の目を見返していた。その眼に困惑の色は感じられなかった。物知らずにも思えなかった。
やがて頷き、一度家臣を振り返った。年嵩の家臣も、ゆっくりと深く頷いた。
それから七郎は、泥に汚れるのも構わず、五郎の前へ膝をついた。
「必ずやご芳情に報いて見せまする」
「かたじけなし」
七郎の家臣たちも、松平昌景となった主の後ろで深く頭を下げた。
与一郎は七郎と五郎を一度ずつ見比べた。何か言いたげに口を開きかけたが、結局は困ったように眉を下げ、黙って目を伏せた。
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岡崎の館の外では、朝から槌の音が絶えなかった。
矢作川の普請に使う材木や縄、鉄物、米などが、いったん岡崎へ集められ、そこから川筋に設けられた工区へ送り出されている。館へ続く道には荷車が列をつくり、矢作川の船着き場では、船から荷を揚げる人足の声が日暮れまで続いた。この日も庭先を、麻袋を背負った男たちが幾人も通り過ぎて行った。開け放した障子から、馬の嘶きと、車輪が土を噛む音が入って来る。
岡崎はもともと、街道と矢作川が交わる土地だった。東三河や遠江から来た品はここを通り、西三河の米や木綿も集まる。信濃から甲斐、三河を経て来る品を岡崎へ下ろし、さらに尾張へ流す道を整えれば、矢作川の普請が終わったあとも人と荷は残るだろう。
五郎は岡崎を直轄地とし、尾張口に置いた安祥城を支える場所として手を入れるつもりだった。安祥城が尾張を睨む城なら、岡崎はそこへ米と兵と馬を送り続ける場所になる。
五郎は館の一室で、岡崎へ移す蔵米と、道普請に出す人足の書付を改めていた。
廊下を踏む足音がした。しばらくして、由比美作守が入口に姿を見せた。
美作守はすでに老境へ入った譜代の家臣である。だが近ごろは、新たな役目を得たためか、歩く足も話す声も以前より張りがある。以前なら若い者へ持たせたであろう書付を自ら抱え、各所を動き回っていた。
その後ろには、奥平ら東三河の国人と、遠江から出仕した者たちが控えている。美作守は近ごろ、そうした新参の者を連れて歩き、家中の仕来りや役目を教えていた。
「御屋形様、お疲れのところ申し訳ございませぬ。尾張今川の名児耶蔵人殿がいらっしゃっております」
「さようか。客間に通せ。新三郎も呼んでおいてくれ」
美作守は頭を下げ、連れて来た者たちとともに去った。
五郎は筆を置き、両肩を後ろへ反らした。首の付け根が鳴った。右の肩には、筆を持っていただけとは思えぬ重さが残っている。
疲れている。
矢作川の普請を始めてから、岡崎へ来ても人と物の差配に追われ、夜になれば駿河、甲斐、信濃から届いた書状を読んだ。寝所へ入ってからも、翌日に動かす米や銭のことが頭から離れない。
よくないとは思うが、いまが踏ん張りどころでもあった。せめて十年のうちに、五郎がいなくとも人と荷が動き、訴えと命令が滞らず行き来する形へ整えなければならない。
五郎は書付を重ねて端へ寄せ、立ち上がった。
廊下へ出ると、館の裏手から木を削る音が聞こえた。こちらでも蔵を増築している。普請場へ送る物が増え、いまある蔵だけでは収まらなくなっていた。
客間は、畳だけを新しく入れ替えてあった。壁も柱も古いままで、床には花も掛物もない。館の外の騒がしさに比べ、部屋の中は妙にがらんとして見えた。
先に通されていた男は、尾張今川家の当主、名児耶蔵人高重である。年嵩の男であり、父氏親よりもわずかに年長であるが、痩せぎすの長身がずっと年老いているような印象を与えた。
蔵人は何も置かれていない床や、色の褪せた欄間を見回していた。五郎が入ると、すぐにこちらを向いた。その拍子に細い肩がわずかに揺れた。
年で言えば、五郎の倍以上は生きているはずだが、落ち着かぬ様子があった。
後ろに控える家臣たちも、五郎を見ると一斉に背を正した。
「蔵人殿、お待たせした」
五郎が頭を下げると、蔵人とその家臣たちも、あわてて両手をついた。
「いえ、治部太夫殿、こちらからお願いした次第でございます。そのようになさっては立つ瀬がございませぬ」
「そう仰るのはありがたきことなれど、蔵人殿は年長の同族にございましょう。これをないがしろにしては、先代に叱られてしまいます」
五郎が極力声を和らげて言うと、蔵人は困ったように頭を搔いた。
あったことなどほとんどない同族であるが、同族は同族である。
「これは、どうも」
そこで小姓が茶を運んで来た。茶碗を置くと、薄く湯気が上がった。
駿河で作らせた上物の茶で、近ごろは京へも卸している。五郎が一口飲むと、舌に残る渋みは薄く、そのあとにわずかな甘みがあった。悪くない。
蔵人も茶を口へ運んだ。しばらく味わったあと、目を少し開いた。
「蔵人殿がお越しになると聞き、上物を用意させた甲斐がございました」
「いや、なんと恥ずかしい。やはり治部殿の家中は風雅であると驚き申した」
「いえ、すでにご覧になった通り、治部の内面などこのようなものでございます」
五郎は片手を広げ、がらんとした客間を示した。蔵人の後ろにいる家臣の一人が、こらえきれぬように口元を緩めた。蔵人もようやく肩から力を抜いたように見えた。
「ですが、弟らの身が立つように取り計らうことに関しては、出し惜しむつもりはございませぬ」
見計らったように、廊下の外から声がした。
「新三郎、参りました」
五郎は蔵人へ目配せした。蔵人は膝の上に置いた手を握り、頷いた。
「構わぬ。入れ」
障子が開き、小姓に伴われ、今川新三郎氏豊が入って来た。
つい先日元服させたが、まだ四つの庶弟である。小さな身体に合わせた直垂を着け、部屋へ入ると、教えられた通りに両手をついた。
松寿丸、芳菊丸とは母が違い、新三郎の母はそれほど家格の高い家の出ではない。また、福島家を後ろ盾とする竹丸とも違い、家中に大きな味方を持たなかった。あえて言えば、五郎自身がこの弟を庇護し、身が立つよう何くれとなく整えて来た。
「新三郎。挨拶せよ。そこもとの父になられる方だ」
「おお、それでは」
蔵人が思わずというように身体を前へ出した。
「父、修理大夫が結んだ通り、弟の新三郎を養子としていただきたく」
新三郎が改めて頭を下げた。
「若輩の身でございますが、これよりは力を尽くさせていただきまする」
「何と立派な」
蔵人は声を上げ、左右に控える家臣たちを振り返った。家臣たちも顔をほころばせ、互いに頷き合っている。
齢四つと聞いて不安もあったろうが、出来の良い童が出てきたことに心から喜んでいるのだろう。
五郎は新三郎へ目を向けた。新三郎もこちらを見た。
目が合った瞬間、幼い顔がわずかに固くなった。だが、すぐに小さく、確かに頷いた。
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それは、駿府で父修理大夫と会ってから、幾日か後のことである。
五郎は自室へ新三郎を呼び寄せた。
新三郎は松寿丸や芳菊丸と違い、五郎の前へ出ると明らかに身を固くした。幼いころから、側付きの人数にも、受ける手習いにも、松寿丸や芳菊丸とは差をつけられていた。五郎が家督を握ってから、その隔たりは小さくなっている。
京から招いた高僧、駿府へ下向して来た公家、譜代の隠居にも教えを受けさせた。新三郎が将来どこへ出されても困らぬよう、五郎が命じたのである。
人づてには、新三郎がそのことを有り難く思っていると聞いていた。だが、実際に五郎と向かい合うとなると、勝手が違うらしい。膝の前には茶が出ていたが、新三郎は手をつけなかった。小さな両手を膝の上にそろえ、指だけをかすかに動かしている。
「新三郎。そこもとの養子先について聞いているか」
五郎は唐突に切り出した。
身を固くしている新三郎が、少し哀れに思えた。早く用件を済ませてしまった方がよいと考えたのだが、かえって緊張させたようである。
新三郎は唾を飲み、年相応にたどたどしく答えた。
「尾張の家より話が来ていると聞き及んでおります」
緊張しているが、声は明瞭だった。松寿丸よりもよく通る。庶子という危うい立場と、与えられた学びの機会。その二つが新三郎を鍛えているように見えた。
五郎は満足し、頷いた。
「那古野というところにある家だ。つい先日、そこの当主蔵人殿が急ぎそこもとの養子について尋ねて来た。一日でも早く迎え入れたい、徒手空拳でも構わぬゆえ早くとのことだ」
五郎はそこで言葉を区切った。新三郎へ目をやると、幼い顔を引き締め、確かに頷いた。
「恐れながら、新三郎の才覚を買って、などとの思い上がりは致しませぬ」
五郎の率いる駿河今川が、尾張今川家の領地と境を接した。それゆえ、なし崩しに攻め取られる前に手を打とうとしているだけだと、新三郎は言っている。
齢四つでこれである。やはり惜しい。
「断ってもよいことだ」
新三郎がまた唾を飲んだ。
「養子先で肩身の狭い思いをする必要もない。西三河、信濃であれば領地を得られよう。甲斐、遠江でもよい。どちらでも今川の血を植えられるとあらば、家中は頷く」
「よろしいので」
「尾張は火がついている。生き残るためとあらば何でも使う。那古野はその策謀の最前線の城となるゆえ、兄としてはやめておけと言わざるを得まい」
新三郎がかすかに眉をひそめた。
「懸念があらば申せ」
新三郎はしばらく黙っていた。膝の上に置いた手を握り、ほどき、やがておずおずと口を開いた。
「約定破りとなりまする」
「あってないような約定よ。そこもとが気にすることはない。それに尾張那古野に手を伸ばした、そう見られる方が不利益やもしれぬ」
「ならば、」
四つの童が目を見開いた。
「ならば、なおのこと一歩でも前に進むべきではございませぬか」
五郎は喉を鳴らした。鳴らしてから、それが父そっくりの笑いだと気が付いた。
一方の新三郎が畏まった。自分が何を言ったのか、少し遅れて気づいたようだった。
「失礼を申し上げました」
「いや、よい。存外、そこもとこそが、一際父の血が濃いのかもしれぬな」
新三郎は額に汗を浮かべ、また頭を下げた。
「畏れ多いことに」
「よい。ただそれゆえに惜しい」
五郎は新三郎の肩を持ち、顔を上げさせた。細い肩だった。力を入れれば折れそうに見えるが、五郎の手の下で逃げるような動きはしなかった。
「新三郎、いま選べ。そこもとが家中にとどまるのであれば、頼りにしたい。なれど、外に出るのも止めぬ」
新三郎は改めて、じっと五郎を見つめた。
やはり、父に似ている。
松寿丸も芳菊丸も同じ弟だが、二人には公家の顔立ちが強く出ていた。兜よりも烏帽子の方が似合う、涼やかな顔をしている。だが、新三郎は明らかに武家の顔をしていた。まだ幼さの残る顔ながら、目元と眉には、父修理大夫に通じる力強さがあった。
もし十年みっちりと鍛えれば、朝比奈、福島に次ぐ、家中で重きをなす将になるだろう。
「尾張今川を継ぎたく存じ上げます」
しばらくの沈黙のあと、新三郎は意を決したように言った。
五郎は頷いた。
「左様か。なぜだ」
新三郎は、そこでまた萎縮した弟に戻った。唇が動いた。だが言葉は出て来なかった。
「ならばよい」
五郎が言うと、新三郎は頭を下げた。
言いづらいことなのだろう。おそらくは、ほかの弟たちのことだと五郎は思った。
五郎にはとんと縁がなかったが、弟たちの間には争いの火種があった。正確に言えば、争っているのは弟たち本人ではなく、その周囲にいる家臣である。とくに松寿丸と芳菊丸の間には、そうした動きが濃く見られた。
松寿丸の出来は、決して悪くない。だが、頼りになり過ぎる家臣に囲まれているため、自分の考えが表へ出ることが少なかった。そのため、実際以上に頼りなく見られている。
一方の芳菊丸は、明らかに才気があった。物事を筋道立てて考え、舌先も鋭い。ときに突飛なことをするが、五郎の弟ということもあって、大方は受け入れられていた。家中には、芳菊丸を松寿丸より上へ置こうとする動きが、確かにあった。
五郎がたびたび駿府へ来て、弟たちの間に立つのは、そのためでもある。先だっても、二人ともいずれは家中で所領を任せ、場合によっては名跡も継がせると伝えた。だが、それで周囲の者が得心したかどうかは分からない。
本当ならば、すでに元服させ、どこかの家を継がせることも考えていた。それには家中から待ったがかかった。
母の中御門殿、祖母の北川殿、父修理大夫がそろって、五郎が動き出す前に止めたのである。
五郎に後継ぎもいないうちから、弟たちを家の外へ出すなという、もっともな話だった。また、松寿丸も芳菊丸も根は悪くない。年を重ねれば、側付きの言葉だけに左右されることもなくなり、関係も落ち着くだろうと言い含められた。
ただ五郎はそうは思わなかった。
二人を取り巻く者たちの争いを放置しておけば、ほかの弟たちまで気が休まらない。福島家を後ろ盾として身を立てようとしている竹丸や、ほかの庶子たちにも、どちらの陣営につくかと暗に迫る気配があった。
新三郎が家の外へ出ようとしていることも、それと無関係とは思えなかった。
「不甲斐ない兄で済まぬ」
五郎が言うと、新三郎は深々と頭を下げた。
「そのようなことを仰せになられるのはおやめください。御屋形様は大を成され申した」
「危うい急所を抱えただけとも思えるがな」
五郎が自嘲すると、新三郎は真面目くさった顔で首を横に振った。
「皆、御屋形様に頭を垂れます。尾張とて同じことにございます」
「尾張もか」
新三郎は目を開き、五郎を見た。
「上洛には通りましょう」
また五郎は笑った。
齢四つの子供まで、上洛と真顔で言うのが嫌に面白かった。大層困った顔の弟をしり目に、五郎は低く喉を鳴らした。
ひとしきり笑った後、すまぬ、すまぬと目じりをぬぐった。
「誰に聞いたか知らぬが。父にも申したが、その気はない」
「皆が呼んでおられます」
呼ぶ。
新三郎はそういった。
「逃がしてもらえぬか」
五郎が口角を上げると、新三郎は身を正した。
「差し出がましいことを申し訳ございませぬ」
五郎は口角を上げたまま振り返り、自室に置いてあった太刀を鞘ごと手に取った。新三郎が身を固めた。
その緊張にやはり申し訳なさを覚えつつも、五郎はその太刀を差し出した。
太刀は幼い新三郎の身丈には長過ぎた。だが、新三郎は一度その太刀を見上げ、それから手を前へ出した。
「島田義助の太刀。餞別に持っていくとよい」
「よろしいので、修理大夫様の腰の物では」
父、修理大夫氏親が戦場を駆けた折、腰に佩いたこともある太刀である。祖父義忠が庇護した駿河の鍛冶師の作であり、見目もよいがまず実戦にも耐える名物である。
「父は重いという。そこもとが持っていけ。駿河の物ゆえ、下げておけ」
「御屋形様はいかがなさるので」
この太刀は確かに五郎も佩いている。甲斐で武田五郎とぶつかった折、三河で松平次郎三郎を討った折、この太刀が腰にあった。そういう意味では五郎にとっても縁起ものである。
だが、裏を返せばそれだけの品に過ぎなかった。
「気にするな。兄は養子にはいかぬ」
そう言ってずいと一歩踏み出すと、新三郎は両手で、恭しく太刀を受け取った。腕がわずかに沈んだが、取り落としはしなかった。
改めて、この駿河作の太刀の意味は分かるか、などとこの弟には問わなかった。
新三郎も答えなかった。
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五郎の思いは、現在の岡崎へ戻った。眼前には名児耶蔵人とその家臣ら、そして新三郎がいる。
昔日の惜しさは胸に押しこめた。
「不肖の弟ではありますが、五郎にはもったいない者にございます。どうか一つ、ご鞭撻をお願いいたします」
そう言って五郎がもう一度頭を下げると、名児耶蔵人とその家臣たちは色めき立った。
新三郎だけは、少し居心地が悪そうに膝の位置を直した。
新三郎は駿州の、島田義助の太刀を携え、那古野へ行くことになる。
おそらく新三郎を迎える尾張今川方にも思惑はあるだろう。だが無論、こちらにもあった。
五郎は目を細めながら、弟を見た。つくづく惜しい弟である。だが、家中にとどめきれなかったのは五郎だ。
せめて、捨て駒とならぬよう取り計らい、身が立つようにしたいと思った。




