3章_9
八郎の死を知った翌日、龍王丸は武田五郎へ和議を申し入れた。
和議の内容は左京進、彦三郎とも合議の上以下とした。
一つ、富田城を明け渡し、福島勢と今川勢は甲斐から退く。
二つ、武田はその退路を妨げず、穴山をはじめ、富田から兵を引いた家々についても此度のことは問わない。
三つ、府中や国人領で焼いた村々には、今川から米と塩を入れる。
五郎がすべてを呑むとは考えていなかった。
それでも、聞く耳を持たない、そんな状況ではないとも見ていた。
事実、富田を囲む兵は日を追うごとに減っている。
自領へ戻った者が再び陣へ加わったとの報せはなく、届けも出さぬまま姿を消す兵まで出始めた。
包囲はまだ保たれているが、さらに時を費やせば、五郎が解くより先に形を失う。
また府中を焼かれた以上、富田だけを見ているわけにもいかない。
八郎の死まで広まれば、甲斐衆の不満が兵の引き上げだけで済むとも限らなかった。
一方で、河内には米も塩も届いているが、富田の福島勢には余裕がない。
兵は傷み、兵庫助も重傷を負ったままである。五郎の陣が崩れるのを待つうちに、城内が先に力を失えば意味がなかった。
つまり、今川、武田、双方ともに時間を敵に回している。
だが今ならば、五郎は今川から条件を取って兵を収めたと称することができる。
龍王丸も、福島勢が持ちこたえているうちに城から出せる。
ゆえに互いに、話をするなら今しかない。そこまで状況を整理することができた。
そしてまた、和議の使者を送り出した翌日、仲介に立つ寺僧が河内へ戻った。
正式な返答ではない。
武田家中の感触を、先に伝えに来たものだった。
寺僧の話では、富田を明け渡すだけでは収まらぬとの声が強いという。
城を受け取るならば、籠城方の大将が腹を切り、その首を武田へ渡すことまで求められるだろうとのことだった。
予想できぬ条件ではなかった。
穴山を許し、富田から兵を引いた家々も許し、福島勢までそのまま帰せば、最後まで五郎の下に残った者へ示せるものがない。
だが、その条件を兵庫助が受け入れたとしても、福島勢が従うとは限らなかった。
龍王丸は武田方の正式な返答を待つ間に、今度は富田へ密かに人を送った。
返事は早かった。
兵庫助は、己の首一つで残る者が帰れるなら異存はないという。
丁寧に援軍の礼、自分の不覚のため面倒をかけたことへの詫びを病床で述べたらしい。
だが、切腹はならなかった。兵庫助の甥である弥四郎が中心となり、これを拒んだのだ。
弥四郎らは密使に対し以下のように言い放ったという。
兵庫助が腹を切るなら城は明けない。主の首を武田へ渡し、自分たちだけ駿河へ帰ることはできない。
いよいよとなれば城を出て、最後の一戦をする。
これを受けて、龍王丸は少し頭を抱えた。
兵庫助本人が承知しても、家中が城を明けぬのであれば意味はない。
それでは首を渡したうえで、残る福島勢まで失うことになる。
そんな悩みを抱えているうちに、一日経過し、武田方の正式な返答を携えた使者が河内に入った。
使者の名は甘利九衛門。武田五郎信虎の側近である。
甘利が自ら来たと聞き、龍王丸は承菊と左京進、穴山らを同席させた。
探りだけなら、ここまでの者を寄越す必要はない。
少なくとも、返書だけを置いて帰るつもりはないと見ていた。
河内の寺にやってきた九衛門は仲介の僧を一人伴っていた。
具足は着けていなかったが、太刀を預けることもなく、そのまま座へ進んだ。
「甘利九衛門と申しまする。この度は場を設けていただき、ありがたく存じ上げまする」
「今川龍王丸だ。戦の最中ゆえ友誼を深めるのは、終わってからでよかろう」
九衛門は一度頭を下げ、懐から書状を取り出した。
「では、先に頂いた条々について、御屋形様の御返答を申し上げまする」
場が改まった。
「一つ、富田の城を武田へ明け渡し、福島勢が甲斐を退くこと。二つ、今川勢も河内より引き揚げること。
この二つが果たされるならば、退く兵を追うことはいたしませぬ」
その二点については、双方異論はないと龍王丸は見ていた。
九衛門は書状へ目を落とすことなく続ける。
「三つ、穴山をはじめ、富田より兵を引いた家々についても、此度に限って沙汰は止める。ただし焼いた土地の立て直しに要する米、塩、銭は、今川より出していただく。以上については、御屋形様にも異存はないとの仰せにございます」
同席していた穴山信風、並びに外記が伏せていた目を上げた。
それだけで、声を出すことはなかった。
ここまでで龍王丸が提示した条件は、ほぼ想定通りの形で通っている。
穴山だけではなく、陣を離れた国人衆までまとめて不問にするという点もずれていない。武田は懐を痛めることなく、国人衆に恩を売り、首輪をつけられる以上、過酷に扱うことはないと見ていた。
龍王丸は小さく息を吐きながら、頷いて見せた。
「復旧に出す物は、すでに河内へ入れてある。足りぬ分も後から送ろう」
「その旨、御屋形様へ申し伝えまする」
甲府で燃やした分について、一冬を超す分はすでに荷を流せる用意が済んでいる。
修繕、および生活が一息つくまでにかかる分の米や塩については、追々用意することもできる。
いっそ、最初からこれらを武田に差し出せばとも思わなくはない。だがそうなると今度は今川側の顔が立たない。
だが、少なくとも約束の荷を渡し終えるまでの数年、甲斐と駿河の間は落ち着くのだ。
そう考えれば全くの無駄ともいえないだろう。
そこまでの話が終わり、付き添いの僧や穴山が一息ついた。
だが、九衛門は書状を畳まなかった。今川方の立ち合い役も気を緩めない。
龍王丸は続きを待った。
「ただし、富田を明けるにあたり、一つお受けいただきたいことがございまする」
「申せ」
「福島兵庫助殿には、腹を召していただきまする」
予想していた言葉だった。事前の打診も受けている。
それでも言葉にされると、聊か頭が重くなるのを感じた。
龍王丸は目を細め、九衛門を見返した。九衛門は微動だにせず、淡々と続けた。
「御首をもって、富田の城を受け取る。御屋形様は、そのように仰せにございます」
龍王丸が思うに、五郎はさほど兵庫助の命に重きを置いていない。
ただ五郎が欲しているのは、富田を攻め続けた末に大将を討ち、城を取り戻したと示せる証であると見ていた。
ならば、まだ天秤を揺らすことはできると、龍王丸は口を開いた。
「城内の旗、武具、馬を置いていこう」
龍王丸が言うと、九衛門の眉がわずかに動いた。
「城門を開き、武田の者が内を改めてから兵を出す。富田は五郎殿が受け取ったものと、誰の目にも分かる形にする」
九衛門は黙って聞いている。
ここで出し惜しみはすまいと、さらに踏み込んだ。
「焼いた土地へ出す米と塩は、先に伝えたより厚くしよう。銭も出す。この先、甲斐へ入れる塩を止めぬ。値も急には動かさぬ。それで兵庫助の首に代えられぬか」
穴山信風と外記が龍王丸を見た。
部屋を静寂が包み、温度が数度下がった気さえする。
九衛門はそんな中、すぐに返事をしなかった。しばらくのち、頷いてから切り出した。
「確かに、甲斐は広く焼かれましたゆえ、米も塩も銭も、いくらあって困るものではございませぬ」
誰かが焼いたから、などとは付け加えない。
だが、言わんとすることはしっかり伝わっていた。
「ありがたく頂きましょう。塩を止めぬとの御約定も、甲斐の者には喜ばれまする」
「ならば」
「されど、それらが村々へ行き渡るのは、これより先のことでございます」
九衛門の姿勢は変わらない。
背筋を伸ばし、敵陣においても落ち着いたものである。
「米俵を積み、塩を運び、家を建て直すには時が掛かる。今日、富田の陣に残る者へ見せられるものではございませぬ。旗、武具などいただいても扱いに困りましょう」
事実である。国人衆らもそこまで単純ではない。
「それに一度離れた甲斐衆を、再び武田の下へつなぎ直さねばなりませぬ。そのためには、今川に施されて戦を終えたのではなく、
武田が富田で勝ち、敵を甲斐より退かせたと、誰の目にも分かるものが要りまする」
「武田は勝ってなどおらぬようだが」
それは誰の呟きであったかは知らない。
「ええ、それゆえに誰が見てもわかる形が欲しゅうございますな。音に聞こえた福島兵庫助殿の首なれば、不足はございませぬ」
だが、九衛門は動じずにそう返して見せた。
やはり、ここで詰まる、と龍王丸は内心で苦みを感じた。
国人衆らと五郎との溝が深まり、五郎の求める勝ち戦の証が大きくなった。
「なるほど道理であるな」
そう言うと左京進の目が鋭くなった。
だがどう思われようと、これ以上は出せるものがなく意味がない。
ここからは手を変える必要がある。
「道理ではあるが、ことがことだ、返答には時をもらう」
龍王丸が告げると、九衛門は一礼した。
「無論、切腹において一席を設けるのも時間を要しましょう。されどあまり時間がございません」
「お互い時間に追われておるようだ」
九衛門はそこで初めて少し面食らったようだった。
この男が、どこで驚くのか龍王丸にはさっぱりわからなかった。
だが、正式な使者ではあるため粗略には扱えない。
「休む場所を用意させる。返答が決まるまで、河内に留まられよ」
そう言って、九衛門と寺僧が退出した。
しばしのち、左京進は閉じられた戸へ目を向けた。
「いかがいたします。切腹はやはり難しゅうございますぞ」
左京進は福島の切腹にはずっと反対している。
やはり、奮戦した大将を見捨てる形になること、今川の負けと見る向きが強くなることに懸念があるようだった。
「兵庫助は納得していても、周囲が固まらない。ここを数日で動かすのは無理だろう」
「いっそ引き延ばしなされれば良いのでは、武田勢が崩壊してから悠々と救援もできましょう」
「で、あるか」
と呟き龍王丸は腕を組んだ。
まだこの者らには伝えていないことがあった。
今朝がた密使による早馬で伝えられた、表沙汰にはなっていないこと。
他でもない兵庫助の容態である。
これが相当悪く、高熱にうなされ日に何度も意識を失っているのだ。
もし、これが没したならば、弥四郎らが自棄になる可能性が高くなる。
いや、龍王丸の見立てでは、まずそうなる。
「首に代わる勝利の証か」
龍王丸は目をつぶったまま、呟いた。
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翌朝、甘利九衛門は河内を発った。
九衛門に持たせた回答は、満額のものではない。
五郎が譲らなかった兵庫助の首は渡せない。
一方で、それ以外の条件に異存はないとした。
今後も和議そのものを捨てるつもりはないため、首に代わるものは今後用意するとだけ答えた。
九衛門は、兵庫助の首に代わるものは何か、説明を求めたが、龍王丸は答えなかった。
ただ返答には今しばらく猶予を求め、帰還を願ったのだ。
「兵を集めよ」
一行が河内を離れたとの報せを受けると、龍王丸は宮内を呼び、兵を選らせた。
率いる兵は三千。先の府中入りに加わった者だけでなく、河内へ合流してきた兵の中からも足の速い者を選ぶよう指定した。
命令が伝わると、寺の境内へ馬や兵糧が集まり、人の出入りがにわかに慌ただしくなった。
数刻後には、寺院近くの陣所に入りきらぬほどの兵が集まった。
境内から居並ぶ兵を見た左京進は、しばらく口を開かなかった。
「また府中へ向かわれるおつもりで」
「いかぬか。和議が成る前に、少しでも武田を焦らせたい」
「焦りはしましょうが、和議の最中に兵を出せば、武田方の態度を硬くするだけではございませぬか。
兵庫助殿の首を、なおさら譲れぬものにいたしましょう」
「兵庫助の首を出せぬ以上、黙って待っていても条件は変わらぬ」
龍王丸は河内から府中へ続く道を記した絵図を広げた。
「五郎殿は、富田を囲み続ければ、いずれこちらが折れると見ている。
その間、武田が失うものを増やさぬ限り、首を下げる理由はない。話を動かすなら、今ここでもう一押しするほかあるまい」
左京進は府中と富田を見比べた。
武田の兵は少なくなっているが、それでもまだ包囲は解けない。
もし、府中を脅かし武田五郎の心をかき乱せば、状況は変わりうる。
その理屈を完全に否定しきれなかったのだろう。左京進は諦めたように息を吐き、絵図の横へ置かれた書付を指で押さえた。
「確かにその向きはあり得ましょう。ただ、三千は多うございませんか。ここは以前と同様の二千とすべきでは」
以前は二千に届かぬ兵で、足の速さだけを重視した身軽な兵で出兵した。
今度の三千は数こそ多いが、その分動きが鈍くなり、捕捉される可能性を高める。
「それも悪くないが、先と同じ焼き働きに見えれば、近くの兵を回して終わる。今度は前より大きな軍勢を入れ、府中へ留まるつもりだと思わせねばならぬ」
龍王丸は府中の辺りを指で押さえた。
「相応の兵を動かさせ、富田の囲みを薄くする。それができなければ、福島勢を城から出せぬ」
左京進の顔に険しさが戻った。
「それは逆に、脅しでは済まなくなるやもしれませぬぞ。数が数であれば、五郎殿自身が兵を率いて参ることもございましょう。若君は武田勢とぶつかるおつもりなのでございますか」
左京進が遠慮のない視線をぶつけてくる。
つまり、あの軍才豊かな五郎に対して勝機はあるのか、そう言っているのだ。
龍王丸は口角を上げた。
「まさかよ。甲斐で幾度も戦をしてきた五郎殿と、正面から戦うほど己惚れてはいない。
無論、富田の兵が動いたと分かれば退く。福島勢が抜けるだけの時を稼げば、それで足りる」
「逃げ切れましょうか。三千の兵であれば、足が遅くなりましょう」
同じことを違う角度から問われる。
どこまでも左京進は府中行きに賛意を示していない。
だが、龍王丸はそれを受け入れなかった。
「前回で道筋は分かっておる。物見を置ける場所も知っておる。事前に五郎殿の動きをつかみ、接敵前に退く。これをずらすつもりはない」
左京進はその言葉に納得していないようだった。
ただ、じっと絵図を見つめて眉間に皺を寄せている。
しかし、そのうちに背筋を伸ばし、向き直った。
「では某も参りまする」
龍王丸もこれには黙った。
「三千となれば河内に置かれたほぼ全軍。その状態で河内に残っても、何の力になれましょうか」
確かに、と龍王丸は内心で唸った。
申し出を拒めば、かえって疑念を抱かせる。
ゆえに仰々しく立ち上がると、左京進の肩を強く叩いて言った。
「無論のことよ。そもそも置いていくつもりなど毛頭ない。助けてもらわねば、この難局を乗り越えられぬ」
左京進はその言葉を聞き、ようやく納得がいったようだった。
武具やら馬やらを用意してこい、戻り次第出ると言いつけると、足早に部屋を出た。
その去り姿を見届けた後、龍王丸は穴山信風と外記の居室に足を運んだ。
龍王丸が姿を見せると、二人は露骨に驚いたものの、おずおずと席を勧めた。
「少しこの三人だけで話したい。他の者は下げよ」
そう言うと、やはり穴山の二人は固まった。
敵とも味方とも言い切れぬ二人である。今川の御曹司と一族だけで座を囲むのは避けたいようだった。
「嘘は言わぬが、他聞に入れぬ方がよい」
重ねて言うと、ようやく二人は動き出し、人払いを済ませた。
それを認めた後、龍王丸は先ほどまで睨んでいた絵図をもう一度広げた。
府中に出ることは、すでに穴山の者らにも伝わっていたようで、さして驚きはしない。
だが、
「明日、三千を率いて北へ向かう。そのことを、五郎殿へ知らせてもらいたい」
龍王丸がそう言うと、また二人は固まった。
こういう時に進んで前に出る外記だが、今回は口を堅く結んでいる。どうやら先の焼き働きで、完全に龍王丸に苦手意識を持ったようだった。それゆえに当主の信風が、おずおずと前に出た。
「囮をあえて知らせよ、ということであれば、望ましくはないかと」
信風が外記に視線をやる。外記はそれでようやく口を緩めた。
「確かに三千もの兵が府中へ向かえば、武田の御屋形様も備えはなされましょう。されど、それだけで富田から目を離すとは思えませぬ。
むしろ、兵を引き出すための囮であると見抜く。そう思われた方がよいのではございませぬか」
「まあ、それに知らせる者が我らというのも」
信風は自分で口に出し、自分で口を歪めた。
事実、穴山は甲府での焼き働きやその後の動きで、露骨に今川寄りを表明している。
今さら甲斐者の縁で五郎に龍王丸の動きを漏らしたところで、到底信用されるとは思えないのだろう。
龍王丸は二人の懸念を否定せず、河内から北へ向かう道を指でたどった。
指先は、富田から半日ほど離れた場所で止まった。
「三千のままならば、五郎殿もそう見るであろう。ゆえに、市川の筋を北へ上がり、富田まで半日ほどのところで兵を分ける」
「分けると申されますが、いかほどに」
「千と二千だ。千は龍王丸が持つ。左京進に二千を預け、府中へ向かう構えを見せた後、そのまま河内へ下がらせる。
火は掛けさせぬ。三千の役目は、前より大きな軍勢が動いたと武田に見せるところまでだ」
信風が初めて顔を上げた。
さらりと出た龍王丸の千について引っ掛かったようだった。
「その、若君は残るのでございますか。千の兵を率いて」
「左様。千ほどを率いて、ここに残る。隠れもせず、武田の物見にも見つかるように動くつもりだ」
龍王丸の指がある地点を叩いた。
その場所は、西には釜無川を構え、東には緩い高まりがある。
また南東には市川筋から河内へ戻る道もあった。
武田勢がどれだけ兵を減らそうが、物見を置いているであろう場所だった。
外記は絵図へ身を寄せ、龍王丸の指した場所を見た。
「二千を伏兵になさるおつもりで」
外記の目に訝しむ色が浮かんだ。
伏兵を伏せた千に対して、武田を誘い込む。
奇襲としては王道であるが、ばれた際の穴山に火が及びうる策だ。
安々と首を縦に振ることはできないのだろう。
「伏兵はない」
「そう仰いますが、いささか」
「ならば二千が俺から離れ、すぐには戻れぬところまで下がった後で武田に知らせよ。何なら周囲も好きなだけ改めてもらって構わぬ」
話を聞き終えた外記は、呆れたように息を吐いた。
「話は分かりましたが、何のためにそれを成さる。それに武田の御屋形様は甘い方ではござりませぬ。何の備えもなければ」
「外記」
信風のたしなめを受け、外記は黙った。
しかし、言わんとしていることは正鵠を射ている。
「確かに負ける。しかしだ、兵庫助の首を渡せぬ以上、別の負けを一つ作るほかなかろう」
二人の視線が龍王丸に集まった。
「五郎殿が今川の小僧を破り、今川勢を甲斐から追い払ったと示せれば、兵庫助の首を取らずとも、武田は勝ったと言える」
信風は長く龍王丸の顔を見つめた。
「若君御自身を差し出すおつもりでございますか」
「そんなに殊勝な男ではない。兵が崩れ、五郎殿の勝ちが誰の目にも明らかになったところで退く。
ただ、一当たりもせず逃げれば、兵庫助の首の代わりにはなるまい」
「退く頃合いを誤れば、御首を取られまするぞ」
龍王丸は答えず笑った。
散々火をつけ、甲斐の民を切りつけて回った男の首を、甲斐の人間が気にしている。
そのことがどこか面白かった。
「やはり、岡部殿の二千をどこぞへ伏せるのでございましょう。御屋形様が若君を追ったところで背後を取る。それならば話は分かりまする」
「左京進は何も知らぬぞ。兵を分けることすら伝えていない」
冗談ともつかぬ言い方だったが、信風も外記も笑わなかった。
「岡部殿の兵が南へ下がり続けることも、若君の近くに伏兵がいないことも、我らの物見で確かめてよいのでございますな」
「それでいい。納得がいってから五郎殿にお伝えせよ」
何度も説明し、ようやく通った。龍王丸はほっと胸をなで下ろした。
だが外記はしばらく考え、今度は別の懸念を口にした。
「この件、我らに対する証はございましょうか」
「外記」
また信風がたしなめた。だが今回は形だけである。
「動かぬならば、動かぬでも構わん」
そう言うと、外記の眉尻が上がった。
「陣を離れた国人の中には、五郎殿へ詫びを入れたがっている家がほかにもある。すでに目星はつけている」
龍王丸は絵図を少し自分の方へ引いた。
「それに誰も知らせずとも、千の兵で富田の近くを歩けば、いずれ武田の物見に見つかる。穴山が先に届け出れば、五郎殿へ忠節を示す手柄になる。それだけの違いだ」
そもそも龍王丸の動きなど、武田に損な手ではなく、隠せる手でもない。
二人もそれを悟ったらしく、目を細めた。
その後、口を開いたのはやはり外記であった。
「ずいぶんとお気遣いいただいているようで」
「気味が悪いか」
「ええ、河内を焼いた御方から、武田へ戻る道を与えると言われても、素直に厚意とは受け取れませぬ。
我らをこの策へ乗せ、何を差し出させるおつもりです」
声には、隠そうともしない棘があった。信風はたしなめもしない。
二人とも身を乗り出し、次の一言を待っている。
その真剣な面持ちに対して、龍王丸は笑みを浮かべるほかなかった。
「先の甲府案内で十分に貰った。その折、武田への顔が立つように取り計らうと約束した。それを果たそうとしているだけのこと」
「我らは何も返さず、それを受け取れと」
なおも外記はこちらの意図を探った。
もっともである、と龍王丸は腕を組んで考え込んだ。
福島勢への密使も済んでいる今、別段穴山に動いてもらうことなどなかった。
しかし、何もなしでは納得しそうもない。
「では、借りを作るのが嫌なら、俺の兵を助けてもらいたい」
二人の眉がわずかに寄った。
「五郎殿と当たれば、千を一度に退かせることはできぬ。頃合いを見て、百、二百と崩れたように河内へ落とす。
北条方へ落ちるようにするつもりだが、河内に逃れれば堪忍を願いたい」
外記がしばらく龍王丸を見つめた。
「兵を逃がしながら、若君はどこまで残られるおつもりです」
「少なくとも五郎殿の勝ちが形になるまで。最後まで残るつもりはないが、兵より先に逃げるつもりもない」
信風、外記ともに長く黙った。




