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4章_11

 朝比奈備中守率いる一万二千が下伊那へ入ったとの報せが岡崎城へ届いたのは、昼を少し回ったころだった。使者は、遠山郷から小川路峠を越えた今川勢が飯田盆地の南へ出たことを告げた。朝比奈家の旗に交じり、今川五郎の馬印も見えたという。


 松平次郎三郎清康は膝を打ち、その日のうちに一門と重臣を広間へ集めた。


「動いたな。兵を集める。長沢へ出るぞ」


 座中は静まり返った。今川の大軍が信濃へ入れば、三河の兵が薄くなる。そのときを待っていたことは皆が知っていたが、長沢へ兵を出せば、五郎と結んだ約定を破ることになる。


 岡崎を押さえてから、次郎三郎は長沢松平へ何度か使者を出していた。岡崎へ出仕し、松平の惣領たる次郎三郎の下知を受けるよう求めたのである。長沢方は応じなかった。かつて寺に集め、惣領を認めるよう迫ったときも玉虫色の回答をした男である。そもそも長沢も松平の一族ではあるが、安祥や岡崎から所領を与えられた家ではなく、状況次第でついたり離れたりを繰り返していた。その反応が最近とみに硬くなった。理由は明白である。西郷弾正の持つ岡崎を接収したことに反応したのだ。


 加えて、長沢は徐々に親今川の色を表に出し始めている。これを次郎三郎が咎めてみせると、近ごろは今川から所領の安堵を得て、家同士の争論は五郎の裁定に任せると返して来た。次郎三郎が長沢へ手を出さぬことも、今川との約定に含まれている。


 大久保左衛門五郎が口を開いた。


「いま少し、お待ちになってはいかがでございましょう。朝比奈勢が小笠原と戦えば、今川もさらに兵を出すやもしれませぬ。動くならば、その後でも遅くはありますまい」


「遅い。朝比奈が小笠原を屈服させれば、一万二千が戻って来る。その後で長沢へ兵を出せと申すのか」


「されど、長沢は殿の敵ではございませぬ。同じ松平の家にございます」


「同じ松平でありながら、惣領の下知は受けぬ。今川五郎の判がなければ、岡崎へ顔も出せぬと申しておる。それを同じ家と言えるか」


 次郎三郎の声が強くなると、左衛門五郎は口を閉じた。しかし座中には、なお出兵を危ぶむ気配があった。別の家臣が、ためらいながら言った。


「長沢を攻めれば、今川方の松平へ兵を出したと見られましょう。いっそ信濃攻めに兵を出すと申し入れ、今川の疑いを解く方がよいのではございませぬか」


 同意する声が幾つか上がった。今川と争うより、その敵と戦う方がましだと考える者は少なくなかった。


「信濃へ兵を出したところで、われらは今川の手先になるだけだ」


 次郎三郎は一同を見回した。


「長沢は所領を安堵され、五郎へ争論を持ち込んだ。次は形原か、大給か。各家が別々に今川の判を貰えば、松平の惣領に何が残る。戦になったとき、この次郎三郎が兵を出せと命じても、皆が駿府へ伺いを立てるようになるぞ」


「それを防ぐために、長沢を討たれるのでございますか」


「討ち滅ぼすとは申しておらぬ。長沢の城も所領も残す。ただし、松平一門として岡崎へ出仕し、兵を出し、惣領の下知に従わせる。いま長沢を従わせねば、松平は二度と一つにはならぬ」


 左衛門五郎は膝の上へ目を落とした。次郎三郎の言うことは分かるのだろう。それでも今川との力の差を思えば、簡単にはうなずけないらしかった。


「東三河から今川勢が出れば、長沢を従わせるどころではございませぬ」


「今川は信濃に一万二千を出した。北条への援兵にも五千を送り、甲斐にも兵を置いておる。武蔵口の備えも解けぬ。これほど兵を外へ出してなお、東三河に大軍が残っておると思うか」


「遠江の国人を集めれば、数千は動かせましょう」


「その数千は、すぐに一つの軍として動かせる兵ではない。朝比奈も福島もおらぬ今川が、長沢のためにどれほど出せる。これを怖れて一万二千の帰りを待つのか」


 次郎三郎は少し笑った。


「今川がこれほど薄くなることは二度とない。長沢を従わせれば、岡崎から東へ松平の下知が通る。そこまで行って初めて、今川もわれらを一つの家として扱わざるを得なくなる」


「されど、長沢を攻めた後はいかがなさいます。小笠原との戦が終われば、今川は約定を破ったわれらを討ちに参りましょう」


「先に詫びを入れる」


 座中の者が顔を上げた。次郎三郎は傍らの文を取った。関東の上杉方から届いたもので、今川が北条を助ける限り、攻勢を緩めるつもりはないと記されている。末尾には両上杉の名が並んでいた。


「上杉が兵を出してくれるとお考えでございますか」


「そのようなものはあてにせぬ。だが、上杉が今川を休ませぬことだけは確かだ。その間に長沢を従わせ、一門をまとめる」


「その後、今川と戦うのでございますか」


 次郎三郎は思わず笑った。


「何食わぬ顔で今川の味方をする。長沢のことは、松平一門の争いを惣領が収めたと申す。長沢の家も所領も残すのだ。五郎へ詫び、今川が関東へ兵を出すならば、三河の西をわれらに守らせよと申し入れる」


「約定を破った者を、今川がそのままお使いになりますか」


「使わせるのだ。長沢一つ従わせられぬまま頭を下げれば、今川の判がなければ何もできぬ家と思われる。松平をまとめ、兵を持った上で頭を下げれば、簡単には切れぬ」


 口に出した策は、次郎三郎自身にも窮屈に思えた。今川を追い払い、三河を松平の国にする方が性には合っている。だが五郎と直に会い、今川の兵と国の有様を見て以来、正面から争えば松平が先に潰れることだけは疑わなくなっていた。


 ならば、今川の力を外から退けるのではなく、その内側へ入るほかはない。松平の城と兵を手元に残したまま従い、五郎が倒れるまで待つ。それまでは使われるふりをして、使えるものは今川からも使えばよい。


「なるほど、三河者ならば気に入らぬ話ではあろう。だが、長沢を今川の判の下へ置いたままにすれば、ほかの松平も同じことを始める。やがて岡崎にいる惣領より、駿府の五郎の言葉を重く見るようになるぞ」


 広間は静かだった。兵を出せば一族の行く末が決まると考え、なお迷っている者もいる。だが朝比奈勢が信濃へ入った今を逃せば、次の機会がいつ来るか分からないことも、誰もが承知していた。


 やがて左衛門五郎が頭を下げた。


「殿がそこまでお決めならば、兵を整えまする」


 ほかの者も順に頭を下げた。


「三日のうちに揃えよ。長沢へ出る」


---


 三日後、松平勢は長沢の館の西へ兵を進めた。岡崎から出た直臣に、安祥や近在の一門衆の手勢が加わり、冬枯れの畑を挟んで幾筋もの旗が並んでいた。長沢の館は低い丘の裾にあり、土塁と堀を巡らせた内側に、板葺きの屋根が重なって見える。


 兵を置いてほどなく、長沢から使者が来た。五十を過ぎた男で、次郎三郎も以前の一門の集まりで顔を見たことがあった。男は陣へ入ると、長沢の当主に代わって、なぜ兵を集めたのかと尋ねた。言葉は丁寧だったが、今川との約定を持ち出す口ぶりには、次郎三郎が長沢へ攻めかかるはずはないという気安さがあった。


「今川方がこのことをお知りになれば、御身にも決してよいことにはなりますまい。まずは兵をお退きになり、御屋形様の御裁定を仰がれては――」


 次郎三郎は鼻で笑った。


「御屋形様などとは、随分な言いようではないか」


 使者は苦々しく顔を歪めた。口に出した後で失態に気づいたのだ。形の上では長沢は松平の一門であり、今川への臣従は行っていない。少なくとも次郎三郎の耳に届く範囲では、そうなっている。


「失礼。正月に駿府の館で周りがそう呼んでおられたため、口が動いただけでござる。まさかこれを理由に兵を向けるなどとは」


「問答無用。呼び方などどうでもよい。ただ、今すぐに次郎三郎に下るか下らぬか決めよ。次に同じ答えを返すようであれば、そこもとを斬り、攻めかかる」


 使者は顔を強張らせた。なお何か言おうとしたが、次郎三郎が見返すと、唇を引き結んで頭を下げた。立ち上がるときには膝が少しもつれた。供の者とともに陣を出ると、長沢の館へ続く道を急いで戻って行った。


 その背を見送りながら、大久保左衛門五郎忠茂が馬を寄せて来た。


「さて、長沢様は下りますかな」


「下れば楽に済む。こちらももう一歩進めるだろう。だが、あれは相当今川に入れ込んでいる。正月など挨拶に行って、五郎に声をかけられたと、年甲斐もなくはしゃいでおったそうだ」


「確かに駿府では、お付きの家臣も相当よいものを召し上がったそうで。松平ではとてもとても」


「ああ。次郎三郎は吝嗇ゆえな。だが今の武家など、それでよかろう。まだ飢えておかねば、動けぬ」


 左衛門五郎は声を立てずに笑った。次郎三郎も口元を緩めたが、眼は長沢の館に向けたままだった。


 長沢の者が駿府でどのような歓待を受けたかは、次郎三郎の耳にも入っていた。膳には米や魚だけでなく、三河ではめったに見かけぬ菓子まで出た。帰るときには当主だけでなく、供の家臣にも銭や反物が与えられたという。その折、長沢の老人は五郎から直に声をかけられ、自室に招き入れられた後、先祖から守って来た所領を認めるとの文を受け取ったらしい。そのことを、正月が過ぎても方々で話していたという。


 次郎三郎は、それ自体を心配してはいなかった。三河の老人たちは誰も彼も食わせ者である。五郎の行いなどあざといと一蹴し、言質を取ってやったわと自慢するぐらいだろうと考えていた。ただ、それもあまりに楽観が過ぎたようだ。


 西三河では、家臣に腹一杯食わせるだけでも容易ではない。戦となれば米を集め、城を直せば人夫を出させる。次郎三郎も、働きに応じて所領や銭を与えはしたが、何の役にも立たぬ者へ気前よく振る舞うつもりはなかった。


 五郎は違う。家臣や領民へ飽食と安寧を振りまき、公家にまで働きに見合わぬ銭を投げている。次郎三郎の眼には、公家を座敷犬のように飼っているようにさえ見えた。


 だが五郎自身は肥えていなかった。身体がというわけではない。身軽なのだ。


 大領を持つ今川の当主でありながら、次郎三郎のような西三河の一国人と軽々しく面会し、言葉を交わした。甲斐へ行き、遠江へ戻り、駿府で政を見たかと思えば、今度は信濃へ出ている。家臣へ任せて座っていればよいことまで、自分で見て回っていた。


 きっと、あれは相当に飢えているのだろう。あるいは心のどこかに、何を入れても埋まらぬ虚がある。だから大領を得ても、領地を豊かにしても走り回っているのではないか。


 そう考えると、次郎三郎は小さく笑った。


「存外、当たっていたかもしれぬ」


「いかがされました。そのように嬉しそうに」


「いや、その場で吐いた虚言が正鵠を射ていたという話よ」


 左衛門五郎はきょとんとした顔をした。次郎三郎は出陣前に一門衆へ吐いた言葉について説明しなかった。ただ、長沢の館へ眼を戻した。


 しばらく待っても、使者は返って来なかった。それどころか、館の門が閉じられ、土塁の内側を人が走り始めた。櫓へ弓を運ぶ者も見える。兵を集め、守りを固めるための時間が欲しかったのだろう。


「もうよいな。時間稼ぎに付き合う必要もなかろう」


「で、ございますな」


 次郎三郎は振り返った。陣で待っていた兵たちの話し声が、次第に収まった。


「かかれ」


 鬨の声が上がり、松平勢が館へ向かった。道の左右には冬を越した麦が低く伸びていたが、兵は畝を踏み崩しながら広がり、館の正面と南側へ進んだ。


 長沢方から矢が飛んで来た。土塁の上と櫓から放たれたものだったが、数は少なく、狙いも揃っていない。松平勢の前へ出た楯に何本かが当たり、畑へ落ちた矢を後ろの兵が踏み折った。腿を射られて倒れる者もいたが、すぐに脇へ運ばれ、兵の流れは止まらなかった。


 館から打って出る者はいなかった。近くの道にも、長沢を助けに来る兵の姿はない。塀は直され、矢もそれなりに蓄えられていたが、籠城の支度が整っているようには見えなかった。館を囲まれたとき、誰へ使者を送り、どの一門と呼応し、どこから援兵を入れるのか。その備えがないのである。


 正面へ進んだ兵が門へ取りついた。門上から石と矢が落ちたが、松平方は門扉の陰へ入ると、太い槌を抱えた者を前へ出した。


 最初の一打ちで、門全体が鈍く鳴った。土塁の上にいた兵が一斉に振り返る。二度目には横木が外れかけたらしく、門扉の片方が大きく内側へ沈んだ。三度目の音が響くと、門上から射る矢がさらに減った。守兵の眼は門と館の奥を行き来し、下知を出す者もいないようだった。


「柔いな。気が緩み過ぎだ」


 次郎三郎が言うと、左衛門五郎も館を見ながら答えた。


「腑抜けておりまするな。今川に寄りかかり安泰だ、これからは栄えると思うのは勝手ですが、これはちと恥ずかしゅうございます」


「恥ずかしくはあるが、それ以上に今川が怖いな」


「といいますと」


 次郎三郎は鼻を鳴らした。


「長沢は疑り深いぞ。それは今までも十二分に知っておろう。それが数か月今川に接し、その富を流し込まれただけでああなった。今川の作った仕組みの外では、何一つ自分で物を考えられなくなったわ」


 左衛門五郎が首をひねった。唸りながら考え込む姿から、次郎三郎の言葉に納得できていないことが分かった。


「さすがにそれは」


「では聞くが、そこもとが長沢であればどうした。西に頭を抑えられた次郎三郎が歯を食いしばっておる。頼みの今川は兵をほとんど吐き出した。どうする。兵を集めも鍛えもせず、館で信濃が治まるのを願うか」


 左衛門五郎はしばらく考えた。一呼吸する間に目に力が入り、物分かりのよい男から、一廉の武者に変わった。左衛門五郎は太い声で答えてみせた。


「いえ。心を同じくする一門とつながり、遠江などとも気脈を通じ、いざという時に備えましょう」


「であろうよ。それをせぬのは、五郎の顔色を窺ったからよ。従順な犬を演じた結果、心身ともに犬になり果ておった」


 下らん、と次郎三郎は思った。今さら長沢の腑抜けぶりを論じたところで、何が変わるわけでもない。今川の庇護をあてにして備えを怠ったのであれば、その隙を使って従わせるまでだった。


 つい先日までの次郎三郎であれば、そこで考えを終わらせていただろう。だが今は、そこからさらに五郎のことを考えた。


 なぜ、このようなことができるのだろう。武威を示して従わせるなら、次郎三郎にも分かる。逆らった者の城を落とし、領地を奪い、人質を取ればよい。だが五郎は、領地を安堵し、食わせ、働けば銭を与え、自分に従う方が楽だと相手に思わせる。それだけで、あれほど疑り深かった長沢が、自分で身を守ることまで忘れかけている。


 以前ならば、五郎のすることには先に反発を覚えた。いまはその拒否感が大分薄れている。認めたいわけではない。ただ、どういう考えでこれを行い、何を見て人を扱っているのか知りたかった。あの長沢を、どのようにして手なずけたのか。それを本人の口から聞いてみたい気さえした。


 四度目の槌が門を打った。門扉の片方が傾き、内側へ倒れかけた。松平兵が声を上げ、出来た隙間へ槍を差し込む。だが門を押し破って中へ入る前に、土塁の上で白い布が振られた。


 門の脇の潜り戸が開き、白旗を掲げた使者が出て来た。先ほどの男ではなかった。若い家臣が供を二人連れ、弓を持っていないことを見せるように、両手を広げて近づいて来る。


「来ましたな。あっけない」


「もうよい。これを皮切りに城を固めるぞ」


---


 長沢方は、城と所領を残すことを条件に次郎三郎へ下った。長沢の当主は次郎三郎を松平一門の惣領と認め、岡崎へ出仕し、求められた軍役を勤めるとの文を差し出した。次郎三郎は蔵も武具も取り上げず、壊れた門の修理を命じただけで、館を長沢へ返した。ここで家を潰しては、ほかの松平が恐れて今川へ走る。長沢には、今川に代わって次郎三郎を頼らせればよかった。


 その一方で、次郎三郎は長沢からすぐには動かなかった。


 勝った勢いのまま東へ出る方が性には合っている。しかし今川方の動きを確かめずに進めば、引くべきところを誤るかもしれない。各戦線を片づけ、三河へ兵を戻す気配があるなら、ここで止まることも考えていた。


 草の者を東へ走らせ、今川領を行き来する商人や僧にも銭を渡した。岡崎へ届く文は長沢へ回させ、安祥にも使者を置いた。報せを待つのは、ひどく性に合わなかった。館の庭へ出ては馬を見、兵の稽古を眺め、また物見櫓へ上がった。東の道に何かが動くたびに人を呼んだが、荷駄であったり、近在の百姓であったりした。


 それでも、日が幾度か暮れるうちに、各地の様子が見えて来た。


 まず関東では、北条方が今川の先発三千と米、塩を得て気勢を取り戻し、さらに二千の増援を加えて、少しずつ形勢を逆転させていた。だが北条は一息に上杉勢を崩そうとはせず、冬の陣で兵糧に苦しむ相手を、じわじわと押し返している。優位にはなったが戦は終わっていない。今川の五千を引き抜けば、押し戻した分まで失いかねず、少々のことでは三河へ動かせないと見てよかった。


 甲斐口にも大きな動きはなかった。上杉方の甲斐攻めは、もとより国境を深く越えるつもりのものではないらしい。弱兵にも旗を持たせ、境の砦へ籠らせて、今川の兵を縛っているのだろう。だが、弱兵であっても無理に前へ出ない以上、簡単に崩れることもないとも取れる。また、今川方は甲斐の若い将に守りを任せているという話で、その将も手柄を急ぎ、他国へ攻め入る様子はなかった。兵を勝手に動かせる身でもないだろう。


 そして、すぐ近くの信濃方面はさらに都合がよかった。


 今川の一万二千は、小笠原勢と渡しで二度ぶつかった後、飯田盆地に大きな陣を築き始めていた。小笠原方を退けながら深く追わず、道を直し、柵を巡らし、野の陣を城のように固めている。周囲には兵糧を扱う商人や職人まで集まり始めているという。諏訪方面にも動きはなく、今川が無理攻めに出る様子はなかった。


 長沢が降ってから十日余り過ぎた日の午後、次郎三郎は館の物見櫓へ上がっていた。風は弱かったが空気は冷たく、遠くの山にはまだ白いものが残っている。櫓の床には各地から届いた書状が置かれ、左衛門五郎がその一通を手にしていた。


「信濃方面、どう見るか」


 次郎三郎は声を抑えながら言った。少しでも気を抜けば、次の瞬間には勇ましく号令をかけてしまいそうだった。


「率いる将は今川五郎本人とのことですが、これは、もしやと思いまして」


「勿体ぶるな。申せ」


 左衛門五郎は苦笑した。こちらも肩の力が抜けている。


「いえ。甲斐武田の再現を狙っておるのかもと愚考した次第でございます」


「守護である小笠原の首を合戦で、ということか。いや、それならば前に出るが道理であろう。なぜ長期戦など狙う」


「守護様の首というより、その後ではないでしょうか。塩攻めや田畑への焼き働きで、こちらへ逆らえないように首輪をはめる。信濃も山国でございます。国人らは守護であるからと、安々とは従いますまい。ここで今川の飯の味を覚えさせ、逆らえないようにする準備をしておるのでは」


 次郎三郎は少し考えた。長沢の館を攻めたときのことが頭に浮かんだ。疑り深かった老人が、今川に所領を認められ、駿府で食い物と銭を与えられただけで、五郎が守ってくれるものと思い込んだ。信濃でも同じことをするつもりなら、野戦で勝つことだけが目的ではないのだろう。


「三河のことは知っておるのだろうか」


 まだ直接、今川の者には弓を引いていない。だが、今川が軍を発する理由自体はすでにある。今川の傘下に入ったと見られる国人を攻め、惣領の下へ従わせたことは、戦端を開くには十分だ。


「伝わってはいるでしょうが、今さら固めた陣は動かせますまい。雪道で後背を閉ざされ、動けば小笠原が前に出るでしょうし」


 次郎三郎は答えず、懐に手を入れた。そこには松平一門から届いた文が何通かあった。以前は惣領の話を持ち出しても言葉を濁し、返事を先へ延ばしていた者たちである。西郷弾正が死んだ後には今川へ寄り、五郎の判を得ることを急いだ者もいた。


 その文のどれにも、次郎三郎を松平一門の惣領と認めるとの一文が入っていた。長沢があっけなく降り、今川方が動かないのを見て、ようやく腹を決めたのである。


 現状だけでも、これは勝ちと言ってよかった。岡崎を押さえ、長沢を従わせ、これまで玉虫色の返答をしていた一門から惣領の承認を得た。次郎三郎が兵を動かした目的は、ほとんど果たされている。


 だが、今となっては少し欲が出た。


 このまま信濃へ北上したら、どうなるだろう。小笠原とともに五郎を挟み、討つことはできなくはないだろうか。山道には雪が残り、大軍が自由に動ける土地ではない。今川勢が南への備えを薄くしているなら、後ろから襲うこともできる。


 五郎を討てずとも、兵糧道を断ち、信濃で立ち往生させることは――。


「いけませぬぞ」


「何も言ってはおるまい」


「今川五郎の背を追う。奇襲を警戒しておらぬわけがないでしょう。腐っても一万の大軍でございます。向こうは劣勢でも、武田五郎の攻めを守り切ったほどです」


「結局、決め手になったのは盤外の福島であろう。それになぞらえるならば」


「ならぬものはならぬのです」


 次郎三郎はむっとした。左衛門五郎は櫓の柱にもたれ、こちらを見ている。年長の家臣が若い当主を諫めるというより、放っておけば本当に信濃へ兵を向けかねぬ者を見張っている顔だった。


 言われるまでもなく、次郎三郎にも分かっていた。胸の内で五郎を思うとき、負けてなるものかという思いと、さあ、どうするという興味が一緒に湧く。かつては前者だけだったが、いまは後者もある。先の寺で直接言葉を交えてから、日が経つにつれてそのような思いが湧いて来た。


 五郎が何を考え、どう応じるのか見てみたい。


 だが、そのために信濃へ兵を出すのは、松平のためではない。次郎三郎個人の望みに過ぎなかった。


 頭を振って、その考えを追い払った。


「分かっておる。まずは国境を固める。あとはそうさな、吉良の様子でも見て来るか」


「今川五郎の義理の兄弟になられる方でございますが」


 吉良には五郎の妹が嫁ぐことになっていた。先代が決めた話で、まだ婚姻は整っていないが、今川が西三河へ足を置くための一手であろうと次郎三郎は見ていた。ただ、五郎の手にしてはいささかありきたりにも思えた。血縁を結び、縁戚の名で土地へ入り込む。どこの家でも考えることである。


「そうさな。あくまで脅かすだけだ。本気にはさせぬ。今川を怒らせぬ程度に、その看板を傷つけられれば御の字だ」


 今度は左衛門五郎が少し考えた。口角がきゅっと上がり、意地の悪い笑みを浮かべた。次郎三郎は思わず身構えた。


「で、ございますな。吉良の値が落ちれば、婚姻の取りやめなどもあり得ましょう。そうなれば殿を、という話もありえます」


「ぞっとすることを言うな。義理とはいえ、あれの兄など御免だ」


「なぜです。年のころは合いましょう。それに名実ともに足利一門であり、母は中御門家の姫でございまするぞ。松平が三河に名を響かせるには決して悪い相手ではありませぬ」


「分かっておるだろうに。そなた、とんでもないことを言い出しておるぞ。見よ、肌が粟立ったぞ」


「ならばこれ以上は申しませぬが。その懸念を現実のものとなさりたくなければ、決して深入りはなさらぬことでございます」


 釘を刺されたと次郎三郎が思ったとき、物見櫓の東で何かが動いた。


 初めは、街道を来る荷駄の列かと思った。だが木立の陰から出て来たのは騎馬で、その後ろに槍を立てた兵が続いている。さらに旗が見えた。風が弱いため垂れていたが、紛れもなく今川方の旗だった。


 階段を駆け上がる足音がした。使者が息を切らして櫓へ出て来る。


「申し上げます。今川勢が」


「見えておる。して、数は」


「四千、いや、五千を下りませぬ」


 次郎三郎は東から現れた軍勢を眺めた。方向から言って朝比奈勢ではない。無論、北条へ送った兵でもない。ならば遠江の国人を急ぎ集めたのであろう。


「ははあ。ようやく焦って遠江衆を使いましたな」


 左衛門五郎は眼を細めた。穏やかな声色だった。


「とはいえ、今川の譜代でもない遠江の国人らが主兵では、無理攻めはいたしますまい。今川五郎への言い訳のための出兵でございましょう」


 その見立てに異論はなかった。年若い遠江の国人子弟らは、駿府にて徐々に今川に染まっている。だが、現当主らは一歩引いているのが現状である。守りを固めた城を何が何でも落とせと言われても、首を縦には振らないだろう。


「とはいえ、それも主将次第よ。誰が率いておる。三浦あたりか」


 次郎三郎は、吉田城を預かる三浦の名を挙げた。使者は頷かなかった。ただ一度息を呑み、次郎三郎を見た。使者の瞳孔が開いた。


「敵将、今川五郎。今川の当主自らが率いておられます」


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― 新着の感想 ―
清康は身内に押し込まれそう?弥七と同じ末路なのかなあ。
次郎三郎釣られましたな。ここからどういう決着にもっていくのか次の話が楽しみ。
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