3章_13
甘利九衛門が信直の軍配を抱えて要害山へ戻った後も、甲斐はいったん落ち着きを見せた。
これを機と見て、龍王丸は傷んだ兵の一部入れ替えを図った。
まず甲斐へ入ってから働き続けていた兵を休ませ、河内や駿河から上がってきた新手と順に入れ替える。
河内から甲府へ至る道には番兵を置き直し、壊された橋や渡しの修繕も始めさせた。
道々が改善されると、物の流れが戻る。
その結果、焼けた蔵の跡には仮の小屋が建ち、米俵と塩俵が積まれた。
そうなると、町の様子は少しずつ変わった。
見違えるほど良くなったというより、小康状態に入った。
火で焼かれ、互いに奪い合った以上、元通りにはならない。
今川の旗を掲げれば、領民らは恐れや憎しみを顔に浮かべ、戸を閉ざす。
武田の旗を掲げれば、なぜ守れない、何が甲斐守護と侮蔑の言葉を吐く。
その根幹の気持ちは変わらないが、腹が満ちれば多少は明日のことを考えるようになっていった。
つまり、甲斐の民らは妥協をした。
おとなしくしていれば、明日も米があり、塩が手に入る。家を建て直す材木も来る。
それだけ分かれば、他人の家々に火をつける者は徐々に減っていった。
争う気力がないだけと、承菊は街並みを眺めて言った。
龍王丸もそれを否定しなかった。
一方で、要害山の周囲からは落ち着かぬ報せが続いた。
諏訪方の者が甲斐の北西まで来ていると知れると、国境の国人衆から今川方へ訴えが相次いだ。
武田が崩れたところへ今川が入り、今度は諏訪まで兵を出してくれば、甲斐は諸勢力が好きに食い荒らす国になる。
今川に従うことには異存がない。だから、これ以上よその兵を甲斐へ入れないでほしい。
言い方は違っても、訴えの中身はどれも同じであった。
龍王丸はこれを拒まなかった。北の道へ小勢を出し、諏訪の接近を防ぐ動きを見せた。
無論、諏訪領へ攻め込むようなことはさせない。
ただ、甲斐側の峠と街道を押さえ、軍勢らしきものが入れば止めるよう命じただけである。
すると、輿を伴っていた諏訪方の一行は、今川勢と争うこともなく引き揚げた。
あまりにあっさりしている。
意外に思い、少し探ると、やはり要害山の中でも動きがあったらしい。
龍王丸との会談の後、飛んで帰った九衛門はまず、大井方と話を合わせ、事態の把握に動いた。
大井の方を諏訪へ移す話は、当人にも大井家にも知らされていなかったらしい。
だが、それでも怪しんで探れば、急ごしらえの謀にぼろが出た。
そうして確証を得ると、九衛門はすぐさま左衛門らを問い詰めた。
問い詰められた左衛門らは、詫びを入れるどころか、胸を張って言ったという。
今川の手から御台と腹の子を遠ざけるためであり、これは人質に出すのとは違う。
それに大井方が激しく反発し、双方の供が刀を抜くところまでいったらしい。
誰が誰を斬ったのか。死人が出たのか。大井の方がその場にいたのか。
要害山から漏れてくる話はまちまちだった。
城内の者も揃って口をつぐんでおり、詳しいことは分からない。
ただ、母子を諏訪へ渡す話は止まったようである。
迎える相手が城から出てこず、そのうえ今川の兵まで北へ現れた。
諏訪方もこれ以上、今川を煽る真似は避けたかったのかもしれない。
それで甲斐へ入っていた諏訪の者たちは、国元へと帰ったのだろう。
「武田も底が浅い」とは、ここまでの推測に対する承菊の結論である。
龍王丸は頷けなかった。
妙な引っ掛かりが頭のどこかにあった。
そして諏訪の迎えが帰ってから数日後、大井家から内々の文が届いた。
正式な使者ではない。
要害山を出入りする僧を介し、承菊のもとへ運ばれたものである。
龍王丸は躑躅ヶ崎館の一室で、承菊と彦三郎を前に文を開いた。
書かれていることは簡明だった。
大井の方が身ごもっている御子を、武田五郎信直の跡目と認めてもらいたい。
それがかなうならば、大井方が城内を説得し、要害山を今川へ明け渡す。
あわせて、大井家の本領も安堵してほしい。
「所領の安堵は、さほど問題がないようにも思えます。問題は跡目かと」
文を読み終えた彦三郎が遠慮しがちに言った。承菊からも異論は上がらない。
大井方は要害山で母子を守り、諏訪への引き渡しを止めた。
彼らが城を出れば、要害山に籠る者たちは大きく割れる。
本領を安堵する程度なら、釣り合わぬ話ではない。
だが、龍王丸の思考はそこにはなかった。ただ腕を組み、要害山の方角へ視線をやっていた。
「若君、文に如何様に返しまするか」
承菊が龍王丸の顔を見た。龍王丸はそこで、ようやく思考が追いついた。
「大井の件か」
「ほかにございませぬ。それともお疲れでしょうか」
承菊が表面上は心配するそぶりをした。
「確約などせぬ」
「おや、意外ですな。五郎殿の子供ですので、特別扱いされるかと」
「承菊殿」
彦三郎がたしなめる。しかし、彦三郎本人も気になってはいるようだった。
「子供は五郎殿ではなかろう。それに生まれてもいない。無事育つともわからない。家督など決められまい」
仮に龍王丸が、大井の方の腹の子を跡目としても、逆効果になりうる。
左衛門らの性格上、短慮を起こすことも考えられる。
龍王丸にとって、五郎殿の子供に期するところがないといえば嘘になる。
しかし、男か女かもわからぬ現状、必要以上に意識を割く対象にはなりえなかった。
「本領安堵は許す。それ以外は触れず、文を返せ」
そのように返書を送ると、二日も置かず次の文が届いた。
今度は言葉が少し変わっていた。
跡目と定めることが難しいのであれば、今川家、あるいは龍王丸自身が腹の子の後見となってほしい。
その約束が得られれば、大井方は母子とともに要害山を下り、城内の者にも開城を説くという。
承菊は文を読んで薄く笑った。
「手を変え、品を変え、言葉を変え、ひたすらに同じことを約束させようとする。大井も相当に苦しいようで」
「承菊殿、親の情をそのように」
「彦三郎殿、本当に大井が情で動いているとは思いますまい。あわよくば幼年の甲斐守護の外戚として辣腕を振るいたいだけでしょう」
承菊は笑みを深めた。
「されど少しでも甲斐守護を形作る約定は、なかなかに難しいかと」
彦三郎が眉間にしわを寄せた。
「今の甲斐に平穏を齎すは、甲斐守護の名にあらず。今川であるべきでございます。確かに守護職を引き合いに出せば、外からの横入も少なくなりましょう。されど甲斐の民にとっては、頭が二つできるようなもの。いささか奇妙に思いましょう」
甲斐守護など有名無実にしてしまえ。承菊の言は乱暴であるが、荒唐無稽ではない。
既に形ができている。
国人衆らは龍王丸の安堵状をありがたがり、国人衆らの嘆願を受けて諏訪の介入も防いだ。
五年もたてば、確実に甲斐は今川の色に染まりうる。その土壌はあるのだ。
「若君、この件、いかがなされますか」
龍王丸は今日も思案に暮れていた。
要害山と大井のことではない。頭の奥に引っかかった違和感のことである。
問われて思考を戻すと、龍王丸は大仰に頷いた。
「さて、な」
「おお、もしや禅の最中でございましたか。修行熱心でございますね」
承菊がいやなことを言った。
一々相手をするのも無駄なので、用意していた答えを吐き出す。
「母子の身柄のみ預けよ。詳細は直接詰める。それだけ返せ」
大井が言葉を変えて、孫の立場を守ろうとしても、龍王丸の言葉は変わらない。
結局、甲斐守護も家督も腹の子供には認められない。
時間をかければ要害山は落ちる。さらに、もはや甲斐の支配も固くなる。
母子が外へ逃れることさえ防げば、大井と話す必要すらないのだ。
「まあ、妥当でございますな」
承菊はつまらなさそうにした。
そして、龍王丸の言葉を文に起こし、大井へ返した。
三度目に届いた文は、これまでより長かった。
龍王丸の言葉通り、文では互いの真意が伝わらない。
大井家の当主が自ら躑躅ヶ崎館へ赴き、龍王丸と直接話をしたい。
要害山の明け渡しについても、その場で詳しく申し上げる。
日取りも大井方から指定されていた。
龍王丸は来るならば会うと返した。
当主自ら城を明け渡す話を持ってくるならば、門前で追い返す理由はない。
腹の子の跡目について同じ話を繰り返すだけなら、顔を見て断れば済む。
約束の日、龍王丸は朝から安堵状へ目を通しながら、大井家の一行を待った。
だが、大井の一行は昼になっても来ない。
それどころか、詫びの使いすらやってこない。
大井方が、要害山を下りるまでに手間取っているやもしれない。そのように彦三郎らは噂した。
筆を走らせながら、龍王丸は待った。
さらに予定より数刻経過し、こちらからの使いも送ったが、やはり影も形もない。
「大井殿は、御自ら日を定められたのでございましたな」
承菊が数珠を握り、音を立てながら言った。
彦三郎は、心配そうに唸った。
「要害山を明け渡すと申したため、城から出してもらえなくなったのでしょうか」
「さて、途中で何もかも嫌になって出家されたかもしれませんぞ」
それらのやり取りには加わらず、そっと外を見た。
ここ数日、ずっと頭にへばりついていた嫌な予感がある。
それが徐々に形になろうとしていた。
「御料様、いかがなされました」
気が付けば、宮内がそばにいた。
この呼び方をするのは、遠江者だけである。
「何かあった。ゆえに少し備えたい」
「何を用意いたしましょう。兵は甲斐を守りながらでも二千は出せましょう」
「兵はまだよい。だが兵を起こせる準備、駿府に使いを出せる準備はしたい」
それだけ言うと、宮内がまた音もなく去った。
目の端に大井家のために空けた席が映る。
何もかも思い通りになるなどあり得ない。一々腹も立てない。
だが、計画通りにならなかった原因がわからない。これは怖い。
思えば、諏訪があっさり引いたことで、武田が外へ伸ばした手は潰えたと思い込んだのが間違いだったのかもしれない。
あの時点で、ほかに何か動きはないか、駿府や遠江へ探らせるべきだったのだろうか。
「武田殿はどうも外と関わるのが下手故、あまり目くじらを立てるべきではないやもしれませぬ」
「承菊殿」
二人のやり取りが耳に入った。
それで、頭に響くものがあった。
先の戦、甲斐全体を相手取った焼き働きにおいて、五郎は後手後手に回った。
龍王丸は、その時点ではさほど疑問には思わなかった。
塩と米の量で勝り、甲斐より多くの兵を動かせる以上、五郎は富田以外へ十分な手を回せない。
しかし、あの五郎がそれに対して一切の手を打たないなどあり得るのだろうか。
きっと手を打っている。
ただ、それはあまりにもか細く、運の要素が大きいため盤上から除外したのだ。
その時、廊の外で足音が乱れた。
小姓が戸を開き、息を切らして頭を下げる。
「遠江より、急ぎの使者にございます」
大井家の先触れではなかった。
通された男は、馬を替えながら駆け続けてきたらしく、顔も衣も埃にまみれていた。
部屋へ入ると膝をつき、息を整える間も惜しんで口を開いた。
「東三河の兵が、遠江へ入りました」
ああ、これだ、と龍王丸の疑問が氷解した。
「戸田か、牧野か。両方か」
「両方にございます。先勢はすでに境を越え、引佐筋の国人へ兵と人足、兵糧を出すよう求めております」
承菊の顔から笑みが消えた。
彦三郎が身を乗り出す。
「いつ兵を集め始めた」
「十日余り前より、その動きがあったとのことにございます。こちらへ報せが届いた時には、すでに先勢が出た後でございました」
やはり五郎が討たれるより前である。
龍王丸は、机の上に置かれた大井家の文へ目を落とした。
「東三河では、甲斐の戦はどのように伝わっておる」
使者は一度口を閉じた。
答えにくいのではなく、何から話すべきか迷ったようだった。
「福島兵庫助様は討たれ、今川勢は甲斐にて大敗。御屋形様は病の床にあり、若君も甲斐より戻れぬと触れられております」
「誰の名で」
龍王丸は問うて笑った。
聞くまでもないことだが、今一度その名を聞きたかった。
「甲斐守護、武田五郎信直の名にて」
使者は続けた。
「初めの文が届いた後、三日ほど前にも追状があったとのことにございます。今川勢はいまだ甲斐より動けず、かねての申し合わせどおり兵を進めよと」
部屋が静まった。
兵を集め始めた時期を考えれば、最初の文は信直自身が出したものだろう。
だが、三日前の追状は、五郎が討たれた後に出されたことになる。
ならば要害山の誰かが、死を伏せ、五郎の名でなお文を出している。
「若君、大井殿らは」
彦三郎が大井の席を見て言った。
抗戦派に寝返ったのか、それとも抗戦派に討たれたのか、そう尋ねていた。
「忘れよ。腹の子もだ」
東三河の動きを知り、今川が甲斐から去るかもしれぬと考え、しばらく様子を見ようと欲を出したのか。
左衛門方が大井家を城から出さなかったのか、それとも討ったのか。
どれであっても、要害山の内輪揉めに付き合っている場合ではなくなった。
龍王丸は今、五郎が残した戦に心があった。
「東三河の様子を、初めから聞かせよ」
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使者から要点を聞き出すのに、さほど時はかからなかった。
牧野勢は本坂筋から引佐へ入り、戸田勢も浜名湖沿いへ兵を差し入れている。
いずれも先勢が先に境を越え、その後を本隊が追っているという。
彼らは道々、福島兵庫助は討たれ、今川勢は甲斐で大敗したと触れ回っていた。
今川の当主修理大夫氏親は病床にあり、龍王丸も甲斐から戻れない。
今川へ助けを求めても、援兵など来ないとまで言っているらしい。
無論、引佐の国人衆は、遠江を預かる朝比奈備中守へそれぞれ急使を送った。
だが、それ以外にまとまった行動は取れていない。
門を閉ざして籠もった者もいれば、戦える者だけを連れて山へ退いた者もいる。
村を焼かれることを恐れ、求められるまま米や人足を差し出した者もいた。
幸い、城が落ちたとの報せはない。
だが、戸田と牧野の兵は別々の道から遠江へ入り、境の国人衆を切り崩しながら進んでいるとのことだった。
「戸田と牧野の主だった者は、遠江へ出ておるのだな」
左京進が問うと、使者は深く頭を下げた。
「はい。両家とも当主自ら出たとの話にございます。一族、重立った被官も多く従っているようで」
「三河の本領に、兵はどれだけ残った」
「そこまでは、まだ」
必要なことは聞けたと、龍王丸は使者を下がらせた。
そして、部屋の中央の絵図に目をやった。
急遽持ってこさせた、五郎が遺した絵図である。駿河への攻め口まで、几帳面に書き込まれていた。
その絵図は今や、今川の軍議に用いられている。
絵図の遠江の西端、引佐から浜名湖にかけて、東三河勢が入ったと見られる場所に小石が置かれていた。
左京進はしばらくその石を眺めていたが、やがて口を開いた。
「遠江の守りだけで、遠江衆は動けませぬか。向こうには備中守殿もおられる。駿河も一年前とは違い、大水に道を阻まれることはありますまい。援兵を出すことはできましょう」
敵が遠江へ入ったのであれば、遠江の兵で防ぎ、駿河から援兵を送る。
常であれば、龍王丸も異論はなかった。
だが、此度の侵攻については首を縦に振らなかった。
「双方、当てにするな。遠江も駿河も、この戦で兵を吐き出しすぎた」
福島勢を救うため、駿府からも遠江からも兵を引き抜いた。
甲斐まで歩き、焼き働きを続け、ようやく戦を終えたところである。
死んだ者だけではない。傷を負った者、病んだ者、足を痛めた者も多い。兵糧を運んだ人足も、牛馬も疲れ切っている。
備中守が遠江に残っているとはいえ、戸田と牧野を押し返せるほどの軍勢を、すぐに集められるとは思えなかった。
「御屋形様も、新たな下知をお出しになれるかという話でございますな」
承菊が何気ない口調で言った。
彦三郎がすぐに顔を向ける。
「承菊殿」
承菊も慣れたもので、悪びれもしない。
「これは失礼を。されど拙僧は御病状について申したのではございませぬ。遠江、駿河、甲斐と、広く兵を動かすには、それなりの時が要るという話にございます」
言い直しながらも、承菊の目は笑っていなかった。
氏親が床を離れられないことは、ここにいる者なら誰もが知っている。
仮に下知を出せたとしても、国中の兵を改めて数え、集め、遠江へ送るまでには時がかかる。
おそらく、その間にも、戸田と牧野は進む。
「こちらが動く」
龍王丸が言うと、左京進が絵図から目を上げた。
承菊が指先で数珠を繰った。
「五郎殿の思惑通り、甲斐より兵を引くことになりますな。とはいえ、少々の兵であれば、要害山の者どもも腰を上げますまい」
左京進、彦三郎もそこまで大きな拒否感はないようだった。
甲斐に足を置きながら、遠江に踏み込んできた三河勢を備中守とともに打ち払う。
地の利はある。まずうまくいくだろう。二人ともそんな算段をしているようだった。
「五千出す」
龍王丸がそう言うと、承菊の数珠が止まった。
彦三郎は聞き違いを疑うように龍王丸を見た。左京進も口を開かず、こちらの顔を窺った。
承菊がゆっくりと首を傾けた。
「確か、先ほど宮内殿が口にされたのは、二千が限度であったかと」
「耳ざといな」
「若君のおそばで、耳を塞いでいるわけにもまいりませぬ」
「二千は、甲斐を守りながら出すならばの話だ」
龍王丸は絵図の甲斐に置かれた石を、一つずつ手元へ引き寄せた。
「動ける兵はすべて連れていく」
彦三郎が膝を進めた。
「お待ちください。要害山はいまだ開いておりませぬ。左衛門大夫らが何を企てているかも分からぬ今、易々と甲斐を空けるなど」
「構わん。動きたくば動かせよ」
「されど、ここまで兵を費やし、ようやく甲府を鎮めたのでございますぞ」
「そもそも、甲斐を欲した覚えはない」
彦三郎が言葉を失った。
甲斐を取るために河内へ来たのではない。福島勢を救い、五郎を退かせるために来た。
その末に五郎が戦場で斃れた。
武田勢が再起せぬようにと追い立てているうちに、甲府と甲斐が手元に転がり込んできた。
それだけである。手に入ったからといって、それに縛られる道理はない。
「筆」
控えていた小姓が膝を進め、紙を広げ、筆を手渡してくる。
誰かが口をはさむ前に筆を走らせた。宛先は甲斐の国人衆である。
一つ、今川に従うも、武田に従うも、各々の勝手たるべし。今川、これを妨げず。
二つ、武田に従い兵を挙げたる者は、所領安堵ならびに米、塩の沙汰を取り消す。後の帰参も許さず。
三つ、左衛門大夫信友、右近助信貞、大井の方の腹の子。各々方いずれなりとも奉じ、龍王丸へ弓引くべし。五郎殿より学びしところ、ことごとく返し申す。
そこまで書くと、承菊が興味深そうに自身の禿頭を撫でた。
左京進と彦三郎は苦い顔をしていた。
「ははあ。また、ずいぶんと苛烈な文でございますな。して、この文、どこまで撒きまする」
「甲斐一円へ」
承菊が喉を鳴らした。
「拙僧の申すことではないやもしれませぬが、いっそ言葉を和らげてもよろしいのでは。これでは甲斐衆が騒ぎますぞ」
「和らげれば、こちらが甲斐を惜しんでおると思われる」
河内から甲府へ至る道は、すでに今川が押さえている。甲府へ入るだけなら、初めに来た時ほど難しくはない。
また要害山の者が甲府を取り返したいというなら、兵を挙げればよいとすら思っていた。
だが、焼かれた甲府を抱え、今川からの米も塩もなく、どれほどの国人を従えられるのか。
彦三郎はなお、納得できぬ顔をしていた。
「して、駿府にお許しは得るのでございますか。甲斐を空け、遠江へ戻るとなれば、御屋形様の裁可も必要でございましょう。五千もの兵を動かすのであれば、なおのこと」
龍王丸は絵図の東三河を見ながら言った。
「五郎殿が東三河へ伸ばした策の一部とあらば、これも甲斐の仕儀のうちであろう」
つまり、当初の甲斐の沙汰を任された龍王丸の権限の内である。
その言に、左京進が眉を寄せた。
「それは詭弁でござろう」
「無論、詭弁だな」
あっさり認めると、左京進の方が返す言葉に詰まった。
龍王丸は、机の脇に置かれていた氏親からの文へ目をやった。
読んで以来、なるべく考えぬようにしてきた文である。
「では、こう言い換えるか」
誰も口を挟まなかった。
「甲斐のことは一切龍王丸へ任せる。今川の家督に立ったつもりで計らえ。そう御屋形様より託を預かっておる」
部屋の空気が変わった。
彦三郎が目を伏せた。承菊も今度は笑わない。左京進は龍王丸を見たまま、やがて静かに頭を下げた。
家督を譲るという沙汰ではない。
だが、今この場で軍を動かすには、十分すぎる言葉であった。
「駿府へは、許しを乞う文ではなく、出陣を知らせる文を出す」
龍王丸は手元へ寄せた石を、指先でまとめた。
「傷んで歩けぬ者、蔵と河内筋を守る者だけを残す。左京進は、今夜のうちに動ける兵を改めよ。宮内には荷駄を整えさせる。支度のできた組から河内へ下ろせ。支度が整い次第、出るぞ」
承菊がようやく数珠を鳴らした。
「遠江でございますな。これは急がねばなりませぬ」
「違う」
龍王丸は石の一つをつまみ、絵図の遠江を越えた先へ置いた。
「東三河だ」




