4章_9
甲斐口からの急報が府中の館へ届いたのは、日が西へ傾きかけたころだった。
朝から降っていた雪は昼過ぎにやんだが、空にはまだ厚い雲が残っていた。庭の松が、ときおり積もった雪を落とした。そのたびに、静かな館の中まで鈍い音が響いた。
使者は雪と泥に汚れた脚絆のまま、広間の末に平伏していた。甲斐から休まず馬を継いで来たらしく、肩で息をしている。小笠原大膳大夫は届けられた文を読み終えると、もう一度初めから読み直した。
文面は短かった。甲斐で武田の旧臣が兵を挙げた。奉じているのは、諏訪から府中へ移される途中で奪われた竹松だという。初めは二百にも満たなかった兵が、山間の国人や旧武田の牢人を加え、いまでは千近くに膨らんでいる。
読み違えようもなかった。小笠原大膳大夫は文を膝の前へ置いた。
「いや、どういうことだ。奪われた竹松を奉じて、なぜ甲斐で兵が立つ」
使者は伏したまま答えなかった。答えを持って来た者ではないのである。広間には家老と奉行衆が六人ほど控えていたが、そちらからも声は出なかった。
竹松を諏訪から引き取ると決めたのは、大膳大夫だった。今川が信濃守護職を望んでいるという噂が京から入り、このまま諏訪に置けば、竹松を信濃騒乱の根として討たれるおそれがあった。そこで府中へ移し、諏訪、高遠、小笠原の三家で守ることにしたのである。
ところが迎えの一行は途中で偽者にすり替わり、竹松を奪われた。本物の迎えが古寺へ着いたとき、諏訪の兵は雪の中に倒れていたという。死人こそ出なかったが、偽者たちは橋が落ちたことも、引き渡しの場所が変わったことも知っていた。
諏訪からは、ただちに詰問の文が来た。高遠からもだ。今川に通じたのか、どういうつもりだと、疑心に満ちた文字で埋め尽くさんばかりの文が何通も届いた。
小笠原家中でも、誰が内々の知らせを洩らしたか調べた。諏訪方に名乗ったという小笠原一門の者など影も形もなく、その足取りも一切たどれていない。結局、日だけがいたずらに過ぎ、いまだ何も分かっていない。
そんなときに、竹松が今度は甲斐で兵を挙げたという。
「兵は、まことに千近くおるのか」
「は。昨日の夕刻までに九百余りと聞き及びます。なおも加わる者があるとのことにございます」
「どういうことだ」
大膳大夫は誰にともなく言った。胃の奥がキリキリと痛んだ。
千という兵数は、今川を脅かすほどのものではない。甲斐には今川の留守居があり、城々にも兵が置かれている。今は冬で身動きが取りにくいが、駿河から援軍が入れば、武田勢などたちまち押し潰されるだろう。時勢を読めず、潰される者に感慨はわかない。
問題は別にあった。小笠原家の名が、竹松を奪った者に使われていることだ。
使者が、おそるおそる口を開いた。
「武田勢は、信濃勢の支援を受けたと、周囲に触れ回っております」
大膳大夫は唇をかんだ。分かり切っているが、目を逸らしたいことは口に出されると一層腹立たしかった。努めて平静を保ちつつ大膳大夫は問うた。
「そのようなことはない。どこの誰がそのようなことを申しておる。今川と全面の戦になるではないか」
声を荒らげると、火鉢のそばにいた近習が身を固くした。
大膳大夫は頭をかいた。今川に思うところはある。目の前の障害を蹴り飛ばしながら飛躍する小僧が、地に落ちろと願わないでもない。しかし、勢いづいた相手の前に、我が身を差し出す愚かさも重々承知していた。今はただ期を待つときと自分自身に、家中に言い聞かせていたのだ。
「殿」
障子の外から、小者が声をかけた。
「何だ」
「板垣千四郎と申す者が、御目通りを願っております」
大膳大夫は顔を上げた。聞き覚えのある名だった。武田家に仕えた板垣一族の者で、竹松の身の回りを世話していた男である。竹松が諏訪へ預けられた後も、そばに置かれていたはずだった。
「用件は」
「竹松様の一件につき、申し上げることがあると申しております」
「一人か」
「供の者を一人連れておりますが、玄関にて留め置いております」
「刀を預かって、通せ」
家老の一人が大膳大夫を見た。しかし何も言わなかった。
ほどなく千四郎が広間へ入って来た。年は三十を少し越えたほどだった。裾に旅の汚れはあったが、着物は乱れておらず、髪も整えている。
広間の中ほどまで進むと、両手をついて頭を下げた。
「板垣千四郎にございます。突然の御目通りをお許しいただき、ありがたく存じます」
「お前は竹松殿の世話役であったな。であれば、この度の仕儀は聞き及んでおるな。いったい、なぜ、このような、いや、違う」
大膳大夫は言葉を区切った。千四郎は嫌に落ち着いていた。守るべき主君が行方知れずになり、その後唐突に決起したことに驚いていない。大膳太夫は自分が何か思い違いをしている気がして、眉間に皺を寄せた。
「今川の一件、お困りとお伺いしました」
「何がだ。何を困っていると」
「今川との全面の戦について。されど、ただちにそこまでには至らぬと存じます」
大膳大夫は千四郎を見据えた。その落ち着き払った策士面には腹に据えかねるものがあった。だが、それ以上にピンとくるものがあった。
千四郎がここにいる。竹松は甲斐で武田勢に奉じられている。諏訪から竹松を奪った者たちは、小笠原家の迎えを装っていた。
「お前か。竹松殿を連れ去ったのは」
千四郎は顔を上げたが、否定しなかった。
「それを今、咎めて、何になりましょう。この首を今川へ持参したところで、もはや何の意味もございませぬ。そのうえで、御腹立ちをお鎮めになるために斬ると仰せなら、お斬りくだされ。ただし、某がここへ参ったわけをお聞きになってからでも、遅くはございますまい」
「そうか、もうよい」
大膳大夫は膝立ちになった。刀の柄へ手をかけるより早く、右手にいた老臣が腰を浮かせた。
「殿」
短い声だった。老臣は大膳大夫の袖には触れなかったが、必要ならば二人の間へ身体を入れる構えだった。
大膳大夫は柄を握ったまま、千四郎を睨んだ。千四郎は逃げようとはしなかった。膝を揃え、静かにこちらを見返している。その冷たい仕草が覚悟から出たものか、事の大きさを理解していないためなのか、大膳大夫には分からなかった。
しばらくして千四郎が口を開いた。
「まず申し上げます。今川は全軍を出せませぬ」
「馬鹿を申せ。一万を越す軍勢が来る。いや、いまの今川ならば、一万五千ほどは出して来るかも知れぬ」
大膳大夫が知る今川の兵力は、甲斐戦争以前のものだった。あの戦で今川は、駿河だけでなく遠江、東三河からも兵を出した。その後は甲斐の旧臣まで組み入れているという。だが、それらをどれほど一度に動かせるのかは分からない。
多く見て一万五千。大膳大夫はそう考えていた。
「それは、敵が信濃と甲斐だけの場合でございましょう。関東からも圧力がございます」
大膳大夫は少し黙り込んだ。頭の中に関東の地図を思い描き、それぞれの地点にその地の領主の名前を書いた。伸長の著しい今川の敵は多いが、それでもなお、ひときわこれを押しとどめようとする者と言われれば、
「上杉か」
「御明察にございます」
千四郎の声に、わずかに得意げな響きがあった。上杉の動きを自分で仕組んだ男の顔ではない。あらかじめ聞かされていた話が、ようやく役に立ったという顔だった。
「上杉様は、北条に江戸城を不当に奪われたことを、相当に腹に据えかねているようでございます。ましてその背を押した今川にも、思うところがあるのは当然かと存じます」
「今川は、両上杉に攻めぬと申し出たそうだがな」
「あの血に飢えた今川五郎の言葉など、信じられるものでしょうか。今川が甲斐口から関東へ流れ出て来たならば、北条と今川に上杉は挟まれましょう」
千四郎は上杉方から聞かされた言い分を、そのまま語っているらしかった。
だが上杉が今川を嫌うのは、それだけではないだろうと大膳大夫は思った。
今川は意外にも内向きに力を入れている。水の流れを整え、田畑の枚数も増やしている。甘やかすだけでなく、隠し田を見つけ出し、脅しつけるのも忘れていない。その結果、領地には有り余る米やら塩やら銭がある。その一部は同盟で血縁の北条にも多く流れている、と大膳大夫は見ていた。
この流れを断ち、北条を弱らせようというのは妥当に思える。ただ、それは信濃の小笠原にとってはどうでも良いことである。
大膳大夫は刀の柄に指をかけた。
「ああ、なるほど。それで信濃を盾に今川の気を逸らし、その間に江戸城を取り戻すというわけか。まことに結構なことよな」
「まさか。上杉様は本気で、この機に今川と北条を抑えるおつもりにございます」
「詭弁よ。何をもってそれを示す。現にいま、竹松めは信濃の力を借りて甲斐で決起したと触れ回っておる。今川に攻められるのはこちらぞ」
「勝てばよろしいではございませんか」
「何だと」
「勝てばよろしい。今川の兵は、どれほどでございましょうか」
広間の者たちが、いっせいに千四郎を見た。あまりに簡単に言ったので、初めは意味を取りかねたらしい。
大膳大夫は腹の底に、冷たい怒りが溜まるのを感じた。
勝てばよい。千四郎にとっては、それで済むのだろう。竹松を甲斐へ入れ、武田の旗を立てれば、この男の役目は終わる。兵を出すのは小笠原家であり、戦場になるのは信濃だった。
「今川は一万二千、いや、一万五千はある。これを信濃勢で打ち破るか。なるほど武田殿は数千の五郎、龍王丸に良いようにやられたが、信濃勢なら適うか」
千四郎からすっと笑みが消えた。策士面が外れ、その下の怒りで歪んだ素顔があらわになった。なるほど忘れたいほどの過去であるようだ。
千四郎は咳ばらいを一つ挟むと、また淡々と語りだした。
「一万五千、と申しましたが、そのうち北条への援軍には、そうですな、過去の例を見るならば千、いやさ、三千は出しましょう。そこから山内上杉様は武蔵から甲斐口を窺いまするので、これの対処にも兵を出しまする。さて、上杉様はこちらへ二千ほどは出すそうですから、今川も同数は必要となりましょうな」
千四郎は、よどみなく言った。誰かから聞かされた勘定を、何度も頭の中で繰り返して来たのだろう。
「残り一万だ。信濃が草刈り場になる」
「竹松様の軍は千ほど。ですが、残る一万のうち、竹松様を討つために甲斐者は使いますまい。早く片をつけるため、今川の兵を二千ほど向けるのではございませんか」
「皮算用だな。甲斐者を含めて残り八千だ。さあ、これをどうする」
大膳大夫は吐き捨てるように言った。
自分で言ったことだが、今川の兵を一万五千と見たことにも、確かな根拠はない。北条へ三千、武蔵口へ二千、竹松の鎮圧に二千という千四郎の勘定も、今川がその通りに兵を分けることを前提にしている。
今川五郎が、そのように動く保証はなかった。
甲斐戦争では、武田方が今川兵を引き出そうとしても、五郎は容易には動かなかった。道を閉じ、米を止め、武田の方から城を出るよう仕向けた。千四郎がそれを知っているとは思えなかった。
「越後はいかがでございましょう」
大膳大夫は眉をひそめた。唐突に出た地名に、知らず知らずのうちにまた顔が険しくなった。
「関東だ、越後だと、信濃に火をつけるのに他国のことをよく引き合いに出す。越後がどうして出て来る。あれは上杉の味方ではなかろう」
確かに越後の国主は上杉の姓を持っている。だが事実上の国主は長尾であり、これはかつて関東の上杉と縁が深かった先代の越後国主を押しのけている。当然これに山内上杉は怒り兵を上げたが、結局関東管領であった上杉四郎顕定が討たれるなど大敗北を喫した。
総じて言うと肩を並べて戦うような間柄ではないはずだった。
「とはいえ関東の北条を相手取りながら、上杉様も越後を睨んではおる場合でもありませぬ。越後衆も関東に足を取られるよりも近場を固めたいと思うのは当然のことでは」
「それはわからんでもない、だがなぜいま越後の名が出る。信濃の戦に顔を出す名分など」
「高梨様。確か昨年、越後の助けを得て御帰国なされましたな」
高梨の名が出ると、家老の一人がわずかに身じろぎした。
高梨は北信濃に古くから勢力を持つ家だったが、村上との争いに敗れ、一族の一部は越後へ退いている。それが長尾の助けを得て旧領へ戻ったのはついこの間のことである。村上は当然、このことを面白くなく思っている。
「何が言いたい」
「お分かりでございましょう。信濃守護様が高梨様の所領を改めて安堵なさる。そのうえで、長尾為景殿が高梨様を守るため、いくばくかの兵を添えるというのはいかがでございましょう」
「越後がそこまでする理由などない。絵に描いた餅だ」
「今川が北信濃を取るのを水際で防ぐためならば前に出るそうでございます。無論、関東の上杉様との関係改善も狙いでしょうが」
「村上が嫌がろう。こちらは必ず揉めようぞ」
「そこは信濃守護様の御威光にて、認めさせればよろしい」
大膳大夫はしばらく千四郎を見た。
話にならない、と思った。
越後の兵を添えた高梨の南下を村上に認めさせる。それを小笠原家の守護権で押さえつけろと言う。小笠原家の名を使って竹松を奪い、今度はその名によって越後兵を引き入れようとしているのである。
上杉は北条を攻める。山内上杉は武蔵から甲斐口を窺う。越後は高梨を守るという名目で、信濃へ兵を入れる。その間に竹松が甲斐で兵を挙げる。
それぞれの家が、自分の望みを果たそうとしている。小笠原家だけが、他国の兵を迎え入れ、その戦場を差し出すことになる。
大膳大夫は再び鯉口を切った。想像よりも軽い音が、冷えた室内に良く響いた。千四郎の首を今川へ持って行く。それが一番早い、と大膳大夫は結論づけた。
竹松を奪った者を捕らえ、小笠原家は関わっていないと申し開きをする。今川がそれを信じるかどうかは分からない。だが、何もせずに越後兵を引き入れるよりはましだった。
「お断りになれば、信濃は燃えましょうな。今川五郎は、甲斐を燃やしたように信濃も燃やしましょう。御身の血筋も絶えます」
大膳大夫は刀を半ばまで抜いた。
「殿」
先ほどの老臣が、低い声で呼んだ。大膳大夫は振り向かなかった。その声には千四郎を庇う響きはなく、ただ斬る前に、もう一度考えよという調子があった。
千四郎は声を低くして言った。目の前に刀を突きつけられると、さすがの策士面も完全に剝がれていた。上杉の名も、すでに出来上がった包囲網も利かぬとは思っていなかったようだった。額に汗を浮かべながら、言い募った。
「守護様。もう信濃勢は川を渡ったのです。前に出て五郎の首を取るほかないのではございませんか。そうでなければ、信濃は越後勢と今川勢の草刈り場になりましょう」
「貴様」
大膳大夫は刀を抜いたまま言った。
「信濃へ向かうのは、いまだ忠誠の定かでない甲斐衆を含む八千。冬の信濃で行軍など、出来ようはずがございません。そのうちに瓦解いたしましょう」
千四郎の目は見開かれていた。そうなることを疑っていないと澄んだ目が語っていた。だが大膳大夫には、その自信の根が見えなかった。この男は今川の内実を知っているわけではない。どこかで聞かされた数字と見通しを信じ、それによって勝てると思っているだけなのだ。
しかし、信濃勢はすでに川を渡ったという。
その言葉が偽りなら、千四郎を斬れば済む。偽りでなければ、千四郎の首を今川へ差し出しても、すでに動いた兵は戻らない。竹松が信濃の援助を公言し、信濃の兵が甲斐口へ入ったという事実だけが残る。
今川は、その事実を見逃さないだろう。
大膳大夫は歯を食いしばった。そして刀を鞘へ納めた。
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五郎は上座に座り、安房守が膝の前に置いた文を揃えるのを待っていた。
正月の松もまだ取れぬころである。それなのに駿府館の大広間には、駿河、遠江、甲斐から集められた者が隙間なく並んでいた。甲斐、信濃、関東から急報が相次いだため、五郎が国許へ帰した者まで呼び戻したのである。
朝比奈備中守は、遠江からとんぼ返りして来たばかりだった。袴の裾には乾いた泥がついている。井伊をはじめとする遠江の国人衆にも、旅装を解く暇がなかったらしい者が二、三人いた。年賀の挨拶を済ませた後も駿府に残っていた庵原安房守などは、まだましな顔をしている。
甲斐から出仕している者たちは、いつになく顔を固くしていた。竹松を奉じる武田勢が甲斐で立った以上、疑われていないと分かっていても、平然としているのは難しいのだろう。
上座には北川殿と中御門殿が座り、五郎の同腹、異腹の弟たちも末席に並んでいた。一門の瀬名は、朝比奈の少し後ろに腰を据え、座中を眺めている。広間の四隅に置かれた火鉢の炭は、とうに赤く熾っていたが、遠江から戻った者の一人は、まだ指先を火に向けていた。
五郎は座中を見渡して言った。
「正月早々、皆には申し訳ない。すぐに終わらせるようにしよう」
北川殿が少し顔を顰め、目を細めた。状況を理解しているのかという目で五郎を睨んだ。確かに今川の状況は良くない。
五郎は眉を上げ、安房守を促した。
「安房守、始めてくれ」
安房守は一礼して、一番上に置いた文を取り上げた。それから集まった家臣らに状況を伝えた。
まず甲斐では、武田の旧臣が竹松を奉じて兵を挙げた。その数は千とも二千とも伝えられ、いまだ確かなところは分からない。竹松勢は山中の小城を根城とし、援軍を待つ構えを見せている。集まった者のすべてが兵なのか、荷を運ぶ百姓や近在の者まで数に入れているのかも判然としなかった。
ただし、信濃勢が合力していると触れ回っていることは確かだった。
一方の関東でも扇谷、山内の両上杉が兵を動かしている。扇谷上杉は、北条に奪われた江戸城を取り戻すため兵を出した。山内上杉も兵を二つに分け、一方を扇谷への援軍として武蔵へ送り、もう一方を武蔵から甲斐口へ向けようとしているらしい。どちらも数は分からない。
安房守は二通目の文を置き、最後の一通を手に取った。こちらは完全に五郎にとっては予想外の話でもあった。
「最後に信濃にございます。知っての通り小笠原大膳大夫が兵を挙げ申した。こちらから竹松殿御挙兵の真意を確かめようと使者を出しましたところ、今川に弓を引くと旗色を明らかにしたとのことにございます」
「馬鹿な」
誰かが小さく言った。
それをきっかけに、広間のあちこちから声が上がった。小笠原がなぜ竹松のために兵を出すのか。諏訪や高遠はどうしているのか。高梨の背後に越後兵がいるとの噂はまことか。声は互いに重なり、すぐには誰が何を言っているのか分からなくなった。
安房守は止めなかった。言いたいだけ言わせておき、声が小さくなるのを待って五郎を見た。
「御屋形様、いかがいたしますか」
「別にどうもせぬ」
広間がまたざわめいた。
朝比奈備中守が眉を上げた。甲斐衆の中には、思わず顔を見合わせた者もいる。
「というより、信濃はまず捨て置いてよい。此度、優先すべきは北条だ。その次が甲斐の竹松殿。この順としよう」
朝比奈備中守がよろしいか、と声を上げた。五郎がうなずくと、備中守は北川殿へ一礼してから口を開いた。
「大御台様の御前で憚られることなれど、北条は他家でございます。これを今川よりも優先するとは、いかがなものでございましょう」
「確かに。されど、狙いどおりに動くのもまずかろう」
「と申されますと」
「絵を描いたのは誰かという話だ。まず竹松殿と、その周りの者ではなかろう。甲斐衆も違う。あれらに翻意はない」
甲斐から来た者たちの間に、わずかな動きがあった。膝の上で固く握られていた手がゆるみ、誰かが小さく息を吐いた。
「信濃勢もな。少し伊那方へ探りを入れた感触では、今川と事を構えるのを相当に嫌がっている。諏訪方もそうだな。おそらく小笠原の号令に、国中が心を合わせて立ったのではあるまい。此度の一件も、なし崩しに見える」
「しかし、兵を挙げ申した。信濃守護が、でございます。これを軽く扱えば、甲斐や遠江になだれ込みましょう」
「それは防ぐ。だが、気にしすぎでもある。これまで散り散りであった信濃が、小笠原の号令で一枚岩になって動くものかな。国境を固めれば足を止める。その後はいくらでも切り崩せよう」
備中守はふむ、と頷いた。遠江衆の幾人かもそれに追従するように頷いた。見れば信濃との国境に領地をもつ者達である。五郎の言葉に一定の納得と、安堵を覚えたように胸をなでおろしていた。
そこからは安房守が続けた。
「甲斐の武田竹松殿は、いかがなさいます。こちらも捨て置けませぬが」
「岡部には、もう兵を動かすよう命じた。こちらは甲斐に送った遠江、駿河衆で片す。急報を受けた日のうちに命を出してある」
安房守は、ははあ、と低く唸った。
「確かに、武田の旧臣方の心を試すなど、今川当主の行いではございませんからな」
五郎はこれに対して言葉を続けなかった。だが、甲斐衆の何人かが、揃って頭を下げた。五郎の思惑としてはそもそも、甲斐の問題とこの治安維持は岡部左京進に任せてあることである。万を超える軍や甲斐衆すべてが弓を引くならばまだしも、甲斐守護の庶子の蜂起程度では筋をたがえる話ではないと見ていた。
安房守のわざとらしい言葉に、件の性悪坊主を思い出しつつ、軽く頷くにとどめた。
そこに口を挟まなかった瀬名陸奥守が、ぽんと口を開いた。
「今川へ刃を向けた信濃勢と、竹松殿を奉じる者どもは、ほぼ問題がないと御覧なのでございますな」
「雪道では兵力の差を生かせぬゆえ、安心は出来ぬ。だが時間を稼げば、そのうちに片づく問題ではある。その時間稼ぎをさせるというのが、上杉の絵なのだろうな」
「その絵を描かせたままでも、問題はないのではございませぬか」
乾いた木のきしむ音が、北川殿の手元から聞こえた。膝の上の扇が強く握られていた。北川殿の表情は変わらなかった。
五郎はそちらを向かずに、淡々と言葉を紡いだ。
「わざわざ東を敵に押さえられる愚を犯す必要はなかろう。両上杉が対今川で固まり、平地で国境を接すると動きにくくなる」
甲斐と武蔵の間ならばまだ少数で抑えられる。相模、伊豆となると話が変わってくる。
「相手は上杉ですぞ。退いてもよい相手です」
「百年前の上杉なら、そうしたかも知れぬな」
「畏れるに足らぬと」
五郎は目をつぶった。少しの間上杉のことを思った。
上杉は大家である。その勢力圏だけで言うならば東で随一の広さを誇る。だが内訌を繰り返し、兵数では勝りながら、北条に江戸城を奪われた。かつて太田道灌ほどの将を抱えながら、その力を使い切るどころか、自ら殺した家でもある。
武田五郎信直とは違う。
そう思うと、自然と五郎の口角は上がった。
「畏れるに足らぬ。今川五郎氏景は、先代より今川家百年の安泰を任された。これを阻むならば、切って捨てる」
室内の音が消えた。居並ぶ家臣らは背筋を伸ばし、一門らも目を見開いていた。
ふっと五郎が息を吐くと、皆張り詰めていた気を緩めた。
陸奥守はそれでようやく、満足したように頭を下げた。
五郎も頷き、周囲を見渡した。もはや異論のある者はいなかった。
「では、兵について申しつける」
五郎は、まず甲斐にいる岡部へ与えた命令を明らかにした。
甲斐に残してある遠江、駿河衆のうち二千ほどを選び、竹松勢が籠もる小城を囲ませる。竹松勢は山の城を根城にし、援軍を待つ構えを取っている。雪の中で無理攻めはさせず、遠巻きに囲み、水の手を切るところから始めさせる。
八つかそこらの竹松が自ら蜂起したとは、五郎は考えていなかった。板垣千四郎らには、城を下り、竹松を引き渡せと交渉させる。ただし春まで動かなければ、竹松を含め、城中の者もろとも討つ。そうすればそのうちに内側から崩れるだろうと述べた。
甲斐衆から反対の声は出なかった。
竹松自身、武田の跡取りとしての正当性は薄い。武田五郎信直への忠誠も、旧臣によってまちまちだった。竹松が旗を立てれば、甲斐衆がこぞって今川を離れるというほど、簡単なものではない。
五郎にとっては、ほぼ想定のうちだった。
続いて北条への援兵を申しつけた。
すでに相模へ送った葛山勢三千に、さらに二千を加える。残っている葛山の一門にこれを相模で合流させる命を与えた。
命を受けた葛山の男は、頬を上気させて深く頭を下げた。葛山は元々北条、というより伊勢方と縁の深い家である。上杉の相模進出を防ぐと聞き、大層喜んでいるように見えた。
さらに、武蔵から甲斐へ抜ける口には、飯富を主将として二千を置くことも伝えた。これは先に述べたように攻め込ませるのではなく、道と城を固め、山内上杉が甲斐へ入ろうとすれば押し止めることを方針とした。
ただ、ここで待ったが掛かった。飯富に二千を預けることには、駿河衆から少しばかり懸念が上がったのだ。危難の折に、今川へ降って日の浅い者、年若い者へ大兵を任せるのは、いかがなものかというのである。
五郎が異論を申した者の顔を見た。
いまさら甲斐がこちらを切る理由は存在しえない。絹や金があり、食うに不自由しないが、それはあくまで遠江や駿河とのつながりがあるがゆえである。そのことが分からない飯富ではない。
男は視線を受けても何か言いかけた。しかし、五郎が目をそらさずにいると、しだいに声を小さくし、最後には言葉を引っ込めた。
ならばよし、として五郎はふと言葉を切った。
「安房守、今川の兵は、あとどれほど出せよう」
安房守は膝の前に帳面を開き、しばらく指で数字を追った。
「さて、ここまでで九千近く出しておりまするな。ならば防衛だけならば、なお三万弱ほど。長く攻めるとなれば、一万五千ほどは出せまする」
室内が少しざわめいた。一万五千、三万、と数だけが室内に浮かんだ。
今川がどれほどの兵を動かせるか、国人衆のすべてが知っていたわけではない。自分の領地から出せる数は分かっても、駿河、遠江、東三河、甲斐を合わせた数となると、勘定を預かる者でなければ見えにくかった。ましてやこれだけ出した後に三万の兵が出せるとは考えていなかったのだろう。
ただ、その答えを受け取った五郎は少し眉間に皺を寄せた。顎に指をあて、考えを整理する。
現状、残った兵の質は、すでに外へ出した者ほど高くはない。
甲斐に置いた駿河、遠江衆は、急な出陣にも耐えられるよう選んだ兵である。北条へ送った葛山勢も、それに続ける二千も同じだった。この五千から七千ほどが、いまの今川にとっては虎の子の精兵だった。
無論、残った甲斐衆や、駿河、遠江から集められる一万を越す兵も弱くはない。だが遠国へ入り、厳しい戦を続けさせるには不安がある。国境で道や城を守らせるならば、十分に役に立つ。しかし、
「御屋形様、いかがなされました」
安房守がこちらを覗き込んでいた。
五郎は手を振って、何でもないと言おうとした。一家の当主たるもの腹の中など安々と見せられるものではない。だが、途中で考えが変わった。
ふと、父が頼りにした、この宿老の答えが聞いてみたくなった。
「いや、見える敵は容易なれど、見えぬ敵は難しいな。安房守、そなたならこれをどうする」
広間がまたざわめいた。
安房守自身も意外そうな顔をしている。
「どうした」
「いえ、失礼をば。御屋形様に頼られるとは、思いもいたしませぬもので」
「常日ごろ頼っておろう」
「あれは使っているというものでございます。して、見えぬ敵でございますか」
何人かが、声を立てずに笑った。
安房守は、ふむと唸った。それから禿げ上がりかけた頭を、掌でゆっくり撫でた。
承菊が考え込むときにも、同じような仕草をした。五郎は嫌な気持ちになった。あの生臭坊主が、甲斐で何人女を囲っているかの報告を思い出してしまった。
「卑近な例で申し訳ございませぬが、畑を荒らすずる賢い鹿や猪は、餌で釣り出す。そういうのがよいのではないでしょうか。追っても無駄骨かと」
五郎は、ふうんと唸った。
確かにと、すとんと腑に落ちた。今まで前に出て切り開き、たまたま正解であった。しかし、こちらが罠にかけるという方が成功率は高いだろう。
「お気に召しませぬか」
「いや、正しいと思った。それで行こう」
安房守が軽く頭を下げると、五郎は朝比奈備中守へ顔を向けた。
「備中守、一万ほど率いてくれ。遠江から北上し、伊那へ入って小笠原と睨み合え」
さしもの備中守も目を見開いた。
「よろしいのでございましょうか」
「甲斐の信濃口は、関口彦三郎に塞がせるよう命じてある。こちらは構うまい。諏訪や高遠もある。小笠原も安々とは通れぬ」
加えて甲斐と信濃の境は城で固め、兵糧の備蓄も十分である。まず春までの突破は難しいだろう。
「いえ、そちらではございませぬ。某に一万もの兵をお預けになるのでございますか。それでは、お手元には幾千も残りますまい」
「次は二万、その次は全軍を任せることもあり得る。相手の腰が引けているうちに、練習しておけ」
冬の信濃で、すぐに派手なぶつかり合いが起きるとは五郎も考えていなかった。雪の道では大軍ほど動きが鈍くなり、小笠原方も城を出て決戦を挑むことはあるまい。それに南信濃、殊に伊那周辺の小笠原一族や小国人の中には、今川の米や塩を受け、すでにこちらへ傾いている者が少なくなかった。
備中守は安房守へ目をやった。
安房守がうなずくと、備中守は一度つばを飲み込み、深く平伏した。
「一命に代えましても、信濃を落としてみせまする」
「いや、それはよい。それよりも一つ、小細工を頼みたいことがある」
豪胆な備中守が、肩透かしを食ったように顔を上げた。




