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面白いことになった。


いや、面倒なことか。


龍王丸は久方ぶりに、心が浮いていた。


もともと、いや、前世から物覚えは良い方だった。応用も効く方だった。

だが、現世は少し勝手が違った。


ものごとを考える中で、勝手に頭が動く。

知識が結びつき、ああ、あれはこういうことか、こうすればよかったかなど、前世の思い出まで勝手に照らし始める。


それは良いことだ。

過去の経験と知識を、若い脳でふるまわせる。


そう人に言われれば、龍王丸は首を横に振っただろう。


暴れ馬なのだ。


先ほど千代丸に言った通り、心が体に引っ張られる。


若い脳が、もっと知りたいと、ああ、こうしたいと暴れまわる時がある。

それを必死に手綱をつけ、今川の若君らしくしろ、皆に迷惑をかけるなと、老いた自分が言い聞かせ、ようやく落ち着いている。


が、いかんせん、その老いた自分が許した言葉すら、たびたび周囲の人間を唖然とさせる。


この度の帳簿騒ぎも同じだった。

老側付きに述べた言葉はまずく、目の前にどんと帳簿が並べられた。


本当は少し読んで、わかりませぬ、などと言おうかとも思った。

幼子としては、それでよい。

頭を下げて終わらせれば、場も収まる。


だが、前世の知識を鏡とし、その帳簿を照らし合わせる行為が面白い。


あれはこれで、こちらはこうでと、判じ物を解くように知識が活用され、一つの図面が完成していく。

気が付いたころには、ほぼすべての帳簿を読み終えていた。


龍王丸の目に、灯された蝋燭の火が映った。


日が落ちている。


帳は、思っていたよりも多かったのだ。


蔵の出入り控え。

厨への払い出し。

雑穀の控え。

米俵の札。

川止めの日を記した覚え。

荷を運んだ者の名。

船を出した者の名。

蔵へ入れた日と、蔵から出した日。


紙はどれも少し波打っていた。

墨は滲んではいないが、乾いた紙の軽さはない。


老側付きの爺は、背を伸ばしていた。

長時間もの間微動だにしない彼に、龍王丸は内心驚いた。


龍王丸に今川の御蔵を見せるのだ。

粗略などない。

今川の御蔵は正しく、粥に雑穀が混じったのも長雨のせいである。


そこに微塵の疑いはないように思えた。


「御覧あれ」


老側付きは言った。


「今川の御蔵に、粗略はございませぬ」


龍王丸は、その言葉に頷かなかった。

否定もしなかった。

ただ、並べられた帳を見ている。


どうしようかと考えあぐねた。


岡部与一郎は、その横に控えていた。


落ち着かない様子で視線を右往左往させている。

この屈強な若衆は、意外にも肝が小さい。


いや、と龍王丸は否定する。

この男は何かにつけ、気を配りすぎる。


今なお、場を治めるにはどうするか、などと考えているのだろうと想像ができた。

ゆえに、龍王丸は頭を下げて終わらせようか、と決めかけた。


そうして、老側付きを見たとき、彼は固い顔で言った。


「気になることがあるのであれば、なんでもお答えいたしますゆえ」


その一言で、胸の暴れ馬がはねた。


「一つ、これは何だ」


龍王丸が指をさす。


「これは蔵の出入りでございます。こちらは厨への払い。こちらは雑穀の控え。これは長雨で荷が遅れた日の覚えにございます」


龍王丸は、ひとつずつ指していく。そのたびに答えが返る。


唐突に始まった問答。


その幼い指が紙に触れるたび、周りの者たちは妙に息を詰めた。


触れられた紙が、責められているように見えたからである。


龍王丸は、一通り答えを聞いた後、しばらく何も言わなかった。


黙って見る。

先ほどまでの熟読とは違い、紙を少し動かす。


別の控えを見る。米俵の札を見る。

また最初の控えへ戻る。


手遊びのようなことを繰り返していく。


そんな動きを見て与一郎も老側付きも徐々に困惑の色を強くしていた。

しかし、龍王丸の言動にも慣れた者たちであるため、じっと身動きはしない。


ただ、今日は勝手が違った。


老側付きの後ろに、帳簿係や蔵役、下役たちが控えていた。

帳簿を唐突にもってこいといわれた者達だった。


普段はお目通りのかなわない御曹司の行動に目を白黒させながら、脂汗をかいている。


そして龍王丸の指が、ある日付の上で止まった。


「三日前」


声は小さかった。

だが、部屋の者たちは皆それを聞いた。


帳簿係が、は、と顔を上げる。


龍王丸は、もう一度言った。


「三日前、雨」


老側付きが眉を寄せた。


「雨は、降っておりましたな」


龍王丸は顔を上げない。


「川は」


帳簿係が、少し戸惑ったように答えた。


「川、でございますか」


「三日前の川」


蔵役の一人が、あ、と口を開いた。


「あの日は増水にて、渡しは止まりました。朝から水かさが増え、昼には渡れぬと」


龍王丸は頷かなかった。

ふうん、とうなるだけだ。


多少は自分の好奇心が収まるのを期待したが、駄目だったのだ。


ゆえにただ、次を問う。


「船は」


今度は由比筋の下役に視線が集まった。

確か千代丸の再従兄弟だ。名前は小次郎だったと、龍王丸は記憶している。


「小次郎、船は」


小次郎が身をふるわせた後、一歩進んで述べた。


「船も出せませなんだ。風も悪く、川口も荒れておりましたゆえ」


部屋の空気が少し変わった。


老側付きの顔から、誇らしげな色が薄れた。


龍王丸は帳の一点を指した。


「なら、この米はどこを通った」


誰も、すぐには答えなかった。


与一郎は、紙の上を見た。


そこには、三日前の日付で、米が入ったことになっていた。

それも、少量ではない。

厨へ出すための白米の控えと、蔵へ移した米俵の札がつながっている。


だが、三日前は雨だった。


川は渡れない。

船も出せない。

では、その米はどこから来たのか。


言われれば、分かる。


しかし、言われるまで、誰も見ていなかった。


「前日の荷ではございませぬか」


帳簿係が慌てて言った。


「日付の書き違いかと」


蔵役もすぐに続ける。


「蔵内の移し替えでございましょう。外から入ったものではなく、内で動かしただけかもしれませぬ」


別の者も言う。


「予備米では。厨への払いと、蔵の控えがずれたのやもしれませぬ」


大人たちは、一斉に帳を見始めた。


誰も、すぐに不正だとは言わない。

誰も、誰かを責めない。


記載違いか。

前日の荷か。

蔵内の移し替えか。

予備米か。

台帳の日付ずれか。


考えるべきことはいくつもあった。


これらのやり取りを見て、与一郎が胸をなでおろしている。


大事にならずによかったと考えているのだろう。


龍王丸は悩んだ。


この純朴な男に、帳簿をにらむ仕事熱心な男たちに、いらぬ心労を与えるやもと、少し悩んだ。


だが、どうにも若い暴れ馬が、今川の若君としての何かが、口を開かせようとしている。


止まるな、行けと言っている気がした。


「若君。帳には、ずれが生じることもございます。三日前と書かれていても、前の日の荷をその日に記したのであれば」


「なら、前の日は」


龍王丸が言った。


老側付きが止まる。


「前の日の川は」


帳簿係が、控えを見た。


「前の日も、雨にございます」


実のところ、龍王丸には問うまでもないことだった。

雨はずっと降っている。


「船は」


「出せたのは、朝のうちのみと」


「この数か」


龍王丸は、札の数を指した。


帳簿係が言葉に詰まった。

船が朝のうちに少し出たとしても、この数の米俵を動かせたか。


雨音が強くなる。


廊下の向こうで、誰かが足を止めた気配がした。


龍王丸は、さらに別の控えを見た。


「粥は白いか」


唐突な問いに、老側付きが顔をしかめる。


「粥、でございますか」


「厨の粥」


龍王丸は、千代丸を見た。千代丸はびくりとした。


龍王丸は少し嫌気がさした。どういうわけか、子供には前世から気を抜くと嫌われるのだ。

気を抜いて、素で問うと皆一様に固まってしまう。


「白いものばかりではないと申したな」


「は、はい」


「いつから」


千代丸は考え、つっかえつっかえ答えた。


「二日ほど前から……いえ、その前にも少し」


「雑穀は混ぜるか」


龍王丸は今度、厨の者を見た。


厨の下女が慌てて頭を下げる。


「長雨にて、白米の払いが細くなりましたゆえ、少しだけ」


「少し」


「はい」


「二割、いや十炊く飯の内、二が雑穀ならはっきりわかるか」


厨の者は口を開けたまま固まった。


「十の内、三なら」


誰も答えない。


与一郎も、他の者も、ごくりと唾を飲んだ。


皆、数字の意味が分からないわけではない。

白米に雑穀を混ぜる量の話だ。


十の内、二なら分かるか。

三なら分かるか。


つまるところ龍王丸は、ただ粥が白いかどうかを聞いているのではない。


白米がどれだけ減り、雑穀でどれだけ補われたのか。

それを聞いている。


千代丸の椀に混じった小さな粒が、蔵の米の動きにつながっている。


ここにきて、子供の背伸びを叱る段階ではないと徐々に皆が理解していた。


詰問されているのだ。


いや、龍王丸はまだ責めていない。


誰を疑うとも言っていない。


ただ、帳と、雨と、川と、船と、粥を並べているだけだ。


それだけなのに、部屋の空気が重くなっていく。


老側付きは、額に汗を浮かべていた。


雨の湿気のせいではない。


帳簿係は、何度も控えを見直している。

蔵役は口の中で何かを数えている。

厨の者は頭を下げたまま、顔を上げられない。


その中で一人の男だけが、ひどく顔色を悪くしている。


集まった役人の中でも、下座に据え置かれた人物だ。

龍王丸が視界の端にその男をとらえた。


名前は何だったか。出てこない。

名乗られた覚えがないのだ。それゆえに帳簿を頭の中で開き、先ほどおかしいと思った項を浮かべた。


弥七。


そう、そんな名が帳簿の記入者としてあった。


まさに、龍王丸が名前を思い出したその時、その弥七と目が合った。

彼は一瞬目を大きく見開き、停止し、即座に頭を下げ、他の者と同じように帳簿に目をやった。


まあいい。


龍王丸はもう弥七を見ていなかった。


だが、弥七は違った。

じっと脂汗をかきながら、肩に力を入れ、大きな力に頭を押さえられているかのように、首を垂れていた。


そんな中、老側付きが、ようやく声を絞り出した。


「若君」


「うん」


「これは、調べさせます」


龍王丸は顔を上げた。


「何を」


「その、帳のずれを」


「ずれか」


老側付きは言葉を失った。

龍王丸は、少し考えるように帳を見た。


弥七はもう見ない。


「ずれなら、直せ」


「は」


「米なら、探せ」


その言葉に、蔵役たちが頭を下げる。


龍王丸は続けた。


「雨なら、次は止まる前に移せ」


誰も返事をしなかった。

その言葉が、責めているのか、命じているのか、ただの考えなのか分からなかったからだ。


龍王丸は、最後に千代丸を見た。


「千代丸」


千代丸は慌てて頭を下げた。


「はい」


「そなた、粟なら問題ないようだ。ゆえ、混ぜ物のことはあまり気に病むな」


龍王丸は頷いた。

千代丸が、ただ何も言わずさらに深く頭を落とした。


それから、帳の上に置いていた手を離した。


「もうよい。ご苦労だったな」


部屋の空気がわずかに緩んだ。

老側付きは深く頭を下げた。


帳簿係も、蔵役も、厨の者も、それぞれに頭を下げる。

弥七だけが、少し遅れた。


それから龍王丸は立ち上がった。

幼い手で衣の裾を整え、いつものように静かに礼をする。


その所作は美しかった。文句のつけようもない。

龍王丸は老側付きが、何も言わないのを確認してから、立ち上がり部屋を後にした。


幾人かに付き添われながら、廊下を歩く。


龍王丸の胸中の暴れ馬は落ち着いていた。

老成した自分がそれを少し、苦い顔で見ていた。


帳簿係、老側付きらには面倒をかけたことが少し気になる。

長い時間、自分の興味のために振り回すのはだめだ。


では、どうするか。龍王丸は自分に問うた。

前世と変わらないやり方だ。まずいと思ったら問う。

納得いくまでやればよい。自分自身には遠慮は不要だ。


次は改める。

何を。

言葉、気遣いを見せること。

それだけか。

許すことも重要だ。

答えられなければ、その時点で許すべきだ。無知は罪ではない。


老成した自分が、うん、と納得した顔をした。


龍王丸は納得した心地で、自室へと足を向けた。


---


部屋の者たちは息を詰めた。


龍王丸が去った後も、しばらく誰も動かなかった。

これもいつものことだった。

あの若君の影を、言葉の余韻が重い。


雨音だけが残っている。


老側付きが低く言った。


「帳を改めよ」


帳簿係が慌てて返事をする。

蔵役たちが控えを集め始める。

厨の者はまだ青い顔をしていた。


役人の一人、弥七は、廊下の方を見ていた。


暗い廊下だった。

月明りもないため、まるで飲まれるような暗さだった。


雨は止まない。


帳の紙は湿り、米の匂いは鈍く、廊下の向こうでは水の落ちる音がしていた。


残された一人、与一郎は先ほどの若君の言葉を思い出した。


ずれなら、直せ。

米なら、探せ。

雨なら、次は止まる前に移せ。


それは、ただの言葉だった。


ただの問いであり、ただの沙汰にも満たぬものだった。


だが、与一郎には分かり始めていた。

龍王丸の言葉は、鋭くささり、そして抜けないのだ。


無視をすることはできない。

そのことを、若君はまだ知らないのかもしれない。


そう思った瞬間、与一郎は身震いした。


寒かったのではない。


雨のせいでもない。


ただ、駿府館の奥に、何かが開いた気がした。


それは蔵の扉かもしれない。


あるいは、若君の目かもしれないと与一郎は思った。


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