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3章_15

本坂峠を越え、嵩山から長楽へ向かう本坂筋に、龍王丸は兵を伏せていた。


気賀から吉田へ戻る牧野勢が、本坂越えを選んだ以上、避けては通れぬ道である。

街道の片側には雑木林が続き、その奥には低い尾根が横たわっていた。

道そのものは軍勢が通れるほどに開けているが、林へ少し入れば、街道から旗も人馬も見えなくなる。


その地形を利用し、五千の兵をいくつかに分けて伏せていた。


まず三千を岡部左京進に任せ、街道の片側に続く林と尾根の裏へ、いくつかの手に分けて置いた。

残る二千のうち千はさらに後ろへ回し、牧野勢が通り過ぎた後で退路を塞ぐようにしている。

こちらには騎馬や足の速い兵を集め、牧野勢がどちらへ逃れようとも追いつける遊軍とした。


それだけの兵を伏せながらも、龍王丸は街道の真ん中に馬印を掲げ、牧野勢を待っていた。


ただ、明らかな囮とは見えぬよう、周囲を四百ほどの兵で固め、前面には柵と浅い溝を設けていた。

その龍王丸のそばには、関口彦三郎と天野宮内が控えていた。


龍王丸は街道を見ながら、彦三郎に問うた。


「左京進は」


「すでに兵を伏せ終えております。後ろへ回した千も、合図があればすぐに道へ出られるかと」


「牧野だけか」


彦三郎も街道の先へ目を向けたまま答えた。


「戸田勢は、いまだ朝比奈備中守と睨み合っております。牧野が陣を払ったことには気づいておりましょうが、追って動く様子はないとのこと」


彦三郎の声には、少し訝しむ色があった。


宮内が、あえて明るい声を出して追従した。


「さすが、狙い通りではございますな。朝比奈殿には感謝せねば」


龍王丸は頷いた。


「遠江の国人衆らにもな。随分、牧野をもてなしてもらった。あとで費えは出さねば」


宮内が珍しく真顔で頷いた。龍王丸が遠江の国人衆の心をつかむ、そのような行いをこの男は好んだ。


遠江の国人らには、甲斐を発つと同時に急ぎ文を出していた。

牧野や戸田と無理に戦わず、道を教え、求められた米と人足も出せと命じたのだ。

遠江には今川への忠節を示そうと、門を閉ざして抗戦するであろう者もいるのだ。

龍王丸はそうした者にも、城と家を失う前に一度頭を下げよと重ねて伝えた。


無論、龍王丸の命がなくとも、従う腹であった者や、すでに従っていた者もいただろう。


だが、龍王丸の命によって仕方なく動いたという形を整えた。幸い、牧野勢に磨り潰された家はなかった。


彦三郎がわずかに眉を寄せた。


「遠江衆が形だけの恭順をした件ですが、気を使いすぎれば、こちらを軽く見ましょう。向こうも焼かれずに済み、今川に咎められない。褒美まで出すことはないでしょう」


「そちらは出すつもりはない。村々が兵糧を出している分、こちらで贖うと言っているだけだ」


彦三郎はまだ何か言いたげだったが、わずかに頭を下げて引いた。


穏当な男ではある。むやみに村を焼こうとも、人を斬ろうとも言わない。だが、彦三郎も今川一門の関口であり、駿河に根を張る家の者だった。

これが駿河の村から出た米であっても、同じことを言っただろうか。


そう思いつつ、龍王丸は林の向こうへ目を戻した。牧野勢はまだ姿も見せていない。

勝った後のことばかり考えている場合でもなかった。


「とはいえ、余りこの後のことを考えすぎるのも良くないか」


「でありましょう。戦の後々を考えるのは必要なことですが、さすがに」


皮算用が過ぎる、とまでは彦三郎も言わなかった。


確かに兵数では勝っている。地の利も得ており、策も用意した。


だが、戦には計算外がつきものである。

あの武田五郎信直ですら、すべてを見通すことはできなかった。龍王丸など言うに及ばない。

にわかに、街道の先で木の枝が揺れた。


軽装の騎馬が一騎、林の陰から半身を見せた。今川方の兵ではない。


その騎馬兵は辺りを見渡し、龍王丸の陣を認めると、すぐに馬首を返した。


「斥候が参りましたな。すぐそこでしょう。こちらも準備いたしましょうか」


「許す。左京進への合図はこちらで出す。彦三郎は戸田方を頼む」


「承知いたしました」


彦三郎は馬を返し、街道の南へ通じる脇道へ向かった。

宮内が手を上げると、近くに控えていた兵が林の奥へ走った。

声は上げない。旗も立てない。

伏せている兵の間を、小さな動きだけが次々に伝わっていく。


間もなく、街道の先に土煙が見えた。


初めは細い筋にすぎなかったものが、少しずつ広がっていく。

槍の穂先が日に光り、その下から牧野の旗が現れた。

隊列は長く伸びていた。急いで戻ってきたためか、先頭と後ろの間がところどころ開いている。

歩兵の脇を騎馬が抜け、遅れた者を怒鳴りつけながら前へ急がせていた。


牧野田三信成は、龍王丸が逃げる前に、牧野単独でも討つつもりらしい。


「牧野方、ぶれませんな。いつもの東三河衆でございます」


宮内がつぶやいた。龍王丸も頷く。


「多少遅くなろうとも、戸田と合力する手もありえた」


「まこと東三河は溝が深うございますな。ありがたいことで」


「ああ、準備が無駄にならずに済んだ」


牧野勢の先頭が見えるところまで近づいた頃、龍王丸は背後へ顔を向けた。

街道の南へ抜ける脇道から、戸田の旗が上がった。

二連木で手に入れた旗である。


その下にいるのは百にも満たない。前列で槍を合わせるには向かない軽傷者と小者を集めていた。旗を立てて脇道から現れ、龍王丸の退路へ回り込む姿を見せるだけなら務まる。

指揮を執る彦三郎が兵を左右へ振り、龍王丸の後ろへ回り込もうとする動きを作っていた。

よくよく注意して見れば、旗が血で汚れていることや、身につけた鎧が体に合っていないことにも気づくだろう。


だが、そこまで騙し切るつもりはない。


二連木から逃れた戸田方の残兵が集まり、龍王丸を逃すまいと追ってきた。


今このひと時、牧野からそう見えれば足りた。


戸田の旗が動くと、正面に出していた今川勢も、それに気づいたようにざわめいた。


龍王丸は馬を進め、兵へ命じた。


「動け、そこそこに急げ」


正面の兵が陣を崩した。


一目散に逃げるほど速くはない。だが、背を断たれる前に別の道へ抜けようとしているようには見えた。

拵えた柵と溝を放棄し、左右に残していた口から兵を抜く。槍を担いだ兵が街道から外れ、旗も向きを変えた。

前面の牧野を待ち構えようとしたが、後方から戸田方が現れたため、龍王丸が焦って逃げ出そうとしている。


そのような動きを作り、牧野勢に見せた。


「もう一押しですかな。牧野勢もめております」


宮内がいやらしく笑った。


「では、さらに焦らせるか」


周囲を固めていた四百のうち、後衛の一部を戸田の旗へ向き直らせる。

戸田方の進路を押し止めようとする兵と、退路を探して右往左往する兵を作った。

牧野勢が明らかにざわめいていた。


ほどなく、見張りに出していた兵が駆け戻ってきた。


「牧野方、動きました。こちらに突っ込んできます。斥候を再び前へ出す様子もございませぬ」


「左様か」


龍王丸は小さく息を吐いた。宮内は口元を押さえ、肩を揺らしていた。

そこへ、偽の戸田勢を率いていた彦三郎が戻り、怪訝そうにこちらを見る。


「宮内殿、戦場ですので落ち着いてください。それに、若君は何を落ち込んでいらっしゃる。予想通りではないですか」


「大したことではない。牧野に五郎殿はいない。そう思っただけだ」


「何を当然のことを」


五郎なら、そもそも単独で戻らなかったかもしれない。

いや、戻ったとしても、見通しの利かぬ道を、斥候も出さずに突き進むことはなかっただろう。

そんな龍王丸の心中など察しもせず、彦三郎は呆れたように息を吐いた。


「そんなことより、来ますぞ」


見れば牧野勢は、先ほどまでとは比べものにならぬほど速度を上げていた。

戸田方に龍王丸を奪われる前に、追いつこうとしているのだろう。

遮二無二、田三の馬印すら先頭近くまで出て、こちらを目がけて気勢を上げていた。


兵の勢いは素晴らしく、遠江から戻ったばかりとは思えない。

ここまで兵を駆り立てた田三の力量は、決して侮れるものではないように感じられた。


牧野勢の隊列は、凄まじい勢いの分、もはや錐のように細く伸びていた。

今川勢が逃れようとしているのを見て、後続が追いつくのも待たずに前へ出ている。

やがて田三の馬印が、道端に立つ曲がった松、目印と定めた地点を通り過ぎた。


龍王丸は声を上げた。


「鏑矢。撃て」


弦が鳴った。


鏑矢が林の上へ飛び、乾いた音を響かせる。


直後、街道の片側に続く雑木林から鬨の声が上がった。


待っていたとばかりに、左京進の兵がいくつかの林から次々に街道へ駆け下りる。錐のようにこちらへ向かっていた牧野勢の横腹へ、槍の列が突き入った。

前へ進んでいた兵が止まり、後ろから押してきた兵がぶつかる。

道を外れて逃れようとする者もいたが、斜面から次々に今川の旗が現れた。


牧野方から大きなどよめきが上がった。


「偽兵はもういい。後背の見張りに戻しておけ。けが人を動かして悪かったと伝えよ」


戸田の旗が倒され、その下にいた兵が脇道から離れていく。

正面で逃げるふりをしていた今川勢も足を止めた。向きを変え、混乱する牧野勢へ押し返す。

牧野方は左右へ兵を出そうとしたらしい。


しかし、命令が届くより早く、左京進の兵が横から中央を押し割った。

街道に立っていた旗が傾き、次々に見えなくなる。

牧野勢は後ろへ退こうとした。せめて一門衆や重臣の何人かは、逃れようとしたようだった。


だが、その後方に当たる林から、さらに千の兵が姿を現した。


退路を断たれたと分かった途端、牧野勢の崩れは早かった。


槍を捨てて林へ逃げ込む者。味方を押しのけ、街道を戻ろうとする者。

田三の旗の下へ集まろうとする者がぶつかり合い、誰の命令も通らなくなる。

左京進の三千が、その混乱を横から押し潰していった。


「あっけないものですな」


宮内が白けた様子で言った。


「言うな。あれは誰でも無理だ」


「武田殿は、似たような有様でも一度は持ち直しましたが」


「そなた、その名を出せば龍王丸が黙ると思っておらんか」


宮内が無言で頭を下げた。

龍王丸は戯言を交わす間も、馬上から牧野勢を見続けていた。

やはり牧野は立て直せなかった。田三の旗はとうに軍勢の中へ飲まれ、どこにあるか、もはや分からない。


「牧野田三、討ち取ったり」


やがてその声が上がり、方々から牧野一門の者を討ち取ったとの声が続いた。


勝敗は、そこで決した。


林へ逃れた兵はまだいる。武器を捨てて伏している者もいた。

だが、牧野勢が軍勢として立ち直り、再びこちらへ向かってくることはない。

勝鬨が上がる中、左京進が馬を寄せてきた。

兜には土がついていたが、血はほとんど見えなかった。


「ご苦労。左京進」


「いえ、さほどのことでは」


言葉どおりの顔ではなかった。


「不服そうな顔をするな。奇策に突き合わせて悪かったが、この後戸田の背を突かねばならん」


「であれば、なおのこと大将が自分を囮にするような真似など」


「この程度、囮というほどでも」


「敵兵に顔をさらす真似はすべて囮でございまする。どうかご自愛を」


左京進の眉が寄った。


「悪かった」


龍王丸が手を振ってみせても、左京進の眉間から皺は消えなかった。


預けた三千の兵に、疲労の色はほとんど見えない。

戦い自体はほんの短い間で終わり、攻撃らしい攻撃も受けていなかった。

横から突き、崩れて混乱したところを押し潰しただけである。


後に上がった今川方の討死は十にも届かず、手傷を負った者も数十ほどだった。


完勝と言ってよい。


「若君、牧野の残りはいかがいたしましょう」


左京進が再び馬を寄せた。すでに先ほどまでの不満は顔に出していない。


「千程置いて追い回し、威圧する。東三河は固めたい。西三河の者が入り込まぬようにな」


左京進が頷いた。指示に不服はないらしい。


もはや東三河には、まとまった軍勢を招集できる勢力はいない。


裏を返せば、外から別の勢力が入り込む余地が生まれたということでもある。

戸田や牧野が遠江で行ったように、こちらも軍を見せつけ、東三河の国人衆を平伏させる必要があった。


龍王丸は彦三郎へ目を向けた。


「彦三郎、頼めるか。どこぞが東三河へ出てきたとしても、無理に野戦へ出るな。吉田城に籠っていればよい」


「承知いたしました。ですが」


彦三郎はそこで言葉を切り、左京進を見た。


左京進も黙って頷いた。


二人の顔を見比べ、龍王丸はため息をついた。


「無論、勝手はしない。左京進から離れん。それでよかろう」


「では、拝命いたしました。東三河のことはお任せください」


彦三郎は満足したように頭を下げた。


牧野を追い回して東三河を圧する兵と、捕らえた者をまとめる兵が後ろに残る。左京進の主力は、すでに隊列を整え始めていた。


龍王丸は遠江を指した。


「では、行くぞ。残るは遠江の戸田だ」



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牧野を破り、龍王丸が遠江へ兵を返してから一日後、戸田一門の首が朝比奈勢の陣幕前に並べられていた。


すでに血は拭われ、名を書いた木札が添えられている。戸田の当主をはじめ、名のある一門や重臣だけでも十を超えた。兵の首まで並べれば、陣の外まで列が伸びたであろう。


龍王丸はそのうちの一つへ目を落とした後、朝比奈備中守へ顔を向けた。


「戸田殿を討ったとは見事であるが、少し前へ出すぎたのではないか」


「甲斐や東三河で危難を被った若君にそう申されるとは、存外、備中守も捨てたものではございませんな」


「若君、皮肉でございますゆえ、お改めください」


左京進の言葉に、備中守が笑った。


備中守の具足には泥と返り血が残り、袖の一部が裂けている。戦の最中、戸田の本陣へ突っ込んだままの姿だった。


半日ほど前、戸田と朝比奈の睨み合いは唐突に終わった。


戸田勢の背後に、突如として龍王丸の兵が現れたのである。


龍王丸がこの時率いた兵は三千。連戦に次ぐ連戦と急行で疲労はあった。それでも、まだ気力の底は見えていない。龍王丸が一声、二声かけると、途端に背筋が伸びた。


この軍勢を背に、牧野が壊滅したこと、二連木が落ちたことを伝えると、戸田勢は大いに乱れた。


戸田の馬印が揺らいだ時、そのままばらばらに逃げるかと思われた。だが、意外にも戸田の当主は兵を集め直し、龍王丸の側へ陣を向けた。


東へ帰る道を開くには、背後へ現れた今川勢を破るほかないと見たのであろう。


判断そのものは誤っていない。


だが、朝比奈勢と睨み合ったまま、陣の半ばを後ろへ向けた。これがまずかった。


備中守はそれを見逃さなかった。


号令を一つかけると、朝比奈勢の先鋒が戸田の陣へ突き入り、軍勢を真ん中から割った。戸田方が前と後ろに分かれたところへ、今度は龍王丸の三千余りが押し寄せた。


牧野の時と同じく、反撃らしい反撃はほとんどなかった。前後から包まれたことで気勢を失ったこと、退路を断たれていたこともある。


だが、それ以上に大きかったのは、朝比奈勢が最初に突き入った時、戸田の当主が馬から落ちたことであった。


それで当主の旗が止まり、その姿が見えなくなった。


本来なら、当主が倒れた後を一門や重臣が支える。だが、戸田では昨年の遠江侵攻で、そうした者の多くを失っていた。


つまり、戸田勢へ明確な命を出せる者は、その瞬間いなかった。


結果として、兵の数と挟撃に押され、残った一門らも次々に討たれていった。


戦の趨勢を思い出したのか、備中守は苦笑した。


「まあ、確かに読みの当たった会心の勝利ではございます。とはいえ、手柄首まで備中守が取ったことになれば、下の者に恨まれまする。突撃の一件については、御放念ください」


備中守が並べられた首へ目をやった。


実際に戸田当主の首を挙げたのは、朝比奈家中の名もない兵である。備中守が自ら槍をつけたわけではない。


確かに、このまま駿府へ報告が上がれば、朝比奈備中守が手ずから討ち取ったなどという話になりかねない。


世間では一万を三百で破ったことになっている龍王丸は、素直に頷いた。


「首を取った功は、その者に与えればよい。されど、戸田の陣を割った功はそなたのものゆえ、持っていけ」


「御耳汚しでございますが、朝比奈一家が功を独占したと言われますと」


横で聞いていた左京進が苦い顔をした。今川家でも、功に対する嫉妬はあるらしい。


「そうやって功を帳消しにすれば、今度は龍王丸が恨まれる。不満を口にできるほど胆の太い者には、次に功を立てる場を与えればよい」


龍王丸の本音である。


甲斐と東三河を得たことで、間違いなく人手が足りなくなる。文官だけでなく、武官も不足するだろう。功を挙げる機会は朝比奈に限らず、嫌というほど訪れる。


備中守はしばらく龍王丸を見た後、深く頭を下げた。


「では、ありがたく」


その横で、天野宮内がわずかに笑った。


岡部左京進は何も言わなかったが、備中守が頭を下げたのを確かめるように一度だけ頷いた。


備中守が顔を上げた。


「にしても、若君も随分と急がれましたな。甲斐を空けて五千ですか」


「言うな。左京進や彦三郎にも、散々詰められた」


左京進が鼻を鳴らした。


否定する気はないらしい。


「ならば、備中よりはこれ以上申しますまい。して、これからいかがいたしますか」


龍王丸は首の並ぶ陣幕から目を離し、東三河の方角を見た。


牧野も戸田も、当主と一門の多くを失った。主だった国人衆らも同様である。


おそらく東三河に、今すぐまとまった兵を集められる勢力は残っていない。


だが、これでよしとして東三河を放棄し、何事もなかったように遠江へ引き上げる。それは悪手であるとも考えていた。


そうすれば、間違いなく西三河から別の勢力が入ってくる。駿河は三河を統一した勢力と、直接国境を接することになる。


そこまで考え、龍王丸は視線を戻した。


「東三河は、もう飲むしかあるまい」


備中守が黙って続きを待った。


「駿府が手放すと決めたなら従う。だが、それまでは吉田を拠点に固める。吉田と二連木は、ひとまず御屋形様の御預かりとする」


龍王丸は備中守へ頷いた。


「備中守、立て続けですまないが、一度吉田城へ入れ。これは戸田の残党を追う仕儀としよう」


「無論、力を尽くしまする」


龍王丸の言葉に嘘はない。


駿府方が東三河を手放したがり、吉田城への入城を咎めたとしても、防衛行動の一環としてひとまず押し切る。備中守もそれを承知して受けた。


「彦三郎が千を連れて、東三河にいる」


「城攻めですかな」


「そこまでは許していない。ただ、降る者は受け入れ、牧野や戸田の残りを追い回しているだけだ」


国人衆へ兵を見せ、そのうえで恭順する者から誓紙と人質を取らせている。名目上は、牧野・戸田勢の討伐である。


ゆえに、知行の安堵までは許していない。誰の土地を認め、誰から召し上げるかは、当主氏親が決めることである。


「吉田へ入ったら彦三郎から引き継げ。仔細は任す。ただし、知行を安堵するな。西三河へも兵を出すな」


「委細承知いたしました」


「頼む。引き継ぎが済んだら、彦三郎は甲斐へ戻すように伝えよ」


備中守はそこで思い出したように顔を上げた。この男には珍しく、楽しげな顔を見せた。


「そういえば甲斐については、お聞きになりましたか。承菊殿と穴山殿が、こちらへ文を寄越しておりますが」


「まだだ。武田は仕損じたか」


備中守が頬を緩めて頷いた。


文によると、武田勢は動いたらしい。


龍王丸が五千を率いて甲斐を離れた後、早速、要害山に残る武田左衛門信友と板垣駿河守が兵を集めようとしたという。


甲斐から今川の主力が消え、傷病人も河内へ下がった。この機を逃さず、武田の本拠である府中を奪い返すつもりだったのであろう。


だが、触れに応じる国人はほとんどいなかった。


田畑は荒れ、兵糧を蓄えていた蔵も焼かれている。村々は、自らの家族を食わせる米すら足りない。武田のために差し出す兵糧など、どこにもなかった。


何より、誰もが龍王丸の文で足を止めた。


要害山の武田に応じれば、甲斐へ入る塩は止まる。焼かれた田畑の穴埋めとして送られるはずだった米や銭もなくなる。当然、所領安堵もすべて取り消しである。


穴山らから、龍王丸は本気であると伝えられると、国人衆は完全にその気をなくしたのだ。


結局、左衛門と板垣のもとへ集まったのは、武田の旧臣や牢人が百余りだけだった。


府中へ降りようにも、躑躅ヶ崎と周辺の道には今川兵が残っている。兵糧を出す村もない。


それどころか、周辺の国人衆や集落の民らは、今川へ恩を売る機会だと目を光らせる始末であったという。


そのため、決起した武田残党は躑躅ヶ崎へ近づくことすらできず、要害山へ戻ったらしい。


「動きはしたが、動けなかったということか」


「承菊殿の文には、そのように」


龍王丸は顔には出さなかったが、内心ではひどく落胆した。


五郎の後に残った者どもは、当人には及ばぬらしい。


「こちらはどういたしますか」


備中守が甲斐の方角を見ながら尋ねた。


「残りの兵は、すべて甲斐へ戻す。左京進と承菊を中心に、しばし面倒を見てもらう」


備中守は首を横へ振った。


「いえ、武田について、どうなされるのかと。抗戦を唱える者は、もはや何もできますまい。かといって、今さら和議を結び、武田をそのまま残すというのも」


龍王丸は要害山を頭に思い描いた。


確かに、大井や右近助は和議を求めた。おそらくだが、本心だったようにも思える。


だが、武田という括りで見れば、彼らは一度は和議を求め、その口で兵を挙げたことになる。


というより、そう言い立てれば、武田に残された一門と重臣をまとめて討つこともできる。


もはや兵を送る必要すらないかもしれない。穴山や甲斐国人に討たせ、首だけを河内へ運ばせてもよい。


「一度は和議を求めながら、その舌の根も乾かぬうちに兵を挙げた。そういうことにして、まとめて潰すこともできような」


「今の武田ならば、周囲からも否は上がりますまい」


備中守が言ってのけた。嘲りも同情もない声だった。


硬骨な男であるが、朝比奈は長く今川に仕えた宿老の家でもある。残すべき家と滅ぼすべき家を、情だけで決める男ではなかった。


いっそ、甲府か東三河で大領を任せてもよいかもしれない。そんな思いがよぎった。


「その辺りも含め、御屋形様の御判断を仰ごう」


龍王丸は息を吐いた。


「戦が落ち着き、甲斐の火も消えかけた今、もはや龍王丸があれこれ言う段ではなかろう」


備中守が宮内へ目を向けた。宮内は片方の眉を上げた。


咳払いを一つ挟んでから、備中守が口を開いた。


「御言葉ながら、それは今さらというものではございませんか」


今度は龍王丸が苦笑した。


「今さらではある。だが事実、龍王丸がその権限を認められたのは、甲斐の一件のみだ」


「つい先ほどまで、東三河の吉田城に備中めを置こうとされましたが」


「事が終わった後の暫定的な処置だ。再び火がつかぬ程度の手当てならば許されよう」


分かっているくせに言うなと、龍王丸は備中守へ視線をやった。


「そもそも、ここにいること自体が詭弁とこじつけである。昨年とは違い、ある程度の許可を得た上ではあるが、越権と言われれば否定できまい」


「昨年のそれは、軍権を許されずに軍を発したことでございます。この度とは違いましょう」


「甲斐だけでなく、東三河まで攻め取ったわけだが。何も言われぬと思うか」


それで備中守は口を閉ざした。


それはそうでしょうが、と顔には書いてある。


氏親が龍王丸へ与えたのは、甲斐の戦を処理する権限である。


遠江へ攻め込んだ牧野と戸田を討つところまでは、甲斐の五郎が仕組んだこと、領国を守るための軍事行動として通せる。


吉田と二連木を奪ったことも、敵が戻らぬよう一時押さえたと抗弁できる。


だが、そのまま東三河を今川領として取り込めば、さすがに甲斐の処置だけでは済まない。


「とはいえ、先の一件では顔を立てねばならぬ敵を残したままだった。此度はそれがない」


牧野も戸田も武田も、龍王丸の処分へ異を唱えられるほどの力は残っていない。いや、そもそも勢力自体が消え失せかけている。


戦火を広げぬために、その顔を立てる。または戦果を返す。そんなことをする相手すら、今はいないのだ。


「ゆえに、蟄居が幽閉に変わる程度であろう」


無論、最大限都合よく解釈しての話である。


龍王丸はそう言って、今度は駿府の方角を見た。


おそらくだが、父に許されたとしても、それで終わるとは限らない。


甲斐で武田を潰し、東三河まで今川の手へ入れた龍王丸を、弟たちのために邪魔だと考える者はいるだろう。


蟄居の屋敷へ戻されるだけなら、まだよい。


父の目の届かぬところで、食事へ毒でも入れられるかもしれない。


龍王丸は並べられた戸田一門の首へ、もう一度目を向けた。


外にいた敵は、これでほとんどいなくなった。


ゆえに、もうよかろう。もう十分生きたな龍王丸。


自分にそう言い聞かせた。


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