3章_7
八郎と駒井が顔を突き合わせていた日の夕刻。
龍王丸は甲斐の上野にいた。
上野は河内ではない。河内より北東に抜けた地である市川、そこからさらに北に抜けた場所である。
つまるところ、甲府でありかつて福島兵庫助が踏み入れることを忌避した、武田の本拠のすぐ近くである。
龍王丸は昨日まで、市川やその近くの平塩岡におり、今日ようやくこの上野に抜けたばかりであった。
昨日まで軍がいた場所を振り返れば、今も黒い煙が盆地の空へ細く伸びていた。
黄昏の中でもあって、黒々とした幾筋もの線が空に伸びている。
そして、今日は上野でも朝から火が上がり、同様に黒煙をたなびかせている。
龍王丸は馬上から、村外れの蔵を眺めていた。
甲斐国内において、唯一広大な盆地部である甲府。その一部であるだけあって上野のその村も裕福にみえた。
無論、甲斐国内において比較的という話ではあるが。
しっかりとした村の共有蔵が立ち、村役と思わしき者の家も目立つ。この地を治める国人衆の館も塀や堀を構えた立派なものである。
そんな立派な村から火が上がっている。
漆喰の壁はまだ残っているが、家々の屋根から火が回り始めていた。
戸口では今川の兵が俵を引きずり出していた。
俵を裂き、中身が米であれば持っていく。粟や稗などであれば火をつけた。
人間が食べる物だけではない、家畜の口に入れる物も同じだ。こちらは馬草、飼料、全て丸ごと火をつける。
肝心の馬や牛は無理やり村の外へと引っ張り出した。
馬はそのまま乗っていくが、牛やら豚やらは殺して村の川に沈めた。
道の向こうには村の者たちが集められていた。
老人も女もいる。幼い子を抱えた者もいた。
今川の兵に追い出されたばかりらしく、履物もろくに履いていない者が何人かいる。
今川の兵を睨み、今にもつかみかからんとする男もいた。
ただ、眼前で突き殺された先達らを見て、必死に己を抑えているようであった。
市川よりも皆、肥えているな。
この分では、南から飢えた者らが押し掛ける方が早いかもしれない。
そんな風に龍王丸は彼らを見て考えた。
「御大将」
東から来た騎馬が手綱を引いた。
「蔵四つ。三つは開けました。残りは戸を固めております。中は米と粟、それと塩が七俵ほど」
「米は引けるだけ引け。残りは火をかけろ。塩はもういい、兵には持てる分だけ持たせて、田畑に撒いてやれ」
男が頭を下げ、踵を返した。去り際の背中に龍王丸は付け加えた。
「橋も落とせ。荷駄が通れそうなものだけでよい。それ以外は放っておけ」
男は再度頷いて、足早に駆けていった。
あの男は穴山に仕えている半農の足軽であったが、ここ十日で随分馴染んだようだった。
今では龍王丸の言葉に即応し、今川の直轄兵とさして動きが変わらない。
騎馬が去るより早く、別の者が来た。今度は今川の兵である。
ただ武田の旗印を背に掲げ、血に濡れた槍を手に持っている。
「逃げ去ろうとした者、捕らえましてございます。二〇人ほどですが、皆武器を持った若い男でございました」
「草か」
「いえ、どうやら南の平塩岡から来たようです。武器も粗雑でしたし、飢えた民以外には見えませぬ」
想定より早い。だが、決して悪いことではない。と龍王丸は頷いた。
「米俵を一つ、二つ渡せ。そのうえで上野の東はまだ無事だと言って、解放せよ」
今川の兵も、深く頷くとそのまま馬首を返した。
命令の内容を聞き直すことも、異論をはさむこともない。
そこにまた別の者が現れた。遠江における龍王丸の家宰役であった天野宮内である。
「御料様、そろそろ頃合いかと、ここは十分でございましょう」
「館が焼け落ちておらぬが」
村を見下ろせる位置に館があるが、それはいまだに悠々とそびえたっている。
「ああ、あれはようございます。どうもここの人間に聞いたところ、軍役にも庶弟だけを向かわせるような怯懦な輩とのことで」
「左様か。では、むしろ、置いておく方がよかろうな」
龍王丸は右手を上げた。
それを受けて兵が合図を出した。周辺に満ちた喧騒を鏑矢の奏でる音が裂いた。
それだけで、狂乱を巻き起こしていた兵らが、鼠を散らす様に一斉に村から引き揚げていく。
龍王丸も馬首を返して、集合場所へと駆けた。
「うむうむ。御料様は山賊の頭目としても才覚がございまするな」
集合場所である、村から程離れた丘の上で宮内が言う。
「ああ、そなたも山賊の補佐の才覚がある」
「おお、皮肉も素晴らしゅうございます。今に立派な山賊の大頭目になられますぞ」
久しぶりに仕事を共にした宮内は相も変わらない。
痒い所に手が届き、油断をすればチクリと刺してきた。
承菊や姫君との日々がなければ、顔をゆがめていただろう。
龍王丸は付き合い切れんと、宮内から目を離し、戻ってきた兵らへと視線をやった。
今川の兵、穴山から加わった兵ともに全員がそろっていた。
ただ穴山から来た者らはみな、両の手に米俵やら塩やらを抱えており、ずいぶん重そうであった。
「次の村までどれくらいだ」
「ここから半刻もかかりませぬな。川の上流ですので、川に沿って行けば迷いませぬ」
宮内に問うと、するりと答えが返ってきた。
では、迷うことではない。
そこでちらりと視界の端にいる小ぎれいな集団に目をやった。
河内の国人衆、西木何某が率いる集団である。
彼らも不幸な火付けにより田畑や蔵を焼かれ、龍王丸に泣きついて来た者らである。
物欲しそうに穴山兵の抱えた俵を見ているが、目の奥に恐れとためらいが消えていない。
龍王丸は顎をしゃくり、宮内を促した。
宮内は人の好い笑みを深め、顎をさすった。
「さてさて、河内より来た皆さまは都合これで六度目でございますな。どうでしょう、そう、案内だけならば難しいものではありませぬでしょう」
宮内は持ち帰った米俵を裂いた。
ざらりと米が零れ落ちた。遠江の米よりも粒が小さく、色合いも悪かったが、米は米である。
西木衆は生唾を飲み込んだ。
「道案内と見張りのお礼として、約定通り米一升差し上げまする。さあ、お並びください」
「天野様、先に論功が先ではないでしょうか」
宮内についてきた遠江衆が口を挟んだ。
宮内はわざとらしく、おお、そうであった、などと手を叩いてみせる。
「簡易的ではございますが、穴山衆の方、前に。そう、あなたで」
俵を大事そうに抱えた男を指さした。
男はそのままに前に歩み出た。
「惣兵衛殿、蔵への一番槍、一番付け火お見事でございました。その後の仕事も確か。約定通り米十石と塩俵二俵」
惣兵衛、と呼ばれた男はようやく今回から火付けに加わった男である。
ぎょっとした顔で褒賞の書かれた木板を受け取った。
「それをもって帰れば、河内の陣所で渡されよう。米俵を持ち歩くより、確実で楽でござろう」
惣兵衛がすでにここまでの襲撃に加わった者らを振り返った。
皆、米俵などぶら下げていない。ただ腰や胸元に今惣兵衛が受け取った板と同じものがある。
惣兵衛はそれを見て、何事か思案をし始めた。当然宮内はそれを見逃さない。
「ああ、無論、米俵を持ってくれば、そこの木板に付け足しますぞ。持ってきた米は行軍中に使いますので、その分は報酬に上乗せしてお返し、という次第でござるな」
現物の魅力はある。手に持っていれば安心する。
だが、重い俵をいくつも抱えて河内に戻るのは難しい。ましてやこれらをもって火付けなどできるわけがない。
それに、今後も火付けに加われば、報酬は上乗せされていく。
そんな惣兵衛の悩みを見越し、龍王丸が口を開いた。
「たとえ、そなたが途中で帰らずとも、報酬は家族に渡そう。龍王丸が帰らずとも、今川の兵が一兵でも帰らば、約束は果たされる」
惣兵衛は龍王丸を見た。
一瞬、互いの視線が絡み合う。惣兵衛の背筋が伸び、俵を取り落とした。
「おお、惣兵衛殿も俵をお預けなさるか。御料様は信に応えますぞ」
そういって、宮内が木板に筆を入れた。
そのあとも、今回が初の焼き働きの者らに同様に褒賞を与えた。みな惣兵衛と同じように現物ではなく、河内に戻ってからの支給を選んだ。
いまさら紛争ひしめく南方を抜けて、一人で河内に戻るのは危険である。ただそれ以上に、まだまだ蓄えが欲しいという願望が透けて見えた。
これらの対応が終わってから、宮内は西木衆を呼んだ。
「さて、西木殿、案内と見張りの報酬でございますな」
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数刻後、龍王丸は上野の北にある山の上にいた。
眼下では、川筋に沿って火が上がっている。
先ほど話に上がった、上流の村である。
下流にあった村落とはもともと同じ村であったそうだが、領主の国人の兄弟によって分割され相続された。
ちなみに兄の血筋が上流の村を治めているとのことだった。
この兄の血筋の方が優秀であったようで、田畑の枚数、家の数、道の状態ともこちらが上である。
また現当主も相当、武田五郎に近いようであり、本人も今は富田城を囲っているとのことだった。
それゆえ、この度は龍王丸や今川の家臣らはあまり前に出ない。
あくまで道々を封鎖し、逃げる者を追い返すぐらいである。
もはや、焼き働きは河内の者だけでも問題なく進められるところまで来ている。
「中々手早い。河内の者は優秀でございますな」
宮内が昇る火の手を見ながら頷いた。
この男には珍しく、本心からそう言っているようだった。
村々の火の回りは確かに早かった。蔵には火が付き、村役や富農の家の藁ぶき屋根はもう焼け落ちている。
上がってくる悲鳴や怒号も先ほどのものより大きい。
「今の軍勢をばらしても、燃やし続けられるか」
「さて、それはいかがでしょうか。御料様が居られるからまとまっている部分もございましょう。小頭を務められる者もおられませぬし、軍は分けずに進めるべきかと」
「求め過ぎか。承知した」
そういって龍王丸は筆を手に取る。膝の上に粗い地図を広げていた。
山と川と道、それから村名がいくつか書かれているだけの紙である。
焼いた場所には墨を置く。蔵を潰したところには小さく印をつける。
橋を落とした道には線を引く。まだ何も書き込まれていない村だけが、白く残っていた。
龍王丸の筆が、甲府盆地の東南に伸びる川筋をなぞっていた。
河内から市川へ入り、そこから府中の腹へ食い込む道である。
「この先にある村の名は」
龍王丸が問うと、穴山衆の一人が前に出た。
「大田和、花輪、布施などがございます。いずれも甲府の東南へ入る口で、五郎様に心を寄せておるとか」
筆先が地図の上を滑る。
宮内は横から地図を覗き込み、布施の名を見て顎を撫でた。
「布施は残されまするか。中々大きな集落でございますが」
「さすがに府中に近い。あとは飢えた甲斐者に残そう」
龍王丸は布施の名には墨を置かず、別の村名の横へ筆を移した。
下では怒声が上がっている。続いて何かが崩れる音がした。
門か、蔵か、屋根かは分からない。火の粉が夜の空へ舞い上がった。
それまで黙っていた穴山外記が、ようやく口を開いた。
「若君。富田城に向かった方がよろしいのでは、御身が河内についてから十日も無駄にしております」
穴山外記は当初この焼き働きには参加する予定がなかった。
だが、徐々に穴山衆が参加していく中で、急ぎ馬を走らせ、河内の端で合流してきたのだ。
時折、河内の者らを帰そうと試みていたが、どうにも上手くいっていないようだった。
龍王丸は地図から顔を上げなかった。
「無駄とは思わん。甲府が壊れれば、富田は救えよう。そなたらの助けで、順調である」
外記の顔色は白さが増していた。
幾日も寝ていないようで、目の下に隈がありありと浮かんでいる。
外記の喉が動いた。
「このような、食うためでない焼き働きなど」
「食うための焼き働きではあろう。そなたらにとっては」
外記は言葉を返せなかった。
宮内が笑う。
「まあ、焼かれた側にとっては、焼く側の事情など関係ございませぬからな。そう騒がず、ごゆるりと」
「天野殿」
外記は唇を結び、しばらく下の火を見ていたが、目を背けた。だが耳をふさがない限り喧騒から逃げられない。
子供の泣き声、女の泣き声、男の泣き声。
そこに馬やら、牛やらの鳴き声が混じり、何が何やら分からない。
龍王丸には少し意外だった。
貧しい甲斐国では、このような焼き働きなど日常なのかと思った。
いや、河内の人間が甲府を襲うということを忌避しているのかもしれない。
「このように派手に動けば、村々の国人らが動きますぞ。帰りの市川で待ち構えておるかもしれませぬ」
外記が再び口を開いた。今度はある意味で脅しである。
「そうならぬために、そなたら道案内がおる。それに市川はもう無理であろう」
「なにを」
その先を外記が口走る前に、宮内が顎を撫でた。
「土地ごとに、ずいぶん焼き加減にむらがございましたからな。半焼けの村に、全焼の村人がなだれ込んでおりましょう。秋の蓄えが焼けた今、さて、どこまでまとまれるやら」
「そなたらは」
外記はそこで絶句した。
宮内は答えず、人の好い顔で笑っている。
馬をつぶし、橋を落とし、村々がすぐに連絡をとれないようにもした。
隠し蔵などで多少は食いつなぐことができるだろうが、そこから立ち直すことはほぼ無理。
そう龍王丸は見ていた。
龍王丸は、そこで筆を置いた。村々への襲撃の順番はおおよそ固まった。
ゆえに顔を上げ、外記を見た。外記の顔が強張った。
「外記。そなたが兵庫助に心から協力し、八郎を逃がさねば、龍王丸は今でも蟄居の身であった」
外記の目が見開かれる。
「甲斐にも来なかったやもしれん」
宮内が手を打った。
「おお、それはそれは。穴山殿には感謝せねばなりませぬな」
外記は宮内を睨み、それから龍王丸へ向き直った。
「穴山を脅しておられるのか」
「いや、懇願である」
龍王丸は駿河の方を指さした。
「龍王丸を一日でも早く牢に戻したくば、」
それから、まだ燃える眼前の村を指す。
「河内をこれ以上火に巻かれたくなければ、これを一日も早く終わらせたければ、一つ協力を頼む。お互い、見たい光景ではなかろう」
外記の手が膝の上で固まった。
「納得したならば、今は大田和へ抜ける道を教えろ。花輪へ出る道もだ。富田へ兵を出している家の名も欲しい」
外記が下を向いたまま、絞り出すように言った。
「教えた村は焼かれるのでしょう。河内の民に焼かせるのでしょう」
「そなたの心がけ次第では、今川が焼いた、あるいは、武田の手違いで焼けた。そう体裁を整えてもよい」
外記が顔を上げた。言葉はない。地獄で仏にでも会ったような顔だった。
宮内が笑った。
「まこと、よい言いようで」
龍王丸が横目で見ると、宮内は笑ったまま口を閉じた。
そしてその時、坂の下から足音が上がってきた。
護衛が槍を立てる。だが、近づいてきた者を見るとすぐに下ろした。
駆け上がってきたのは、河内の国人衆の若者であった。
西木の一党にいた者である。顔は煤で黒く、袖には血がついていた。右手には首を一つ提げている。
「若君、首を持ってまいりました」
声が震えていた。
龍王丸はその首を見た。
苦悶の表情でこと切れた若い顔である。龍王丸とさして年のころは変わらない。
「留守居の子か」
「は。館に残っておりました。父と兄は富田へ出ておるとのことで」
「それがいた館には火をつけたか。蔵は」
若者は止まった。
「い、いえ。まずは首を」
「戻って、燃えたか見てこい」
若者は口を開きかけたが、すぐに頭を下げた。
「その首は捨てていけ。腐る」
若者は手にしていた首を地面へ置く。
そして、駆け出そうとしていたところに声をかけた。
「待て、名は」
「西木弥次郎にございます」
「弥次郎。一番槍。約定通り、米二十石、塩五俵。見事だ。次も頼む」
弥次郎の背筋が伸びた。
「はいっ」
弥次郎は坂を駆け下りていった。
首だけが地面に残った。
外記はその首ではなく、弥次郎の背を見ていた。
その視線には、反感がまだ滲んでいる。だが今は諦観の色味が強くなっていた。
「この調子で甲斐者同士、すべて争わせるおつもりか」
「それは無理だ。一月では、甲府の東で精いっぱいだろう」
「されど、飢えは伝わりますからな」
宮内が言った。
「他の村を襲うことを覚え、うまくいくと知った者らは、別の土地も襲いましょう。火をつける者を一人一人教える必要はございませぬ。腹が教えてくれまする」
「そうなった者が河内や駿河に来ないようにせねばな」
龍王丸はいたって真面目に言ったが、宮内は笑った。
外記は笑わなかった。
その時、ひと際大きな炎が上がった。
館の屋根へ火が回ったのである。暗い山の上からでも、塀の内側が赤く染まるのが見えた。
少し遅れて、屋根の一部が崩れる。火の粉が夜空へ散った。
坂の下で歓声が上がる。
今川の兵だけではない。穴山の者も、河内の者も混じっていた。
龍王丸は地図へ墨を置いた。
館の名の横に一つ。それから、大田和へ続く道の上に、もう一つ。
その夜、上野から大田和へ続く川筋には、夜半を過ぎても火が残った。
焼け出された者は、まだ煙の上がっていない村へ向かった。
はじめは親類を頼り、次には門を叩き、最後には蔵を探した。
戸を開ける家もあったが、夜が更けるにつれて、どの家も内側から戸を塞ぐようになった。
報せは走った。だが、荷駄の通る橋は落ち、馬は奪われるか斬られている。
国人らが兵を集めるより早く、腹を空かせた者たちが村から村へ流れ込んだ。
翌朝、まだ煙の残る道で、米を背負った者が追われていた。
追う者もまた、甲斐の者であった。
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同刻、富田城はまだ持っていた。
武田の包囲の成果は時がたつごとに上がっている。
囲みは日ごとに狭まっている。外郭の柵はいくつか破れ、城下に残っていた小屋も焼け落ちた。
夜の篝火は細くなり、土塁の上に立つ者の数も、最初の頃に比べれば明らかに少ない。
また、これらの物理的な圧迫により、城内の心も削っている実感があった。
だがそれでも、城は落ちない。理由としては大きく三つ、一つは富田城に兵糧があること。
もともと富田城には一万に達しようかという軍勢を食わせるだけの兵糧がある。
兵数が半減した今では、足りなくなるという不安はないのだろう。
水の手を切る手も打っているが、こちらは普請が終わらない。
もう一つは福島勢の気勢が戻りつつあること。兵庫助が意識を取り戻したという話が陣中に広がっているのだ。
無論、すぐさま馬に乗って駆け出してきたり、軍勢をまとめて撤退ということはできないだろう。
しかし、武勇の大将が生きているということで福島一門の粘りが戻った。
そのせいか、降伏を呼びかけても、返りは鈍い。降伏の文、それ自体は受け取るのだが、うんともすんとも言わない。
門前に立った使者は、長く待たされた末に戻ってきた。罵声もない。
矢もない。ただ、城壁の上から見下ろされ、やがて人影が消えただけである。
最後の一つは、富田城に救助軍が河内にいると知られたことだ。
これが一番大きく、遠巻きにも活気づいているのが見て取れる。
武田五郎信直はしばらく城を見ていた。
「河内に今川の援軍が入ったという話、相当喜んでおるようだ。」
板垣駿河守が脇で頭を下げた。
「そのようにございます。昨夜あたりから、城中の声がまた少し戻っておりまする」
「敗れてから、まだ一月も経っておらぬ。兵庫助と援軍で意気が残るのも当然か」
五郎は低く笑ったが、愉快げではなかった。駿河守は、富田城から目を離さぬまま言った。
「甲斐の冬は厳しゅうございます。帰り道が山に閉ざされれば、気も折れましょう。その後、今川と講和いたせば、今少し得るものもあるかと」
「気休めなど不要だ。それより甲府の様子はどうだ」
駿河守は、すぐには答えなかった。
「火はまだ収まりませぬ。加えて、国人衆らが落ち着きませぬ」
「自領へ兵を戻したいと願う者、どれほど出た」
「まだ様子見程度ですが三家ほど。無論、今のところは押しとどめておりまする。されど、焼き働きから逃げおおせた者が陣に姿を見せてより、どうにも皆、気もそぞろにございます」
ふうん、と五郎は相槌を打つ。
数日前、市川あたりの国人衆の倅が、息も絶え絶えで陣に転がってきた。聞けば今川の兵らが大挙して訪れ、蔵や田畑に火をつけて行ったらしい。
当の今川の兵らは、河内の一件の報復だ、と銘々叫んでいたという。
ちなみにそのすぐそばに案内として河内の者がいたとも言っていた。
五郎はそれを聞いて、内心で少し笑った。
これをやったやつは相当に面の皮が厚い。
自分で河内に火をつけ、河内の者らを扇動し、甲府を燃やそうとしているのだから。
ただ、笑ってばかりもいられない。
現に甲府の国人衆らは腰が引け、少しでも兵を自領に戻せないかと相談してくる始末だった。
「くだらん。今、包囲を解いてどうする。いまさら戻ったところで、焼けた田畑が戻るものか」
「これ以上焼かせぬためにと、自領へ兵を戻したいと願う者もおりまする」
「たわけが。焼き働きどもは甲府の南東から動けぬ。それ以外の者らには関係なかろう」
焼き働きの者が河内から出ている以上、襲撃地点は限られる。
今回出兵している者らの大半は関係がないのだ。
だが、五郎がそう言い切っても駿河守の顔は晴れなかった。
「されど、甲府の南は大火でございますぞ。橋が焼け、牛馬までやられております」
「今、兵を割ってどうする、兵庫助の二の舞を踏むか。富田城が落ちれば、今川の財で賄える。負ければ灰のままよ」
と言いつつも、五郎は現状をさして悲観していない。国人衆の力を削ぐ、というのは大局的に見れば悪くない。
富田城が落ちれば、今川から譲歩を得られる。その譲歩で財をもぎ取り、国人衆らを選別し、復興時に貸しとともに首枷をつける。
恨みはすべて今川軍に向ければ、まず甲斐はまとまるはずだ。
まだ時間は自分の敵に回っていない。
そう結論付けたところに、甘利九衛門が陣を訪れた。
手には折りたたまれた文と、小袋を引っ提げている。
「御屋形様、文が届きましたぞ」
「読め」
「いえ、某の口からは」
苦々しい顔の九衛門を五郎は鼻で笑った。
それから黙って手を伸ばし、差し出した文を受け取った。
ざっと目を走らせる。読み終えると、五郎は今度は声を上げて笑った。
駿河守がその様子に目を瞬かせた。
「吉報にございますか」
「ちがうわ、たわけ。きわめて悪い。やはりこやつ嫌な手を打ちおるわ」
文は五郎にあてたものではなかった。
甲斐の国人衆へ宛てたものが回ってきたものだった。
内容は恭しく以下のようなものである。
此度、塩路を滞らせ、田畑を荒らし、堤を損じ候段、誠に本意ならず候。
兵庫助ならびに富田の者どもを救わんと逸る者を、こちらにて制しきれず、また田畑を焼かれ候河内衆、穴山筋の者どもも気色立ち、かようの仕儀に及び候。
ひとえに当方不徳の至りに候。
されど、当方の望みは、兵庫助らを駿河へ引き取ることにて候。
それ叶い候わば、当方も兵を返すべく候。
各々、自領へ人数を戻され候わば、その地へ重ねて手出し致すまじく候。
もとより今川を信ぜよとは申さず候。人数を自領に置かれ候わば、当方が約を違え候時にも守るべく候。
五郎殿へは、今川勢より自領を守るためと申し開かれ候え。
自領へ戻られ候方には、塩少々を届け申すべく候。
「まあ、つまるところ、駿河から来た福島勢と河内者が国人衆の領地を燃やしている。止められないから、早々に自領へ戻れということでしょうか」
文を覗き込んだ駿河守が訝しげな顔で尋ねた。それに九衛門が首を振った。
「いえ、駿河守殿。自領へ戻れば、塩も回すとあります」
「どうでもいい。どうせ守られん約束であろう。それよりこの五郎への言い訳まで考えるとは、親切に過ぎるな」
五郎は九衛門が持ってきた袋を開けた。中には塩がぎっしりと詰まっていた。
白く透き通るような塩。ここ数年で甲斐の村々を席巻している遠江、駿河の塩である。
甲斐の国人衆らにとっても最早なじみ深いものであろう。
五郎は文を膝へ落とした。
「どうせ、国人衆らにも届いておろう。何か五郎に話したきことがある、そう言って陣の外に並んでおるのか」
九衛門が首を横に振った。
「今はまだ、互いに顔を見合わせております。ただ、そのうち並びましょう」
九衛門と駿河守の視線が五郎に注がれた。
如何しましょうか。と決断を求める視線だった。
五郎は当然とばかりにまた鼻で笑った。
「小幡虎盛に三百を与え、甲府に向かわせよ」
駿河守の眉がわずかに動いた。
「兵を裂くのは悪手、兵庫助の二の舞と仰ったのは御屋形様では」
「馬鹿。放置すれば明日にも国人共が櫛の歯が欠けたように散っていくだろう。ならば今、こちらで兵を出す」
「にしても、御屋形様のお手元の兵を向かわせては、いささか」
「たわけ。今の富田城に精鋭は不要。数を見せれば落ちる。それに今の甲府に国人共の兵など向かわせれば、騒ぎが大きくなるだけよ」
五郎は文を指で押さえた。
「村々に残る者らは、もはや他所の兵など入れぬぞ。武田の旗を掲げて、無理やり見回るぐらいでなければ意味がない」
九衛門が深く息を吐いた。
「されど、火の回り具合を見るに三百の兵で止まりましょうか。千は裂かねば、道々を抑えることもなりませぬ」
「そうさな。抑えられん。どうせ後手後手よ」
「では、形だけと、国人衆らが騒ぎませぬか」
「どうせ形しか見えぬ輩だ。問題なかろう」
九衛門と駿河守が顔を見合わせている。
それに気を払わず、五郎は富田城へ目を戻した。
「いずれにせよ、腹はくくっておけ。我らが富田城から動けん間に、相手はまた動くぞ」
それから、小幡が三百の兵を率いて甲府筋へ戻り、数日が過ぎた。
五郎の想定通り、富田城の趨勢は時間がたつにつれ、武田方へ優位に傾いた。
また、三百の精兵が甲府に向かう姿を見た国人らも、一定の納得をしたようだった。
城を囲む陣では、帰参を願う声がひとまず細った。
何日も続いた甲府筋での焼き働きの報が、ひとまず止んだのも大きかった。
甲府の村々での奪い合いは続いているが、こちらも甲府以外には広がりを見せていない。
五郎はそれを聞いて、首を傾げた。
あの性根のひん曲がった相手が、この程度で引き下がるだろうか。
そんな予感が消えてくれなかった。
それゆえに、次に報が届いた時、やはりかと五郎は笑うしかなかった。
五郎のもとへ次に届いたのは、武田の府中が燃えたという報であった。




