3章_10
朝霧の切れ間から、市川筋を北へ進む今川勢が見えた。
穴山の小勢が陣取る丘から見下ろすと、三千の隊列はひどく長い。
先頭が道の曲がりへ差しかかっても、最後尾はまだ南の田畑の間を進んでいる。
槍の穂と旗指物が朝日に濡れ、兵の足が乾ききらぬ土を踏むたび、細い砂煙が上がった。
昨夜、龍王丸から聞かされた通りならば、ここで兵を二つに分ける。
そう思い、目を凝らしたが、列はなかなか割れなかった。
左京進の旗が前へ出たかと思えば引き返し、龍王丸の馬印の周りへ武者が集まる。
伝令が隊列を何度も往復し、南を向く兵と北を向く兵とが一時入り乱れた。
遠目には、下知が行き渡らず揉めているようにも見える。
やはり謀られたか、そんな思いが一瞬、信風の頭をよぎった。
「岡部殿が、今になって異を唱えておるのではございませぬか」
同じように目を凝らしていた外記がこぼす。
「確か岡部殿の職務は軍監。いまさら分断と言われても素直に頷けぬのでしょう」
その見立ては、信風から見ても当たっているように思えた。
確かに、左京進には何も知らせていないと龍王丸は言っていた。
兵を分けることすら、出陣してから告げるつもりらしかった。
ならば、今見えている乱れは芝居ではない。
だが、それは良いが、このままでは隊を分けることすらままならないではないだろうか。
そう心配していると、ほどなく隊列の中ほどが大きく開いた。
二千ほどが岡部の旗のもとへ集まり、向きを変える。
いったんは北へ進む気配を見せた兵が、旗の動きに従って南へ折れ、市川の筋を河内へ戻り始めた。
残る千は動かなかった。
二千が離れても追おうとせず、龍王丸の旗を囲んだまま、川東の丘陵へゆるゆると入っていく。
「本当に分けましたな」
外記の声から、わずかに冗談めいた調子が消えた。
岡部勢はそのまま南へ下った。
途中で止まり、どこかへ隠れる様子もない。
列は少しずつ小さくなり、やがて山の向こうへ消えた。
一方、龍王丸の千は丘陵の陰へ身を寄せた。
身を隠したと言っても、隠れきってはいない。少し高い場所へ物見を上げれば、旗も兵の動きも見える。
武田の物見がもう半里近づけば、龍王丸の所在を見失うことはないだろう。
先日の言葉通り、見つからぬための陣ではなく、見つけてもらうための陣であった。
「殿、あれを」
外記が指さした方向を見ると、丘陵の端に、龍王丸の兵数人が出てきた。
一人が磨いた金物らしきものを掲げ、朝日を受ける。
光が鋭く瞬き、穴山の小勢がいる丘を二度、三度と照らした。
外記が片眉を上げた。
「嫌に親切な御方ですな」
龍王丸はこちらが見ていることまで確かめている。
見ての通りである、武田へ知らせるなら今だと、念を押しているようだった。
信風はしばらく川東の丘陵を見つめた。
「殿、機を逃しますぞ」
「そうだな、参ろう」
そう言いながらも信風は、丘陵から目が離せなかった。
丘陵の陰から、龍王丸の旗の端が見えていた。
「呑気な童よ」
鼻を鳴らし、馬首を返した。そして一直線に武田の陣へと向かった。
当然のことながら、武田の陣に近づくにつれ、空気が重くなる。
すえた血の匂いが溢れ、気分が悪くなった。
ただ兵の数は以前より減っていた。
穴山をはじめ、国人衆のいくつかが兵を引いている。
空いた陣屋も目についたが、残っている者たちはその分だけ殺気立っていた。
武田方の憤懣は一言では言い表せない。
富田を落とせぬ苛立ち。兵糧が減り、国人が離れ、府中まで焼かれた怒り。
兵力差を覆しての大勝利にもかかわらず、未だなおあと一歩が詰められないもどかしさ。
それらが入り交じり、陣中に立ち込めているのだ。
「念のため使者は送っておりますが、不味いかもしれませんな」
外記が少し顔を青くして呟いた。
確かに帷子ぐらいは着てくるべきであったかもしれない。信風は少し首元が冷たくなった。
殺気立った武田勢がいつこちらに槍を向けるかは分からない。向こうにとっては今なお穴山は今川方なのだから。
幸いなことに本陣につくまで刃傷沙汰は起きなかった。
陣門の兵は信風の顔を知っていた。二度、三度睨みつけられたが、取次を呼んできてくれた。
以前よりも明らかに長く待たされた後、奥から板垣駿河守が現れた。
笑ってはいたが、出迎える者の笑みではなかった。
「おお、河内の穴山殿。今川殿の御言葉をお伝えに来てくださったか」
甘利九衛門ではないのかと、信風は少し落胆した。
九衛門と親しいわけではないが、今は話の早い者が望ましかった。
「穴山は甲斐者ですので、そのようなことはいたしませぬ」
「確かに信風殿は甲斐守でございますからな」
駿河守の目が、信風の装束を上から下まで眺めた。
官途を揶揄しているのか、甲斐者を名乗る資格を問うているのか。
その両方であろう。
「御屋形様の前で、そのような名乗りはいたしませぬ」
「その御屋形様というのはいったいどちらの御屋形様でござろう。今川にも屋形号を許された修理大夫殿が居られるが」
益体もない会話に、外記が傍らで深く息を吐いた。
信風がたしなめるより先に、外記は一歩前へ出る。
「ああ、失礼。話が進まぬゆえ。少し」
「確かに、今川殿の御言葉を聞くにあたり、時間をかけるのはようございませんな。この場でお聞きしよう」
駿河守は道を譲らず、その場で両手を広げた。
「御屋形様に直接お伝えしたい」
「今、大変お忙しい。駿河守がお預かりいたしましょう」
信風は駿河守の顔を見た。
後ろでは、武田の兵がこちらを囲み始めている。敵ではない。味方とも扱われていない。
ここで言葉を濁せば、五郎の前へ通されぬまま追い返されるだろう。
それにこれ以上時間をかけては、穴山も機を逃しかねない。
では、と少し息を吸い、信風は陣中に聞こえるように声を張り上げた。
「今川の龍王丸、これが千の軍勢を率いて、ここから半日の場所で陣取っております。御屋形様を待ち受ける動きと」
駿河守の笑みが消えた。
「は、今なんと」
信風はさらに大きな声で言った。いっそ、富田城にまで届いてしまえと毒づきながら言った。
「府中を強襲せしめた今川龍王丸。目と鼻の先に千の兵とともに、呑気に陣取っておりまする」
ざわめきが広がった。駿河守とその配下の兵だけではない、陣中で徐々に困惑が広がっている。
駿河守は信風へ詰め寄った。
「いや、待て。それは」
「たわけ。聞き直さずともよい、聞こえた」
奥から声が飛んだ。
ざわめきが一度に静まった。
陣幕をかき分けながら現れたのは、他でもない甲斐守護、武田五郎信直である。
供を従えてはいたが、まだ具足姿ではない。陣中にいた誰もが即座に道を開け、頭を下げた。
信風も膝をつく。
「これは御屋形様。御機嫌麗しゅうございます」
「さて、先ほどまでは平静であったが、ここからどうなるかはそなた次第だ」
五郎は近くに置かれていた床几を退けさせ、自ら地へどんと座った。
信風も向かいへ進み、同じように腰を下ろす。
五郎の両脇には駿河守と甘利九衛門が立った。
少し離れて武田の諸将も集まり始めている。穴山信風が何を売りに来たのか、誰もが聞こうとしていた。
五郎はそれらを興味なさげに眺めた後、こちらに視線を向けた。
「して、まことか。言葉を飾るな。率直に言え」
「まことにございます。龍王丸は千ほどの兵とともに、釜無川の東、その丘陵に身を隠しておりまする。
いえ、隠れているというより陣取っておりまする」
五郎は信風の目を見たまま問うた。
「で、龍王丸は兵をどれだけ伏せた。二千ぐらい出せよう」
「おりませぬ」
「武田ではないのだ、兵に逃げられるような愚はなかろう。ここまで来たのだ。正直に申せ」
「おらぬものはおりませぬ。岡部何某に率いさせた二千を陽動として、府中方面に向かわせておりました。
ですが、今はもう河内の山に引っ込みました。今からすぐに龍王丸へ向かえば、間に合いますまい」
五郎は鼻で笑った。
「岡部の兵が、山の向こうで止まっておるやもしれぬ。のこのこ兵を向かわせれば、挟まれような」
「物見を出し、数刻では戻らぬところまで見届けました。龍王丸の近くも改めさせております。千より増える様子はございませぬ」
五郎の顔から表情が消える。
「うまい話だ。よだれが出る。で、そなたはこれを言って何を得る」
信風は額を下げた。
「御屋形様の御容赦を」
「今川からだ。馬鹿者」
周囲から小さな笑いが漏れた。
すぐに消えたが、信風の耳には残った。
顔を上げると、やはり五郎は無表情のままだ。
「何もありませぬ。ただ龍王丸は御屋形様にこれを伝えよ。福島何某よりも、こちらの首の方が見栄えが良かろうと」
五郎の目が細くなった。
その場にいる者の視線が、すべて信風へ集まった。
龍王丸の言葉をそのまま告げたつもりだったが、口に出してみると異様であった。
自分の首を餌として掲げ、それを敵へ知らせさせる。名門の嫡男がすることではない。
五郎は黙ったまま、右手の指で膝を叩き始めた。
一度。二度。三度。
それから笑みを浮かべた。
乗った。信風はそう思った。
「御屋形様、罠ですぞ」
だが、駿河守が耐えきれず口を挟んだ。
「千のみを晒し、穴山を使って我らを誘い出す。岡部の二千も、どこかで引き返す算段にございましょう」
五郎は答えなかった。
視線を駿河守へ向けることすらせず、甘利九衛門を呼んだ。
「九衛門、龍王丸をどう見た。品行方正か。蟄居され見放されたというのは、まことの話か」
九衛門はすぐには答えなかった。
河内で龍王丸と言葉を交わした時を思い返しているらしい。慎重に口を開く。
「某には一瞥でつかみ切れませぬ。されど、まず名門の御曹司としては、しっくりこぬ方かと」
「しっくりこぬとは」
「話した内容がどうこうというより、あまり勿体ぶらぬ方に見えました。迂遠に見えて存外率直。率直に過ぎる方かと」
「馬鹿正直ということか」
九衛門が首をひねった。五郎の表現が腑に落ちないようである。
確かに、馬鹿正直というわけでもない。腹を隠すこともする。脅しもする。
ただ、なんというか。
「読み切れぬ男か」
五郎がぼそりと言い、九衛門もようやく頷いた。
今度は五郎が考え込んだ。
信風の話を信じているのか。罠を疑っているのか。
龍王丸の首を取った後を考えているのか。とんと信風には分からない。
ただ、血なまぐさい陣中にひりつくような緊張感だけが高まっていく。
そして、そのうちに五郎は頭を上げた。その目には迷いがなかった。
「軍を出す。龍王丸をぶつける」
駿河守が声を上げた。
「御屋形様、おやめください。富田城はもう落ちまする。ここで軍を分けるなど」
「分けん。使える軍をほぼすべてで行く。ここに残すのは、福島が介入せぬように見張る少数の兵と国人衆らだ」
「いけませぬ」
駿河守の悲鳴のような制止。
だが、五郎は笑って首を振る。
「いかぬのは、これ以上軍を保つことよ」
五郎は駿河守を睨みつけた。
「あと幾日持つ。兵庫助が死ぬまで持つか。再度府中が燃えても持つか」
駿河守は口を開いたが、声が出なかった。
五郎は誰に聞かせるわけでもなく、膝を叩きながら言う。
「今なお富田は落ちていない。包囲に加わる国人は減り、兵糧も減っているな」
ぱしりと、ひと際大きな音が膝から響く。
「今川勢は河内に健在で、龍王丸は一度府中へ入り、また同じことができると示している」
ここからさらに士気が落ちた場合、軍勢を保つことは難しい。
五郎の言い分はこうだった。
「今、龍王丸を虜とすること。これがもっとも早く済む」
「されど、龍王丸を追えば、福島勢が城を出まする」
「出させよ」
これは信風にとって意外だった。
今川方に勝った証であり、今後交渉を有利にするための札である。
これを手放さんとしたため、軍勢をここに貼り付けることになったのだ。
「御屋形様、挟撃の恐れもございます。一切の備えなく前に出るというのはいささか」
さしもの九衛門もこれには難色を示している。
しかし、五郎の腹はすでに決まっているようだった。
「今の福島にどれだけの気力があろうか。まず南へ逃れるので精いっぱいだろうよ」
「ではこれを見張る兵を置くべきかと」
五郎は冷めた目で九衛門を見たが、そこに異論はないようだった。
「良かろう。南へ逃れるか、東へ追ってくるか。どちらの道にも見張りをつける。無論、城へ籠もり続けるなら、それでもよい」
五郎は立ち上がった。手早く鎧をつけさせ、出陣の準備を始めている。
駿河守はちらりと信風らを見た後、五郎の前に立ちふさがった。
「せめて物見をお出しください。穴山のみでは」
五郎は信風を一瞥した。
「単身来て嘘もなかろうが、良かろう。直ぐに出す。ただ軍勢の準備も進める。報せが戻ってから支度を始めては遅い」
そこから陣の空気が変わった。
命令が飛び、兵が走る。
繋がれていた馬が次々に引き出され、具足を着けていなかった者は陣屋へ駆け戻った。
槍が束から外され、旗が広げられる。
物見が出るより先に、軍勢は動き始めていた。
穴山の報せが偽りであれば止めればよい。
誠であれば、そのまま龍王丸へ向かう。五郎の腹はすでに、そのつもりであるらしかった。
信風はそこに留め置かれたまま立ち上がらず、陣の変化を見ていた。
自分が一言告げたことで、これだけの兵が動く。
川東の丘陵で待っている龍王丸は、この光景まで見通していたのだろうか。
外記が信風の後ろへ寄った。
「我らは、どういたします」
「ここまで来た。今さら帰れば、どちらからも疑われる」
「では、五郎殿とともに」
信風は答えなかった。おそらく外記も聞いただけだろう。
龍王丸は、穴山に武田へ知らせよとは言った。だが戦へ加われとは言っていない。
おそらく五郎らも旗色明らかでないものをこの乾坤一擲の合戦には加えまい。
だが、武田の軍が動いた後、穴山だけが河内へ帰ればどう見られるか。
それも考えてのことなら、あの若者はずいぶんと性質が悪い。
しばしの後、物見が戻った。
馬から飛び降りるより先に声を上げる。
「今川勢、千ほど。龍王丸の旗もございます。川東の丘陵にて、動く気配はございませぬ」
「岡部の兵は、伏兵は」
五郎が満面の、獣のような笑みを浮かべながら問うた。
吼えるような問いかけであった。
物見は面食らったものの、しっかりと返す。
「岡部は南へ退いております。すでに山の向こうへ入り、すぐには戻れませぬ。伏兵も見当たりませぬ」
五郎は最後まで聞くと、即座に馬を引かせた。
「出るぞ」
五郎は笑みを浮かべたまま、軍勢を率いて富田の陣を発った。
富田城の見張りにと残されたのは、城の出入りを見張るわずかな直轄兵と、福島勢が市川筋へ出ぬよう見張る国人衆らだけだった。
駿河守、九衛門ら重臣の再三の制止にもかかわらず、陣中の大半は五郎とともに動いた。
槍が並び、旗が起こり、馬蹄が土を打つ。
先ほどまで富田へ向けられていた軍勢が、今度は一斉に川東の丘陵へ向きを変える。
その先には、千の兵を率いた龍王丸が待っていた。
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福島弥四郎は富田城の城壁から、急に静まり返った武田方の陣を見下ろしていた。
富田城に籠ってからの日課であるが、本日はどうにも様子がおかしかった。
いつもの武田勢はこの時間帯になると、富田城の外壁に寄り、罵詈雑言でたたき起こしてくる。
それが本日に限っては一切ない。
それどころか、先ほどまで林立していた旗の多くが消え、陣屋の間を行き交う兵もほとんど見えない。
城門の正面と市川筋へ続く道には人影が残っていたが、囲みは明らかに薄くなっている。
「何かの誘いか」
弥四郎は眉根を寄せた。
武田勢の内情が苦しいのは、弥四郎らには周知のことである。
必死に隠そうとしているが、それでも密使により府中が燃えたこと、甲府が混乱の渦の中にあることは伝わっている。
それゆえに奇策で城を落とそうとすることは十分に考えられた。
「弥四郎様、これは」
福島の家臣が外を見て訝しげに言った。
弥四郎は答えない。
誘いである、武田は何もせずとも崩れる。
そう言いたいが、それを言えるほど富田城も安泰ではない。
福島勢ではない今川の兵らは疲弊の極みにある。
山と積まれていたはずの兵糧も徐々に減っている。水の手のいくつかが潰されている。
そして頼りにしていた古参の福島家臣らが戦傷で、次々起き上がれなくなっている。
あれだけ豪壮であった叔父、兵庫助も明らかに良くない。
叔父自身、自分の体調を気にしてか、武田の切腹案すら飲もうとする始末である。
弥四郎にとっては、到底受け入れられない。
富田の城を保ち、若君が甲府まで兵を入れた以上、戦はまだ五分五分なのだ。
腹など切ればそれこそ、敗軍の将ではないか。そんな思いがある。
ただそんな気炎を上げているのは、弥四郎ら福島の若い家臣団だけだ。
一方で徐々に富田城に兵庫助切腹を求める声が出始めている。
富田城は近く落ちる。
そんな予感が、弥四郎の足元にせり上がっているのも否定できなかった。
そのような中にあって、降って湧いた武田の退きである。
飛びつきたい気持ちは否定できない。だがまだ疑う気持ちが強かった。
「先の若君の文の通りであれば、これはまさしくでは」
「言うな」
弥四郎は腕を組んで唸る。
確かに、龍王丸からの文は、これまでに何度か届いていた。
内容は、武田勢に届いても問題がないものである。
武田の主力が富田を離れたなら、すぐに城を出て河内へ走れ。
それだけである。
そういえば、と弥四郎は先日の文は様子が違ったことを思い出した。
先日の文にはただ、早く逃げろ。長く持たない。とだけあった。
その時は武田勢の小細工である、と笑った。
だが今はそれが妙に引っ掛かる。
弥四郎は文を思い出しながら、静まり返った武田の陣を見た。
機である。
そう弥四郎の勘が訴えている。
以前の弥四郎ならば、すぐにこの勘働きを叔父に訴えた。
だが、今はその自信がない。岩間の敗北で完全にへし折れている。
それに、仮に出るとして、何から動かすべきか。
負傷者から運べば、戦える兵を護衛に取られる。
先に兵を出せば、動けぬ者を城内へ残すことになる。
以前の失敗から、どう動くかすらも決断ができなくなっている。
懊悩の中、決めかねていると、背後から掠れた声がした。
「どうした。武田の陣から音がせぬ」
振り返ると、叔父、兵庫助が目を開けていた。
熱に浮かされ、先ほどまで呼び掛けにも応じなかった。
顔色は悪く、起き上がる力も残っていない。それでも目だけはこちらを見ていた。
「それが、どうにも」
弥四郎が言葉を濁すと、兵庫助の眉が動いた。
「申せ。次は起きぬぞ」
弥四郎は枕元へ膝を寄せた。
ただ率直に、武田の主力が陣を離れたこと。龍王丸から、囲みが薄くなれば河内へ走れとの文が来ていたこと。
そして昨夜、早く逃げろ、長く持たないとの奇妙な投げ文が投げられたことを伝えた。
兵庫助は目を閉じたまま聞いていた。
「若君だな。型破りな動き方はそうだ」
それを呟くと、兵庫助はしばらく黙った。
弥四郎は返事を待ったが、呼吸が浅くなるばかりで、また眠ったのかとも思えた。
「いかがいたします、叔父上」
兵庫助が薄く目を開けた。
「戦えぬ兵など、邪魔だ。下げろ」
弥四郎は叔父の顔を見た。
「すべてはそれからだ」
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釜無川東側の丘陵に、冷たい風が吹き抜けていた。
雨上がりの湿気を孕んだ風が、今川の二つ引両の旗を重く揺らす。
龍王丸は馬上にあり、眼下の平野へ視線を据えていた。
背後では千に満たない今川の兵が、丘の斜面に沿って陣を構えている。
左京進が率いる二千の兵は、すでに河内へ下る山道へ消えて久しい。
今、この丘陵に残るのは、龍王丸が直轄する兵と少数の遠江衆のみであった。
幸いなことに、直轄兵も遠江衆も士気が高い。
直轄兵は今川本家に縁故のある者で固められ、遠江衆は御料の縁で呼び寄せた者らである。
それゆえにこのような場に連れてきてしまったことに、嫌気がさした。
やがて、北の街道筋に土煙が上がった。
初めは数騎の物見である。丘陵に陣取る今川勢の姿を認めると、近づこうともせず馬首を返し、本隊へ駆け戻っていった。
それから半刻も経たぬうちに、平野の奥から次々と旗指物が姿を現した。
先手の旗だけではない。
板垣、甘利といった武田の重臣たちを示す旗が、雨上がりの泥道を埋めるように進んでくる。
その中央には、一際高く掲げられた馬印があった。
武田五郎信直の本隊である。
「随分と多いな」
傍らに控える天野宮内が、顎を撫でながら低く唸った。
「富田の囲みを少し薄くした程度ではございませぬな。動かせる主力のほぼすべてを引き連れてきたと見えまする」
龍王丸も目を細めた。
「龍王丸の首、そこまでの値はなかろうが、高く買ってもらってなによりだ」
軽口を言いながら胸をなでおろした。そしてそれと同時に少し誇らしさも感じた。
あの若き虎は、千の兵を率いて残った龍王丸を侮らなかったのだ。
これだけの軍勢を動かせば、富田の囲みが薄くなることも、福島勢へ逃げ道を与えることも承知しているはずである。
それでも来た。来てくれた。
龍王丸は五郎に奇妙な感謝すら覚えていた。
武田勢は丘陵の手前で進軍を止めた。
鬨の声を上げ、そのまま斜面へ押し寄せてくる様子はない。
大軍を左右へ広げながら、数組の物見を丘陵の裾や、市川筋へ続く道へ走らせている。
今川の兵数、旗の位置、丘の裏へ続く道。
伏兵がいないことまで確かめてから攻めるつもりであろう。
千に満たない兵を前にしても、五郎は急がなかった。数に任せて攻めれば勝てる。
それでも龍王丸を逃がすわずかな隙さえ残さぬよう、先に退路まで調べている。
宮内が感心したような声を上げた。
「正面からは来ませぬな」
「来る必要がなかろう。左右から包めば済む話だ」
「いかがなされます」
龍王丸は、武田勢の旗が左右へ広がっていく様子を見渡した。
このまま待てば、両側から包まれる。
かといって兵を左右へ分ければ、ただでさえ少ない兵がさらに薄くなる。
ならば、五郎に攻める場所を選ばせればよい。
「右を厚く見せよ。左は薄く置け。中央の兵は動かすな」
命が伝わると、今川の旗が右翼へ寄せられた。
兵そのものをすべて右へ送ったわけではない。
斜面の窪みには中央の兵を伏せ、遠目には右翼ばかりを固めたように装ったのである。
左を攻めれば崩せる。
そう五郎に思わせるための陣替えだった。
支度が終わるか終わらないかで、武田勢が動いた。
正面には小勢を残し、龍王丸の兵を丘の上へ縛りつける。
厚く見える今川の右翼へは慎重に兵を進める一方、手薄な左翼へ向かって一隊が速度を上げた。
「左、来ます」
物見の報告が飛んだ。
「引き込め」
左翼の今川勢は槍を合わせず、斜面を上りながら少しずつ後退した。
武田勢は追った。
左翼を破れば、そのまま丘の上へ回り込み、龍王丸の旗を側面から突ける。
そう見たらしく、先を争うように斜面を駆け上がってくる。
先頭が斜面の中ほどを越えた。
急いで登ったため、後ろの兵との間が開いている。
龍王丸が待っていたのは、そこだった。
「今。右寄りの兵を左へ回せ。中央もぶつけろ」
斜面の窪みに身を伏せていた兵が、一斉に立ち上がった。
右翼を厚く見せるため中央寄りに置かれていた一隊も、左へ向かう。退いていた左翼の兵が足を止め、反転した。
前からは退いていた今川勢。横からは中央と右翼寄りの兵。
三方から槍を突き入れられ、深く入り込んでいた武田勢の先頭が崩れた。
後ろの兵はまだ斜面の下にいる。
助けが入る前に今川勢が側面から押し込み、武田の旗が丘を下り始めた。
「追うな」
勢いづいて斜面を下ろうとする味方を、龍王丸は制した。
「列を戻せ。丘から下りるな」
武田の一隊を押し返した。
だが、丘陵の下に広がる本隊は動いていない。
五郎は崩れた兵を助けようとも、すぐに次の兵を差し向けようともしなかった。
ただ、斜面を下りてくる味方と、それを追わず元の陣へ戻る今川勢を眺めている。
龍王丸は眉を寄せた。
五郎にとって、先ほどの一隊は勝敗を決める兵ではなかったのだろう。
手薄な左を見せた時、龍王丸がどこから兵を動かすか。
それを確かめるために、まず一手を出したにすぎない。
「なるほど、な」
やはり五郎の用兵には感嘆を覚える。
如何なる状況でも焦らず、相手を学び適切に手を打つ。
龍王丸は今まで頭に叩き込んいただけの軍学の知識、バラバラのそれらが一本の線になる感覚すら覚えていた。
こうやればいい、と良い手本を見せられているようだった。
「のぼせている場合ではござらんぞ。次、動きますぞ」
宮内の言葉で現実に引き戻される。
見れば、押し戻された武田の部隊がさらに後退を始めていた。
先ほどよりも大きく下がっていく。
足並みは乱れ、傾いた旗を立て直そうとする者もいない。
斜面を下りて追えば、さらに崩せそうに見えた。
今川の陣がざわついた。
「追えば崩せまする」
若い将が前へ出て進言した。
「崩せぬよ」
龍王丸は首を振り、退く武田勢ではなく、その左右を見た。
どちらにも、先ほどから動いていない旗がある。
追撃に出た今川勢を、左右から挟むための兵である。
兵は今川勢へ正面を向け、槍も伏せていない。
退いてくる味方を助けようともせず、今川の兵が丘を下りてくるのを待っていた。
もし今川勢が追撃に出れば、左右の兵が動き、丘の下で挟み込む。五郎の狙いはそれだろう。
「止まれ」
号令をかけると、追撃に出ようとした兵の足が止まった。
龍王丸は斜面の下を見ながら、逡巡した。
罠と分かっているからといって、ただ見送れば、五郎は兵を無傷で立て直す。
そのまま次の攻めに使われるだけである。
ではどうするか。
答え。罠だけを動かせばよい。
「前へ五十。追うように見せよ。左右の旗が動けば戻れ」
「弓方は」
「戻る兵の頭越しに射よ」
五十の今川兵が声を上げ、斜面を下り始めた。
退く武田勢、餌であった者らの背へ迫る。
すると、想定通り、それまで動かなかった左右の旗が前へ傾いた。
兵が槍を起こし、今川の五十を挟もうと走り出す。
「今、戻れ」
五十の今川兵が反転した。
斜面を駆け下りた勢いは、すぐには殺せない。
数人が泥に足を取られて転び、最後尾の兵が武田勢に追いつかれた。
それでも大半は丘へ駆け戻る。
「矢」
短く言うと、側付きの者が大声で命じる。
「射かけよ、射かけよ」
号令を受けた弓手が矢を放った。
追ってきた武田勢が斜面へ取りついたところへ、矢が上から降り注ぐ。
武田勢は盾を構える暇もない。
先頭の兵が倒れ、後ろの者がそれにつまずく。
追撃に出た兵が押し合い、斜面の中ほどで足を止めた。
「休まず二射目」
そこへ今川の二射目が降り注いだ。
結局、武田勢は最初の数人の今川兵を討ち取ったものの、それ以上は追えず、再び丘の下へ退いた。
今川の陣から歓声が上がった。
一度目は、左へ深く入った兵を包んで返した。
二度目は、追撃を誘う罠を逆に動かし、矢を浴びせた。
二度続けて武田勢を押し返したのである。
あの武田五郎を二度も防いだことに陣が湧いていた。
龍王丸も歓声を止めなかった。
ただ、自ら声を合わせることもなかった。
龍王丸は五郎の次の一手がどう動くか、それだけに目を見開き、耳を澄ませていた。
そしてすぐに丘陵の下では、退いた兵に代わって新たな旗が前へ出ている。
二度返された五郎は、そこで攻め方を変えたようだった。
一か所を狙えば、龍王丸は兵を集めて押し返す。
一つの罠を仕掛けても、動きを見て見抜く。
ではどうするか。
一度に幾つもの場所を攻めればよい。
それが五郎の答えのようだった。
今川の陣の正面では、盾を並べた武田勢が歩調を揃えて丘を登り始めた。
今川の右翼には武田の旗が寄り、その後ろから多くの兵が斜面へ取りつく。
反対側の左翼では別の武田勢が間を置かず攻めかかり、市川筋へ続く道にも別の旗が回り始めた。
「御料様、やつら味方の頭越しに矢を放っております」
正面の武田勢の後ろからは、矢が山なりを描いて飛んできている。
器用なものだと感心してはいられない。
狙われたのは陣の前列ではなかった。
矢は龍王丸の馬印の周囲へ集まっている。
龍王丸本人を射るだけでなく、護衛や伝令を倒し、命令が届かなくなることを狙っているようだった。
「盾」
短く言う。
「盾持ち、ならべっ」
護衛が素早く動き、龍王丸の前へ駆け寄った。
矢が盾を叩き、馬が首を振る。
旗持ちの一人が肩を射抜かれて膝をつき、別の者が倒れかけた馬印を支えた。
「右が保ちませぬっ」
伝令が転がるように駆け込んできた。
右の武田勢は兵を惜しまず斜面へ押し上げ、今川の右翼を後ろへ追い立てている。
龍王丸がそちらへ兵を送ろうとした時、反対側からも伝令が走ってきた。
「左へ援兵を、武田勢が取りつきましたっ」
なるほど、正面、左右を一気に攻め立てて来た。
今から横道、市川筋へ回って逃げようにも、そちらも武田の旗が並んでいる。
一つ一つならば、防ぐことはできる。
だが、千に満たない兵ですべてを守ることはできない。
右翼へ兵を送れば左翼が薄くなり、左翼を助ければ正面を支える兵が減る。
龍王丸が一つの危機へ正しく応じるたび、別の場所が危うくなる。
必死に逃れても、王手がかかり続ける感覚である。
龍王丸の胸にまたも驚きと、興味が湧いた。
もしこれが人死にのない遊戯であれば、延々と五郎殿と遊んでいたいと思えるほどだった。
だがこれは自分以外の命もかかっている。
驚いてばかりもいられない。
龍王丸は右翼を見た。
武田勢が斜面へ食い込み、今川勢は押されながらも、まだ列を保っている。
もう百を加えれば、しばらくは支えられるだろう。
「御料様、右翼に百送り込みますか」
宮内の進言に、龍王丸は即答しない。
その百は最後の予備である。
右翼へ送れば、中央には何も残らない。
命を惜しんではいないが、次の一手をしのげなくなりうる。それが怖い。
正面を見れば武田勢は、盾を並べたまま歩みを緩めていた。
今川の中央へすぐに攻めかかろうとはせず、龍王丸が予備をどこへ送るか見ている。
おそらく、予備兵を使い、右翼を助ければ、中央から来る。
予備兵を中央に残せば、武田勢が右翼を破る。
どっちつかずに両方を守ろうと半分ずつ送れば、どちらでも押し切られる。
五郎は、龍王丸に最後の兵を分けさせようとしていた。
なるほど。岩間でもそうであったが、兵の分割狙いは有用なのだな。
と一つ学びながらも、龍王丸は右翼から目を離した。
「右を捨てよ」
宮内が聞き返した。
「は」
「右の兵を下げろ。陣の三分の一を明け渡せ」
「右の武田勢が入り込みまするぞ」
「入れさせよ。下げた兵は中央へ集める」
兵を分けたところで、すべてを守ることはできない。
ならば、守る場所を増やすのではなく、捨てる場所を一つに決める。
右翼の土地は渡す。その代わり、そこにいる兵を失わず中央へ戻す。
五郎が散らそうとする兵を、逆に一か所へ集めるための命だった。
宮内は一瞬迷ったが、龍王丸の顔を見て伝令を呼んだ。
右翼の今川勢が、戦いながら後退を始めた。
抵抗が急に弱まったため、右の武田勢が斜面を駆け上がる。
今川の一翼を崩したと見て、後ろの兵も次々と空いた場所へ入り込んできた。
だが、右翼の今川兵は潰走したのではない。
丘の内側を通り、中央へ向かっていた。
龍王丸の旗周りに残っていた最後の予備も、その列へ加わる。
「押せ」
短い命令とともに、中央の今川勢が前へ出た。
正面の武田勢は、龍王丸が右翼を助けるために予備を送ると見ていたのだろう。
薄くなるはずだった今川の中央へ、右翼から退いた兵が一斉に加わった。
盾を押し込み、その隙間へ槍を突き入れる。
斜面の上から予想を超える数で押された正面の武田勢の列が、大きくたわんだ。
前列の一部が倒れ、その後ろの兵が足を止める。
旗が乱れ、列を立て直そうと前へ出た武者が今川の槍に囲まれた。
「押せ、ここだ」
短く命じる。
「押せ、押せ、押せっ。正面を押せっ」
号令がかかり、正面の今川勢が攻勢に出て、武田の正面が斜面を下り始めた。
三度目の押し返しだった。
今川勢から歓声が上がる。
だが、やはり龍王丸は勝鬨を上げさせなかった。
「右、取られたな」
「致し方ありますまい。切り替えますぞ」
正面を押し返すため、右翼の斜面を明け渡している。
そして、その右翼を奪った武田勢が、奪った斜面から向きを変えた。
中央へ集まった今川勢の横腹へ、槍先を揃えて近づいてくる。
「五郎殿はこれが狙いか」
五郎は先ほど、中央の兵が押されても動かなかった。
龍王丸がどう動いても損がないと見ていたのだろう。
その読みは正しかった。
龍王丸が中央へ兵を集めたことで、右の武田勢が側面から攻められるようになった。
確かに龍王丸は、正面の攻めを破った。
だが、破るために右翼を捨てさせられた。
中央で武田勢を押し返した今川兵も、今度は右から突かれれば、その場にはいられない。
中央の兵は戦いながら南へ下がり始めた。
振り返れば市川筋へ回っていた武田の旗も、龍王丸の退路を脅かす位置まで進んでいる。
「御料様、武田の旗が」
宮内が苦々しく言った。
「見えている。ここまでか」
龍王丸も武田の旗が迫るのを視界に収めていた。
そして、先ほどのやり取りを噛みしめてもいた。
確かに、一度目の攻めは返した。二度目の誘いも見抜いた。
また、三度目には右翼を捨て、正面を押し戻した。
個々の攻めでは、龍王丸が五郎を上回っている。
では龍王丸の用兵は、五郎に勝るのか。
決してそんなことはない。
実際、今川勢は、最初に陣取った丘の半ばを失い、市川筋へ向かって押し下げられている。
おそらく五郎は、目の前の一度の勝ち負けにこだわってはいないのだろう。
一か所で押し返されれば、別の場所を取る。
その繰り返しで今川勢を南へ動かし、龍王丸の旗を逃げ道のない場所へ追い込もうとしていた。
当初にこう動かしてやろう、と目標を立て、そのために兵の動きを逆算していく。
その計算に狂いがないように、相手を確かめ、自軍を確かめ、調整し、追い込むのだ。
「いまさらだが、もう少し学んでからやるべきだったな」
龍王丸は自嘲しながら、市川筋へ回る武田の旗を見つめた。
手元に残る予備は、もう数十にも満たない。
「退路の確保を急がせよ」




