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3章_12

武田五郎信直が討たれた後、龍王丸は余勢を駆って甲府まで兵を進めた。

兵は痛み、大将である龍王丸は疲弊していた。

だが、岡部左京進、関口彦三郎が、ほぼ万全の状態である二千の兵を率いて、武田勢の背を追った。

龍王丸が後で聞いた話では、待ち伏せによる反撃などもなかったとのことだった。


考えてみればこれは当然であり、武田方に属していた国人衆は散り散り。その多くがそれぞれの領地へ戻るだけで精一杯であった。

また、もとより武田への忠節が薄かった者たちは、輪をかけて消極的であった。

ただ軍勢が通るだけで、今川勢に敵対しないことを申し出て道を開いた。


龍王丸も咎めなかった。

むしろ、領地は焼かぬと一筆書き、通行料代わりに塩止めを解くと約束すると、深々と頭を下げた。


宮内などは強く出るべきだとも進言したが、龍王丸は首を縦に振らなかった。

逃げ帰った者を一人ずつ捕らえて回るより、兵を解かせ、自領へ縛りつけておく方がよい。

そう判断したのだ。


そのまま軍勢は進み、とうとう甲府の武田本拠である府中、躑躅ヶ崎館へと到達した。


左京進、彦三郎もここでは一戦あると思っていたようだった。

それで一旦止まり、駿府へ援軍を求めることも進言した。

龍王丸はこちらも首を縦に振らなかった。


ただ、閉ざされた城門に対して使者を送り、開門すれば残った者に一切咎めはしない、そう約束した。

すると、ほどなく城は明け渡された。


何のことはない話である。

五郎の室や一門、駿河守や九衛門といった主だった重臣は、すでに背後の要害山城へ移っていたのだ。

館に残ったのは、逃げ遅れた兵と、近隣から駆けつけた国人衆の一部だけである。


城の内情などは龍王丸は知らなかった。

ただ、武田五郎信直という支柱がなくなった今、新築の城になど籠れない。

そんな寂しい武田勢の心情に思い至っただけであった。


躑躅ヶ崎館に入った龍王丸はまず今川勢に命を発した。

こちらも難しいことではない。

略奪を禁じ、武田の蔵や文書へ封をさせた。

それから、河内から甲府へ至る街道にも兵を置き、橋と渡しを押さえただけである。


前者は、今後雪崩打つであろう所領安堵などの準備。

後者は、いざという時の駿河への撤退路の確保だった。


そして当然のことながら、駿府へは武田当主の討死と富田解囲、甲府接収を知らせる急使を出した。

あわせて、甲斐を今後どのように扱うべきか、父の下知を求めた。

龍王丸の権限は甲斐で武田を打ち払い、福島勢を救助するまでである。


武田が追ってこぬように打ち払うことは、問題ない。

だが、甲斐接収はそれ以上は今川の当主の裁可が要る。これは龍王丸と彦三郎の共通の認識であった。


そして、返書が届くまで、左京進、彦三郎から龍王丸はこんこんと詰められた。

そもそもの計画段階から、この度の戦運び、挙句に日頃の態度まであげつらわれた。

途中で河内から追いかけて来た承菊まで加わり、龍王丸への駄目出しは大いに盛り上がった。


三人の説教が一巡した七日目あたりで、ようやく返書が届いた。


龍王丸の想像通り、戦勝を褒めそやす言葉はなかった。

まず、福島兵庫助の死を悼む一文があり、福島勢を潰さず、残った兵を連れ帰る形を整えたことについて、よくやったと記されていた。

これが文の大半を占めており、意外なことに甲斐については短かった。


一切を龍王丸へ任せる。今川の当主に立ったつもりで計らえ。それだけであった。


左京進、彦三郎を中心とした今川家臣団はその一文で何か納得した顔をした。

遠江から呼び寄せた集団は、歓声を上げながら騒いで回った。

承菊と宮内はこれらと異なり、二人で部屋の隅に寄り、何やら額を突き合わせて談義を繰り返していた。


その一文の意味するところを、龍王丸はあえて考えないようにした。

ただ、どちらにせよ、もう駿府の返事を待つ理由はない。そう判断した。


ゆえに要害山へも改めて文を送った。


内容としては物騒なものではない。

向こうの反応を探るため、今後の甲斐について話がしたいと書いた。

そしてそのため、一門と重臣の中から人を出すよう求めた。

性急に城を攻めるつもりはないとも添えたが、数日待っても、はっきりした返答は戻らなかった。


そして、そこからさらに三日が過ぎた。


龍王丸は躑躅ヶ崎館の一室で、まだ甲斐各地へ出す安堵状に目を通していた。


富田から自領へ戻り、すでに兵を解いた者については、ひとまず所領を動かさない。

今なお兵を集める者、要害山へ米を入れる者、他国へ通じた者については、領地を没収する。

後者については単なる警告であり、未だ没収された者はいない。


ただ要害山では、まだ跡目を巡って話がまとまっていない。

そのため、おかしな動きをする国人衆らも目立ち始めている。


一方でこの国主不在という状況において、甲斐では龍王丸の安堵状が効力を持ち始めていた。

兵を解いた郷には塩も戻している。

国人衆にとっては、要害山で誰が武田を名乗るかより、自分の土地が残るかどうかの方が切実であったようである。


最後の一通へ花押を据えようとしたところで、穴山信風と外記が通された。

穴山に向けた所領安堵状はすでにできている。

小姓らに持ってこさせる間、挨拶をという運びになったのだ。


信風は龍王丸の前へ進み、静かに頭を下げた。外記は一歩後ろへ控えている。

以前、河内で会った時と変わらぬ顔である。

五郎が討たれ、府中が今川の手に落ちた後も、慌てた様子はなかった。


龍王丸は、疑問であったことを切り出した。


「それで、どうしてこちらについた」


外記がわずかに首を傾けた。


「はて」


「とぼける必要はない。そなたらが口利きをしなかったら、福島は国人衆らの物見をくぐれなかった。案内がなければ間に合わなんだ」


五郎の本陣へ福島勢が突っ込んできた時、龍王丸にも、どこをどう抜けてきたのか分からなかった。

後から調べさせると、福島勢は武田方の国人が置いた物見の隙間を、迷うことなく通っていたとのことだ。

また当然のことながら、福島勢は国人衆に話を通すような時間はなかった。


つまり、国人衆らに目こぼしを頼み、道を知っている今川寄りの第三者がいなければ、福島勢の援軍は成り立たなかった。


そして、それは目の前にいる穴山家以外、龍王丸には考えられない。


そのように突き付けても、信風は微動だにしない。

外記も悪びれもせずに言ってのける。


「さて、甲斐守護たる五郎様に損になることなどいたしませぬ。さりとて、甲斐守護様は甲府の人ゆえ」


外記に口元に、わずかな笑みが浮かんだ。


龍王丸が生き、五郎が死すれば、河内の復興はならない。逆はないとみたのだろう。

確かに和議により今川から財を得たとしても、五郎はあくまで甲府を優先させる、かもしれない。

そのあたりは龍王丸には読み切れなかった。おそらく穴山にも読み切れなかっただろう。


ゆえにどうとでもなれる手を打った。


福島勢を通したとは言わない。龍王丸を救ったとも認めない。

穴山は武田へ弓を引かず、今川へ兵を出したわけでもない。

ただ、穴山領の道を通る者がいた。それだけのことと言っている。


「なるほど。そなたは食わせ物という評、いま初めてしっくり来た」


「恐れ入ります」


外記は褒められた時と同じ顔で頭を下げた。

それと同時に小姓が書状を持って入室した。

龍王丸はその新しい紙を引き寄せ、二人に差し出した。

言うまでもなく穴山領の安堵状である。

文面にはすでに目を通していたが、最後の一節を自ら書き加えた。


「穴山は、武田にも今川にも弓を引かず、ただ領内の平穏を守った。その折り目正しい振る舞いにより、本領を安堵する。それでよいな」


「ありがたく」


信風と外記が深く頭を下げた。

龍王丸は安堵状を信風の前へ置いた。


「約定どおり、河内の焼けた田畑、潰れた道はすべてこちらで贖う」


外記がすぐに尋ねた。


「色はどれほどお付けいただけるので」


「ほかの者に睨まれぬ程度につける。それでよかろう」


「結構にございます」


河内を焼いたのは今川である。

補償を厚くしすぎれば、穴山が今川へ内応した代価だと自ら触れ回るようなものになる。

穴山も承知したうえで、どこまで上積みされるかを確かめている。

信風は安堵状を受け取り、改めて礼を述べた。

二人が退出していく背中を、龍王丸はしばらく見送った。


言いたいことはもう一つあった。武田八郎のことである。

武田八郎を使った離間の計、確かに承菊が進めたことではある。

だが、これを許したのは他でもない自分である。

武田八郎が迷い、武田家中で板挟みになることは承知していた。


おそらく六分ほどで、今川に戻ると踏んだ。しかし、八郎は追い詰められ自裁した。

八郎は穴山の出である。その死に、穴山家の者が何も思わないはずはない。

だが、今ここで詫びれば、信風はお気になされるなと答えるほかない。

許すことしかできない者へ許しを求めても、龍王丸の気が軽くなるだけである。


龍王丸は何も言わず、次の安堵状へ手を伸ばした。

だがほどなく、入れ替わるように承菊、岡部左京進、関口彦三郎が入ってきた。


左京進は、今日も険しい顔をしている。


やはり未だに兵を分けた際の嘘を許していない。

龍王丸は二千の兵を河内に戻す際、武田の別働隊が河内に入ったと嘯いた。

河内口と兵糧路を塞ぐつもりと見える。急ぎ街道と渡しを押さえよ。そう命じたのだ。


結果的に敵将を討つ大勝となったが、軍監を欺く罪である。

今川の御曹司を敵陣で死なせることの意味も、散々説明された。


龍王丸は謝るほかなかったが、同様の事例が都合三度目である。

全くと言っていいほど、効き目がなかった。

今でも一挙手一投足を見張り、龍王丸を矯正しようとしているのだ。


一方の彦三郎は左京進ほど露骨ではなかったが、完全に納得した様子でもない。

承菊に至っては、納得するつもりそのものがないようであった。

左京進が、閉じた戸を一度見た。


「穴山殿はお帰りになりましたか」


「先ほどな。大きな借りができた」


承菊が頭を撫でながら、意地の悪い笑みを浮かべた。


「向こうにしてみれば、安い買い物でしょう。少々のことで、若君に大きな顔ができるのですから」


そう言って承菊は、信風が座っていた場所へ目をやった。


「とはいえ、まあ無茶なことは言い出しますまい。また河内を焼かれては困りますから」


「して、何用か。先日で説教は済んだはずだが」


「気は済んでおりませぬが、まあ、よいでしょう」


承菊が懐から文を取り出した。

差出人の名を見て、龍王丸は眉を動かした。


甘利九衛門。


五郎の傍らにいた重臣であり、過日において河内の寺院にて龍王丸と和議を結ばんと言葉を交えた男である。

そして、今は要害山に籠っているはずの一人だった。


要害山の内情については、すでにいくつもの報せが入っていた。

だが、それらの知らせの指すところは、さして変わらない。

簡単に言えば、まとまらぬの一言であった。


五郎の室と腹の子を中心に家を残そうとする者。

一門から成人した者を立てようとする者。

今川と和議すべきだと唱える者。外の勢力の力を借り、なお戦おうとする者。


誰も全体を動かせず、誰かが決めようとすれば、別の者が反対した。

これらに嫌気が差して、要害山からこちらに転ぶ国人衆らもいるほどである。


承菊が小さく鼻を鳴らした。


「九衛門殿も困ったものですな。昔日の寺でこちらの言い分を呑んでいれば、このようなことにはなりますまい」


「承菊殿。そのような言い方はおやめください」


彦三郎にたしなめられ、承菊は肩をすくめた。


龍王丸は文を開いた。


存外、率直である。龍王丸は文を一瞥し、そう思った。

文の内容は簡素であり、こちらに対する恨み言もない。


まず、要害山では、今後について何も決まっていない、待たせて申し訳ないと詫びがある。

こちらが察している通り、武田一門や重臣の意見もまとまっていないことまで書かれていた。

今川方の、性急に城を攻めない、という約定に今少し甘えたいとあった。

またそのうえで、許されるなら、甘利九衛門が直接会って話をしたい。そう締めくくられていた。


「要するに、何も約束はできないが、しばらく待ってほしいということでございますな」


すでに文に目を通していた承菊が笑った。彦三郎も同様の感想であったのか、たしなめはしない。

龍王丸は文を畳んだ。


「九衛門が来ているのであれば会おう」


承菊が呆れた顔をした。


「意味がないでしょう。何も決まっていない使者と、何をお話になるので」


少し間を置き、龍王丸を見据えた。


「ああ、また御身を差し出そうというのですか」


冗談めかした言葉に左京進の眉が上がった。

龍王丸は息を吐き、首を横に振る。


「そちらではない。別件の方だ」


三人の視線が龍王丸へ集まった。


「察しの通り言わねばならぬこともある。あとは聞きたいこともある」


左京進の険しい顔が、わずかに緩んだ。

彦三郎もそれ以上は止めなかった。

承菊だけはまだ何か言いたげであったが、結局、口を閉じた。


龍王丸は文を承菊へ返した。


「通せ」


----



甘利九衛門は、呼び入れられるとは思っていなかったらしい。

直接話したいとは書いたものの、その日の内は完全に予想外であったようだ。

部屋へ入る足取りこそ乱れていなかったが、顔には疲れが濃く残っていた。

見苦しい恰好ではないが、急いで来たのか袴の裾には乾いた泥がついている。


龍王丸の前まで進むと、九衛門は両手をついて深く頭を下げた。


「この度は、このような場を設けていただき、感謝のしようもございません」


「要害山のことを含め、聞きたいことがあった。言いたいこともな」


九衛門が顔を上げた。


何を言われるのか、思い当たらないようであった。

要害山では今川への返答すらまとめられず、ようやく猶予を乞う文だけを持って出てきた。

それに対して、龍王丸の側から話があるとは考えていなかったのだろう。

龍王丸は小姓に白湯を運ばせた。九衛門の前にも椀が置かれたが、手をつけようとはしなかった。


「まずは要害山、いや、御一門について聞きたい。抗戦を唱えておる者と、和議を進めておる者。それぞれ、誰がまとめている」


九衛門はすぐには答えなかった。率直に内情を問う言葉に少し体を固くした。

あの日、寺院で和議の内容をぶつけ合った九衛門ならば、きっと微動だにしなかっただろう。

おそらく、九衛門の心を強くしていたのが、あの五郎の才覚であると思うと、龍王丸はまた寂寥に襲われた。


九衛門は少しの緊張は見られたものの、やがて意を決したように口を開いた。


「抗戦を唱えておられまするは、御舎弟の武田左衛門大夫信友様。和議を進めておられまするは、同じく御舎弟の桜井右近助信貞様にございます」


左衛門と右近助。龍王丸は頭に名前を刻んだ。


「それぞれ、どのような人間だ。言いづらければ隠し立てせよ」


隠し立てしてよいと言われ、九衛門はかえって困った顔をした。

それでも、龍王丸と直に話す機会を逃したくないようで、つばを飲み込んでから、五郎の二人の弟らについて話し出した。


左衛門大夫信友は、小山田氏の備えとして勝沼郷を受領し、勝沼と名前を改めたこともあったらしい。

ただ、五郎の死後は武田に戻り、一門衆の筆頭染みたふるまいをしているとのことだった。

個人としては武勇の誉れは高く、自ら兵を率いれば家中の者もよく従う。

気性は穏当とはいいがたく、兄である五郎へ異見することも少なくなかった。

あまりに言葉が過ぎ、陣へ加えられなかったことさえあるという。


それでも所領を取り上げられることも、遠ざけられることもなかった。それゆえ五郎は目をかけていたのでは、と九衛門はこぼした。

だが、龍王丸には逆に見えた。むしろ五郎に歯牙にもかけれなかったのではないかと思われた。


野心がないから逆らうことを許されたのか、逆らっても誰もついてこないと見られていたのか。

本人に会ってみなければ分からないが、少なくとも五郎は、弟が自分に取って代わるとは考えていなかったのかもしれない。


龍王丸は口に出さず、白湯を一口飲んだ。


続いて九衛門は、桜井右近助信貞について語った。

こちらは武田氏の居館の隣である、桜井の地に屋敷を構えた故、桜井と名乗っている男とのことだった。

五郎の死後、武田に戻ることはなかったようだ。


左衛門と対照的に弁が立ち、頭も切れる。作法を外さず、家中の者が何かを相談すれば、どちらの顔も潰さぬように話を収める。

人望がないわけではない。むしろ、要害山へ籠った者たちの中では、左衛門より信頼する者も多いという。


九衛門の口ぶりから、おそらく左衛門よりも右近助を好んでいるように見られた。

ただ、一方で九衛門は途中で何度か言葉を濁した。

五郎も右近助の弁才は認めていた。しかし、重要な決断を任せることは少なかったらしい。


人に好かれ、扱いやすい。その分、押し切られた時に踏みとどまれるかは怪しい。

そこまで考えてから、龍王丸は心の中で首を振った。顔も見ていない男を、少し悪く見すぎている。


話し終えた九衛門は、龍王丸の顔をうかがった。


「もしや、どなたかに家督をと考えておられまするか」


「武田の家督に差し出口は挟まむつもりはない」


そういうと九衛門がまた固まった。

意外だった。

それを聞きに来たではなかったのだろうか。


「いかがした」


いえ、と九衛門の口元がわずかに動いた。


一門について詳しく聞かれれば、今川が次の武田当主を選ぶつもりだと考えるのも無理はない。

だが、龍王丸が誰を指したところで、指されなかった者が従うはずもない。

今川が武田の当主を決めれば、要害山に籠る者たちは、その瞬間だけは一つにまとまるかもしれない。

結局の話、武田の跡目については言及するだけ損な話、龍王丸はそう見ていた。


「要害山のことは、そちらで好きにせよ。城から兵を出さぬ限り、こちらも兵は向けぬ」


九衛門は深く頭を下げた。


「ありがたき御言葉にございます」


おそらく、跡目と要害山の安全、この二つを求めに来たのだろう。

九衛門の肩から明らかに力が抜けた。


龍王丸はそれを見ながら小姓を呼んだ。


「預けていたものを」


小姓は一度退出し、ほどなく細長い包みを抱えて戻ってきた。

龍王丸の前へ置かれた包みを見ても、九衛門には中身が分からなかったらしい。


布が解かれ、軍配が現れると、その目が大きく見開かれた。


五郎が戦場で手にしていたものである。


戦場で斃れた五郎が落とし、龍王丸が拾った。

これを振るって武田勢を追う指示は出さず、ただ人目に触れないように懐に収めていた。

血は拭っていたし、その後、手ずから磨き上げた。だが、柄には傷が残り、縁の一部も欠けている。


九衛門の視線は軍配から動かなかった。


「あと一つ、聞きたいこととして、五郎殿のことだ」


「御屋形様の、何をお知りになりたいのでございますか」


「すべて知りたいが、今はよい。ただ、先の戦のことで一つ窺いたい」


九衛門の肩にまた力が入った。

いや、顔にも生気がもどり、かつての九衛門がにわかに舞い戻っている。


「昔日の戦、何をお尋ねなさりますか」


主君を辱めるつもりならば、と言外に九衛門は圧していた。

だが、龍王丸にそのようなつもりはない。ただ、知りたいのは一つ。


「五郎殿は、龍王丸がどちらにいると見た」


あの日、龍王丸が生涯最後の博打になると打った一手。

兵を分け、せめて少しでも河内に逃がさんとしたあの拙い策のことを思い出す。


「河内へ落ちる大勢か。それとも、丘に残った小勢か。どちらにこの首があると見た」


問いの意味を測るように、九衛門は黙った。

やがて軍配へ目を落とし、静かに答えた。


「丘の上におられると。河内へ向かった大勢は囮であると申しておられました」


龍王丸は頷いた。やはり、見抜かれていた。

負けた。と胸に言葉が浮かんだ。

その言葉は、あの日に浮かんだ、勝ったという言葉よりも遥かにしっくり来た。


龍王丸は軍配を包み直さず、そのまま九衛門の前へ滑らせた。


「軍配をお返ししよう。わしには重いゆえ」


九衛門は、言葉の意味が分からないという顔をした。


「よろしいのでございますか」


「よい。理由はもう述べた」


重い、というのは木で鼻を括ったような理由である。

それでも九衛門はそれ以上尋ねず、軍配を両手で受け取った。


しばらくの間、誰も口を開かなかった。


龍王丸は白湯を飲み、椀を置いた。


「聞きたいことは、もう聞けた。あとは言うべきことだ」


傍らに置いていた文を取り、九衛門の前へ滑らせた。


九衛門は軍配を膝元へ置き、文を開いた。


初めは何が書かれているのか分からないようであった。

二度、三度と同じ箇所へ目を戻し、やがて顔から血の気が引いた。


「これは、まことでしょうか」


「嘘はない。要害山の左衛門殿が、信濃の諏訪とつながりを持とうとしている。五郎殿の室、大井の方を諏訪へ移すことを代わりにな」


「御台様は御子を身ごもっておられます。そのようなことを」


それまで黙っていた承菊が、小さく笑った。

彦三郎がすぐに横目を向ける。


「承菊殿」


「いえ、失敬。ゆえに出すのであろうと思うたまで」


承菊は笑みを消さなかった。


「五郎殿の御子を城から遠ざけ、そのうえ今川と戦う兵まで得られる。武田左衛門大夫殿にとっては、悪い話ではございますまい」


「承菊、そこまで」


龍王丸が言うと、承菊は口元に手を当てた。

文に記されているのは、道を押さえた兵や物見から集まった報告である。

要害山から北へ向かった使者がいることは、数日前から分かっていた。

戻ってきた使者の後を追うように、諏訪方の者が甲斐へ入ったとの知らせもある。

大軍ではない。

護衛を伴った一行が、甲斐の北西で待っている。

丁寧に貴人のための輿まで携えてだ。

戦うために来たのではなく、明らかに誰かを受け取るために来たと見る方が自然であった。


さらに左衛門が諏訪とやり取りした文が漏れたことで、実態が明らかになった。

左衛門は諏訪へ援兵を求めた。その代わりに、大井の方と腹の子を諏訪の保護下へ置くと約したのだ。


無論、保護とは名ばかりである。

諏訪方の狙いは甲斐武田への介入である。

そのことは左衛門達、抗戦派も理解しているだろう。

だが、それ以上に兵力を得られること、当主の対抗馬が今、甲斐からいなくなることの利を選んだ。


つまり誰にとっても利がある。ただし、大井と五郎の子を除いて。


九衛門は文を握ったまま、動かなかった。


「離間の計と疑うのはよい。ただ、そこもとがこの計略に思うところがあるのであれば急いで帰られた方がよい。おそらく時がなかろう」


九衛門が顔を上げた。


「この知らせは、いつ頃のものでしょうか」


「三日ほど前。すでにしびれを切らした諏訪の迎えが、要害山に来ていてもおかしくはない」


九衛門は文を畳んだ。

軍配を抱え、立ち上がる。


「失礼いたしまする」


来た時に見せた礼も、猶予を得たことへの言葉もなかった。

深く頭を下げると、ほとんど足早に部屋を出ていく。

廊を離れていく足音も、来た時より速かった。


承菊は九衛門の消えた方を見ていたが、やがて龍王丸へ向き直った。


「よろしかったので」


「諏訪が介入するとは思わん。だが、手札を渡してもよくなかろう」


「いえ、軍配の方です」


龍王丸は承菊を見た。


何を聞かれているのか、少し遅れて分かった。


「ああ」


左京進も彦三郎も、龍王丸の答えを待っている。


「負けた側が、勝った側の軍配など持てぬよ」


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