4章_14
三河で松平次郎三郎を討ってから半月ほど後、五郎は信濃府中へ入った。朝比奈備中守に止めさせていた小笠原との和議の受け入れ、正確には降伏を受けるためである。
初めて会う小笠原大膳大夫は、頭を丸めていた。こちらから言い出したことではないが、約束通り出家の準備をしたようだ。大膳大夫も頬が痩せ、剃った頭だけが青く見えた。信濃の高遠、諏訪と比べると随分律儀に思えた。
府中の館の広間には、小笠原の一門と重臣が十人ほど居並んでいた。いずれも衣服は改めていたが、顔には陣中の疲れが残っている。
五郎の側には、朝比奈備中守をはじめ、今川方の諸将が座を占めている。障子を閉め切ってあるにもかかわらず、広間の畳は冷えていた。庭には数日前に降った雪が残っている。
大膳大夫は両手を膝の前についた。
「この度はまことに申し訳ございませぬ」
傍らの家臣が文箱を進めた。
大膳大夫は蓋を取り、一通の書状を畳の上へ置くと、五郎の方へ押し出した。近侍が受け取って、五郎の前へ運んだ。
書状は幕府に宛てられていた。
この度、信濃を騒がせたるは、小笠原大膳大夫の力量不足が原因であること。また今川との約定を破り、先に兵を挙げたことなどの詫び。また、その責を負って守護職を退きたいと書いてある。
守護は幕府から補任される職である。大膳大夫が辞すると言っただけで、すぐに小笠原が信濃守護でなくなるわけではない。それでも本人の辞状があれば、幕府も処置を決めやすい。書状は今川の使者が京へ持参することになっていた。
五郎は書状を畳んだ。
「降伏の件、受け入れ申す」
それだけを言った。
小笠原方の家臣たちの間に、わずかな動きがあった。顔を上げる者はいなかったが、固くなっていた肩がゆるみ、何人かが息を吐いた。
大膳大夫も頭を下げたまま、長く息をついた。
降伏の条件は、すでに朝比奈を通じて詰めてある。
小笠原の家名は残す。筑摩のうち、家を保つだけの所領も安堵する。しかし、府中を中心とする惣領の直領と、そこに含まれる城、蔵、関所は今川の預かりとなる。
小笠原に従っていた国人や地侍には、氏景の名で個別に安堵状を出す。領地をめぐる争いは今川の裁定を受け、軍役も今川から命じる。城番の兵糧と、今回の戦に要した費えも、当分は信濃から出させることになっていた。
結論として、小笠原本家は残るが、小笠原を通して信濃の国人を動かす仕組みは残らない。
「信濃守護については、現状、五郎から求めるつもりはありませぬ。たとえ小笠原殿にとどめ置かれても、これを阻むつもりはなし」
「滅相もありませぬ」
大膳大夫には、そう答えるほかなかったろう。
仮に幕府が守護職を小笠原にとどめ置いても、以前と同じようにはいかない。主要な城と蔵を今川が押さえ、国人の領地を今川が安堵する。小笠原の名で兵を集めても、従う者は限られるはずだった。
「誠、疲れ申した。所領と名、命が残っただけでありがたく」
大膳大夫が言った。力のない声である。
強がっている様子はなかった。喜んでいるとも見えない。ただ、これ以上は失わずに済むと知って、ようやく身体から力が抜けたようだった。
櫛の歯が欠けるようにいなくなる一門を留めながら、圧力を増し続ける一万を超える軍勢と相対し続けるのは相当に疲れる。和睦、事実上の降伏の手紙への返事がないのも辛かっただろう。
五郎は傍らの文箱へ目をやった。
「もはや、五郎が申すことではないやもしれませぬが」
近侍が二通の書状を取り出した。
「御身が小笠原、信濃守護でなければ、信濃への配慮をするつもりはございませなんだ。諏訪も高遠も今になってこのような文を送るのであれば、聊か困り申す」
二通の書状が大膳大夫の前へ置かれた。
大膳大夫は一通を開いた。
読み進めるうちに、痩せた頬へ朱が差した。
諏訪と高遠は文の中で、今回の騒乱が大膳大夫の主導によって起きたと書いていた。甲斐の竹松を支え、今川と敵対する道を選んだのも大膳大夫の意向であり、自分たちは信濃守護の命に従ったにすぎないというのである。
今後は幕府が定める守護に従い、それまでの間は今川の国務沙汰を受ける。越後の勢力を信濃へ招き入れようとする者にも与しないとあった。
二通目も、ほぼ同じ内容だった。仲の悪い二家であるが、こういう時は足並みをそろえているようだった。やはり根が近いのかもしれない。
文を持つ大膳大夫の手に力が入った。紙がかすかな音を立てたが、やがて指はゆるんだ。
大膳大夫は書状を元のように畳み、畳の上へ返した。
「言葉もありませぬ。事実でございます」
「そうは思いませぬ。信濃に今川の手を入れぬよう、力を尽くされた。私心はさほど見えませなんだ」
大膳大夫は苦笑した。やつれた頬が上がる。徳を積んだ僧のようだった。
「畏れながら、私心はあり申した。御身に守護を渡すまいと、前に出過ぎ申した。それが仇となり申した」
「いまさらの話でございますが、お互いもっと早く話すべきでありました。裏でつながり、もっと楽に動くこともできました」
大膳大夫は剃った頭を撫でた。
「確かに、今川家が二万、三万の兵を安々と出せると知っておったならば、傲岸たる大膳大夫も馬鹿はしでかすまい。御身に早々に首を垂れておったでしょうに」
「軍の総数を知っておる者は、家中にも数えるほどです。知らぬからと言って恥にはなりますまい」
大膳大夫は小さく笑い、息を吐いた。視線を中空にさまよわせ、しばらく黙り込んだ。何を言うべきか、言ってよいか迷っている、そんな気がした。
やがて、すっと、小さく息を吸い、切り出した。目には少しだけ力があった。
「して、某は良い餌でありましたか。三河の小僧を釣るために使えたならば幸いでござるが」
なるほど、小笠原大膳大夫とはこのような男であったのか。
五郎は出家させたことが惜しく思えた。
「餌などと、そのようには思いませぬ。東はともかく、西の信濃、三河はどれも本命でございます。軽く見ていたならば股肱の者に一万以上の兵など預けて向かわせますまい。どれも本命、どれも力を抜けぬ場でございました」
「左様ですか」
下手な言葉であったかと、五郎は思った。
大膳大夫を慰めるために言ったのではない。信濃を軽く見ていたなら、一万を超える兵と朝比奈備中守を向かわせるはずはなかった。ただ松平次郎三郎という破格の男を踏まえたうえで、力の入れ加減、策の手の入れようの差はあった。とはいっても、それは何ほどの慰めにもならないだろう。
五郎はわずかに頭を下げた。
「ご失礼を」
「ああ、いえ、やはり力が湧いて参りませなんだ。失礼ながら以前の己ならばいきり立ったやもしれませぬが、朝比奈殿に雪の中で焦らされている間に、色々と減ったようでござる」
大膳大夫が最初に和睦を申し入れたのは、朝比奈勢に敗れてから幾日も経っていないころだった。
一万を超える兵に、正面から押し負けた。その日のうちに兵を退き、翌日には使者を出した。小笠原の本領を保ち、竹松を京の寺へ入れることを認めれば、今川の国務沙汰を受けてもよいという条件だった。
備中守は返事をしなかった。五郎が焦らせろ、和議が進んでいるように見せかけよと命じていたのだ。備中守はそれを愚直に守った。
使者を追い返しはしない。時に気を持たせたり、時に陣の外へ待たせたままにしたそうだ。そうして、府中へ通じる道を一つずつ押さえていった。
無論、そのような中で、小笠原勢の中の跳ね返りがしびれを切らして討って出ることもあった。そうなれば退き、退けばまた近づいた。大きな戦を避けながら、兵糧が入る道と、国人が小笠原の陣へ集まる道を狭めていったのである。
どこで覚えたのか、塩止めまで匂わせたらしい。五郎も許可をしたが、中々に手厳しい戦に思えた。
結果、二度目の文で、大膳大夫は城の明け渡しを認めた。本城を引き渡す、だから許してくれという文であったそうだ。
だが、備中守はそれにも返事を返さない。加えて徐々に塩止めが信濃に影響を及ぼしだした。
それで三度目には惣領領の割譲と、自身の出家を加えた。最後には、幕府へ信濃守護職の辞退を願い出ると書いた。
そこでようやく、備中守は使者を五郎のもとへ送った。そろそろ絞れるものがなくなりましたゆえ、三河に向かいたい。
焦らせれば焦らせた分だけ、得るものがありました。備中守はいけしゃあしゃあと報告して来た。
大膳大夫の内心が、いつどのように変わったのかは五郎にも分からない。ただ、最初の使者が来たころには、まだ文面に残っていた強い言葉が、後になるほど消えていったことは知っていた。
「この後は駿河にてごゆるりとお過ごしください」
大膳大夫は息を吐き、頭を下げた。隠居地は駿河、五郎の膝元になると伝えたが、微動だにしなかった。やはり腹が据わっている。追い込みさえしなければ如何様にでも働く男に思えた。
大膳大夫はそのまま何も言わず、立ち上がる。小笠原方の家臣たちも、五郎へ頭を下げて後に続いた。廊下には人の立つ気配があり、やがて草履を履く音がした。
最後の者が出て行くと、広間には今川方だけが残った。
五郎は居並ぶ家臣たちの方を見た。先ほどまで顔に貼り付けていた笑みは無意識のうちに落ちている。
「備中守」
出した声も数段低くなっていた。
「は」
その変わりようにも動じず、備中守が前へ出た。
具足は脱いでいたが、顔には陣中の色が残っていた。頬は冬の風に焼け、髭も伸びている。府中へ入ってからも、城と蔵の受け取りに追われ、まだ落ち着いて休んではいないらしい。
「よくやった」
「ありがたく」
「次は三万程度を任すゆえ、心構えは致せ」
備中守が少し頭を掻いた。
「それはありがたいのですが、やはり五千を超えると急に動きが悪くなりまする。備中守には荷が重く」
五郎は目を細めた。これほどの男でもそうなるというのが意外であった。
「誰でもそうなのやもしれぬ。五郎めも一万以上になるともはや自由自在とはいかぬ。ただその場所に置き、後は将らに任すほかなし」
五郎が自分の目で見、自分の声で動かせるのは、三千ほどまでなのかもしれなかった。
それを超えると、軍勢は一つの塊ではなくなる。先陣が動いても、後ろの兵がそれを知るまでに刻がかかる。道が狭ければ列が伸び、荷駄が遅れれば、前へ出た兵から食うものがなくなる。
一万、二万となれば、将ごとに兵を分け、その将が正しく働くことを頼むほかない。
それを見れば、おそらく先の福島兵庫助も相当うまくやったのだろう。山道を進み敵の本拠に食い込むところまで戦って見せた。やはりつくづく戦死したのが惜しい。
そしてそれに比べて、備中守も何ら劣るところはなかった。一万を超える軍勢を預かり、小笠原を無理に追わなかった。大きく兵を損なわず、城も蔵も焼かずに降伏させた。五郎が指図したのは、信濃へ入り、小笠原を戦へ引き出すところまでである。その後のことは、朝比奈の働きだった。
「兵は痛んでおるか」
「さほどではございませぬ。お預かりしたうち、一万は無傷と言ってもよいかと」
五郎は頷いた。冬の戦であるから、多少は覚悟していたが、何よりの戦果である。
無論、死傷者がなかったわけではない。だが一万がすぐに次の命令へ応じられるなら、十分だった。
「三万の件、冗談にしておくつもりはない。今一度心構えを頼む。仔細は尋ねるな」
備中守の頬に血が上った。疲れた目にもかっと力が満ちる。
「ご期待を裏切らぬように精進いたします」
冷えた室内にも響く声である。背筋が伸びるような声だった。
五郎はこの男を信濃に置くことを決めた。
小笠原の旧直領を預け、府中の城と蔵を押さえさせる。国人から出る訴えや安堵の願いも、まず備中守のところへ集めればよい。これだけ長く対陣したのだから、信濃の道や、国人同士のつながりも、駿河から来たほかの者よりは分かっている。
ただ、備中を信濃へ置けば、その後を埋める者が要る。遠江の地。ここに誰を入れるかという話である。
岡部左京進を戻すのもよい。あれに大領を与え、副将として実績を積ませる。
または、そろそろ由比や三浦も使うというのもある。駿河の守りとして置いていたが、いい加減外に向けてもいいだろう。
もしくは、福島の若手を連れ出してもよい。兵庫助の倅は、駿府で様子を見ていたが根が良い。五郎の異腹の弟、兵庫助の孫とはあえて距離を取っている。傲慢な言い方をすれば弁えた部分がある。粗略に扱わなければ、兵庫助の後釜として動かせるだろう。福島の若手はその繋ぎである。
いや、と五郎はそこまで考え、甲斐を思い出した。
何だったら、庵原の坊主を甲斐の過酷な労働から解放する手もある。
あの小賢しい承菊の顔を思い浮かべて、五郎は考え直した。
承菊はだめだ。
子持ちの寡婦に粉をかけたらしい。同時に二人だ。もうしばらく労働の負荷を上げよう。
あと問題は関口彦三郎だ。武田五郎の遺児を内密に一門の子としたが、なかなか会わせてくれない。以前、自分の養子にしたいと言ったことを真に受けているようだった。
猶子といった方が良かっただろうか。
まあ、よい。今は人の配置を考えるときである。
人数が足りないわけではない。長く仕えた譜代の者らもいる。腐っても足利の一門今川である。
とはいえ、新しい城へ置き、大きな軍を預け、国人の訴えを聞かせるとなると、誰でもよいわけにはいかなかった。一人を動かせば、その者がこれまで受け持っていた場所にも、別の者を置かなければならない。
いっそ井伊など、遠江の国人も使っていくか。これまで触れた限りでは、そう応対も悪くない。甲斐の者らを重用するとおそらく不満が出るが、遠江ならばまだ幾分ましであるはずだ。
五郎がそこまで考えたとき、廊下の外で人の足が止まった。
「申し上げます。村上殿がお越しです」
取次の声がした。急な来訪ではないが、先ほどまで緩んでいた場が改まった。
五郎は北信濃の村上とも会うことにしていた。
村上は数日前から府中の北に兵を止め、今川と小笠原の話が定まるのを待っていた。高梨と越後の兵は、今川の一万余りの軍勢が再び信濃に戻ると霧散し、何事もなかったかのように北信濃は落ち着いた。村上はこれを当初追おうとしたが、五郎がそれを止めた。越後とのなし崩しの騒乱は望んでいなかった。
まずは信濃の今後のことについて話し合いたい。お忙しいようならばそちらに向かう、そういう文を付けて使者を送った。すると、村上はすさまじい速度で断りの返事とともに、こちらに向かってきた。
無理もない。一万を超える軍勢を自領に入れる理由など作りたくはない。なし崩しに支配下に入れられるのが目に見えている。
「通せ」
五郎は再び、声色を穏やかなものに替えた。
村上方は家臣を六人連れて入って来た。先頭に立つのは村上の若き当主、左衛門佐義清である。他の者たちより頭一つ分大きく、肌は黒く焼けている。険しい顔を作っているようだったが、隠しきれぬ愛嬌のようなものが見え隠れした。
一行は正装であったが、袴の裾には落としきれない泥が残っていた。左衛門佐も直垂を着ていたものの、急いで取ってつけたような違和感がぬぐえない。座敷にいるより馬上にある方が似合うように見えた。
今川方の家臣に一通り目礼すると、左衛門佐は五郎の正面まで進んだ。示された場所へ、どしんと腰を下ろした。
駿河や遠江の者なら、まず見せない座り方だった。
今川方の何人かが眉をひそめた。一人は膝を浮かせかけたが、五郎は目で制した。
「わざわざお呼び立てして申し訳ない。高梨の一件、御迷惑をおかけいたした」
この度の一件では、高梨、長尾の連合軍の南下に対し、村上方が道を塞いだ形になる。そのため越後勢は高梨方へ十分に入れず、南へ回って小笠原を助けることもできなかった。
見方によっては、村上方はこの信濃を取り巻いた騒乱において、今川方につき、武功を上げたとも取れなくはない。
実際、村上方が北を押さえている間に、備中守は南から府中へ進み、小笠原を降伏させたのである。
「本来ならばこちらから足を運ぶところ、申し訳ございませぬ」
左衛門佐は薄い笑みを貼り付け、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「いえ、信濃の騒乱の一件。あずかり知らぬところで決められては困りますゆえ」
左衛門佐の言葉は丁寧だったが、顔には詫びる色がなかった。怯えるところもない。
確かに小笠原の処分は、村上とは形の上では無関係である。
しかし、位置関係を見るとそうも言っていられない。今川が府中を押さえ、さらに北へ兵を進めるなら、次に相手となるのは村上だった。また今川が信濃の国人へ法度を出すなら、それが北信濃にまで及ぶかどうかは、村上家の存立に関わる。
左衛門佐の言葉には、信濃の処分について、今川の好き勝手にさせぬという意図がありありと見えた。
五郎は村上の顔を見て、思わず口元を緩めた。
「なにか」
「いえ、失礼いたしました。確かに村上殿にも関係ありましょうな。こちらからは先に文に書いた通り、高梨を戻す戻さぬ、このあたりを理由に兵を出すつもりはござりませぬ」
「無論、こちらについては端から村上の領分でござる。お気遣いは無用にて。されど、この度訪れたるはもっと根の話をしたく。村上の存念は、御身が信濃をどうするかということにございます」
広間が静かになった。今川方にはそっと五郎の顔色を窺う者、左衛門佐を訝しむ者などさまざまである。
村上の後ろに並ぶ家臣たちも、顔を上げて五郎を見た。
「なるほど、小笠原殿の差配していた国人らと同じように村上殿を扱うべきか、そのあたりでござろうか」
「左様。諏訪や高遠と同じようにと申されても、困り申す。無論、ありとあらゆるものが気に入らぬなどと跳ね返るつもりもござらぬが」
小笠原大膳大夫は守護職辞退の書状を差し出した。府中を中心とする惣領領と、城、蔵、関所は今川が預かる。小笠原に従っていた国人には、今川が個別に安堵状を出すことも決まっている。
諏訪と高遠も、すでに今川の国務沙汰へ従う旨を申し出ていた。
南信濃と中信濃では、守護が誰になるかとは別に、今川が実際の国務を行うことになる。
残るのは北信濃だった。
「すべて今川に従うべし。箸の上げ下げ、褌の締め方までこちらの指図通りに。そんなことは申しませぬ」
「では、如何様に信濃を纏めなさる。もはや守護がどうのこうのと形を整える必要はござらん」
「誠意は尽くしましょうが、それをどう取るかはお任せするほかありませぬな」
「木で鼻をくくったような答えでござる」
左衛門佐は不満そうに言った。
五郎はやはり左衛門佐を嫌いではなかった。
どうやら五郎は、自分を嫌う者が好きらしい。そういう者は得てしてまともだ。
「実のある話を申せば、大膳大夫殿の所領はこちらが預かり、その配下にあった者、関わりのあった者らの所領安堵は行いましょうな。そのうえで勝手に戦うな、水の手を切るな、関を設けるな、法度に従えと申しつけましょう。そう固いものではございませぬが、破れば程度次第で討ちましょう」
言葉通りであった。
小笠原の惣領領は今川が預かる。だが、その下にいた国人や地侍の領地まで、すべて取り上げるつもりはない。その土地の者がいなくなれば、国を治めるなど到底できるはずがない。
ただ、今川が旧領を安堵し、その代わりに勝手な合戦を禁じる。今後のために水も握る。統治、戦のために道も通す。あとはすでに存在する古来の法を明文化するぐらいだ。
「先ほど箸の上げ下げ、褌の締め方まで従わせぬと申されたが。もはや同じことではござらぬか。五郎殿は信濃すべての人間の首に縄をおかけになられたいのか」
側にいた三浦次郎左衛門が咳払いをした。今日はこの男が目付け役らしい。
左衛門佐が気まずそうに頭を下げた。
「失礼を申しました」
「いえ、法度にはござらぬゆえ。無論、五郎を悪し様に申すことも許されております。お好きに申されよ」
左衛門佐の眉が寄った。五郎の言い分が気に入らなかったようだった。
「では申しますが。今川は随分、傲慢な政をなさるようだ。信濃には信濃のやり方がありましょう。駿河から見れば田舎の法やもしれぬが、これをないがしろにされるのは如何なものか。言うては何でござるが、従いなさる方の心が知れ」
「殿」
左衛門佐がはっとした表情をした。
話しているうちに熱が入ったのか、最後の方は強い言葉になっていた。ただ、村上方の家臣の制止もあり、少々渋い顔をしていた。
一方の今川方は対照的である。
重臣である次郎左衛門や備中守らはそ知らぬ顔をし、顔を険しくしているのは最近側に上がった者だけだ。
五郎はこの場にいるすべてのものに聞かせるようにして言った。
「心を明らかにしろと言う法度もござらぬゆえ、好きに思わせております」
左衛門佐の眉がさらに上がった。
広間の端で、誰かが小さく咳をした。笑いをこらえたのかもしれなかったが、五郎はそちらを見なかった。
「ただ、常々、五郎が約束しているのは、従えば、食うに困らぬこと。従えば、身内同士で斬り合うこともなくなること。従えば、法度以上のことは求めぬ。それだけでござる。存外、皆過ごしやすいようで、徐々に馴染んでおるようでございますが」
左衛門佐はすぐには返さなかった。何か言おうとしたが、踏みとどまり、唸りながら何か思案していた。
おそらく南信濃のことだろうと五郎は推測した。
南信濃は少しだけ上向きである。かつては国人同士の争いが絶えなかった。道を閉じられれば塩が来ず、水を止められれば作物が枯れる。
そこに少しだけ、数年前から手を加えている。伊那でこちらに転んだ小笠原一門はこれに惹かれたようだった。
無論、南信濃でも今川の法度を好いている者ばかりではない。それでも、今川の書状があれば荷を通せること、訴えを出せば一応の裁きが下ることを、便利だと考える者は増えていた。
左衛門佐はいつの間にか思案から戻り、目を細めていた。訝しむような色は強くなっている。
「村上もそれで縛りなさるか。逆らえぬようになされますか」
「文で申した通り、お好きになされればよろしい。道を通せとも、塩を止めるとも申しませぬ。村上殿が北で高梨とにらみ合ってくれれば、こちらは越後と国境を接せずに済みまする。されど、こちらに与してくださるのであれば、心強い」
左衛門佐はしばらく五郎を見ていた。
五郎の言葉に嘘は含まれていない。
確かに今川は小笠原を屈服させ、南信濃と府中を押さえた。さらに北へ進むだけの兵もある。
だが、村上を討って北信濃を取れば、その先は越後だった。
山深い道を越えて兵糧を運び、雪の時期にも城番を置かなければならない。取れる米や銭に比べて、守るための費えが大きい土地でもある。
いうなれば今の今川における攻勢限界点である。
しかも無理に攻め取らずとも、村上が高梨と向かい合っている間は、越後勢も容易に南へ出られない。
今川にとっては、村上を滅ぼして越後と直接境を接するより、村上を北に置いておく方が都合がよかった。
「弱腰でございますな。万の軍を盾に押し通すぐらいの強さは持ち合わせておるのかと」
「強いか弱いか、戦わねば分からぬような相手であれば、それも致しましょう。ただ村上殿はどちらかと言えば、承知の方ゆえ、不要と思うておりました」
左衛門佐の顔が険しくなった。
今川方の座にも、わずかな動きがあった。
いま広間にいる者の多くは、つい先日まで戦場にいた。村上が立てば、自分たちも立つつもりなのだろう。戦が終わって日が浅いため、まだ気持ちが陣中から戻っていない。
よくない、と五郎は内心で失敗を恥じた。気に入った相手をこねくり回そうとするのは明確な悪癖である。
それが明確に悪い方に転がった。
徐々に張り詰める空気の中、村上方の家臣の一人が、後ろからそっと主の背に触れた。
左衛門佐は振り向かなかったが、その手には気づいたらしい。しばらく五郎をにらんだ後、息を吐いて肩を落とした。
「失礼を、少し気が入り過ぎ申した」
「いえ、こちらこそ、戦から間もないゆえ、言葉が荒くなり申した」
五郎が手を伸ばすと、近侍が文を持って来た。
まだ若い近侍だった。文を受け取るとき、五郎はその顔に見覚えがあるように思った。由比千代丸に似ている。おそらく兄であろう。
駿府を出てからそれほど長くは経っていない。それでも、千代丸の顔が少し懐かしく思い出された。
五郎は顔には出さず、文を左衛門佐へ差し出した。
「これは」
「我らは直接領土を接するようになってから間もない。ゆえ、どうも、お互いに言葉が飛び交い過ぎる。まずは簡単に約定を結びましょう。言った、言わぬよりも、こちらの方が明確にござりましょう」
左衛門佐が文を開いた。
文には、三つの約定が記されていた。内容はいずれも簡潔だ。
第一に、今川は村上の領分へ兵を入れず、左衛門佐も今川が預かる領分へ兵を入れない。双方の家臣や寄子が勝手に境を越えた場合には、ただちに主家の命によるものとは決めず、まず使者を立てて事情を確かめる。
第二に、今後、五郎が信濃守護となることがあっても、村上へ守護としての参陣や軍役を命じない。
第三に、高梨が越後の援けを得て南下したときには、今川と村上がともにこれを防ぐ。ただし高梨勢を退けた後、越後領まで攻め入ることは求めない。
「引っ掛けなどはございませぬが、重要な事柄ゆえ、ごゆるりと皆様でご覧ください」
五郎がそう言うと、左衛門佐は文を最後まで読んだあとで、もう一度はじめへ戻った。
じっと文に顔を近づけ、時に家臣らとも目配せする。これでよいのか、何か落とし穴や他意がないかと考えているようだった。
無論、五郎には村上方をだます意図はない。
第一の項目は唐突な衝突を防ぐためであり、言うに及ばない。第三は先の攻勢限界ゆえの一文である。おそらく村上も越後を攻め取ろうとなどとは考えていない以上、異論はないと見ていた。
ただ第二の項目については、僭越と思われても明確に定めたいことであった。
五郎はいま、信濃守護への補任を幕府へ求めてはいない。しかし小笠原が退けば、いずれ幕府からその話が出る可能性はある。これを断るつもりはない。ただそうなると、今川が守護職を得た後、北信濃へ軍役を新たに課すこともあり得る。それを未然に防ぐ一文である。
村上方は文を確認し終えたようで、息を吐いた。
文は左衛門佐の手元に戻っている。
「随分とまあ」
「確かに第二の項など思い上がりと言われても致し方なし。それに第三の項など、こちらの都合を押しつけた盟とみなされても致し方なし。しかし、越後の長尾殿が北信を足場にするのは悩ましく、これをまず止めるのが互いにとって肝要かと存じ上げます」
村上は低く唸った。
五郎にとってはこの約定は、今川に都合がよい。
しかし村上にも利があるため、受ける算段もあると見ていた。
何より南から今川に攻められる心配がなくなり、高梨との争いに兵を向けられる。今川が信濃守護となっても軍役を負わず、高梨が越後兵を入れたときだけ今川の助力を得られる。
ここからどれだけもめるか、五郎は用意していた二通目、三通目の約定に思いを馳せた。
譲れるのは三通目に書いた、小笠原の旧領の割譲までである。それ以上は厳しい。どうにか落としどころを見つけなければいけない。
そう考えて内心で気を入れていたが、村上方の空気がおかしかった。
左衛門佐の後ろで、何人かが互いに目を交わしている。明らかに彼らは肩の力が抜けていた。
どういうことかと訝しんでいると、左衛門佐も渋々と口を開いた。
「御身がそれでよいならば、村上も相違はござらん」
左衛門佐はそう言って文を畳み、膝の前へ置いた。追加の条項などはなかった。
五郎はどういうことだろうと、内心で首をひねった。
予想ではもう一押し、二押しあるはずだった。
やろうと思えば、今川軍を北へ進めることはできる。
朝比奈勢を府中から押し上げ、甲斐からも兵を回せば、村上は容易には支えられないだろう。開けた場所で兵をぶつけるなら、五郎は負けるとは思わなかった。
だが、取れるものが少ない。村上が北へ逃げ、高梨と同じように越後の援助を得て戻ってくることも考えられる。
そうなれば得られるものはさらに少なくなる。
お互いの領分を認め合うのが得なのだ。それを理解すればこそ、村上方は何らかの保証を求めると思っていた。
それで五郎は踏み込んだ。相手の腹を探ってみたかった。断じて左衛門佐が気になったのではない。
「ご心配とあらば、婚姻でも致しますか。できの良い弟がおりまする」
左衛門佐が、また眉を寄せた。家臣がまたその背に触れた。
口にしてから、五郎は、なるほどこういう筋も悪くないと思い直した。
婚姻を結べば、今川が北信濃へ兵を入れないという約定にも、いくらか重みが増す。村上に娘か姉妹がいるなら、弟の一人を婿に入れることもできる。
ゆえにさらに踏み込んだ。
「弟で不満ならば、この五郎でも構いませぬが。姫君がおられれば」
言葉は途中で断ち切った。左衛門佐が顔を盛大に顰めたのだ。




