4章_4
大永三年の九月も半ばを過ぎると、甲府盆地を吹き抜ける風には、朝晩の冷え込みがはっきりと混じるようになっていた。
栗原兵庫の屋敷では、夕餉を終えた後も、座敷の隅に置かれた火鉢にわずかな炭が熾されていた。
底冷えをしのぐほどではない。ただ、客に冷えた部屋を使わせまいとする程度の心遣いである。
膳には白米がうずたかく盛られ、川魚の塩焼きと豆の煮物が品よく載っていた。酒も濁りが少なく、口へ含めば豊かな米の甘みが舌に残る。
二年前であれば、いかに大切な客を迎えた日であろうと、これほどの膳を供することはできなかった。
米はあっても、いつ今川との戦の兵糧として徴発されるか分からない。塩は高値で手に入り難く、魚に振るにも慎重な加減が要った。酒など、よほどの吉事でもなければ蔵から出すことすらためらわれたのだ。
だが、今は違う。
駿河、遠江から潤沢な米、良質な塩が絶え間なく運ばれてくる。無論、こちら側も絹糸や金を出しており、互いに持ちつ持たれつの関係と言っていい。ただ、甲斐全体が少しずつ上向きになっており、現に甲府の市へ足を運べば、以前の半値とは言わぬまでも、財布の底を気にせず買い求められる程度に、あらゆる物の値が落ち着いていた。
飯富兵部少輔は、きれいに空になった椀を膳へ戻した。
「たいへんな御馳走になり申した」
「この程度で御馳走などと言われては、こちらが困る。飯富殿の屋敷でも、似たようなものが出よう」
「我が家では、まだ魚が一尾少のうございますな」
兵部少輔の返しに、栗原兵庫は声を上げて笑い、銚子を傾けた。
「ならば、明日から少しばかり多く働かねばならぬな」
「まことに。甲斐では、働けば働くほど、食卓の魚が増えるようになりましたからな」
冗談めかした言葉だったが、兵部少輔の声には確かな実感が籠もっていた。
今川が甲斐を平定したばかりの頃、旧武田家臣の多くは、己の所領をいつ奪われるかと戦々恐々としていた節があった。運よく生き残れたとしても、駿河から来た代官の下に置かれ、名ばかりの役目で飼い殺しにされるものとばかり思っていた。
実際、逆らったがゆえに土地を削られた家もある。兵を供出する代わりに、道普請や蔵の管理といった裏方を命じられた者もいた。
ああ、これから今川の下で奉公せねばならないのか、と栗原兵庫もそんな怒りと諦観を感じていた。
だが、蓋を開けるとそれらの役目には、確実に米や銭がついてきた。
生糸の集荷を任された者は他国の商人と顔をつなぎ、金山の採掘に人足を出した家は、その正当な分け前を受け取った。道や橋の普請も、以前のようにただ人夫を徴発されて終わりではない。決められた日数を働けば、相応の米がきっちりと支払われた。
それまで先祖伝来の所領から上がるものを守ることしか知らなかった国人の子弟たちが、近頃では競うように今川の役目を欲しがるようになっている。
兵部少輔もまた、躑躅ヶ崎の館へ出仕し、軍をまとめる傍ら、甲斐衆から出される訴訟の処理や、蔵へ入る米の帳面を扱っていた。
武辺の家に生まれた者が、算盤と筆を持って稼ぐなど、昔ならば嘲笑の的だったかもしれない。だが今では、帳面を早く正確に仕上げる者ほど、名馬を買い、屋敷の傷んだ屋根を新しく葺き替えているのが現実だった。
栗原兵庫は兵部少輔の杯へ酒を注ぎながら、ふと座敷の外へ目を向けた。
庭の向こうに、新しく建てたばかりの蔵の白壁が見える。中には昨年から買い集めた生糸と、今年収穫された米がぎっしりと収まっている。すべてが自家のものではないが、それらを預かり、流すことで得られる手数料だけでも、以前の年貢収入に劣らぬ額になっていた。
「昔より、随分とよくなった」
栗原兵庫がしみじみと呟くと、兵部少輔は杯を持ったまま静かに頷いた。
「はい」
それ以上の言葉は必要なかった。
亡き武田五郎信直を嫌っていたわけではない。苛烈で急進的な男ではあった。冷酷な一面もあった。だが甲斐守護、名門武田の当主として不足がない人間とも考えていた。あの男の下知のもと、福島兵庫助の大軍を撃退したとき、胸が躍ったことは否定しない。
それでも、今のこの暮らしを捨てて昔へ戻りたいかと問われれば、迷いなく首を縦に振る者は、今の甲斐にはどれだけいるだろうか。
少なくとも栗原兵庫には無理だ。
膳を下げるために入ってきた小者が座敷を出るのを見届けてから、栗原兵庫はすっと声を落とした。
「飯富殿。少し、よろしいか」
その声音の変化に、兵部少輔の目からすっと酒気が引いた。
「何か、耳に入りましたか」
「武田のことである」
飯富家も栗原家も、武田家とは縁が深い。いや古来より忠臣であったなどということはない。実際、共に武田に弓を引こうとしたことさえある。ただ、そういった部分もあってか、躑躅ヶ崎で今なお武田の名を口にするときには、自然と声を潜める癖が抜けきらない。
「誰のことでございますか」
「竹松殿だ。知っておられるか」
兵部少輔は何も言わなかった。
竹松殿は、武田五郎信直の遺児である。
母の身分が低く、正式な嫡子として扱われたことはなかったが、武田の血を引く男子であることに変わりはない。今川の侵攻と五郎の死後、その行方は知れなくなっていた。戦の混乱で死んだとも、どこかの寺へ匿われたとも噂されていた。
「生きておられたのですか」
「信濃の諏訪にいるらしい。それで少し文が来た」
兵部少輔は、杯を膳へことりと置いた。それから「諏訪」と、言葉を転がした。
喜ぶべき話なのか、栗原兵庫にも分からなかった。
二年前までであれば、武田の男子が生きていると聞けば、あの武田五郎の血が残っておったかと、感慨深い思いに浸ったかもしれない。
今川の政治が苛烈であれば、竹松殿を担いで一戦などとも考えたかもしれない。だが、今はそんな気が一切ない。
むしろ、その竹松殿が甲斐へ戻るにあたり、無用な血が流れることを危惧していた。
兵部少輔も同じことを考えているらしく、重い沈黙が降りた。
「文と言いますると、蜂起せよという話で」
「まさか、その逆だ。諏訪方がな、庇護していた竹松殿を明け渡したいという話だ」
「それは、なんとまあ、急な」
「急ではあるが、自然でもある。蜂起せよと訴えたところで、それができるような甲斐ではなくなったからな」
栗原兵庫は改めて、自分の部屋を見回した。取り換えられたばかりの畳が目に映った。自分に目をやれば、上質な木綿地の服がある。
「考えてもみよ。竹松殿を奉じて武田を再興せよと号令されたところで、今さら誰が己の蔵を燃やしてまで兵を出す」
「出す者はおりましょう。武田家の旧臣、重臣格ともなれば手を上げましょう」
「そういった者は要害山で果てておろう。違うかな」
兵部少輔は答えられなかった。
確かに、かつての武田重臣や武田に近い国人の中には、今川の支配を快く思わぬ者も確実に残っている。だが、その者たちとて、ようやく豊かになり始めた甲斐を再び焼け野原にしたいわけではないのだ。
「諏訪も明らかに勝ち目がないと見た、そういうことでしょうか」
「おそらくな」
栗原兵庫は酒を飲み干した。
「本題であるが、諏訪の文は簡単よ。竹松殿を今川へ渡す。その代わり、信濃へ攻め込まぬとの誓紙が欲しいと申しているらしい」
兵部少輔の口元が、微かに歪んだ。
「よい面の皮にございますな。甲斐へ弓を引き、矢をつがえておきながら、いざ届かぬと分かれば、その口で約定を求めるとは」
「言うな、言うな。諏訪とて、甲斐がこれほどあっさりと今川の色に染まるとは思わなかったのであろう」
「それにしても、随分と虫のよい話です」
「竹松殿を手元に置き続ければ、それだけで今川への敵対の意思と取られかねぬ。かといって、何の見返りも得ずに差し出せば、今川へ膝を屈したと信濃中から嘲笑われる。せめて一枚、不可侵の誓紙が欲しいということだ」
兵部少輔はしばらく考え、やがて栗原兵庫をじっと見た。
「その話も、文に記されておりましたか」
「いや、さすがに内情は諏訪へ出入りする商僧からだ。ただ、裏を見ると相当諏訪は焦っておるようだ。まだ正式な使者は立っておらぬが、すでにその方向で話がまとまりつつあるらしい」
「駿府の御屋形様、五郎様へお耳に入れるべきでしょうな」
「無論だ」
栗原兵庫は即座に頷いたものの、その後に言葉を濁した。
兵部少輔が続きを待っている。
「ただ、我が身一人で申し上げるのは、いささか具合が悪い」
「武田贔屓と見られますか」
「竹松殿が生きていると聞き、一時とはいえ旧主の御子を甲斐へ戻そうと裏で画策している。そう取られぬとも限らぬ」
「そのような浅い見方はなさらぬでしょう」
「そうであろうとも、だが自ら疑われるような形をわざわざ作る必要はない」
栗原兵庫は膝の上で両手を組んだ。
「そこもとは躑躅ヶ崎へ勤めている。飯富殿から、城代である岡部左京進殿へ話をつないでくれぬか」
兵部少輔は迷うことなく深く頭を下げた。
「承知いたしました」
その返事に、栗原兵庫はわずかに肩の力を抜き、微笑んだ。笑ったつもりであったが、うまく笑えなかった。
「仮にも甲斐守護の御血筋にむごいことをしているものよな」
兵部少輔は座敷の隅に積まれた米俵を一瞥した。
「確かに不忠と言われても仕方がございませぬ」
「だが、いまさら今川に弓も引けぬ。そう命じても息子らも従うまい。おそらく飯富家の若い者らもな」
「で、ありましょうな」
栗原兵庫は息を吐き、また笑った。
今川の色は若い者にこそ、早く、強く染み込んだ。血気にはやる若い武者たちは、こうすれば大きくなれる、豊かになれると示し続けられれば、簡単になびいていった。
この実直な兵部少輔とてそうなのだ。自分の親族などひとたまりもないだろう。
「ずいぶんはっきり言う。たった二年、いや三年で全く変わられたものだ」
「与えられた役を果たしているうちに、こうなり申した。ですがさほど悪いとは思いませぬ。甲斐者同士で、こうやって酒をやれるのは、間違いなくこの変化によるものなのですから」
「違いない」
兵部少輔は杯を取り、残っていた酒をあおった。
「竹松殿が戻られたところで、宴の魚が一尾増えることはございませぬ。戦になり、減ることならば大いにありましょうが」
栗原兵庫は声を立てて笑った。笑うよりほかになかった。
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十月に入ると、甲府盆地を吹き抜ける風は秋から冬のものに変わりつつあった。
躑躅ヶ崎の館では、北の山から吹き下ろす隙間風が廊下を走り抜け、障子を細かく震わせている。
岡部左京進親綱は、机の上に二通の書状を並べていた。
一通は信濃の諏訪から届いたもの。
もう一通は、それより数日遅れて高遠から届いたものである。
部屋へ入ってきた関口彦三郎は、左京進の渋面を見るなり足を止めた。
「ずいぶんと浮かぬ顔をして、いかがなされました」
「先の諏訪の一件よ」
左京進は諏訪からの書状を指で弾いた。
「返り文が来た」
ああ、と彦三郎が頷いた。
「ようやく竹松殿の引き渡しに応じるというところでしょうか」
「然り。こちらが不可侵の誓紙を入れれば、竹松殿を引き渡す。甲斐と諏訪の間で、互いに兵を越境させぬとの約定を交わしたいそうだ」
「こちらの望みどおりではございませぬか」
彦三郎は左京進の向かいへ腰を下ろした。
竹松殿を保護していた理由を、諏訪が体面を取り繕ってどう説明したかは問題ではない。今川としては、武田の血を引く男子が反今川の旗印として担がれることさえ防げればよいのだ。
自身の主君である五郎も、その引き渡しをあっさりと受け入れた。
ただし、五郎はそこに一つだけ条件を付けている。
諏訪による国境の鎮定である。
というのも近頃、甲斐と信濃の国境で、諏訪の者が甲斐の商人の荷を奪う略奪が増えていた。山道を越えて甲斐側の村の様子を窺う不審な者もいる。
大規模な侵入ではない。国境を間違えた、賊を追っていた、逃げた馬を探していたと、後からいくらでも言い訳が利く程度の小競り合いである。
だが、これを放置すれば甲斐の治安が揺らぎ、道を通る商人が減る。
ゆえに五郎は、不可侵を誓うのであれば、諏訪の一族やその被官による国境での粗相は、諏訪家が責任を持って取り締まるよう求めたのだ。
「諏訪は、その条件を呑んだのでございましょう」
「呑んだ。諏訪一族の者が甲斐との境で粗相を働いた場合、諏訪本家が取り締まる、とある。まあ現状では口約束ではあるが」
「それでも、随分よい返事ではございませぬか」
彦三郎が頷き、続けた。
「国境が静まれば、こちらも南信濃へ手を入れやすくなりまする。なんなら諏訪方面から揺さぶることもできましょう」
ここ数年、今川は兵こそ出さないが、経済的な圧力を方々にかけていた。特に南信濃には、すでに今川の息のかかった商人が入り込んでいる。ただ、これは一方的な野心というわけでもなかった。
この始まりは西三河の松平が信濃の国人へ通じたことにある。今川はいずれ甲斐から信濃へ攻め込むぞと盛んに触れ回り、少しでも今川の足を引っ張ろうとしたのだ。
無論、松平側も本当に信濃と今川の間で火が付くとは思ってはいないだろう。ただ今川への警戒で南信濃に目を向ければ、当然三河へ向ける兵が減る。松平にとっては、その間に西三河を固めることができると見たのだろう。
当然、今川側の五郎も黙って見てはいない。
西三河では吉良をはじめとする松平に与しない者たちへ米や銭を密かに送っている。また南信濃では今川と取引する商人に対してのみ、塩や木綿を優先的に融通していた。互いに、直接刃は交えずとも敵の背後へ薪を投げ入れ合っている。
まだ明確な火の手は上がっていないが、きな臭い煙はすでに見えていた。
「これだけならば、よかったのだがな」
左京進は机の上にあったもう一通の書状を、彦三郎の膝前へ滑らせた。
「高遠からだ」
「高遠」
高遠は諏訪郡の近郊、伊那郡に根を張る家である。元は諏訪一族に連なる家ではあるが、決して諏訪家の被官ではない。時に手を結び、時に反目し、伊那と諏訪の間で長年主導権を争ってきた独立した勢力である。
彦三郎は書状へ目を通し、次第にその眉を険しく寄せた。
文面は丁重だった。
竹松殿を今川へ引き渡すことについて、異論はない。信濃と甲斐が互いに兵を入れぬとの約定も、理にかなっている。
ただし、今川家は諏訪家を諏訪郡のみならず、伊那郡を含む南信濃の代表と認めたのか。その点だけを明らかにしてほしい。
そう記されていた。
「どこから伝わったのでしょうな」
「諏訪の内からであろう。互いに一族なのだ、つながりはある。諏訪方が今川の名を盾に高遠を組み入れようとしたのか。あるいは単純に高遠側から嗅ぎ付けたか。どちらにせよ諏訪方が急ぎすぎて、襤褸が出たな」
「どちらかはともかく、これは少々まずいですな」
彦三郎は書状を机へ戻し、溜息をついた。
諏訪は、甲斐との国境を荒らす一族の者を自分たちが代表して取り締まると答えた。そこにどういう意図があったかは分からない。
だが、高遠からすれば、諏訪が今川という強大な後ろ盾を得て、南信濃の一族や国人に上から命を下す形に見えた。高遠が反発するのは当然だった。
「御屋形様は何と仰せなのです」
「一度、諏訪へ聞けと。高遠を含めて代表するつもりで書いたのか、それとも甲斐との境に関する諏訪一族だけを指したのか、その腹積もりを確かめよ、とな」
「妥当な御判断でございましょう。諏訪の文へ高遠が勝手に噛みついたのであれば、本来こちらが気に病むことではありませぬ」
左京進は廊下の外へ目をやった。
庭の木々が冷たい風に大きく揺れている。一月もたてば雪が降るかもしれない。
「だがな、こちらから諏訪へ問い返せば、諏訪は答えねばならぬ。高遠を自分の下と見るのか、対等の別の家と見るのか」
「そこは対等と返す、わけはございませんな」
高遠は諏訪一族に連なる家である。長く主導権を争ってきた相手を、ここで対等と認めれば、諏訪の威信に関わる。
「曖昧に返すのが関の山よな。だが、そこで濁せば高遠は疑う。裏で今川と諏訪がつながったとみなして気を揉むやもしれん」
彦三郎は黙った。
左京進の見立てでは、諏訪が高遠を含む南信濃の顔役であると答えれば、高遠は激しく反発する。
しかし、高遠を自家とは別の、対等な家と答えれば、諏訪が一族をまとめる力はないと自ら認めることになり、威信に傷がつく。
今川は何一つ無理な要求をしていない。
だが、問い返せば、諏訪と高遠の間にある亀裂を表へ引きずり出すことになる。
「南信濃が、燃えまするか」
「燃えるやもしれぬ。甲斐が今の状況ならば、少し大きくなるやもしれん」
左京進は文机から一つの帳面を取り出した。
甲府の蔵を出入りした荷と人の数が、緻密に記されている。
甲府から信濃へ向かう荷駄は、この一年で目に見えて増えていた。米、塩、木綿、油、生糸。以前なら甲斐の内でも足りなかった品々が、今では峠を越えて南信濃の市へ運ばれている。
「信濃は、甲斐より豊かな国でございました」
彦三郎が帳面を見ながら言った。
「今も国全体を見れば、そうであろう。元が違うのだ。だが、南信濃の商人や百姓にとって、銭を稼げる場所は甲府になりつつある」
甲斐では米も塩も木綿も安く、道や蔵、堤の普請も絶えない。甲府へ品を買い付けに来る商人が増え、働き口を求めて峠を越える者も後を絶たなかった。その中には家族を呼び寄せ、甲斐に住み着く者まで現れている。
「人の流れが、こちらへ向いている」
左京進は帳面をぱたりと閉じた。
「物はこちらから向こうへ出る。その代金の銭と、働き手はこちらへ来る」
「以前、御屋形様が行われた甲斐への塩止めに似ておりますな」
「似ておるが、逆だ。あの時は、甲斐へ入るものを止められた。今度は、信濃がこちらから入るものを止めれば、自分たちが困る」
「通せば、銭と人がこちらへ流れる」
左京進は帳面へ目を落とした。自分で口にしておきながら、背筋が冷えた。
無理に荷を止め、甲斐へ難をつけることはできよう。だが、今となっては二万を超える兵を安々と送り出せる今川である。
「御屋形様は、この信濃の窮状を御承知、いえ」
彦三郎は問いかけ、途中で言葉を止めた。
左京進は黙って頷いた。
甲府の蔵を出入りする荷の帳面は、毎月駿府へ送られている。どこから何が入り、何が不足し、どの峠道を通る者が増えたかまで、五郎はすべて目を通している。ならばこれに気付かぬはずがない。
「駿府館に置いている倅から、少し気になる話を聞いた」
「まだ、何か火種がございますか」
「信濃守護の座が、動くやもしれぬ」
彦三郎がはっと顔を上げた。
「信濃守護は、小笠原家の家職でございますぞ」
左京進は声を一段落とした。
「管領の細川武蔵守様が、御屋形様をえらく買っておられるらしい。甲斐を短くまとめ、幕府への奉公も欠かさぬ。官位の話も、幕府を差し置いて公家と進めることはせず、若輩を理由に辞した。武蔵守様には、殊勝と映ったのやもしれん」
「このあたりで恩を売ろうとしていると。ですがそれでも信濃守護はあまりに」
「国をまとめることもできず、御所役も満足に果たせぬ小笠原より、今川へ信濃守護も任せてはどうか。そのような話が、京で上がったと聞く」
「正式な沙汰ではございませぬぞ」
「無論だ。武蔵守様が、怠慢な小笠原を働かせるための脅しとして漏らした話かもしれぬ。御屋形様へ餌を見せ、信濃へ関心を持つか試しているだけかもしれぬ」
「どちらにせよ細川様は、小笠原様と御屋形様の双方から、なにがしかの見返りなり忠誠なりを得られると」
「そういうことだ」
「となると小笠原様は諏訪と高遠を仲裁しに動きましょうな」
「それもしようが、どちらかと言えば南信濃の分家の方を抑えにかかるであろうよ」
小笠原家には京への伝手がある。この話を知らぬとは考えにくい。常であれば京に人を送り、いくらか金を積み、話を潰したかもしれない。
だが、今はそれを悠長に待っていられない事情が南信濃にある。
南信濃では、松尾の小笠原をはじめ、一族がそれぞれ土地と家を守って割拠している。
ここに対して、松平が手を入れ、それに対抗するように五郎も米や塩で首輪をはめようとしているのだ。
守護としての面目を保つためには、まずこの南信濃への他国からの介入をはねのけようとするだろう。
左京進は少なくともそう見ていた。
「確かに一族が揺れれば他家への介入などできますまい」
「そもそも諏訪にしても高遠にしても、小笠原に黙って従うとも思わん。おそらくどこかで兵を出すほかあるまい」
「そこへ、三河の松平が横やりを入れますな」
「越後や関東からも、機に乗じて手を伸ばす者が出よう」
彦三郎は深く息を吐いた。
「そうなると、信濃は一気にきな臭いことになりかねませぬな。諏訪と高遠。そして、小笠原と南信濃の国人衆」
「御屋形様は、向こう三年は信濃へ兵を入れぬと明言しておられるが、その期限も遠からず切れる。信濃衆は相当に焦っておるのかもしれんな」
左京進は机上の二通の書状を一つに重ねた。
発端は、竹松殿という忘れ形見一人を引き渡し、国境を静めるだけの小さな話だった。
それがいつの間にか、諏訪と高遠の主導権争いへすり替わり、遠く京にある信濃守護の噂まで結びついて、巨大な疑心暗鬼の渦を作り出そうとしている。
「火が回るな。随分な大火になろう」
「後年、誰が火をつけたことになりましょうか」
左京進は答えなかった。信濃の者が誰を恨むかなど、考えるまでもなかった。
障子が風を強く受け、ガタガタと乾いた音を立てた。
左京進は書状の上へ、重石を静かに置いた。
書状の紙は動かなくなった。




