4章_2
大永三年の初秋、五郎は甲府の躑躅ヶ崎館を発ち、一年ぶりに駿府へ戻った。
甲斐を放り出してきたわけではない。麦、稲もまずは豊作。むろん甲斐にしてはよく実っていると見通しが立った。
また、生糸と金は少しずつ駿河へ流れ始め、海道から入る米や塩も、ひとまず途切れる心配はない。
左京進をはじめ、甲府へ置いた者たちだけで日々の差配を続けられるところまで、ようやく国が落ち着いてきたのである。
今川の本拠である駿河や遠江、新しく得た東三河についても、この一年、手を離していたわけではなかった。
月に幾度も文を送り、必要があれば信の置ける家臣を差し向けた。
遠江は朝比奈を動かさずとも、福島が機能不全となった今に対応できるよう、人と役目を割り振っていた。
東三河は戸田、牧野の旧領を直轄化し、三浦などの今川に近い者らで固めた。
これらの方針も相まって、遠江の用水も掛塚の船も、東三河の荒田や蔵の復旧も、大きく予定を外れてはいない。
当然のことだが、遠江や東三河にも今年は足を運び、様子を見なければならない。
だが今は駿河である。こちらはこちらで仕事が溜まっていた。
駿府へ着いた五郎は、旅装を解くより先に、自室で留守中の報告をまとめて受けた。
予想通り、幾つかの失態や認識の違いから細々とした火種があった。
幸い、すぐに対応すれば、全体計画に大きな影響はないだろうと安堵した。
その内に父、氏親に向かわせた使いが帰ってきた。
使いの用向きは、いくつかの所領についての五郎からの報告と、ご機嫌伺いである。隠居し、表からは一歩も二歩もひいたとはいえ父の存在感は大きい。
父子の間に溝があるなどと思われてはいけない。
体の調子は良いとは聞いていたため、二、三日の間に面会が叶うと思っていた。
だが意外なことに、その日のうちに会いたいという言葉があった。
今日は、いくらか具合がよいらしい。いや、幾つか厄介ごとがあるのだろう。
そう思いつつ、暮れ方、五郎は父の居間へ向かった。
障子は半ば開け放たれ、夏の名残を含んだ風が庭から流れ込んでいる。
父氏親は脇息へ身を預けていたが、顔色はこのところ聞いていたものよりよかった。
傍らには中御門殿が座り、膝元の薬椀を片づけさせている。
五郎が座について頭を下げると、氏親はしばらくその顔を眺めた。
「ようやく戻ってきたな。そなたはつくづく駿河に居つかぬ男よな」
「駿河は手間がかかりませぬので。月に十ほど文を送れば済みまする。それに父上も健在でございますれば」
「隠居の病人を働かせるな。馬鹿者」
「ここ数年の勝負と思えば、親でも使わねばならぬと心得ておりまする」
「龍王丸」
中御門殿の声に、五郎は素直に頭を下げた。
「誠、申し訳ございませぬ。御台様」
氏親が喉を鳴らした。笑ったらしい。
咳にはならず、今日は確かに具合がよいようだった。
「して、甲斐はどうなのだ。手が離れそうか」
「五郎めが甲府に居を構える必要は、もうなくなりましょう。左京進らへ任せても、すぐに崩れることはございますまい。生糸に金、馬も、まだ細いながら流れ始めておりまする」
「公家らが喜んでおった、あれか。あれらは木綿のことなど目もくれなくなったわ」
「現金なものよ」などと呟くと、中御門殿が眉を顰めた。
「殿、そのように仰せられては」
中御門殿がたしなめると、氏親は悪びれもせず肩を揺らした。
五郎も聊か氏親寄りの意見であったが、母に追従した。
「公家のお手元の品には絹がつきものでございます。お目にかなって何よりにございまする。それに木綿にしても、引く手あまたのため、献上へ回す分を減らせて助かっております」
「よう売れておるな。今川は商家になったと、陰口を叩く者もおるほどだ」
「某には聞こえて参りませんが」
事実である。庵原安房守や三浦次郎衛門など重臣らはそのように言ったことはない。
甲斐や遠江の国人らも銭については文句がない。
そもそも五郎の手元にはほとんど残らず流れるだけなので、ため込んでいるという実感もないのだ。
「誰もそなたには言えぬよ。老いさらばえた病人へ、聞こえよがしに囁くのがやっとよ。それに家の外ゆえ気にすることはない」
それはそれで問題があるだろう。そう思ったが、肝心の氏親が気に留めた様子がない。
氏親は脇息へ肘を置き、口角を上げた。
「よい。放っておけ。商家であろうが何であろうが、使える銭と米が増え、御家の力が増すならばそれでよい」
氏親の言葉通り、今川の領国は徐々に力を増している。
新田開発と並行して限定的な検地を行い、河川の堤などを整備したことで、安定した収益が上がっている。一部の直轄領では塩水を使った種籾の選別や、植え方の指導も実施しており、前年末の勘定では、今川の動かせる穀物は二十万石弱にまで膨らんでいる。
無論、ここに銭の収益が乗る。
三河、遠江では木綿、甲斐では絹、金、馬に力を入れている。整備された道や湊、商業の法度により金銭の収益は一万四千貫ほどになる。
去年、甲斐と東三河を得た直後で、穀物が十万石弱程度。金銭が四千貫を僅かに上回る程度であった。法整備と収穫の実態把握が大きいとはいえ、やはり驚異的な伸び率である。
「新米の当主として後ろ指を指されぬ程度には伸びておりまする」
「ではそろそろ兵も起こすか」
中御門殿の目が険しくなった。
氏親の表情に変化はない。こちらを見ているのか、見ていないのか、いつもの読み切れぬ顔だった。
「さて、蔵が満たされておりますとそのような気も萎えて参りました」
「という割に兵が増えたな」
氏親がまた口角を上げた。
これも事実である。
即応できる実働兵力は、一万には届かぬほど。軍備を整え、半年間戦わせる想定ならば二万弱。
一昨年の甲斐侵攻時において、福島が合計で使った数が一万に達するかどうか。こちらは今川の領地からかき集めた非戦闘員も含めての数である。それを見るにこちらも単純に倍になったと言ってもいい。
「国境が増えましたので、必然守りの兵も必要でございましょう」
「だが一声かければ外に向かう。さて頃合いではないかな」
今度は五郎の方が笑った。
「今は育てる時期にございましょう。われらも甲斐や東三河に慣れなければいけませぬし、その逆も然。なにより甲斐の者らにも、今しばらくは無理をさせとうございませぬ」
東三河と違い甲斐は独立心が強い。甲斐国人らの兵を無理やり自分の下に組み入れることはできても、歯車が狂えば一気に瓦解しかねない。由緒正しい武田家ですら、その宿痾から逃れられなかった。ゆえに、仕組みから腰を据えて変えなければ安心して戦力として数えることができない。
氏親が声を上げて笑った。今度は五郎が小首をかしげる。そんなにおかしなことを言っただろうか。
「随分とまあ、穏当な軍神もいたものだ」
「軍神になった覚えはございませぬが」
「甲斐の者らも肩透かしであろう。年若い血気盛んな武田五郎から、さらに若い今川五郎へ主を替えた。今度はどこへ戦に連れ出されるかと恐々としておったところに、これよ。そなた甲斐者を腑抜けにするつもりだな」
そんなに簡単に行けばありがたい。だが彼らの気質は一朝一夕には抜けない。
「まさか、そのようなことはございませぬ。むしろ、稼ぎ場がなくなったと不満げな者もおるほどでございます。ただそのような中でも、役目に馴染み、山崩れも少しはましになり、ようやくこちらへ歩み寄り始めたところでございますゆえ」
頭を下げると、氏親がまた喉を鳴らした。
「時を待ち、取り込む、首輪をつけるか」
さすがに氏親はわかっているようだった。
「五郎はどうにも仁君には程遠く、まこと申し訳なく」
「いや、それでよい。家臣の顔色など窺うな。裏切られぬよう気を払い、そのうえでこちらに沿わせよ」
「金言、ありがたく」
「馬鹿者。そなたはもうやっておろうが」
氏親の言葉が終わるのを待って、中御門殿が小さく咳払いをした。
氏親は一度そちらを見てから、思い出したように頷いた。
「ああ、そうであったな。一つ、そなたに頼みたいことがある」
この場に近習や小姓らがいないことから五郎は凡そ察していた。
家長として、早々に決めておかねばならないことだった。
「弟のことでありましょうか」
「話が早くて、病人には助かる。だが、公家らと話す時は、もう少し鈍くせよ」
中御門殿が氏親へ視線を向けた。
氏親はそれに気づきながら、笑みを深くしただけだった。
五郎は姿勢を正し、自分の存念を述べた。
「松寿丸に関しては、いずれ駿河で一家を立てさせようと考えておりまする。竹丸についても同じように」
「竹丸は異腹ぞ。母方には福島の血もある」
竹丸こと氏親の三男は、五郎や松寿丸とは母親が異なる。
氏親の言葉通り、一昨年亡くなった福島兵庫助の孫にあたる。とはいえこれを持ち上げて、中御門殿の子である五郎を追いやろうという動きは今のところは一切見られない。福島家には旧領を安堵しつつ、その一門らを丁重に扱っている。年若い福島の嫡男については、五郎が後見についており、こちらも関係が悪くない。まず何事もなければ、先代同様に今川の重臣として名を連ねるだろう。
つまり、こちらの竹丸についても粗略にさえ扱わなければ問題がお家騒動に発展する目は小さいと見ていた。
「ええ。されど、猛将福島の血なればこそ、大事にしたく存じます。無論、松寿丸と同じには扱いませぬが、こちらも一門として一家を立てられるよう、取り計らうつもりにございます」
「方々に一門を植えるか」
「でなければ、三河や甲斐が収まりますまい。城代や奉行だけで治めるには、駿府から遠うございます」
氏親は中御門殿をちらりと見た。
異腹の弟を一門として立てることに、母として思うところがないはずはない。だが、中御門殿は口を挟まず、五郎を見返しただけだった。
「まあ、そちらはそなたの弟ぞ」
氏親はゆっくりと言った。
「股肱にするも、敵にするも、そなた次第よ。ようしてやることだ」
「心得ておりまする」
「あとは芳菊丸よな」
五郎は少し首を傾げた。
こちらは異腹の竹丸以上に接点が薄い。竹丸や妹らとは家督相続後少し話し、挨拶を受ける場があった。だがその折、芳菊丸は体調を崩しており、その場にいなかった。五郎にとっては直接言葉を交わしたことのない唯一の弟であった。
「確か、出家がしたいと申しておりましたな」
「四男ゆえ、俗世を厭うならばそれもよいと考えておった。だが、近頃は武士に興味が出てきたらしい」
「左様ですか」
「興味がないか」
「いえ。その年頃の子供なら、心は移ろうものでございましょう。良い師をつけ、教養を得させた後に、改めて本人へ聞けばよろしいかと」
一家を立てる際、分け与える土地はある。婿入りさせたいと言えば、手の上がる家などいくらでもある。出家させたいと言えば、受け入れる寺もある。
気質も穏やかで、物覚えが良いらしい弟である。さほどの心配はしていなかった。
だが、氏親が声を立てて笑った。中御門殿も困ったように目を伏せている。
「いかがいたしました」
「いや、あれはな。そこもとに憧れておるらしい」
五郎は苦いものを感じて、顔を顰めた。
「そう苦い顔をするな。それに、やることなど可愛いものよ。夜半に蔵へ忍び入ったり、遠江の代官になりたがったり、その程度だ」
「殿」
今度こそ、中御門殿の声にははっきりと咎める響きがあった。
「ああ、そうさな。夜半に蔵へ忍ぶのはいかぬ」
氏親はまるで他人事のように言った。
「そう窘めてみたものの、どこぞの兄君の幼いころを引き合いに出されてしまってな。やれ兄上も蔵へ入って役人を懲らしめた、やれ兄上は遠江を任されて名を上げた、と返されて、家臣らも閉口しておる」
「それは、ずいぶんと都合よく伝わっておりますな」
「駿府の館で、今川の当主はどうしようもない粗忽者であると言えようか。のう軍神殿」
知らず知らずのうちに、五郎は重いため息を吐いていた。
「では、その兄が直々に申し付けよと」
「ほかにあるまい」
五郎は眉間へ指を当てた。
「子供の相手など、得意ではないのですが」
「子供が何を言っておるか」
氏親の笑い声が、風の通る居間へ低く響いた。
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父の居間を辞した五郎は、すぐには自室へ戻らなかった。
甲斐にいた一年の間にも、駿府の館ではいくつか普請が行われている。
渡り廊下が延び、古い塀が改められ、以前は空いていた一角に小さな建物が増えていた。
文では知らされていたが、実際に見るのとはやはり違う。
久方ぶりの館を眺めながら歩くうちに、先ほど氏親から頼まれたことを考えていた。
子供の相手は得意ではない。
子供が嫌いというわけではないが、向こうがこちらを嫌うのだ。
数え年五つか、四つともなれば見知った者以外には近寄りもしないだろう。
五郎は再び、小さく息を吐いた。
だからといって、病床の父の頼まれごとを放置もできない。ならばと意を決し、せめて顔ぐらいは見ておくことに決めた。
時間を空けると、気が萎える。自分のことゆえ良く分かっていた。
そうやって向きを変えると、ちょうど、小袖を抱えた女が歩いてきた。
五郎の姿を認めると、慌てて端へ寄り、膝をつく。
「芳菊丸はどこに」
「ただいまは、手習いのお時間かと存じます」
女中が示したのは、中御門殿の居間からさほど離れていない一角だった。
五郎は礼だけ告げ、教えられた部屋へ向かった。
幼い弟のために用意された部屋は、縁に近い障子が開け放たれていた。硯と筆、文字の手本らしい紙が整然と置かれている。
だが、肝心の芳菊丸の姿がない。
側仕えらしい女房が二人、部屋の隅に控えていた。
五郎が顔を見せた途端、二人とも揃って平伏した。その慌てようを見る限り、弟がどこにいるのかは知らぬわけではあるまい。
「芳菊丸は」
年嵩の女房が、ちらりと隣へ目を向けた。
隣の若い女房は俯いたまま、こちらを見ようともしない。
さて、どうしたものかと考えていると、年嵩の方が口を開いた。
「今朝より、御蔵の辺りにいらっしゃるものと」
「幼子が蔵にいてどうする。倉番は止めぬのか」
二人の背が、わずかに縮んだ。だいぶ慣れたつもりであるが、五郎が口を開くと大抵のものがこうなる。
言葉に詰まり、痛いほどの静寂を作る。
「よい、申せ」
今度は若い方の女房が、恐る恐る顔を上げた。
「それが、こう、何と申しますか。若君は、硬軟を使い分けなさいます」
そして、面白いことを言った。
数え年五つ程度の子供が硬軟を使い分ける。俄然興味がわき、先を促した。
「初めのうちは、御倉番もお止めしておりました。すると夜半、皆が寝静まった後に忍び込まれまして」
氏親から聞いた話そのままである。
「なおのこと倉番は止めよう」
「いえ、今度夜半に忍び込まれたくなければ、昼にいることを許せと。大殿には自分から願い出ると仰り、大殿も面白がって今はこのような仕儀になりましてございます」
そのあたりは聞いていなかった。氏親は承知だったのだ。そのうえで自分と早々に会わせようとした。
狙いはおそらく、この向こう気の強い弟の軟着陸、いやそうさせるかどうかも含めて決めろと言うことだろう。
「そうか、そなたらには無用に気を揉ませたな」
若い女房が額を畳へつけた。
「いえ、そのようなことは」
「どうにも兄が悪い見本になっているようだ、あまりそなたらを悩ませぬように取り計らおう」
年嵩と若い女房がその言葉に何を感じたのか、一歩前に出た。
口を堅く結んでいる。
「御屋形様、御舎弟の芳菊丸様におかれては、常日頃非常に聡明な方でございます。手習いにしても決して手を抜くようなことはなく、蔵をご覧になっている間も、紙と硯をお持ちになり、手本を書き写しておられます」
「殊勝よな」
どうやらこの女房らは、五郎が弟をひどく罰すると思っているようだった。
先代の氏親は、確かに数え年いくつかの五郎を遠江に流した。かといってそんなものを今川の家風にするつもりは毛頭なかった。
「そうか一度褒めてやらねばな」
そこまで言っても、女房らの肩の力は抜けなかった。
女子供に極端に警戒されるのは、五郎の性分なのかもしれない。少し自分に辟易しながら、邪魔をしたと部屋を後にする。
そして、そのまま、館の北寄りにある御蔵へ向かった。
あの年で硬軟を使い分けるらしい芳菊丸に興味がわいていた。
屋形の北側は以前から蔵の多い一角だった。だが、ここ数年で記憶にない建物が二つ増えていた。
一つは壁土もまだ新しく、軒下には普請で使った木材がまとめて積まれている。
甲斐と東三河を得てから、駿府を行き来する荷は目に見えて増えており、蔵に収める品数も増える一方であった。
そのため、改めて米用、塩用、布用などと新たな蔵を急ぎ建て増したのだ。
ただ甲斐、東三河の復興、発展が視野に入った今、建て増した蔵もすぐに足りなくなるように思われた。
ちょうど数台の荷車が門をくぐり、荷を下ろしていた。それらは米と塩、布類、材木を積んでいる。
別の蔵の前では遠江からやってきたであろう荷駄が木綿の束を運び入れている。
館の中でありながら、荷運びの掛け声と車輪の軋む音が絶えない。
この一角だけが、まるで大きな湊の船着き場のような活気があった。
そんな蔵から少し離れた館の端に、数人の集まりがあった。
邪魔にならぬよう、荷車が通る道から外れた場所に筵を敷き、小さな子供が座っている。その後ろには小姓と女房が一人ずつ控え、少し離れたところに護衛らしい男も立っていた。
芳菊丸であろう。
手元には紙が置かれ、荷が運ばれるたびに筆を動かしている。
書いているのは文章ではない。米俵が運ばれれば丸を一つ加え、箱が通れば横に短い線を引く。ところどころには覚えたばかりらしい漢数字も見えた。
俵の数を数えているようだった。
側付きの男が五郎に気づいた。
目を見開き、芳菊丸へ知らせようと腰を浮かせる。
五郎は軽く手を上げ、そのままでよいと制した。
男は一瞬迷ったものの、また元の位置へ戻った。隣にいた女房も五郎を認めたらしく、青ざめた顔で俯いている。
五郎は足音を忍ばせ、芳菊丸の背後へ近づいた。
芳菊丸は目の前の物の流れに夢中であり、兄の接近には気が付かなかった。
只管に筆で丸を描き、線をひき続けていた。
「何を見ておられる、若君」
芳菊丸は振り向かなかった。
筆を置き、目だけは蔵の方へ向けたまま答えた。
「何者であるか」
声はまだ幼い。だが、父や母の前で教えられた通りに話そうとしているのか、言葉だけは妙に堅かった。
「若君の御父君より、様子を見てくるよう仰せつかった者にございます」
「父上からか」
「左様にございます」
正面から兄と名乗らなかったのは、芳菊丸の素が見たかったからだ。
弟が振り返ればそれで仕舞であるが、それまで覗けるところまで覗いてしまいたかった。
「であれば、芳菊は大人しゅうしていると伝えよ。物には触れておらぬ。荷車の道にも出ておらぬ。夜にも来ておらぬ」
条件をすべて守っていると主張したいらしい。
「承知いたしました」
五郎は芳菊丸の隣へ目をやった。
紙には丸や線ばかりではなく、荷札から写したらしい文字も幾つか並んでいる。米、塩、綿、糸。そのうち半分ほどは形が崩れ、別の字にも見えた。
「して、何をしておられる」
芳菊丸はまだ振り返らない。
「そこもとには分かるまい」
「それはどうでしょうか。蔵についてはよう知っております。少なくとも御身よりは」
少し承菊の真似をしてみると、芳菊丸の手が止まった。
やはりあの坊主の真似は癪に障るらしい。だが、それでも五郎の顔は見ず、蔵へ運び込まれる荷へ目を向けたままだった。
「では聞く」
俵を担いだ男たちが、二人の前を横切った。
「今川の蔵には、米も塩もなかなか溜まらぬ。運び入れても、すぐにまた外へ出てゆく。甲斐や三河へ送られると聞いた。なぜだ」
「甲斐や三河へ米や塩を送れば、回り回って今川の力になるからでございましょう」
「皆もそのように申しておった」
芳菊丸の筆先が紙の上で止まっている。
「だが、甲斐者や三河者は、今川に信を寄せておらぬのであろう。腹を空かせた犬に餌をやるようなものではないか。食うものを与え、力をつければ、いずれ噛みつくやもしれぬ」
「若君」
背後の側付きが、堪えかねたように声を上げた。
確かに芳菊丸の言葉は、五郎の政道を批判するようにも聞こえる。伝わり方次第では兄弟仲がこじれると危惧しても仕方がない。
芳菊丸は眉を寄せ、初めて振り返った。
咎めた側付きではなく、その隣に立つ五郎を見る。
目が合った。
芳菊丸の顔から、先ほどまでの澄ました様子が消えた。
口がわずかに開く。
「兄上」
声にはならず、唇だけがそう動いた。
どうやら、覗き見もこれまでらしい、と五郎は薄く笑った。
「よい。続けよ」
芳菊丸は紙の上に両手を置いたまま、動かない。
「ですが」
「そこもとの目で何を見たのか知りたい。今川に信を置かぬ者へ米を食わせ、力をつければ噛みつかれる。そう思ったのであろう」
「失礼を申しました」
芳菊丸はしばらく五郎の顔を見つめた。
周囲の者たちは口を挟まない。側付きの男などは、いっそこの場から逃げ出したそうな顔をしていた。
「左様か」
五郎は芳菊丸の隣へ腰を下ろした。
高いところから見下ろして話すには、相手が小さすぎた。
「では此方から答えるが。そこもとの見立ては、さして間違っておらぬ」
周囲がぎょっとした。五郎はかまわず言葉をつづけた。
「今川の米を食わせ、今川の銭で川を整え、甲斐や三河を肥やす。力を得た者が、今川の手をはねのけられると知れば、牙を向けることもあろうな」
芳菊丸の目が少し大きくなった。
兄が自分の考えを否定しなかったことが意外だったらしい。
「では、なぜ」
「ゆえに、法と欲の向け先を整えねばならぬ」
芳菊丸が黙った。眉を寄せ、首をかしげていた。
確かに、法だの、欲だのはよい言葉ではなかった。
五郎は、そうだな、と言葉を選び直した。
「簡単に申せば、甲斐や三河の者らに、今川に従った方が得だ、楽だと思わせる。そのうえで、甲斐や三河が力を付ければ、それ以上に今川も力を付ける。そういう仕組みを工夫する」
詳しくは言わない。言ってもまだ分からないだろう。
ただ、甲斐で生糸を作り、馬を育てれば、今川の湊を通して売る方が儲かる。そのために道を直せば荷が増え、その道を守る者には銭が入る。
そうすれば、甲斐の者が力をつければ、その分だけ今川へも米や銭が戻るようにすることができる。
つまり流通の根幹を握り、今川が作った法に従うことに慣れさせればあとは形になる。甲斐の者らをその枠の中の役職に就ければ、彼ら自身がその形を守ろうとする。
「そのようなことが、できるのでしょうか」
「遠江ではできた。駿河でもできた。同じように接すれば、多少は芽も出よう」
芳菊丸はすぐには納得しなかった。
蔵へ運び込まれる甲斐の生糸を眺め、それから東三河の米俵へ目を移す。
「ですが、甲斐や三河と、駿河や遠江では国柄が違いましょう」
五郎は芳菊丸を見た。
氏親が物覚えのよい子だと言った意味が、少し分かった。単に大人の言葉を覚えているだけではない。目の前の話と、自分が聞き知ったことを結びつけている。
「それも間違いない。甲斐に米を植えても駿河や遠江のように育つまい。違う物を植え、違うように育まねばならんな。だが人間自体はそうは変わるまいよ。」
「恩を受ければ返すということでしょうか」
「いや、そう美しい話ではない」
五郎は首を振った。
「腹が満ち、物を売れば銭になり、訴えを出せば話を聞いてもらえる。そういう楽な道があるなら、無法を通そうとはしないということだ」
芳菊丸は黙り込んだ。
膝元の紙へ目を落とし、筆の柄を指で転がしている。
しばらく考えた末、顔を上げた。
「それは少し、納得しかねます」
「若君」
側付きが再び咎めた。
今度は芳菊丸も少し怯んだが、五郎が続きを促すと、慎重に口を開いた。
「御師匠が申しておりました。京の御方々は、米も銭もあり、物事を定めるための作法もございます。それでも互いに争い、世を乱していると」
五郎は思わず笑った。この弟と話すのがだんだんと楽しくなってきた。
だが、芳菊丸は叱られたと思ったのか、口を閉ざした。
「いや、そなたの目が正しい。確かに、そのような輩はおる。困ったものよな」
「では甲斐や東三河の者らが、そういう者であれば、どうするのでしょうか。彼らを食わせ力をつけさせるのは危ういことかと」
「さて、そこまで心配はしておらぬ。そういう者らに対する準備がある」
「その準備とは」
言いながら芳菊丸は五郎の顔を窺った。
五郎はすぐには答えなかった。
蔵から出てきた男たちが、空になった木箱を抱えて前を通り過ぎる。少し離れた場所では、荷札を確かめる蔵役の声が聞こえていた。
この場には、芳菊丸と側付きだけがいるわけではない。
五郎は芳菊丸の肩へ手を置き、耳元へ顔を寄せた。
「斬る」
芳菊丸の息が止まった。
五郎はすぐに身を起こした。
今度は、周囲にも聞こえる声で続ける。
「さて、準備と言ってもな、そう難しいことではない。例えば、同じ甲斐、三河者でも今川に従う者とは分けて扱う。甲斐や三河の者らとも相談して定めた法度に照らし、一人ずつ罪を問う。腹立ち紛れに国ごと焼き、罪のない者まで敵に回すような真似はせぬ」
芳菊丸は、まばたきもせず五郎を見ていた。
耳元で聞いた一言と、今皆に聞かせた言葉が、同じことなのか違うことなのか考えているのだろう。
「まずは諫める。訴えがあるなら聞く。誤りがあればこちらも改めよう。それでも法度を破り、刃を向けるのであれば、こちらの言葉を一切聞かぬのであれば、国を預かるものとして覚悟をせねばなるまい」
「その覚悟とは」
「今申した通りだ」
五郎はそれ以上繰り返さなかった。五郎はこの幼い弟を試した。少し早いとは思った。
だが、五郎の弟であれば遅かれ早かれ、清濁を併せて吞む素養は見なければならない。飲めないならば飲めないで、中枢から遠ざけて小さな所領を任すなり、寺に入れるなりで方針を考える。
しばらくの間、場に静寂が満ちた。その静けさの中、芳菊丸は膝元の紙へ目を落とした。
先ほどまで数えていた俵の列を指でなぞり、やがて小さく頷く。
「承知いたしました」
その返事に、幼子らしい怯えがないわけではなかった。
だが、聞かなければよかったという顔でもない。
五郎は改めて弟を眺めた。
なるほど、白絹のような子である。そうふと思った。
暗君であるとされた秦の二代皇帝を評した言葉であるが、五郎は別の取り方をしていた。
おそらく自分で考え自分で判断できる環境に置けば、この子は伸びて才覚を発揮する。
一方で一切の権限を与えず、寺に押し込めてもこの子は何も反感を持たない。
自分以上に与えられた役割というものを果たそうと、役目に染まろうとするだろう。
きっと、蔵を覗いていたのも、五郎の弟であろうとした一環やもしれない。
そこで、五郎は思考を打ち切った。
数え年五つの子である、少し試した程度ですべてはつかみ切れない。
ただ、どう考えてもこの子を寺に置くのはもったいない気がした。
良い師をつけ、しばらく近くに置いてみた方がよい。
「芳菊丸」
兄から名を呼ばれ、芳菊丸は背を伸ばした。
「手習いの妨げにならぬ限り、蔵へ来ることは許す」
芳菊丸が顔を上げた。
背後で、側付きたちも驚いたように息を呑んだ。
「ただし、今までの約束は守れ。夜は来ぬ。手習いは手を抜かぬ。帳面を見たければ、蔵役に断れ。気になったことがあれば、蔵役の邪魔せぬ範囲で聞いてもよい」
芳菊丸は少し考えた後、今度は側付きの男を見た。
男は突然判断を求められ、困り果てた顔で五郎を見る。
「よい、父上には、五郎より伝えておく。御台様にも代わりに叱られておく」
「兄上も叱られるのですか」
「粗忽者ゆえよく叱られる。そなたは良き息子であられよ」
芳菊丸の頬が緩んだ。
「軍神を止められるものなどいないと、駿府では皆が噂しております」
「そなたと同腹の兄が、そんな大したものか。月に二度は老臣どもに詰められるわ」
芳菊丸の側付きの家臣らに目をやると、困った顔をした。ほんの数年前まではここで蟄居していたのだ、知らないわけがない。
まあ、良いと五郎は弟に視線を戻した。
「では、体に気を付けよ。まだ暑い日が続く」
それだけ言うと五郎は立ち上がった。
芳菊丸も慌てて立とうとしたが、紙を踏みそうになり、側付きの女に支えられた。
姿勢を整えると、今度は教えられた通りに両手をつき、深く頭を下げる。
「兄上。ありがとうございました」
先ほどまで、父の使いだと思って横柄に答えていた子供と同じとは思えぬほど素直だった。
五郎は返事の代わりに軽く手を上げ、蔵前を離れた。
背後では早くも芳菊丸が蔵役に走り寄って、何か尋ねている。
日陰で涼んでいた蔵役がしどろもどろになりながら、芳菊丸に答えていた。
父は、あれが自分に憧れていると言ったが、五郎にはやはりそうは思えなかった。
なんとなしに目標として、兄を選んだだけであろう。
その兄が取るに足らぬと知れば、また別の目標を目指すのかもしれない。
「とにもかくにも、まず師か」
寺に送らないと決めた以上、身が立つように師を選ばねばならない。
文、礼法だけの師ではつまらない。心根の真っすぐすぎるものも不十分だろう。多少は毒のあるものがいい。時にはあの聡明な弟の鼻っ柱をへし折れる程度の男。
そう思い、頭に承菊が浮かんだ。
いや、あれも忙しい。甲斐から呼び戻し、今度は遠江に行かせねばならない。女癖の悪さが治まっていなければ、しばらく甲斐だが。
五郎は小さく息を吐き、まだ荷の行き交う蔵前を後にした。




