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雨は夜になっても止まなかった。
むしろ昼よりも、音が太い。
屋根を叩く雨粒は重く、庭の泥はさらに深くなっている。
時折、遠くで雷が鳴り、駿府館の奥まで低い響きが伝わってきた。
龍王丸は眠れなかった。
眠くないわけではない。
幼い体は、すぐ疲れる。
長く座って帳を見た後など、目も重く、手足も鈍い。
だが、頭だけが動いていた。
ずれなら、直せ。
米なら、探せ。
雨なら、次は止まる前に移せ。
自分で言った言葉が、何度も頭の中で回る。
経験上、これは良くない思考の傾向だと理解していた。
言い過ぎたか。
いや、言い過ぎてはいない。
だが、出し方は悪かったかもしれない。
こうしようと改善策が固まると、つい過去の行いがどうだったか、どうすればよかったかを試してしまう。
こうなるとなかなか収まらない。
はあ、と息を漏らす。
大雨がかき消した。頭は帳簿の一件を思い出させる。
老側付きは固まった。
帳簿係は汗をかいた。
厨の者は頭を上げられなかった。
千代丸は、何か分かったような、分からないような顔をしていた。
弥七。
帳にあった名だ。
昼の終わり際、顔色を悪くしていた男。
目が合った瞬間、全てを諦めたような顔をした男だ。
何だったのだろう。
龍王丸は自分の思考の傾向が変わったのを自覚した。
自問自答、自責のそれではなくなった。
若い己の好奇心が膨れ上がった。そのうえ、老いた自分の裾をつかみ訴える。
これは捨て置けぬことぞ、と目を開けと言い募っている。
さてどうするか。
龍王丸は布団の中で、じっと雨音を聞いていた。
幼い体は横になっている。
だが、内側の暴れ馬はまだ寝ていない。
蔵を見る。
いや、見なければならない。それも今すぐでなければならない。
なぜだ。なぜ今見なければならない。
確かめるためだ。
なにを。
自分に問いかける。自分が答える。答えたのは老いた自分か、若い自分かもうわからない。
そもそもそんな区別すら無意味なのかもしれない。
帳だけでは分からないことがある。
紙の上にある米と、蔵の中にある米は同じではない。
紙では通ったことになっている道と、実際に水を吸った道も同じではない。
ゆえに見なければならない。
だが、なぜ今だ。
夜中に飛び起きる必要がある。
若い自分でも、老いた自分でもない何者かがあざ笑う。
今宵でなければ、ことが終わるのだ。
行け、龍王丸。
「仕方あるまい」
起きる。
すっと寝所を抜け出る。
女房は気づかない。雨音がすべてを隠している。
遠くの雷に、火の番の者も気を取られていた。
龍王丸は廊下に出た。宿直と目が合う。
今宵、この時刻は二人だった。与一郎とは比べ物にならない屈強な男だった。
二人の男が目を見開き、信じられないとばかりに龍王丸を見やった。
何事か口に出そうとしたが、先に口を開いたのは龍王丸だ。
「よい」
何がよいか、龍王丸にもわからないが、護衛は黙った。
蔵に向かって歩き出すと、護衛が静々と後ろを歩いて付いてくる。
「工藤、宮田」
今宵の宿直である工藤何某と宮田何某の名を呼ぶと彼らも身を震わせた。
「夜半だ。静かにな」
雨は降っているが、時折音は響く。
灯は持たなかったため、遠目には龍王丸の姿は見えない。
真っ暗闇の中、雨音の中を、龍王丸は供連れで歩いた。
廊下の板は冷えていた。
足裏から、湿り気が上がってくる。
風が抜けるたび、衣の裾が揺れた。
前世の体ならば、足元など見ずとも歩けた。
今は違う。
体は軽いが、弱い。
目線は低い。
闇は深く、柱の影ですら大きく見える。
心は体に引かれる。
千代丸に言った言葉を、龍王丸はまた思い出した。
今己を操っているのは、老いた自分か、若い自分か。
それともそれらを勝手に作り出している、また別の自分か。
千代丸に言った言葉が誠であるならば、きっと老いた自分を好き勝手に扱う幼い自分が強い力で何かを引っ張っている。
龍王丸はとりとめもないことを思いながら、それでも足は蔵へ向かっていた。
雨が廊下に吹き込んでいるところがあった。
龍王丸は一度、そこで足を止めた。
泥に入るか、遠回りするかを考える。
遠回りすれば、見つかるかもしれない。
泥に入れば、足跡が残る。
少し考え、龍王丸は泥に入った。
龍王丸は裸足だ。ついた泥は、雨にさらせばすぐに落ちる。
「若君」
工藤が止めようとする。
だが、もう遅い。
「そこにいよ」
それだけで護衛は止まった。
龍王丸は進んだ、足が沈む。
冷たい。
思ったより深い。
四つの体には、泥一つも厄介である。
だが、進めた。
雨音はなお強い。
誰も気づかない。
蔵へ近づくと、米の匂いがした。
それは龍王丸の気のせいだった。雨はすべてをかき消していく。
龍王丸は、蔵の前で足を止めた。
人がいる。
灯はない。
だが、雨の白さの中に、黒い影が動いている。
肩に、小さな米袋を担いだ男だった。
男も、こちらに気づいた。
最初は、誰か分からなかったのだろう。
小さな子供の影を見て、下働きの童か、小姓かと思ったのかもしれない。
遠雷。
光が、庭を一瞬白くした。
その光で、男の顔が見えた。
同時に、男にも龍王丸の顔が見えた。
弥七だった。
弥七は、息を止めた。
龍王丸は、ただ見ていた。
夜の蔵。雨。米袋。帳にあった名。龍王丸の頭の中でバラバラだったそれらが勝手にくっついていった。
ふうん、と唸りながら、
「殊勝だな」
と龍王丸は言った。
弥七の顔から、血の気が引いた。
雨音だけが響いた。
弥七は、すぐには返事をしなかった。
肩の袋を下ろすべきか、担いだまま頭を下げるべきか、迷っている。
その迷いが、龍王丸には少し不思議だった。
戻しに来たのなら、まず戻せばよい。
袋を置く。
帳を直す。
次から先に言う。
それで済む。
少なくとも、龍王丸はそう考えていた。
「まず、戻せ」
龍王丸は言った。
弥七の肩が震えた。
「わ、若君」
弥七は小男である。見るからに非力であり、武士というより商家の丁稚のほうがしっくりくる。
そんな男である故、満杯の米俵は担ぐのは辛そうだった。
「まず戻せ。重かろう」
龍王丸はもう一度言った。
弥七は、今度こそ袋を蔵の前に置いた。
置き方は丁寧だった。
俵を粗末に扱う者の手ではない。
龍王丸はそれを見て、少し安堵した。
米を扱う手は悪くない。
ならば、役はまだ使える。
まだ罰よりも別の道でよい。
前世から、龍王丸はそう考える癖があった。
悪人を探すより、流れを直す。
壊れたところを見つけ、次に同じことが起きぬようにする。
使える者は、すぐには捨てない。
曲がりなりにも管理職であった頃の心得でもあった。
龍王丸は弥七を見た。
「帳も戻るか」
弥七は言葉を失った。
「米だけ戻しても、跡が残る」
弥七は、はは、と乾いた息を漏らした。
笑ったのではない。
息が、そういう音になっただけだった。
龍王丸は少し考えた。
本来なら、これは留守居に知らせるべきことだ。
老側付きか蔵役か、目付に渡すべきことだ。
若君が直接処理することではない。
それは分かる。
分かるが、今ここにいる。
目の前に、殊勝にも戻しに来た男がいる。
「明日、帳を直せ」
龍王丸は言った。
弥七は顔を上げた。
信じられないものを見る顔だった。
「よいの、でございますか」
「悪い。だが、戻しに来たことはよい」
龍王丸は答えた。
弥七がまた伏せる。答えがなかったので、再度龍王丸は言う。
「帳を直せ」
弥七は、もう一度震え、頭を下げた。
「万事、かくあるべく整えよ」
今後も働くのであれば、今夜が肝要である。
でなければ帳簿から突き止められる。
だが弥七には、龍王丸の言葉は聞こえていないようだった。
龍王丸は少し考えた。
言葉が悪いのか。
老側付きに言った時と同じか。
ならば、少し柔らかく言うべきだ。
「米は戻す」
龍王丸は言った。
「帳も戻す。心も戻せ」
弥七は、返事をしようとした。
だが声が出ない。
龍王丸はさらに考えた。
この男は何を怖がっている。
老いた自分に問うても、小首をかしげるばかりだ。
稲光。
光ってすぐに音がした。ずいぶん近いところに落ちたと龍王丸はのんきに思った。
「弥七」
落雷の音と光で思わず顔を挙げていた弥七の名前を呼ぶ。
弥七が止まった。
緊張で止まる、言葉に悩んで止まる、などではなく本当に時が止まったかのように停止した。
「博奕はやめよ」
龍王丸の言葉に返答はなかった。
雨音だけが響く。
弥七が絞り出すように言う。
「なぜ、それを」
昼の帳を見れば、米の消え方は小さい。
だが、一度ではない。
同じ名の近くに、何度か同じようなずれがある。
家の者を食わせるためなら、もっとまとまって動く。
病人のためなら、厨に回る。
借財なら、もう少し違う。
小さく、繰り返す。
そういう金の減り方は、前世でも見た博奕のそれと似ていた。
ゆえに博奕と口をついた。それだけだった。
龍王丸は、強く責めたつもりではない。
忠告のつもりだった。
だが、弥七は息をしていないように見えた。
「若、君」
「うん」
「なぜ、それを」
弥七は、それ以上言えなかった。
龍王丸は首を傾げた。答えようのない問いだった。
稲光。今度はもっと近い。
音が引いた後、問いに答えた。
「わかるのだ」
弥七は、今度こそ膝をついた。
雨で濡れた土間に、膝がつく。
衣が汚れる。
それでも構わないというように、深く頭を下げた。
「すべて片づけられるか。己の手で」
龍王丸は言った。
「はい」
「米のことも、書け」
「はい」
「誰に売り渡したかも、書け」
弥七の肩が跳ねた。
龍王丸は、そこで少し迷った。
誰に渡したか。
これは言い過ぎたかもしれない。
この場で追えば、弥七だけでは済まない。
蔵の者、厨の者、外の者。
どこまで伸びるか分からない。
だが、書かなければ、また同じことが起きる。
龍王丸は、自分の中で手綱を引いた。
今夜はここまでだ。
「いえぬならばよい。その者とは関わらぬと誓え」
「誓います」
弥七が顔を上げかけた。
「で、あるならばよい」
弥七は、また頭を下げた。
龍王丸は頷いた。
「戻した米は、濡らすな」
弥七は、はい、と言った。
ようやく声が出た。
龍王丸は背を向けた。
雨音は変わらない。
蔵の前には、弥七が膝をついたまま残っている。
龍王丸は歩きながら、少し考えていた。
悪くはなかったはずだ。
米は戻った。
帳も戻る。
弥七も残る。
金に困ったときは、次は先に言うだろう。
ならば、よい。
そう整理しようとして、胸の奥に小さな違和感が残った。
弥七の顔だ。
戻せと言った時。
帳に出ると言った時。
博奕はやめよと言った時。
そのどれも、必要以上に刺さっていた。
なぜだろう。
龍王丸には、まだ分からなかった。
廊下へ戻ると工藤と宮田が膝をついていた。
彼らは今のやり取りを見ていたはずだが、何も言わなかった。
「ご苦労」
そういうと頭を深く下げた。
雨音がすべてを隠している。
泥に沈んだ小さな足跡も、すぐに雨水で崩れていく。
まるで、最初から誰も通らなかったかのようだった。
二人を伴って部屋に戻る。工藤と宮田は何事もなかったかのように、元の待機場所に座った。
また幸いなことに、女房はまだ眠っていた。肝が太いと龍王丸は感心する。
龍王丸は、自分で濡れた裾を少し払った。
泥はついていないが、少し透けている。だが、暗がりでは分からないだろう。
夜が明ければ、この痕跡も消えるだろう。
満足し布団へ戻る。
幼い体は、今度こそ眠気を訴えてきた。
だが、眠る前に、龍王丸はひとつだけ思った。
名を呼ぶのは、よくないのかもしれない。
前世でも、そういうことはあった。
名を出せば、責任が定まる。
責任が定まれば、相手は逃げにくくなる。
だから、場によっては名を伏せる。
現に弥七と呼んだ時、彼は固まってしまった。
龍王丸は布団の中で、目を閉じた。
次は、気をつけよう。
そう思った。
その程度の反省で、足りると思っていた。
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弥七は這う這うの体で、自分の家に帰った。
ずっと、あの若君の声が耳の内側から消えない。
雨音がかき消してくれない。
殊勝である。
万事、かくあるべく整えよ。
博奕はやめよ。
弥七。
弥七は、最後に呼ばれた自分の名を、何度も聞いていた。
若君は、怒鳴らなかった。
捕らえよとも言わなかった。
斬れとも、縛れとも、罰せよとも言わなかった。
ただ、名を呼んだ。
それだけなのに、怖い。
それだけで、弥七には脳髄の奥の奥まで見られ、自身のあさましい博奕狂いの様を咎められたように思えた。
いや、博奕だけではない。
常日頃の愛想の悪さ、同輩に対するほのかな軽蔑心、姉の最初の見合いを難癖付けて壊したこと、酒癖が悪いこと、親に説教された過去の失態が頭から離れない。
それに加えて、日々の仕事への取組み方もだめだ。同時期に雇われた役人はもっと大きな仕事を任されている。
なのに自分はどうだ、書類の書き損じは少なくならず、さぼっているのを上役に覚えられ、あいつはだめだと内心侮られている。
龍王丸の言葉がまたも響いた。
わかるのだ。
わかるんだ、あの人はわかるんだ。
自分がひどい人間だということをわかっているんだ。
博奕場の薄暗い灯。
借りた銭。
米を少しだけ抜いた夜。
明日返せばよいと思ったこと。
一度だけのつもりが、二度になったこと。
二度目が三度目になったこと。
このような悪行をなんとも思わなくなったことを、わかっているんだ。
どうすればいいんだろう。
龍王丸様、どうすればよいのでしょうか。
知らず知らずのうちに弥七は部屋の隅に丸まっていた。
稲光。
ひっ、と喉から声が漏れた。
悪いことをすると、地獄に落ちるからね。
今度はずっと前に亡くなった母親の言葉が浮かんだ。
そうだ、地獄に落ちるのだ。
でも地獄は嫌だ。普段は笑い飛ばしていた言葉が今は笑えない。
あんな怪物を自分に遣わせるのだ、きっと地獄はある。あんな怪物がうようよいる地獄があるのだ。
龍王丸様、どうすればよいでしょうか。
弥七の手は祈りの形をとっていた。神仏を拝むように両の手をすり合わせる。
稲光。
そして、また龍王丸の言葉が弥七に響いた。
万事、かくあるべく整えよ。
「そう、か」
万事、正しく整えなければいけない。
そう考えると、すとんと、弥七は納得した。恐怖が消えた。
正しくないことをするから、神仏のたぐいが罰を下すのだ。
万事、自分の手の届く範囲で、正しくすればよい。悪をただせばよい。
では、自分の手の届く最も大きな悪とはなんだ。
答えは決まっていた。
雨音が徐々に強くなりだしていた。




