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4章_8

 正月もすでに過去となり、一月も半ばを過ぎていた。


 信濃の雪は底を見せなかった。晴れた日が二日ほどつづけば、道の端に黒い土がのぞくこともあったが、天候が崩れると、夜のうちに新しい雪が積もった。人馬の跡も、畑と道の境も、朝には白く消えていた。


 竹松を諏訪から小笠原の府中へ移す日取りは、前日になって急に繰り上げられた。


 諏訪刑部は、雪の深い折に幼子を動かすことを渋った。だが小笠原から来た使者は、今川の動きが怪しいと言った。このまま雪解けを待てば、三家の約定を御破算にするだけでなく、諏訪大社が竹松を擁して良からぬことを企てていると、難癖をつけて来るかもしれない。


 刑部は反論したが、使者はさらに、信濃守護職を今川へ委ねる沙汰が、京で進みかけていることを明かした。


 それが事実なら、竹松は信濃を乱す根として扱われる。守護の名で討手を差し向けられれば、諏訪も小笠原も容易には動けない。


 刑部はその日のうちに、竹松を送り出すことを決めた。


 道が狭く、兵を多くつければ、かえって雪に足を取られる。護衛は村田宗吾を頭に八人、竹松の身の回りの品を運ぶ下人が四人ついた。


 長く雪を降らせた雲は、その夜のうちに東へ去った。


 翌朝は、空の青さが目に痛かった。


 陽光が雪に照り返し、屋敷の前に並んだ兵たちの鎧を白く光らせていた。竹松の身の回りの品は、漆塗りの長櫃二棹に納められた。衣、薬、手習いの道具、それに小さな膳や椀まで入っていた。


 竹松自身は、背負子で運ばれることになった。


 籠を担げる道ではなかった。馬も深い雪では使えない。竹で組んだ背負子に藁を詰め、毛皮を重ね、その中へ身体を包み込むようにして乗せた。


 竹松は嫌がらなかった。


 屋敷を出ると、背負う兵の肩越しから、しきりに雪原を眺めた。先頭の兵が踏み込むたびに、柔らかな雪が膝まで崩れる。その後ろの者は、出来た穴へ足を入れて進んだ。


「深いな」


 竹松が言った。


「昨夜、また降りましたので」


 背負っている兵が答えた。


「足の跡が、ずっと穴になっておる」


 竹松はその穴が一列につづいて行くのを、いたく気に入ったらしかった。ときどき身体をひねって後ろを見ようとするので、そのたびに兵が、落ちられますぞ、と注意した。


 村田は先頭を歩きながら、二度振り返った。


 竹松を背負う兵の前後に二人ずつ置き、長櫃はその後ろにした。最後尾の者には、来た道を絶えず見るように命じてある。


 それ以上の備えは出来なかった。


 一行が古寺に着いたのは、昼を少し過ぎたころだった。


 寺は山裾の杉林の中にあった。山門は片方の扉を失い、塀もところどころ崩れている。穴からのぞく本堂には扉も板壁もなく、首を打ち落とされた本尊と、床に残った焚火の跡が、外から丸見えだった。


「ここで間違いないのか」


 兵の一人が言った。


 村田も同じことを思った。小笠原方から示された寺の名には間違いがない。だが竹松を引き渡す場所としては、あまりに荒れていた。


「迎えが遅れておるのであろう」


 そう言って、長櫃を下ろさせた。


 竹松は背負子に乗せたまま、崩れた塀の内側へ入れた。兵たちはその周りへ寄ったが、腰の物から手を離す者はいなかった。


 しばらくすると、雪を踏む音が聞こえた。


 自分たちが来た道ではない。寺から北へ抜ける、細い山道の方角だった。


 村田が手を上げると、兵たちは話をやめた。二人が竹松の前へ出て、残りも刀の鍔へ手を添えた。


「竹松様、もう一度おつかまりください」


 背負っている兵が言った。


 竹松は男の肩へ両手を回した。


「おおい。そこの御方々は、諏訪家の者か」


 杉の間から声がした。


 村田はすぐには答えなかった。


 やがて五人の男が姿を見せた。


 先頭の男だけは具足を着けていなかった。浅黄の小袖に厚い羽織を重ね、腰には金具の光る太刀を帯びている。三十を少し越えたほどで、細面の、色白な男だった。


 袴の裾は雪に濡れ、歩くたびに脚へまとわりついていた。山道には不向きな身なりである。だが小笠原の一門だと言われれば、そういう者もいるかもしれなかった。


 後ろの四人は、槍や荷を担いでいる。そのうち一人が、藁と綿を詰めた背負子を持っていた。


「何者か」


 村田が訊いた。


 先頭の男は足を止め、手を腰から離して見せた。


「小笠原家の者でござる」


 後ろの者たちも刀へ手をかけていなかった。


 村田は兵たちへ目をやり、構えを少しだけ解かせた。


「お待たせいたし、まことに申し訳ござらぬ」


 男は雪に足を取られながら近づいて来た。


「本来ならば、このような寺でお待たせするはずではあり申さぬ。ここから先に、小笠原家所縁の寺がござる。そこで然るべき手順を踏み、竹松様をお預かりするつもりでござった」


「では、なぜここへ」


「橋が落ちました」


 男は情けない顔をした。


「昨夜の雪で、寺へ渡る橋が落ちてしまい申した。沢に架けた丸木の橋でござるが、雪の重みに耐えられなんだのでしょう。朝から人を出しておりましたが、今日のうちに架け直すのは難しい。それで急ぎ、こちらへ回った次第でござる」


「そういうことでございましたか」


 村田は荒れた本堂を見た。


「このような山賊のねぐらにも似た場所で待たされ、少し肝を冷やし申した」


「いや、面目もござらぬ。雪のためとは申せ、こちらの不手際でござる」


 男は深く頭を下げた。


「用意しておりました籠も、橋の向こうへ置いたままになってしまいましてな。こちらへ回す道がないわけではござらぬが、それでは日が暮れてしまう。そちら様のように背負子を、と申す者もおりました。しかし、武田家の御長男を荷のようにお乗せするのはいかがなものかと、これまた押し問答になりまして」


 男は竹松を乗せた背負子へ目をやり、慌てたように手を振った。


「おお、いや。そちら様を責めておるわけではございませぬ。雪道では背負子が一番でござる。それは我らも承知しております」


「承知しております」


 村田が言うと、男はにこやかに頷いた。


 よく喋る男だ、と村田は思った。橋のことだけなら、半分の言葉で足りるはずだった。


 もっとも、失態を取り繕おうとしているのかもしれない。小笠原の一門が、竹松を荒れ寺で迎えたとなれば、家中で笑いものになろう。


「して、御身のお名前を伺ってもよろしいか」


 村田が訊いた。


「これは失礼いたした」


 男は羽織の前を直した。


「某、小笠原幸三郎と申す者でござる」


 村田は少し姿勢を改めた。


「これは御一門であられましたか。某は村田宗吾と申す。このたび竹松様をお送りする役を仰せつかり申した」


「村田殿、これはこれは御丁寧に」


 幸三郎が頭を下げたとき、竹松がくしゃみをした。


「これはいかん」


 幸三郎は慌てて竹松へ向き直った。


「竹松様をいつまでも雪の中にお待たせしては、殿にどれほど叱られるか分かり申さぬ。ささ、こちらの背負子へお移りいただきましょう。綿も十分に詰めてござる」


 背負子を持っていた男が前へ出た。


 竹松の前で背を向けてしゃがむ。諏訪の兵も膝を折り、背負子の紐を外しにかかった。


 竹松が雪の上へ下ろされた。


 新しい背負子へ向かって二、三歩進んだところで、諏訪の兵を振り返った。その拍子に足を取られ、身体が傾いた。


「あっ」


 しゃがんでいた男が手を伸ばした。


 竹松の腕をつかみ、倒れる前に支える。


 村田は、その手を見た。


 妙に白い手だった。


 指が細く、節も太くない。袖からのぞいた腕には日に焼けた色がなく、肩も薄かった。兵には見えなかった。山道で荷を担ぐ下人にも見えない。


 だからといって、ただちに怪しいというわけではない。


 小笠原家の奥向きで使われる者かもしれなかった。幼い竹松を背負わせるなら、武骨な兵より、身の軽い者を選んだとも考えられる。


「ちと、よろしいか。幸三郎殿」


 村田は言った。


「無論」


 幸三郎はすぐに答えた。


「されど、竹松様を背負子へお乗せした後でよろしいか。このとおり綿も積んでおります。多少揺れても、御身を痛めることはござらぬ」


「いや、その前に一つ伺いたい」


 村田は竹松のそばにいる兵へ目をやった。


 兵はすぐに竹松の肩へ手を置き、歩みを止めさせた。


 幸三郎の笑みが、わずかに動いた。


「何でござろう」


「そこもと、先日の会談にはおられたか」


「会談と申されますと」


「諏訪、高遠、小笠原の三家が集まった折のことである」


「ああ、あの会談でござるか」


 幸三郎は頷いた。


「無論、殿の御供をしておりました」


「小笠原殿は、御一門の方々をかなりの数お連れになっていたな」


「左様。ことがことだけに、殿もひとかたならぬ御心配をなされておりました」


「だが、某はそこもとを見た覚えがない」


 幸三郎は少し目を細めた。


 だが、すぐに困ったような笑いを浮かべた。


「某は名前ばかりの傍流にござる。御一門と申しましても、本堂へ入れるほどの身ではありませぬ。会談の場の外で、警固を仰せつかっておりました」


「それは異なことを申される」


「何がでござろう」


「この村田も、会談の場の外を守っておった」


 幸三郎の後ろにいた男の一人が、槍を持つ手を替えた。


 村田はそれを見たが、顔は幸三郎へ向けたままだった。


「あの折は、高遠の者といつ斬り合いになるか分からなんだ。事が起きれば、小笠原の兵がどちらへつくかも知れぬ。ゆえに某は、御一門らしき方々の顔をよく見ておった。だが、そこもとを見た覚えがない」


「警固と申しましても、場所は幾つもござろう」


 幸三郎は、まだ笑っていた。


「寺の門を守る者もおれば、裏へ回る者もおる。帰り道を固める者もござる。某は会場から少し離れた山道におりました。外を守ったという言葉だけを捕らえられても、困り申す」


 理のある答えだった。


 村田はしばらく幸三郎を見た。それから、頷いた。


「確かにそうであるな。おかしなことを申した。許されよ」


「いえいえ」


 幸三郎は小さく息を吐いた。


「この雪、この時世でござる。用心こそ肝要。疑われるのも当然と思い申す」


 そう言うと、竹松へ手を差し出した。


「では竹松様、こちらへ」


「ただ、もう一つ」


 差し出した手が止まった。


「まだ何かござるか」


 幸三郎の声から、愛想が少し消えた。


「竹松様をお待たせしとうござらぬのだが」


 村田は新しい背負子を見た。


 綿が厚く詰めてあった。上から掛ける布も新しい。竹松を大切に扱うためと言われれば、それまでのことである。


 だが、先ほどから胸に引っかかっていたものが、そこで形を持った。


「小笠原殿は、今川から入る木綿や綿をひどく嫌っておられたと聞く」


 幸三郎の眉が動いた。


「それが何か」


「随分な量を、よく御用意なされたな」


「竹松様の御身をお守りすると思えばこそでござる」


「武田家のことを思えばこそ、避けるべきではないか」


「綿の出所など、見ただけで分かるものではあるまい」


「分からぬ」


 村田は言った。


「されど、小笠原殿ならば、疑われる品をあえて使うまい」


 幸三郎は黙った。


 今度は、すぐに言葉が出て来なかった。


 村田は竹松の肩へ手を置いている兵を見た。


「竹松様を背負子へ戻せ」


 兵が動いた。


「待たれよ」


 幸三郎が言った。


「この寒さの中を、また諏訪へ戻られるおつもりか」


「そのつもりだ」


「些細な疑いで、竹松様を危険にさらされるか」


「些細かどうかは、諏訪へ戻って確かめる」


「村田殿」


 幸三郎の顔から笑みが消えた。


「先ほどから無礼でござるぞ。仮にも信濃守護の御一門に向かって」


「本当に御一門であられるならば、いくらでも詫びを入れよう」


 村田が言い終えるより早く、竹松の前にしゃがんでいた男が立ち上がった。


 拳が村田の頬へ飛んで来た。


 避ける間はなかった。


 頬骨のあたりで鈍い音がし、目の前が白く弾けた。村田は肩から雪へ倒れた。


「何をする」


 諏訪の兵が刀を抜いた。


 その頭へ石が飛んだ。


 兵がよろめいたところへ、崩れた塀の向こうから投網が広がった。刀を持つ腕ごと網に包まれ、雪の上へ引き倒された。


 本堂の床下、崩れた塀の穴、雪を被った茂みから、男たちが現れた。


 具足も揃いの衣もなく、山賊のような姿だった。手には棍棒、縄、投網を持っている。


 諏訪方の一人が竹松の前へ出た。横から棍棒が飛び、肩を打った。兵は刀を取り落とさなかったが、二人がかりで雪の中へ押し倒された。


 別の兵は網を刀で払った。だが足に縄をかけられ、仰向けに倒れた。その胸へ男が飛び乗った。


 村田は雪へ手をつき、起き上がろうとした。


 柔らかな雪が肘まで沈み、力が入らなかった。口の中に血の味が広がり、片方の目が開かなかった。


「竹松様を」


 声を出したつもりだった。


 喉から洩れたのは、かすれた息だけだった。


 諏訪の兵の一人が刀を振った。男の羽織が裂け、血が雪へ落ちた。


「殺すなよ」


 幸三郎が叫んだ。


「死人を出しては話が違う。殴って寝かせろ」


 白い手の男が竹松を抱き上げた。


 竹松は泣かなかった。


 何が起きたか分からぬ顔で、雪の中に倒れた諏訪の兵たちを見ていた。男は竹松を新しい背負子へ乗せ、毛皮を掛けた。


「竹松様」


 村田はようやく声を出した。


 白い手の男がこちらを見た。


 先ほどまでの従順そうな顔は消えていた。身体は薄かったが、その目には怯えがなかった。


 幸三郎が北の道を指した。


「急げ」


 男は背負子を背負って立ち上がった。


 二人がその左右につき、杉の間へ走り込んだ。竹松が背負子の中から振り返った。


 村田は雪を掻いた。


 身体はほとんど前へ進まなかった。兵たちのうめき声と、雪を踏み荒らす音が、遠く聞こえた。


 背後から足音が近づいた。


 振り向こうとしたとき、首筋へ鈍い衝撃が落ちた。


 青い空も、雪の光も暗くなった。


 意識が消える間際まで、村田は杉林の奥へ遠ざかって行く背負子を見ていた。竹松の顔だけが、いつまでもこちらを向いていた。


---



 正月が明けてしばらくたったころ、五郎は駿府館に帰っていた。


 本心を言えば、もうしばらく東三河にとどまり、土地の様子を見ておきたかった。先の一件の余波はまだおさまったとは言いがたく、国人衆の動きにも気になるところがあったからである。


 しかし駿府を空けつづけることは許されなかった。


 禁裏修理の奉仕が知られて以来、公家衆からの陳情や挨拶が目に見えて増えていた。まして正月ともなれば、駿府館には近隣の国人、寺社、公家の使者、それに今川家の被官が、日を置かず年賀に訪れる。その当主が東三河に居つづけていては、家中の者も取り繕いようがない。


 年が明ける前には、母と祖母と父の連名で、正月までには必ず戻るようにという書状まで届いた。


 三人が一通の文に名を連ねることはめずらしかった。それだけで、逆らう余地がないことは明らかだった。


 帰ってみれば、予想した以上の忙しさだった。


 早朝から衣冠を改めて年賀の客を迎え、昼には家臣の拝礼を受け、夜になれば重臣たちと膳を囲む。翌日も、その次の日も同じことが続いた。客の顔ぶれは変わっても、挨拶の言葉にはさほど違いがない。五郎は笑い、盃を受け、ときには相手の領地の作柄や縁者の病について尋ねた。


 そうして十日ばかりは、館の中にいながら、ほとんど身動きが取れなかったのである。


 その日、ようやく朝の客が途切れたので、五郎は居間を出た。


 冬の日は障子を白く照らしていたが、廊下には冷気が沈んでいた。庭の土は日陰のところだけ白く凍り、植込みの葉にもまだ霜が残っている。風はなかったものの、板敷きから足の裏へ冷たさがのぼって来た。


 五郎は歩きながら、凝った肩を軽く回した。

 曲がり角にさしかかったとき、廊下の先に、鮮やかな着物の裾が見えた。


 すぐに隠れた。


 五郎が足を進めると、また少しだけ現われる。今度は袖まで見せてから、するりと角の向こうへ引っこんだ。

 偶然とは思えなかった。こちらが気づくまで、何度でも繰り返すつもりらしい。

 魚を釣るような真似だ、と五郎は思った。


 その着物には見覚えがあった。昨年、甲斐からまとまった絹が届いたとき、女たちに一着ずつ仕立てさせたものの一つである。薄い色合いの地に、細かな花が散らしてあった。

 着ている者も、おおよそ見当がついた。


「霧姫様、いかがされました」


 五郎が声をかけると、角からひょっこりと顔が出た。

 霧姫の頬と鼻の先は赤くなっていた。少し顔をのぞかせただけでそうなったとは思えない。かなり前から、冷えた廊下に立っていたらしかった。

 呼び止めたいなら、使いの者をよこせば済むことである。わざわざ自分で待ち伏せして、着物の裾を見せたり隠したりする必要はない。


 だがこの姫には、ときおり物事の風情を重んじすぎるところがあった。

 普通に声をかけるより、偶然に行き会ったように見せたかったのかも知れない。あるいは五郎の方から見つけ、呼びかけることに意味があると思っているのだろう。


 五郎は小首をかしげながら近づいた。


 霧姫は、待ち受けていたくせに、ふいと顔をそむけた。


「あら、あら、お忙しい五郎様。如何されました。下向した娘如きに気を払われるなんて、おめずらしい」


「気は払っておりましたよ。少しですが正月に挨拶いたしました」


「ええ、一門のごとき縁深き身であっても、他と同じく公平な扱いでございました」


 年賀の席で、五郎は霧姫とも顔を合わせていた。

 もっとも、あの席には一門の女たちがそろっていたので、言葉を交わしたのはほんのわずかだった。霧姫には、それが気に入らなかったらしい。


 何か返すべきかと考えたが、まともに取り合えば話が長くなる。


 五郎は懐に手を入れ、真新しい白絹の袋を取り出した。表には自筆で寿の一字が書いてある。


「ではこれを」


「なんでしょうか。これは」


「開けてみてください」


 霧姫は袋を受け取ると、紐を解き、手のひらの上で逆さにした。


 ころりと、一粒の金が転がり落ちた。


 大きなものではなかった。親指の爪の半分ほどで、形も整ってはいない。しかし甲斐の金山から掘り出された金を、そのまま小さく分けたものである。磨かれた表には、廊下に差しこむ冬の日が鈍く光っていた。


 霧姫は眼を見張った。


「は、まあ、まあ、まあ、物で釣る。なんていかにもでございますわね。正月早々、金だなんて」


「金は縁起物と見てもよいのではないでしょうか。永遠に美しく、正月に贈るにはそうずれてもおりますまい」


 本当は、甲州金を見たがっていた芳菊丸にやるつもりのお年玉だった。


 懐に入れたまま渡す機会を失い、今日まで持ち歩いていたのである。霧姫のために用意した物ではなかったが、これで機嫌が直るなら安いものだ、と五郎は思った。


「はあ、なんとも味気のない。父からの文をお伝えに来たのに、こんなものを貰っては気もそがれようというものです」


 では弟にやるから返してもらおう、と言いかけた。


 しかし霧姫は、もう金を袋に戻し、いそいそと紐を結んでいる。結び終えると、誰かに取り上げられることを警戒するように、すばやく懐へしまいこんだ。


 その手つきを見て、五郎は口を閉じた。


「良いですか、五郎様。久しく会っていない女人にお会いしたら、まずは相手を褒め、健やかに育っていることに感謝の一つもするものです」


「左様ですか。それで参議様の文とは」


 霧姫はつんと唇を尖らせた。


 話を逸らされたのが不満なのだろう。大層気をそがれたという顔をしている。


 五郎は、ひそかに息をついた。


 血族の弟妹は多かったが、その中でも霧姫は一段と扱いにくい。言葉の一つ一つに望む形があり、その形から少しでも外れると、すぐ顔に出るのである。


「まあよいでしょう。こちらです」


 霧姫は袖から折り畳んだ文を出した。


 受け取って開くと、まず型どおりの正月の挨拶があり、そのあとに禁裏修理のことが記されていた。今川家の多大な奉仕に、宮中では五郎を称える声がやまないという。


 文章は丁重だったが、言葉を選んで書いた跡があった。


 禁裏の修理に三千貫を差し出したことは、すでに畿内のみならず、諸国の公家や寺社にも広く知られていた。それまで費用の工面に苦しんでいた者たちにとって、今川家の振舞いは、感謝すべき奉仕であると同時に、新たな頼み先が現われたことでもある。


 称賛だけで済む話ではないことを、参議も承知しているのだろう。


「随分と気を遣われましたね。殊勝なことです。ですが、」


「ええ、宮中の声というのはこちらへの気遣いでしょう。承知しております。ただ参議様のご負担を軽くすることができ、帝に奉仕できたのであればそれ以上は過分にございます」


 霧姫は顔をしかめた。五郎の答えが気に入らないらしい。

 何か言いかける様子を見せたが、そのまま唇を結んだ。自分から口を開くつもりはないらしく、横を向いている。

 五郎は文を畳みながら、しばらく待った。


「如何されました」


 水を向けると、霧姫はそっぽを向いたまま息を吐いた。


「無欲なのはいいですが、官位を一切求めないのはいただけません。それではまるで朝廷の価値がないと言っているようなものでございましょう」


 五郎は、はっとした。確かに朝廷の有様など甲斐や東三河のことに比べれば、あまりにも些事として扱っていた。家臣からその話が上がった時も、曖昧に頷きすぐに話を逸らしたこともある。 

 言葉に出さずとも、勘のよい者には気づかれていたかも知れなかった。


 五郎は、胸の中に染みこませるように、何度もうなずいた。


「確かに、それはいけませんな」


「で、ございましょう。そのようなありさまでは婚姻の一つも、」


 霧姫は、そこで不意に口を閉ざした。

 さきほどまでの拗ねた顔が消え、五郎の後ろへ身を寄せた。さらに一歩動いて、五郎の身体に隠れるように立つ。


 五郎が振り向くと、廊下の向こうから一人の老女が歩いて来るところだった。

 背筋を真直ぐに伸ばし、供回りも連れていない。ゆっくりした歩みだったが、姿が近づくだけで、冬の廊下の空気がさらに冷えたように感じられた。


 大御台、北川殿である。

 五郎は、ほかの年賀客にしたのと同じように、一礼した。


「大御台様、あけましておめでとうございまする」


「まあ、今川当主の正月は長いのですね。もう年が明けてずいぶん経ちます」


「これは失礼いたしました。正月早々五郎の顔など見とうないかと」


 北川殿は、ふんと鼻を鳴らした。不快であるならば、無言で排除くらいはする女性である。それを見るに機嫌はそれほど悪くないらしい。

 五郎は意識して相貌を崩した。


「先立っては随分張り切られましたね。三千貫とは」


 北川殿の切りつけるような言葉に、背後で霧姫の身体がわずかに動いた。悪戯を見つかった子供のように身を縮めている。

 五郎は半歩前に出て、霧姫を隠した。


「今川の家格で言えば、さほどおかしくはないかと。いまさら桁が多かったと言っても返ってこないのですから、笑っておいた方がよろしいのではないでしょうか」


「それに付随する厄介ごとがなければ、笑うておりました。先だって公家衆から随分と」


 五郎は片手を前に差し出した。

 北川殿は眉尻を上げたが、そこで口を閉ざした。

 五郎は振り返って頭を下げた。


「霧姫様、本日はありがとうございました。また五郎めの蒙を開いてくださればこれに勝る喜びはございませぬ」


 霧姫は、何が起きたのか分からないという顔をした。北川殿と五郎を見くらべ、しばらくためらったのち、漸く気が付いたように口を開いた。


「え、ええ、五郎様もお忙しいですが、ご自愛くださいまし」


 霧姫は二度、三度と振り返りながら、自室の方へ足早に去って行った。

 裾の花模様が角の向こうへ消えたあとも、しばらく廊下に足音が響いていた。

 その音が遠ざかるのを待ってから、五郎は北川殿に向き直った。


「そう邪見になさることはないでしょう。あの方も曾孫でしょう」


「だからこそ甘やかしていかぬのです。それに少しばかり実家のたかり癖を謗ったぐらいでなんですか、鼠のように逃げるあたり気に入りません。あとあなたも、あの子になにくれと物をやり過ぎです。嫁にでも貰う気ですか」


「まさか」


 五郎は首を振った。


 考えるより早く、身体が否定の形を取っていた。

 北川殿は、その動きを見て眼を鋭くした。だが何も言わなかった。

 しばらく五郎の顔を見たのち、ふっと眼の険を解き、懐から一通の書状を取り出した。


 霧姫に見せたくなかったのは、おそらくこの文だろう。

 それにしても今日は、随分と文を受け取る日だった。


「この場で読んでも」


「構いませぬ。むしろその方がよいでしょう」


 五郎は書状を受け取った。

 廊下に立ちつづけていたせいで、指先が少し冷えていた。紙を傷めぬように折り目を開き、最初からゆっくり目を通した。


 差出人は北条家の当主だった。

 つまり北川殿の甥、もっと言えば五郎の従伯父にあたる。

 文面は簡潔で、相模に対する上杉の圧力が急に強まっていること、可能ならば今川家の援助を願いたいことが記されていた。雪が解ければ、大軍が関東へ押し寄せるだろうという見通しも添えてある。

 一通り読み終えると、五郎は小さく、ふぅんと声を洩らした。


「そのように情の薄そうな顔をするから、人払いをしたのです」


「失礼しました。それにしても上杉ですか」


 大変だなと思うところはあるが、それ以上に予想していた事態が、思ったより早く形になったことへ興味が勝った。

 昨年の大永4年に北条方は扇谷上杉の江戸城を奪っている。数年続いた停戦を破っての城攻めであるが、結果は良いことばかりではない。扇谷と山内という関東に広く根を張る両上杉が、対北条にて緩やかに連帯を見せた。

 その両上杉が本気で相模へ兵を進めれば、北条はこの大兵力を単独で受けることになる。相模が破られれば、その先にあるのは駿河と東三河である。北条の危機は、今川にとって遠国の騒ぎではなかった。


「弟が亡くなって以降も、甥は良くやっています。しかし、聊か前に出過ぎているとも取れます。こちらに気を遣わず、当主として正しく判断なさい」


「兵は出します。三千と少ないですが、米と銭は多めに持たせてすぐに送らせましょう。大将は葛山」


 ほとんど間を置かずに答えると、北川殿は顔をしかめた。


「なにか」


「五郎殿、軍は家の大事です。そのように軽々と出兵を許すなど今川の当主として良くございませぬ」


「そうは仰りますが、北条が抜かれれば今川は東の壁を失いましょう。これを三千の兵で支えられるとあれば得るところもございます」


 加えて大将が葛山とあれば、北条方もそう気を悪くしないと見ていた。葛山は北条と縁が深い。実際葛山に北条の子が養子に入っているため、北条に余計な警戒を抱かせずに済む。葛山は駿東に勢力を持ち、北条との縁も深い。今川の兵を率いながら、両家の間をつなぐ役を果たせる者だった。

 無論、三千の兵で両上杉の大軍を退けられるとは、五郎も思っていなかった。

 ただ、米と銭を十分に持たせれば、北条方の負担を減らすことはできる。今川から援兵が来たという事実だけでも、相模の国人衆に与える影響は小さくない。


 五郎にとっては、こういう場面が来れば使おうと考えていた人選である。

 北川殿はしばらく黙って孫を見た。 その顔には、怒りよりも、訳の分からぬものを理解しようとする色があった。やがて北川殿は諦めたように、深く息を吐いた。


「いっそ、年老いた祖母を気遣ってくれた方が安心できましょう。果断も過ぎれば人が付いてきませぬ」


 五郎はまた、はっとした。

 そして先ほど霧姫に言われたときと同じように、その言葉を胸に染みこませるようにうなずいた。


「金言ありがたく。今日は学びの多い日で嬉しゅうございます」


 北川殿は、またも深い息を吐いた。

 白い息が、冷えた廊下の空気にわずかに浮かび、すぐに消えた。


 その日の報告はそれで終わった。ただ、数日後、駿府はまたも揺れた。元甲斐守護、武田家の遺児、竹松が蜂起したのだ。



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― 新着の感想 ―
竹松のエピソードは、竹千代強奪を思わせられて面白かったです。
面白かった! 一気読みしました。 続き楽しみに待ってます。
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