4章_7
大永五年の正月、府中には暮れからの雪が残っていた。
道端へ寄せられた雪は灰色に汚れ、馬や荷駄の蹄に深くえぐられていた。昼近くには空も曇り、北風が屋根の雪を粉のように舞い上げていた。
諏訪刑部が小笠原の館へ入ったのは、巳の刻を少し過ぎたころである。供は二十人ほどで、具足こそ着けていなかったが、腰の物は旅装にしては重かった。それから半刻して、高遠弥三郎が着いた。供は諏訪刑部の半分にも満たなかった。
二人は同じ広間へ通されたが、言葉を交わそうとはしなかった。
火鉢には新しい炭が足されていた。諏訪刑部は火の近くに座り、高遠弥三郎は少し離れた。互いに見ぬふりをしながら、供侍の刀の置き方まで見ていた。
膳が運ばれ、熱い湯と干した柿が置かれた。諏訪刑部は湯呑みに手を触れただけだった。高遠弥三郎は柿を一つ割って種を除いたが、口へは運ばず、膳の端へ戻した。
「よう参られた、刑部殿、弥三郎殿。年明け早々に御足労を願い、申し訳ない」
小笠原大膳大夫が頭を下げると、高遠弥三郎は同じほど頭を下げた。諏訪刑部は座ったまま、わずかに顎を引いた。
「早速ではあるが、お二方にとっては御不快な話をいたす」
小笠原大膳大夫は膝の上に両手を置いた。
「今川にしても、それ以外の家にしても、諏訪と高遠のどちらが上に立つかなど、さして興味はございませぬ」
火鉢の中で炭が鳴った。
「何を申される、大膳大夫殿」
諏訪刑部が目を細めた。高遠弥三郎は膳の上の柿を見ていた。
「外の者がそのことに興味を持つとすれば、争いを種にお二方を動かし、利を得ようとするときだけでござろう。されど両家が兵を集め、境の道を塞ぎ、互いの使者を留め置くとなれば、話は別でござる」
年の暮れから、両家は境へ兵を集め、街道の荷や使者を止めていた。どちらも相手が先だと言い張っている。その間にも甲斐では今川が国人を従え、南から信濃を窺っていた。
「現に今、今川が信濃へ足を延ばすにあたって、もっとも都合のよい足掛かりとなっておるのが、ご両家の争いにござる」
「されど南信濃では、大膳大夫殿の御一族が今川へ頭を下げておられるようですが」
高遠弥三郎が静かに言った。
諏訪刑部の口元に、かすかな笑いが浮かんだ。先ほどまで互いに顔も見ようとしなかった二人が、小笠原大膳大夫を前にした途端、同じ側へ寄ったように見えた。
「その話なら承知しておる」
小笠原大膳大夫は声を変えなかった。
「両家の話が片づけば、すぐにでも南へ使者を出す。自家の都合より、信濃守護として国のことを先にする。それを笑われるとは思っておりませなんだ」
「笑った覚えはござらぬ」
「ならばよい。本音を申せば、このような場に座るより、早々に南信濃へ足を延ばしたい。しかし、それができぬのは、お二方が今にも兵を出しかねぬ有様だからではござらぬか」
小笠原大膳大夫は二人を見回した。
「諏訪と高遠が争えば、小笠原は兵を割かねばならぬ。道が止まれば商人が逃げる。諏訪社へ詣でる者も減ろう。それで困るのは小笠原ばかりではありますまい。違い申すか」
高遠弥三郎は目を伏せた。諏訪刑部は不快そうに口を曲げ、冷めた湯を一口飲んだ。
「もっとも、ご両家の間柄は判じ物のようなもの。昔の縁を持ち出せば近く、境の話になれば遠い。これを外の小笠原が解けと申したところで、解けはしますまい」
「では、何をするために我らを呼ばれた。信濃守護殿」
諏訪刑部は、守護殿という言葉にわずかに力を入れた。
「内々のもつれは解けずとも、外から持ち込まれた問題ならば、小笠原の手で片づけることもできましょう。たとえば竹松殿の一件などは、まさにそうでござる」
諏訪刑部の指が湯呑みから離れた。
「竹松殿は諏訪を頼って落ち延びられた。竹松殿の扱いについては、諏訪の領分でござろう」
「竹松殿についてはな」
高遠弥三郎が初めて諏訪刑部へ顔を向けた。
「されど、高遠の扱いまで今川へ約定するのは領分違いにござる」
「そこまでにされよ」
小笠原大膳大夫は片手を上げたが、諏訪刑部は引かなかった。
「高遠が今川の荷を狙い、夜盗のような真似をせぬと信じられるのであれば、諏訪とて余計なことは申さぬ。高遠と今川との間で火がつけば、諏訪にも火の粉がかかる。ゆえに高遠のことも約定へ含めた。それだけのことよ」
「今川の名を借りて、高遠を下へ置こうとしただけではござらんか」
「下へ置かれて困るような振る舞いをせねばよい」
高遠弥三郎の声は低かった。諏訪刑部の手が膝の上で動いた。
小笠原大膳大夫は掌を畳についた。強く叩いたわけではない。それでも広間の空気が止まり、背後に控える者たちが顔を伏せた。
「どちらが先に何をしたかは、あとで幾日でも言い争われよ。今聞いておるのは一つだけでござる。ご両家が揉めたままであれば、いずれ今川が来る。それを承知のうえで、なお続けられるか」
諏訪刑部が怒りを隠さず小笠原大膳大夫を見た。高遠弥三郎はかえって表情を消した。
今川五郎がすぐ信濃へ兵を向けるとは限らない。だが、諏訪にも高遠にも、街道の安堵を名目として兵を入れる口実はあった。理由など、あとからいくらでも整えられる。
「ただし、竹松殿の扱いも含め、今川と約定を結ぼうとしたこと自体は、悪い手とは思わぬ。兵を退かせるために話をつけるのは恥ではござらぬ。ただ、諏訪の名で高遠まで縛ろうとしたために、戦を避けるはずの約定が、かえって火種になった」
諏訪刑部の眉が動いた。それ見たことかと笑いかけた顔が、途中で止まった。
「その火は、あの五郎を呼び寄せまする」
「随分と賢しらなことを申される」
高遠弥三郎が言った。
「結局、大膳大夫殿は、この一件をどう裁かれる。ぜひとも信濃守護の裁きとやらを見せていただきたいものでござる。見事な裁きであれば、京の管領殿もお考えを改められるやもしれませぬぞ」
小笠原大膳大夫はすぐには答えなかった。
守護職を小笠原から今川へ移すという噂を、高遠弥三郎が知らぬはずはない。知っているからこそ、諏訪刑部も家臣もいるこの場で持ち出したのである。
「名裁きなどではござらぬ」
小笠原大膳大夫は膝の上で拳をほどいた。
「竹松殿を小笠原で預かる。それではいかがか。そのうえで、小笠原が信濃守護として今川と約定する。今川は竹松殿を口実に信濃へ兵を入れぬこと。境で行き違いが生じたならば、まず双方で使者を立て、仔細を詮議すること。今川に落ち度があれば、小笠原が信濃を代表して前に立つ。それも文に加えよう」
「結局、諏訪の名が小笠原に代わっただけではござらんか」
高遠弥三郎が言った。
「違う。諏訪が高遠のことまで約するから揉めた。小笠原は信濃守護として、諏訪と高遠のいずれにも同じ約を守らせる。今川に対しても同じでござる」
「言葉では、いかようにも申せよう」
「ゆえに文にする。小笠原の名で判を据える」
小笠原大膳大夫は諏訪刑部へ目を移した。
「竹松殿は府中で守る。今川から御命と御身分について確かな返答を得たのち、引き渡す。それまでは小笠原が預かろう。諏訪も高遠も、竹松殿の名を使って兵を動かさぬ。使者を出すときも、小笠原へ知らせていただく」
「竹松殿を小笠原へ引き渡す理由など、毛頭ござらぬ」
諏訪刑部が言った。
「我が家を頼って落ち延びられた甲斐守護の御遺児を、安々と他家へ任せたとあっては、諏訪の恥となる」
予期していた返事だった。小笠原大膳大夫は頷いた。
「信濃守護が、信濃へ落ち延びた者を守るために他国と約定を結ぶ。それは後ろ指をさされることではござらぬ。竹松殿を奪うのではない。諏訪に代わって預かり、諏訪に代わって今川と話す」
「同じことよ」
「同じではござらぬ。刑部殿が今川へ差し出せば、諏訪は武田の遺児を売ったと言われる。小笠原が引き取り、今川と約定のうえで渡せば、信濃守護が国境の争いを収めるためにしたことになる」
諏訪刑部の顔から怒りが引いたわけではなかった。しかし目の色が変わった。小笠原大膳大夫の話が、自分の家にどのような利を持つかを量り始めたのである。
「竹松殿を今川へ渡すことは、すでに刑部殿も考えておられたはず。差し出したとの泥を、小笠原がかぶってもよい。そういう話をしておるつもりでござる」
諏訪刑部は口を閉じた。
高遠弥三郎は膳の端に置かれていた柿を取り上げ、一口かじった。乾いた果肉をゆっくり噛み、残りを膳へ戻した。
「なるほど。信濃守護として当然の務めを果たされるということでござるな」
「無論」
「ならば高遠に異論はござらぬ。ただし、途中で信濃守護が変わるようなことがあっても、信濃へ兵を入れぬとの約定は守られるよう、御心に留めていただきたい。管領殿は随分と今川五郎を気に入っておられるそうでござれば」
「先ほどから、無礼な」
小笠原大膳大夫の腰が浮いた。
背後に控えていた近習が、すぐに膝を進めた。
「殿」
低い声だった。
小笠原大膳大夫は立てた膝を戻した。ここで怒れば、守護職を失うことを恐れていると、自ら認めるようなものである。
「失礼いたした」
小笠原大膳大夫は高遠弥三郎へ頭を下げた。
「御心配には及ばぬよう、務めを果たす所存である。刑部殿も、それでよろしいか」
諏訪刑部は火鉢へ目を落としていた。
「竹松殿を引き渡すとしても、罪人のように扱わせることは承服できぬ。御命は必ず保証していただきたい。できることなら、京の寺へ入れ、出家させることも条件へ加えていただく。甲斐へ戻さず、今川の家中にも置かぬ。それが受け入れられるならば、諏訪にも異論はござらぬ」
京の寺へ入れることは、今川にとっても悪い話ではない。命を助けたとの体裁が整い、竹松を担ぐ者からも遠ざけられる。
「そのように求めよう。ただし、寺については今川の返答を待っていただく」
「承知した」
三家の祐筆が呼ばれたのは、それから間もなくであった。
広間の隅に文机が三つ並べられ、小笠原の祐筆が読み上げる文案を、諏訪と高遠の者が一字ずつ改めさせた。
竹松を小笠原が「預かる」と書くか、「守る」と書くかで、まず筆が止まった。次には今川へ「引き渡す」のか、「送り届ける」のかで揉めた。結局、「今川より御命安堵の証文を受けたる後、御身のことを相計らう」と書かれた。
「何も決めていないように読めますな」
高遠弥三郎が言った。
「何も決めておらぬように書き、決めたとおりに運ぶ。そのための文でござろう」
小笠原大膳大夫が答えると、諏訪刑部が初めて小さく笑った。日が西へ傾くころには、三者が判を据えられる文面が整った。
竹松は小笠原大膳大夫が府中で守る。小笠原は今川へ使者を立て、竹松の命と相応の待遇を保証する証文を求める。今川は竹松を名目として信濃へ兵を入れず、境で争いが起きたときは、まず小笠原と詮議する。諏訪と高遠は竹松の名を使って勝手に兵を集めず、他国へ使者を送るときは小笠原へ知らせる。
京の寺へ入れることについては、今川へ求めるとの一文が添えられた。
三人が判を据えると、広間にいた者たちがわずかに息を吐いた。朝から絶えず人の声がしていた部屋が急に静かになり、廊下の外で風が鳴っているのが聞こえた。
諏訪刑部と高遠弥三郎は、日暮れ前に館を出た。
二人が同じ門をくぐることを嫌ったため、諏訪刑部が先に立ち、高遠弥三郎はしばらく広間に残った。諏訪刑部の一行が町外れへ出たとの知らせを受けてから、高遠弥三郎も腰を上げた。
小笠原大膳大夫は二人を玄関まで見送った。門が閉じられると館の奥へ戻った。渡り廊下には風が吹き込み、庭の雪は青みを帯びていた。
「ようやく、まとまった」
後ろを歩いていた近習が頭を下げた。
「両家とも、あれほど揉められるとは思いませなんだ。てっきり一も二もなく、殿の御提案へ飛びついてこられるものかと」
「そうなれば楽であった。しかし無理もない。軽々に話へ乗り、これまでの約定を棚へ上げてしまえば、家の名が軽くなる。たとえ損のない話でも、まずは渋り、二度三度と難を申してみせる。相手に譲らせた形を作ってからでなければ、国へ戻って家中へ顔向けができぬ」
「刑部殿も弥三郎殿も、初めから受け入れるつもりであったと」
「初めから、とまでは申さぬ。されど、どちらも兵を出したいわけではなかった。諏訪は竹松殿を抱えたまま今川と向き合うのが恐ろしく、高遠は諏訪の名で今川に縛られるのが気に入らぬ。小笠原が間へ入れば、諏訪は汚名を免れ、高遠は諏訪の下へ入らずに済む。二人とも、それが分からぬほど愚かではない」
「御見それいたしました。やはり信濃の守護職は、殿をおいてほかにございませぬ。京の御方々も、いずれお分かりになりましょう」
世辞であろうと思ったが、悪い気はしなかった。守護職を今川へ移すという話を聞いて以来、胸の底へ沈んでいたものが、少し軽くなった。
奥の間へ入ると、小笠原大膳大夫は袖から文案の控えを出し、灯りの下へ広げた。三家の判はまだ乾ききらず、墨の色が鈍く光っていた。
「もしこれ以上、信濃守護を動かそうとするのであれば、この約定を京へ示してやればよい。諏訪と高遠を収め、甲斐との境まで静めた。それでも守護職の実が小笠原にないとは申せまい」
「それでも管領殿が、今川殿を信濃守護にと申されたならば」
「武蔵守殿にも敵は多い。今川贔屓が過ぎるとなれば、それを口実に騒ぐ者も出よう」
「殿はそこまで大局を御覧になっておられましたか」
小笠原大膳大夫は返事をしなかった。
管領の敵が小笠原のために動くとは限らず、京で騒ぎになったところで守護職が守られるとも限らない。それでも今日の約定は、小笠原が信濃を収めているとの証にはなる。
「今川も、すぐに信濃へ深く関わることはあるまい」
「左様でございましょうか」
「三河には松平がおる。今川五郎が竹松殿一人のために、そちらを放り出して信濃へ兵を入れるとは思えぬ」
そう言いながら、小笠原大膳大夫は昼の広間で口にした言葉を思い出していた。
理由など、あとからいくらでも整えられる。
それは今川だけの話ではない。小笠原もまた、竹松を守るという名目で諏訪と高遠の間へ入り、守護職を守ろうとしている。
今川五郎がそれを見抜かぬはずはなかった。
「まずは一つ、片づいた」
小笠原大膳大夫は言った。
その後、諏訪刑部と高遠弥三郎は境の兵を引いた。街道で使者を止めることもなくなり、数日後には竹松を府中へ移す日取りも決まった。小笠原からは今川へ使者が立てられた。
年明けから続いていた諏訪と高遠の争いは、ひとまず止んだ。
ただ、雪の下で道が見えなくなるように、争いのもとまで消えたわけではなかった。
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正月の三が日を過ぎると、諏訪社の門前もようやく静けさを取り戻しはじめた。
つい昨日まで道を埋めていた参詣人はまばらになり、軒を連ねていた物売りの仮小屋も半ばは戸を閉ざしている。残った店では、売れ残りの餅や干し柿を前に、店主が火鉢へ手をかざしていた。昨夜から降り続いた雪は社殿の屋根を厚く覆い、道の両側には人の背丈ほどにも掻き寄せられていた。時折、杉の枝から雪が落ち、その音だけが白く沈んだ境内に響いた。
門前から半里ほど山へ入ったところに、樵が雨露をしのぐための小屋があった。板壁はところどころ隙間があき、屋根には雪が重く積もっている。軒先から垂れた氷柱は短く、風が吹くたびにかすかに触れ合った。つっかえ棒で開けられた小窓から、白い湯気が細く流れ出していた。
板垣千四郎と宇田小太郎は、小屋の周囲を一巡して戻って来た。
二人とも蓑を着け、背負子には薪を積んでいる。腰に差しているのは大小ではなく、刃の欠けた鉈だった。傍目には、正月のうちから山へ入った貧しい樵にしか見えない。
千四郎は小屋の前まで来ても、すぐには戸へ手をかけなかった。自分たちの足跡が乱れる雪の上を見回し、次に林の奥へ目を向けた。風に揺れる枝のほか、動くものはない。
「少し見て来た間にも、誰も近づいてはおらぬな」
「気を張り過ぎではないか、千四郎」
小太郎は肩をすくめ、先に戸を開けた。冷えた風が小屋へ吹き込み、囲炉裏の煙が一度、戸口へ向かって流れた。
「ことがことだ。念を入れ過ぎて困ることはない」
「それで凍え死んでは、何をしに来たのか分からぬぞ」
小屋の中では、囲炉裏に掛けた鍋が煮えていた。粗く刻んだ蕪と山鳥の骨が浮き、蓋の隙間から湯気が噴いている。炉端には雉の肉を刺した串が並べられ、落ちた脂が火の中でぱちりと弾けた。
小太郎は背負子を投げ出すように下ろした。固く縛ったつもりの縄がほどけ、薪が土間へばらばらと転がった。
「肩が抜けるかと思った」
肩を大きく回し、下座へどすんと腰を下ろす。炙ってあった雉肉を一本取ると、熱さを確かめる暇もなく歯を立てた。
千四郎は転がった薪を一本ずつ拾い、壁際へ積み直した。それから背負子の底に隠してあった大小を取り出し、手の届く脇へ置いた。小太郎の向かいへ座っても、雉肉には手を伸ばさなかった。
「して、千四郎。竹松様の一件、まことなのだろうな」
小太郎は肉を噛みながら訊いた。
「まず間違いない。諏訪殿から小笠原へ御身柄を移し、その後は今川へ渡す運びだ」
「諏訪め、言うに事欠いて許せぬ」
吐き捨てながらも、小太郎は手の肉を残さず口へ運んだ。
「小笠原も腰抜けよ。守護だ何だと威張っておきながら、今川に首を垂れるとはな」
「諏訪殿も諏訪殿よ。京の寺へ入れられるよう取り計らったと、さも恩を施したように申しておったそうだ。誰がそのようなことを頼んだ」
「誰も頼んでおるものか。京など、今川にとっては勝手の知れた土地であろう。甲斐と信濃から引き離し、身動きもできぬところへ置いたうえで、命だけは助けてやるゆえ感謝せよと申すのか。俎板の上のなんとやらとはこのことよ」
「小太郎。おぬしも、そう思うか」
「それ以外に何がある。武田を、竹松様を、ないがしろにするにもほどがある」
小太郎は肉を食い切ると、骨だけになった串を炉端へ置いた。すぐに二本目へ手を伸ばしかけたが、千四郎が黙って見ているのに気づき、手を止めた。
「では、小太郎。そなたに、この沙汰を打ち破る腹案はあるか」
小太郎はつり上がった眉を八の字にし、千四郎をじっと見つめた。千四郎は、息を吐くと逆に小太郎の落ちくぼんだ眼を覗き込んだ。
「諏訪が許せぬ。小笠原は腰抜けだ。今川は竹松様を虚仮にしておる。そこまでは某も同じよ。では、どうする。おぬしには何か手立てがあるのか」
小太郎はしばらく千四郎を見返していたが、やがて視線を炉へ落とした。
「それを考えるために、今日ここへ来たのであろう」
「某は考えて来た。おぬしにも腹があるのかと聞いておる」
「そのようなものがあれば、とうに話しておる」
「そうであろうな」
千四郎は懐へ手を入れたが、まだ何も取り出さなかった。
「まず我らは、いくつか間違いを犯した。それを認めねばならぬ。第一に、頼りにならぬ方を頼ってしまった。竹松様を安々と差し出すような者と見抜けなんだのは、我らの目が至らなかったからだ」
「待て。あの折には諏訪を頼るほかなかったではないか。甲斐へ戻る道は今川に押さえられ、ほかに竹松様を受け入れる家もなかった。おぬしも、それが最善だと申したはずだ」
「申した。ゆえに某も誤ったと申しておる」
「ならば、いまになって目が至らなかったなどと言うのは卑怯であろう」
「頼るほかなかったことと、頼れる相手であったかどうかは別の話だ。諏訪殿が竹松様を受け入れれば、武田のために今川とも争ってくれる。心のどこかで、そうあってほしいと思っていたのではないか」
小太郎は眉を寄せた。
「何が言いたい」
「我らは、誰かが竹松様を甲斐へ戻してくれるのを待っておったということよ。諏訪が動くのを待ち、小笠原が動くのを待ち、今川の内に乱れが起きるのを待った。されど誰も、武田のためだけには動かなかった」
「こちらから動けば、今川に出足を押さえられて終わりだった。せめて一国ほどの後ろ盾を得るまで、ゆるやかに動いて足場を固めるべしと申したであろう。竹松様の御命まで危うくして、何が忠義だ」
「それは違わぬ。あのときは、そうするほかなかったのかもしれぬ」
「ならば」
「だが、待ち過ぎたのも事実であろう。これが二つ目の誤りよ」
千四郎は火箸で炭を崩した。灰の下から赤い火が現れ、雉の脂を受けて小さく鳴った。
「甲斐の不忠どもは、とうに今川の水に慣れた。首輪にも慣れ、いまでは己が繋がれておることさえ忘れて、与えられた米を食い、所領を抱えて肥え太っておる。あれほど早く人の心が変わるとは、某も思わなんだ」
小太郎は苦い顔をしたが、反論はしなかった。
「竹松様が生きておられることを、絶えず甲斐へ知らせねばならなんだ。武田の御跡を継ぐ方が信濃におられると、何度でも思い出させるべきであった。書状を送り、人を忍ばせ、今川の下に安んじている者どもの心を揺さぶり続けねばならなかった。それを怠ったゆえ、いまや竹松様は京の寺へ送られようとしておる」
小太郎は炉の火を見、それから吐き捨てるように言った。
「つまり、なんだ、もうどうにもならぬということか」
「まだ遅くはない」
千四郎は笑みと共に懐へ手を入れた。
取り出したのは、細く折られた一通の書状だった。火の近くへ寄せて折り目を開く。紙はさほど上等ではなかったが、文字には乱れがなく、書き慣れた者の手であることが知れた。
小太郎が身を乗り出した。
「これは」
「今川を気に入らぬ、おぞましいと思う者が、我らだけではないということよ」
千四郎は書状へ目を落としたまま言った。
「甲斐を奪っただけならば、国境の争いとも申せよう。されど信濃守護のことに口を挟み、三河へ兵を出し、方々の家の行く末まで己の手で決めようとする。いかに足利一門とはいえ、僭越と見る者が出るのは当然であろう。御方も同じお考えであるとのことだ」
小太郎は形だけは千四郎の言葉に頷いていたが、目線は差し出された文を行き来していた。忙しなく文へ一度、二度と目を走らせ、最後にもう一度読み返してから、やがて低く唸った。
「ううむ。これは、まことなのか」
「書かれておることは見せたとおりだ」
「そうではない。この者が、まことに我らを助ける気でおるのかと聞いておる。今川を煩わせたいだけで、我らに火をつけようとしているのではないか。どうにも某は、よいように使われる気がする」
「小太郎、そなたは不満を申すときには声が大きいが、いざ事を起こすとなると腰が引ける。それは悪い癖よ」
千四郎は書状を畳みながら、少し笑った。薄い、貼り付けたような笑みである。
「何だと」
小太郎が顔を上げた。
「遅きに失した愚は、先ほど認めたところであろう。されど、そなたの見立てが間違っておるとも申さぬ。向こうには向こうの利がある。我らに騒ぎを起こさせ、今川の目を甲斐や信濃へ向け、その隙に己の望みを果たす腹かもしれぬ」
「ならば、なおさら信用できぬではないか」
「信用する必要はない。我らも、この者を利用すればよい」
千四郎は折った書状を膝の上へ置いた。
小太郎は眉を寄せた。
「利用するだと」
「向こうが今川を煩わせたいというなら、煩わせてやればよい。その間に我らは竹松様をお救いし、甲斐へお戻しする道を作る。利が重なる間だけ手を借りる。それで十分だ」
「口で申すほど容易ではあるまい」
「容易でないからと座しておれば、今川はさらに固まるぞ。現に甲斐はすでに固まりつつある。三河もいずれ固まろう。信濃まで今川の言うままになれば、その後で甲斐を取り戻すなど夢のまた夢よ。動くならば、まだ継ぎ目の残っておる今しかない」
千四郎の顔から笑いが消えた。
小太郎は口を閉じた。首を傾げ、苦々しいものを飲み干すような顔で腕を組んだまま、身じろぎもしない。
鍋の蓋が湯気に持ち上げられ、かたかたと鳴った。千四郎はそれを見てから、静かに言葉を継いだ。
「それとも、このまま竹松様を京の寺へ入れるか。我らもお供して、朝夕一緒に経でも読むか。それとも、いまさら今川へ忠を誓うか。甲斐へ戻り、武田を捨てた者どもに交じって所領の安堵でも願うか」
「馬鹿にするな。どちらも御免だ」
小太郎は吐き捨てた。その声には、先ほどまでの迷いより怒りの方が強く表れていた。
千四郎は書状を懐へ戻した。
「では、決まりだな」




