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雨が続いていた。
駿府の空は、幾日も低く垂れこめている。
山の端は白くけぶり、庭の土は踏めば靴底にまとわりついた。
屋根から落ちる雨垂れは、細い縄のように途切れず、廊下の端には湿った風が忍び込んでくる。
駿府館の奥もまた、湿っていた。
衣の裾は重く、畳はわずかに冷え、炊事場から上る湯気にも晴れの日の軽さがない。
厨から漂う米の炊ける匂いも、どこか鈍かった。
駿河の空気を鈍くする理由はほかにもあった。
御屋形様、今川修理大夫氏親の身が遠江にあったのだ。
悲願であった駿河、遠江の統一はなされたが、火種は残っている。
それゆえに当主自ら、遠江の国人を鎮め、安堵を出し、城を改め、道と川を見ている。
駿府に残る者たちは、それを当然のこととして受け止めていたが、当主不在の館には、常に薄い緊張があった。
奥向きにいる女房たちは声を低くし、近習たちは廊下を走らない。
留守居の老臣たちは、いつもより少しだけ眉間に皺を寄せている。
その中で、今川の若君は四つであった。
龍王丸。
今川修理大夫氏親の嫡男である。
幼い子であるはずだった。
いや、幼いことは幼い。背は小さく、手もまだ丸い。声も高い。歩く姿にも、子供らしい危うさがある。
ただ、どこか違っていた。
泣かず、騒がず、怒らず。
人が言うことを聞いていないようで、聞いている。
一度聞いた名を、ふいに口にする。女房が置き忘れた小物に気づく。廊下を渡る者の足音を聞き分ける。
それを利発と褒める者もいた。
だが、近くに仕える者ほど、褒める言葉を少し濁した。
賢い、とは言える。
けれど、それだけで済ませてよいのかは、分からない。
岡部与一郎は、その日も若君のそばに控えていた。
岡部庶流の若い近習で、まだ正式に重い役を任されるほどではない。
文書見習いとして手習いもしており、奥向きと表の間を走らされることも多い。
与一郎は、まだ龍王丸に慣れていなかった。
幼子の相手は幾分か慣れている与一郎だったが、相手が今川の御曹司ということで緊張していた。
いや、これは緊張ではない、と与一郎は自分で胸中を否定した。
落ち着かないのだ。
若君は幼い。幼いのに、こちらの心構えが乱れる。
うかつに見られると、自分が何かをし忘れているような気がする。
実家では太々しいと評判だった与一郎であるが、龍王丸の前では身の置き場がないのだ。
その日、昼の膳が運ばれてきた。
長雨で冷えた体を温めるため、厨では粥が炊かれていた。
米を柔らかく煮て、そこへ鳥の卵を落としたものだ。
卵は貴重である。滋養によいとされ、病み上がりや体の弱い者に出される。
龍王丸付きの老側付きが、食事の前にこれが奥の慈悲であることをこんこんと述べる。
それから若君の膳にも、側付きの子らの膳にも、それは少しずつ分けられた。
由比千代丸にも出された。
千代丸は、氏親に従う駿河衆、由比の庶流から出された子である。
年は龍王丸より少し上だったが、体は細い。顔色は常に薄く、雨が続くとすぐに咳をした。
立っているだけで疲れる日もある。
それでも、千代丸は真面目だった。
少なくとも与一郎の目にはそう映っていた。
呼ばれれば返事をし、膳が出れば礼をする。
若君のそばにいる時は、できるだけ背筋を伸ばす。
体が弱いことを、本人がいちばん気にしているようだった。
与一郎はこの千代丸を国元に置いてきた弟に重ねていた。
女房の一人が、千代丸の前に粥を置いた。
「千代丸、少しでも召し上がれ」
千代丸は小さく頷いた。
椀の中で、卵の黄が淡く広がっている。
白い粥に混じるそれは、見た目にも温かそうだった。
味わって食えばよい、と横目で与一郎はその様子に満足した。
「滋養に良いものにございます」
女房は優しく言った。
千代丸は匙を取った。
それを見て、老側付きの爺も頷いた。
「食べねば力はつかぬ。みな米一粒たりとも残すでない。
無論、若君の御前で、好き嫌いを申すものではないぞ」
元気のよい子供らの、はい、という声が響く。
千代丸も少し遅れ、はい、と答えた。
なんだ珍しい、と与一郎は疑念を抱いた。
体が悪くとも、千代丸は返事だけはしっかりする。
だが、微動だにしない龍王丸を見て、声をかけようかなどという気遣いは与一郎から消えた。
龍王丸が静かに、そして美しい所作で膳に手を付ける。
それを見て老側付きは満足そうにうなずき、それから与一郎らに視線をやった。
食ってよい、ということだ。
与一郎の空腹は正直我慢の限界だった。それゆえにがっつくように膳に手を伸ばした。
与一郎の想像通り粥はうまかった。
普段の粥とは違う卵を溶かしたそれは、言葉にできぬうま味があり、気が付けば空の椀を物欲しげに眺めていた。
そして、横を見ればほかの子供らも同じだった。
ただ一人違うのは、龍王丸。
彼は食事を始めたときと変わらず、淡々と作法通りの食事を続けている。
普段、彼はこのような場で膳を共にしない。なにせ大今川の御曹司、貴人である。
それが卵が出るということで、このような場になった。
どういうことだ、俺たちの卵粥になにか興味でもあるのか。
与一郎にしてみれば、食事は数少ない気の抜ける場だ。
正直言えば、この普段はおとなしい若君の思い付きには辟易した。
そのような思案の中、こつん、と何かを落とす音が響いた。
あ、馬鹿。なにもこんな場で、粗相するなよ。
与一郎は間抜けな同輩は誰だと、横を見た。
すると真っ青な千代丸が椀を取り落とし、うめいていた。
千代丸は喉を押さえていた。口を開けようとして、うまく息が入らないように肩を上下させる。
「千代丸?」
女房が声をかけた。
千代丸は答えない。
額に汗が浮いている。
顔は青い。唇の色も悪い。
老側付きが眉をひそめた。
「いけませぬ。若君の御前で、そのような」
千代丸は、首を横に振ろうとした。
しかし、喉が鳴るだけだった。
「好き嫌いを申してはなりませぬ」
心配そうな声色で、別の女房が言いかけた。
言葉だけはしかりつけるようだが、千代丸の背をさすっていた。
その時、にわかに声が響いた。
「もうよい」
声は高い。
子供の声である。
だが、部屋の空気が止まった。
与一郎は、思わず龍王丸を見た。
若君は座ったまま、その母譲りの切れ長の目で千代丸を見ていた。
怒っているのではない。驚いた顔でもない。
ただ、千代丸の顔、喉、肩の動きを見ていた。
「千代丸の膳を下げよ」
龍王丸は続けた。
「食えぬのだ。千代丸の咎ではない」
誰も、すぐには動けなかった。
老側付きが口を開く。
「若君、されどこの度の膳は」
「水」
言い募る老側付きに龍王丸が、ぴしゃりと言った。
与一郎が反射的に動いた。
近くの女房も、はっとして水を取る。
「口の中を出させろ」
その言葉に、女房たちは戸惑った。
幼い若君の命である。
だが、貴人から下げ渡された卵でもある。
非礼にあたらないか、そんな考えが駆け巡り、動きが遅い。
「わかった。私がやる」
龍王丸が動いた。
そうなって初めて女房が、千代丸の口に手を入れた。
千代丸が苦しそうに卵を吐き出す。最後まで千代丸が飲み込もうとしていたそれは、椀の蓋に落ちた。
よし、と龍王丸が淡々と述べ、また口を開く。
「寝かせるな。横を向かせろ。詰まる」
与一郎は、その意味をすぐには理解できなかった。
だが、千代丸が苦しげに口の中のものを吐き出した時、ようやく分かった。
仰向けに寝かせれば、喉に詰まるかもしれない。
そのくらいのことは、言われれば分かる。
しかし、言われるまで思いつかなかった。
千代丸は女房に支えられ、横を向いた。
水を少しずつ含まされる。息はまだ荒いが、最初よりは通っている。
部屋の隅で、誰かが小さく息を吐いた。
老側付きは、なおも渋い顔をしていた。
「されど若君、卵は滋養に良いものにございます。千代丸のためを思えばこそ」
龍王丸は、老側付きを見た。
責める目ではなかった。
だが、幼子に見られているはずなのに、老側付きは一瞬、返す言葉を失った。
「良いものでも、合わぬ体はある」
龍王丸はそう言った。
老側付きは口をつぐんだ。
「千代丸には、そうではなかった。この度のことは忘れよ」
「なれど」
「忘れよ」
龍王丸はそう言った。
それだけだった。それ以上、説明しなかった。
老側付きは口をつぐんだ。
女房たちも黙る。
千代丸の息は少しずつ落ち着いていった。
顔色はまだ悪い。だが、さきほどのように喉を押さえて苦しむ様子はない。
龍王丸は千代丸を見た。
千代丸も、震える目で龍王丸を見返した。
与一郎から見て、それは怯えているようでもあった。
ただ、それだけではなく、不思議がっているようでもあった。
助けられたという安堵より、なぜ分かったのかという戸惑いの方が大きい顔に見えた。
龍王丸はその目線を受けても、何も変わらない。
短く言葉を紡ぐ。
「千代丸、もう卵は食うな」
千代丸は、かすかに頷いた。
「はい」
それから龍王丸の視線が与一郎を射抜いた。
反射的に背筋が伸びた。
背筋に寒さは感じなかった。むしろ熱さを感じた。
何を言われる、今までとは違う期待があった。
「与一郎」
「はい」
すこし、上ずった声で与一郎は答える。
「今後、千代丸の卵はそなたが片づけよ」
それだけだった。
肩透かしではあったが、意外だった。
与一郎が千代丸を案じていたこと。
それを見透かされていたことがだ。
そして龍王丸は、もうそれ以上何も言わなかった。
倒れたままの千代丸の頭を撫でることもしない。
大事ないか、と声を柔らかくすることもしない。
ただ、千代丸の顔色をもう一度見て、自分の席に戻り、食べかけの椀の方へ目を移した。
その後また淡々と食事をはじめ、食事を終わると周囲の人間に礼を言って、膳を下げさせ、席を立った。
それから誰も、すぐには口を開かなかった。
老側付きの爺は、深い皺の刻まれた顔で龍王丸の座っていたところを見ていた。
何かを言いたげで、しかし言葉を選んでいるようだった。
与一郎は、その日、ずっと気もそぞろだった。
ただ若君の目が気になっていた。
若君は、助けた子を見ていた。
だが、助けた子を見る目ではなかった。
なんだったのだろうか。
なんと例えればいいのだろうか。
部屋には、雨音だけが残り、与一郎の疑問に答える者はいない。
ゆえに与一郎もまた、黙って今日の出来事を反芻していた。
千代丸は助かった。そのことは分かる。
けれど、胸の奥に残るものは、安堵と期待だけではなかった。
言葉にできないのだ。そしてそれがもどかしく与一郎に思える。
雨はまだ降っていた。むしろ食事のころより強くなっている。
庭の土を打ち、屋根を叩き、廊下の端を濡らしている。
駿府館の奥で起きたことは、小さなことだった。
由比の千代丸が粥を食べ損ね、若君がそれを止めた。
ただ、それだけである。
だが与一郎は、その小さな出来事が、ただの小さな出来事で終わらないような気がした。
「今日のことは、しばらく残るかもしれん」
思わず、言葉が与一郎の口から出た。
答える者はない。
ただ、雨音だけが、駿府館の奥に長く残っていた。




