4章_15
大永五年の春、上杉勢は江戸城の囲みを解いた。
北へ延びる道を、荷駄の列が動いていた。荷を負った馬を先に立て、そのあとを槍や弓を携えた兵がつづいている。旗の列は崩れず、しんがりの兵も置かれていた。
敗走ではなかった。折り目正しい撤退である。
北条新九郎氏綱は西の曲輪の土塁に立ち、その退くさまを見ていた。追えば、いつでも引き返して来る備えはあるらしい。
新九郎はすでに追わぬように命じている。上杉方は確かにまとまりがないが、それでも兵力は大きく、少数で奇襲をかけられる相手ではない。
それに江戸城を除く方々では、こちらに通じようとする家も出始めている。大兵力と周辺の国々を動かしたにもかかわらず、奪われた江戸城を奪い返せないどころか、逆に上杉方の城に圧力をかけられる始末である。今川の手厚い支援も相まって、北条優勢と見たのだろう。
もう少し粘ってもよかったが、こんなものか。
新九郎は去る上杉軍を見ながら、腕を組んだ。
今少し待てば逆撃の準備も整ったかもしれない。そう考えて首を振る。聊か都合のよすぎる考えだと自嘲した。
上杉方も限界なのだろう。
城を囲んで日が経ち、近在から集められる米や馬草も少なくなっている。攻め手は城方より多くの兵糧を要するから、長く陣を置くほど不利になる。
加えて、先に今川から三千の援兵が入り、ほどなく二千が加わった。米、塩のほか、矢や弓弦も十分に運び込んで来たので、守兵の士気は上がった。兵糧蔵が満ち、すぐには城が落ちぬと分かれば、苦しくなるのは攻める方だった。
そこに決め手の一手。西から、信濃の騒乱が片づいたという知らせが届いた。
今川五郎は三河で松平次郎三郎を討ち、その後信濃へ入って小笠原を降したという。詳細はまだ分からないが、ともかく信濃へ向かった今川勢は一万二千。それがそのまま自由になったのだ。
新九郎の見立てでは、周辺の慰撫もあり、その兵力が関東へ回って来ることはない。しかし、上杉方にすれば、ないものとして扱うわけにもいかなかったはずである。上杉方は武蔵から甲斐を窺う動きを見せてしまっている。それに甲斐の武田蜂起や信濃騒乱に手を入れた以上、敵と見なされ、攻め入られる口実を与えてしまった。
この状況で江戸城に張り付いていると、今川の大軍が甲斐口から関東へ出た瞬間、退く道を脅かされる。
それゆえに上杉勢は、まだ退けるうちに退いたのである。
新九郎は城外を見つめたまま言った。
「中務少輔殿、この度の援軍、馳走になった」
少し離れて立っていた葛山中務少輔氏広が、こちらへ向き直った。ほかには、同じく北条の兄弟と重臣だけだ。
「新九郎様。北条と今川は縁戚にございます。この乱世においてともに背を預け合う間柄、そのように頭を下げられては御屋形様や先代様にお叱りを受けてしまいます」
「かたじけなく」
新九郎はそれ以上、礼を重ねなかった。
中務少輔は新九郎の異母弟だった。だが、兄弟として同じ屋根の下で過ごした年月は短い。中務少輔は葛山家へ入り、いまは今川に属している。
身内で固められた空間であっても、兄、弟とは呼び合わなかった。
中務少輔が北条に近すぎると思われれば、今川家中での立場が悪くなる。新九郎の方も、弟を使って今川から兵や米を引き出していると思われるのは具合が悪かった。事実そうであったとしても、睨まれるのは今ではない。
中務少輔が顔を上げたとき、新九郎は弟の目を見た。
そこには、案じていたほどの屈折はなかった。
葛山家へ入り、今川に従う身となったことを恨んでいる様子もない。胸の底に何かあったとしても、それに押しつぶされている顔ではなかった。
今川では悪く扱われていないのだろう。
新九郎は身勝手であると知りながらも、少し安堵した。
血族が別の家へ分かれた末に憎み合う話は、関東にはいくらでもある。そうならなかっただけでよかった。
城外では、上杉勢の先頭が遠くなり始めていた。
「五郎殿も大勝なされたとの知らせがあり申した。どうやら一戦で信濃、三河を制したと大層な噂でござる」
新九郎が言うと、中務少輔は少し困ったような顔をした。
おや、と新九郎は思った。この弟は五郎から直々に命じられて援軍に来たはずだ。計五千の兵とあれだけの物資を任せたのだ、仲が悪いとは思えなかった。
「ああ、いえ、失礼。喜ばしいことなのでござる。これは間違いなく」
中務少輔はそう言ったが、顔に浮かんだものは消えなかった。
新九郎が黙っていると、中務少輔は自分が誤解されたことに気づいたらしい。気まずそうに目を伏せたあと、言葉を継いだ。
「御屋形様の戦勝を喜ばない者は今川にはおりませぬ。しかし、中務少輔が気にしておるのはその後の統治にございます。信濃、西三河ともに中々難しい土地でありましょう」
東三河にはまだ今川についたり離れたりする者が多い。戸田、牧野の縁者にもそういった者が多かったため、今川の統治に馴染むのも早い。甲斐にも河内の穴山をはじめ、今川に気脈を通じた者がおり、それらを介して統治することもできた。
信濃、西三河となると今川には大分縁遠い国となり、統治への反発も多い。五郎の小笠原や松平への扱いによっては、今川の急所となり得るように、新九郎には見えた。
「確かに過去の甲斐においては御屋形様は直々にその地に腰を据え、今川に馴染むようにいたしました。甲斐と駿河はそう遠くございませぬ。道を均した後ならば、さらに近くなり申した」
新九郎は頷く。
甲斐で五郎が何をしたかは、北条にも聞こえている。
まず法度を定め、税を軽くし、甲斐衆を役につけ、統治の内側に取り込んだ。初期の反発を駿河からの兵力で抑えることさえできれば、あとは軌道に乗るだろう。
それを前例に取るならば、とりわけ信濃は難しい。
「確かに、船で行ける西三河ならまだしも。信濃はちと厳しゅうございますな。本拠から離れすぎておるようにも見える」
どこそこの家が反発した。他所から兵力を呼び込んだ。そうなっても本拠駿河から安々と兵は出せないだろう。
「そこでござる。加えて信濃の周辺は三河、美濃、越後と、どれも今川に信を寄せているとは、まだ言えず」
中務少輔はそこで言葉を切り、遠ざかる上杉勢へ目をやった。
確かに当主がその土地に腰を据え、直々に国衆に話を聞き、役に取り立てれば多少は心を寄せる。村々を見て回り、訴状を上手く裁けばさらにだ。
だが、五郎は一人しかいない。
駿府で公家衆の相手をし、甲斐、三河といった土地も富ませつつ、信濃にも、というのは明らかに無理だ。
本来ならば一門や弟をその地の有力者などに婿入りさせるなどし、今川の色を濃くしていくのだろうが、これも難しい。長子の五郎でさえ十五になっておらず、その下の弟らはさらに幼い。養子に出せば丸め込まれるだろう。
「いっそ、止められては如何かな。聞く耳は持たれる方なのでござろう。本拠から遠く離れるのはよろしくない。そう言えばよろしい」
「持たれますが、なんというか、抜け道を探される方でもあります。それを言ったら、次は本拠をぽんと移動させるぐらいはやりかねない方で」
「ははあ」
新九郎は低く唸った。
なるほど、少し父に似ている。
父の宗瑞も、目的を定めると、そこへ至る道がときに突飛だった。伊豆へ入り、相模を取り、ついには小田原を本拠とした。
新九郎も、伊勢を名乗って来た家を北条へ改めた。名を変えたからといって、それまでの来歴が消えるわけではない。それでも相模を治める家には、相応の名が要ると思ったのである。
五郎にも、同じ血が流れている。
これは宿業というものかもしれない、と新九郎は思った。
黙っていると、中務少輔が頭を掻いた。
葛山の当主として立っているときには見せない、無造作な仕草だった。
新九郎は、その隙にもう一歩、話を進めた。
兄弟の情はある。弟が今川で穏やかに暮らしているなら、それを壊したくはない。
だが、新九郎は北条の当主でもあった。
新九郎は何げなく、ふと思いついたかのように口を開いた。
「先ほどの言葉を翻すようで申し訳ないが、少し考えてみたところ、それもそう悪くはないのではないかな。今川は押しも押されもせぬ足利一門。京の管領殿も頼りにしておられると聞く。より京に近い場所に本拠を移す、こちらの方が今川家の飛躍に追い風となる気も致しまする。親族としては心強うございますが」
あくまで、軽く何気ないことのように言った。
中務少輔はすぐには答えなかった。新九郎の顔を一度見てから、また城外へ目を戻した。
「確かにそういう向きも出てくるでしょうが。さて」
「尾張は一枚岩にならず、美濃も揺れておられる。今川家の大兵力ならばさほどのこともないように思われるが」
先の騒乱で、今川は少なくとも二万五千の兵を軽々出した。駿河の守りを行いつつの出兵でこれなのであれば、本気になれば三万、四万は軽いのではないかとも思えた。言葉通り、尾張、美濃は捻じ伏せられるだろう。
その見立て自体に、新九郎は嘘を混ぜなかった。
だが、中務少輔は首を横に振った。
「そこは心配してはおらぬのです。まあ、御屋形様なら何のかんのと勝ちなされるでしょうし、よく治めなさる。ただいまいち、その気があるのかないのか。読めぬ方ゆえ」
「禁裏を敬い、幕府への忠勤も著しいと聞きましたが」
中務少輔が失笑した。馬鹿にしたところはない、本当に可笑しさゆえの笑いだった。
声が漏れてから、周囲に北条の家臣がいることに気づいたらしい。中務少輔は口元を引き締め、少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「いえ、失礼を。ただ、そのような方であれば我々も楽だったと思うばかりでございます。無論、京の畏きところを粗略に扱っているとは申しませぬ。一面を切り取り、こういう人間だとは中々に言い切れぬ方ではございます」
新九郎はまた唸った。
禁裏を敬い、権威を重視するならば動きは読める。幕府に忠勤を尽くすなら、管領や将軍が上洛を命ずることもあり得る。
だが、どちらも五郎の一面にすぎないという。
中務少輔の言葉が正しければ、こちらが道を示したところで、五郎がその道を歩くとは限らなかった。行く先だけを見定め、別の道からそこへ出るかもしれない。
新九郎は、それ以上押すのをやめた。
「いや、心強いことでございます。大領を治める者とあらば、腹の内は早々に見せぬもの。親族としてそのような方が後背を固めているとなれば、北条は東へと進むことができましょう。両家は必ずや栄えましょうぞ」
そう言って新九郎が頭を下げると、中務少輔も慌てて頭を下げた。
顔を上げた弟は、やはり悪い男には見えなかった。将として兵を預けることもできるだろう。実際、今川の兵を率いて武蔵まで来て、城内を乱さず、北条の将とも争わなかった。
ただ、大将には向かぬのかもしれない。
さきほどの言葉に含めたものを、どこまで悟ったかは分からなかった。悟っていて顔に出さなかったとも考えられる。それでも、他家の困り事を見れば、まずそこから何を取れるかと考える男には見えなかった。
家を背負う者には、そういう冷たさが要るときがある。
中務少輔には、それが少し足りないように新九郎には思えた。そのことを残念には思わない。弟としてならば、十分可愛がることもできるからだ。
上杉勢の列は、すでに半ば以上が北の道へ消えていた。
新九郎は、できれば五郎に少し離れてほしかった。
今川の兵は欲しい。米も銭も欲しい。それは葛山家を通じて、いくらか融通してもらえるようになった。叔母の北川殿が存命であれば、今少し色を付けてもらえるだろう。
そうなると五郎自身は、強く、怖い隣人でしかなかった。
相模と駿河は近い。道も海もつながっている。何かの拍子に五郎が東を向けば、今日退いて行く上杉勢より厄介な相手になる。
できることなら、尾張か美濃のあたりで、存分に兵を動かしていてもらいたい。
新九郎は、遠ざかる上杉の旗を見送りながら、そう思った。
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論功行賞は、思いのほか早く片づいた。
褒美を出す相手が少なかったわけではない。甲斐、三河、信濃の戦に加え、関東へ送った兵の働きまで数えれば、戦功を書き出した帳面は何冊にもなった。ただ、誰に何を与えるかは、駿府へ帰るまでにおおよそ決めてあった。
信濃には、朝比奈備中守を置いた。
小笠原家が直轄していた土地をひとまず預け、府中を中心に道を通し、城や館の普請をさせる。甲斐から北へ通じる道と、三河から伊那へ入る道が整えば、物も運びやすくなる。信濃の国人が再び騒いでも、駿河から大軍を出す前に、甲斐と三河から兵を入れることが出来ると見ていた。
無論、備中守が謀反しても同じことが言える。
ただ、そう構える一方で、遠江の所領は取り上げなかった。
信濃へ置くからといって、ただちに遠江との縁を断たせれば、朝比奈家中にも動揺が出るだろう。いままでの所領を持たせたまま働かせ、信濃の先行きに目途が立ったところで、改めて移封する。そのことは備中守にも伝えてあった。
備中守は畏れ多いと辞退した。
本心からの辞退かどうかは、五郎にも分からなかった。だが信濃は、美濃や越後と境を接している。今後も兵を置かずには済まない土地であり、小身の者を名ばかりの奉行として送り込んでも、諏訪や高遠、木曾あたりの国人が従うとは思えなかった。
戦場で一万余りを動かし、駿河衆にも甲斐衆にも名を知られた備中守なら、初めから軽く見られることはない。
ただし、備中守一人に信濃を丸ごと渡したわけではなかった。
朝比奈に近い駿河衆を幾人か付けたが、いずれも朝比奈家の家臣ではない。五郎から直接役目を与えられ、五郎から役料を受ける者たちである。備中守の命には従うが、その身まで朝比奈に預けたのではなかった。
五郎は、備中守を疑ってはいなかった。
あの硬骨の武人が、目先の利に釣られて今川に背くとは思わない。しかし、信じることと、裏切れる形のままにしておくことは別だった。
ほかに功のあった者では、飯富などの役料を明確に引き上げた。
甲斐での所領は増やさない。その代わり、今後預ける兵を増やし、今川家中での役目を重くすると申し渡した。
飯富は嬉しそうに、ありがたく存じますと頭を下げた。
その様子を見る限り、甲斐の所領を増やされるよりも、今川家中へ深く食い込むことを喜んでいるようだった。土地が増えれば、隣の国人との境争いも増える。役料と兵なら、今川が栄えている限り失われにくい。
おそらく、甲斐衆にはさほど問題は出ないだろう。ここ十年程度であるならば。
問題は三河だった。
こちらは、西郷弾正の息子、西郷七郎を松平へ戻し、安祥城に置いた。
ただし、松平宗家としての権威は与えない。七郎が松平を名乗ろうと、諸松平を束ねる惣領として認めたわけではなく、あくまで今川の家臣として安祥城を預けたのである。
異論は出なかった。
七郎にすれば、父の仇を討ち、追われた三河へ戻ることが出来たのである。喜びようは大きく、五郎に対して大仰なほどの忠誠を誓った。五郎もその手を取り、頼りにしていると言葉にした。
一方で、五郎は七郎の言葉を全て信じてはいない。こちらも力を付け過ぎたり、勝手に尾張などとつながらぬように気を払う必要があった。
その一環として、残る松平一族の件がある。
松平の主だった家には、所領を取り上げる理由が出来ていた。
騒乱の前に旗色を明らかにせず、最後には次郎三郎についた一族は所領を没収した。その土地は、早くから今川へ従い、所領を安堵された者たちへ分けて預ける。
新しく土地を得た者は今川へ感謝し、失った者は恨むだろう。
それでよかった。
誰が西郷七郎へ近づき、誰が旧領の回復を求め、誰が尾張へ助けを求めるか。それを見てから、次の処置を決めればよい。
尾張が西三河へ手を伸ばすなら、それも早い方が分かりやすかった。
安祥の西郷へ使者を送るか。所領を失った松平の一族を抱えるか。それとも今川との境を恐れて動かないか。その一手を見れば、尾張が三河をどう見ているかも分かる。
当座の処分は、それで終わった。
あとには、もう一つ厄介なことが残っていた。
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評定の座が散ったあと、五郎は庭先に出て、花を眺めながら自分で肩を揉んでいた。
戦場にいるときよりも、座って人の名と所領を見ている方が肩は凝るらしい。家臣たちはすでに退出し、さきほどまで人声の絶えなかった廊下も静かになっていた。
風が庭木の若い葉を動かしている。春の日は明るかったが、建物の陰にはまだ少し冷えが残っていた。
五郎が何気なく振り向くと、いつからそこにいたのか、姫が一人立っていた。
「おめでとうございます。治部太夫様」
「これは霧姫様、かたじけのうございます」
霧姫は五郎の姿へゆっくり目を走らせた。足のつま先から始まり、腰元、首回り、そして最後に五郎の顔で視線が止まった。ふふん、となにか誇らしげな顔すらしていた。つくづくこの娘は分からない、と五郎は内心小首をかしげる。
「押しも押されもせぬ五か国の太守ともなれば、官位も高うございますね。侍従様まで兼ねられて昇殿まで許されるのですから。なんでしたら、京に上られた時のため作法でもお教えいたしましょうか」
霧姫の言葉通り、五郎に官位が来た。
従四位下・侍従兼治部太夫。そこに昇殿許可までついてきた。
まず大盤振る舞いと言ってもいい。
父の氏親が修理大夫なのだから、若輩にも関わらず同格のものを渡されたことになる。
五郎の見るところ、幕府と朝廷との間で何らかの合意にいたり、五郎への飴としての落としどころを得たのだろう。昇殿については、待たせた分の詫び、言い訳と見ていた。
「許されているからといって、いたずらに昇殿するというのは、聊か非礼にございましょう。ただ駿河より、畏きところのご芳情に頭を垂れるのみでございます」
この答えに、霧姫はむっとした。
間違った返事をしたとは思わなかったが、霧姫が聞きたかったのは、この言葉ではないらしい。
少し言葉を変えて探ってみる。
「それに三河と信濃は首が座らぬ赤子のようなもの。治めた、太守などとはとんでもないことでございましょう。官位もこれにおごらず精進しろという謎かけと思うております」
霧姫はまたむっとした。
これでもないらしい。
霧姫はわざとらしくため息をついて見せた。察しの悪い男め、と言外に責め立ててくる。
「大層殊勝でございますね。京では数万の軍勢を己の手の様に扱ったと評判でありますのに。上洛なされれば、京でもてなされましょう」
ああ、それかと五郎は嫌気がさした。
管領と正親町三条から文が来ている。はっきりとそう書かれているわけではないが、京に来て高国陣営として兵を挙げろ。大樹を支え、京を守る兵を出せと匂わせられている。
残念ながら、五郎はその気がない。
兵を率いて京へ入れば、都の争いに呑まれた旭将軍の二の舞にもなりかねない。京の人々が五郎の軍勢を褒めていることと、その軍勢を連れて京へ来られて喜ぶこととは、別の話である。
「上洛などとんでもございませぬ。京は日の本の中枢、軽々と出向くなど恐ろしいことでございましょう。いずれは挨拶をとも思うておりますが、いつになることやら」
「ですが、」
そこまで言ったところで、霧姫の目が五郎の肩越しで止まった。
霧姫はすぐに一歩動き、五郎の後ろへ下がった。
五郎は、いつぞやも同じことがあったと思った。そう思い視線をやれば、庭の向こうから北川殿が来ている。相も変わらず寒々しい人であるが、今日は表情が柔らかい。
見れば、北川殿は松寿丸と芳菊丸も連れていた。背後には、それぞれの側付きが従っている。
北川殿の目が霧姫を射抜いた。これは捕まれば、霧姫が哀れなことになるだろう。
もっと言えば、今日は庇う気力がない。
「霧姫様、本日はありがとうございました。また日を改めてご挨拶に参ります」
五郎はそういって頭を下げた。さあ、帰れと思っていると、霧姫は名残惜しそうな顔をした。それから、ふいと一礼して去って行った。
霧姫は日に日に面倒になっている気がする。京に帰ってどこぞに嫁ぎ、今川家との縁をつないでほしいのだが、それは難しいのかもしれない。
「治部太夫殿。甘やかしすぎると何度言えばわかりましょうか」
背を見送りながら感慨にふけっていると、いつの間にか北川殿が側にいた。
声色には、呆れと疲れが感じ取れる。
「恐ろしい婆様に日頃怯えておられるのです。多少はよろしいでしょう」
「私のそれは教育ですが、あなたのそれは、興味がないだけでしょう。あの子が、どう育とうと、関心がないから甘やかす。仮にも血族の子を座敷犬のように扱うのはおやめなさい。子を育てた覚えのあるものには、貴方の心底はわかりまする」
そう言われると、立つ瀬がなかった。
五郎は霧姫を立派にしてやろう、どこへ行っても生きていける人間にしてやろう、などとは露ほど思っていなかった。それは親の仕事であり、五郎の人格や能力では立ち入れない範囲であるとすら考えていた。
ゆえに好きに振る舞っていても、これと言って咎めだてはしない、できない。花の京から、鄙びた駿府に下向した姫君を哀れと思い、好きにさせている。また、一方で姫君の率直な物言いは、自分を見つめ直す助けになることがある。
犬扱いはしていないし、馬鹿にもしていない。だが、一歩引いてみると愛玩動物の扱い、と言われても仕方がない気もする。
五郎は北川殿の言葉を認め、頭を下げた。
「返す言葉もありませぬ」
「そこは返して頂かねば、こちらも言葉がないのですよ」
北川殿は息を吐いた。
弟二人の反応は対照的だった。松寿丸はどうしたものかとおろおろし、北川殿と五郎を交互に見ている。芳菊丸は目を大きく開き、五郎の顔をじっと見ていた。
先に口を開いたのは芳菊丸である。松寿丸を一瞥した後、一歩前に出た。
「御屋形様。この度はおめでとうございます。戦勝、官位ともにまことにめでたく。されど、今一つ芳菊丸は、」
「待て、芳菊丸」
五郎は芳菊丸を止め、松寿丸へ目を移した。
五郎は大柄だった。まだ幼さの残る松寿丸とは顔の高さが違い、少しかがまなければ目線が合わない。
「松寿丸。どうした、何用か」
松寿丸は、ああ、いえ、と言った。
それから二度、三度と周囲を見た。北川殿に連れられて来たものの、どう切り出せばよいか迷っていたらしい。しばらくして、ようやく心を決めた顔になった。
「兄上様。戦勝、官位のまことにめでたきことと存じ上げます」
言いたかったのは、それだけらしい。時を見計らい祝いに来てくれたのは正しいが、言葉は、よいとは言えなかった。
五郎は二人の兄だが、同時に明確な主君である。同腹とはいえ、人前でただ兄と呼ぶべきではない。
一方の芳菊丸のほうは少し気を損ねた顔をした。表情も気になったが、目の色が気になった。
父も、祖母も時たま見せる、ヒヤリとする目の光を一瞬浮かべたのだ。
二人の同腹の弟を笑みで迎え入れながら、五郎は穏やかな声色を作った。
「かたじけなし。松寿丸もよく駿府を守ってくれた。聊か難しい土地でもあるが所領も増えた、今後はそこもとにも大領を任せられるやもしれぬ。その腹積もりでおられよ」
松寿丸は嬉しそうな顔をした。背後にいる側付きたちも、ほっとしたように顔を和らげた。
同腹の兄弟で、しかも関係の悪くない弟は貴重である。ただ、今の松寿丸にそこまでの重責を任せることは出来ないだろう。
性根が悪いわけではない。素直で、命じられたことを懸命に勤めようとする。
人格が元で騒動を起こす質ではないが、大きなことを任せると松寿丸にとっても不幸なことになるやもしれない。
関口や瀬名と同じく、そこそこの要所を与え、一門として外へ出す。そのあたりが一番弟のためになるのではないだろうか。
そのような思案は顔に出さず、五郎はそっと話の向きを変えた。少しでも弟の先行きが良くなることを願って。
「ああ、そうよな。三河や信濃の者に念のため話を聞いておけ、そこに据えるかは決めておらぬが、他国のことを知っておくのは悪くない」
そう言うと、松寿丸はさらに嬉しそうにした。
五郎は芳菊丸へ目をやり、次に北川殿を見た。北川殿は特に五郎に何か言付けがあるようではなかった。祖母として孫を連れて来ただけのようだ。
ならばと思い、芳菊丸に向き直った。
声色は少し厳しくする。
「芳菊丸。そこもとには聊か叱らねばならぬことがあるようだ。少し歩くか」
芳菊丸はきょとんとしたが、黙ってついて来た。
北川殿も松寿丸も動かなかった。側付きたちもその場に残った。
五郎と芳菊丸は春の庭を歩いた。
日の当たるところには若草が伸び、踏石の間にも小さな芽が出ていた。だが廊下の下や植込みの陰には、冬の湿りがまだ残っている。
やがて、かつて五郎が蟄居させられていた一角へ出た。
戸は閉ざされ、いまは使う者もいないようだった。蟄居していたころには、庭も建物もひどく狭く見えたものだが、こうして外から眺めると、ただ古びた小さな建物だった。
五郎はその前で足を止めた。
「して、何を聞きたい」
「お叱りになるのでは」
「わかっておらぬのであれば叱るが、先ほどは何が不味かったと思う」
「兄上を差し置いて、祝いの言葉を申し上げました」
芳菊丸は即答した。
「ならばそれで良し。以後気を付けよ。無駄に敵が増える。で、聞きたきことは」
芳菊丸はまた一瞬、きょとんとした。
もう少し長く叱られると思っていたのかもしれない。しかし、何が悪かったか分かっている者を、さらに叱る理由はなかった。
芳菊丸はすぐに嬉しそうな顔になり、口を開いた。
「御屋形様は、」
「今は兄上でよい」
「兄上様は京に出られるので?上洛なさるのでしょうか」
「しない。意味がない。他言は許さぬ。理由は必要か」
芳菊丸は頷いた。
「呼ばれておらぬゆえ。それに尽きる」
「先ほど霧姫様あたりは呼び込もうとしておられました。京の公家や管領様も兄上様を使おうとしていらっしゃるように見えます」
ああ、それでか、と五郎は思った。
北川殿は、霧姫を咎めるためだけに来たのではないのかもしれない。霧姫が五郎を京へ誘い込もうとしているのを見て、間へ入ったとも考えられた。
もっとも北川殿には、それとは別に、五郎があの姫に甘いと思われているらしい。
「いかぬ理由はいうなれば、それが答えであろうな。使ってやると思われているうちは行っても意味がない」
芳菊丸は小首をひねった。
京は官位を与えれば五郎を動かせると思っている。幕府の側も、呼びさえすれば五郎が尻尾を振ると思っている。この段階で上洛し、細川の敵を打ち払っても大した見返りなどない。今川百年の安寧は得られない。
だが、そこまでを教えるつもりはなかった。
「では、それを次の題としよう。もし上洛を行うのであれば、いつか。それを良く考えておけ、ただ題は人に申すな」
芳菊丸は頷いた。
先ほどまでの嬉しそうな顔は消えていた。閉ざされた建物の戸を見ながら、早くも考え始めているようだった。
五郎は歩き出す前に、もう一つ言った。
「松寿丸ら兄たちと仲良くいたせ。それも必要な事ぞ」
芳菊丸は少し不満そうに頷いた。
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その後、五郎は父の居室へ向かった。本当は論功行賞の後すぐこちらに向かう予定だった。信濃のこと、三河のこと、今後のこと色々と話しておきたいことがあった。ほとんど外のことに関わらず、療養に専念している父であるが、さすがに今回のことは大きすぎた。
無駄に心労をかける前に、五郎の口から説明するべきと考えていた。
奥の間には、母の中御門殿がいた。
氏親は床に伏しており、五郎を認めると、片手をわずかに上げた。起き上がろうとはしない。
そばへ坐れということらしい。
五郎は枕辺まで進み、示された場所へ腰を下ろした。
氏親が掛けているのは、綿を厚く入れた布団だった。寝返りを打つときの痛みがいくらかでも軽くなるように、五郎が用意させたものである。顔には病の色が濃くなっていたが、目にある光は以前と変わらなかった。
「そこもとの用意した布団とやら、大分楽になった。このような姿は人に見せられぬ。今川の当主の座にあった男が情けないと笑われよう」
「言わせておけばよろしい。大きな荷を背負ったことのない者らの言葉です。気になさることはございませぬ」
氏親は、くく、と喉を鳴らした。
声を立てて笑うほどの力はないらしい。それでも以前に会ったときよりは、いくらか顔色がよいように見えた。
「して、まずは何から話そうか。そうさな、まずは京のこと、官位のことよな。それにしても治部太夫殿、か。都も泡を食っているな」
「そのように仰せられては」
中御門殿がたしなめた。形だけの非難であった。それすらも面白いようで氏親はまた喉を鳴らす。
そして、氏親は枕に頭を沈めたまま、目だけを五郎へ向けた。
「許せ。それに隠居の病人の言葉などもはや無意味よ。皆、治部太夫を見ておる。気が付いておるか」
「さて、皆、上洛するかしないかを気にしておられましょう」
官位の沙汰が届いてから、駿府にいる公家衆の目は、それまでよりあからさまに五郎へ向くようになっていた。駿府に戻って数日であるが、露骨に五郎を京に向かわせようとしている。
ずいぶんな変わりよう、と庵原安房守などは、皮肉をこぼしていた。今川譜代もあまり良い気はしていないようであった。
事実、これまで京は、官位のことになると及び腰であった。五郎が断ったというのもあるが、幕府の顔色を窺いどうにか与えぬ方向にもっていこうとしていた。
それが三河と信濃の戦が片づいた途端、それまでの出し惜しみを埋め合わせるような沙汰を寄越したのである。祝いに来る者も、何処からか含められているのか上洛のことを匂わせた。
氏親はしばらく五郎の顔を見ていた。
「上洛、してはどうだ」
思いがけない言葉だった。五郎の顔にその驚きが出たらしい。
「どうした」
「いえ、今川の利にならぬと止められると思うておりましたゆえ」
氏親は口角を上げた。
「大内を思えば、名を上げる機会ではあるが、利にはなるまい。父はな、かつて京でそれに振り回されるのを延々と見たゆえ、できれば御免こうむりたい」
氏親は幼少期を京、幕府政所伊勢家の屋敷で過ごした。先代の細川や九代将軍、十代将軍の右往左往をわが目で見ていたのだ。当然、地方の武士が兵と銭を費やし、京につながりを持とうとし、結果、破滅するところなど枚挙にいとまがないほど見て来たはずだ。
中御門殿が少し顔を顰めた。
「では、なぜ五郎にそう仰る。弟にも先ほど京には出ぬというて来たばかり故、聊か翻しがたく」
「皆がそういうのであれば、一人くらいは面と向かって、行け、と言うものもおったほうが良かろう。それに、父が京と距離を取ったからとて、息子がそれに倣う必要もなし。どうだ、管領殿の味方をし、上洛し、大樹の敵を打ち払ってみぬか。帝も喜びになられよう」
声にはからかう響きがあったが、それだけでもないらしい。氏親は五郎から目をそらさず、返事を待っていた。
「殿」
中御門殿が制した。今度は明らかに責める意図が見えた。
五郎は母の説教が始まる前に口を開いた。
「お言葉ですが、やはり荷が重く」
「はっきり申せ、苦労に見合わぬ。領地を富ませたほうが楽だと」
「もう」
中御門殿は困ったように顔を伏せた。
氏親は力なく笑った。笑ったあとは少し息が乱れ、枕に頭を預けたまま、しばらく口を閉じていた。
「ただな五郎。得る物はあろう。周囲はそこもとを知ったぞ。もはや父の影になど隠れられぬ。老臣らの背にも隠れられぬ。皆必死にそこもとを抑えようとする。これを和らげるには京の権威というのは役に立つぞ」
五郎は曖昧に頷いた。氏親のいうことも事実である。
これまでは若い当主の働きというよりも、古くからの今川家中が支えているものと見られていた。精々が良く老臣らを使っている、その程度であろうか。
だが、三河と信濃の戦で、それは変わった。
一万を超える兵を信濃へ出し、関東にも別の援軍を送り、それでも駿河と甲斐の守りを崩さなかった。今度の官位も、京が今川家だけでなく、五郎そのものを見始めたために来たものだろう。
今川の兵を借りたい者も、その力を恐れる者も、これからは五郎へ直接手を伸ばして来る。氏親は、そのときに京の権威が役に立つと言っているのだった。
だが、
「金言ありがたく存じ上げます。されど今は今川の力のみで海内に泰平をもたらしたく」
氏親が笑った。
先ほどより大きな声だった。
中御門殿が驚いて氏親を見た。氏親はなおしばらく笑っていたが、やがて息をつき、枕へ深く頭を戻した。
「なるほど傲慢よな。京の権威を良い様に使おうとするよりも、よっぽど不遜よ」
五郎は静かに頭を下げた。
氏親は目を閉じた。笑ったために疲れたのかと思ったが、やがてまた目を開き、五郎を見た。
「まあ、やってみよ。許す」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
また書き溜め出来次第投稿させていただきます。




