3章_11
最初の攻防から、一刻ほどが過ぎていた。
武田五郎信直は馬上から、丘陵の南寄りに残る二つ引両の旗を見上げていた。
あれから武田勢は二度、三度と兵をぶつけた。攻めの合間には降伏を勧める使者も立てたが、そのたびに拒まれている。
千に満たなかった今川勢は、もはや五百ほどであった。
ただし、半ばが討たれたわけではない。
武田勢が丘を押し上がるたび、傷ついた者や、先に退けと命じられた一隊が河内へ続く山道へ抜けていく。
残った兵が槍を揃えて攻め手を受け止め、次の攻めが始まる頃には、今川の陣がまた一回り小さくなっていた。
櫛の歯が一本ずつ欠けていくような退き方。狙ってそうしている。五郎はそう感じた。
ただ今川の狙いはどうであれ、丘の大半はすでに武田勢が押さえ、今川の旗は斜面の一角へ押し込められている。
市川筋へ続く道にも兵を回していた。
武田の陣中でも、もはや勝敗は決したものと見られていた。
甘利九衛門は、丘陵にへばりつくように残る今川の陣を見ながら言葉をこぼした。
「固うございますな。本物でしょうか。兵の話では童が指揮を執っているとのことでしたが、さて、見放された御曹司がここまでできるものか」
枝ぶりのいい木を褒めるような口ぶりであった。
それに対し板垣駿河守が、馬上で首を横に振った。
「九衛門殿、むしろ某は本物に思えたが」
「といいますと」
駿河守が目を向けた先では、今川の一隊が武田勢の攻めを受けていた。
残された兵は、河内へ退く味方を何度も振り返っている。それでも追って逃げようとはしない。
前の列が崩れれば後ろの者が埋め、合図が上がるまで槍を下ろさなかった。退けと命じられた時だけ、列を崩さず後ろへ下がっていく。
「あれと槍を交えるとわかるのですが、どうにも死に物狂いというか、どうにも狂気じみておるように見える。
むしろ今川本家の御曹司ぐらいの血でないと、あそこまで従わぬのでは」
駿河守はこの合戦で本陣に切り込もうと兵を進めたこともある。当然本陣近くの集団を間近で見た。
それゆえの感想である。だが九衛門や、それ以外の将らにとっては納得のいくものではなかったようだ。
「なるほど、とにもかくにも形だけの影武者ではないということですな」
言葉を濁しながら、陣近くの将兵らが今川の陣を眺めた。
五郎はそのやり取りを横目で見て、言葉がこぼれた。
「わしは運がよい」
九衛門がこちらを向く。少し顔を顰めている。
咳ばらいをすると、五郎のすぐ横へ馬を寄せた。
「確かに御屋形様は運がよろしい。あれらはまず本物でありましょう」
唐突に始まった諫言に、五郎は鼻で笑った。
「何をお笑いなさる。富田城から福島勢を逃した今、あれが影武者であれば困ったことになりもうした」
駿河守も馬を寄せ、したりと首を振りながら口を挟んだ。
「九衛門殿の言葉確かに。あの程度であれば、兵を富田にも分け、両取りというのも考えられ申す」
「たわけ。違うわ」
五郎はあまりの言葉に失笑した。
そして二人に対して丘の上に残る旗を指した。
「あれが龍王丸かどうか、それだけが問題ではない」
九衛門がこちらの意図を測りかねていた。
だが、実際に槍を交えた駿河守は察しがついたようだった。
「もし、あれが育っていれば、手が付けられようか。次は兵庫助に代わり万軍を率いて来たぞ。
だが、我らは今ここで止められる。あれが千の軍を率いるだけの未熟者の内にだ。それを思わば、十分の儲けよ」
九衛門は改めて丘を眺めた。やはりしっくり来ていないようだった。
「確かに十分持ちこたえておりまするが、やはり御屋形様の手のひらで踊っておるだけにございましょう。そこまでとは」
「馬鹿者」
五郎は吐き捨てた。
確かに初めのうちは、九衛門の言う通り、いくらでも弄ぶことができた。
相手の用兵には硬さがあったのだ。
左から攻めれば左へ兵を寄せ、退路へ兵を回せば、それを見てから手を打つ。判断は早く、誤りも少ない。
だが、手習いの兵法書どおりの答えを、馬鹿正直に返しているだけに見えた。
逆に言えば、相手が正しいからこそ、次に何をするかも、おおよそ読めた。
それが、攻めを重ねるたびに変わった。
初めは武田勢が動いた後で兵を回していた。次には、こちらが動き出す前から、狙われそうな場所へ兵を残した。
予備を出す時も早くなり、しかも目の前の攻めへ使い切らない。次に右を突かれても左を突かれても、すぐ応じられるだけの兵を残している。
一度通じた手が、次には同じように通じない。
僅かな小手調べの間に、相手の手筋がずんと良くなっていくのすら感じられる。
「確かに、今はまだ、ぬるい」
九衛門と板垣が黙って耳を傾ける。
「指揮は遅い。兵の生き死にに気を取られる。自分の判断に確信が持てぬ。総じて弱い」
五郎は軍配を下ろした。
「が、伸びておる。嫌な手合いよ。追い込まれても焦りもせん」
九衛門の顔から、わずかに笑みが消えた。
五郎は丘の旗を見たまま言った。
「乱戦の中ならば、首を」
九衛門がすぐに口を挟む。
「御屋形様、虜とするのでしょう」
五郎は答えなかった。鼻で笑い、口をゆがめた。
才覚を危ぶむだけならば、殺した方が話は早い。死んだ子の年など数えても意味がないのだ。
だが、仮にあれが今川の嫡男とすれば面倒が起こる。兵庫助一人の首とはわけが違うのだ。
駿河も遠江も完全に敵へ回り、戦はいつ終わるとも知れなくなる。
だが、生け捕りにすれば、今川との取引に使える。氏親が倒れたままなら、駿府の内輪を割る札にもなるだろう。
理屈では分かっている。
それでも、あれを再び外へ出すべきではないと、五郎の勘が訴えていた。
娘でもおれば婿に取って、甲斐から一歩も出さぬものを。
そこで、大井から迎えた正室の顔が浮かんだ。
大井の女め。なぜ娘を産んでおらぬ。たわけめ、と内心で毒づいた。
丘の方から、一騎の使者が戻ってきた。
降伏を勧めるため、今川の陣へ向かわせていた者である。
馬を寄せた使者が、泥にまみれたまま頭を下げた。
「どうだった」
五郎は直接聞いた。答えは薄々わかっていた。
「降伏は受け入れず。一戦仕ると」
やはり、と五郎は目を細め、敵陣に視線をやった。
おそらくだが、相手は虜とする寸前まで行けば、腹を切るだろう。
そんな予感すらある。
ならば、
「良かろう。首を」
「御屋形様」
九衛門の声が飛んだ。
五郎は息を吐いた。自死を躊躇わないであろう相手に、虜もなにもない。
だが、そうはいえどやはり相手を虜とするのが先々を思うと一番良いのも事実である。
「虜とする。それでよかろう」
五郎は丘へ軍配を向けた。
「掛かれ」
命を受け、武田の旗が一斉に前へ傾いた。
武田勢はすでに三方から斜面へ取りつき、市川筋へ続く道にも兵を回している。
完全に囲み切ったわけではないが、五百の兵がまとまって抜けられる道はほとんど残っていない。
攻めれば、今度こそ終わる。
先ほどまでの敵将であればそうなる、五郎はそう読んだ。
だが、今川の兵が機敏に動き出す。
今川の旗のいくつかが、丘の頂に近い場所へ移された。
弓兵もそこへ集まり、攻め上がる武田勢へ矢を浴びせ始める。
丘の上の陣へ、決して武田勢を近寄らせまいとする動きである。
ならばと、武田の前備えが丘の上へ向きを変えた。兵数で上回っている今、押しつぶせないわけがない。
今川はきっと兵を集めてこれを防ぐだろう。
そう考え、指示を用意していたが、敵の増援はない。
むしろ、斜面の中ほどにいた今川兵の姿が次々と消えていく。
「兵を隠した、か」
駿河守が目を凝らす。
今川の兵の動き方は、負けると知って逃散したものではない。
整然と丘の陰へ、武田の本陣から見えぬ位置に入っている。
「合間を縫って、逃げるつもりか」
五郎は呟き、市川筋へ回した自軍の旗を見た。
確かに今川兵が抜けられる隙間はある。
丘を攻める兵と、道を塞ぐために回った兵の間だ。
攻めの兵は斜面の上を見ており、見張りの兵は河内へ続く道へ目を向けている。
どちらも敵将を逃がすまいと、自分の領域で力を尽くしている。
だが、その一方で斜面と河内への道の間。ここは、互いに相手が守る場所だと思っている。
つまり、そこを突かれれば武田勢はばたつく。
「使番を出せ。丘と河内方への合間を埋めさせろ」
五郎がそう命じた時、丘の陰から今川勢が姿を現した。
散らばっていた兵が一つに固まり、先頭は槍を低く構えている。
そのすぐ後ろに龍王丸の馬印が続いた。
丘の上に残した旗と弓兵を囮にし、残る兵の大半を武田勢の継ぎ目へ集めたのである。
使番が馬首を巡らせるより早く、今川勢は斜面を下った。
狙われた武田勢も槍を揃えようとした。
だが、一手遅い。
五郎の想定通り、武田勢の足がほんのわずか止まった。
そこへ今川勢が食い込んだ。
先頭の列が押し倒される。後列も支えようとしたが、もたついて対応できない。
今川勢はそこを狙い、河内へ抜ける道だけを押し開いた。
後方の兵が逃げられるようにと、文字通り体を張って道を作っている。
武田側から槍を突き込まれても、列の横腹を守ろうとはせず、ただ前だけを押し続けていた。
丘の上に残った弓兵と旗持ちは、なお矢を射続けている。
あの者たちは戻れまい。
それでも龍王丸の馬印は、武田の列を抜けた。
河内へ続く道へ出る。
「抜けられましたぞ」
「たわけ、あれも囮よ」
おそらく、龍王丸らしき敵将は今抜けた兵にはいないだろう。
残るとしたならば、丘の上で、弓兵らとともにいる。
「ですが、今抜けた者らが本物であれば」
「分かっておる」
先ほど五郎がやったことをやり返された。
どちらを取るか、両取りはできない。と選択を迫り、兵を割らせる。
常の五郎であれば、全力で丘を登れと命じただろう。
だが、相手の成長が著しい今、自分の判断にわずかな不信があった。
裏の裏をかかれるかもしれない。
ゆえに五郎は丘を離れた兵らを逃すことはできなかった。
「兵を出せ。追え。ここで逃がせば何も残らん」
武田勢も龍王丸の後を追おうとした。
丘を登ろうとしている兵も、それを途中で取りやめ、河内への道に突っ込もうとしている。
実際、それくらいの兵がなければ、今なお道を作り続けている今川兵を押し除けられない。
「丘から戻るな。追い詰め続けよ」
「御屋形様、それでは相手方に逃げられますぞ」
分かっていると、五郎は小幡の旗を呼び寄せた。
「小幡」
小幡が泥に汚れた馬を寄せた。頬は泥で汚れているが、目に疲れはない。
甲府の防衛においても、直轄兵を任せたほどの男である。
まず五郎の信を裏切らないと見ていた。
「そこもとは、丘の今川勢に構うな。殿の兵にもだ。ただ外を大きく回れ」
五郎は突破口の外側を指で示した。河内へ逃げ出た軍勢の前に出るように弧を描く。
「龍王丸めの前へ出るのでございますな」
小幡の問いに、そちらに相手がいればな、と内心で毒づきながら指示を出す。
「それでよい、ただ回れ。相手の前へ出よ」
小幡の兵が動いた。
足の速い兵を揃え、今川の殿軍を避けて大きく迂回する。
逃げた敵将の後を追うのではなく、先へ回って再び退路を塞ぐためである。
五郎は本陣の後ろに残していた兵にも、前へ出るよう命じた。
もう仕舞だ。ここで押し切る。
殿の今川勢に気を取られ、丘の居残り兵を逃す可能性を完全に消したかった。
どちらに龍王丸らしき将がいようとも関係ない。
どちらも捕捉できるように兵を足した。
五郎の後方を守っていた武田勢が、命に従い前に出た。
丘を登り始めると、にわかに丘の上が騒がしくなった。
やはり、あちらにいたのか。
きっと、腹を詰めているのだろう。
五郎がそう見切った時、後方から馬蹄の音が迫った。
使番が泥を跳ね上げながら本陣へ駆け込み、馬上から叫んだ。
「申し上げます」
五郎は龍王丸の旗を見たまま答えた。
「申せ」
「福島勢、後方よりこちらに突っ込んできます」
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五郎はそこで初めて丘から目を離した。
「数は。どこから来た。富田に残した兵はどうした」
使番は馬上で息を切らしながら答えた。
「三百余。河内へ退いた兵が山際を回り、富田の囲みに残した者どもを押し破って参りました。
脇目も振らず、一直線にこちらへ向かっておりまする」
三百余。多くはないが、この状況では見過ごすこともできない。
五郎はこのような横入りを防ぐために、河内からこちらへ入る道にも見張りを置いていた。
だが、いくつにも枝分かれした山道のすべてを、自身の直轄兵で賄うことはできない。
それゆえ、比較的従順な国人衆らに道を塞ぐよう命じた。
「馬鹿な、国人らの物見はどうした。どうして今まで気づかなんだ」
九衛門の驚きの声をしり目に、五郎はむしろ納得していた。
おそらく、国人衆らは米と塩でなびいた。
内心で笑いながらも、自身の失策を認める。
離間の計に対応しきれなかったのはこちらなのだ。
「御屋形様、御下知を」
心配そうな九衛門の声で、すぐに我に返った。
今考えるべきは、どうやって来たかではない。現状へ頭を集中させる。
「三百の福島勢。小勢だが」
五郎はそう呟いた。
やはり、数だけならば恐れるほどではない。
問題は状況である。
五郎はつい先ほど、丘の居残り兵と河内へ抜けた一隊の双方を捕捉するため、本陣の後ろを固めていた予備兵まで前へ押し出した。その直後であるため、福島勢が迫る後方には、すぐ厚い槍衾を並べられるほどの備えが残っていない。
「御屋形様、兵を戻しますか」
駿河守が尋ねた。五郎はそれに頷けない。
実際、丘を攻める兵を戻せば、龍王丸に逃げる隙を与える。小幡を呼び戻せば、河内へ抜けた今川勢も逃がすことになる。二兎を追って、一兎も得ない結果となるだろう。
かといって、兵を動かさず福島勢を放っておけば本陣へ届く。
五郎は一息のうちに決断した。
「丘の兵は戻すな。小幡もそのまま行かせよ」
そう言って軍配を上げた。
「駿河守。前へ出した兵を返せ。近くの馬廻りを加え、福島勢を止めろ」
「承知」
板垣駿河守が馬首を返した。
「九衛門はここに残れ。本陣回りを締めよ。後ろへ戻る兵の道を空けさせろ」
「はっ」
前へ出たばかりの武田兵が、命を受けて再び向きを変え始めた。丘へ進もうとする者と後ろへ戻る者が狭い陣間で行き合い、槍と旗がぶつかる。
「慌てるなっ。戻る兵だけを通せ。ほかは前だっ」
九衛門の声が飛ぶ。
兵が左右へ割れ、その間を駿河守の一隊が後方へ抜けていった。多少は乱れた。
だが、まだ立て直せる。
五郎は急速に冷えていく頭でそう考えた。
まず、武田勢の数は依然として大きく勝っている。福島勢を一度止める間に丘を落とし、小幡が河内への道を塞げばよい。
「御屋形様、来ますぞ」
九衛門が声を張り上げた。
五郎は馬を巡らせ、富田から続く山際を見た。
土煙の中から福島の旗が現れた。
大軍ではない。横へ広がることもなく、槍を持った一団が細長く固まって進んでいる。
頭に布を巻いた者がいた。片腕を胸元へ縛りつけた者もいる。具足の一部を失い、小袖のまま槍を担ぐ者まで混じっていた。
富田城で武田勢の攻めを受け続けた兵たちである。歩けぬ者は河内へ置いてきたのだろう。とはいえ、残った者が揃いも揃って無傷の精兵というわけではない。
まだ先の惨敗から立ち直っていない。
そう見える一団だった。
「龍王丸のもとへ合流するのでしょうか」
九衛門が目を細めた。
であれば、おそらく福島勢は市川筋へ向かい、河内へ抜けた軍勢を追う。五郎の目にはあちらに龍王丸はいないが、まだ馬印はその軍勢が掲げている。福島勢も、あちらを龍王丸の本隊と見るだろう。
そのつもりならば、このまま本陣へ直進せず、河内へ抜けた軍勢の方へ進路を変えるはずだった。
だが、福島の旗は曲がらなかった。
まっすぐ武田の本陣へ向かってくる。
「なるほど」
五郎は少し笑った。
そして内心で兵庫助に詫びた。かつて凡将と蔑んだことを取り下げた。
「本陣に来るぞ。この五郎がやったことを、そのまま返すつもりだ」
九衛門がぎょっとしている間にも、駿河守が動いていた。
駿河守は後方へ回り、槍を揃え始めた。福島勢を寄せつけまいと、守りを固めたのだ。
だが、福島勢はその動きを見ても足を緩めない。気勢を上げながら、徐々に加速していた。
「射かけよ、狙いは不要っ」
駿河守の号令で、左右から矢が福島勢へ飛んだ。
矢が列の中へ落ちた。兵が一人倒れる。だが、後ろの者がその体を避けて進む。
助け起こそうとする者はいない。
ただ、獣じみた唸り声とともに、真っすぐ五郎へ向かってくる。
「御屋形様、ご安心ください。あれでは本陣に着くまでに気力も尽きましょう」
九衛門はその様子を見て、逆に安心したようだった。
たわけ、と九衛門に内心で毒づく。
五郎の見立てでは、あれは武田の陣を打ち破るための形ではない。本陣へ届くまで、ただ前へ進み続けるためだけの形である。
「生きて帰る気はないらしい。死兵に気力の底などない」
五郎が呟くと、九衛門は口を結んだ。
駿河守の怒号が後方に響いた。
「槍を揃えよ。ここから先へ通すなっ」
武田勢の槍衾が並ぶ。福島勢も槍先を下げた。
そして両軍の先頭がぶつかった。
待ち構えていた武田勢の槍が、福島兵の胸や肩へ突き刺さる。前にいた兵が倒れ、その上へ後ろの者が折り重なった。
やはり、それでも福島勢は止まらない。
前へ、前へ、前へ。ひたすらそれだけを押し通そうとする。
あれを止めるならば、槍を重ね続ける必要がある。
五郎がそう考えた、その時、丘の上から鬨の声が上がった。
「御屋形様、今川勢がっ」
振り向けば、丘に残っていた今川勢が斜面を下り始めている。
先ほどまで矢を射ていた弓兵も弓を捨て、槍や太刀を手にしていた。数は百に届くかどうか。それでも一つに固まり、丘を攻める武田勢へ向かってくる。
丘を下る今川勢の中心に、場違いな童が見て取れた。その童を周囲の者が囲むように守っている。
「やはり、そちらにおったな。小僧」
正道であれば、兵とともに河内へ逃れようとする。
しかし、なぜかこの童は裏をかこうとする気がした。そして現に丘の上にいたのだ。
「挟撃、狙っていたか」
「馬鹿者、偶然よ」
馬廻りの一人が声を上げると、五郎は笑った。
強がりではない。おそらく龍王丸は、福島勢が戻ることを知らなかった。実際、丘の兵が動き出したのは、山際に福島の旗が現れた後である。
だが、機を逃さず、一気に前へ出てきた。
そしてその狙いは、福島勢との合流ではない。
龍王丸の軍勢は、丘を攻める武田勢の側面を突いた。武田勢は突如現れた福島勢に浮き足立ち、その列にはわずかな隙間が生じている。
龍王丸率いる今川勢は、その場所へ向かって斜面を下っていた。
「やはり見逃さぬか」
五郎は軍配を振った。
「丘の兵は後ろを見るな。槍を揃えて止めよ」
使番が走る。
「駿河守はそのまま福島勢を押さえろ。九衛門、本陣の兵を横へ広げるな。旗の周りへ寄せよ」
「御屋形様、やはり小幡を呼び戻しますか」
五郎は河内方面を見た。
小幡の旗はすでに遠い。今から戻るよう命じても、この場へ着くまでには時がかかる。
「もう間に合わん。河内へ落ちた兵どもが戻らぬよう、防がせておけ」
九衛門は頷き、使番を走らせた。
前後から今川勢が迫っている。
だが、五郎はまだ冷静さを保っていた。
福島勢の気力が萎えずとも、槍衾は越えられない。そう見ていた。
そして、そろそろだと思った時、後方の武田勢から声が上がった。
駿河守が、ついに福島勢の先頭を押し返したのだ。
武田の槍に突かれ、数人が同時に倒れる。後ろの兵もその体につまずき、進み続けていた福島の隊列が初めて止まった。
血に染まった旗が傾き、倒れた兵の上へ落ちかける。
「止まりましたぞ。駿河守殿が止め申した」
九衛門が声を上げた。
「であれば、次は丘を」
五郎は丘を下る龍王丸を指した。
今川勢の動きは速く、気づけば武田の守りを突破しようとしている。やはり、相当に兵の扱いに慣れ始めている。
もう少し、こちらの兵を丘へ向けるべきであったか。
そのように考えた時、また後方から気勢が上がった。
福島の主将でも討ち取ったか。
そう思った瞬間、九衛門が叫んだ。
「御屋形様っ。兵庫助がっ」
振り返った。
馬に乗った武者が間近に迫っていた。
太い縄を胴へ回し、体を鞍へ縛りつけている。具足の隙間から幾重にも巻かれたさらしが見え、腹の辺りは赤黒く染まっていた。
顔は土気色だった。槍を握る手には紐が巻きつけられ、目を大きく見開いたまま馬を駆けている。
「福島っ」
見覚えがあった。
あの日の夜襲で旗を掲げていた男である。忘れるわけがない。
その男が馬の腹を蹴り、五郎めがけて飛びかかった。
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丘を下り、武田勢の側面へ迫っていた龍王丸は、敵陣に生じた異変を感じ取った。
直前まで隙なく槍を揃えていた武田兵の動きが、ふいに鈍ったのである。
本陣を振り返る者が現れ、小気味よく飛んでいた下知の声も途切れた。
前へ出ようとする兵と、後ろへ戻ろうとする兵が行き合い、固く閉じていた列に淀みが生まれている。
なんだ、と目を凝らした。
だが、遠く離れた本陣で、何が起きたのかは見えない。
幾重もの旗が交差し、土ぼこりも相まって、福島勢、武田勢のどちらが優勢なのかもわからない。
だが、この軍勢を一つに動かしていた号令が途切れている。
今はそれだけが全てである。
「前へ出るぞ」
龍王丸が命じた。
遠江から来た大河内の男が、額から血を流しながら笑った。
「最後までご一緒いたします」
こいつもどこかで逃がせないか、そんな悩みが頭をよぎった。
だが、まさにその時、武田本陣の方から声が上がった。
「武田五郎信直、討ち取ったり」
一人の声に、福島勢の側からいくつもの声が重なった。
「武田五郎、討ち取ったり」
丘を攻めていた武田兵にも、その声は届いたようだった。
本陣の中央に掲げられていた馬印が大きく傾き、人の波に呑まれて見えなくなる。
龍王丸は、その声がまことかどうかを確かめようとはしなかった。
武田勢が完全に止まった。
無論、一瞬である。次の瞬間には敵方でも号令がかかるだろう。
だが、龍王丸はそれを見逃さない。
少なくとも五郎であれば、ここで力を出し尽くす。
「押せっ」
叫んだ。
兵が呼応し、一斉に前に出た。
百にも満たぬ今川勢が、武田の側面へ突き入った。
武田勢の動きは揃わない。
目の前の龍王丸を止めようと槍を向ける者がいる一方で、本陣へ戻ろうと踵を返す者もいる。
また、五郎討死の声を信じられず、その場に立ち尽くす者までいた。
動きがばらばらということは、当然、兵と兵の間に隙間ができる。
今川勢は、そこへ入り込んだ。
前の兵を押しのけ、横を向いた兵へ槍を入れ、下がろうとする者の間へ踏み込む。
武田の旗が一本倒れると、その後ろの兵までが動揺した。
もう新しい策はいらなかった。空いたところへ入り、押せば丘の兵は崩れた。
よくよく見れば、この武田勢を率いていた将らしき男が、もんどり打って倒れていた。
口から血の泡を吐き、起き上がれるとは思えない。
「散れ、散れっ。逃げろっ」
龍王丸の兵がそう言うと、丘の武田勢が下がった。
そして、それに合わせ、南の方からも鬨の声が上がった。
河内へ抜けた今川勢であった。
先頭には龍王丸の馬印が見えた。小幡勢に追われていたはずだが、それをはねのけたのだろう。
いや、見れば岡部の旗もある。
散々戻ってくるなと言ったのに、二千の兵を引き連れて戻ってきたのだ。
「流れが来ておりますな。いや、さすがは軍神」
「やめよ、全て運だ」
ずっと側を固めていた宮内が笑った。
「で、軍神殿。ここからどういたします」
決まっていると、龍王丸は武田勢を指した。
龍王丸が陣取った丘、それと河内に逃れる道の間に残る武田勢である。
「すりつぶせっ」
号令を発すると、また今川勢がその軍勢に向かって突撃した。
龍王丸率いる手勢は丘を駆け下りる勢いで迫り、河内筋からの軍勢はその数で迫った。
武田勢は最初は受け止めた。
だが、やはり混乱の中で、気勢が足らない。
ぶつかるや否や最初の一隊が列を離れた。
一人が退けば、その隣も退く。
「今は追うな。道を空けさせろ」
龍王丸は逃げる武田勢を追わせなかった。
河内から戻った兵が、龍王丸のもとに集う。
その中に眉を吊り上げた左京進、そして彦三郎がいた。
「叱責は後でいくらでも受ける。だが、今は機を逃すな」
左京進は歯をむき出しにし、唸っていた。
だが、龍王丸の指した方向を見て、黙った。
龍王丸の指先には武田本陣があった。
武田五郎信直の馬印は、もう見えない。
外側を固めていた国人衆の旗が、一つ、また一つと後ろへ下がっている。
それ以外の武田本家の兵も、本陣や重臣の旗の周囲へ寄り始めていた。
その中央には福島の旗がようやく見えた。
三百余で突っ込んだはずの福島勢は、すでに半ばも残っていないように見えた。
武田の旗本に囲まれながら、それでも本陣へ入り込んだ場所から退こうとしない。
五郎討死の声が上がっても、武田の重臣たちは崩れてはいなかった。
死んでいるか死んでいないか、それはまだ龍王丸には分からない。
ただ、おそらく五郎はもはや指揮を執れる状態にないのだ。
ゆえに五郎の側近らは本陣をまとめ、そのまま退くつもりなのだろう。
だが、それは別として、ここまでのことをしでかした福島勢を許してもいない。
「行くぞ、本陣だ」
「後で覚悟していただきますぞ」
左京進が吼えるようにして言うと、馬を駆けた。
龍王丸も手勢を率いて、それに続いた。
それを見て、彦三郎が顔を顰めた。
「若君は河内に」
「言うな彦三郎。今は前だ」
確かに、龍王丸はこのまま河内へ下がることもできた。
だが、福島勢をここへ残せば、あれは一人も戻らない。
それに、もし武田五郎が存命で、退いた後、立て直せば、武田に追い回されることになる。
ゆえに龍王丸は、本陣へ向け走った。
勢いづいた今川勢が武田本陣の側面へ駆ける。
武田側もこちらに気づく。敵将の幾人かが叫んだ。
それで武田勢の旗の一部が福島勢から離れた。槍を揃え、横から迫る今川勢へ向きを変える。
よし、と龍王丸は内心で喜んだ。
こちらに注意を割けば、その分だけ、福島勢を囲む列が薄くなる。
その目論見は当たり、福島の兵が押し返した。
「突け」
短く命じた。号令がかかる。
「突けぇ」
今川勢の槍が、福島の反攻に合わせ横から突いた。
武田本陣の列が大きく揺れた。国人衆の旗が今度こそ後ろを向く。
一つが走り出すと、別の旗も続いた。
外側の兵が退き、その空いた場所から武田の兵も逃げ始める。
ああ、相当に五郎殿が中心だったのだ。
崩れる軍勢を見ながら、龍王丸は寂寥にかられた。
もはや数の優位は今川勢にあり、趨勢もすでに決した。
武田勢はもはや軍勢の形を成しておらず、重臣の旗だけが、しばらくその場に残っている。
「御料様、あれを」
宮内の声の方を見ると、何人もの兵が何かを囲み、甲府の方角へ運び出していた。
間違いなく武田五郎信直、その人であろう。
掛けられた布から、だらりと腕がのぞいた。力なく左右に揺れている。
「五郎殿、らしくない」
武田の馬廻りらが、五郎の体を守りながら下がり、追いすがる福島勢を槍で払っている。
そこで冷静になり、辺りを見回すと、武田勢が周辺から散っていくのがはっきりと見えた。
勝った。
その言葉が頭に浮かぶまで、少し間があった。
負けると思った戦である。
武田の本体を引き付け、引き付け終われば自軍を逃がし、その後、自分も逃げる。
もし逃げるのが叶わなければ腹を切る。
そういう算段だった。
それが崩れた。
福島勢という想定外の要因で、全ての算段が吹き飛んでいた。
「若君、こちらを」
呆然としている龍王丸を彦三郎が呼んでいた。
そちらに寄っていけば、福島の兵が数人、死んだ馬の下から一人の武者を引き出している。
「兵庫助、戻らんでも良いものを」
河内、そして駿河へと逃がしたはずの福島兵庫助だった。顔は横を向き、目を閉じていた。
体には縄が巻き付けられていたが、半ばから断ち切られている。
龍王丸が近づいても、兵庫助は動かなかった。
周囲の福島勢も何も言わず、ただその体を馬の下から引き出していた。
龍王丸は目をそらした。見続けていると、体が重くなり、動けなくなりそうな気すらしたのだ。
そうして目をそむけた先で、陣の中に軍配が落ちているのが見えた。
軍配は泥に半ば埋まり、縁に血がついている。
龍王丸は馬を下り、それを拾った。
「五郎殿」
武田兵によって持ち去られようとしている体は、龍王丸にとって、もはや武田五郎信直ではない。
龍王丸にはそんな風に思えた。
むしろ、この手の中にある軍配こそが、五郎の面影を強く伝えてくれる。
その軍配を握っているうちに、心が凪いだ。
五郎と兵をぶつけ合っていた、あの瞬間の精神に戻っていた。
立て続けに起こった想定外、そして疲労で鈍っていた思考がまた回り始める。
龍王丸は荒々しく息を吐き、軍配を退いていく武田勢へ向けた。
「追うぞ」




