4章_5
大永三年、霜月。空を重く覆う鉛色の雲が、三河の地に本格的な冬の到来を告げていた。
安祥と岡崎の中ほどに位置する古寺に、松平一門の重鎮たちが顔を揃えていた。それを松平次郎三郎清康は、少し頬を上気させて眺めていた。無論、ただ力強い一門であるなどとは思わない。
竹谷、形原、長沢、大給。いずれも松平を称してはいるが、一つの館に暮らす仲睦まじい一家ではない。それぞれが城と領地を持ち、己の家臣を抱えている。外敵を前に力を合わせることはあっても、利が相反すれば同族を相手に弓を引くことも珍しくはなかった。
安祥の当主が命じれば、松平のすべてが従うなどという、明確な上下関係では決してない。
その様な松平の集まりにあって、上座に位置する席がぽつんと一つ空いていた。そこに座るべきは西郷弾正左衛門信貞という男である。名前が示す通り、血こそ松平ではあるが、明確に一門とみなすのは難しい。
だが岡崎を領し、周辺の松平諸家と深く結びつき、西三河の行く末を決める場から外すことのできない実力者である。安祥に次ぐとも、それ以上とも見られる力を持ちながら、松平の内へ入るか否かは、その時々で都合よく使い分けている厄介な存在だった。
その弾正が現れたのは、寺僧が火鉢に二度目の炭を足した頃合いであった。
供を廊下へ留め置き、遅参を詫びて一礼する。だが、自身のために空けられていた次郎三郎の近くの座には進まなかった。あえて一門の年長者たちが並ぶ末席近くまで歩みを進めると、どかと腰を下ろした。
遅れて来たのだから下座へ座る。形の上では何一つおかしくない。むしろ弁えていると見ることもできるだろう。
実際、次郎三郎の近くへ座れば安祥の当主を一門の上に置いたと暗に認め、一門衆に蟠りを残すことにもなりうる。
では、末席に座った弾正を素直に喜べるかと言えば、そうではない。自分は若い次郎三郎の定めた席次など従わぬと振る舞いで示したとも取れた。
普段の弾正の態度からすれば、おそらく後者であろうと次郎三郎は見ていた。
次郎三郎は袖の中で拳を痛くなるほど握りしめた。
そもそも、岡崎は東三河に近い。今川方の商人も使者も、安祥へ来るより先に岡崎を通る。境の争いがあれば直接話もするだろう。今川方の使者が岡崎城へ出入りしているとの報せも、すでに次郎三郎の耳には届いていた。
土地柄ゆえと言われればそれまでである。それでも、どうにも今川に近すぎる。そのことが輪をかけて弾正を見る目を、鋭いものにしている自覚があった。
家臣の大久保左衛門五郎忠茂が、重い空気を断つように広間を見回した。
「各々方、お揃いにござるな」
年嵩の左衛門五郎が口を開くと、残っていた囁きが収まった。次郎三郎は固く握っていた拳をほどき、居並ぶ者たちの顔を順に見据えた。
「言うまでもないが、我ら三河の先行きについてのことよ」
思いのほか若く、よく通る声が広間に響いた。
ここにいる者の大半は、次郎三郎より二十も三十も年上である。白髪を交じらせた者もいれば、父や祖父の代から松平同士の血みどろの争いを見てきた者もいる。
だからといって、次郎三郎は殊更に声を低く作るような真似はしなかった。
東三河から戸田と牧野が消えて、すでに幾年かが過ぎている。
両家を追い出した後、今川も長くは持つまい。東三河は乱れ、いずれ兵を引く。西三河にも、そう高をくくる者は少なくなかった。
だが、現実は逆であった。
吉田へ集まる荷は増え、東三河の市は以前より賑わいを見せている。土地を離れた百姓ばかりではない。働き口を求める職人や商人、仕える家を探す武士までが、西から東へ流れ始めていた。
境近くの村からは、今川方が川筋を直したことで、こちらの田へ引く水が細くなったとの訴えも上がっている。今川が西三河の水を奪う意図で普請をしたのか、それとも己の領内を豊かにした結果にすぎないのかは分からない。
だが、東三河が豊かになるほど、西三河が割を食っている。そのように受け取る者は少なくなかった。
それだけではない。遠江や東三河の国人たちは、次男や三男を駿府へ出仕させ、今川の下で役目を得ようとしている。西三河にも、家を継げぬ子を今川へ出したいと、口にする者が現れ始めていた。
次郎三郎は、この場でそれらを糾弾するつもりはなかった。だが居並ぶ一門らを一人ずつ覗き込んでいった。
「各々方、今川の手が長く伸びていることは重々承知であろう。苦労なさっていることも、この次郎三郎の耳に入っている」
幾人かの一門の喉が上下した。次郎三郎は少し目を閉じた後、声を張った。
「今川五郎の野心は、どう見ても明らかでござる」
あえてそう断言した。
「甲斐を呑み込み、東三河を取り、そのまま西を見ぬはずがない。遠からず西三河へやってくることも必定であろう。そうなれば、今のように分かれたままの松平にこれを退ける力はござらん」
広間がどよめいた。
大給方の男がたまらず身を乗り出す。
「それはあまりにも無責任ではござらぬか。御身は安祥松平の」
「では、どうしろと申される」
次郎三郎の声が一段強くなった。
「巨大な今川に対して無謀に刀を振り上げ、皆で討ち死にいたしまするか。それとも皆、大人しく今川の法の下へ入り、己を捨てて這いつくばって奉公いたしまするか」
広間が静まり返った。
火鉢の中で炭が崩れる音だけが響く。
年長者たちの顔を見て、次郎三郎も言葉が過ぎたことに気づいたらしい。一度短く息を吐き、声を抑えた。
「失礼を申しました。若輩者の言葉とお忘れくだされ」
わずかに頭を下げる。
「されど、今のままでは家々が一つずつ潰され、その後に西三河は確実に呑まれましょう。これだけは、どうかお忘れなきよう」
誰も答えなかった。
長沢の老人が、組んでいた腕を解いて重い口を開いた。
「今川は恐ろしい相手よ。あれは甲府を随分と焼き払った。その上、あの武田すら根絶やしではないか」
「戸田、牧野もであろう」
形原方の男が青い顔で続けた。
「無残に追い回され、あの者らも三河から追い出されてしまった」
「だが、どうする」
竹谷方の者が低く漏らした。
「今川には従えぬ。かといって争えば勝てぬ。我らに何ができるというのだ」
次郎三郎は、その言葉を待っていた。いや、事前に根回しはしていた。それでも打ち合わせ通り口を開いてくれるか心配だった。
「皆、今川には従えぬ。とあらば、残る道は一つしかございますまい」
居並ぶ者たちの目が若き当主に集まった。次郎三郎は背筋を伸ばした。
「この次郎三郎を、松平一門の惣領としてお認めください」
広間の空気が揺れた。
父の信忠から安祥の家督を継ぎ、次郎三郎は安祥松平の当主となっている。安祥は松平の宗家を称し、次郎三郎も惣領の名を口にしてはいた。だが、それはあくまで安祥方の言い分にすぎない。竹谷には竹谷の当主がいる。形原には形原、大給には大給の家がある。安祥から領地を与えられて暮らしているわけでもなければ、安祥の命に必ず従う道理もない。
次郎三郎が求めているのは、名ばかりの惣領ではなかった。西三河に散らばる松平へ号令をかけ、兵を集め、他国との争いに一門の名で臨む。その実権を自分へ渡せ、そう今口にしたのだ。
「そうなれば今川の西進を食い止め、三河を松平の旗の下へまとめてみせまする」
「いや、しかし」
大給方の男が顔を曇らせた。
「そこもとは、まだ元服したばかりではないか」
次郎三郎の眉がぴくりと動いた。
「五郎めは、この次郎三郎より年下にございます」
誰も口を挟まなかった。
「年下の今川五郎にできたことが、なぜこの次郎三郎にはできぬのでござる。我ら松平の血は、今川に劣りましょうか」
この場にいる者は皆、松平の血を引いている。その集まりで、今川に劣っているなどとは言えるわけがない。だが、沈黙が同意でないことくらい、次郎三郎にも痛いほど分かっていた。
今川五郎には、駿河と遠江を支える盤石な家臣団がいた。今川家そのものが持つ強大な富と力もある。足利一門という血、公家の血という誰にも嗤われぬ出自もある。
それに引き換え松平はどうだろうか。内輪の争いを繰り返し、誰の下知にも素直に従わぬ。西三河ですらまとめ切れない。血の尊貴についてはいうに及ばない。
それでも次郎三郎には、その事実すら逃げ口上に思えた。五郎にできたのなら、自分にもできる。できぬと申すのなら、それは一門が自分を信じていないからだ。
「無作法をいたしました」
次郎三郎は、わずかに顎を引いた。頬に熱を感じ、胸元を緩めた。
「されど、どうかご承知くだされ。今川へ従えぬ以上、せめて松平は一つに固まらねばなりませぬ。そうでなければ、今川は交渉の席にすら我らを座らせますまい」
「交渉か」
誰かがポツリと呟いた。釣れたと次郎三郎は内心でほくそ笑んだ。
今川と戦うためだけに従えと言われれば、誰もが身構える。だが、今川と対等に話すためにまとまるのであれば、聞こえ方が違う。
今川へ無条件で降るのでもない。今川へすぐさま弓を引くのでもない。松平が一つの家として言葉を持つために、惣領を立てる。
方々にあった強張りが、わずかに緩んだ。長沢の老人が髭を撫で、竹谷方の者が隣と顔を見合わせる。
ならば、と考え始めた者もいる。
次郎三郎は拳を握った。
「皆様、異論はございませぬな。この次郎三郎を惣領として、共にこの苦境を乗り越え、」
「よろしいか」
末席に近いところから、平坦な声が上がった。
弾正が、膝の上へ両手を置いて次郎三郎を見据えていた。
次郎三郎は危うく舌打ちを仕掛けた。
あと少しで話がまとまるところだった。遅れて現れ、わざわざ下座を選び、今になって口を開く。次郎三郎の腹の内に、黒々としたものが湧き上がった。
「無論。西郷殿、申されよ」
表には出さなかったつもりだが、口調はいくらか硬くなった。
「そもそもでござるが。今川の野心が明らかというのが、某にはよう分からぬのでござるが」
「それは異なこと」
次郎三郎は即座に切り返した。
「無欲な人間が、甲斐や東三河を攻め取りはしますまい」
「五郎殿が無欲か強欲かなど、某は知らぬし興味もない。西三河を取ろうとしているかどうかは、それとは別問題でござろう」
「同じことではないか」
「左様であろうか」
そのとぼけた言い方に思わず立ち上がりそうになった。
だが、弾正はあくまで穏やかに言い含めると、一門衆へ顔を向けた。
「ここに、直接今川方と話したことのある者はおられるか。敵へ通じたかと咎めているのではない。境の係争における和議や、寺社領の取り決めも含めてのことよ」
互いに顔を見合わせた後、形原方の男が恐る恐る手を上げた。竹谷からも一人、長沢からも一人が続いた。
「おお、おられるか。無論、この西郷もでござる」
弾正はゆっくりと頷いた。
「では、この中に今川方から不利な条件を突きつけられた者はおられるか。城を寄越せと言われた者、人質を出せと求められた者でもよい。銭を不当に奪われた者、兵を出せと迫られた者。他にも例えば川などの扱いでもよい。おられるか」
手は上がらなかった。
「であろうな。この西郷もでござる」
次郎三郎は、弾正の顔を鋭く睨んだ。
「西郷殿。何をおっしゃりたいのか、次郎三郎には分かりませぬ」
「いや、単純なことよ。今川は、これ以上我らの領地など欲しておらぬのではないかということよ」
次郎三郎の口元が歪んだ。
「年若い五郎は才気に溢れ、己の力を誇示しようと躍起になっておりまする。甲斐を取り、東三河を取り、それで満足するものか」
「どこぞの誰かがそうだからといって、今川五郎殿もそうとは限りますまい」
次郎三郎の頬が引きつった。
左衛門五郎が、弾正へ顔を向ける。
「西郷殿。それは無礼ではござらぬか」
「いやいや、次郎三郎殿のことを申したわけではござらんよ」
弾正は、悪びれもせずに手を振った。
「ただ、某が申したいのは、こちらで勝手に集まり、勝手に今川を敵として徒に弓を引けば、その気のない向こうも腰を上げざるを得なくなるのではないかということでござる」
そして居並ぶ者たちを見回す。
「皆々様におかれては、一旦腰を据え、今川と腹を割って話してみるべきではござらぬか。西三河へ兵を入れるつもりがあるのか。我ら松平と争う気があるのか。互いに兵を入れぬ取り決めもできよう」
あの五郎と話し合う。あの高貴な今川五郎氏景と。
そう考えたとき、次郎三郎の口が勝手に動いた。
「そこもと、今川と通じておるな」
次郎三郎の冷たい声が、弾正左衛門の言葉を断ち切った。
広間が静まり返る。弾正左衛門の目が細くなった。
「何を申された」
「左衛門五郎が申しておった。今川方の使者が、岡崎城へ出入りしているとな」
左衛門五郎が何か言おうと身を乗り出したが、次郎三郎は止めなかった。
「大方、三河がまとまるのを邪魔せよ、とでも唆されたか。代償は銭か米か」
「たわけ」
弾正左衛門の声から、先ほどまでの穏やかさが一瞬にして消え失せた。
「どこぞの誰かが南信濃へ不要なちょっかいをかけておるゆえ、今川方が岡崎まで真意を確かめに来たのよ。こちらは何も関わっておらぬと事実を説明しておったまでのこと」
「説明、と」
次郎三郎は鼻で笑った。
「まるで己が、三河松平の顔役として今川へ弁明したかのような口ぶりよな」
「若造。それは先ほどのそなたではないか」
広間の空気が凍りついた。
「なにを」
「今川の威光を勝手に持ち出し、皆の心をくすぐっては、うまうまと惣領になろうとしていたではないか」
「もとより安祥は松平の宗家。危難においては、この次郎三郎が皆の矢面に立つ。これの何がおかしいことか」
「危難に矢面とは」
弾正が冷たく笑った。
「そこもとは、ただ五郎殿への対抗心で動いておるだけではないか」
次郎三郎は、膝の上で拳を固く握った。
「何を申す。あのような小僧に対抗心など」
「ああ、申し訳ない」
弾正は、笑みを浮かべた口元を隠した。公家のようなその仕草が、今川を思わせ、無性に次郎三郎の苛立ちを煽った。
「五郎殿は初陣で一万の兵をなぎ倒したのであったかな。いやはやあれと比べられてはかなわんよな。引き合いに出されては、いっそ惨めというものよな、次郎三郎殿」
次郎三郎が弾かれたように立ち上がった。
手が刀に伸びた。
「次郎三郎様っ」
左衛門五郎が横から飛びつき、その腕を抱え込んだ。もう一人の安祥方の家臣が、次郎三郎と弾正左衛門の間へ壁のように身を差し入れる。
「はなせ、どけ、左衛門五郎」
「なりませぬ」
「あれを許しておけぬ。三河松平の」
「御前でございますっ」
左衛門五郎の声が響いた。その間も弾正は、ひどく悲しげに次郎三郎を見ていた。
一門衆は立ち上がることもできず、ただ息を呑んでやり取りを見ていた。
左衛門五郎は次郎三郎の腕を力一杯押さえ込んだまま、一門衆へ向かって声を張った。
「皆々様、本日はここまでといたしましょう」
異を唱える者は誰もいなかった。
竹谷方の者が逃げるように立ち上がり、形原、長沢、大給の者たちも無言で続いた。誰も次郎三郎と目を合わせようとはしない。
戸が開くたび、冬の身を切るような冷気が広間へ容赦なく入り込んだ。
弾正は最後まで残っていた。
家臣たちに押さえられ、深く息を吐く次郎三郎をしばらく見下ろした後、深くも浅くもない一礼をする。
「惣領の話は、またいずれ」
それだけを残し、広間を出ていった。
次郎三郎は、ようやく左衛門五郎の腕を乱暴に振り払った。
だが、その背を追って斬りかかることはできなかった。
火鉢の火は、ほとんど落ちていた。
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大永三年、霜月の末。
吉田城の北を流れる川面は、重い冬の空を映して鈍く濁った光を放っていた。
今川五郎氏景は堤の斜面へ下り、新しく打ち込まれた杭の一本を足で確かめるように押した。夏の出水で削られた場所に石と柴を詰め、その上から土を厚く被せてある。見た目には元の形を取り戻していたが、踏み込めばまだ柔らかい。
「春までは持ちこたえましょう」
傍らに控える三浦次郎左衛門範高が応じた。
五郎が吉田城の守将に次郎左衛門を据えて以来、彼は旧戸田、牧野方の地侍を召し出し、城兵と村役を組み直している。新しく得た土地に血気盛んな若い近習を置くより、父氏親の代から今川家を支えてきた三浦を据えた方が、東三河の国人たちも今川が腰を据えて支配するつもりだと受け取る。その目論見どおり、今のところ城下や領内に目立った騒ぎは起きていない。
堤の下では、村の男たちが籠へ石を詰めている。五郎の姿を認めて手を止めかけた者もいたが、次郎左衛門が鋭く目を向けると、すぐに黙々と作業へ戻った。
「幾人かの国人から、堤の件で訴えが来ているが、ほどほどに相手を頼む」
「ええ、ほどほどに酒でも出してなだめておきまする」
堤による川の流れの変化はある。流量の一時的な減少も事実である。とはいえ田畑や生活に必要な水を切るつもりは毛頭ない。ただ大雨で増水した際の水の逃げ口やため池を増やしただけである。無論、三河の西に流れる量もほどほどに気を遣っている。むしろ、この一件で相手方が訴訟を起こすのであれば、歩み寄る契機とすら見ていた。
次郎左衛門は静かに一礼した。その程度のことは、言葉にせずとも互いに分かっていた。
五郎が吉田城へ出向いたのは、川普請の視察だけが目的ではない。
城下の蔵には、その年に集められた綿花が俵に詰められ、壁際に幾列も高く積まれていた。出来の良いものは掛塚の湊へ送り、残りは吉田で種を繰り、糸に紡ぐ。遠江から呼ばれた職人が綿の質を確かめる傍らで、西三河から流れてきた女たちが、単調な音を立てて綿繰り車を回していた。
戸田と牧野を追い落とした直後、東三河の今川支配は数年も持たぬと冷眼視されていた。今川の主力が引けば、旧臣や国人が再び覇権を争い、市も田畑も荒廃する。西三河の者たちはそう高をくくっていたのだ。
だが、現実は逆であった。安全と富を求めて、人も荷も確実に東へ流れ込んでいる。
蔵の外には、五郎に従ってきた馬廻りが手綱を引いて待っていた。駿河の者ばかりではない。甲斐から来た者、遠江の小領主から差し出された次男、三男は今川の旗の下にいながらも、父祖の家紋を隠そうともしていない。具足も馬具も不揃いで、言葉の訛りすら異なる彼らだが、五郎が外へ姿を現すと、一斉に背筋を正した。
次郎左衛門が彼らへ目をやった。
「随分と、数が増えましたな」
「これはと思う者はどこの国にもいるものでな。できれば機会を与えて磨いておきたい」
「ははぁ、それはまあ随分な寵愛で。そこな馬など、御先代の替え馬であったのでは」
「そこそこの馬では乗り潰してしまうのでな。飼い葉も含め、こちらで世話することにした」
次郎左衛門が一人の馬廻りの騎乗する馬を指した。通常の馬の数割増しの堂々たる体躯は、間違いなく先代氏親の馬である。乗り手の巨体も相まって、ひときわ目立つ。指摘された馬廻りは少し恥ずかしそうに背を丸めた。
「里帰りなどでは、大層目立つでしょうな」
「息子が大切にされているとわかれば、親も喜ぼう」
「ええ、親族らも我も我もと秘蔵っ子を差し出すやもしれませんな」
次郎左衛門の言葉に、五郎は口元を緩めただけで答えなかった。
今川の下へ出仕させれば、五郎の覚えがめでたくなり、大切にされる。場合によっては所領や役目も得られるかもしれない。そう思い込んでくれれば恩の字である。もっとも、五郎に新たに得た土地を馬廻りへ切り分けるつもりはなかった。働きに応じて銭や役目、扶持は与えるが、城や村を世襲の褒美としてばらまけば、今川の領内に御しがたい小さな国を増やすことになる。
一通り見終えて吉田城へ戻った頃には、西の空から夕暮れの色が消えかけていた。
次郎左衛門から城兵、蔵米、旧臣の動きについて報告を受ける。牧野方の地侍が二家、境を巡って小競り合いを起こしているほかは、今すぐ手を入れねばならぬ火種もない。五郎が書付を返すと、次郎左衛門はそれを畳まず、膝の前へ置いた。
「もう一つ、内々の話がございます」
「申せ」
「西郷弾正左衛門信貞が、御目通りを願っておりまする」
五郎はわずかに眉を上げた。
岡崎を領し、周辺の松平諸家とも深く結びつく西三河の実力者である。今川の使者が岡崎へ出入りすることはあっても、当人が自ら五郎へ会いたいと申し入れたのは初めてだった。
「城へは来ぬのだな」
「人目につくのを避けたのでございましょう。赤坂より西の古寺で待っておりまする。不敬だと叱り飛ばせまするが」
次郎左衛門の声音には、今川の当主が西三河の国人のもとへ出向く必要はないという不満が混じっていた。
「その儀には及ばんよ。松平の会合、相当揉めたようだな」
五郎はゆっくりと立ち上がった。
「こちらへ来られぬ事情がある相手には、出向いた方が話が早い」
「いっそ何も手を出さず、揉めるだけ揉ませましょうか」
五郎は答えなかった。
今川の家臣はこういうところがある。御家騒動や京の政変に付き合ったためか、相手の足を引っ張る時には容赦がない。五郎はそれをさして悪いこととは思えなかった。この世を生きるには相応に必要な素質でもあると考えていた。しかし、一方でその悪辣さを必要以上に見せることは危険でもあると捉えていた。
現に馬廻りの若侍らは次郎左衛門を見て顔を引きつらせていた。
弾正の待つ古寺へ向かうにあたり、供は減らした。甲斐や遠江から来た若い馬廻りも連れていったが、大半は山門の外へ残した。
悪だくみを聞かれたくないという心もあったが、弾正から事の真相をじっくり聞いてみたいという気持ちが強かった。
寺は街道から林の中へ少し入った場所にあった。手入れの行き届かぬ庭には苔の剥げた庭石が並び、葉を落とした木々の間を冷たい風が抜けている。
五郎が山門をくぐった時、弾正は僧に案内されて廊下を渡っていた。庭越しに、門外へ残された馬廻りの姿へ目を向ける。甲斐の者は袖に古い武田菱を残し、遠江の者も父祖の家紋を隠していない。過日の寄合で次郎三郎が口にした危惧が、門前に並ぶ若者たちの姿となっていた。
弾正はすぐに視線を戻し、五郎を座敷で迎えた。
「西郷弾正左衛門信貞にございます」
「今川五郎氏景と申します」
互いに顔も名も知っている。その上で改めて名乗り合うことが可笑しく、五郎は少し笑った。
弾正が訝しげな顔をする。その顔を見て、五郎はふと察した。
「官位のことであれば、まだございませぬ。五郎とお呼びください」
「先ごろ、京より葉室家の御方が駿府へ下向されたと伺いましたが」
さすがに耳が早い。いや、岡崎には遠江や駿河の商人も行き来している。多少は噂が入っていても不思議ではないのだろう。
「あれは身内の話にございます。若輩の五郎には、官位などまだ荷が重い」
「さようで」
弾正は、それ以上追及しなかった。
向かいに座る五郎を、改めて測るように見ている。努めて穏やかな表情を作って見せたが、弾正が気を緩めた様子はなかった。無理もないかと五郎は内心で納得する。甲府を焼き、武田を砕き、戸田と牧野を三河から追ったのは、他でもない五郎である。
寺僧が茶を置いて下がる。すぐには本題へ入らず、半ば開いた障子の向こうを眺めた。庭の隅で、風に押された枯葉が石へ引っ掛かっている。
弾正はいまだ距離を測りかねているようであったため、先に五郎が口を開いた。
「こちらから尋ねても」
弾正はわずかに面食らったようだった。
「構いませぬ」
では、と五郎は聞きたかったことをそのまま口に出した。
「して、松平の次郎三郎殿は、どうでしたか」
弾正は茶碗へ伸ばしかけた手を止めた。
「どう、とは」
五郎は少し笑った。確かに今の問いでは困るだろう。
「人物評も聞いてみとうございますが、何を望み、それをどう成そうとするのか。真っ直ぐに来るのか、回り道も使うのか。御身が見たところを聞きたい。先日、一堂に会したのであろう」
弾正は五郎の顔を静かに見た。
「松平一門の会合について、どこまでご存じで」
「家々が集まり、揉めたことだけだ。あれだけ人を呼べば、内容を探らずとも噂は広がりましょう」
弾正は庭へ目を戻した。しばらく言葉を選び、やがて静かに答えた。
「御身の前で憚られることではありますが、まず才気はございますな。人を使うのもうまい。機を見る目もあり、状況も読めまする」
「意外でございますな」
「年は若く血気盛んではありますが、大を成すにはそれぐらいでなくてはなりますまい」
五郎は茶碗へ口をつけた。
「ではそれほどの男を、なぜ惣領と認めなんだ」
弾正が動きを止めた。
「詳しくはご存じないはずでは」
「惣領の話が出た後に、御身が今川の当主を訪ねてきた。察しはつく。それで、なぜ惣領と認めなかったのです」
少し嘘があった。察したのは本当である。だが、松平の会合後に、数名の草の者が弾正と次郎三郎の決裂を掴んだ。とはいえ、どこかに忍ぶ必要すらなく、岡崎の町ではある程度有名な話であった。
弾正の口元に、わずかな苦みが浮かんだ。
「理由を申さば、その才覚ゆえ。これに尽きましょう」
「松平の惣領として不足でございましょうか」
「逆にございます。西三河をまとめるだけならば、十二分な器でございましょう。血気盛んな若さゆえに前へ出て、皆の信を集めることもできましょうな。ですが、その後はいかがいたしましょう。どこへ向かいましょう」
五郎は茶を飲んで西を見た。岡崎を越え、その先を。
「さて、尾張にでも向かってくれるのではないかな」
「某はそうは思いませぬ」
弾正の視線が五郎へ戻った。
「信濃を煽って、東三河にちょっかいを出しましょうな。今話に上がった尾張も巻き込み、大きな火をつけようとするやもしれませぬ」
「そして、その火の中でこの五郎を討ち、名を響かせる。できぬ、とは言えませぬ」
座敷の後ろで、次郎左衛門がわずかに身じろぎした。
弾正は首を横に振った。
「某はそう思えませぬ。ゆえ、ここに参りもうした」
控える者たちの目が弾正へ集まった。
「次郎三郎殿が松平をまとめ、御身へ弓を引けば、松平は敗れただけでは済みますまい。武田と同じく根絶やしになりましょう。いや、武田ほどにもまとまっておらぬ分、さらに始末が悪いやもしれませぬ」
随分悲観的にものを見る男だ。五郎は目を細めた。
「そのようなことはせぬと、一筆書かせに参ったのかな」
「書いてくださるので」
「戦は生き物ゆえ、先のことまでは約せぬ」
互いに少し頬を緩めた。
次郎三郎が西三河をまとめ上げ、東三河へ攻め入ってくるのであれば、松平の諸家をどこまで残すかはその時に決める。降る家は使う。なお抗う家は潰す。それでも境に火種が残るなら、松平の名ごと砕くことになるだろう。
武田にも戸田にも牧野にも、必要と見ればそうしてきた。松平だけを残す理由はなかった。
弾正は五郎の沈黙から、十分な答えを得たらしい。
「もう少し若く才に溢れていれば、次郎三郎と共に御身をはねのけ、三河を一つに、そしてより強くなどと考えたかもしれませぬ」
「今は何をお考えで」
「ただ岡崎と西郷の家が残ればよい。それにより松平も残ればよい。その程度にて」
庭へ、白いものが落ちた。
一つは冷えた庭石の上で消え、次の一つは枯葉の上に残った。初雪だった。五郎が縁側へ手を差し出すと、掌に落ちた雪は、すぐには溶けなかった。
弾正も薄暗い庭を見て、ため息をついた。
「積もりましょうな」
「ええ、積もれば、兵の足も遅れましょう」
今この時に次郎三郎が兵を挙げれば、今川勢が岡崎へ着く頃には、すべてが終わっている。雪がなくとも、西三河の家々が今川の軍勢を素直に通しはしないだろうが、それでも次郎三郎には有利に働く。
「でありましょうな」
弾正が肩を落とした。それから湯気の立った茶を口に運んだ。
「岡崎を守っていただきたいとは申しませぬ。次郎三郎殿を討ってくれとも、頼みに来たつもりはございませぬ」
頼まれても断らざるを得なかった。何にも増して軍を発するには時間がない。
弾正は居住まいを正した。
「万が一、西郷の者が敗れ、今川の地を頼って逃げ延びた時には、どうか門を開いていただきたい」
次郎左衛門の目が細くなった。
援軍を求めるよりも軽い願いに聞こえる。だが、敗れて逃れてきた一族を受け入れることは、単なる食客として匿うことではない。
「同族から後ろ指を指されましょうな」
「承知しておりまする」
「覚悟のほどは」
率直に言えば、岡崎に残った同族を斬れるのか。今川の先手となって西三河へ攻め込めるのか。そういう話である。
「なければここに参りませぬ」
弾正は五郎から目を逸らさなかった。
五郎は庭を見た。雪はまだ積もるほどではなかったが、庭石の窪みや枯葉の上には、白いものが残り始めている。
「承知した。西郷の者が逃れてきた折には、今川の門を開けておこう」
弾正は畳へ両手をついた。
礼は深すぎず、浅すぎもしなかった。ただ、弾正はしばらく頭を上げなかった。




