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3章_16

まず話は、甲斐での武田五郎の討ち死にの報が来た時に戻る。

この報が届いたとき、今川の宿老、庵原安房守は驚愕するともに、胸をなで下ろした。


甲斐国では、福島兵庫助を失った。今川にとって大きな痛手であることに違いはない。

加えてその後、甲斐で救援を求める福島勢を見捨てれば、家中の信頼を失いかねない。

非常に難しい状況であった。だが、龍王丸の救援は間に合った。甲斐当主の討ち死にというおまけも加えてだ。


ただ、福島兵庫助の命は助からなかった。これについては福島家からの文句はでなかった。

龍王丸が我が身を囮にして兵庫助を救い出した後、怪我を押して自身の意思で戦場へ戻り、そのうえで甲斐当主と相打ちになったからだ。

まず、福島家から丁寧な礼が届いた。そのうえで、この度の初戦の大敗と、その後の無理攻めを詫びる形をとった。


甲斐をとらざるを得なかったこと、兵庫助により大勢の兵が甲斐より戻らなかったこと。

これらをもって、今川家としては福島を咎めることもできる。

だが、肝心の兵庫助が、大将首をとり、また既に鬼籍に入っていることも事実である。

ゆえに、功罪を曖昧にし、福島家にたいする貸しとすることに決めたのだ。


安房守は一先ず甲斐の後始末から目を背け、これでまず家中が落ち着くと安堵したのだ。


だが、それから十日ほどたって、事態は急変した。


武田五郎の置き土産、東三河からの乱入が発覚したのである。

安房守の見立てでは、五郎も三河勢にはさほど期待していなかったように見えた。

むしろ、信濃の諏訪を呼び込もうとした動きの方が濃い。

だが、信濃は甲斐に近い分、龍王丸のやり様も耳に入ったのだろう。

下手に兵を出せば何をされるか分からぬと、腰が引けた。そうも見ていた。


結果として、今川へ恨みを持つ東三河の牧野、戸田だけが、遠江へ軍を向けた。


もの知らずどもめ、と安房守は内心で三河衆を詰った。

偶然の産物にすぎないとはいえ、今は今川にとって難しい時期である。


一つ、当主の修理大夫氏親は病床で意識を取り戻したばかりで、とても号令などかけられない。

二つ、たとえ号令をかけても、駿河の兵が不足している。最低限の守備兵は残っているが、遠江へ向けられる軍勢はない。

三つ、ちょうど幕府の使者が来訪しており、なりふり構わぬ徴兵は避けたかった。


不味い、不味いと安房守が悩んでいるところへ、甲斐から急使が来た。


送り主は今川龍王丸、主君の嫡男である。

それを見て、安房守ははっとした。


そうだ、甲斐から遠江へ、二千ほど兵を戻せばよい。

きっと、あの聡明な若君はすでにそのように動いているのだろう。

そう思いながら文を開き、安房守はまたも愕然とした。


甲斐で動かせる兵五千をもって、東三河の吉田城を奪取する。

その後、牧野、戸田勢を討つ。駿府の皆々様は、心穏やかに。


安房守は、さすがに自分一人では抱えられぬと、病床の氏親へ話を持っていった。

最悪、当主がもう一度寝込むかもしれない。そんな思いすらあった。

だが、氏親の答えは悪いものではなかった。


「案ずるな」


それだけである。

何を呑気な、と言いすがろうとも思った。

だが、その一言だけで、安房守の胸中は軽くなった。現金なものよと、自分でも笑った。

実際、働きぶりにも、如実に違いが出た。


安房守は頭を下げて病室から下がると、何食わぬ顔で幕府の使者を歓待した。

何を問われても、三河の田舎者が少し騒いでいるだけで、すぐに落ち着くと大笑いした。


その態度を見て幕府の使者も安心したらしく、連日のもてなしは滞りなく進んだ。

そして、龍王丸の文から数日後の今、ついに幕府の使者から、望みの一言を引き出すことができたのである。


歓待を終え、幕府の使者が客殿へ下がると、庵原安房守は廊下に控えていた小姓を呼び止めた。


「御使者には、もう一献差し上げよ。肴も惜しむな。今宵は駿府に泊まられるのだから、湯殿の支度も早めておけ」


小姓が頭を下げ、足早に去っていく。

随行の者たちについても、粗略に扱ってはならない。京から駿河まで下る労は軽くなかった。

酒や料理の良し悪しだけではない。馬の飼葉、従者の寝所、帰路へ持たせる土産に至るまで、後々語られるものだった。

その手配は家司へ任せてもよい。


それでも安房守は、自ら念を押しておきたかった。

今日の話には、それだけの値打ちがある。


御使者は最後まで断言を避けたが、幕府の意向は十分に分かった。

言葉にしてしまえば、後から覆す際に面倒となる。

ゆえに互いに肝要なところだけを確かめ、残りは書状と礼物に委ねた。


もっとも、これで終わりではない。

御使者が京へ戻り、然るべき者へ話を通し、文書が発せられるまでは、どこから横槍が入るとも限らなかった。

安房守が自室へ戻ろうとしたところへ、表の方から足音が近づいてきた。

供を一人連れた侍が、廊下の先で膝をつく。


「申し上げます。遠江より早馬にございます」


「若君からか」


「はっ。朝比奈様よりの副状も添えられておりまする」


安房守は受け取った書状の封を、その場で改めた。龍王丸の印に間違いはない。

急ぎの報告であるが、病床の氏親を気遣い、まずは宿老の安房守へ向けられていた。

場合によっては、安房守が家中をいいように動かしていると思われかねない行為である。

だが、当の龍王丸は、安房守がそのようなことはするまいと見なしているらしい。

そのことが、妙に安房守の胸をざわつかせた。


封を切り、初めの数行へ目を走らせる。

若君の文は美筆であるが、いつも心の臓に悪い。

気を入れて読み進めているうち、自然と眉が上がった。


龍王丸からの知らせは、簡単に言えば圧勝。より正確に言葉を足せば、望外の大勝利であった。


牧野田三をはじめ、一門と主だった者の多くを東三河で討ち取った。

戸田についても、当主と一門衆の大半が遠江で討たれている。

現状、吉田、二連木をはじめ、牧野、戸田方の小城は今川方が押さえ、東三河の国人から誓紙と人質を取り始めていた。

ただし、知行については一切安堵していない。


吉田には朝比奈備中守を入れ、残党を追う名目で兵を置いた。

西三河へは出ず、東三河を今後どう扱うかについては氏親の判断を仰ぐ。


そこで文は終わっていた。


安房守は書状を持ったまま、しばらく動かなかった。


「安房守様」


使者の侍が、恐る恐る声をかける。

安房守はようやく書状から顔を上げた。


「朝比奈の副状も見せよ」


そちらにも、龍王丸の報告と食い違うところはなかった。


ただし、本人が書かなかった無茶や働きについては、朝比奈の方が詳しい。


五千を率いて甲斐を空けたことを岡部左京進らが諫めたこと。

そのまま東三河へ入り、二城を落とし、牧野を誘い出して討ち、翌日には戸田の背後へ現れたこと。

安房守は副状を畳んだ。

使者の侍が、なお返事を待っている。


「供の者ともども休め。返書は後ほど持たせる。道中のことも聞きたいゆえ、勝手に城を出るな」


「承知いたしました」


侍が下がると、安房守は小さく息を吐いた。

笑ってはならぬと思うほど、口元が緩んだ。


今川に運が巡ってきている。災いが転じた。そう確信した。


要害山で武田一門が兵を挙げようとし、百余りしか集まらなかったこと。

これは、すでに承菊の文で駿府にも届いている。


甲斐の国人衆も村々も武田へ応じなかった。

武田はもはや、甲斐の主として立つ力を持たぬ。

その顛末を承知した上で、先ほど幕府の使者は望みの言葉を口にした。


武田の正当な血が甲斐を治めるべし。

今川は甲斐に治めるは、武田がこれを能わなくなったときのみ。


おそらく、甲斐で武田家を後見せよ、そういう意味合いだったのだろう。

しかし、今となっては甲斐守護については決まったも同然だった。


残るは銭と文書の手順にすぎない。

細川方へ話を通せば、甲斐守護は今川の手へ落ちる。


そのうえ、龍王丸は東三河まで取っていた。

こちらについては、幕府の使者もまだ知らない。


だが、使者はすでに、遠江へ攻め込んだ戸田、牧野に対し、今川が兵を出して仕置することを咎めぬと述べている。

その言葉が出た時には、現地ではすでに戸田と牧野の当主は死に、吉田と二連木も今川方に落ちていた。


幕府が後から、そこまでは許していないと言い出すことはあるだろう。

その時はこちらも、御使者の言葉は、すでに行われた三河の仕置を含むものと承った、と言い張ればよい。


知らなかったのは幕府の都合である。

今川は戸田と牧野を討ち、東三河を押さえた。

その後で、幕府の使者が今川による三河の仕置を認めた。


その順だけは動かない。

あとは銭を積み、細川方にも話を通す。


甲斐守護と東三河。


どちらも、今川へ転がり込もうとしていた。


「甲斐守護と東三河、今川に転がってくるか」


安房守は、廊下で小さく頷いた。


そのまま客殿へ向かう小姓を呼び戻す。


「御使者へ出す酒を、さらに一壺加えよ」


小姓が戸惑った顔をする。


「先ほども、もう一献と」


「気が変わった。遠江から、めでたい報せが届いた」


詳しいことは言わず、安房守は氏親の居室へ向かった。

居室の前には、医師と近習が控えていた。

医師が立ち上がり、頭を下げる。


「御容態は」


「まず峠は越え申した。養生は必要ですが、御心配には及ばぬかと。ただ、表の話など、お心を乱すお話は」


「さて、それは約束できぬやもしれん」


「安房守様」


医師が半眼で睨んだ。

安房守は小さく笑い、手を振った。


「許せ、吉報である。薬になるやもしれん」


「良き知らせも、過ぎれば毒でございます」


「知らせぬ方が毒であろう」


苦い顔をした医師は、渋々と座った。

安房守は近習に戸を開けさせ、部屋へ足を踏み入れた。

氏親は褥の上で目を開いていた。顔は以前より痩せ、頬の肉も落ちている。

枕元には薬湯の椀が置かれていたが、半分も減っていなかった。

安房守の姿を認めると、氏親は片手を床へついた。

すぐに近習が肩へ手を添える。


「御屋形様、そのままに」


「吉報であろう。せめて顔を見たい」


「聞こえておられましたか」


「そなたの弾んだ声は、よく通る」


近習に背へ畳んだ衣を入れさせ、氏親はわずかに上体だけを起こした。

それでも呼吸が乱れた。

安房守は床近くへ座り、頭を下げた。


「御屋形様。幕府が承諾いたしました」


氏親はしばらく何も言わなかった。

目を閉じ、息を整えているように見えたが、やがて片方の口角が上がる。


「それだけか」


「それだけ、とは」


「そなたは、これしきでその顔をする男ではあるまい。なにやら、ひどく嬉しそうに見える」


安房守は思わず、自分の頬へ触れた。


「これは失礼いたしました」


「何があった」


安房守は龍王丸の書状を取り出した。


「遠江より、若君の御報せが届きました」


「戻ったか」


「いえ。まだ遠江にございまする」


氏親の眉がわずかに動いた。

安房守は、牧野、戸田両家の壊滅から順に報告した。

氏親は途中で一度も口を挟まなかった。

最後に、要害山の武田一門が決起を試み、百余りしか集まらぬまま引き返した件を伝えた。

そこで初めて、氏親の頬が緩んだ。

だが、報告を終えても、しばらく黙っている。


やがて、掠れた声で言った。


「やはり、あれは飛んだな」


「もとより、檻へ収められる方ではございませんでした。そう申せば、家中の懈怠でございましょうか」


「さて。もとより、あれは出ようと思えば出られた。いまさら出たところで、咎めなどすまいよ」


「まあ、そうでしょうが。形の上では越権を重ねております。蟄居の罰を一つ二つ増やさねば、家中へ示しがつきませぬ」


「随分好き勝手していたので、あれが蟄居中であったことを忘れていたわ」


氏親はかすかに笑った。

笑っただけで息が苦しくなるのか、胸元へ手を置き、しばらく呼吸を整える。

安房守は薬湯を差し出そうとしたが、氏親は指先を動かして断った。


「あれは此度も動いてくれたな」


「ええ、派手に動いてくださいました。されど、今川にとって悪いことではございますまい。甲斐はほぼ定まりました。東三河についても、幕府が今さら異を唱えることは難しゅうございましょう」


「幕府にとってはな」


氏親の声に、喜びはあまりなかった。


「あれを認めぬ者は、外にも内にもおる。強すぎる。前へ出すぎる。そのように嫌う者も出よう」


「承菊や遠江の者から聞く限り、若君は戦を好まれませぬ。むしろ内を治め、理を整えることを好まれるとか。時がたてば、危ぶむ声も収まりましょう」


「戦のことではない」


氏親は目を開き、安房守を見た。


「ありようよ」


「と申されますと」


「分かっておろう、安房守」


氏親は枕元へ視線を落とした。


「内を整えようと己の理や法を通すということは、他人の理や法を踏み潰すということ。言葉で飾れば穏当に見えようが、その実は苛烈の極みよ。加えてあれは、止まらんぞ」


安房守は答えなかった。

遠江で龍王丸が行ったことを思い返す。

材木を動かし、湊を整え、市を立て、人足へ前金を渡した。旧敵の者にも役目を与え、払えぬ者には別の返し方を作った。

外から見れば穏当である。

誰かを皆殺しにしたわけでも、土地をすべて取り上げたわけでもない。

龍王丸は、誰にも従えとは言わない。

だが、御料の蔵や船、市を外して荷を動かせば、以前より高くつき、遅くなり、売り先にも困る。

一度その仕組みに入った者は、旧来のやり方へは戻れない。


「相当に憎まれような」


氏親が続けた。


「御屋形様。お言葉ではございますが、今は乱世にございまする」


安房守はゆっくりと頭を上げた。


「大樹が洞である今、揺るがぬお方の影へ入らんとする者は、少なくございませぬ」


氏親は喉を鳴らした。


「今川の当主に、何を申すか」


「これは失礼を」


安房守が頭を下げた。


「されど、強き者が前へ立たねば、何も残りますまい」


「もはや立ち上がれぬ男で、済まぬな」


「何を仰せになりまする」


安房守はすぐに言い返した。


「遠駿の二国を取り戻したるは、御屋形様のお力以外の何物でもございませぬ」


氏親は目を細めた。


「あれが先代の子であれば、もっと得られたぞ」


「やもしれませぬが、おそらく京より戻ることは適わなかったかと」


「むしろ京で、より多くの助勢を得られたやもしれぬ」


「さて、力を見せすぎた者が、京で長生きできるとも思えませぬ。弱々しく見せるのも一つの軍略なれど、若君にはできますまい」


大人しく、弱々しく。

以前の龍王丸は、そのように振る舞おうとしていた節がある。

だが、あまりに異質で、すぐに化けの皮が剥がれた。

その時を思い出したのか、氏親は喉の奥で笑った。


「では、あれは修理大夫の子でよかったか」


「御屋形様に間違いなどございませぬ」


「安房守。そなた、存外に佞臣の振る舞いがうまいな」


「これはこれは。心より申し上げておりまする」


薬湯の匂いが漂う病室に、小さな笑いだけがこぼれた。

笑い終えると、氏親は天井へ顔を向けた。

先ほどまでより、わずかに目に力が戻っている。


「少し気力が湧いた。安房守のおかげであるな」


「御屋形様」


「最後に、二仕事しようか」


「あまり御無理はなされませぬよう。さすれば、決して最後などとはなりますまい」


「許せよ。ただ文を一枚。あとは二、三、名を書くだけだ」


氏親は視線を戻した。


「安房守。確か、甲斐へ戻ったのは彦三郎と左京進であったな」


「左様にございます」


「承菊もおるか」


「府中と河内を行き来しておりまする」


氏親は一度目を閉じ、浅く息を吸った。


「ならばよい」


右手を褥の上へ出す。


指先は細く、以前のような力はない。それでも、何かを握ろうとする形を作った。


「硯を持て」



----


龍王丸が駿府へ近づくにつれ、街道の両脇に人が増えていった。


初めは田から顔を上げ、遠巻きに旗を眺める者がいる程度だった。

それが町へ入る頃には、商家の軒先や辻にまで人があふれ、馬を進める道だけが細く残されていた。


軍神。御曹司。


人垣の中から、そんな言葉が切れ切れに聞こえてくる。

龍王丸の姿を認めると、誰かが若君と声を上げ、それに続いて方々から名を呼ぶ声が重なった。

龍王丸は馬上から、その様子を眺めた。


以前にも、似たことがあった。


あれはいつだったかと思い返すと、もう一年も前であることに気がついた。

かつて三河に踏み入り、戸田、牧野勢を峠で追い落とした後、駿府へ戻った時である。

あの時も駿府館の付近に人が出ていた。

ただ、その時は今日の空気とは明らかに違っていた。

少なくとも、彼らが向けていたのは、龍王丸を歓迎する視線ではなかったように思える。


今回の人混みは、少し毛色が違う。

頭を下げて拝む者、幼い子を抱き上げ、こちらへ顔を向けさせる女。

視線をやれば、皆嬉しそうに大騒ぎした。龍王丸の馬が通り過ぎた後まで、声は追ってくる。


隣を進んでいた天野宮内が、いかにも愉快そうに笑った。


「随分な人気でございますな。さすがは駿河の若君」


「昨年は、毛色の変わった獣を見るような扱いであったが」


「ようやく慣れたのでございましょう。良いではありませぬか。好かれるに越したことはございません」


「龍王丸へ声を上げても、さして意味はなかろう。それに、このような熱は何か一つあればすぐに裏返る。あてにはできまい」


宮内が声を立てて笑った。


「何かあるか」


「いえいえ。御料様は、御家の駿河へ戻られても何も変わりございませんな」


御家の駿河。そう言われても、龍王丸には腑に落ちなかった。

確かに今川の本拠には違いない。龍王丸もずっと駿河で育った。


「御家の駿河。そう言われても、駿府から出たこともない。遠江や甲斐の方が、まだよく知っているかもしれん」


「なれば、これから知ればよろしいでしょう。御料様ならば、すぐに隅々までご承知になられまする」


「そうは思えん」


駿府へ戻れば、まず蟄居かもしれない。

ここまで盛り上がった歓声すらも、弟を担ぐ者らにとっては耳障りに思えるだろう。

父の体調が思わしくないというのも拍車をかけ、龍王丸ごと一息に片づけようなどという者が出ても不思議ではない。


せめて、そのような短慮を起こす者は、弟の側から除いておくべきか。


龍王丸は思案に暮れながら、沿道の声を聞き流し、馬を進めた。

駿府の城下町まで入ったあたりで、人垣の一角に、周囲とは少し様子の異なる一団がいた。

身につけている物は目立たぬよう整えられていたが、立ち姿も供の者の振る舞いも町人のものではない。

その中に、被衣を目深に引き下ろした小柄な者が混じっている。

供の女が何度も袖を引いているにもかかわらず、小柄な者は落ち着きなく首を伸ばし、こちらを覗こうとしていた。


おそらく、あの姫君だろう。

きっと、無理を言って暇を潰しに出てきたのだろう。


そこで龍王丸は、歌のやり取りが自分のところで止まっていたことを思い出す。

確か甲斐へ向かう前、返歌に悩んでいたのだ。

何度か筆を取ったが、新たな仕事が途切れなくやってくるため、いつしか後回しになっていた。

さして返す必要は感じなかったが、ここで会ったのは一つよい機会にも思えた。


龍王丸は手綱を引いた。


「宮内、済まぬが一つ頼まれてくれ」


「何でございましょう」


「歌を届けてほしい」


「某は中御門殿の御所へは入れませぬが」


「かまわん。そこの、お忍びの童女だ」


龍王丸が目を向けると、宮内も人垣の中の一団に気づいた。

被衣の下から顔を出そうとしていた小柄な姿が、慌てて供の女の後ろへ隠れた。

隠れたつもりらしいが、被衣の上半分はよく見えている。

宮内は何かを察したように、口元を引き締めた。


龍王丸は懐から小さな矢立と紙を取り出した。馬上で紙を膝に置き、しばらく筆先を止めた後、文字を落とす。


待たじとは 君が言の葉 ありながら

梅は来る春 香にて知るらむ


書き終えると紙を折り、宮内へ差し出した。


「では、これで頼む」


宮内は紙を受け取りながら、わずかに顔をしかめた。


「承りました。意味を問われましたら、いかがいたしましょう」


「適当に誤魔化しておけ。向こうが勝手に知ったふりをしたら、もっともらしく頷けばよい」


どうせ大した歌ではないし、意味など込めてもいない。

歌さえ返れば、あの姫君は粗略に扱われていないと判断し、満足するだろう。


紙を受け取った宮内は苦笑し、供を一人連れて人垣の方へ向かった。

龍王丸が振り返ると、小柄な姿は近づいてくる宮内を見て、今度こそ供の女の背後へ身を隠そうとしていた。

だが、落ち着きなく左右へ動く被衣だけが、かえってよく目立っている。


見なかったことにして、馬首を駿府館へ向けた。


ほどなく館へ入った龍王丸は、ひとまず一室へ通された。

湯で顔と手を拭い、旅塵のついた衣を替える。小姓が髪を整える間、今後の始末を頭の中で確かめた。


東三河の知行安堵には手をつけていない。

吉田には朝比奈備中守を残し、西三河へ兵を出すことも禁じた。甲斐には左京進、彦三郎、承菊がいる。

自分がいなくなった後も、すぐに崩れることはないだろう。

まず安房守へ仔細を報告し、その後で父の沙汰を待てばよい。


衣の紐を結び終えた頃、廊下から急ぐ足音が聞こえた。近習が戸口で膝をつく。


「若君。御屋形様がお待ちにございます。直ちに対面の間へお越しくだされませ」


龍王丸は振り返った。

意外であった。氏親が倒れ、龍王丸が外へ出されてから一月ほどである。

意識を取り戻していてもおかしくはないが、まさか人前へ出られるとは思わなかった。


「御屋形様の御加減は、もうよいのか」


近習はすぐには答えなかった。視線を下げ、慎重に言葉を選ぶ。


「起き居が適うほどにはございません。ただ、若君とは御自らお会いになると」


龍王丸は小姓へ目を向けた。

髪を結い終えるのを待たず、立ち上がった。

病床の父を無理に人前へ出させるほど、処分を急ぐ必要があるらしい。


「分かった。急ぎ参ろう」


館の奥へ進むにつれ、控える者の数が増えていった。

廊下の端には、駿河の重臣や一門の姿がある。龍王丸を認めると、いずれも深く頭を下げた。

記憶にある館の中よりも、明らかに空気が軽い。

そのことが龍王丸の頭にわずかに引っ掛かりを生んだ。


とはいえ、わざわざ誰かを呼び止めて問いただすほどのことでもあるまい。


龍王丸は考えを振り払うと足早に謁見の間に進んだ。

謁見の場として指定された部屋は、思っていた以上の人数が揃っていた。


上段には氏親がいた。

背に畳んだ衣を重ね、脇息へ半ば身体を預けていた。顔は痩せ、肌には血の気がない。

ただ、こちらを見る目だけは病人のものではなかった。


その氏親の傍らには中御門殿が座している。こちらは龍王丸を見ると、少し目を伏せた。

また庵原安房守、三浦次郎衛門をはじめ、駿河の宿老や一門、弟たちの側近も並んでいた。


やはり空気は悪くない。張り詰めたものがない。

龍王丸は内心で訝しみながらも、下座へ進み、両手をついた。


「龍王丸、ただいま戻りましてございます」


「甲斐でのこと、東三河でのこと、ようやった」


龍王丸はすぐには答えなかった。


褒められた。それも父の口からである。

安房守が戦果を並べ、その後に咎めが来るものと思っていた。


どうにも順が違う。


「何を驚いている」


「いえ。まずは咎めを受けるものと思うておりました」


龍王丸は頭を下げたまま答えた。


「確かに、甲斐を得よ、東三河を取れなどとは申しておらぬな」


「は。一年前と何ら変わりなく、またも勝手をいたしました。真に申し訳なく」


言葉の上では咎めているが、声色は柔らかい。

龍王丸は頭上の氏親を探りながら、次の言葉を待った。


「確かに、中身はさして変わっておらぬ。されど、此度はそなたへ軍を預けた。当主として動けと命じた以上、これらを越権とするつもりはない」


部屋のあちらこちらで、笑いを堪える気配がした。

龍王丸は顔を伏せたまま眉を寄せた。


当主として動け。そんな文面であっただろうか。


甲斐で受け取った文を思い返すと、今川の当主に立ったつもりで計らえ、その一文はあった。

だが、それはあくまで甲斐の沙汰ではなかっただろうか。


「申し開きがあるならば、顔を上げよ」


龍王丸はそれを受けて顔を上げた。


「お言葉ながら、龍王丸は蟄居を命じられたばかりの身にございます。甲斐を処置するのみならず、吉田と二連木を奪い、東三河の国人から誓紙と人質まで取りました。さすがに行き過ぎかと存じまする」


「で、あるか」


氏親は安房守へ目を向けた。


「安房守。どう見る」


安房守は一度、龍王丸を見た。

その目には、気の毒そうな色が浮かんでいる。


「いささか申し上げにくきことではございますが、若君の御言葉にも一理ございまする」


龍王丸はわずかに息を吐いた。

さすがは安房守。事の道理をよくわきまえている。


だが、氏親は今度、三浦次郎衛門へ顔を向けた。


「次郎衛門」


「はっ。安房守殿の御言葉、ごもっともかと存じまする」


氏親はその後、部屋に集った重臣らを見渡した。

それからゆっくりと頷いた。


「なるほど。家臣らの言葉も汲まねばなるまい。のう、龍王丸」


龍王丸は再び頭を下げ、平伏した。


「は」


氏親が片手を上げると、近習が龍王丸の膝前へ四枚の紙を並べた。


咎状にしては、随分と短い。


氏輝。氏頼。氏義。氏綱。


龍王丸は紙を眺めた後、慎重に口を開いた。


「して、何でございましょう。出家する寺の名にございますか」


「そなたの元服名だ。分かっておろう」


「して、早う頭を上げ、よく見よ」


そう急かされ、龍王丸は紙面へ視線を移した。

見れば氏親の手元には、まだ紙の束がある。


「親として一つ決めておくべきかとも思うた。されど、そなたのことだ。気に入らぬ名なら、後から勝手に変えかねぬ。ゆえに選ばせることにした」


「龍王丸はいまだ若輩にございます。元服は、少々早いのでは」


「元服せねば、当主交代の正式な申し出も幕府へ出せまいよ」


龍王丸は顔を顰めた。


「龍王丸ごときの粗忽者に、当主など務まりますまい」


「ふむ。では、これだけの面倒ごとを誰が背負う。三河と甲斐の恨みを作ったのは誰であろうか」


氏親は脇息から少しだけ身体を起こした。

近習が支えようとしたが、手で制する。氏親の声から、先ほどまでの笑いが消えた。


「龍王丸にございます」


「だが、もはやそなたの首を落としても、寺へ入れても意味はない。必要なのは、甲斐と三河の恨みを引き受け、それでも国を治められる当主だ。越権も当主なれば許される」


違うか、と龍王丸へ突きつけてくる。


可能ならば否定したかった。

自分の才は、人を率いる方には向いていない。

その上で人を率いれば、合理だけを突き詰めたものになりうる。


そんな龍王丸が遠江の代官職を務められたのは、行き過ぎれば駿府が止めるという前提があったからだ。

だが、当主になればそれはなくなる。止まることのない暴れ馬に今川を載せ、どこまでも突き進むことになる。


ゆえに龍王丸は檻の中に戻りたかった。


しかし、氏親はそれを許さぬという。


「龍王丸は、人の心の分からぬ愚物にございます」


「最初から瑕疵のない玉など求めておらん。改めよ」


「弟らの方が、よき君主になるやもしれませぬ。末の弟など、特に出来が良いと聞きますが」


「知らぬ」


氏親は少し笑っている。


「だが、国がこれ以上ないほどまとまり、何が起きても百年、二百年と今川の家が続くところまで整えよ。その後は好きにせよ。そなたが望む者へ譲ればよい」


後年の英傑、徳川家康ですら、長い時と幸運を必要とした。

自分ごときが、それを成せようか。


そんな思いで、龍王丸はしばらく氏親を見た。

氏親の目は変わっていない。こちらを射抜く力も抜けていなかった。


「どうあっても、龍王丸に継がせると」


「然り」


氏親は即座に答えた。


龍王丸は周囲へ目を向けた。

安房守は、ようやく話がまとまったという顔をしている。三浦次郎衛門は静かに頭を下げた。

一門や宿老の中には、期待を浮かべる者もいた。目を合わせようとしない者もいる。

龍王丸を恐れている者も、明らかにいた。


それでも、誰も異を唱えなかった。


そうか。愚物でも、やるしかないのか。


そう思うと、腹が据わった。

龍王丸は両手をついた。


「承知いたしました」


自分の声が、思っていたよりもはっきりと響いた。


「今川家当主、務め上げてみせまする」


氏親は満足したように頷いた。


「よし。では次は名だな」


先ほどの紙へ視線を落とす。


「奥とも話したが、やはりこれがよい」


氏親は一つの名を指した。


氏輝。


龍王丸はその二文字を見た。

良い字ではある。両親からの期待も十二分にうかがえる。

だが、そう名乗る自分に、しっくりとしたものが来なかった。


「いえ。あまり輝くという字は、己には似つかわしくなく」


「ゆえによいと思うたのだがな」


氏親は龍王丸の顔を眺め、しばらく考えた。


「されど、そうよな。そこもとは光るやもしれぬが、それだけでは済まぬか」


手元に置いてあった紙束を引き寄せ、その中から一枚を引き抜いた。


氏景。


氏親はそう書かれた紙を、龍王丸の方へ向けた。


「こちらでどうだ」


龍王丸は二文字を見た。


景にも光の意味がある。結局、大して変わっていないではないか。

いや、先ほどの輝よりも書きやすい分、ましではある。画数は重要なのだ。

遠江の代官時代、龍の字にひたすら苦労した。


「気に入らぬか」


頷かぬ龍王丸を見て、氏親の手がさらに別の紙へ伸びた。


そこには大きく、氏龍と書かれている。


もう龍の字をひたすら書くのは、懲り懲りであった。

龍王丸はすぐに頭を下げた。


「いえ。ありがたく。今後は氏景と名乗らせていただきまする」


「うむ」


氏親は氏龍の紙から手を離した。


「いや、今川五郎氏景だ。当主となれば、そう名乗ることになろう」


今川五郎氏景。


龍王丸は、その名を胸の内で繰り返した。

富田の土煙の中に立っていた武田五郎の姿が、ひどく場違いに浮かんだ。


自分も、五郎になるのか。


龍王丸はわずかに口元を緩めた。

奇妙なものだと思った。


第三章をもって第一部完となります。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

今後については、書きためでき次第投稿させていただきます。

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― 新着の感想 ―
ははっ。こいつ、姓名判断での大吉数を引き当てやがった。 氏輝なんて少し凶兆混じりだ。 これは大変なことになる。 もしかしたら、足利からは偏諱を受けないほうがいいかも知れぬ
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