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東京の夜は、いつも明るかった。
明るい、と言っても、そこに温かみがあるわけではない。
窓の外に広がる灯りは、星ではなく、広告と車列と高層ビルの窓明かりでできていた。
地上を走る車の尾灯は赤く、川面に映るビルの光は細かく揺れ、遠くの空は夜でありながら薄く白んでいる。
男には、それらが時折、購買を促す光と、人がどれほどの位置にいるかを示す虚飾の光に見えた。
その部屋は、都内の高層マンションの上階にあった。
広い。静かで、整っている。余計な物は少ない。
高価な家具はあるが、生活の匂いは薄い。キッチンの天板には水滴一つなく、テーブルの上にはノートパソコンと資料が整然と置かれている。
壁際の棚には、会計、法務、経営、情報処理、語学、金融の本が並んでいた。
実務書の間に資格試験の古い問題集が混じり、その背表紙は幾度も開かれた跡を残している。
男は、その部屋の主だった。
年のころは四十から五十。中年太りとは無縁の引き締まった体を、仕立ての良い服に包んでいる。
頭の先からつま先まで隙がなく、その身なりだけで、世間の尺度では上位にいる男だと分かる。
実際、男は金には困っていなかった。
地元の国立大学を出て、在学中から資格を取り、就職してからも学び続けた。
最初は専門職として働き、転職し、さらに上の職へ移り、いくつかの会社で成果を出した。
並行して投資や副業にも手を出し、いくつもの採算のある賭けに勝った。
都内のこの部屋も、無理をして買ったものではない。大学に近いことと、投資目的で手元に置いている程度のものだった。
だが、成功していることと、満たされていることは別だった。
男は、その違いをよく知っていた。
地元には、親の会社があった。
小さな会社だったが、地元ではそれなりに知られていた。バブル期にうまく逃げ切った会社であり、堅く稼いでいた。
男は子供の頃、いずれ自分がそこを継ぐのだろうと考えていた。
だから望まれるままに、合格していた首都圏の名門大学を蹴り、地元の大学へ進んだ。
家から通える国立大学だった。奨学金と特待生制度で金もかからなかった。
親は周囲に、次男は堅い、よくやる、あれなら安心だ、と言っていた。
そうだ。男は次男だった。
自分とは違う兄がいた。不思議と人に囲まれる、善人の兄だった。
男は兄を尊敬していた。ただ、一つ文句をつけるのであれば兄は反抗期が強かった。
地方の古い人間関係も、親の会社も、親の期待も嫌い、東京へ進学した。
そこまではよかった。自由意志の範囲だ。それくらいは咎められるものではない。
だが、兄は途中で戻ってきた。
子供ができたからだった。
大学を辞め、地元へ帰り、家に入り、やがて会社に関わるようになった。
親とも和解し、周囲は喜んだ。長男が戻ってきた。孫もできた。家は続く。会社も続く。
その時、誰に言われずとも男は悟った。
自分は不要だ。
怒りではなかった。悲しみでもなかった。
その不要だという言葉が、しんと胸の中心に下りてきたのだ。
このままいくと骨肉の争いになること。そしてその争いは、親の愛の差で自分が負けることも理解した。
ただただ時間を、人生を浪費し、疲れ切るような一生になると想像できた。
だから、男は地元を離れた。
東京へ出た。親の会社は継がなかった。兄の領分に入らなかった。誰かと争う前に、自分の生活を切り分けた。
親は止めなかった。
ほっとしたような顔をしていたのを覚えている。
その判断は正しかった、と今、男は思っている。
少なくとも、数字の上ではそう出ている。
男は成功した。一般的なサラリーマンの生涯年収よりも大きな金を扱い、安定した収入を得た。
ただ、代償として体はあちこち壊し、第一線を離れることになった。
そのことで会社を恨んでいたりもしない。
死ぬほど忙しいが、死ぬほど稼げる、自分をオファーした人物が述べた言葉通りだったからだ。
ゆえに言葉通り稼いだ後は、細々と趣味の書道を続け、
学生時代に本当はやりたかった勉強をし、興味のあった資格を取るなど、これはこれで楽しんでいた。
ただし、ついぞ家族の輪の中にはいなかった。
体を壊したことを伝えても、見舞いはなく、ただ兄嫁から、面倒は見られないと暗に伝えられた。
それからは、こちらから連絡を取ることを控えた。
男は、それでよいと思っていた。
揉めないために離れたのだ。
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だがある日、甥が来た。
事前に連絡はあった。相談したいことがある、とだけ書かれていた。
男は予定を空けた。何のことはない、大学の講義や趣味を手控えるくらいのことだ。
甥は兄の長男だった。
大学生、のはずだった。何回生だったかは覚えていない。そもそも、伝えられてもいないのだ。
夜更けごろ、十年ぶりぐらいになる甥は、背を丸めてマンションにやってきた。
顔を見れば分かる。疲れている。
目の下が暗く、着ているものにも気を配る余裕がない。髪は整えてあるが、爪の先に落ち着きのなさが出ている。
さて何か注意するべきかと男は思った。
何か頼みごとをするときのアポイントメントのとり方、部屋の上り方、挨拶、服装、知らねば損をすることが世の中には多くある。
だが、喉元まで出かかった言葉を引っ込めた。
そういうのは親の仕事であり、兄の領分を奪うことだ。
それに今どきの子は、要領がよい。きっと社会に出て、必要になればその都度学んでいくのだろう。
「久しぶりだね」
男が言うと、甥は曖昧に笑った。
「ごめん、急に」
「構わないよ。座ってくれ」
甥はソファに座った。窓の外を少し見て、すぐに目を伏せた。
男は湯を沸かし、茶を出した。甥の前に置く。
甥はカップを持ったが、飲まなかった。
「で、なにかな」
男はそう聞いた。
甥は少し言葉を探した。虚を突かれたように言葉に詰まった。
聞こえなかったのかと思い、もう一度ゆっくり、目を見て述べる。
「用は、なにかな?」
甥の喉が上下し、しばしのち口を開いた。
「うち、かなりまずいみたいで」
「会社か」
「うん」
「売上は」
甥はそこで黙った。
男は立ち上がり、本棚に詰め込んでいるファイルのうち、日付のもっとも古いものを開いた。
大学時代に中小企業診断士の勉強をする中で、家のことを調査したものだった。
さすがにデータは古いが、事業形態は変わっていないはずだ。
記録のためタブレット端末も立ち上げ、メモ帖を開いた。
「月商。粗利。借入。返済。税金。従業員数。家の名義。担保。分かる範囲でいい。ああ、数字は大体でいいよ」
甥は困ったようだった。
「わからないのか?」
甥は、あ、とか、う、とか、うめき声を鳴らし、視線を床に落とした。
「家のことだ。まずいのだろう。わからないことはないはずだ」
甥の顔が赤く染まり、そして背中をさらに小さく丸めた。
男はとんと甥の腹を読めなかったが、とにかくこの甥が会社のことを知らないのは事実のようだと理解した。
それゆえに切り口を変えた。
「まあ、資金面の問題とする。相違ないかな?」
「いや、まあ」
「何がまずいと思った?」
「その、親父が売り上げがって、あと大学もやめてほしいって俺に、そんで妹にも進学あきらめろって」
それから甥は、ぽつぽつと話した。
会社の売上が落ちていること。
銀行から追加で借りられる見込みが薄いこと。
父、つまり男の兄が、まだ何とかなると言っていること。
祖母は家を残したいと言っていること。
「ああ、あの家か」
敷地面積がやたらと広い家を思い出した。
男、兄、父母の四人家族時代にあの大きさは不要だと思う。
それが五人家族になろうが六人家族になろうが、あのサイズが不要なことには変わりない。
家といえば、で一つ思い出したことがあり、男の口に出た。
「父の遺産で言えば、特に何も回ってこなかったな」
売ればそこそこの値が付くのだから、法律的には売却して分けるべきだったかもしれない。
確かのその時も、男の母親が売却の話をひどく嫌がったのだ。
何か罵られたが、連れ合いを無くしてすぐのことだからと、男は気にはしなかった。
その時のもめごとで結局、男は何も父の遺産を分けられることはなかった。
少し物思いにふけっていると、呆然とした顔の甥がそこにあった。
「ああ、すまない。話を進めよう。大学、学費の話だった」
そうだ。
甥の学費が重いこと。そして甥の下の妹が進学を諦めるかもしれないこと。
ならばと思い、男は聞いた。
「単位は」
「え?」
「大学の単位。どれくらい残ってる」
「……結構」
「留年は」
「一回した、しました」
「そう。君いくつだっけ」
甥がびくりと身を震わせた。
「二十二、です」
「今年で卒業は?」
「無理だって、教授が」
男には知らない世界の話だった。
留年も教授への交渉も、進路についても、あまり悩んだことはない。
自分にとって道はすでにいくつもあり、その中から世情などを見て予測を立て、最もよいものを選ぶものだったからだ。
だから、甥の話は自分とは違う種類の人生に見えた。
留年も、部活に人生を寄せることも、教授に卒業を相談することも、男の人生にはなかった。
不謹慎だと分かっていながら、男は興味が湧いた。
大学の青春というものにだ。
「なぜ、留年を?」
男は黙って、メモを取った。
甥は少し身を固くした。
「ぶ、部活で。うちの部強くて、留年するぐらいじゃないとレギュラーになれないんだ」
ああ、そういうのもあるのか。
すごいものだと素直に思った。
そういえば兄も運動が得意だった。
大学時代は小さく新聞にも載ったぐらいだったか。
生前の父がうれしそうにしていたのを思い出し、懐かしくなり、甥に尋ねた。
「で、レギュラーにはなったのかな?大会で好成績は取れたのかな?」
甥は今度は歯を食いしばった。
どうやら言いづらいことだったようだ。男はメモに目を落とした。
「ああ、すまないね。それで話の本題は何だったかな」
「その、叔父さんなら、少し何とかできないかと思って」
その言葉は、責めるようでもあり、すがるようでもあった。
男は茶を一口飲んだ。
もらい物の茶葉だが、悪くなかった。強い香りに頭が明瞭になっていくのを感じた。
そして、その澄んだ頭の中では、どうすればよいかの答えを求めて、思考が走った。
会社はどうするべき?
畳むべき。
今、金を入れても延命にしかならない。再建ではない。
売上の落ち方と借入の重さを見る限り、追加資金は傷口を広げるだけだ。
そもそも、もはや日本は重点的な大都市付近しか活力を維持できない。希望的観測は危険だろう。
親の家は?。
売るべき。
担保に残しても、最後には取られる。
地方にしがみつくより、働き口のある都市へ移る方がよい。
甥の大学は?
一度辞めるべき。
留年している。卒業の見込みが薄い。
家族全体の資源が限られているなら、下の妹の進学費用を残す方が費用対効果は高い。
いや、そもそも妹の大学も、私大か国立か、学部などで判断するべきだ。
甥だけではない。兄や兄嫁、当然、元気な自分の母親も働きに出るべきだろう。
四馬力、五馬力か。
多少、事業を畳む時に借金が残っても、十年以内に片付く算段だ。
兄夫婦の人生は、まだまだどうとでもなる。
男はそう考えた。
だから、そのまま言った。
「会社は畳んだ方がいい」
甥は顔を上げた。
「え?」
「今、金を入れても延命になる。再建ではない」
「でも、じいちゃんたちが」
「家も売った方がいい。担保に残しても、後で失うだけだ」
甥の手が、カップを握ったまま止まった。
男は続けた。
「君の大学も辞めた方がいい」
甥の顔から表情が消えた。
「留年しているなら、優先順位は低い。
下の子の進学費用を残す方がいい。
当然、下の子も大学次第で働きに出るのがいいかな。
あとで志望大学の学部や偏差値、就職率なんかも教えてくれるかな」
「……俺は?」
「働けるよね?若い。都市部へ出れば選択肢はある」
「大学、部活やめろってこと?」
「そう言ってる。今の状況なら、そうなるほかないよ」
「俺の人生は?」
甥の声が低くなった。
背を丸めながらも、下から睨むように男を見つめてくる。
「どうとでもなるよ」
甥の目が変わった。
だが、男は気が付かずに進めた。
「兄さん、義姉さん、母さん、君で全員で働く。
十年ぐらいで何とかなるんじゃないかな。
当然、場合によってはこの期間はかなり変わる。
以前のデータから見た予測と概算だよ。ああ、これは家を売った場合だから」
「母さんも働いたことなんかないって、ばあちゃんももう六十超えてんだよ」
「シニアの労働需要は普通にあるよ。都市部のスーパーなんかじゃ定年後の就職は普通だ。未経験者もおかしくない。
政府が奨励している以上、恥ずかしいことではない。」
「い、妹は!」
甥が身を乗り出した。
ハッとして、すぐにソファに座りなおす。
「妹は、大学をすごい楽しみにしていて……その、大したとこじゃないけど、あいつには夢もあって……」
「通えない、そういったけど」
男はそう言ってから、少しだけ言葉を足した。
「一生あきらめろとは言っていない。順番を変えるんだ」
男は過去にもらった名刺をいくつか、頭の中で整理した。
甥と姪の働き先を見つけなければいけない。そんなことを考えていたのだ。
高卒の男女。持病はない、はず。少なくとも甥はそうだ。
資格を取りながら働けるようなところがいいだろうか。
当面の生活費も面倒を見た方がいいだろう。
いっそこのマンションも兄夫婦に譲るか。
いや、贈与税が厳しい。名目上は貸すぐらいの方がよい。
甥や姪に、今すぐ大学の費用を出す意味は見いだせなかったが、少々の援助はよい。
言い出し方次第で兄の領分も侵さず、甥や姪の人生もよい方向に行くのではないか。
男はそんな風に考えた。
よし、明日、久しぶりに後輩に電話をかけてみようか。
男はスケジュールを脳内で調整しながら、言葉を紡いだ。
「大学は別に十八歳から通わなければいけないなんてルールはないよ。落ち着いたころ、自弁で通えばいい」
ぽかんと口を開ける甥を見て、男は少し言葉を足した。
「大丈夫。私も今通っているけど、年配の人も珍しくない」
その言葉に甥の顔が一瞬強張り、そして次に笑いを形作った。
薄い笑いだった。
「すごいな」
男は黙った。
そして、兄を思い出した。
兄が自分をすごい剣幕で責める前触れが、よくこのような笑いだった。
「本当に、すごいよ。叔父さんは」
少し間を置くべきだと、男は思った。
兄と同じならば、きっとしばらく話にはなるまい。
「お茶、入れなおそう」
男は立ち上がった。
キッチンへ向かう。
湯を沸かす。
カップを取る。
背後で、甥の声がした。
「親父の言う通り、あんた人間じゃないよ」
男は振り返ろうとした。
その前に、重い音がした。
床が近づいた。
割れたカップの音が、遅れて聞こえた。
茶が床に広がっていく。窓の外の東京の灯りが、横倒しになった視界の端で揺れていた。
痛みはあった。
だが、痛みより先に、疑念が湧き、口をついた。
「それって、どういうこと?」
問いに対する解は返ってこない。
それが、男の心残りになった。
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次に感じたのは、狭さだった。
息が苦しい。身体が重い。
いや、重いのではない。動かない。
手足の感覚が遠く、首も思うように回らない。視界はぼやけ、音は水の中のようにくぐもっている。
誰かが叫んでいた。
女の声。別の声。足音。
熱。湿った布。強い匂い。
その中で、男は理解した。
生まれている。
冗談のような話だった。
ひどい冗談だ。
ようやく退屈な子供時代を抜けた。
楽しみを見いだせる余暇も得た。
ようやく誰にも左右されない場所まで来た。
それなのに、また子供である。
それも、赤子だった。
泣くつもりはなかった。
だが、身体が泣いた。
肺に空気が入る。喉が勝手に震える。声が出る。自分の意思とは別に、赤子の声が部屋に響いた。
周囲がどっと安堵した。
「若君にございます」
「お生まれになりました」
「なんと、見目麗しい」
誰かがそう言った。
見目麗しい。
その言葉に、男は内心で笑いそうになった。
赤子など、大抵は違いはないだろう。
いや、笑えなかった。
顔の筋肉も、まだ自分のものではない。
ここがどこなのかは、すぐには分からなかった。
ただ、聞こえる言葉が違う。
匂いが違う。
人々の衣擦れが違う。
名乗り、呼び方、畳の感触、木の柱、香の匂い、女房たちの声。
現代ではない。
それだけは、分かった。
やがて、断片が集まり始めた。
駿河太守。今川。
御屋形様。若君。
嫡男。治部太夫。
その名を聞いた時、男は目を開けた。
見上げた先には、疲れ切った女の顔があった。
それでも、その女は笑っていた。
美しい女だった。
何もかもが細い女だ。鼻筋、唇、体と、すべてが細い。
ただ、切れ長の目と形の良い口元が、意思の強さを印象付ける。
後に、彼はそれが母だと知る。
中御門殿。
彼女は、生まれたばかりの子を抱き、安堵の息を吐いていた。
「よう、生まれてくれました」
女はそう言った。
その声は、柔らかかった。
男は、その柔らかさにうまく反応できなかった。
喜べばよいのか。
泣けばよいのか。
眠ればよいのか。
分からなかった。
ただ、思った。
また、始めからか。
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今川の正室が、嫡男を産んだ。
由緒正しい中御門の姫の子供だ。
その報せは、駿府館の内を明るくした。
御屋形様は安堵し、女房たちは口々にめでたいと言った。
祈祷の声が続き、贈り物の準備が進められ、乳母が選ばれた。家中には、今川の血がつながったという安心が広がった。
子は、すくすくと育った。
よく飲み、よく眠る。
病も少ない。
肌は白く、目鼻立ちは整い、女房たちは見目麗しい若君だと噂した。
だが、やがて別の噂も混じり始める。
「あの若君は、あまり泣かれませぬな」
「泣いても、すぐに止まられる」
「乳母の声を聞き分けておいでのような」
「まだ赤子にございますよ」
「されど、目が」
「目が、いかがした」
「赤子の目ではございませぬ」
最初は、奥向きの小さな囁きだった。
若君は見目麗しい。
だが、妙に人を見る。
泣くべき時に泣かず、泣かぬと思えば急に泣く。
乳母が替われば、顔を見てから飲む。一度抱いた女房の声を覚えているように、次に来ると目で追う。
それは、赤子の利発さとして喜ばれることもあった。
神仏の加護だと言う者もいた。
だが、別の者は小さく言った。
「天魔の類では」
その言葉はすぐに打ち消された。
「何を申す。御嫡男ぞ」
「されど、あの目は」
噂は、まだ噂でしかなかった。
中御門殿は、それを聞いても叱らなかった。
ただ、静かに赤子を見た。
腕の中の子は、泣いていない。
母の顔をじっと見ている。
その目には、赤子らしい濁りがなかった。何かを求めているようでも、甘えているようでもない。
ただ見ている。
見て、覚えているように見える。
中御門殿は、わずかに笑った。
「よく見る子ですね」
乳母が答える。
「はい。まことに、よく」
赤子は、瞬きもせずに乳母を見た。
乳母はなぜか、背筋を伸ばした。
自分を見ているのではない。
自分の肉の内側、心根を見られている気がした。
決して中御門殿には言えなかったが、この子に見られると、みじめな気分がした。
自分の名を呼ばれる前から、名を知られているような心地がし、幼少期の粗相を責められた気がしたからである。
だがその赤子の内側で、男は乳母の気も知らず、ただ思っていた。
何もかも、ままならない。
手は動かない。足は立たない。
言葉は出ない。腹が減れば泣くしかない。
不快なら泣くしかない。眠ければ落ちるしかない。
こんなものを、もう一度やれというのか。
前の人生で、子供時代は退屈だった。
大人になるまでの長い待ち時間だった。
いや、違う。
自分のことを自分で決められるというのが好きだったのだ。
人に自分の人生を握られているというのが、どうにも性に合わなかったのだと今になって気が付いた。
ああ、ようやく抜け出したのに。
ようやく自分の足で立ったのに。
また、誰かの腕の中にいる。
ひどい冗談だ。
赤子は泣かなかった。
ただ、見ていた。
周囲はその誕生を祝った。
本人だけが、少しも喜んでいなかった。




