3章_8
あの日、駒井と話し合った日から幾日か経っていた。
八郎はその日、躑躅ヶ崎館にいた。
龍王丸率いる二千近い軍勢が、夜半、府中に姿を見せたのだ。
かの軍勢による甲斐の被害は、日に日に積み上がっている。早く取って返し、この狼藉者を討ってくれ。皆がそう思っている中での本拠強襲である。
当然、八郎らをはじめとした人質も、館への避難を余儀なくされた。
実際、館に残る守りは百に足りるかどうかであり、府中周辺から人を集めても、とても正面から防ぎきれる数ではなかった。
だが、八郎に恐れはさしてない。むしろこの危難において、一門の責務を果たさねばならぬ。そのような思いすら胸にはあった。
だが、その思いとは裏腹に、朝日とともに軍勢はあっさりと去った。
館の者らは、張り詰めていた力の置き場を失った。
夜に家族を叩き起こし、館へ移した。兵糧を運び込み、不揃いながら矢束も用意した。
それなのに、館へは矢の一本も飛んでこなかったのだ。
昨夜の混乱をあざ笑うかのような去り際であった。
そして意外にも、府中の煙は思っていたより少なかった。
八郎は朝焼けの中、躑躅ヶ崎館の櫓から身を乗り出し、南の空を眺めた。
城下の家並みは大方残っている。
炎が高く上がっている場所もない。ただ、上野のあたりから細い煙が幾筋か、風に引かれて東へ流れているだけだった。
「今川勢は、すでに下がったと申したな」
城下を見下ろしながら、八郎が留守居の家臣に尋ねた。
「は。急行された小幡様が、付近に軍勢がいないことをすでに確かめております」
「龍王丸の背を追わぬのだろうか」
「斥候は出しておられるようでした。ただ、小幡様の軍はもともと数が少なく、館の守りも考えますと」
留守居の家臣は、言葉を濁した。
報告によれば、龍王丸はそもそも府中に長居しなかったらしい。
追おうとした時には、すでに南へと姿を消していたという。
二千近い兵を率い、武田の本拠近くまで来た。
それで町を焼き払うでもなく、館を攻めるでもなく、橋を落として帰った。
何がしたかったのか、よく分からない。それが館に詰めている武士らの正直な感想である。
ただ、大事に至らなかったのであれば、それに越したことはない。城下の外れにある蔵や橋ならば、いずれ直せるのだから。
八郎が櫓を下りると、館の中には昨日まで見なかった顔が増えていた。
廊下の端に、具足を着たまま座り込んでいる者がいる。土と煤で汚れていたが、甲府南部に領地を持つ国人の庶子であった。
八郎の覚えでは、彼は今も富田城を囲む陣にいるはずだった。
男は八郎に気づき、慌てて腰を上げようとした。
「そのままでよい。怪我をしておるのか」
「お恥ずかしい。夜道で馬を転ばせてしまい申した」
「何を言う。大軍を恐れず駆けつけただけで見事なものよ。されど、其方はなぜここに」
男は気まずそうにした。
聞けば、自領の近くを今川勢が襲ったと聞きつけ、父にも断らず、身近な者だけを連れて富田の陣を抜けたらしい。だが、自領へ帰ってみると、今川勢はとうの昔にそこを通過し、府中へ向かった後だったという。
「そのまま自領を守っておけば、陣を離れたことなど誤魔化せただろうに。真面目すぎぬか」
「今は老人と子供しかおらぬ土地なれば、陣抜けも言い訳できましょう。されど、府中の危難を見捨てては、卑怯者の誹りを免れませぬ。今川勢を打ち払った後なれば、いくらでも腹を召しまする」
男はそう言って、汚れた手を膝の上で握った。
八郎は咎める言葉を持たなかった。
父が戦っている間に家を守るのは、子の役目ともいえる。
龍王丸が府中まで兵を進めた以上、南部の国人が自領を気にするのは当然だった。
その男と別れ、廊下を進むうちに、昨夜の騒ぎとは違うものが館を満たしていることに気づいた。
人は多い。それなのに声が少ない。
武田の本拠を守りきったという安堵もなければ、今川勢を追い払ったという高揚もない。
顔を合わせた者同士が声を潜め、八郎が近づくと何事もなかったように離れていく。
府中が焼けたからだと思ったが、櫓から見た限りでは、そこまでの被害には見えなかった。
こういう時はと、八郎は駒井の姿を探した。
あの男であれば、館の事情にも詳しいはずだ。
「済まぬが、駒井殿はどちらに」
通りかかった者に尋ねると、相手はわずかに顔をしかめた。ただ奥の一室で、届いた文を改めているとだけ伝える。
八郎の側付きは、その態度に思うところがあったようだった。
だが、八郎は気に留めなかった。昨夜襲撃があったばかりなのだから、気が張っていて当然である。
奥の部屋を訪ねると、駒井は大小の書状に囲まれていた。朝から何人もの使者と会っていたらしく、脇には泥のついた文箱が積み上げられている。
八郎の姿を見て筆を置いたが、その顔には昨夜から眠っていない者の疲れが濃く残っていた。
「おお、八郎殿。お互い無事で何より」
「駒井殿、館に詰めた者の中で怪我人などおらぬでしょうに」
駒井は少し頬を緩ませた。
「左様。やはり館へ攻め寄せる気はなかったようですが、ともかく昨夜は肝を冷やしましたな」
「櫓からも見ましたが、町もさほど焼けておらぬようで良うござった」
駒井は積まれた紙の一枚を抜き、机の上に置いた。
「民らの蔵いくつかと武田の蔵一つ。あとは牛馬と橋数本。まあ軽傷でござるな」
「馬を斬られたのは、軽いのでしょうか」
「幸い、ほとんどの馬は富田城に出払っておりますからな。軍にはさほど影響ござらんよ」
ということは、牛の方は相当手ひどくやられたようだった。
八郎が顔を暗くしていると、駒井があえて明るい声を出した。
「軽傷、軽傷。焼けた家の数はさしたるものではなく、死人もなし。龍王丸は腰が引けておるのでござろう」
八郎は唸った。
それだけならば、駒井がここまで疲弊している理由にはならない気がした。
どうにも気になり、何かないかと記憶を探っていると、今朝方見た光景に思い至った。
煙が上がっていた蔵は、確か塩を納めているものだった。
「不躾なれど、お許しあれ。もしや龍王丸は、塩蔵を焼いたのか」
駒井がぎょっと目を剥いた。
それで八郎は察した。
塩の蔵は、以前ならば一つや二つ失っても困らなかった。
甲府にはほかにも蔵がある。値が上がれば、別の商人も来る。駿河から入らなくても、信濃や越後から運ばせればよい。
八郎もそう考えていた。
だが、あれから甲府へ入った塩は少ない。
まず、信濃や越後の商人がやってこない。
龍王丸が荒らした村々では民らが殺気立っており、商人の荷を奪うのだ。
駿河や遠江から細々と入ろうとした荷も、河内へ着く前に今川方へ買い取られるか、甲斐へ入ることを諦めて戻っている。
それでもまだ武田方の顔が明るかったのは、富田城の落城が間近と見ていること、そしてそれまでなら蔵の蓄えでどうにかなると踏んでいたことがあった。
それが、今回の焼き働きで狂ったのだ。
「駒井殿、館の備えは、どれほど持つのであろうか」
「いやいや、心配無用。館の塩や米がなくなることはござらん」
では、富田の陣へ送る分はあるのか。
その言葉は八郎には吐けなかった。
疲れきった駒井の顔を見れば、答えなど分かりきっていたからだ。
一門とはいえ、人質の身でいらぬことを聞いてしまった。
八郎は申し訳なさから、少し話の向きを変えた。
「駒井殿、とにかく今川勢は去りもうした。橋を直せば、また荷も入りましょう」
「うむ、うむ。左様でござるな。はよう橋を直さねば、向こう側で山と積まれた塩や米が駄目になりまする故」
そもそも橋の向こう側に、荷があるのだろうか。
八郎は頭に浮かんだ問いをかき消した。
駒井も同感であったらしく、口元を歪めたが、すぐに顔を戻した。
八郎はまたやってしまったと、後悔に襲われた。明るい方向へ持っていこうとしたはずが、暗い話ばかりになってしまう。
「八郎殿、そうお気になさらず。富田城さえ落ちれば、どうとでもなることなのです」
「ええ、さすがは駒井殿。そこが肝要でございましょう。富田城については、もう成す術がないとのこと。もって数日でござろう」
「左様。富田城は、あとは数で囲めば仕舞でござる。こちらが揺るがねば、勝ちも揺るぎませぬぞ」
その口ぶりに、八郎はまた嫌なとっかかりを覚えた。
問題は、その数である。
武田の御屋形様は、この度の龍王丸への対応として小幡に三百をつけ、富田城から離した。
国人衆を落ち着けるためのものだということは、八郎にも理解できる。
だが、その対応に効果が見られない。現に先ほどの国人衆の倅のように、陣から抜け出る者がいるではないか。
それが顔に出たのか、駒井がわざとらしく笑った。
「まあ、不心得者はどこにもおりますが、案ずるなかれですぞ、八郎殿」
「これは、失礼を」
今日はもう駄目だと、八郎は思った。
駒井に話を聞き、少しでも力になれればと思ったが、裏目に出てしまう。
いっそ退出して、矢でも拵えるか。
そう思った時、廊下を急ぐ足音が聞こえた。
襖の外で一度止まり、取り次ぎも待たずに声が掛かる。
「駒井様、今川方の触れにつき、新たに分かったことが」
駒井が入るよう命じると、泥に汚れた若い家臣が姿を見せた。
手には折り畳んだ紙を持っている。
八郎の姿を見た途端、男の顔が強張った。
口を開きかけたまま言葉を失い、駒井と八郎を交互に見る。
そして迷いながらも、駒井へ紙を渡した。
どうやら、八郎に聞かせてよい話ではないらしい。
「お忙しい中、手間取らせてしまい申し訳ない。某はこれにて」
駒井は当初、それを見送ろうとした。
だが、持ってこられた文へ目を通し、顔色を変えた。
腰を浮かせようとする八郎を、手で制する。
「いや、少し状況が変わり申した。申し訳ないが、話を聞いてもらった方がよい」
「よろしいので?」
一門なれど、人質でもある。火急の知らせであれば辞退しようとした。
「後で余人に、いらぬことを言われると困ることになるやもしれぬ」
駒井が真剣な面持ちで言うので、八郎は再び腰を下ろした。
駒井は、受け取ったばかりの紙を机の上へ置いた。
府中の外れにある寺の僧が、今川勢から聞いた話を書き留めたものだという。
昨夜、龍王丸の軍勢は町の者や僧を何人か捕らえたが、危害を加えずに放した。
その際、同じ言付けを方々へ伝えるよう命じたらしい。
紙の冒頭には、こうあった。
今川は、此度の騒乱の原因となった武田八郎を駿河へ戻すため、府中へ参上した。
武田八郎を戻さば、甲府における騒乱を収める用意がある。
八郎は最初、自分と同じ名を持つ別の者がいるのかと考えた。
「これは、某のことでござろうか」
駒井は苦い顔をした。
「ほかにはおりますまい」
八郎は改めて紙へ目を落とした。
冒頭の後には、細々と理由が付けられている。
まとめれば、次のようなものであった。
今川と武田の間がここまでこじれた端は、八郎が勝手気ままに駿府を離れ、甲府へ戻ったことにある。
ゆえに八郎にも、始末をつけてもらいたい。
八郎が今川へ戻るならば、龍王丸はすぐに軍勢を引き上げる。
今川勢が焼いた蔵や村には米と塩を出し、落とした橋や壊した堤も直す。
「龍王丸が、このようなことを」
八郎がこぼすと、文を持ってきた家臣が口を開いた。
「本人が申したのか、家臣に触れさせたのかまでは分かりませぬ。
ただ、同じ話が幾つもの村や寺に残されております。龍王丸めの意向であることは間違いございません」
静まり返った室内で、駒井が家臣に尋ねた。
「館の者も、すでに知っておるのか」
「昨夜戻った者の中には、道中で聞いた者がおりましょう。明日には富田の陣でも、知らぬ者の方が少なくなるかと」
八郎は、廊下で自分を避けた者たちを思い返した。
今川勢が府中へ来たことだけで、あれほど沈んでいたわけではなかったのだ。
少なくとも、あの者たちの幾人かは、この話を知っていたのだろう。
八郎が戻れば、龍王丸は帰る。
焼かれた村には米が入り、止まっていた塩も届く。橋も堤も直る。
それを知りながら、誰も八郎に話そうとはしなかった。
しばし呆然としていた。気づけば、知らせを持ってきた者も退出していた。
八郎もすぐに席を立つべきだと思ったが、どうにも机の上の文から目を離せなかった。
それゆえ、難しい顔をしている駒井へ、無意識のうちに尋ねていた。
「この話を聞いた者らは、どのように思うのであろうな」
駒井は答えに窮したようだった。
「龍王丸の申すことを、誰もが信じているわけではございませぬ。なにせ、ここまでのことをしでかした男でござる。八郎殿を迎えたところで、本当に兵を引くかも分からぬ。焼いた村を直すというのも、口であれば何とでも申せましょう」
八郎は言葉を返さなかった。
まだ自分でも、龍王丸の触れをどう受け取ればよいのか分からなかった。
どこかで、八郎という人間をめぐる騒動は、甲府へ戻った時に終わったものと考えていたのだ。
だが、終わってはいなかった。
自分の名は再び持ち出され、今川が甲斐へ兵を入れる理由にまでされている。
押し黙る八郎に何か不穏なものを感じたのか、駒井はさらに言い募った。
「八郎殿。何度も言いまするが、龍王丸めの言葉を、そのまま受け取られてはなりませぬぞ。仮に駿府へ戻られたとしても、今川が八郎殿を何にも使わずに済ませるはずがない」
「それは、そうでありましょう」
今川へ戻れば、龍王丸は自分を五郎に代わる旗として使う。
それは分かっている。だが、今の八郎の胸につかえているのは、その先のことではなかった。
すでに館の者たちが、自分をどう扱えばよいのか迷い始めている、という今の事実こそが懊悩の種だった。
「いいえ、分かっておられませぬ。これは向こうの策でございましょう。館を割る。甲斐を割る。その一環でございます」
駒井の言う通り、龍王丸はすでに館の内へ疑いを持ち込んでいるのかもしれない。
先ほど顔をしかめた者と、今こうして自分を励ます駒井とでは、八郎の扱いについて同じ考えとは思えなかった。
だからといって、ここで今川へ身を寄せる愚を犯すこともできない。そうすれば、今川と甲斐の狭間にある河内の穴山が、再びすり潰されることになる。
だが、目の前で起こり始めた疑いに、そ知らぬ顔をすることも八郎には難しかった。
「そもそも、このようなことを家臣が論じること自体が僭越でござろう。まずは御屋形様の判断を仰ぐ。これ以外にございません。しかし御屋形様は聡明な方。八郎殿を返すことなどいたしますまい」
たしかに、武田五郎の胆力と見識は疑いがない。敵へ新しい旗を渡すような真似はすまい。
すまいが、何かが飲み込めない。
居たたまれなさと申し訳なさが、腹の底で重みを増していた。
「この話は、御屋形様へすぐ伝えましょう。そうさな、八郎殿も文をお出しあれ。すぐに、そのような話はあり得ぬと笑い飛ばされましょう」
駒井は励ますように、八郎の肩へ手を置いた。
しかし、不安は消えなかった。
八郎は駒井の部屋を辞した。
あてがわれた一室へ戻る途中、誰とすれ違ったのか、ほとんど覚えていなかった。
ほどなく紙と硯が運ばれてきた。
五郎への書き出しを一行記し、そこで筆が止まった。
何を尋ねればよいのか、自分でも分からない。
今川へ戻るべきかと問えば、五郎は許さない。武田の当主として、八郎を敵へ渡せるはずがない。
甲斐へ残るべきかと問えば、龍王丸の言葉に惑わされず、富田城が落ちるまで耐えよと返すだろう。
どちらも、武田を守る者として当然の答えだった。
駿府を離れれば、自分をめぐる争いは終わると思っていた。自分が甲府へ戻れば、今川が兵を進める大義は失われるはずだったのだ。
あの時の選択は、最も理にかなった正しい道だった。
だが龍王丸は今、その帰還こそが騒乱の始まりであったと触れ回っている。
正しい選択をしたはずなのに、盤面ごと捻じ曲げられてしまった。
八郎は筆を置いた。
側付きの者が、心配そうに顔をのぞかせた。
だが、その心遣いさえ受け入れる余地が、今の八郎にはなかった。
「少し考えてから書き申す。使いは待たせておいてくだされ」
側付きの者は、今は休んだ方がよいと言った。
だが、どうにも休める気がしなかった。
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府中を焼いて三日目の暮れ、龍王丸は河内へ戻った。
武田勢の目を避けて山間の道を選んだため、連れて出た兵の顔には疲れが滲んでいた。
馬も歩みが鈍く、河内へ下る坂へ入ってからは、誰も口を開かなくなっている。
やがて木立の向こうに寺の屋根が見えた。
以前は泥に沈んでいた道に石が敷かれ、崩れていた路肩には丸太が渡されている。
道沿いには人足の小屋が増え、荷を下ろしたばかりらしい馬が何頭も繋がれていた。
河内から出てきた荷駄とも、続けてすれ違った。
積まれているのは米と塩だった。俵には荷札が結ばれ、護衛のほかに帳面を抱えた者まで付いている。
甲斐の奥へ向かう荷らしく、龍王丸たちとは反対の道を進んでいた。
穴山外記は荷札へ目を凝らし、そこに記された名を見つけると、龍王丸へ馬を寄せた。
「あれは、市川へ向かう荷でございますか」
「そうだ。富田を離れた家から順に送らせている」
「今川の米と塩を、甲斐の者へお渡しになるので」
龍王丸には、外記が何を案じているのか分からなかった。
だが一拍遅れて、河内の者へ配る分が足りなくなることを恐れているのかと思い至った。
「案ずるな。河内の村々へは、すでに行き渡っておろう」
外記は苦虫を噛み潰したような顔で首を傾げた。そういうことではないらしい。
そのうちに向こうから別の荷車が近づいてくると、外記は言葉を呑み、馬を道端へ寄せた。
「市川の者らの多くは、まだ今川へ御味方すると決めた者たちではございませぬ。兵を退いただけでございましょう」
「味方になるよう求めた覚えはない。味方にしようと動いてもおらぬ。当然のことであろう」
外記はなお腑に落ちない顔をしていた。
「納得は要らぬ。約定は守る。今はそれだけでよい」
言い渡すと、外記はますます奇妙な顔になった。
河内の寺へ近づくほど、人と荷の動きは増えていった。
寺の物置だけでは足りず、空いていた国人館や、屋根の残った馬屋まで荷置き場に変わっている。
塀沿いには丸太を組んだ仮小屋が並び、幾重にも掛けられた筵の下へ俵が積まれていた。
駿河と遠江からの荷は、甲斐へ兵を入れる前から富士川筋を通して運ばせている。
河内の者へ配り、今川勢と人足を養うために使う。さらに和議が成れば、焼いた村々へも回すつもりだった。
府中へ出ている間にも、荷は止まらなかったらしい。
つい先頃まで冬を越す米がないと騒いでいた土地に、今では駿河や遠江の商人が出入りし、河内の者たちが塩俵を担いでいた。
寺の門前では、岡部左京進が一行を待っていた。
龍王丸の後ろへ目をやり、兵の数と傷の有無を確かめてから頭を下げる。
「御無事に戻られ、何よりにございます」
「軍監殿に留守を任せて済まなかった」
「某は何も聞いておりませぬ。若君も甲府になど行っておられませぬ。それでよろしゅうございますな」
左京進は不本意そうに顔を顰めた。
甲府に行く利を認めながらも、職務上認められない。
その矛盾に、このように折り合いをつけたらしい。
「それで甲府、富田城の様子はどうなった。兵はどれほど退いた」
わずかな居た堪れなさを覚えながら、龍王丸は問うた。
道中の警戒や河内の空気から、おおよそのことは察している。だが詳細が欲しかった。
「市川筋からは、まとまって兵が戻っております。そのほかにも、富田を離れた家が出始めました。触れに記した分までは、すでに送り出しております」
先ほど道ですれ違った荷駄がそれだろう。
「小家はどうだ。表立って知らせなど出せぬであろう」
「そのような家からは、受け取りに来た者もおります。ただ、実際に戻った兵を養うには、約した分だけでは足りぬように思われます」
「出せ。で、終わりでよいか」
左京進が唇を噛んだ。一歩近づき、周囲を気にしながら声を落とす。
「武田方からも、急ぎ申し上げたいことがございます」
「今すぐ動く話か」
「すでに起きたことにございます。人目を避けて申し上げるべきかと」
左京進と目が合った。
与一郎にも似た、こちらを案じ、危ぶむような真っすぐな目だった。
その目を見ながら話を後へ回し、後悔したことがある。
「宮内、後は頼んでよいか」
振り返ると、かつての家宰職は恭しく頭を下げた。
約束した報酬を渡すだけなら、まず問題はないだろう。
「左京進、頼む」
左京進は一礼すると、寺院の一室へ龍王丸を案内した。
文机と敷物だけが置かれた部屋で、住職の私室と見受けられた。
座を占め、左京進が口を開くのを待っていると、承菊が入ってきた。
その手には折り畳まれた書付がある。
「お久しゅうございます。ずいぶん駆け回られた割に、日に焼けておられませぬな」
「焼けぬ質らしい。武士らしくなく申し訳ない」
「お二人とも、今はそのような真似はお控えください」
左京進に遮られると、承菊は珍しく素直に口を閉じた。
それだけで、軽い話ではないと分かった。
境内の騒がしさは変わらない。
しかし、廊下を行き来する者の気配は消えていた。
承菊は座を整え、書付を膝の前へ置いた。
「若君が府中を焼かれた翌日、躑躅ヶ崎館から富田の武田勢へ早馬が参りました」
龍王丸は書付へ目を向けた。
自分たちは武田方の目を避け、道を外れながら河内へ戻った。
早馬一騎であれば、先に知らせが着いていてもおかしくない。
「内容は」
「八郎殿が、亡くなられました」
龍王丸は書付へ手を伸ばしかけ、そのまま止めた。
「病ではございませぬ。自ら腹を召されたとのこと。書き置きも残されたようですが、内容までは掴めておりません。武田方は、まだ近しい者のほかには伏せております」
境内から、送り先を読み上げる声が聞こえた。
荷車の軋む音が続き、馬が短く嘶く。
龍王丸は手を膝へ戻し、小さく頷いた。
「そうか」
八郎を今川へ返すなら、こちらも兵を退く。
焼いた村には米と塩を入れ、銭も出す。それを戦の落としどころとしていた。
「さて、いかがいたします。離間の策は、思わぬ方へ転びました」
その言葉に、左京進が口を挟んだ。
「承菊。自刃された方を、そのように申すものではない。一時は駿府館におられ、我らと轡を並べた方でもある」
「裏切った方でもございます。まあ、それはよいでしょう。今見るべきは、八郎殿が武田の城で亡くなられたという点にございます」
承菊が念を押すように言った。
「今川は返せと求めた。されど武田は返さず、その手元で死なせた。武田の咎と触れれば、十分に筋は立ちましょう。相違ございませんな」
承菊が身を乗り出す。その点に、龍王丸も異論はなかった。
「である、が」
そのように歯切れが悪く答えても、承菊は納得していないようだった。
「若君、らしゅうございませんな。もとより八郎殿を使い、武田と国人衆を割ろうと申したのは拙僧にございます。思わぬ方へ転んだとて、若君お一人の咎ではございませぬ」
「そういうことではない」
承菊はしばらく黙り、龍王丸の顔を見定めた。
「人を惜しまれるのは悪いことではございませぬ。ただ、ここまで多くを焼き、多くを死なせておいて、八郎殿お一人の死だけを重く取られては、少々釣り合いが悪うございますな」
「惜しんでいるのではない。八郎殿は死ぬ算段に入れていなかった」
「同じことではございませんか」
龍王丸は、左京進から見られていることに気づいた。
与一郎と同じ、こちらの言葉の奥にあるものを測ろうとする目だった。
「違う。八郎殿が生きておれば、返す返さぬを巡って、五郎殿と国人衆の間に溝ができた。溝ができれば、国人衆は勝手に兵を退く。兵を戻した家へ米と塩を渡せば、後も続く。それで富田の囲みを薄くする算段だった」
左京進が苦い顔で口を開いた。
「落としどころがなくなった、と申されるのですな」
「なくなったのではない。ずれた。返せば終わるという話が、もうできぬ。このままでは戦が延びる」
承菊が首を傾げた。
「左様でしょうか。今川へ返される道を閉ざされ、八郎殿は武田の城で死んだ。そう触れれば、溝は深まりましょう。むしろ戦は早く終わるのではございませぬか」
「溝が深過ぎれば、甲斐衆が五郎殿に弓を引きかねん。八郎殿が生きておれば、最後には五郎殿が返し、国人衆の意を容れた形にもできた」
「何が不味いのでしょう。五郎殿は敵でございましょう」
「永劫争うつもりはない。甲斐を治めるのにほどほどに手を焼き、裏では今川とつながってくれればよかった」
「なんとまあ、都合のよい言い分でございましょうか」
確かに、と龍王丸は息を吐いた。
今度は左京進が口を開く。
「予想では今頃は五郎殿に和議の打診をするつもりでございましたが、こうなると何処に落とせましょうか」
「さて。五郎殿が納得できる場と、甲斐衆が五郎殿へほどほどに信を置ける形を整えねばなるまい」
そこまで聞くと、承菊はようやく咎めるような顔をやめた。
「なるほど。拙僧は、若君が八郎殿の死に心を痛めておられるものとばかり」
龍王丸は答えなかった。
膝に置いた手も、先ほどから動いていなかった。
やがて龍王丸は、廊下に控えさせていた者を呼び入れた。
「宮内に伝えよ。兵を戻した家への荷は、申しつけた通りに出すこと。八郎殿の死が知れても量を減らすな。ここで米を止めれば、今川は約を違えたと思われる」
男が下がると、承菊が尋ねた。
「八郎殿のことは、いかが触れさせまする」
「今川は八郎殿を返すよう求めた。武田は返さず、その城で死なせた。そのまま触れよ。余計なことは足すな」
「死は使われるのですな。結構、結構。いえ、失礼」
承菊は形ばかり手を合わせた。
慰める色はすでに消え、どの寺へ、どの商人へ、どの言葉を流すかを考えている顔だった。
「左京進。富田に残る兵を家ごとに書き出せ。市川へ戻った者、戻りかけている者も分けよ」
「次に焼く家をお決めになりますか」
「まだ決めぬ。八郎殿の死を知れば、動きも変わる」
境内を、米俵を積んだ荷車が通っていった。
八郎では、もう五郎を富田から動かせない。ならば、別のものを置かねばならなかった。




