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5章_1

 大永五年の春、新たな将軍御所の普請が始まった。


 まだ建物は一棟も立っていない。広く均された土地に杭が打たれ、杭と杭の間を縄が走っているだけだった。だが、縄が囲う形を見れば、出来上がる御所のおおよその姿は分かる。表の門から主殿へ入る道は広く、供待ちや台所に取られた場所も十分にあった。外回りには塀を巡らせ、その内側にも幾つかの建物が並ぶことになっている。


 縄張りの中では、大工や人足が忙しく動いていた。木材を載せた車が入り、奉行らしい男が指図をしている。どこかで大きな槌を使っているらしく、土を打つ鈍い音が、間を置いて聞こえて来た。


 細川道永は、少し離れた場所に立って、その様子を眺めていた。


 つい先ごろまで、武蔵守高国と呼ばれていた男である。家督を譲って髪を落とし、道永と名を改めたが、権勢まで捨てたわけではない。将軍家の政も、細川京兆家の内々も、なお道永の意向を外しては動かなかった。


 墨染めの衣に包んだ身体は、武家の棟梁として立っていたころより、幾分小さく見えた。だが、剃り上げた頭の下にある顔は、仏道に入った者のそれではなかった。目は人足の数を見、積まれた材木を見、その向こうにいる諸国の守護や国人を見ている。


 自分の描いた絵図の通り、人や銭が動くさまを、飽きることなく眺め続けている。修行や往生には、さほど興味がないらしい。


「まずは良い」


 道永は目を細めた。


 御所は初めの見込みよりも立派なものになりそうだった。


 その理由の一つは、駿河から送られて来た銭と品物にあった。


 今川治部太夫が信濃守護、三河守護として追認されたころ、礼として駿河から莫大な金品が届いた。銭ばかりではない。甲斐の絹をはじめ、都で高く売れる品が多く含まれていた。戦乱が続き、東国から入る絹は少なくなっていた。品薄の折である。今川から送られた絹は、思いがけぬ高値で売れた。


 道永はその銭を、御所の普請へ回した。


 誰かに咎められる使い方ではない。今川が幕府への礼として差し出した物を、将軍の御所へ用いたのである。治部太夫も異存はないはずだった。


 道永の隣には、細川右馬頭と香西四郎左衛門尉が立っていた。


 右馬頭は御所の縄張りを見渡し、感に堪えたように言った。


「いや、道永様。立派な御所でございますね。これを見れば京の政も一層重きをなしましょう。阿波の者らも自然と首を垂れるのでは」


 右馬頭の言う阿波の者らとは、細川讃州家に属する一党である。幕臣ではあるが、京兆家と心を一つにしているわけではない。都の政が弱まれば、阿波から兵を入れ、大樹を自分たちの側へ引き寄せようとするだろう。


 道永が返事をする前に、四郎左衛門が口を開いた。


「右馬頭殿、阿波の者らは幕臣にございます。常日頃、大樹への忠義においては他国の者に劣るものではございませぬ」


 右馬頭は顔だけを四郎左衛門へ向けた。


 阿波の者を庇ったとも聞こえるが、四郎左衛門が言いたいのは別のことであろう。幕府が公に不忠と定めてもいない者を、京兆家の都合だけで不忠のように扱うなと言っているらしい。


 右馬頭が、四郎左衛門のこういう物言いを好いていないことは、道永も知っていた。


「忠義者か。そういう者は治部殿のようなものをさすのではござらんか。陰日向によう支えてくれなさる」


 右馬頭の声には、かすかな笑いが混じった。


 今川は遠く駿河にありながら、幕府が求める前に銭と品物を送って来た。その金で、いま目の前の御所が建とうとしている。これを蔑ろにするのか、ということを言いたいようだ。


 四郎左衛門の顔が固くなった。


「右馬頭殿。今は阿波についてでござろう。こちら側が不忠とみなし、言葉にすれば必ずや耳に入り申す。そうなれば、阿波は忠節を疑われたと思い大樹への信を失いましょうぞ」


「その程度で失うほどの忠節は忠節とは呼び申さぬ。どう扱われようと只管に幕府の施政を支える。これが忠節というものにございます」


「治部殿のことを申していると察し致しますが、それこそでございますぞ」


 道永は口を挟まず、二人に勝手に言わせていた。


 二人の考え方が違うことは、今に始まったことではない。


「おや、四郎左衛門殿。先ほど忠節を疑うのはよろしくないと申されたが、ご自身はよろしいのか」


 四郎左衛門は、はあ、と息を吐いた。


 そのため息を聞いて、右馬頭が片方の眉を上げた。


「別に治部太夫が不忠と申して居るのではござらん。ただ忠臣よと、褒めたたえ、頼りきりになるのは如何なものかと申して居るのでござる」


「同じことではないでしょうか」


 四郎左衛門が首を横に振った。それから、いいですか、と前置きして続けた。


「治部太夫殿はこの度で五国の守護でございます。一国一国は尾張、美濃、武蔵のような大国ではござらんが、石高を見ればもう超えてござろう」


「ならばこそ、これを許した管領、失礼、先の管領であらせられる道永様や大樹に忠節を尽くす。おかしなことではござらん。これを忠義者と呼ぶのも当然のこと」


「それがようござらん」


 右馬頭が何事か口を開こうとした。


 道永は片手を上げて制した。


 右馬頭は不満そうに口を閉じた。四郎左衛門も少し鼻白んだような顔をした。


 だが、そのまま続けさせる。賢しらぶった言い方をする四郎左衛門であるが、時たま的を射たことも口走る。


「よい。そこもとの見立てはなんだ。何が不味い」


 道永が言うと、四郎左衛門はすぐには答えなかった。


 御所の縄張りへ目をやった。工人たちは三人には構わず、縄の内側を行き来している。荷車から下ろされた材木が、地面に重ねて置かれていた。


 四郎左衛門は言葉を選んでいるようだった。


「大内殿を思いまする。強すぎる家というものは往々にして、足利への恩を忘れましょう。治部殿は今のところ従順にも見えまするが、これをただなんの枷もつけずにおるというのも」


「危ういか」


「ご賢察をお願い申し上げます」


 四郎左衛門はそれ以上言わず、頭を下げた。


 大内を持ち出したところで、案じていることは分かった。


 地方の大勢力が幕府を助けるために上洛し、やがてその兵力なしには都の政が成り立たなくなる。初めは忠節から始まったものが、いつしか幕府を左右する力に変わる。


 四郎左衛門は、今川もそうなりかねないと見ているのであろう。


 道永はしばらく黙った。


 確かに治部太夫は若い。


 だが、甲斐を治め、三河と信濃を降し、関東へも別に兵を送った。一度に動かした兵の数は、都の並の武家が束になっても及ばない。しかも戦のあとには、催促もせぬうちに礼の金品を送って来た。


 はっきり言えば従順である。


 その従順さを、四郎左衛門はかえって危ぶんでいるらしい。


 馬鹿らしい。


 内心でそう小さく笑いつつも、まずは四郎左衛門の顔を立てた。


「なるほど、四郎左衛門の見立ても間違ってはおるまい」


「道永様」


 右馬頭が驚いた顔で道永を見た。


 道永は目で制した。


「確かに足利の名を都合の良い時だけ借り、大を成した後はそ知らぬ顔をする者もおる。その前例を思えば、治部にただひたすら名分を与えること。また治部だけを頼りにすることも危ういと言えよう」


 四郎左衛門は黙って頭を下げた。


 右馬頭は唇を尖らせた。道永は二人の顔を交互に見た。


「だが、それは杞憂ともいえよう」


 四郎左衛門が眉を顰めた。


「あれは足利一門ぞ。足利に背いてどうしようとするのだ。己が領地を治めたるは、足利の権威、幕府が与えたる守護職であると重々承知であろう。そう思えばこそ、これだけの援助を催促もしておらぬのに差し出してくる」


 道永は御所の方を振り返った。


 縄張りだけでも、その大きさはよく分かった。やがて柱が立ち、屋根が葺かれ、大樹がここへ移る。洛中の者は新しい御所を見て、幕府の勢いを知るだろう。


 その御所には、今川が送った銭が入っている。


「これこそが一つの証であろう」


 右馬頭は満足そうな顔になり、四郎左衛門を見た。


 四郎左衛門は苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。まだ得心していないらしい。


「納得いかぬならば今一つ付け加えよう」


 道永は二人を近くへ招いた。


 工人らの槌音は続いている。そばにいる者でも、声を落とせば話の中身までは聞き取れないだろう。


 道永は二人の耳へ口を寄せた。


「先代、修理大夫は長くない」


 二人の顔から、さきほどまでの争う色が消えた。


 先代修理大夫の病が重いという話は、都にも届いている。ただ、今川はその病状を詳しく外へ漏らしてはいなかった。道永のもとには、駿府に出入りする者から、床を離れられぬ日が増えたという知らせが来ている。


 右馬頭が息を呑んだ。


 四郎左衛門も、目だけを道永へ向けた。


「父の権威で従えていた家臣らもそうなれば、治部を見限るやもしれん。戦がうまいだけでは人はついてこぬよ。そうなった時こそ、幕府の力を求める」


 先代修理大夫が死ねば、古くから今川家に仕える者たちは、若い治部太夫を改めて値踏みするだろう。


 甲斐、三河、信濃を治めるにも、幕府が認めた守護職が要る。弟や一門が騒げば、誰が正しい家督を継いだ者かを定める権威も要る。戦に勝つことと、家中を末長く従わせることは別である。


 治部太夫がどれほど強くとも、父を失えば幕府を頼らざるを得ない。


 少なくとも、道永はそう見ていた。


「わかるな」


 二人の顔を覗き込んだ。


 右馬頭は力強く頷いた。


 四郎左衛門はすぐには頷かなかった。一度、御所の縄張りへ目をやったあとで、ためらいがちに頭を動かした。


 そのとき、普請場の外に人の動く気配がした。


 道永が目をやると、先触れの者がこちらへ来て頭を下げた。朝廷から招いた客が到着したという。


 ほどなく、前関白二条尹房を先にして、正親町三条備前権守公兄、中御門権大納言宣秀らが姿を見せた。ほかにも公家が二、三人従っている。いずれも御所普請の見物に招いた者たちだった。


 前関白は出迎えた道永へ軽く会釈すると、まだ柱も立っていない縄張りを眺めた。


「これは何とも立派な。縄張りですら圧倒されるようでござりまする」


「前関白様。これはまさかお越しになられるとは」


「いえいえ、御所の建築が始まったと知り、誘われたのであれば是非にと。このような立派な建物は昨今の京では見られぬもので」


「何をおっしゃるか、先の禁裏修理など何とも壮観でございました」


 昨年、滞っていた禁裏はようやく修理される運びになった。今、道永の眼前で行われている普請よりも多くの人間が一斉に働き、あっという間に修理は行われた。その莫大な銭や材がどこから出てきたかについては、言うまでもないことである。


 禁裏修理のことを含ませると、二条は手を振った。表情は微塵も変わらず涼しげである。


「これも大樹のお力でございましょう。洛中では幕府の権勢が飛ぶ鳥を落とす勢いであると、皆、噂しておりまする」


「これはこれは、畏れ多いことにございます」


 道永は頭を下げた。大仰な言葉であるが、いちいち真には受けない。公家の言葉を心にとめていては、京で生きていくことなどできない。


 ただ、そう思う一方で、新しい御所の威容は十分に見てもらいたかった。


 朝廷の者が京の政を語るときにも、幕府の力を無視出来ぬと知ってもらう必要がある。


 道永は客たちを、普請奉行が用意した仮屋へ案内した。


 板を張っただけの簡素な建物だったが、畳と円座は整えてある。風が吹けば、まだ土の匂いが中まで入って来た。


 上座には前関白を通した。その次に権大納言、備前権守らが坐る。道永は右馬頭、四郎左衛門とともに下手へ回った。


 湯漬けや菓子を出させ、しばらくは御所の広さや作事の日取りについて話した。前関白は、思った以上によく普請の様子を見ていた。どこの材木か、いつごろ屋根が上がるのかと尋ね、そのたびに道永は知る限りのことを答えた。


 やがて話が一息ついたところで、道永は備前権守へ顔を向けた。


 本題である釘を刺しにかかることにした。


「そういえば、備前権守殿は駿河に下向なされたのでしたな。あちらはいかがでしたか」


 備前権守は手をついて頭を下げた。こちらも涼しげであるが、僅かに眉が揺れている。同じ公家ではあるが、このあたりが二条との差であろう。


 ただ内心は声に滲ませず、すらすらと喋り出す。


「大変良くしていただきました。親族の見舞いや、預かりいただいている娘の礼にと訪れただけなのですが、これ以上ないほどの歓待を受け、正直戸惑っておりました」


「ははぁ、それはよかった」


 道永は、剃り上げた頭を軽く叩いた。


「治部太夫は幕臣なれど、中々礼儀については指図できておりませなんだ。お公家様には失礼をしていないか心配しておりました」


 遠間に聞こえていた普請の音が、さらに遠ざかったような気がした。備前権守が息を呑み、視線を泳がせた。


 だが、備前権守が何か答えるより先に、前関白が口を開いた。


「治部殿は武勇の大将でございますからな。されど、母君は中御門の姫ゆえ、物腰柔らかく、公家の貴公子のようであったと聞いておりまする。ご心配をなさることはございませぬ」


 今度は道永の側が押された。道永は内心情けなさを感じつつも、笑みを返す。


「そう言っていただけるのはありがたい。管領にあった者として胸のつかえがとれ申した。幕臣が非礼をしたとあっては、大樹に面目が立ちませぬ」


「これは御所の見学に参ったのに、いらぬ心配をさせてしまい申し訳ない」


「いえいえ、何を仰せになっておられるか。管領だのと言い出した身共ではありますが、実のところ互いに気楽な身でございましょう。ささ、ごゆるりと」


 道永は一層大きく笑った。前関白も笑みを返した。


 互いに役目を退き、気楽な身になったという。だが、どちらもそのような気でここに坐ってはいなかった。


 道永は、治部太夫を幕臣と呼んだ。前関白は、治部太夫を公家の者とした。


 互いにそれを直接否定はしなかった。だが、お互いの口に出した言葉も取り下げなかった。


 言葉は穏やかだったが、その下では早くも互いの手が伸びていた。


 右馬頭は黙っている。四郎左衛門も、先ほどまでの険しい顔を隠して、何気ない様子で湯を飲んでいた。


 前関白は菓子へ一度手を伸ばしたあと、何気ない口調で言った。


「しかし、ただこう招かれてばかりであるというのも、つらいことでございますな」


「前関白であらせられた二条家の方を初め、公家の方々をもてなせるのは、武家の誉れにございます」


「そう言っていただけるのはありがたい。だが、できることならば大きな儀礼の場にお招きしたいとも思うておりまする」


「はは、なんとありがたいお言葉か」


 道永は、それきたぞ、と身構えた。


「そう言っていただけるか」


「当然のことにございましょう。幕府の御所が立ち、洛中は落ち着きだしておりましょうが、やはり都が真に静謐を取り戻したと見なすには宮中の儀礼が滞りなく行われてこそでございます」


 前関白がそこで一歩踏み出した。


 道永には、そう感じられた。


「となりますと、やはり武家の皆様を招くにあたっては大嘗会でありましょうか」


 前関白の言葉は、何げなく思いついた、そのような響きを含ませていた。だが内容は重い。


 大嘗会は、新帝が初めて行う新嘗の大礼である。


 主上は践祚なされてからすでに久しい。だが、即位の礼さえ行われたのは、ようやく数年前のことだった。大嘗会はまだ行われていない。


 理由は明らかである。


 銭がなかった。


 儀礼を行うには、殿舎を整え、祭具を調え、多くの者へ料を与えなければならない。朝廷の収入だけで賄える額ではなく、幕府や諸国の武家へ頼らざるを得なかった。


 前関白が御所普請を見て口にしたのも、偶然ではあるまい。


 これほど立派な御所を造る銭があるならば、宮中の大礼にも出せるはずだと言っているのである。


「ははぁ、そうなりますか」


「いかがでございましょうか」


 道永はしばらく考えるふりをした。


 大嘗会そのものに異を唱える理由はなかった。都の儀礼が整えば、幕府の威にもつながる。武家が朝廷を支えたと見られるのも悪いことではない。


 だが、公家たちが本当に目を向けているのは、道永の懐ではない。


 駿河。先ほどと同じく、今川治部太夫氏景のことである。


 治部太夫は信濃、三河の守護職を得た礼として、幕府へ莫大な金品を差し出した。その銭で御所が初めの見込みより立派になったことは、朝廷にも聞こえているに違いない。そうなると、この話を受けるつもりがさらさらなくなった。


 治部太夫とつながる権威は、幕府のみでよい。父を失い、莫大な銭蔵を抱え途方に暮れた治部太夫に、手を差し伸べるのは幕府であらねばならない。


「さて、すでに管領を退いた身ゆえ何か口に出せることではございませぬ。されど、各国の守護らにこの国を安んじる志あらば、叶わぬことはないでしょう。道永も無論、各国の守護らには文をしたためさせていただきまするぞ」


「なんと、ありがたい」


 道永はそこで、思い出したようにぽんと頭を叩いた。


 前関白を見る目は、自然に鋭くなった。


「とはいえ、近々で負担ばかりかけておる武家に関しては、あまり色良い返事も得られますまい」


「それは」


「無論、これらの者らが帝への尊崇が薄れているというわけではござらん。ただ、今なお乱世にございまする。日照りに、山崩れと、方々の武家らも食うや食わずやと情けのない有様も耳に入っておる次第で」


 道永は微笑んだ。


「おわかりでございましょう」


 前関白は小さく頷いた。


「これを無視すれば、かえって目的に遠ざかるかとも思うております」


 前関白の顔が少し険しくなった。


 それもわずかな間のことだった。すぐに先ほどまでの柔らかな顔に戻る。


「武家のことは武家にお任せするほかございませぬ。ただ話を聞いてくださっただけでもありがたく」


「情けのない答えで申し訳ございませぬ。管領を退き、俗世から遠ざからんとしている者では不足でございました」


「まさか、とんでもございませぬ」


 前関白は笑った。


 道永は、そこに嫌なものを感じた。こちらが何か言葉を紡ごうとしたところ、前関白が機先を制した。


「ただ、道永殿の懐深さに甘えてしまいもうした。まず、大事なれば宮中で話し合うのが常道であったのに。身軽な身になって忘れてしまい申した」


 はは、と前関白は笑った。軽やかな笑みである。


「何をおっしゃる。今までの重責を思えば、責めることなどできましょうか」


「いや、職責を離れようが宮中の慣例は守らねば。そうですな」


 前関白は顎に手をやった。それから大嘗会を言い出したときと同じように、思いついたかのように言葉を紡いだ。


「さしあたって知恵者の侍従あたりに相談でもいたします。なんぞ良い意見が出て来るやもしれませぬので」


 道永は今度は剃った頭を撫でた。笑みこそ浮かべたままだが、腹の底では黒々と怒りが溜まった。


 知恵者の侍従が誰を指すか、その場にいる者で分からぬ者はいない。


 治部太夫は、この度侍従を兼ね、昇殿も許されている。前関白は今川の当主ではなく、宮中に仕える侍従へ相談すると言っているのである。


 武家のことは武家に任せる。


 そう言った舌の根も乾かぬうちに、今川治部太夫を宮中の側へ引き寄せた。


「それはそれは、宮中にそのような知恵者の侍従殿がおられるとは、道永も話を聞いてみたいものでござる」


「まだまだ若輩者ゆえ、道永殿にお披露目できるようなものではございませぬ。されど大嘗会の折にはご紹介も致しましょうぞ」


 道永は笑みを崩さなかった。


 自分が引き上げ、守護職を認めてやった若者を、前関白から紹介してもらう。


 大嘗会の折に。


 ずいぶんと気の早い話だった。


 備前権守は前関白の隣で静かに坐っていた。中御門権大納言も、口を挟まなかった。だが、道永には、二人がこの話を聞き漏らしていないことだけは分かった。


 正親町三条家は今川と血がつながっている。中御門家は治部太夫の母方である。その二家を伴って来たところを見ても、前関白は思いつきで侍従の名を出したわけではあるまい。


 それでも、この場ではそれ以上話は続かなかった。


 前関白は再び御所普請のことを尋ね、道永も当たり障りなく答えた。やがて公家たちは席を立った。


 道永は仮屋の外まで出て、一行を見送った。


 前関白をはじめ、公家たちは最後まで機嫌よく笑っていた。牛車のところまで進み、順に乗り込んで行く。その様子を見届けてから、道永は御所の縄張りへ目を戻した。


 槌の音がしていた。


 公家たちが来る前と、何も変わらない音だった。


 それを腕組みし、眉間に皺を寄せながら道永は眺めた。


 頭の中には駿河のことだけがあった。


---


 大永五年の春、上野平井城には、先代の喪がまだ深く残っていた。


 関東管領にして山内上杉の当主、上杉憲房は、先の北条、今川との戦の最中、病に倒れ死去した。憲房に実子はいたが、未だ幼少であったため、養子である上杉左馬頭憲寛が関東管領を継ぐことになった。


 その左馬頭の差配のもと、葬儀は滞りなく行われ、家督相続も無事に済んだ。


 ただ、実子を差し置いて家督を継いだ養子に対して、風当たりもまだ強く、上野平井城には落ち着かぬ空気が漂っていた。


 廊下を行き交う者の足音は低く、庭に面した障子も半ば閉ざされている。居間の隅には香の匂いが残り、庭木の若葉を照らす春の日にも、城内の空気を明るくするほどの力はなかった。


 左馬頭は、客を迎える座敷の上段に坐っていた。


 古河公方足利高基の子として生まれた貴種である。高座に坐ることには慣れていたが、関東管領、山内上杉の当主という座は座りが悪く、まだそれが自分のものになった気はしなかった。


 柱も、畳も、庭の眺めも、先代のころと変わっていない。居並ぶ家臣たちも同じである。変わったのは上段に坐る者だけだった。


 その左馬頭の少し下に、山内方の家宰である長尾但馬守が控えている。


 但馬守は先代の代から家中を取り仕切って来た男である。左馬頭がまだ山内上杉家の内情を十分に知らぬことも、家中の者たちが新しい当主をどのように見ているかも、但馬守は承知していた。


 その但馬守がいることを、左馬頭は心強く感じていた。客が客である。


 客は扇谷上杉家の当主、上杉修理大夫朝興だった。


 その隣には太田美濃守資頼が坐っている。美濃守は修理大夫の重臣で、戦場で名を知られた者である。修理大夫より半歩下がっているものの、座に入ってから一度も気を抜いた様子がなかった。


 山内と扇谷は、同じ上杉を称する。


 だが長く争い、時には古河公方や諸将を巻き込みながら、互いの領地と勢力を削って来た間柄でもあった。北条が武蔵へ進んでからは手を結ぶことも増えたが、それで古い争いが消えたわけではない。


 修理大夫と美濃守は、そろって深く頭を下げた。


「この度は先の関東管領殿にお悔やみを申し上げる」


 左馬頭も頭を下げた。


 先代の死を悼む言葉とともに、新しい家督を認める挨拶でもあった。扇谷上杉家の当主がみずから平井城まで来たことには、それなりの重みがある。


 左馬頭が返事をしようとしたが、但馬守が先にわずかに身体を進めた。


 いかぬ、もっと重々しくせねばと自重を心がけ、口を結んだ。


 但馬守はこちらをちらりと窺ったあと、鷹揚に頷いた。


「これは御丁寧に申し訳ござらん」


「いえ、先の戦でも随分と先代には馳走になり、何も返せぬまま恩だけが積み上がっておりますれば当然のことと」


 修理大夫の声は穏やかだった。


 先代は、北条に江戸城を奪われた扇谷方を助けるため、たびたび武蔵へ兵を出した。先の戦でも山内方は兵を動かし、扇谷方とともに江戸城を囲んだ。


 しかし、その戦は北条を倒すことも、江戸城を取り戻すことも出来ぬまま終わった。


 難しい戦であった。北条家中の結束の強さと、今川の底知れなさを改めて感じた。


「よい。血を同じくする者なれば」


 そう言って左馬頭は、修理大夫の言葉に礼を返した。但馬守から待ったはなかった。ひとまずは合格のようで、ほっとした。


 であれば、と左馬頭は次に来るであろう、家督相続を祝う言葉への返しを考えた。


 だが、美濃守が身体を前へ出した。


「して、北条との戦、これについて如何いたしましょうぞ」


 座敷の空気が変わった。


 先代を悼むための席である。新しい当主の家督を祝うための席でもあった。そこでいきなり戦の話を出すとは、左馬頭も思っていなかった。


 扇谷方の修理大夫の顔が険しくなった。


「これ、美濃守。やめぬか」


「御屋形様、されどこれ、お家の大事でございますぞ。それに山内上杉家においても大事にて」


 美濃守は頭を下げなかった。


 修理大夫が睨んでも、身体を引く様子はない。今日の席で口にすることを、初めから決めて来たように見えた。


「待たれよ、待たれよ」


 但馬守が言った。


 すぐには美濃守を見ず、まず左馬頭の方を振り返った。


 左馬頭は但馬守と目を合わせた。任されよ、と暗に伝えて来た。


 正直に言えば、心底ほっとした。口うるさいところの多い老臣ではあるが、こういう場面では間違いはない。


 左馬頭が小さく頷くと、但馬守は美濃守へ向き直った。


「当家の御屋形様はお家を継いで間もない。今は、戦に明け暮れるよりもまずは内々を固める時にござる。言いたくはないが、そちら様も戦の疲れが残っておられよう」


「何のことはございませぬ。それこそ弓矢を交えることなどなかった戦でござる。疲れているなど申さば笑われましょう」


 美濃守の返答は早かった。


 左馬頭には、最後の言葉が山内方へ向けられたものに聞こえた。間違ってはいない。


 山内上杉は弓を引くどころか、会敵すらしなかった。武蔵と甲斐の境目で待ち構えてこそいたが、今川は峠を越えて進軍することはなく、こちらも攻め入ることはしなかった。江戸城の包囲も、後詰として後方を警戒したが、扇谷上杉の前に出ることもなかった。


 だが、楽をしていたと言われて黙っていられるかは、別の話である。


 但馬守の頬がわずかに動いた。


「なるほど美濃守殿は豪の者。されど家中はそこもとほどの兵ではござらん」


 美濃守の目が鋭くなった。


「扇谷上杉にそのような弱兵はおりませぬ。どこの家中の話をしておられる」


 左馬頭は、胸の内で息を呑んだ。


 美濃守の言葉は、明らかに山内上杉を詰めている。仮にも共同の敵を抱える同族に、この場で言うことではなかった。


 但馬守が口を開く気配がした。


 その前に、修理大夫がまた美濃守を叱った。


「美濃守」


 声は低かったが、先ほどより強かった。


 美濃守は主君へ顔を向けた。


「言わねばならぬことでございましょう」


 修理大夫の口が止まった。


 左馬頭には、叱りつける言葉を重ねようとして、呑み込んだように見えた。この二人の間では、幾度となく議論が重ねられた末なのだろう。修理大夫はしばらく悩んだのち、苦い顔で目を閉じた。


 美濃守は居直るように膝を正した。


「このような場で申し上げるは憚られ申すが、先の戦、山内家が遮二無二かかれば趨勢は変わっており申した。今頃は江戸城を奪い、北条、今川を押し込めていたやもしれませぬ」


 但馬守が荒い息を吐いた。


 江戸城を囲んだ戦で、山内方は扇谷方ほど前へ出なかった。前へ出ぬようにした。それは事実である。


 だが、兵を惜しんだわけではない。


 但馬守は、身体を少し前へ出した。


「なるほど山内方の働きが不十分と申される。であれば申すが、あれは扇谷側の主導であった策が不発であったため退いただけにござろう」


 今度は美濃守が苦い顔になった。


 左馬頭には、但馬守の指摘を否定出来なかったように見えた。


 但馬守は言葉を続けた。


「扇谷側の主導であった、甲斐武田、竹松殿の蜂起。高梨を使っての越後の信濃入り。どれもうまく行かなんだ。もしこれを頼みに前に出ていれば、援軍に来た今川に絡め取られたやもしれませぬ。そうならぬために後背の安全を確保したる山内の功、蔑ろにされてはかないませぬぞ」


 左馬頭は、但馬守の言葉を聞きながら、先の戦で届いた書状を思い出していた。


 そもそも、この度の戦において必勝の策があるとしたのは、扇谷上杉である。甲斐で武田竹松、信濃で小笠原と越後、高梨勢を動かす。また武蔵から甲斐を脅かし、今川の兵を削る。上杉の圧を感じれば、若い当主は方々に兵を向かわせ、北条には碌に援軍など出さない。そういう話である。


 だが、蓋を開けてみれば話が違った。


 今川治部は、五千の兵を葛山何某という北条縁の者に預けた。そして、たっぷりの兵糧を付けて援軍に向かわせた。


 過剰に反応すると思った武蔵の山内上杉には、在地の甲斐衆で当たらせ、武田竹松など相手にもしなかった。


 そして小笠原が蜂起した信濃には大軍をもって入り、これを降伏せしめ、ついでに西三河を平定した。


 越後勢はこれに関与することはなく、すごすごと国元に帰る始末である。


 言ってしまえば、扇谷上杉の策は完全に逆手に取られ、信濃、三河を平定する理由を作っただけになった。


 酷い戦だ。


 左馬頭はまだ山内家へ入っていなかったが、家督を継いでから、戦の始末を記した書付には目を通し、そう感じた。


 そう思うからこそ、山内方だけが遮二無二に進んでも、勝てたと言われれば首をかしげざるを得ない。


 但馬守の言う通り、むしろ退路を失い、兵を大きく損じた可能性の方が高く感じられたのだ。


 美濃守は顔を顰めたまま、但馬守を見ていた。


 やがて、口を開いた。


「確かに但馬守殿の言、正しく。この度の戦の根幹であった策謀が外れた以上、退くのは当然でござった」


 但馬守の鼻から、ふん、と息が漏れた。


 左馬頭はまた安堵した。これで話の筋が戻ると、胸を撫で下ろした。


 しかし美濃守は引かなかった。


「されど、前に出るべきであったという話は覆り申さん」


「なにを」


「四万」


 美濃守はぼそりと、低い声で言った。


 左馬頭には、その数字が何を指すのか、すぐには分からなかった。


 だが、修理大夫は違ったようだった。


 はっとした顔で美濃守を見たあと、また苦いものを呑み込むように口を結んだ。修理大夫は、この場へ来る前に美濃守から同じ話を聞かされていたのかもしれない。


 但馬守は眉を寄せた。


「だから、何を申される」


「今川の軍でござる。これが次は関東に出てござろう」


 左馬頭は思わず聞き返した。


「まことか」


 ぞっとして口をついた問いだった。


 これに対して、但馬守が笑った。


 声を上げるほどではない。美濃守の言葉を問題にするまでもないと、退けるような笑いだった。


「戯言でござろう。根拠などない」


「前回、外に出した兵は二万を超えてござるな。ただこれは、ほとんど農兵を使うてござらんように見えた。銭で雇うた兵であろう」


 美濃守が言う二万余りとは、三河、信濃、関東へ今川が出した兵を合わせた数である。


 三河へ入り、その後に信濃へ向かった今川勢だけでも一万を超えた。そのほかに、北条を助ける兵が江戸城へ送られている。それだけの軍を別々に動かしながら、駿河と甲斐の守りを空にした様子はなかった。


 左馬頭も報告では知っていた。


 ただ、四万となると話が違う。


 四万の軍が一つになって武蔵へ出て来るならば、山内と扇谷のどちらか一方で防げる数ではない。


 但馬守は、なお表情を変えなかった。


「それが如何した。出せぬ理由があったのだろうよ。ならば次も二万。どうということはない」


 美濃守は動じない。心底苦いものを感じた顔のままだった。


「次は甲斐が出てくる。さらに三河と信濃の抑えも軽くなり申す。石高から見ると、小さく見て四万は出てこないとおかしゅうござる」


「そんなこと」


「残念ながら但馬守、扇谷側では事実とみておる。駿府に下向した公家らが京に送った文にも、こちら側の間者からの報せにも、それくらいは出るとある。ただ信じられぬというならば、ご自身で調べなされるとよい」


 今度は修理大夫が言った。


 美濃守も力なく頷いた。重く息を吐き、それから主君の言葉を引き継いだ。


「重ねて非礼を申し上げまするが、策は不発でも先の一件は好機でございました。そうして北条を伊豆に押し込め、今川を碓氷峠から出さぬ。そういう形を作る最後の好機でござった」


 最後の好機。


 その言葉が左馬頭の耳に残った。


 そんなわけはない、と左馬頭は否定したかった。だが、否定出来ない部分もある。


 まず、養子の自分ではどこまで家中が従うか分からない。先の戦では動員出来た数を保つのすら、相当に力を入れる必要があるだろう。そんなところに今川が出て来る。若く、負けなしの軍神が関東に来る。


「次からは平地で、その四万が来ると」


 口に出してから、左馬頭は自分の声が思ったより低いことに気づいた。


 美濃守が頷いた。


「但馬守殿は信じられませぬでしょうが、少なく見積もってそれぐらいは出せましょう」


 但馬守は左馬頭へ向き直った。


「御屋形様、号して四万など耳にしますが、実態など知れたものでございますぞ」


 但馬守の言うことにも理はあった。


 大軍を号することは珍しくない。実数が半分にも満たぬこともある。四万の兵を集められたとしても、それを一つの軍として動かし、食わせ続けられるかは別の話だった。


 ただ、美濃守が恐れているのは、四万という数だけではないようだった。


 美濃守は但馬守へ顔を向けた。


「先の戦を思うに、戦える兵士が四万と申したつもりでしたが」


「今川がそこまで出せるわけなかろう。あれは十五にもなっておらん小僧ぞ。それに石高とて」


 なおも言い縋ろうとする但馬守に対して、美濃守はぴしゃりと言った。


「ならばお調べなさいませ。ただ繰り返し申しますが」


 それから、ぐっと前へ出た。


 畳に置いた両手へ力が入った。身体そのものを押し出すような姿勢だった。


「今川、北条は勢いに乗っておりまする。これを止めるとなれば全力で挑むほかございませぬ」


 左馬頭は美濃守を見た。


「全力、と申すと」


「文字通りの全力にて、両上杉の全兵。威光。縁。全て使わねば北条、今川は止まりませぬ」


 どしん、と左馬頭の腹が重くなった。


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― 新着の感想 ―
今川が幕府を支えるなら、長尾上杉への幕府からの上洛願いが無くなるのかな?武田が居なくなった長尾はどっちに向かうんだろう?
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