4章_13
軍勢が東へ向き直るまでには、思ったより時がかかった。先ほどまで殿を守っていた直轄勢が前へ出ようとし、西を向いていた一門衆の兵と道の上でぶつかった。槍が絡み、馬を避けた徒歩の兵が田へ降りる。物頭たちが声を嗄らして旗を動かし、ようやく軍勢の向きが揃った。
次郎三郎はその間に、譜代、直臣、馬上の者を前へ集めた。七百を超え、千には届かないほどである。長沢へ攻め寄せた軍勢のうち、次郎三郎の命だけで迷わず動く者たちだった。竹谷、形原をはじめとする一門衆の兵は、その後ろへ続かせた。
東には、南北に連なる低い丘があった。その奥の、もう一段高くなった場所に五郎の馬印が見えている。風が吹くたびに丘の陰へ沈み、また姿を現した。
「狙うは、今川五郎の首のみ。脇目もふらず駆けよ」
今川の五千を破る必要はなかった。前を守る兵を抜き、五郎を討てばよい。
五郎が死ねば、東の五千も、岡崎筋へ回った朝比奈勢も、いまのままには動けない。次に誰の命を聞くかを決めるまでに、必ず間が生じる。その間に岡崎へ戻る。
もしや、上杉や甲斐の情勢もそれで変わるだろう。松平が残る道は、もはやそれしかなかった。
次郎三郎は馬を回し、後ろを見た。一門衆はいずれも顔を強張らせている。長沢が斬り伏せられたばかりである。逆らう者はいなかったが、次郎三郎と同じ腹で五郎へ向かおうとしているようにも見えなかった。
兵の前にいる者たちは、次郎三郎よりも隣の旗を見ていた。一家だけが遅れれば疑われる。反対に、一家だけが前へ出れば、次郎三郎とともに今川勢の中へ取り残される。誰かが先に動くのを待っている顔だった。
「御一門衆。先の言葉通り、この次郎三郎の背を追い、旗から離れず、その後ろを押し続けよ。さすれば、松平の道は自然と開かれようぞ」
返事はなかった。一門衆は互いの顔を見た。やがて何人かが手綱を握り直したが、声を出す者はいない。
構うものか、と次郎三郎は思った。
次郎三郎は馬首を東へ向けた。馬が道を蹴った。左衛門五郎をはじめ、譜代と直臣が続く。旗が前へ傾き、槍を担いだ兵が足を速めた。少し遅れて、一門衆の軍勢も動き出した。
道はしばらく平らだったが、やがて緩やかに登り始めた。左右の田が低くなり、丘の斜面には枯草と疎らな雑木が見えた。薄く曇った空の下を、正面から風が吹いて来た。丘へ近づくにつれて、今川勢の姿が見えて来た。
向こうも西へ進んでいたらしい。双方が丘へ急いだ結果、今川勢の方が一足早く高所を取っていた。第一線は西向きの斜面から丘の頂にかけて、街道を中心に左右へ広く展開している。旗の間隔は揃い、弓兵が槍列の前へ出ていた。街道を外れた斜面にも兵が並び、丘の形に沿って緩い弧を描いている。
戦う前に高所を取られた。次郎三郎はひそかに臍を噛んだ。
今川勢の動きが緩慢に見えたのは、松平勢を急いで追う必要がなかったからだろう。西に朝比奈勢がいるならば、東の五千はゆっくり距離を詰めればよい。反転した松平勢が、この丘へ来ることも見越していたのかもしれなかった。
だが同時に、好機も見えていた。丘にいる第一線は、思っていたより薄い。
目に見える兵は千に届かないほどだった。しかも左右へ広く展開しているため、次郎三郎が狙う中央には、幾重もの槍列があるわけではない。
その向こうに、五郎の馬印が見えていた。第一線を抜けば届く。そう思わせるだけの距離にあった。
五千の兵を持ちながら、なぜ千にも満たない兵だけを前へ置くのか。残りの兵がどこにいるのかも見えなかった。何か意図があるのかもしれない。
だが、もう迷ってはいられなかった。
ここで次郎三郎が足を止めれば、一門衆も止まる。今川の薄い第一線を見て躊躇したと思われれば、ようやく東へ向けた軍勢は、今度こそ崩れるだろう。
そのまま西から朝比奈勢に追いつかれれば、戦わずして終わる。
次郎三郎は右手を上げた。
「射かけよ」
松平方の弓兵が前へ出た。槍兵の間を抜け、街道の左右へひろがる。矢を番え、弓を引いたところへ、丘の上から今川勢の矢が先に飛んで来た。
はじめは黒い点に見えた。それが風を切る音を伴って大きくなり、松平勢の上へ降った。地面へ突き立つものがあり、具足や笠に当たって乾いた音を立てるものがあった。前に出ていた兵が二人、三人と倒れた。
松平方からも矢が返された。斜面を登る矢は、丘の上から射下ろす矢より勢いが鈍い。それでも次郎三郎は弓兵を中央へ集めている。正面に限れば、松平方の矢数も少なくなかった。
「正面だけなら、押せるか」
次郎三郎は呟き、直轄勢の物頭へ眼をやった。物頭は一度頷き、槍を高く掲げた。
「進め。進め。弱兵ぞ」
松平の中核が斜面を駆け上がった。槍を前へ倒し、直臣が固まって進む。今川勢から三度目の矢が飛んだ。先頭を走る兵が胸を押さえて倒れ、後ろの者がその身体を踏み越えた。頬を射抜かれた者は槍を放し、斜面を転がった。
次郎三郎は足を止めさせなかった。止まれば、丘の上から射られ続ける。
矢を受ける時間を短くするには、槍が届くところまで進むしかない。
直臣たちは声を上げて斜面を登った。今川の弓兵が槍列の間へ下がり、入れ替わるように槍を持った兵が前へ出た。丘の上に槍先が並び、曇った空の下で鈍く光った。
やがて両軍の距離がなくなった。
松平の先頭が槍を突き出す。今川勢も高所から槍を繰り出した。竹のしなる音が重なり、穂先が具足に当たり、槍の柄がぶつかった。
最初の一撃で、松平方が容易に押したわけではなかった。高所から突き下ろされる槍は重い。
斜面を登って来た松平の兵は足場が定まらず、肩や胸を突かれて倒れた。先頭が止まると、後ろから来た者がぶつかり、兵が一か所に詰まった。
松平の先頭は一度止まりかけた。だが次郎三郎は、兵を中央へ集めている。
直臣は横へひろがらず、街道を中心とした一か所へ重なるように今川の中央を押した。
対する、今川の第一線は左右へ広く兵を置いている。中央だけを見れば、松平方の方が厚かった。
何度か槍を合わせるうちに、今川の中央がわずかにたわんだ。はじめは一人が半歩下がっただけだった。次に、その隣の兵が足を引いた。前列が押されると、後ろにいた兵も場所を譲った。
「おお」
「いけるぞ」
後ろにいた一門衆の誰かが声を漏らした。その響きは三河の陣に伝播していった。
今川兵は槍を揃えたまま、少しずつ斜面を下がり始めた。中央が一歩下がると、左右も同じように下がった。松平勢へ背を向ける者はいない。前列が槍を合わせている間に、その後ろの兵が下がり、次に前列が後ろへ移る。
次郎三郎は困惑した。
思っていたよりも早い。
丘を先に取り、上から槍を出していた今川勢が、これほど早く下がり始めるとは思わなかった。
何かある。
その考えが頭をかすめたが、形にはならなかった。
ここで止まるわけにはいかなかった。今川勢が退いたことは、後ろの一門衆にも見えている。攻め手を緩めれば、敵に立て直す時を与えるだけでなく、次郎三郎が勝機を捨てたと思われる。
「見よ、今川は弱兵ぞ。銭勘定と普請ばかりで腰が引けておる。押せ」
次郎三郎の声を、そばにいた者が繰り返した。
松平の直臣がさらに前へ出た。槍を合わせていた今川兵を押し、斜面を一歩、二歩と登る。
後ろで様子を見ていた一門衆からも兵が動き始めた。
今川兵が数人倒れた。一人は腹を突かれ、その場にうずくまった。別の一人は槍を取り落とし、斜面を横へ転がった。だが、それを助けるために列を離れる者はいなかった。
第一線は抵抗を続けながら、さらに丘を下がった。今川勢が目に見えて後退したことで、松平一門の間から声が上がった。
「崩れた、崩れたぞ」
その声は大きかった。
一門衆の中には兵を急がせ、次郎三郎の直臣のすぐ後ろまで旗を寄せる者もいた。
長沢を斬られ、仕方なく従って来た者たちも、いまは声を上げて斜面を登っている。
調子のよい者どもだ。
次郎三郎は内心で辟易した。
先ほどまでは五郎の旗を見ただけで顔色を失っていた者が、今川兵が数歩退くと、たちまち勝ったつもりになっている。
だが、それでもよかった。
前へ出さえすれば、今川を破る兵になる。次郎三郎を好いているかどうかは、いまは関わりがない。
今川の第一線はなお下がった。松平の兵の中には、敵を左右から囲もうとして、街道を外れる者も出始めた。田へ続く斜面を駆け、今川勢の横へ回ろうとする。
「散るな、馬印を目指せ」
次郎三郎が怒鳴り、物頭も同じ命を繰り返した。左右へ開きかけた兵が足を止め、再び中央へ寄った。
すでに斜面を下りかけていた者も、呼び戻されて街道へ戻った。
「囲みませぬと、逃げられますぞ」
左衛門五郎が言った。
「言っている場合か、首だ」
今川の第一線を包んで討ち取っても意味はない。必要なのは、五郎へ至る道を開くことだけだった。
譜代の兵は、その意図を理解していた。退く今川勢を追って左右へ散らず、次郎三郎の旗を中心に固まって進んだ。
五郎の馬印は、まだ正面に見えている。
丘の頂より少し奥、小高くなった場所に立っていた。今川の第一線が下がったため、先ほどより近くなったように見えた。
このまま正面を抜けば届く。
次郎三郎は、自身もさらに前へ出て勝負を決めるべきかと考えた。馬印と今川の旗を見つめ、機を窺った。
そのとき、違和感に気づいた。
今川第一線の旗が、一本も倒れていない。
確かに旗は後退していた。だが旗持ちだけが先に逃げているわけではない。兵の列とともに、同じ速さで下がっている。
ほんとうに敗走しているなら、まず旗が後ろへ逃げ、兵がその後を追ってばらばらになるはずだった。
押し倒された旗や、捨てられた差物が斜面に残ってもよい。それがない。
次郎三郎は斜面の足元へ眼を落とした。負傷者はいる。血も流れている。槍に突かれた兵がうずくまり、矢を受けた者が倒れている。
しかし、捨てられた槍や弓は思ったほど多くなかった。具足を脱ぎ捨てて逃げる者もいない。勝手に旗を離れ、後ろへ走る兵も見えなかった。
なんだ。何かがおかしい。
「殿、いかがいたしましたか」
左衛門五郎が訊いた。
「いや、よい」
次郎三郎は手綱を握る手を少し緩めた。
まだ決定的なことはわからない。今川勢は五郎を守るために距離を取っているだけとも見える。
第一線を無理に踏み止まらせて失うより、丘の奥へ下がり、次の場所で受けるつもりなのかもしれない。
次郎三郎が疑念を持ち足を止めれば、後に続く一門衆もほどなく疑い、やがて自身の疑心暗鬼で縮み上がるだろう。
「前へ、前へ出るぞ。少し前に出せ」
あくまで、少し、そう言ったつもりだった。
だが、その加減は後ろへ伝わらなかった。
次郎三郎の旗が進んだのを見て、松平の兵が一斉に前へ出た。眼の前にぶら下がった勝ちに、一門衆も食いついた。
直臣は五郎を討つため足を緩めない。旗を追い、固まったまま丘を越えようとする。一門衆の動きは揃わなかった。
半分は直臣に続いて前へ出た。今川勢が崩れたと信じ、先に進んだ者に手柄を取られることを恐れたのだろう。
残る半分は、今川がほんとうに崩れたのかを見ながら進んだ。
その結果、各隊で進む速さが違い、松平勢の軍列は次第に長く伸びた。
次郎三郎の旗の近くには、直臣と、一門衆のうち勢いに乗った者が集まった。その後ろでは、幾つかの旗が離れ始めていた。
今川の第一線が丘の頂近くで踏み止まった。先ほどまで下がっていた兵が足を止め、再び槍を揃えた。前列が膝を落とし、後ろの兵が肩越しに槍を出す。
松平の先頭が止められた。勢いのまま突っ込んだ兵が槍に当たり、後ろから来た者がその背へぶつかった。
足を止めた前列へ、さらに兵が詰まる。左右では今川兵が少しずつ内へ寄り、松平の中核が戦う正面を狭めていた。
「進め、止まるな」
「進まないぞ」
兵の間から声が上がった。
先ほどまで押していた松平の前進が止まったのだ。
前にいる兵は槍を出す場所を失い、後ろから押されて身動きが取れない。今川勢の槍は、その密集したところへ繰り返し突き込まれた。松平の兵が一人倒れると、その身体につまずいて別の兵が転んだ。起こす間もなく後ろから足が来て、倒れた者を踏んだ。
次郎三郎は前を見た。今川の第一線は、まだ薄い。もう一押しすれば割れるように見えた。兵が足りないのではなく、松平方の前が詰まり、力を出せていないだけである。
ここで止まれば、後ろの一門衆は、今川の第一線を破れなかったと見る。次郎三郎は決断した。
「本陣を、いや、次郎三郎が出るぞ」
馬を前へ出した。
「殿」
左衛門五郎が止めた。
「止めるな、もはや後先など考えてどうする。もとより背水よ」
左衛門五郎は苦々しい顔で言葉を呑み込み、次郎三郎の馬へ並んだ。
当主の旗が前へ出ると、譜代と直臣が声を上げた。前に詰まっていた兵が左右へ退き、次郎三郎の馬を通した。
馬上の者もその後へ続く。次郎三郎を守ろうとする兵が前へ集まり、今川の第一線へ圧力をかけた。
直臣の動きが変わった。槍を突くだけでなく、敵の槍を柄で払い、身体をぶつけて押した。倒れた者を踏み越え、狭いところへ無理に入り込んだ。
今川の第一線が再びたわんだ。
中央の前列が下がった。後ろの兵が受け止めたが、次郎三郎の馬が見えるところまで出た松平勢は、さらに押した。
今川兵が一人、槍を横へ払われて倒れた。そこへ直臣が入り、隣の兵を突いた。
第一線がまた下がった。
次郎三郎はさらに前へ出た。直臣と、勢いに乗った一門衆の一部が丘の頂を越えた。頂の向こう、その高みに五郎の馬印が立っていた。
馬印は近かった。先ほどまで丘に隠れていた下の部分まで見える。もう一度第一線を押せば、その向こうへ出られるように思えた。
次郎三郎が馬を進めようとしたとき、戦場の騒音の中から叫ぶ声が聞こえた。
「騎馬隊です」
次郎三郎は顔を上げた。
丘の左から土煙が上がっていた。馬が数騎、斜面を回り込んで来る。その後ろから、さらに騎馬が現れた。右の丘裾からも、同じように一隊が姿を見せた。
数十騎ではない。左右を合わせれば、少なくとも五百騎ほどはいる。
馬具も具足も揃っていた。旗を持つ者が先に立ち、その後ろを同じ間隔で騎馬が走っている。
騎馬は左右から幾つもの隊に分かれ、丘を回り込むように走っている。
次郎三郎は振り返った。そのとき初めて、自分の中核と後続の間が大きく開いていることを知った。
後ろに続いていたはずの松平諸家は、丘の西斜面から向こうに残っていた。細長く伸びた軍勢の中ほどには、兵のいない場所さえ見えた。
そこへ今川の騎馬が走り込んだ。
騎馬の一団が三河衆の隙間へ入り、次郎三郎の中核と後続を分断した。別の騎馬隊は後続へ矢を射かけ、その場に縫い付けている。
次郎三郎は振り返った。譜代と直臣はすぐ後ろにいたが、その先に続いていたはずの一門衆は、今川騎馬の向こうで足を止めていた。
「後続を詰めさせよ。前に出ろ」
「殿、使者が届きませぬ。間に合いませぬ」
左衛門五郎が言った。
後続の一門衆は、騎馬団の前で身をすくませていた。前へ出ようとすれば、騎馬に側面を見せる。招集した農兵ではない騎馬武者の一団に、そのような隙を見せることを明らかに怖がっていた。
そこへ今川方から声がかかった。
「松平一門衆、今逃げれば追わぬぞ。松平次郎三郎はもはや手の中ぞ。恐れることはない。逃げよ」
一か所からではなかった。騎馬の中から声が上がり、第一線の左右からも同じ言葉が繰り返された。遠くの兵へ届かせるため、何人もの者が声を合わせている。
「松平一門衆、今逃げれば追わぬぞ。松平次郎三郎はもはや手の中ぞ。恐れることはない。逃げよ」
後続の動きが鈍った。前へ出ようとしていた兵も、今川騎馬ではなく、自分たちの旗を振り返った。
「たわけ、今さら怯えてどうする。次郎三郎の背を追え」
次郎三郎は声を張り上げた。だが、騎馬が地を打つ音と兵の叫びに遮られ、どこまで届いたかわからなかった。
後続の陣が揺れた。前へ出ようとする者と、その場で槍を揃えようとする者がぶつかった。
旗が止まると、その後ろから来た兵も足を止めた。一家の兵が前へ動けば、隣の一家はそこに生じる隙を嫌って止めた。後ろの者は事情がわからず、前の兵へ押し寄せた。
「逃げぬとあらば、信濃より参る一万の軍勢ですりつぶすのみ」
さらに声がかかった。
後続の兵が西を振り返った。次郎三郎も、騎馬の向こうへ眼を向けた。
「ここでか」
次郎三郎の目に朝比奈の旗が見えた。
いつの間にか丘と丘の間に旗が現れていたのだ。
林の陰から土煙が上がっている。兵の列は地形に隠れ、どこまで続いているのか見えない。
物見が報告した一万余が、そのまま現れたように見えた。
後続の一門衆が完全に止まった。
一つの旗が、次郎三郎の方ではなく、道の脇へ向きを変えた。旗の下の兵が、すぐに逃げ出したわけではない。
まず道を外れ、今川騎馬と正面を合わせないように動いた。その動きを見て、ほかの家も前へ進むより、自分の兵を旗の下へ集め始めた。
一門衆の軍勢は、次郎三郎へ続く一つの軍ではなくなった。
「殿、お逃げください。今ならまだ間に合いましょう」
左衛門五郎が言った。
「わかり切ったことを申すな。逃げられぬ」
次郎三郎は笑った。不思議に、恐れはなかった。岡崎へ退くべきか、安祥へ抜けるべきか、一万二千のうち何人が戻って来たのか。
そのようなことを考えていたときの方が、よほど胸が騒いでいた。
いまは、やることが一つしかない。
「だが、まだ勝ち目はある。であろうよ」
次郎三郎は指を上げた。
五郎の馬印は、まだ正面にあった。丘の向こうの高みに立ち、風を受けている。
中核と後続は切り離されたが、馬印は変わらずそこにあった。
左衛門五郎は息を呑んだ。次郎三郎の指す先を見た。次に後ろの騎馬と、止まった一門衆の旗を見た。やがて頷いた。
次郎三郎と左衛門五郎は、馬の腹を蹴った。譜代と直臣が続いた。
中核が速度を上げた。先ほどまで今川の第一線を押していた者たちが、最後の力を集めて正面へ進む。
後ろへ戻れないことは、すでに兵にも見えていた。声を上げ、次郎三郎の旗を追った。
「殿、お急ぎを」
左衛門五郎が叫んだ。
今川の第一線が変化したのだ。正面にいた兵が、左右へ分かれながら丘の東斜面を下がった。
敗走ではなく、規則正しい動きである。
前列が槍を合わせている間に後列が下がり、後列が場所を取ると前列も続いた。旗も同じ動きで下がった。
そうして今川の第一線が退いた先に、新たな槍列が並んでいた。
今川の第二線だった。
第一線より兵の密度が高い。旗の数は多くないが、槍先が揃い、正面を開ける気配がない。
前列は膝を落として槍を支え、その後ろにも幾重かの兵が並んでいた。
次郎三郎は、無意識のうちに視界の端、後ろを窺っていた。
そこでは開いていたはずの通路が閉じていた。
すでに今川の兵が詰めている。それは退いた第一線であった。
「これが本命か、今川五郎」
次郎三郎は乾ききった口で言った。
今川が、最初からここまで自分を引き入れるつもりだったことを悟った。
次郎三郎は馬の腹を強く蹴った。
止まれば、後ろから騎馬と第一線に包まれる。左右へ向きを変えれば、隊伍を整え直した今川兵に側面を突かれる。
「行くぞ、行くぞ」
正面には五郎の馬印がある。第二線を破れば届く。
次郎三郎は譜代と直臣を率いたまま、槍列へ突っ込んだ。
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五郎は馬印の下にいた。
第二線の後ろに低い丘があり、そこへ馬廻りを置いていた。五郎自身も馬上にあり、正面の槍列と、その向こうに押し込められた松平勢を見下ろしている。
馬印は風を受けて大きく鳴り、時おり旗の影が五郎の肩に落ちた。
西から吹く風が、乾いた土煙を丘の東へ流していた。煙が薄くなると、槍の列と、その間に残る松平の旗が見えた。
さっきまで丘を押し上げていた声は、もうない。槍が当たる音、馬の嘶き、負傷した者を呼ぶ声が、戦場のあちこちからばらばらに聞こえていた。
「松平勢、倒れましたな」
宮内が言った。
「ようやくだ」
「おや、お喜びになれないのでしょうか」
「想定ではな、あの第一線で止められるはずだった」
五郎は丘の半ばを指さした。勾配の険しくなる地点である。こちらに向かって走ってきた三河勢がちょうど足を取られるあたりに、第一陣の槍をそろえていた。
「あれで勢いを止め、騎馬の一団をちらつかせて指揮を崩す。少なくとも五郎が率いておったらそうなったろう。聊か立つ瀬がない」
馬廻りとしてそばにいた井伊彦次郎が、意外そうな顔をした。だが何も言わず、すぐに戦場へ眼を戻した。
「将として資質の違いでございましょう」
「確かに、五郎には名将の気質はないか」
「いえいえ、御料様は常に二手三手、懐に奥の手を隠し持たれております。それに、あのように遮二無二前に出るより、耐え忍ぶ方が得意にございます」
「なんだ、宮内。そなた励ましておったのか」
宮内は肩をすくめた。
「だが、確かに落ち込んでもおられぬか」
丘を越えて来た松平勢は、すでに見る影もなかった。
初め七百を超えていた中核は、今川の第二線の前で押し縮められ、旗の周囲に残る兵も半ばを切っているように見えた。
それでも次郎三郎の旗はまだ倒れていない。兵が一人倒れると、別の者が前へ出る。槍列の薄いところを見つけては、そこへ食いつくように兵が寄った。
第二線に据えたのは、遠江の御料から連れて来た兵だった。吉田城の守りまで薄くして呼び寄せた者たちで、甲斐でも使い、普請でも鍛えた。
五郎が養い、鍛え続けた兵である。親衛と呼ぶほど華やかなものではないが、命を受ければそこに留まり、前の者が倒れれば後ろの者が穴を埋める。
またこの度使った騎馬の一団も、この数年をかけて整えて来た。馬を買い、飼葉を蓄え、蹄を見られる者を置き、乗り手には長い道を走らせた。馬は兵と違い、腹を空かせれば動かず、脚を傷めれば銭をかけてもすぐには戻らない。数を揃えるだけで、米も銭も人手も要った。
その奥の手の騎馬であるが、槍列へ正面からぶつけるつもりは初めからなかった。物見を断ち、離れた隊の間へ入り、使者を追い、進むか退くか迷う兵をその場へ縫い付ける。今回は、そのために働かせた。
それでも次郎三郎は止まらなかった。
第一線を押し、丘を越え、後続を切り離されてなお、五郎の馬印へ向かっている。
「まだ終わってはいない。いまだ勝敗は手の中にない」
「策が多ければ勝ちましょう。御料様は備えをなされました。ええ、もう十分すぎるほどに」
宮内の言葉には呆れがあった。居並ぶ遠江、駿河、甲斐衆もためらいがちに頷いている。
五郎の策の根幹はやはり信濃にあった。
信濃へ一万二千の軍勢を出したのは、もとより小笠原を攻めるためだけではない。小笠原を相手にするなら、あれほどの兵は要らない。放っておいても、信濃の諸家が一つになって駿河へ攻め寄せることはなかっただろう。
五郎が見ていたのは三河だった。甲斐攻めと同じほどの兵を動かし、駿河と遠江の兵が信濃へ集まったように見せた。今川の手元が空いたと思えば、次郎三郎は動く。その見込みは外れなかった。次郎三郎は兵を出し、今川方に寄っていた長沢を潰した。
五郎はそれを知ると、朝比奈に命じて三千の兵を南へ戻し、安祥城の近辺を窺わせた。
それと合わせ、騎馬を岡崎筋へ入れ、次郎三郎の物見と草の者を少しずつ刈らせた。道を完全に塞ぐ必要はなかった。ほんとうの数が届かず、古い知らせだけが届けばよかった。
そして、頃合いを見て吉田城に集めた五千を前へ出し、自分の居場所を知らせた。西からは、戻した兵に余分な旗を持たせ、林と丘を使って大軍に見せた。
五郎は最初から次郎三郎の動きを完全に読んでいたつもりはない。読みに余白はあった。
ただ、次郎三郎が岡崎へ戻るなら、その背を騎馬と精鋭で追うつもりだった。岡崎へ逃げ込まれたなら、城を囲むより、次郎三郎の首を出せと松平の諸家へ迫ればよいとも考えていた。おそらく籠城が長引けば、一門の中から先に音を上げる家が出る。
だがそのような中で、次郎三郎は、五郎にとってもっとも嫌な道を選んだ。後ろを捨て、少数の中核だけで五郎の首へ来たのである。
「見事だ」
五郎はぽつりと言った。宮内が相槌を打った。
「ええ、御料様の鍛えた兵でございます。死兵相手でも崩れませぬな」
宮内の目は戦場に向けられていた。珍しく内心を察することはなかったようだ。
「茶化すな。逃げ道は見いだせるように一部薄くしておろう。あれは次郎三郎が死兵に仕立て上げている」
第二線は正面を塞いでいるが、右手はわずかに浅くしてある。追い詰められた兵がそこへ流れれば、横へ抜けることが出来るようにしていた。実際に、旗を捨てて右へ走った者は追わせていない。
それでも次郎三郎のそばに残る兵は、前を向いていた。
ああいうのも、能力、将器なのだろう。
五郎は内心で次郎三郎の評価をさらに上げた。
そこから遠くへ眼をやると、三河衆の後続は戦から離れ始めていた。次郎三郎のもとへ向かう旗はない。道の脇へ外れる家、兵を一か所へ集めて今川方の様子を見る家、そのまま西へ退く家があった。
一隊の騎馬が、退く兵を追おうとした。
「旗を捨てた者は追うな。今は次郎三郎のもとへ戻さねばよい」
「よろしいので」
井伊彦次郎が訊いた。思わず出た言葉であったのだろう、気恥ずかしそうに目を伏せた。
「朝比奈勢があれらの館をつぶしていっている。いまさらであろう」
宮内が喉を鳴らした。この初老の男は周囲に駿河の重臣がいないと、意地の悪いところを出すようになった。
「まあ、我らは背は追わぬと言いましたが、館を攻めぬとは言っておりませぬからな」
「嫌な言い方をする。当主になる前のそこもとはもう少し緩かった気がするな」
「自分の好きなようにしておりますゆえ」
「いつまで根に持っておるのか」
彦次郎が父の井伊修理亮に目配せをした。修理亮は、遠江にいたころから五郎と宮内の間柄を知っている。口を挟まず、肩をすくめてみせた。
そのあいだに、第二線の左を受け持つ三浦勢が大きく前へ出た。三浦の旗が二つ、槍列とともに斜めに進み、松平勢の右前を押し込んだ。丘の上から見ると、次郎三郎を囲む兵の輪が、片側からえぐられたように狭くなった。
土煙の切れ目に、次郎三郎の姿が見えた。
馬上にあり、槍を横へ振って兵を動かしている。具足は泥と埃に汚れていたが、背はまだ伸びていた。次郎三郎が指したところへ、残った兵が寄り、今川の槍を押し返している。
見事な武者ぶりであった。あと数年も経てば、相当なものになっただろう。五郎は目を細めた。
「降伏、呼びかけよ」
「受け入れますかな。惜しい男ですが、あれは無理ですぞ」
宮内が言った。こちらを見ない。この男も次郎三郎の戦ぶりに目をやっている。
「わかっている。長沢と西郷を討ち、約定を破った。挙げ句、この敗戦では、斬らねばなるまい」
五郎が彦次郎に眼をやると、彦次郎は頷き、馬を駆けて行った。
呼吸一つで、気持ちを切り替えた。
穏やかな声色を作り、修理亮に笑いかける。
「修理亮。彦次郎は馬の扱いが巧みでな。最近は騎馬のまとめ役もやらせている」
「ほぉ、意外ですな。中々人に心を許さぬ男でしたので、部下など持てるとは思いませなんだ」
「嫌われてはおる。鬼の様に鍛えておる故、敵よりも味方に命を狙われておるぐらいだ。間に物頭を置いてからはましになったが」
修理亮が笑った。戦場においても周囲に聞こえる大笑いである。
「安心し申した。倅が変わっておらぬようで、奥も安心いたしましょう」
そばにいた遠江の国人らが、互いに目配せした。井伊と今川は長く微妙な関係にあった。ただ、いまはこうして父を五郎のそばへ置き、子に騎馬を預けている。そのことを、五郎も修理亮も周囲へ見せていた。
とはいえ、事実、見せかけだけの関係ではない。遠江の御料の時代から持ちつ持たれつで長く関係を続けている。ゆえに、こういう腹芸にも付き合えた。
彦次郎は予備の騎馬百ほどを連れて、次郎三郎の兵から距離を取って走った。騎馬は包囲へ入らず、丘の斜面を横に動きながら声を張った。
「旗を離れよ。次郎三郎の旗を離れた者は追わぬ。御料様、御屋形様はお許しになられる」
呼びかけは一度では終わらなかった。騎馬が場所を変え、同じ言葉を繰り返した。今川の槍列の中からも声が上がった。
やがて、松平兵の一人が槍を投げた。両手を見せ、次郎三郎の旗から離れて右へ走った。今川兵は追わなかった。
それを見て、もう一人が続いた。三人、四人と横へ抜け、直臣の中からも槍を捨てる者が出た。
だが旗の周囲にいる譜代は残った。
兵の間が空き、次郎三郎の姿が先ほどよりはっきり見えるようになった。次郎三郎もこちらを見たらしい。槍の間から、丘の上にある馬印を仰いだ。
「五郎っ」
声は戦場の音を突き抜けて来た。良く通る声は、良き将の証明でもある。
「次郎三郎殿」
五郎も穏やかに返した。
その声が届いたかどうかは分からなかった。ただ、次郎三郎は笑ったように見えた。獣が歯を剥くような顔でもあった。
次の瞬間、松平勢の右側で槍列が動いた。大久保左衛門五郎が次郎三郎の前へ馬を入れ、今川の槍を払った。一人を突き落とし、さらに前へ出ようとしたところへ、横から二本の槍が来た。一本が馬の首筋へ入り、もう一本が左衛門五郎の脇腹を突いた。
馬が横倒しになり、左衛門五郎は地面へ投げ出された。
次郎三郎が振り返った。だが、助けに戻る間はなかった。左衛門五郎は起き上がろうとして、押し寄せた兵の足元へ消えた。周囲の松平兵が二人、三人とそこへ寄ったため、短い斬り合いになった。
「五郎っ」
次郎三郎はもう一度叫び、馬の腹を蹴った。
残った譜代が声を上げ、次郎三郎の両脇を固めた。十数人が一つになり、今川の槍列へ押し寄せる。最初の列がたわみ、兵が一歩下がった。
五郎のそばで、馬廻りが槍を構え直した。
次郎三郎はさらに一歩を取った。前にいた今川兵を馬で押し倒し、槍を振るって道を開こうとした。だがその先へ、第二列が出た。新しい槍先が馬の胸と前脚へ集まった。
馬が棹立ちになった。
次郎三郎は手綱を引いて耐えたが、馬は前脚から崩れた。身体が鞍から放り出され、肩から地面へ落ちる。すぐに起き上がり、落ちた槍を拾おうとした。
その前へ譜代の二人が出たが、これもあっという間に槍でたたき伏せられた。
次郎三郎は徒歩のまま前へ出た。拾った槍を一度突き、今川兵の肩を打った。二度目を出す前に、槍の柄を三人がかりで押さえられた。
次郎三郎は槍を放し、腰の刀へ手をかけた。その腕へ馬廻りの一人が組みつき、とうとう片膝をついた。そこにわっと今川兵が押し寄せた。
「松平次郎三郎清康、捕らえたり」
声が上がった。
何処からも奪い返せ、という声はなかった。
次郎三郎の旗の近くには、なお十人ほどが残っていた。彼らは旗を中心に槍を揃えたが、すでに前へ出る力はなかった。左衛門五郎が落ちた場所でも、二、三人がしばらく抵抗していた。
だがほどなく一人が倒れ、残った者も今川兵の中へ呑まれた。五郎が百を数えるよりも早く、戦の喧騒は潮がひくようにおさまっていった。
戦の声の代わりに今川の者らが駆け回り、事後の収集に動き出したころ、次郎三郎が連れて来られた。
具足は泥をかぶり、片方の袖が裂けていた。頬には乾きかけた血がつき、髪も乱れている。両腕は後ろへ取られていたが、歩かせると自分の足で坂を登って来た。
「お久しゅうございますな、次郎三郎殿」
五郎が穏やかに声をかけると、次郎三郎は少しきょとんとした。それから顔に険を作った。無理に作ったような険しさに見えた。次郎三郎の顔には年に似合わぬ疲れが浮かんでいる。
「満足であろう。これで西三河もそこもとのものだ」
「尾張と接したと考えると、あまり喜べませぬ。できれば次郎三郎殿に壁になっていただきたかった」
側にいた三浦らが少し意外そうな顔をした。
次郎三郎は泥で汚れた顔で嘲笑った。
「では今からでもそうするか。この次郎三郎が頭を下げましょうぞ」
「互いの腹などすでに承知でありましょう。ゆえに、今さらというものでございます」
くく、と力なく笑っていた次郎三郎であるが、ひとしきり笑うと、やがて真顔になった。
「一つ、冥途の土産に聞いてよいか」
「何なりと」
「かたじけなし。して、どうしてだ」
要領のつかめない問いであった。五郎は問い返した。
「どうして次郎三郎殿を策にかけたのか、と」
次郎三郎は頷いた。
「後世の三河衆にどう伝えるかなどどうでも良い。ただ、どうにもそこもとは己が動くとわかっていたように思う。とぼける必要はない、五郎殿の動きは、むしろ、端から」
なんと答えるべきか、五郎は少し言葉を選ぼうとした。だが、
「西郷弾正の無念を汲んだなどとは言わんでくれ。なぜだ」
そのような次郎三郎の懇願とも思える問いに、率直に胸の内を言葉にした。
「いうなれば、御身しかおりませなんだ」
「なにが」
五郎は指を折った。
「両上杉、竹松殿、信濃の小笠原、諏訪、高遠。あとは高梨と長尾。どれも敵ではなかった。ああ、弱いと言っているわけではございませぬ。ただ、そうですな。この五郎と一局打つかと誘い、対面の席に座るよう促した時、誰も座ろうとしなかった」
小癪な小僧よ。増長しおって。そう思う者は多かったはずだが、行動に出る者はいなかった。
「上杉は熱心にそこもとを追いやろうとしていた。武田など明らかに怨敵扱いであろう」
当然の問いに、五郎は首を小さく横に振った。
「実態は違いましょうな。山内上杉は扇谷上杉を矢面に立たせようとし、扇谷の方はそれを察して前に出ない。武蔵口の攻めを見ればわかりましょう。武田に関しては、怨敵と申されましたが、そう考えていたのは家臣で、頭目たる竹松殿は」
武田五郎の遺児のことだ。言葉にするのは憚られた。
しかし、その先は次郎三郎が吐き捨てた。
「傀儡か。だが家臣共は本気であったのならば」
「人の兵を借りて、援軍を待つ。此度の盤面においては、上杉の捨て駒でありましょう。信濃も同じく、あれも残念ながら、動きたくない上杉に動かされただけですので、それ以上につらい」
次郎三郎は首をひねった。
「如何されました。ご遠慮なさらず」
次郎三郎は自嘲するような口角を上げた。
「いや、ますます分からんと思うた。その局面で、なぜ松平を、次郎三郎を標的にした。信濃を見るのが妥当ではないか。信濃守護ぞ」
動かされたとはいえ一国の守護。小笠原の方に力を注ぐべきではないかと、次郎三郎は尋ねていた。攻め取るにしても絶好の機会である。
「繰り返しになりますが、御身しかおりませなんだ」
「なにが」
「今川五郎氏景を手ずから討ち取り、首を取ろう。そう考えておられる方は。そのために前に出ることを厭わぬ方は、御身だけでございました」
そこで、次郎三郎がはっとした顔をした。
口が一文字に結ばれ、昔日の出会いに心が飛んだ。次郎三郎は絞り出すように声を出した。
「あの日か」
「ええ、あの日、寺でお顔を拝見し、なるほどと。次郎三郎殿はいつか隙を見せれば、絶対に動くと知り申した。五郎めが何を差し出しても、心変わりもしないと理解しました」
「ならば、誘って己の望む頃合いで動かすか」
五郎が目を伏せると、次郎三郎はまた喉を鳴らした。
「そうか、己は買われていたのだな。信濃守護より値が上とは、存外、捨てたものではなかったな」
「西郷殿などは、ひときわ買っておられたようでした」
であるか、と次郎三郎は呟いた。
西からの風が、二人の間を抜けた。丘の下では、今川兵が倒れた槍を集め始めている。遠くで馬が一頭、長く嘶いた。
「参った。あの場で強情を出した次郎三郎の不手際だ。己の過ちで負けたのであれば、言い訳できまい」
それだけ言うと、次郎三郎は首を差し出した。口を閉じ、肩から力が抜けている。
五郎は目配せをした。
そばにいた大河内の若者が刀を抜き、次郎三郎の脇へ立った。次郎三郎は若者の方を見なかった。顔を五郎へ向けたまま、膝を折った。
刀が振り下ろされた。




