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雨は、まだ止まなかった。
駿府館の屋根を、同じ調子で叩き続けている。
庭の土は、もはや土というより泥であった。
踏み石の周りには水が溜まり、青苔は色を濃くし、廊下の端には湿った匂いが居座っている。
卵粥の一件から、幾日かが過ぎていた。
由比千代丸は死ななかった。
下賜された卵を吐き出したことも咎められなかった。
そのことは、館の者たちを安堵させた。
だが、安堵だけではなかった。
「もうよい」
あの声が、龍王丸の声が耳に、胸中に残っている。
あの沙汰はよかったのだろうか、若君を止めるべきではなかったろうか、そんな言葉があの場にいた皆の頭を時折よぎるのだ。
それは与一郎も同じだった。
若君、若君。
問いかけたい、色々と話したいそんな欲がある。
されど、若君に投げかける言葉は形にならず、形にならない無意味な問いだけが、
雨の湿気のように与一郎の心に残っていた。
しかし、そんな懊悩とは別に日々は淡々とすすんでいった。
千代丸は、しばらく膳の量を減らされた。卵は出されなかった。
出されたとしても、龍王丸の命で、岡部与一郎が片づけることになっていた。
それだけだ。
与一郎らが龍王丸と膳を一緒にすることはなくなった。
だが、今後、千代丸の卵はそなたが片づけよ。
あの一言を、与一郎は食事の前に何度も思い返していた。
大した役ではない。
卵を片づけるだけだ。
だが、若君に名を呼ばれ、役を与えられた。
しかもそれは、千代丸を案じていた与一郎の心を、見透かしたような役だった。
与一郎は、それが妙に落ち着かなかった。
嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からない。
ただ、千代丸の膳に卵がないかを見る癖はついた。
その日も、与一郎は膳の前で目を走らせた。
卵はない。
白い粥。
いや、白い粥の中に、何か小さな粒が混じっていた。
粟か、稗か。
与一郎には、よく分からない。
ただ、米だけではないことは分かった。
千代丸も、それを見ていた。
顔色はまだ薄い。
だが、前のように喉を押さえて苦しむことはない。
卵がなければ、少しは食べられるらしかった。
食後、その日は千代丸と与一郎が龍王丸の側についた。
龍王丸は与一郎には理解できない漢書を読み、一定の間隔でそれをめくっていた。
わかっていない。賢しらぶって格好つけているだけ。
国元に残した同い年の弟がそうしたならば、そのようにからかう与一郎だが、
若君にはそんな感想は抱かなかった。
むしろ何を得ているのだろう、それはそんなに面白いのか。
と、あまり興味のそそられなかった漢書が、無性に気になった。
そんな中、若君の読書が終わったころを見計らい、千代丸が前へ進み出た。
誰も止めはしない。あらかじめ、礼を言いたいと、周囲に伝えていたのだ。
ただ、まだ足取りは弱い。
それでも、きちんと膝をつき、頭を下げた。
「若君」
龍王丸は顔を上げた。
その目を受けて、千代丸は一瞬、言葉に詰まった。
与一郎は横で見ていて、少しだけ千代丸に同情した。
若君に見られると、言葉が軽くならない。
ただの礼でさえ、何かを裁かれるような心地がする。
「先日のこと、ありがとうございました」
千代丸はそう言った。
龍王丸は、しばし千代丸を見た。
「忘れた。そなたも忘れよ」
それだけだった。
千代丸は困ったような顔をした。
礼を言えば、どう返されるかくらいは想像していたのだろう。
だが、若君の返事は、どこか礼の外にあった。
与一郎も同じことを思った。
下賜された品を吐いたこと、若君の御前を汚したことをなかったことにする。
それは悪い言葉ではない。
むしろ、千代丸を案じていると言えなくもない。
だが、そう聞こえにくい。
千代丸は少し迷い、それでも続けた。
「では、先日とは別のこととして、私は、卵がいけないのでしょうか」
「さて」
龍王丸はあいまいに答えた。
千代丸は目を瞬かせた。
この聡明な子供が、未来の主君が言葉を濁すのが気になったのだ。
非礼と思いつつも、重ねて尋ねる。
「さて、にございますか」
「少しずつ馴らせる者もあろう。だが、そなたはせぬ方がよい」
龍王丸は膝の上に置いた手を見ながら言った。
「それでは嫌いなものはすべて除けなければいけませぬ。というより見知らぬものは何も口に入れられませぬ」
そうさな。とつぶやき龍王丸の目が中空をにらんだ。
珍しい。迷っている。
その場にいる、側仕えが、女房が、護衛が、龍王丸の迷いに口を挟むのをためらう。
しばしの逡巡の後、龍王丸が言う。
「食って苦しくなった。そして、次は避ける。ほかにあるまい」
千代丸は小さく頷いた。
与一郎は、妙な言い方だと思った。
普通なら、大事ないか、と言う。
もう食べるな、と優しく言う。
あるいは、厨に命じて気をつけさせる。
だが、龍王丸の言葉は違う。武芸の師匠のようなことを言う。
千代丸は、少しだけ顔を上げた。
「その、若君は、食えぬものがあるのを、変だとは思われませぬか」
「いや、思わぬ」
今度はぴしゃりと断言した。強い言い切りに与一郎は背筋が伸びた。
だが、千代丸は続ける。か弱い弟分と思っていた千代丸の、胆力に内心与一郎は驚いた。
「ですが、皆は千代丸が軟弱であるからだと申します。甘え癖が心身にしみ切っているから、他人と同じように食えぬのだと」
「関係ない」
千代丸の肩が少し動いた。
龍王丸は続ける。
「というより逆だ」
「逆にございますか?」
龍王丸の白魚のような指が、何かを空に描いた。
「心も、体と頭に引かれる」
ははぁ、と千代丸が分かったような分からないような声でうなる。
「体が弱れば、何も食えまい。食べずにいれば何も治らん。治らずいれば、また何も食えまい」
その、と千代丸が恐る恐るいう。
「それは当然のことでは?」
あ、馬鹿、と与一郎は千代丸の頭をすぐに下げさせようかと思った。
だが、代わりに小さな笑い声が聞こえ、浮いた腰が止まった。
くく、と龍王丸が笑っていた。
「そう、そうさな。当然のことだな」
貴人の母親から生まれた御曹司は、皆の予想を裏切り男臭い笑い方をした。
「だが、時折皆忘れる。食べねば弱るということを頭から抜け落とす」
初めて見る笑いに、与一郎と側付きたちは呆然としていた。
しかし、千代丸は違ったようだ。
すこし、むっとした顔で年上の兄にいうように続けている。
「その言はわかりますが。では、私は何を食えばよろしいのでしょう。
食えば苦しくなり、食わずとも弱ります。これでは神仏に死ねといわれているようなものです。」
「食えるものを食え」
龍王丸はまたもぴしゃりと答えた。
千代丸はまた困った顔をした。
与一郎は、ここで思わず口を挟みたくなった。
若君、それでは答えになっておりませぬ。
喉のすぐそばまで言葉が上がってきていた。
だが、言わなかった。
龍王丸がこちらを見る気配がしたからだ。
「そのためにも食って苦しくなるものは、覚えろ」
龍王丸は言った。
「食って平気なものも、覚えろ」
千代丸は、はい、と少し不承不承気に答えた。
龍王丸は気分を害したところを見せない。
小さく頷き、締めくくる。
「さすれば、多少は生きやすくなる」
千代丸は腕を組み、うんうんとうなっていたが、思い出したように言った。
「ですが、勝手に椀に混じるものはどうしようもありません。」
ぴくりと、龍王丸の柳眉が上がった。
空気が変わったのを与一郎は感じた。
「この頃の粥は、白いものばかりではありませぬ」
目を細め、千代丸に先を促す。
龍王丸がようやく見せた人間味はもはや微塵も感じられない。
「白いものばかりではない」
「はい」
「何が混じる」
千代丸は少し考えた。
「小さな粒でございます。米より硬く、噛むと少し匂いが違います」
「粟か」
「厨の者は、長雨だから仕方ないと申しておりました」
龍王丸は黙った。その視線は外に向いている。
雨音が、ふいに大きく聞こえた。
与一郎は、なぜ若君が黙ったのか分からなかった。
粥に米以外のものが混じる。
それは、珍しいことではある。
だが、今は長雨だ。
蔵も湿り、川も増え、荷も遅れる。
厨の者が言う通り、仕方ないことなのではないか。
龍王丸は、ぽつりと言った。
「今川でも、そういうことがあるのだな」
その場が、わずかに固まった。
与一郎は、まず老側付きの顔を見た。
色々と奥から仰せつかっているようで、老側付きの爺は、同年代の人間が龍王丸に親しむことを多少許す。
幼児らしさを見せることを望んでいるのだ。
ゆえに千代丸の無礼な問答の間、老側付きの爺は口元を引き結んでいた。
しかし、この言葉は聞き捨てならなかったのだろう。
「若君」
老側付きの声は静かだった。
だが、静かすぎた。
「今川の御蔵を、そのように申されては困ります」
龍王丸は老側付きを見た。
驚いたようではない。
怒ったようでもない。
「そのようとは」
「御蔵の備えが悪いと聞こえることでございます」
龍王丸は言った。
「良し悪し、蔵の備えにあるか」
「ございます。今川の御蔵はようございます」
「なぜそう言える。今川だからか」
老側付きの眉が、さらに寄った。
その言葉が、なお悪かった。
与一郎には分かった。
龍王丸に悪気はない。
おそらく本当に、なぜ良いといえるのかという意味なのだ。
しかし、老側付きには別の意味に聞こえたはずだ。
今川の御蔵が悪い、それをとがめているように聞こえたのだろう。
老側付きが努めて平静に言う。
「御蔵は、御家の命にございます」
「それはわかる」
「御屋形様が遠江にあられる今、駿府にある蔵を軽んじることは、今川を軽んじることに同じでございます」
「それもわかる」
老側付きは続けた。
「粥に雑穀が混じることはございましょう。長雨で米の扱いが難しき折もございます。
されど、それは粗略ではございませぬ。まして、御蔵に歪みがあるなどと」
「歪みとは言っておらぬ」
「言わずとも、聞こえるのです!」
老側付きは言ってしまってから、わずかに顔を伏せた。
若君に向かって、強く言いすぎたと後悔しているようだった。
常日頃から何か言いたいという、気持ちがあり爆発したようにも与一郎には見えた。
恐る恐る与一郎は龍王丸を見る。
やはり、そして、不思議にも動じていなかった。
ただ、少し首を傾げた。
「そうさな。言葉が悪いか。ただ、蔵の良し悪しが気になるだけだ」
与一郎は、思わず目を伏せた。
同じことです、若君。
そう言いたかった。
だが、言えない。
老側付きも、一瞬何かを言いかけ、結局やめた。
龍王丸は、真面目に答えているのだ。
だからこそ、余計に始末が悪かった。
老側付きは深く息を吸った。
「よろしゅうございます」
女房たちが顔を上げた。
与一郎も、はっとする。
「御覧あれ。今川の御蔵が、いかに扱われているか。若君が御覧じても恥じるところはございませぬ」
「見ればわかるか」
「わかりますとも」
「では拝見しよう」
龍王丸は即答した。
老側付きは、近くの者に目をやった。
「蔵の控えを持て。厨への払い出しもだ。雑穀の控えも。川止めの日の荷も分かるものを呼べ」
命じられた下役が慌てて立った。
雨音の中、足音が廊下へ消える。
千代丸は、口を半ば開けたまま固まっていた。
自分の粥の話が、なぜ御蔵の話になったのか分かっていないのだろう。
与一郎も、半分は分からなかった。
ただ、一つだけ分かった。
今日もまた、小さなことでは終わらない。
龍王丸は、もう千代丸を見ていなかった。
老側付きも見ていない。
外を、雨雲を、はたまたその先にある、何かを見ていた。
しばらくして、帳が運ばれてきた。
蔵の出入り控え。
厨への払い出し。
雑穀の控え。
米俵の札。
川止めの日を記した簡単な覚え。
それらが、若君の前に並べられていく。
老側付きは胸を張っていた。与一郎にはわかる。
もう勢いでやっているだけだ。
今川の御蔵に、粗略はない。
それを示すために持ってこさせたが、内容については老側付きはすべてを理解してはいないだろう。
無論、それはようやく文書の一端に触れるようになった与一郎もだ。
ああ、さすがに若君、龍王丸様も頭を下げて終わるかもしれん。
与一郎も、そうであってほしいと思った。
でないとことがさらに大きくなると考えていた。
龍王丸は、並べられた帳を見た。
まだ四つの幼子である。
聡明、神童、麒麟児と称えられても、文字をすべて読めるわけではない。
そんな思いが与一郎の胸に飛来する。
だが、その目は、粥の椀を見た時と同じだった。
何かを、覚えておく者の目であった。
雨は止まない。
帳の紙は、湿気を吸ってわずかに波打っていた。
与一郎は、その波打つ紙を見ながら、胸の奥が重くなるのを感じた。
何もわからない。そのはずだ。
しかし、胸が弾む。
今度は、何を見るのだろう。
そう思った。
答える者はいない。




