4章_1
龍王丸、改め五郎氏景はようやく駿河から離れ甲斐へと向かうことができた。
あの日、当主についてから数か月、甲斐に対してこまめに文を送り、連絡をこそ取っていた。
甲斐の後始末、要害山に立てこもる武田残党を排除したのは、岡部左京進と関口彦三郎である。
彼らは五郎が当主になるのに先立って、先代の当主より文を受けていた。
内容は物々しいものであった。五郎が甲斐守護になるにあたり、武田の血が障りにならないようにすること。
つまり、大井の方の腹の子を含む、武田宗家の討滅である。
名分はあるとはいえ、五郎はその命令を出しづらかった。
今なお胸中には、あの武田五郎信直に対する敗北感がぬぐい切れず残っている。
きっと必要ならば命も出すだろうが、そのことが後を引く確信すらある。
意図したわけではないだろうが、先代当主の命で行われたそれらは五郎が察すより前に実行された。
五郎が討滅の停止や、大井の方の子供の確保を言い出すより前に、事の成り行きが文に添えられてきた。
要害山、旧武田家臣の造反により開城。それに伴い武田一門討滅。
大井の方もこの折、亡くなり腹の子も流れた。大井家当主といった一部の武田に近しい国人らも数名討たれている。
これをもって五郎氏景は甲斐守護に任じられた。
長年献金をし続けた、幕府、そして管領の細川武蔵守高国の意向もあり、ひどくあっさりしたものだった。
だが、これで甲斐のことが全て上手くいくわけではない。
まず甲斐の国人や、旧武田家臣の動きが思わしくない。
反抗的、というわけではない。そもそも反抗する余力すらないのが正しいのだが。
彼ら自身、今川に対して、五郎に対してどのように対応すべきか決めかねている、そんな気配がうかがえていた。
そのことに対して、五郎自身どうにも思っていなかった。
武田の方の五郎は、急速に甲斐をまとめたため、恨みを買っている。だが、一方で正当な甲斐の国主であり、甲斐の人間なのだ。
これを駿河の人間が討ち取り、ひょいと甲斐守護に座ることに何も思わないわけがない。そう見ていた。
当然、旧武田家臣ともなれば、より納得しづらいとも考えられる。
今回の甲斐への訪問はそのような背景のもと行われた。
「甲斐の道はあまり、ようございませんな」
五郎の馬廻りでもある、井伊彦次郎が辟易したように言った。
「山道ですからな、仕方ありませんよ」
それに反応したのは由比小次郎。こちらは勘定係として引っ張ってきた人間である。
「最近は遠駿では道にも力を入れているから、余計に山道がつらい。あんな大岩が転がったままだ」
「大雨の影響でしょうかね。山崩れも多いと聞きましたから、相当につらいですよ。これは」
「武田家が甲斐をまとめ、外へうってでようとしたのも納得か」
彦次郎の言葉に、小次郎が曖昧な表情を見せた。
おそらくだが、駿河の者としてはいい迷惑、というところだろうか。
五郎は馬上よりそれらのやり取りを見つつ、道を眺めた。
たしかに甲斐へ入ってから、行列の歩みは目に見えて遅くなった。
駿河から甲斐に入る河内路。これが険しいこともある。山崩れの影響も見て取れる。
だが、数か月前よりも大きな改善が見て取れるのも事実であった。
山間の川に橋は架け直され、崩れた路肩には石が入れられ、川沿いには新しい杭が打たれている。
ところどころに小さな蔵も建ち始めていた。
悪くはない、と五郎は一人頷いた。
だが、道から村々へと視線を移すと、今度は真逆の意見になる。
屋根を失った家。焼けた柱だけが立つ屋敷。昨年の稲株を残したまま、春になっても起こされていない田。
五郎が攻め入り、焼いた跡がありありと残っている。
「償いには時がかかろうな」
五郎が小さくつぶやいた。声は蹄の音にかき消された。
当時の今川にとって最善、最速の道を選んだつもりではある。
だが、拙く不格好な手段であるとも理解していた。その無理が自分自身に迫っている。
いや、とはいえ心に棚を作る必要がある。
誰にも聞かれぬ言い訳などしていても、さして意味がないのだ。
五郎は気を取り直し、もう一度村々を見渡した。
丁度、前方から街道を荷駄が通っていた。
人足と荷駄はこちらに気が付くと、道の脇に退き、平伏した。
五郎はその荷駄を横目でちらりと見た。
荷駄の中に粗末な木箱を背負った馬が数頭混じっていた。
「金か、糸でしょうな」
並んでいた宮内が、木箱を見ながらぼそりと言った。
「空荷ばかりと思うていたが、多少は物があるか」
「数に入れるほどではございますまい。甲斐は生糸もやりますが、唐物に比べられるものではありませぬ」
「承知の上だ。金も期待してはおらぬ」
「金の方も国人らで取り合いゆえ、こちらも手間をかけるほどかと言われれば難しゅうございますよ」
甲州金。ちらりと五郎は前世で聞いた気もする。
ふむ、と頭の中の帳面に甲斐の金のことを書き、先へ進んだ。
甲府盆地へ出る手前で、五騎ばかりの武者が道の脇に控えていた。
先頭にいた若者は五郎の姿を認めると馬を降り、その場に平伏した。
後ろに従う者はいずれも年長で、若い当主を守るように少し離れて膝をついている。
甲斐巨摩郡の国人、飯富兵部少輔が顔を上げた。
「御屋形様、御迎えに参りました。このような道をお越しいただき、御足労をおかけいたしました」
「何のことはない。見て回らねばならぬものもあった」
五郎が促すと、兵部少輔は再び馬へ乗った。
二騎を先へ出し、自らは五郎の斜め後ろにつく。
兵部少輔は表裏定かならない、甲斐国人の一人である。
形の上では武田五郎に従っていたが、幾つかの文で富田城の陣から離れた。
かと言って、穴山外記の如く食わせ物というわけではない。
良くも悪くもまだ実直で勇猛な若武者であった。
その若武者と共に、一行はゆるやかに進み始めた。
盆地へ下る道へ入ってしばらくしてから、兵部少輔が口を開いた。
「御屋形様は、どれほど甲府へ御滞在なされるのでしょうか」
「まだ決めておらぬ。年の半ばはこちらで過ごすことになるやもしれぬ」
兵部少輔が五郎の供回りへ目を向けた。
「それほどの軍勢を、甲府へ置かれるのでしょうか」
つまり万に近い軍勢で甲斐を押さえつけるのかという意味である。
五郎は首を振った。
「馬廻りと左京進の兵だけだ。ただそなたらが心配なら、信濃境へ置くことはあるかもしれぬ」
冗談なのか測りかねたらしく、兵部少輔は答えなかった。
五郎は前を向いたまま続けた。
「無論、国境に兵を置くとしても、駿河から連れてきた兵は駿河の金で食わせる。甲斐へ賄わせるつもりはない」
兵部少輔は少し迷った後、馬を近づけた。
「では、我らは御陣へ加えていただけぬのでしょうか」
「欲しいが、今ではないな」
「では、いつにございましょう」
後ろに控えていた宮内が、小さく咳払いした。
主君である五郎に対して、新参の家臣があれこれと聞く、それも軍勢など根幹にかかわることを。
場合によっては非礼に捉えかねない話である。
兵部少輔は手綱を引き、頭を下げた。
「申し訳ございませぬ。重ねてお尋ねすることではございませんでした」
「よい。一家の当主なれば気にすべきことでもある」
五郎は道の両側へ目を向けた。
山裾の田には、水の入っていないところが多い。
畦が崩れたままの場所もあり、昨年の戦で壊されたのか、それ以前から荒れていたのか、遠目では分からなかった。
「少なくとも三年、甲斐衆を他国の陣へは出さぬ。境目と国内の警固は頼むが、駿河や三河の戦へ兵を出せとは申さぬ」
兵部少輔は頭を下げた。
「ありがたき御沙汰にございます」
それでも、声には喜びばかりがあるようには聞こえなかった。
少ししてから顔を上げる。
「されど我らも、いつまでも養われるばかりでは、今川家中に席を得られませぬ」
後ろの老臣が、今度こそ止めようと身じろぎした。
五郎は片手を上げ、それを制した。
「そこもとは損な性分よな」
兵部少輔は口をつぐんだ。
叱られたと思ったのか、先ほどより深く頭を下げる。
「二年は米も塩も入れるつもりでいる」
五郎は水の入っていない田を眺めたまま言う。
「されど、その先まで駿河の蔵で甲斐を食わせるつもりはない。甲斐には甲斐のものがある。それでどうにかできないか力を入れるつもりではある」
兵部少輔はしばらく黙っていたが、やがて遠慮がちに尋ねた。
「繭や金を、今川がお買い上げになるとの御触れにございますか。誠のことでしたか」
「戯れにするつもりはない」
また兵部少輔が黙った。この若武者は人のいうことを真に受けすぎるやもしれない。
「存外、甲斐は目があると見ている。少なくとも形になるまでは腰を据えて、打ち込む。それまでは帰らん」
五郎は田畑から目を離し、視線を兵部少輔に向けた。
若い武者がつばを飲み込んだ。
「そのつもりで来た。兵部少輔、そこもとにも力を借りる。一つ頼む」
兵部少輔はやはりしばし黙り込み、その後わずかに頭を下げた。
それ以上は道中で話さなかった。
細かなことは、甲府へ着いてから決めればよい。
一行が府中へ近づくにつれ、人家が増えた。
武田の館へ続く道には、今川の兵だけでなく、旧武田の奉公人や町の者も集まっている。
誰も歓声を上げなかった。
道の端へ寄り、頭を下げる者がいる。遠巻きに眺めるだけの者もいる。
今川が甲斐を救ったと思う者もいるだろう。武田を滅ぼし、甲府を焼いた敵だと思う者もいる。
そのどちらであっても、今さら不思議ではなかった。
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躑躅ヶ崎館の門前へ着くと、先触れの声が上がった。
「甲斐国守護、今川五郎殿、御入来」
開かれた門の奥には、武田の館がそのまま残っていた。
旗はすでに取り払われ、門を守る兵の袖には今川の印が付けられている。それでも、建物も庭も馬場も、武田がいた頃から大きく変わってはいない。館の主だけがいなくなったことが、かえって際立って見えた。
門内で馬を降りると、兵部少輔はそこで供の列を離れた。五郎は用意された一室へ入り、道中の埃を払い、装束を改めた。
ほどなく岡部左京進の使いが迎えに現れた。渡殿を通って案内された広間には、すでに人がそろっていた。
上座近くには左京進をはじめ、甲斐へ詰めていた駿河衆が座している。その向かいには穴山、小山田越中守、栗原兵庫、今井ら甲斐の国人が並び、少し下がった席には小畠山城守と、先ほど五郎を迎えた飯富兵部少輔が着いていた。
五郎が上座へ着くと、左京進が一礼して手元の書付を開いた。
「まず、先の戦の後に行った仕置きについて、改めて申す」
五郎は戦後数か月の間に行ったことを、自らの口で述べた。
この場にいる国人の大半も、すでに知っていることである。駿河と遠江から米と塩を運び込んだことで、戦の傷跡が大きかった甲府と河内は、ひとまず大きな飢えを免れた。
一方、戦で焼かれなかった甲斐北部や山間でも、長い兵役と塩止めの影響は残っている。大雨による山崩れも起こり、荷駄が通れなくなった道もあった。
「駒井。そなた、武田の帳面を握っておったな。今年の作付けはどうなる。分かるところだけ述べよ」
急に話を振られた駒井が背筋を伸ばした。いささか不満そうな顔をしていたが、左京進の刺すような目に押され、渋々口を開いた。
「まあ、作付けは始まっておりまする。ただ、巨摩の山際などは少し厳しいかと。働き手も随分減りましたし、種籾まで食うた村も多く」
その口ぶりに左京進が咳払いを挟んだ。駒井は鼻を鳴らした。
予想していたよりはましだった。むしろ、よくここまで持ちこたえている。五郎は一つ頷いた。
「では、直轄の村々と、蔵、市、金山の帳面をまとめよ。種籾や人手の足りぬ村があれば、それも書き上げる。この場にいる者も、領内に同じような村があれば後で駒井へ申し出よ。小次郎、手伝え」
駒井が顔を引きつらせた。
「あとは普請か」
「こちらも徐々に戻しております。御文にございましたとおり、駿河や遠江から連れてきた者だけで固めることはしておりませぬ」
左京進がそう言って頭を下げた。
武田に仕えていた蔵役や村役、街道を知る者、金山で働く者も、使える者は元の役へ戻している。すべてを駿河や遠江の者へ替えれば、どの蔵に何があり、どの道がどの村へ通じているのかを知る者までいなくなる。
「それでよい。駿河や遠江から連れてきた者は、代わりが見つかったところから戻せ」
左京進が頭を下げた。
「これから役は増える。各家から、一人二人出せる準備はしておけ」
「それは、人質ということでございましょうか」
広間がどよめいた。先ほどよりも大きな揺れである。
口を開いたのは穴山甲斐守信風だった。五郎と目が合うと、恭しく頭を下げた。外記に何か言われ、水を向けてきたらしい。
「言葉どおりだ。金山に手を入れるにしろ、蔵を増やすにしろ、糸を紡ぐにしろ、人が足らぬ。甲斐の国へ手を入れるのであれば、甲斐の者がいた方が話も早い」
「これは申し訳ございませぬ。役料の話がございませなんだので、つい」
「そちらも追って出す。働き次第ゆえ、各々心がけよ」
国人衆が顔を見合わせた。
武田の奉公人を元の役へ戻すだけではない。新たに召し抱え、役を与えるという話まで含まれている。安堵した者もいれば、今川が甲斐の家々へどこまで手を入れるつもりなのか、測りかねている者もいた。
五郎はしばらく待ってから、改めて甲斐の国人衆へ顔を向けた。
「加えて、そなたらへの沙汰を申し付ける」
広間が静まった。
「今川へ降った家の旧領は動かさぬ。武田が滅びたことを理由に、駿河衆へ分け与えることもせぬ。今年の年貢と役も、ひとまずこれまでどおりとする」
栗原兵庫が、わずかに肩の力を抜いた。今井も伏せていた目を上げる。
穴山だけは、五郎ではなく、向かいに並ぶ甲斐衆の顔を見ていた。もとより今川との縁が深い穴山にとっては、自家の安堵よりも、ほかの国人がこの沙汰をどう受け取るかの方が気になるらしい。
「ただし、武田が直接治めていた土地、甲府の蔵と市、金山は今川が預かる。今後、今川の米や銭を入れて新たに起こす田や蔵も同じだ」
安堵したばかりの空気が、そこで止まった。
小山田越中守が手をついた。
「一つ、郡内の道と関についてはどのように扱うのでしょうか」
「郡内と相模、武蔵口は、これまでどおり小山田へ任せる」
越中守の表情がわずかに緩んだ。
「ただし、今川の朱印を持つ荷から関銭を取ることは許さぬ」
緩みかけた顔が元へ戻った。
「郡内の道は、我らが人を出して保ってまいりました。関銭を止められれば、その人足を養うことも難しくなりまする」
「道を直す米は甲府の蔵から出す。これまで取った関銭と、その使い道を書き上げよ。足りぬ分はこちらで見る」
「すべて、でございますか」
「書付を見てから決める」
越中守はしばらく黙った後、静かに頭を下げた。
「承りました」
五郎は次の沙汰へ移った。
「軍役については、向こう三年、甲斐衆を他国の陣へ出さぬ。他家との国境、国内の道は守るのみに留め、今川からの軍役については申し付けぬ」
後のことは細々とした兵についての話になった。
甲府の館と駐留する兵については、期限付きで左京進の預かり。
残った旧武田兵のとりまとめは小畠山城守。金山筋と荷駄の守りは飯富兵部少輔。
そして道のことと守りに関しては、河内と南部の国人および、金山衆への取次は穴山。
先ほども話に上がった郡内と相模、武蔵口は小山田越中守と改めて申し付けた。
道中で兵の扱いについて尋ねた兵部少輔は、何度も頷きながら聞いていた。
今川にすぐさまなじみはしない。
だが、三年の間は他国の陣へ出られなくとも、飯富の兵を取り上げられず、役を与えられたことには納得もしたようだった。
そして一通り五郎が話し終えると、この若武者は今度は迷わず両手をついた。
「お任せくださいませ」
小畠山城守も手をついたが、頭を下げる前に口を開いた。
「旧武田の兵につきまして、一つお願いがございます。小頭についてでございますが、こちらは」
最後まで聞く必要はなかった。
旧武田兵の小頭を残すことは、小畠に願い出させる前に、こちらから示しておくべきことであった。
「改めて申し付ける。武田の小頭を残すことはかまわぬ。ただ使えるものと使えぬ者はわけよ。これは秋までに行うこと」
そこまで言ってから五郎は左京進を見た。
左京進も何度か頷いた。
「まず御屋形様の仰る通りかと。ただ愚見を申し上げますと、甲府と街道の番には駿河兵を交えたく」
「許す。山城守も左様心得よ」
山城守が深く頭を下げた。
ほかに異論は出なかった。
だが、それは甲斐の人間すべてが心から忠誠を誓ったこととは見ていなかった。
実直そうな兵部少輔ですら、少しでも扱いを間違えば今川に弓を引くことを厭わないだろう。
五郎は再度、左京進に目をやった。
左京進も神妙そうにうなづき、視線を返した。
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評定を終えて居間へ戻る頃には、日は西へ傾いていた。
装束を緩め、運ばれてきた白湯へ手を伸ばしたところで、廊下の向こうから声がした。
「関口彦三郎殿が、御目通りを願っておりまする」
「通せ」
少し奇妙に思った。彦三郎は先ほどの評定にも出ていた。表に関することであればそこで言えばいい。
内々で伝えたいことでもあれば、その後にどこかで呼び止めればよかった。
常の彦三郎であれば、休息の時間に訪ねてくるのは珍しい。
ああ、他聞を憚ることが何かあったのだな。
そう心構えをしながら、待っていると彦三郎が静かに入室した。
彦三郎は五郎の前まで進むと深く頭を下げた。
すぐに用向きを述べる様子はなく、戸口に控える近習へ目を向けている。
「良い、下がれ。何かあれば呼ぶ」
近習は少し悩んだようだった。だが彦三郎は一門関口の人間である。
まず問題ないと判断したのか、頭を下げて部屋を出た。
「お気遣いいただき申し訳ございません」
彦三郎がもう一度頭を下げた。
それから膝を一つ前へ進めた。互いの息遣いのわかる距離である。
五郎は、彦三郎の視線が忙しなく行き来するのを見た。相当に言いづらい内容のようで、中々口を開こうとしない。
「世話をかけたな」
ゆえに五郎は先に口火を切った。
彦三郎が顔を上げた。
「この身に甲斐守護の名を得させるため、そなたと左京進には泥をかぶってもらった。礼を申す」
「いえ、そのような」
彦三郎は慌てたように両手をついた。
「駿河の者にとりまして、甲斐を鎮めるためとあらば、いかほどのことでもございませぬ」
「そうか」
五郎は白湯を口へ運んだ。
わずかな間を置いて、椀を膝の前へ戻す。
「甲斐には、守護の名にふさわしいだけの手をかける。それで許せ」
彦三郎は深く頭を下げた。だが、去ろうとしない。
膝の上で重ねた手に、わずかに力が入っている。
どうやら、この一件ではないらしい。だがほかに思いつくことはない。
「ほかに何かあるならば。近習が白湯を持ってくる前に話せ」
彦三郎はしばらく伏せていたが、やがて覚悟を決めたように口を開いた。
「このたび御前へ参りましたのは、彦三郎の不忠をお詫びするためにございます」
「そなたが不忠であったというなら、この五郎に至らぬところがあったのであろう。気に病むことはない」
「いえ」
彦三郎は顔を上げなかった。
「五郎様への不忠ではございませぬ。今川家への不忠をいたしました」
五郎は目を細めた。
言葉を促しても、彦三郎はすぐには続けなかった。やがて畳へ額が触れそうなほど頭を下げる。
「流れたと申し上げました、武田五郎信直殿の御子にございます。男児として無事に生まれ、今も健やかに育っておりまする」
五郎は口を結んだ。
ふとあの視線を感じた。それで、かつての戦場、富田城の方向を振り返った。
一度も言葉を交わしたことのない、されど、かの人の全てを吸収しようとした男の死んだ場所。
五郎はそれから要害山に目を向けた。
彦三郎は頭を下げたまま続けた。
「御子は、彦三郎が匿っております」
しばらく、白湯の冷めていく気配だけが部屋に残った。
彦三郎があまりに拳を握りしめすぎ、爪が白くなっていた。
それが五郎には哀れに思えた。今川に振り回されるこの男がつらく思えた。
ゆえに、
「彦三郎、気を遣わせたな」
まずそれだけを述べた。
彦三郎の肩から力が抜けた。
しかりつけ、殺してこい。血を絶やせ。そう命じるのが正しい。五郎はどこかでそう理解していた。
もはや甲斐の安定のためには武田五郎の血を残してはならない。
しかし、一方でそれを拒む自分もいる。
おそらく、目の前に武田五郎殿の子供ですと差し出されれば、懊悩しながら殺せと命じた。
彦三郎はそれを知っていたからこそ、死んだことにしたのだろう。
ただ、その心遣いがありがたかった。申し訳なかった。
再び、彦三郎が深く頭を下げた。
「そのことを知る者は、どこまでいる」
「御子が武田の血を引くと知る者は、彦三郎のみでございます。乳母には、関口一門の遺児と申し聞かせておりまする」
「産婆は」
「母子ともに亡くなったものと思うております」
「左京進も知らぬのか」
「申し上げておりませぬ」
五郎は椀へ目を落とした。
彦三郎の如才のなさに言葉が出なかった。そして、つくづくありがたい家臣を残してくれたと、父に感謝をした。
五郎は冷めた白湯を飲み干し、彦三郎に薄く笑った。
「今後は、関口の子とせよ」
彦三郎がゆっくりと顔を上げた。
「そのうえで、駿府へ出す。関口一門の子として、弟らとともに育てさせる」
「よろしいのでございますか」
「よい。決めた」
五郎は彦三郎を見た。
「ただし、そなたが自ら連れ帰れば、余計なことを疑われる。関口一門の家で生まれた子を、駿府で育ててほしいと願い出た形にせよ」
「甲斐のことはいずれ申しますか」
「無用。武田の名も、母のことも教える必要はない」
彦三郎は何も答えず、両手をついた。
その頭が上がるのを待って、五郎は続けた。
「彦三郎。そなたにも、これから働いてもらう。心せよ」
彦三郎はもう一度、深く頭を下げた。




