4章_12
次郎三郎は報告を聞くと、すぐに主だった者を長沢の館へ集めさせた。東に今川勢が現れてから、まだ半刻もたっていなかった。
広間には大久保左衛門五郎ら譜代の家臣のほか、長沢、竹谷、形原など、松平一門の頭立った者が顔をそろえた。いずれも具足を解いてはいない。庭先では近習が行き来し、馬のいななきや、兵を呼ぶ声が絶えず聞こえていた。
開け放した障子の向こうに、東の丘が見えた。その裾から街道にかけて、今川の旗が幾重にも並んでいる。物見の報告では五千ほどだという。遠目にも隊列が整い、急に近在からかき集めた軍勢ではないことがわかった。
次郎三郎が一声出そうとしたところで、長沢の老人がぼそりと言った。
「して、如何なさるつもりか」
そばにいた左衛門五郎が膝を進めた。
「長沢様、殿の御言葉を遮るなど」
「言っとる場合か、ほれ見ろ、こういうことになるのだ。わしは駿府で御屋形様にお会いしたからわかる。怖いぞ。あの方は」
長沢はそう言うと、ぶるりと身を震わせた。
長沢が御屋形様と呼んだのは、今川五郎氏景のことである。駿府で一度会っただけの相手を思い出しているにしては、その怯え方は尋常ではなかった。
「上杉だ、信濃だ、甲斐の武田蜂起だのと、そんなことで揺らぐものか。きっと虫の足を引き抜くように淡々と殺しに来る。最初から分かって、」
「長沢殿。腰を据えよ。出なければ話もできん」
次郎三郎が言った。
長沢は口をつぐんだが、すぐに次郎三郎を睨んだ。
「もとはといえば、そこもとが」
「なるほど結構。それで、如何いたす。次郎三郎の首を持っていきまするか。無論抵抗いたしますな。一戦交えますかな」
長沢は、喉元まで出てきた言葉を飲み込み、黙った。
次郎三郎の首を今川へ持って行けば、この軍勢は退くかもしれない。この騒ぎの首魁は間違いなく次郎三郎であり、聞く耳を持たないということはないだろう。だが、ここで口にすれば、大久保ら譜代と直ちに斬り合うことになる。
そうなったとき、今川勢は何と思うだろうか。馬鹿正直に仲裁などしてくれるだろうか。我が身に照らし合わせてみれば、これ幸いと松平の首をことごとく討ち取り、西三河の平定を行うのではないか。次郎三郎には長沢や居並ぶ一門らのそんな推測が手に取るように分かった。
「そんなことをすれば、あの軍勢は前に出て来るでしょう。ただまあ、あれが今川五郎の軍勢とも思えませぬが」
左衛門五郎がわずかに眉を動かした。
「と申しますと」
「考えてもみよ、一万二千の軍はいまだ信濃にある。あちらにも馬印が上がっている。普通に考えればどちらが本隊で、どちらに当主がおるかわかろう」
信濃へ出た今川方の一万二千には、五郎の馬印が上がっているとの知らせが来ていた。小笠原と向き合うほどの大軍である。そこに当主がいると見るのが、まずは順当だった。信濃を乱した現信濃守護の首を、今川の当主が己の手で討ち取るというのは、京の管領にも聞こえの良い話に映るだろう。
左衛門五郎が小さく唸った。
「ではあの五千は囮と」
「というより、まず脅しであろう。長沢殿には非常によく効いたようであるが」
居並ぶ者の何人かが眼を伏せた。笑った者はいなかったが、長沢は嗤われたと思ったらしく、歯を食いしばって次郎三郎を睨んだ。
「そんなこと、どちらでもよい。次郎三郎殿、状況が悪いのは承知しておるであろう。そなたの当初の策略では三河を纏め、その後すぐ、今川が矛を向ける前に交渉し、矛先を上杉に向けさせるという算段だったな」
「然り」
「何が然りか。見よ。その策略が当初から崩れておるではないか。今川にうち滅ぼされるのを待つばかりではないか」
「であろうか、次郎三郎はそうは思わぬ」
「なにを往生際の悪い」
「我らは一旦岡崎に下がればよい。どうせあ奴らは追ってこぬよ。所詮は脅し。悠々と引き下がって、交渉すればそれで済む話よ。この場でごたつく方が詰まらぬ」
次郎三郎は、こともなげに言った。すべて計画通りという風に見えるように言わなければならなかった。
当然、追って来ぬと、次郎三郎が確信しているわけではなかった。だが今ここで疑いを見せれば、長沢の恐れはたちまち一門全体へうつる。まず岡崎へ下がる。それ以外のことは、いま言う必要がなかった。
この態度を見て一門衆の間に小さな動きが起きた。顔を見合わせる者があり、目に見えて肩の力を抜く者もいた。五千の今川勢を迎え撃てと言われるより、岡崎へ下がって和議をするという言葉が胸にしみたようである。
ただ長沢だけは納得しなかった。
「いまさらそんなことを言っておる場合か。一も二もなく降伏を、」
次郎三郎は刀に手をかけた。
大きな動きではなかった。膝の脇に置いていた右手を、柄の上へ移しただけだったが、刀は小さく音を立てた。
それで広間は静まり返った。庭先で誰かが兵を呼ぶ声が、妙にはっきりと聞こえた。
「往生際の悪いのはどちらか。一度誓紙を出しておき、次郎三郎に従うと言っておきながらその体たらく。どうせ今川にも同じように誓紙を投げておったのであろう。それで今頃慌てているのか」
「なにを」
「下らぬ」
次郎三郎は刀から手を離すと、片手を上げた。
二人の近習が長沢の両脇へ寄った。長沢は肩に手をかけられると、顔を赤くして身を引いた。
「無礼であろう。ここはわしの館ぞ」
次郎三郎は答えなかった。
長沢は近習に挟まれ、館の奥へ連れて行かれた。供の家臣二人もその後を追った。廊下へ出ても、長沢が何か言い募る声が聞こえていたが、やがて遠ざかった。
広間に残った一門衆は、先ほどよりも静かになった。
次郎三郎はその顔を順に眺めた。長沢ほど露骨に口へ出さなくとも、似た考えを抱いている者はいるはずだった。五郎の軍勢が近づけば、次郎三郎を討って赦しを請う。そこまではしなくとも、夜を待って自分の兵だけを連れ、今川へ走る者は出るだろう。
だが、いま一人ずつ詮議している暇はなかった。
「ご安心を。まずは岡崎に下がりましょう。和議はなりまする。われらの立ち位置は良いものとなりましょう」
次郎三郎はそう言って、一門衆に頭を下げた。
すぐに応じる者はいなかった。互いの顔を窺い、やがて年嵩の者が頭を下げると、ほかの者もそれに倣った。岡崎へ下がること自体に異存はないらしい。
全ての一門らが和議がなると信じたわけではあるまい。ここへ留まって五千の今川勢を待つよりはよいというだけだった。次郎三郎を見捨てるにしても、軍中で直ちに刀を抜くより、岡崎へ向かう途中で機を見た方がよい。その程度の算段は、誰もがしているだろう。
一門衆が退出すると、次郎三郎は左衛門五郎を呼び寄せた。
左衛門五郎が膝を進める。次郎三郎は廊下に人影がないことを確かめてから、その耳元へ口を寄せた。
「わかっておるな。裏切りを許すようなことはせず、なし崩しに岡崎に入れ、松平全体が和議を求めている、そういう体を作る」
「承知しております。あの者らに決して殿の首など取らせは致しませぬ」
左衛門五郎は低く答え、すぐに下がった。出立の支度と、一門衆の見張りを手配するためである。
一人になると、次郎三郎は庭へ眼を向けた。
東に現れた五千が、ほんとうに五郎の軍勢であるかどうかは、まだわからなかった。
物見は五郎の馬印を見たと言った。だが、馬印があるからといって、その下に本人がいるとは限らない。信濃にも同じ馬印が上がっている。小笠原や高遠を相手に一万二千を動かしている最中に、当主だけが三河へ戻ったと考えるより、こちらを騒がせるために旗を持たせたと見る方が自然だった。
五千という数も、次郎三郎には半端に思えた。
長沢を脅し、松平一門を動揺させるだけなら十分である。次郎三郎を長沢に釘づけにし、信濃の戦が片づくまで動かさないための軍とも考えられた。
その読みが外れている可能性を、次郎三郎は捨てていなかった。
だが、何より、この場へ留まることが危険だった。
今川の旗を見ただけで、長沢は次郎三郎の首を差し出すことを考えた。口に出さなかった者も、腹の内では同じ算段をしているかもしれない。ここで一日、二日と過ごせば、今川から各家へ使者が入る。所領を安堵し、罪を問わぬと言われれば、一門衆は一つずつ抜けて行くだろう。
岡崎へ下がれば、その動きをひとまず封じられる。
一門衆を勝手に帰さず、同じ軍列の中へ入れる。前と後ろを譜代で押さえ、途中で離れる者を出さない。岡崎へ入ってしまえば、城門と直属の兵を使って、各家の動きを見張ることができる。
そのうえで、松平全体が和議を求めている形を作る。
次郎三郎一人が赦しを請うのではない。長沢、竹谷、形原を含め、松平一門が一つの家として今川と話す。その形に持ち込めれば、今川も次郎三郎の首を取り、一家一家を見張るより、次郎三郎をそのまま使った方が楽と判断するだろう。
そこまで考え、次郎三郎は肩を回した。
本来なら、安祥まで戻りたかった。
安祥には古くから松平に従う者が多い。次郎三郎が兵をまとめ直すには、岡崎より都合がよかった。だが、安祥まで退けば、せっかく手に入れた岡崎を空けることになる。西郷方の残党が戻るか、今川が兵を入れるかはわからないが、一度手放せば、再び奪うのは容易ではない。
岡崎は捨てられなかった。
五千が追って来なければ、そのまま城へ入ればよい。追って来るなら、途中で一撃を加える。今川勢を破る必要はなかった。松平を追えば、ただでは済まない。その毒があることだけを見せればよい。
問題は、岡崎へ着くまで一門衆を軍として保てるかどうかだった。
次郎三郎は、もう一度東の旗を見た。
軍勢はまだ動いていない。風が吹くたびに、遠い旗だけが同じ方向へ傾いた。
まず岡崎へ下がる。
その間、前後を譜代で固め、五千の軍勢に振り向けるだけの兵を残しておく。今必要なのは、勝つための軍ではなかった。背を見せても、たやすく食いつかれぬだけの軍を保ったまま、岡崎まで退くことであった。
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長沢を出た軍勢は、岡崎へ向かった。
先頭と後尾には次郎三郎の直轄勢を置き、その間へ一門衆を入れた。長沢の老人も、供の者とともに軍列の中にいる。館の奥へ下げたあとも監視を解かず、そのまま連れ出したのである。
出立に際して、次郎三郎は一門衆に言い聞かせた。
松平全体として今川と話をするなら、まだ和議の道はある。だが、ここで一つずつ散れば、今川は家ごとに刈り取るだろう。岡崎まで離れずについて来い、と言った。
その言葉は効いたらしい。
一門衆は不承不承ながらも、それぞれの兵をまとめて軍列に加わった。途中で道を外れようとする者がまったくいなかったわけではないが、前後を直轄勢に見張らせているため、大きな離脱にはならなかった。
今川へ走りたくとも、走った先で赦されるとは限らない。次郎三郎を見捨てた者を、今川がそのまま信用するとも思えなかった。そのことは一門衆にもわかっているはずだった。
空は薄く曇っていた。
道の両側には田がひろがり、その先に低い丘が重なっている。田にはまだ水を張っていないところが多く、乾いた土が白っぽく見えた。
次郎三郎はときどき後ろを振り返った。
東三河の今川勢も、松平勢が動くと、ゆっくり西へ進み始めたようだった。だが、その動きはひどく緩慢で、追いつこうとする様子はない。大きな牛が重い体を引きずっているような行軍であった。
物見に出した者も、敵の遅さには拍子抜けした顔で戻って来た。
今川勢は道を急がず、左右へ物見を放ちながら進んでいる。軍列も伸びておらず、松平勢が急に反転することを警戒しているようにも見える、という報告だった。
ならば、次郎三郎の読みは外れていない。
目の前の五千は、松平勢と決戦するための軍ではない。岡崎へ退かせ、その後に和議を結ばせるための脅しである。信濃で大軍を動かしている間、三河を静かにさせておけばよいのだろう。
そう見ながらも、次郎三郎は軍を急がせなかった。
今川勢が遅いからといって、こちらだけ足を速めるわけにはいかない。先頭が先へ行けば、後ろで一門衆が抜けるかもしれない。後尾を急がせれば、今度は軍列の中ほどが乱れる。
軍勢を一つに保って進むには、全体の歩みを緩めるほかなかった。
次郎三郎には、それが少し嫌だった。
五郎がほんとうに東の軍中にいるとは思っていない。だが、もしどこかからこちらを見ているなら、この鈍い退き方を笑うかもしれなかった。
惣領を称しながら、従う一門を信用していないことが、軍列の形にそのまま出ている。逃げるにも、前後を譜代で挟まねばならない。
気恥ずかしいような気持ちがあった。
しかし、急いで軍を崩すよりはよい。
焦るな、焦るな。まだ戦局は手の中にある。
次郎三郎はそう思いながら馬を進めた。
しばらく行ったところで、左衛門五郎が横へ馬を寄せて来た。周囲へ聞かせたくない話らしく、鐙を並べるまで近づいてから声を落とした。
「殿、少し困ったことが」
「どうした」
「いえ、物見が戻らぬので」
「どういうことだ、物見ならば先ほど」
次郎三郎は振り返った。
東の丘の間に、今川の旗が遠く見えた。先ほどとほとんど同じ場所にいるようで、こちらへ急いで近づいて来る気配はない。
「いえ、そちらではございません。岡崎方面のものです」
次郎三郎は前を見た。
道は丘の裾をめぐりながら西へ延びている。行く手に変わったものは見えなかった。
岡崎方面には、二度、三度と物見を放っていた。道筋に敵がいないことを確かめ、また一門衆の離脱を待つ者が潜んでいないかを見るためである。
「吉良か。いや、それ以外か。どちらにせよ、他の手であろう。」
ふと口に出た。
今川の機嫌を取ろうとする者なら、三河にもいる。もともと今川と縁の深い吉良、また伸長著しい今川に近づこうとする国人衆。どちらも岡崎への道を塞いで次郎三郎の首を差し出そうと考えても、不思議ではなかった。
あるいは、西郷方の残党が伏せているのかもしれない。五郎の五千が現れたと知れば、岡崎を取り戻そうと動く者はいるだろう。
「物見を増やせ、後背は少し減らす」
「よろしいのでしょうか」
「構わぬ。後背は視界が開けている。あれらが動くとすれば、奇襲をうけ、ごたついたときであろう」
後ろの今川勢が平地を押し寄せて来るなら、遠くからでも見える。いま気を配るべきは、行く手の見えない場所だった。
左衛門五郎は頭を下げ、馬首を返した。
これでよい、と次郎三郎は思った。
物見を増やし、伏せている者がいれば追い散らす。大きな軍勢でなければ道を変えることもできる。岡崎へ入るまでのことなら、まだ手はいくつもあった。
軍勢はなお緩い歩みで進んだ。
一門衆を見張りながらの行軍は、ひどく骨が折れた。前が少し速くなれば後ろが止まり、後尾を急がせれば中ほどの旗が乱れた。道が細くなるたびに兵が詰まり、そのたびに直轄勢を走らせて列を直さなければならなかった。
数里を行くうちに、東の今川旗は丘の陰へ隠れた。
次郎三郎は少し息をついた。
もう少し進めば、岡崎へ続く道筋へ入る。そこまで行けば、脇道も村も知っている者が多い。何かあっても動きやすくなる。
そのとき、前方からけたたましい馬のいななきが聞こえた。
一頭ではない。
はじめは地を打つ蹄の音だけだった。それが急に大きくなり、数頭、十数頭、さらにその後ろにも馬が続いていることがわかった。
「構えよ」
次郎三郎は短く言った。
命が伝わると、軍列の前方が止まった。兵は道の左右へ寄りながら槍を前へ出したが、動きは鈍かった。岡崎へ退くだけだと思っていたところへ、突然敵が現れたのである。槍先が揃うまでに、いくつもの怒鳴り声が飛んだ。
道の先へ一騎の武者が現れた。
松平の者だった。物見として出したはずの男で、次郎三郎も顔を知っている。
男は馬の首へ伏せるようにして、必死に駆けて来た。その背後を数十騎の騎兵が追っている。馬上の者は弓を持ち、走りながら矢を射かけていた。
矢が一筋、二筋と飛んだ。
逃げる武者の背が揺れた。それでも落馬せず、松平勢の槍列へ向かって来る。
追う騎兵も、そのまま進んで来た。
次郎三郎は刀を抜き、追いかけて来る騎馬群に向けた。その切っ先に合わせ、槍が揃った。
来るなら来い、そう思った。
だが、追っていた騎兵が突然馬首を返した。
先頭にいた武者が、松平勢を憎々しげに見た。次郎三郎にはそう見えた。武者は弓を背へ回すと、さっと馬を返した。
ほかの騎兵もそれに続いた。
誰一人遅れず、数十騎は道を外れて北の丘へ向かい、その陰へ消えた。
「なんだ、あれは」
次郎三郎は言った。
追うことも、矢を射ることもせず、槍の届かないところで一斉に返した。その動きが妙に揃っていた。
思い返すと、装備や馬の乗りこなしも明らかに洗練されていた。数十騎が一つの生き物のように号令に従うなど、次郎三郎は見たことがなかった。
刀を腰に納めながら、背筋に冷たいものを感じた。
「殿、こちらが岡崎筋に出した物見でございます」
青い顔の左衛門五郎が言った。
逃げて来た武者は、槍列の間へ入ったところで馬からずり落ちた。兵が二人、左右から抱えて次郎三郎の前へ連れて来た。
男の背には、矢が何本も刺さっていた。
具足に止められた矢もあったが、肩口と脇の下に深く入ったものがある。口元から血が流れ、息をするたびに喉の奥で音が鳴った。
次郎三郎を見ると、男はかっと眼を見開いた。
「申し上げます。信濃の伊那から一万の軍勢がこちらに向かっております」
周囲がどよめいた。
一万という言葉は、前にいる兵から後ろへ、波が走るように伝わった。軍列の中ほどでも声が上がり、旗が揺れた。
「まて、何を言っている。それが今川勢とするならば、小笠原とにらみ合っていたのだろう」
「わかりませぬ。旗が、旗がこちらに。軍勢も多く。皆、このことを伝えようとしたのですが、今川が何百騎もの騎兵でこれを遮断し」
男の声が途切れた。
口がまだ動いたが、言葉にはならなかった。身体から力が抜け、支えていた兵の腕へ重く沈んだ。
兵の一人が男の顔を見て、首を振った。
次郎三郎は、身体がぐらりとするのを感じた。
信濃にいるはずの一万二千が、岡崎への道にいる。
すぐには意味がつかめなかった。
先ほどまで、信濃の大軍が動けないことをもとに、東の五千を脅しと見ていた。その足場が、突然消えたのである。
「殿、殿」
呼びかけたのは左衛門五郎だった。
「如何されます。皆、足が浮いています」
左衛門五郎の顔にも明らかに余裕がなかった。額に汗が浮かび、声がいつもより高かった。
次郎三郎は周囲を見た。
兵が落ち着かない。前の者は岡崎方面を見て、後ろの者は今川勢がいた東を振り返っている。一門衆の旗の下では、武者たちが寄り集まって何か話していた。
足が地につかないというのは、こういうことかと思った。
次郎三郎自身も、腰が定まっていなかった。何かを命じなければならないのに、頭の中でいくつもの考えが重なり、どれをつかめばよいかわからない。
これはいかぬ、と認めた。
「なんでもいい、時間を稼げ。立て直す」
「いったい何を立て直すと」
「己自身をだ。次の一手で生きるか死ぬか定まる。その手を見極めるため、時間が欲しい」
左衛門五郎は次郎三郎の顔を見た。
その額にも汗がにじんでいたが、やがて大きく頷いた。馬首を返すと、一門衆の方へ走った。
「落ち着きなされよ。偽兵でござる。でなければ、降ってわいたように一万の軍勢などありませぬ」
左衛門五郎は声を張り上げながら、旗から旗へ馬を走らせた。
偽兵だという言葉に、裏づけがあるわけではない。それでも、何も言わないよりはよかった。ざわめきは消えなかったが、ほんの少し小さくなった。
次郎三郎は手綱を握り直した。
一度、深く息をし、馬上でうずくまるように身を丸めた。
まず、信濃から軍勢が戻って来たという話は真実か。
真実と見るべきだった。
吉良や三河の国人衆が、次郎三郎の物見を遮るためにあの練度の何百騎もの騎兵を出せるとは思えない。
それに、東の五千が急いで追って来なかった理由も、これならばわかる。
岡崎方面に別の軍勢がいれば、次郎三郎は自分からそこへ向かう。東の五千は、後ろからゆっくり押すだけでよい。
では、一万二千の全軍が戻ったのか。
そこはわからない。
小笠原勢は、いまだ信濃に展開しているとの知らせが来ていた。今川勢がすべて信濃を離れたなら、小笠原が動かないはずはない。高遠や伊那へ放った草からも、何か知らせが入るだろう。
ただ、知らせには時のずれがある。
こちらに届いたころには、すでに今川の一万二千が信濃を離れていたということもあり得る。五郎が初めから三河へ戻すことを決め、道を閉ざして動かしたなら、草が見落とした可能性もないとは言えない。
しかし、一万二千もの軍勢は、旗を伏せただけで動かせる数ではなかった。
兵だけではない。兵糧を運ぶ荷駄があり、馬があり、宿を取る村がある。数百騎を使って道を塞いでも、すべてを隠し通すことは難しい。幾重にも放った草のうち、誰か一人はその動きを捕らえるはずだった。
ならば、一万二千すべてではない。
そう多くはないはずだった。
だが、確証はない。
一万ではなく五千かもしれない。五千ではなく二千かもしれない。それでも、岡崎への道に今川の実兵がいることだけは確かだった。
次郎三郎は、岡崎へ一目散に下がるべきだと決めた。
数がわからぬ軍勢に、こちらから近づいて様子を見るわけにはいかない。道を変え、脇へ抜けることも考えられる。敵が少なければ押し通し、多ければ岡崎を避けて安祥へ向かえばよい。
下手に足を止めれば、東の五千が動く。
遠江の兵がどれほど次郎三郎との戦を嫌っていても、前で松平勢が止められたと知れば、勝ち馬には乗りたがるはずだった。前後から押されれば、一門衆はたちまち崩れる。
よし、と次郎三郎は小さく唸った。
考えが定まると、足元が戻ったように感じられた。
次郎三郎は馬を返し、自分の軍勢を見渡した。
「皆、聞け」
声を出したとき、後方から一騎の物見が走って来た。
今度は東へ、後方の五千へ出していた者だった。
矢は受けていない。具足にも目立った傷はなかったが、顔色は、先ほど死んだ物見よりも悪かった。真っ青になり、次郎三郎の前へ来ても馬から下りることを忘れたように、手綱を握っていた。
「東三河の五千が、こちらに向かってまいります」
ここで動いたか、と次郎三郎は思った。
岡崎筋の兵が見つかったことを、五郎方も知ったのだろう。伏せていた軍勢が知られた以上、東からも距離を詰めるつもりかもしれない。
だが、すでにかなり離れている。
こちらが足を速めれば逃げ切れる。西の兵が多くないなら、押しのけて岡崎へ入ることもできる。
そう判断したところへ、物見が言葉をつないだ。
「五千の中に、今川五郎氏景、本人を見つけました。陣頭に立ち、殿の名、次郎三郎殿はいずこかと、呼びかけておられます」
そこで、算段が飛んだ。
先ほどから頭の中を駆けめぐっていた考えが、急に消えた。
岡崎へ退く道筋も、西の軍勢の数も、一万二千が信濃に残っているかどうかも、いまはどうでもよくなった。
五郎が東の五千の中にいる。
それだけでよかった。
西へ行けば、数のわからない今川勢とぶつかる。東からは五郎の五千が追って来る。岡崎へ向かえば、いずれ両軍に挟まれる。
だが、五郎は目の前にいる。
今川の軍勢をすべて破る必要はなかった。五郎を討てばよい。五郎が死ねば、西の軍も東の軍も、いまのままには動けない。
五郎自身が陣頭に立ち、次郎三郎の名を呼んでいる。
誘っているのである。
それもわかった。
それでも、ほかに道はなかった。
「反転し、五郎を討ち取るぞ」
「殿、何を」
左衛門五郎が声を上げた。
周囲もざわついた。先ほどまで岡崎へ急げと言われると思っていた者たちが、互いの顔を見た。
「考えてみよ。岡崎には数の定かではない軍がおる。一万はなかろうが、とにかくこれらはおる。きっと岡崎に向かえば、ぶつかる。そこに五郎も合わせて、我らは挟まれよう。だが、今五郎を一気に討ち取れば、これらは瓦解する。今川は、今やそういう軍よ」
「たわけ。いまさら何を言っている。降伏じゃ、降伏以外に」
長沢が言い募った。
監視の兵に囲まれ、軍列の中ほどにいたはずだった。反転の命が伝わるのを聞き、供の者を押しのけて前へ出て来たらしい。
次郎三郎は刀を抜いた。誰かがあ、と呟いたが、もう遅かった。
抜いた刀は馬上から振り下ろされた。
長沢は何か言おうとした顔のまま、道脇へ倒れた。供の者が息を呑み、一門衆の間から低い声が上がった。
「殿」
左衛門五郎が言った。
次郎三郎は刀についた血を振り払い、鞘へ納めた。
「一世一代ぞ。分からんか、今川は最初から松平を釣り上げようとしておった。餌に食いつかなくとも、真綿で絞め殺すつもりであった。それが嫌ならば、前に出て五郎を討たねばならぬ。その機会が来た」
一門衆は黙っていた。
長沢の身体が道の脇に倒れている。そのそばに供の者が膝をついたが、抱き起こそうとはしなかった。
「次郎三郎殿に従わずとも、御寛恕を」
誰かが言った。
声の主はわからなかった。旗の陰から聞こえたようでもあり、兵の間から上がったようでもあった。
「武田を思え、一門らはどうなった。どの口が言うかと思おうが、言わせてもらう。もう遅い。前に出て五郎を討たねば根切りぞ。だが案ずるな、次郎三郎が前に出る。そこもとはその後をついてくるがよい」
一門衆は、斬られた長沢を見た。
それから、次郎三郎を見た。
次郎三郎はすでに馬首を東へ返していた。左衛門五郎に、譜代と馬上の者を前へ集めるよう命じた。直轄勢が動き、先ほどまで軍列の後尾を守っていた兵が、道の左右を走って前へ出た。
松平一門の旗は、すぐには動かなかった。
次郎三郎の旗が東へ進み始めると、まず譜代の兵が続いた。その後を竹谷の旗が動き、形原も遅れて馬首を返した。
一つが動けば、残った旗だけが道の上に取り残される。
やがて軍勢全体が、鈍い動きで向きを変え始めた。槍を持った兵が互いにぶつかり、荷を運ぶ者が道を外れ、怒鳴り声が飛び交った。
それでも軍勢は向きを変えた。
次郎三郎は先頭に立ち、五郎の五千が来る東へ馬を進めた。




