3章_14
夜明けには、まだ間があった。
道の先に、吉田の城下が黒く沈んでいる。家々の灯はほとんど消え、城の方角に夜番の火が一つ見えるだけだった。
吉田、古くは今橋と呼ばれた城は、豊川の流れに寄り、東三河の道を押さえる牧野の城である。
もとは氏親が牧野古白に命じて築かせたものだったが、今は牧野の本拠となっている。
その牧野は、主だった兵とともに遠江へ出ていた。城には蔵も家族も残したままである。
またその吉田の東には、戸田方の二連木がある。戸田もまた当主と主だった者を遠江へ出していた。
遠江で彼らを追い返したところで、それぞれの城へ戻るだけである。
ならば、先に帰る場所を取る。吉田を失えば牧野が、二連木を失えば戸田が戻ってくる。
龍王丸はその腹積もりで、遠江を抜け東三河にいた。
龍王丸の背後では、甲斐から連れてきた兵が道と畑を埋めている。遠江へ入ってから歩けなくなった者は、河内に置いてきたが、それでも五千に近い。戸田と牧野が境を越えた道は避け、引佐の者に導かせて山際を抜けてきた。途中でこちらを見た者もいたが、馬で先触れに走ろうとした者は捕らえてある。
道は少し先で二つに分かれていた。一方は二連木へ、一方は吉田へ通じている。
左京進が馬を寄せた。
「二連木は囲み、城兵を出さぬ。それでよろしいのでございますな」
「吉田へ向かう者を止めよ。城攻めにかかずらうな。崩れるようなら、そのまま取れ」
「承知」
「こちらで火が上がるまでは、戸田へ知らせるな」
それだけ言葉を交わすと、左京進は右手の道へ馬を向けた。配下の兵が続き、闇の中へ吸い込まれていく。別の一隊も、二城の間を通る道と、北へ抜ける道を押さえるために列を離れた。
龍王丸は残る兵を連れ、吉田へ進んだ。馬の口には布を巻き、足軽には槍を立てぬよう命じてある。畑の畦を踏み崩しながら、長い列が音を殺して進んでいく。
先頭から兵が一人戻ってきた。
「門は閉じておりまする。門前に番が五人。城内に動きは見えませぬ」
夜中であれば、門が閉じているのは当然である。そこまでの幸運は望んでいない。むしろ、開けられていたなら罠を疑っただろう。
「門の左右へ回せ。北の柵にも取りつかせよ」
兵が伝令を携えて走った。
城下の端で犬が吠えた。一匹に続き、別の家からも声が上がる。門上の松明が止まり、こちらへ向けられた。番兵が何かを叫び、鐘へ駆け寄る姿が見えた。
鐘が鳴る。
一度、二度と、夜明け前の城下へ音が広がった。
家々の戸が開き、何事かと顔を出した者が、道を埋める兵を見て引っ込む。門前にいた番兵は城内へ逃げ込み、内側から扉を押さえ始めた。
龍王丸は馬を降りた。
「落とせ」
そう言って腕を振り下ろすと、鬨の声が上がった。
ほぼ同じ頃、二連木の方角からも別の声が響いた。吉田の門上にいた者たちが振り返る。あちらにも今川勢が迫っていると知れば、二連木からの援けを望むこともできまい。
盾を持った兵が門へ走る。
城内から矢が飛び、前列の盾へ突き立った。数は少ない。続けて落ちてきた石も、門前へ寄った兵を追い散らすほどではなかった。
今川方の弓が返される。
門上の人影が伏せた隙に、斧と掛矢を持つ兵が扉へ取りついた。板戸を打つ音が続き、その脇では浅い堀へ木束が投げ込まれている。
城内で、ようやく兵を集め始めたらしい。
鎧を着けぬ男たちが門上へ駆け上がり、弓を手渡している。槍を抱えた者が門の裏へ集まり、横木や荷車を押しつけ始めた。
「鈍いか。彦三郎、どう見る」
関口彦三郎に尋ねた。
「奇襲にございます。主だった将もおらぬならば、こんなものでしょう」
「遠江の小競り合いも含めれば、野戦はそれなりにやった。だが城攻めは初めてだ。何かあれば申せ」
彦三郎は意外そうな顔を見せた後、頭を下げた。
龍王丸は視線を城へ戻し、歯がゆい思いを押し殺した。
明らかに吉田城は緩んでいる。朝比奈備中守からの知らせどおり、牧野の主だった者は遠江へ出ており、城兵も数が足りない。残る者に討ち死にの覚悟があったところで、ここまで近づかれてからではどうにもならない。
そのうちに、北の柵でも今川勢の鬨の声が上がった。
兵が次々と浅い堀を越え、柵へ縄を掛けて引き倒していく。北側はもう破られる。そう見た守兵が、門上から北側へ走った。
龍王丸から見ても、明らかに門の上の兵が薄くなった。
今川勢の小頭が声を張り上げる。
「門を破れ」
その号令を待っていたとばかりに、十数人が丸太を抱えて駆けた。一度目は板戸が軋み、二度目で片方の扉が大きく揺れた。三度目には蝶番が外れかけ、扉の下が土を削った。
四度目で城門に大きな割れ目ができた。
門の裂け目から槍が差し込まれ、内側にいた者が退く。押さえに使っていた荷車ごと扉が傾くと、止める者のいなくなった今川勢が狭い隙間へ殺到した。
吉田城には、もはやなす術がなかった。
龍王丸が兵の流れに続いて城内へ入った頃には、門内の喧騒はすでに収まりつつあった。奥の曲輪へ通じる道に、少数の兵が槍衾を作り、こちらを睨んでいるだけである。
数は五十にも届かない。明け方の夜襲に、慌てて具足を着けたのだろう。鎧さえ揃っていない者もいる。
中央に、具足を着けた武者がいた。兜の前立てが夜明けの薄明かりを受けている。留守居か、その一族だろう。
「押し返せ。牧野殿が戻られるまで持ちこたえよ」
声に応じ、槍先が揃った。
「突け」
龍王丸が号令をかけると、今川方の兵が進み、槍先を押し上げた。後ろから伸びた槍が牧野方の列へ次々に突き込まれる。最初の一人が崩れると、列は保てなかった。
檄を飛ばしていた武者も、上から盾を叩きつけられ、前へ倒れた。
兵が兜を外し、顔を確かめる。
「牧野の一族にござる」
龍王丸は見下ろしたが、名を尋ねなかった。
「縛れ。抵抗すれば斬れ」
武者は何か言おうとしたが、轡を噛まされ、曲輪の端へ転がされた。
そこから先、まとまった抵抗はなかった。蔵の前へ集まっていた兵は、門が破られたと知ると武具を置いた。屋敷へ籠もった者たちも、留守居が捕らえられたと伝わると戸を開いた。
日が昇る頃には、城内で抵抗する者はいなくなった。
牧野の旗が降ろされ、今川の旗が門上へ立てられる。
城内には死体が散らばり、血のついた武具や草履が踏み荒らされていた。捕らえられた者は縄でつながれ、曲輪の端へ座らされた。兵の手が空くと、順に城の牢へ押し込まれていく。
牧野一族の女房や子供も屋敷から連れ出され、同じ牢へ入れられた。泣く子を抱いた女が、これは牧野の血ではないと訴えたが、聞き分ける者はいなかった。
誰が牧野の血を引いているかなど、今はどうでもよかった。
城は落ちた。残された者はことごとく今川の手に入った。
それだけ牧野へ伝われば足りる。
城の蔵を開けさせ、兵に米を食わせた。
炊き上がるのを待つほどの時も惜しく、残っていた飯と湯漬けが先に配られた。兵は城内や門前へ座り込み、具足を着けたまま腹へ流し込んでいる。
その最中、二連木から使者が来た。
「二連木、落ちましてございます。左京進殿は城に番を残し、こちらへ向かっておりまする」
龍王丸は椀から顔を上げた。
「手間取ったか」
「いえ。吉田の方角で鬨が上がると、城内が乱れました。そのまま門へ取りつき、ほどなく」
左京進へ与えた兵は、二連木を囲むには余るほどだった。
戸田の主だった者も遠江に出ている。
守りを整える前に四方を囲まれれば、小さな城が長く持つはずもない。
「戸田へ向かう道は」
「なお押さえておりまする」
「もう開けよ。抜ける者は追うな」
使者が下がって間もなく、左京進の隊列が吉田の城下へ姿を現した。
二連木には門と蔵を守る兵だけを残し、残る者を連れてきたという。
吉田にも同じく最低限の兵を置けば、主力は再び一つにまとめられる。
左京進が馬を降り、龍王丸の前へ進んだ。
「二連木、落城せしめました。戸田一族が数名おりましたのですべて牢に送り申した」
「ご苦労」
龍王丸は西へ延びる道を見た。
牧野へ向かう者も、戸田へ向かう者も、もう止める理由はない。
吉田と二連木が落ちたことを、それぞれの主へ伝えさせればよい。
「兵に具足を解かせるな。食い終えた者から支度をさせよ」
どちらが先に戻ってくるかは、まだ分からなかった。
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牧野田三信成は本坂峠を越え、気賀まで兵を進めていた。
浜名湖の北岸にあるこの土地は、本坂筋と湖上の道が交わる場所である。ここを足場にすれば、東の金指、井伊谷へ兵を進められる。
牧野勢はまだ大きな城を落としてはいない。だが、道沿いの村からは米と人足を出させ、近辺の国人にも使者を送っていた。
無理攻めなどは不要である。日和見を続ける国境の国人衆を、今川から引き剥がしてこちらへ寄せる。まずはそこを第一の目的に置いていた。
前へ出した小勢が戻り次第、さらに東へ進むつもりだった。
その先には、龍王丸の御料がある。材木も塩も銭も、近頃はあそこへ集まると聞いていた。憎いほど栄えている土地へ牧野の旗を立てることができれば、遠江の国人衆の目も変わる。田三はそう見ていた。
「戸田はまだ動けぬか。このままでは、我らが奴らの旧領まで差配することになりやもしれん」
「戸田殿はいつも勇み足なれど、肝心な時は慎重でございますな」
「そう言うな。口も早かろう」
田三が笑みを噛み殺しながら言うと、家臣らもそれに追従した。
事実、遠江へ兵を入れようと言い出したのは、戸田が先であった。
浜名湖の北には、かつて戸田が知行した土地がある。今川が甲斐で敗れ、修理大夫氏親は病床にあり、龍王丸も戻れぬというなら、今こそ取り返す時だという理屈である。
牧野には、戸田の旧領など関わりがない。
だが、戸田だけが遠江へ領地を広げるのを、吉田から眺めているわけにもいかなかった。浜名湖沿いを戸田に押さえられれば、東三河での力関係まで変わる。牧野も本坂筋から引佐へ兵を入れ、道沿いの国人を先に従わせる必要があった。
武田から今川の背を突けと文が届いたのは、二十日ほど前になる。
文を読んだ田三は喜ばなかった。むしろ、余計なことをすると憎々しく思った。
戸田は言うに及ばず、牧野も昨年の大敗から傷が癒えていない。家中では報復戦を求める声が強かったが、それを押さえつけるのが精一杯であった。
だが、そこから続報が届くと、さすがの田三も気持ちが動いた。
二報目には、福島兵庫助は討たれ、今川勢は甲斐で大敗したとあった。信濃筋へ草を放つと、福島勢が崩れ、兵庫助が討たれたことまでは確からしかった。
しかし、そこでも田三は動かなかった。
今川の底力が、ここ数年で伸びていることは重々承知していた。甲斐へ兵を出した後でも、おそらく数千は残っている。それを東三河へ向けられれば、甲斐に利するだけで牧野には何の得もない。
そう考えて、文は燃やした。
武田からの知らせは、そこで終わらなかった。
あの憎たらしい龍王丸が蟄居を解かれ、数千の兵を与えられて甲斐へ向かったという。
その時初めて、田三は人に悟られぬよう兵を集め始めた。あまりに都合が良すぎる話であったため、改めて草の者も放った。結果として、それも真実だった。
さらに調べると、龍王丸は河内に足を取られ、福島勢の救援すら満足にできない、そのような話も出た。田三は、参加する国人衆らへはっきりと兵を集めるよう命じた。ただし、まだ出兵の号令は出さなかった。
名目は、近隣の戸田が兵を集めているためとした。嘘ではない。戸田も兵を集めていた。
戸田にも武田の文が届いていたのだ。
戸田の当主直々に、兵を集めているが牧野を狙ったものではない、共に遠江を攻めようと伝えられた。
その後、いざ出兵の号令を発しようとしたところで、情勢がまた変わった。
武田の当主と龍王丸が合戦をしたとの話が伝わったのである。詳しいことは流れてこなかった。ただ、武田五郎が討ち死にし、龍王丸が武田の本城を奪ったという噂だけが、東三河まで届いた。
田三の心に、再び迷いが生まれた。
今ここで攻めれば、龍王丸が遠江へ取って返すのではないか。
だが、武田から新たな文が届いたことで状況が変わった。
差出人は武田五郎信直。
噂ではすでに戦死した者の名である。
文には短く、こうあった。
龍王丸の兵、損耗多大なり。甲斐の武田勢、要害山よりこれを睨む。
三河衆、遠江を望みのままに切り取るべし。
同じ文は戸田にも届いていたのだろう。
戸田の当主は迷わず前に出た。田三はなお少し考えたが、戸田に先を越されるわけにはいかず、遠江へ兵を進めた。
おそらく武田五郎は死んでいる。この文も、その名を騙った何者かが出したものだろう。
だが、龍王丸の兵が傷み、甲斐を睨むためにも兵を抜けないという話には筋が通っていた。
ならば、取れるうちに取ればよい。
そこで、ようやく覚悟が決まった。
田三が遠江へ連れてきた兵は、千二百ほどだった。
遠江一国を奪える数ではないが、今川から援兵が来ないのであれば、境の小城や国人を屈服させるには足りる。
事実、ここまでは不思議なほど順調だった。
国境の国人衆は、こちらが何かを言う前に中立や従属を申し出る。村々は兵糧の供出を拒まず、挙句には道案内まで進んでつける始末である。
龍王丸は、今川は、よく遠江の衆を躾けている。
皮肉を込めて、田三は笑った。
この頃には、もはや出兵前の迷いなどどこかへ消え失せていた。もっと早く兵を出せばよかったとすら思っていた。
田三は敷皮の上に広げた絵図を眺めていた。
「して、戸田の話であるが、朝比奈はこちらを見ておるか」
先ほど戸田を笑ったが、陽動としてはそれなりに役に立っている。
向かいに座っていた家臣が頷いた。
「朝比奈備中守の兵と睨み合っておりまする。大きな戦にはなっておりませぬが、互いに浜名湖沿いから離れられぬようで」
やはり悪くないと、田三は笑みを深めた。
「朝比奈も戸田も、互いに相手の出方を見ておるのだろう」
「戸田へ兵を回しますか。朝比奈を退ければ、こちらも動きやすくなりましょう」
田三は絵図から顔を上げた。笑みは浮かべたままだ。
「なぜ、わしの兵で戸田を助ける」
家臣が口元を緩めた。
戸田も牧野も、今川が弱ったと見て兵を出しただけである。誓紙を交わしたわけでも、取った土地を分けると決めたわけでもない。
戸田が朝比奈を引きつけたままの状況こそ、牧野勢には絶好の機会であった。
「今は一里でも先へ進む方がよい。戸田が動けぬ間に、こちらは取れるだけ取る」
「引佐の者どもも、ずいぶん素直になりました。あと二、三日もあれば、さらに東へ進めましょう」
「今川が戻った後で、すべて返せと言われるやもしれぬぞ」
「その時は、半分ほど返せばよろしいかと」
田三は笑った。
「半分では少ない。一門を討たれた供養もせねばならぬ。少し多めに取っておけ」
「確かにそうですな。それに、遠江の者たちが今川へ戻りたがらぬやもしれませぬ」
「随分な歓迎であるからな。三河よりも扱いがよいわ」
田三がそう言うと、陣中にも笑いが広がった。
今川方のまとまった兵は、いまだ姿を見せていない。想定どおりである。
龍王丸は甲斐から戻れず、駿河も兵を出せない。
次にどの国人へ使者を出すか話していた時、陣の外が騒がしくなった。
馬の足音が近づき、止まる。
ほどなく、土と汗にまみれた男が二人の兵に支えられて入ってきた。片方の草履は失われ、剥き出しの足から血が流れている。
吉田城に仕えていた者だった。
男は田三の前へ膝をつこうとして、そのまま手を地についた。
「申し上げます。吉田城、落ちましてございます」
陣中から音が消えた。
田三は男を見たまま、すぐには言葉を返せなかった。
「何を申しておる」
「今川勢が夜明け前に押し寄せ、門と北の柵より城内へ入りました。留守居殿も捕らえられ、牧野の旗は下ろされましてございます」
「誰が率いていた」
男は一度、息を吸った。
「龍王丸。今川龍王丸にございます」
家臣たちが互いの顔を見た。
田三は、膝の上で握っていた手を開いた。
「龍王丸は甲斐にいるはずだ」
「私も初めは見間違いかと。されど城内へ入るところを、この目で見ました。間違いなく、あの童です」
「屋敷の者はどうした。奥や子らは」
「屋敷から連れ出され、城の牢へ入れられました。私が抜け出した時までは、皆様御無事にございます」
田三は鼻から長く息を吐いた。
殺されてはいない。
少なくとも、今はまだ間に合う。
「兵はどれほどいた」
「分かりませぬ。夜明け前のことにて、城の前にも畑の中にも兵がおり、門と北の柵へ同時に取りついておりました。千は下りますまい」
「二千はいたか」
男は首を横に振った。
「そこまでは。ただ、二連木の方角からも鬨の声が聞こえました。私が城を出た頃には、火も上がっておりました」
田三は絵図を引き寄せた。
吉田を攻めながら、二連木にも兵を出した。
龍王丸が甲斐をすべて空けられるはずはない。甲府、河内、兵糧を置く城にも兵を残さねばならない。しかも、甲斐からここまで休む間もなく戻った軍勢である。
「多く見ても、千から千五百ほど。城攻めの後ならば疲れもあろう。すぐに動かせるのは千と見てよい」
家臣が頷いた。
「吉田城は、主だった者をこちらへ連れてきております。千を少し超える程度でも、奇襲であれば落とせましょう。二連木へも兵を割いているなら、一か所に集められる数はさらに減ります」
「甲斐から休まず歩いてきた兵だ。敵地のただ中では、ろくに休めまい」
「こちらがすぐ戻るとは思っておらぬゆえ、吉田で兵を休め、態勢を整えるつもりやもしれませぬ」
田三は絵図の上で、遠江から吉田へ戻る道を指でなぞった。
牧野勢は千二百。
前へ出した小勢や荷駄をすべて集めるには時がかかるが、直属の兵だけならすぐにでも陣を払える。吉田へ近づけば、城から逃げた者や周辺の牧野方も加わるだろう。
龍王丸の兵が吉田と二連木へ分かれているうちに戻れば、一方ずつ叩ける。
数の上では、さほどの差はない。
疲労と連戦の損傷まで加味すれば、優位は牧野にある。田三はそう見た。
家臣が尋ねた。
「戸田殿にも知らせますか」
「知らせは出せ」
「合流を待ちまするか」
「待たぬ」
田三は即座に答えた。
朝比奈備中守と睨み合っている戸田を待てば、こちらまで遠江で足を止められる。戸田勢が抜けようとすれば、朝比奈も動くだろう。その間に、龍王丸の兵は気力を取り戻しかねない。
何より、龍王丸を討つ好機を戸田と分ける理由がなかった。
「戸田には、二連木も攻められていると伝えよ。戻るかどうかは、戸田が決めればよい」
「龍王丸を討たれますか」
「自ら吉田まで出てきた敵を、逃す理由があるのか」
田三は立ち上がった。
動揺していた兵らも、その言葉で気勢を上げた。
龍王丸は甲斐から疲れた兵を連れ、自ら吉田まで出てきた。今川の主力とも離れ、軍勢を二つの城へ割っている。
吉田を取り返すだけではない。
ここで龍王丸を討てば、甲斐衆も力を取り戻し、駿河を圧迫する。そうなれば、遠江で牧野を止める者はいなくなる。
「前へ出した兵は捨て置け。荷駄も後から来させればよい。動ける者からまとめよ」
家臣たちが立ち上がった。
「吉田へ戻るぞ」




