5
朝になっても、雨は止まなかった。
夜の嵐ほどではない。ぽつりぽつりと雨粒を落とし、土をぬかるませている。
空はまだ低く、重かった。
庭の泥は黒く、踏み石の周りには濁った水が残っている。
軒から落ちる雨粒が、同じところを叩き続けていた。
雨音の中に、わずかな喧騒が混じる。昨夜の遠雷のように、雨音を裂くものだった。
龍王丸は、目を覚ました。
体が重い。
夜中に起き、泥の中を歩いた。
濡れた裾は、朝までに乾ききらなかった。
小さな足には、まだ冷えが残っている。
それでも頭は、すぐに昨夜の蔵へ戻った。
米袋。
雨。
弥七。
博奕。
帳。
弥七、と呼んだ時の顔。
龍王丸は、布団の上でしばらく動かなかった。
あの顔が残っている。
己は何かを仕損じた。
上手くいかなかったことがあり、それはきっと取り返しのつかないことだろう。
そう思ったところで、御簾の向こうに人の気配がした。
朝の支度である。
女房が入る。
水が置かれる。
衣が整えられる。
誰も、昨夜のことを知らぬ顔をしていた。
龍王丸は水を飲んだ。
少し遅れて、廊下の向こうが騒がしくなった。
遠くにあった喧騒が、徐々に近づいてきている。
雨の日の足音は鈍い。
急いでも、湿り気に吸われる。
それでも、急いでいることだけは分かった。
老側付きが来た。
顔色が悪い。いつもの渋い顔ではない。
青白い。
先代の遠江侵攻にも連れ添ったという歴戦の武士が、病人のようだった。
その後ろに、蔵役がいた。
工藤と宮田もいた。
二人とも、顔を伏せている。
皆、服装が乱れていた。
足利一門、駿遠二国の太守である今川の御曹司の御前に立つ者は、身だしなみにも気を遣う。
これは常の事ならばあり得ないことだった。
龍王丸は、それを見た。
自分のしくじりが何なのか、唐突に思いあたった。
そして、その思いあたりを受け入れる準備をしなくては、と心を急ぎ整えた。
龍王丸が居直ったのを見て、老側付きが膝をついた。
「若君」
「うん」
声が低い。
老側付きは、すぐには続けなかった。
雨音だけが、間に入る。
「弥七なるものをご存じでしょうか」
「知った。帳簿に名前があったな。昨日の場にもいた」
龍王丸が答えると、老側付きが息をのんだ。
彼は気を入れなおすと、はっきりした声で言った。
「死にましてございます」
龍王丸は、瞬きをした。
やはり、かと思った。
自分は何かをしくじったのだ。
昨夜、蔵の前にいた男。
米を戻しに来た男。
帳を直すはずだった男。
博奕はやめよと言った男。
戦国の世であれば、軍事物資を私することは死罪である。利敵行為であると龍王丸は理解している。
だが、こびりついた現代人的な感覚が、そこまではする必要ないだろうと訴えたのだ。
弥七の盗んだ額から、彼が大きな悪事を抱えられる男ではないと龍王丸は判断していた。大したことはできまい、少しくぎを刺せば正道に戻る、そうも判断した。
帳簿の犯人捜しの中で見つかれば、弥七の首は落ちる。その前に片付ければ、弥七は死なずとも済む。
ああ、なんと浅はかな目論見であったことか。
龍王丸は、何も言わなかった。
老側付きも、蔵役も、工藤も宮田も、誰も顔を上げない。
嘆いた方がよい。
しかし、それは卑怯であると龍王丸は思った。
追い込んだのは自分である。被害者のふりで災難を避けるのか。
ゆえに、言葉は出なかった。
しばらくして、龍王丸は言った。
「そうか」
老側付きの肩が震えた。
蔵役が、いっそう深く顔を伏せた。
工藤と宮田の額が、畳に近づいた。
女房の息が止まる。
龍王丸は、それらを見た。
これもしくじりだな。
そう思った。
だが、出た言葉は戻らない。
「米は」
蔵役が顔を上げかけた。
「戻っております」
「濡れては」
「おりませぬ」
「そうか」
また沈黙が落ちた。
龍王丸は続けた。
「帳は」
「本来あるべき米の分の銭とともに直されておりました」
「ほかには」
「一つ。若君に詫び状が」
老側付きが折りたたまれた書を取り出した。
「読む」
老側付きはためらいながらも、龍王丸にそれを差し出した。
龍王丸の手に紙の感触が伝わる。しっかりとすかれた紙で、普段龍王丸が扱うものと見劣りしない。
弥七の給金では足が出るようなものだった。
紙には可能な限り丁寧に書かれた字がある。
短い文だった。
若君の御目を汚し奉り候こと
来世までも恐れ入り候
なにとぞ罪を地獄へ持ち越すこと、御免し下され
若君の御芳情ありがたく頂戴いたしました弥七
読み終え、龍王丸が目を細めると部屋が静まった。
皆が龍王丸の一挙一動に注視していた。恐れていた。
長い睫毛の揺れ、胸の上下、すべてを恐れていた。
龍王丸は、自分の手を見た。
小さい手だ。
この手で、弥七に触れてはいない。
だが、弥七は死んだ。いっそ触れ、許すとでもいえばよかったのか。
違う、許す権限は自分にはない。
「身寄りは」
老側付きが答える。
「母はすでに亡く、父もなし。姉が一人、嫁いでおります」
「姉を責めるな」
「は」
「弥七の咎は、弥七一人とせよ」
「は」
「蔵の者も、今は騒ぐな」
蔵役が顔を上げた。
龍王丸はそちらを見た。
「騒げば、隠す」
蔵役はすぐに頭を下げた。
「は」
「隠せば、また歪む」
老側付きは深く頭を下げた。
「仰せの通りに」
龍王丸は、工藤と宮田を見た。
「昨夜」
二人の肩が動いた。
「見たか」
工藤が答えた。
「若君が、蔵へ向かわれました」
「うん」
「我らは、お止めできませなんだ」
「正直に過ぎるな」
二人が畏まった。咎めを受けたかのようだった。
知らんとでもいえばよかったのでは、とも思った。
いや、それもそれで二人には責が及ぶのだ。
「この龍王丸がそこにいよと言った」
二人は額を畳につけた。
「そなたらも咎はない。今川の若君の命だ。従わざるをえまい」
工藤も宮田も動かない。
「されど、止めるべきだと思ったならば、人を呼んでくれ」
「は」
龍王丸は頷いた。
それで、そこは終わった。
しかし、周囲の者たちの空気は変わらなかった。
ああ、いつぞやと同じだな。
龍王丸は、かつての自分と同じような疎外感を覚えた。
龍王丸の言葉一つで、大人が死んだように見えた。
今川の若君として罰を与えたのではない。
一言二言話し、それだけで相手はすべて片づけ、この世から旅立っていった。
その事実だけが、座敷の中央に置かれている。
「弥七の名を」
龍王丸は言った。
老側付きが顔を上げる。
「騒ぎに使うな」
「は」
「蔵の者を脅すために、使うな」
「承知いたしました」
龍王丸は頷いた。
それ以上、言うことはなかった。
老側付きが下がる。
蔵役が下がる。
工藤と宮田も下がる。
女房たちは、しばらく動かなかった。
龍王丸は座ったまま、外の雨を聞いていた。
若君の御芳情。
その言葉だけが、龍王丸の胸に残っている。
この度のしくじりも、頭に残っている。
だが、どうすれば同じしくじりを繰り返さずに済むのだろうか。
その答えがいまだに出ない。
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弥七の死は、駿府館の奥まで広がった。
誰が言い出したのかは分からない。
雨の日の噂は、湿気のように動く。
廊下の端にたまり、蔵の前に残り、厨の湯気に混じる。
誰かが袖の中で囁けば、次には別の者の耳へ入っている。
若君が、弥七を見た。
若君が、弥七の名を呼んだ。
若君が、弥七の博奕を見抜いた。
若君が、帳のずれを見つけた。
若君が、蔵の奥まで見た。
若君が、御芳情をかけた。
その後、弥七は死んだ。
誰も、若君が殺したとは言わない。
言えるはずがない。
ただ、厨の者は粥を混ぜる手を止めた。
蔵役は札を二度結び直した。
帳簿係は、日付の上に筆を置いたまま、しばらく動かなくなった。
下役たちは、互いの顔を見ないようにした。
御座所の前を通る足音が、少し細くなった。
誰かが、小さく言った。
「若君は怖ろしい」
それを聞いた者は、何も返さなかった。
否定もしなかった。
御屋形様の嫡男である。何を言っても非礼になった。
若君を侮る言葉は広まらなかったが、館に漂う空気は変わった。
雨の湿気以上に、陰気な重苦しいものが漂うようになった。
一番大きな変化は奇妙な若君を見る目だった。
聡明な子、麒麟児、などという期待が込められた目線は減り。
恐れの目だけが残った。
龍王丸は、その目を受けて、何も言わなかった。
退けなかった。
その日の昼、帳の写しが置かれた。
弥七が戻した米の分には、印がつけられている。
欠けた分も、残った分も、書かれている。
誰に渡したかは、書かれていない。いや、書いたのだろうが、弥七自身の手で塗りつぶされている。
龍王丸は、紙の端を見た。
弥七。
その名があった。
いっそ、この名も塗りつぶし消してやるべきか。
姉君の家族も暮らしづらいかもしれない。
いや、消してはいけない。
消せば、何が起きたか分からなくなる。
分からなくなれば、また同じことが起きる。
では、残すべきか。
雨音が続いている。
「これはこのままにせよ」
小さく言った。
誰に向けた言葉でもない。
残さねば、直せない。己の失態も、帳簿の歪みも。
龍王丸は、それ以上何も言わなかった。
駿府館の奥で、若君という言葉に禁忌の意味が含まれるようになった。
雨音だけが、長く続いていた。




