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3章_6

二度目の焼き討ちから一夜が明けた。


河内の東では、あちこちの村からまだ白い煙が上がっていた。

蔵は焼け落ち、田畑は黒く焦げ、厩も屋根を失っている。

夜のうちに火勢は衰えたものの、灰の下にはまだ熱が残っているらしく、ときおり細い煙が立ち上った。

焦げた木と土の匂いが、朝になっても消えずに残っていた。


その焼け跡を、一人の今川家臣が睨んでいた。

軍馬にまたがっているが、平服であり裾の端々が灰や泥で汚れている。


「武田め。許せぬ」


煤だらけの顔で吐き捨てるように言った。

その声は喧騒の中においてもよく通る。

少し離れたところへ寄り集まっていた者たちが顔を上げた。


煤に汚れた姿のまま、何人かが恐る恐る近づいてくる。

着の身着のまま逃げたのか、履物すら揃っていない者もいた。

幼い子を抱いた女が一人、その後ろから家臣の様子を窺っている。


「今川様」


その集団の中から、年嵩の男が掠れた声で呼んだ。

今川の家臣は振り返ると、深く顔をしかめた。


「この集落のものか、とんでもない目にあったな」


馬上の武士と話をするというのは、気の進まぬことであったのだろう。

男は思い出したようにかしずこうとした。

だが、それより早く、今川の家臣は颯爽と下馬し、男の手を取った。

男の痩せた体がびくりと震えた。


「許せよ。昨夜の火は、我らの陣からも見えておった。だが、手は出せなんだ」


強張った男はすぐには答えなかった。

後ろの者たちを一度見てから、また家臣へ顔を戻す。


「よい、申せ。そなたらは胸の内を言ってもよいのだ」


その言葉で堰を切ったのか、男の眦に涙が浮かんだ。


「なぜ、我らが、このような」


今川の家臣は神妙に頷いた。


「武田よな。穴山殿と少々もめておる。今川が仲裁にと思ったが、逆効果であったやもしれぬ」


今川の家臣は大仰に振り返り、陣所に並べられた旗と軍勢を見た。

いや男たちに見せた。


「あ、あれだけの軍勢がいれば、武田の兵など追い払えたのではありませぬか」


今川の家臣は苦そうに口を曲げた。


「許されよ。穴山殿から、河内のことはこちらでするゆえ、何もするなと固く止められておったのだ」


農民たちが互いの顔を見た。

後ろで誰かが小さく何かを言ったが、聞き取れなかった。

年嵩の男は地面へ目を落とし、しばらく黙っている。

今川の家臣は焼けた田畑へ顔を戻した。


「我らも、まさか同じ甲斐者同士でここまでのことをするとは思わなんだ。秋の実りまで奪っていくとは、武田殿と穴山殿の確執は深いのやもしれぬ」


言い聞かせるような言葉であった。だが民らは誰も答えなかった。

風が吹き、崩れた蔵のあたりから灰が舞った。


少し離れたところでは、一人の男が焼け跡を掘り返していた。

灰の中へ腕を差し込み、しばらくして黒く焼けた籠を引き出したが、底が抜けている。

男は中を確かめるでもなく、それを脇へ置いた。


今川の家臣はその様子を見ていた。

深々と眉間に皺を寄せ、誰が見てもわかる憤慨具合であった。

今川の家臣は、しばしのち口を開いた。


「だが、案ずるな。手はある」


「何をそのようなことを」


先ほどの男が悲痛な声とともに項垂れた。


「種籾どころか、稗も粟もありませぬ。今日、口に入るものすら残ってはおりませぬのに」


男の声に驚いて、赤子が泣き出した。

後ろにいた女が、抱いていた子を少し持ち直し、少し声がおさまった。

今川の家臣はそれを見て歯を食いしばった。

それから、十分に間を置いた後、笑みを作り切り出す。


「案ずるな、今川が出そう」


その言葉に男は顔を上げた。

今川の家臣は同じ調子で続ける。


「確かに我らは穴山殿に手は出すなと言われておる。おるが、米を出すなとは言われておらぬ。おお、塩もそうだな」


農民たちが顔を見合わせた。

喜ぶ者はいない。礼を言う者もいなかった。

男の後ろにいた若い者が口を開きかけ、隣の者を見る。女も子を抱いたまま動かなかった。

煤と泥で汚れた顔には一様に困惑と不審が浮かんでいる。

今川の家臣はしばらく彼らを眺めていたが、やがて納得したように頷いた。


「そうか。そなたらも、ただで食い扶持を与えられれば、穴山殿に何か咎められるかもしれんな」


誰かが息を呑んだ。

それを見た後、今川の家臣は声を落とし、呟くように言った。


「民にも厳しいお方だ」


農民の内、一人が後ろを振り返った。

つられるように、もう一人も村の方へ目をやる。

焼け残った家の間には誰もいなかったが、二人ともすぐには前を向かなかった。

年嵩の男がようやく口を開く。


「穴山様に、そのような。我らは、ただ」


そこで言葉が止まった。

何を言おうとしたのか、家臣は尋ねなかった。

顎を撫で、少し考えるような顔をしてから笑った。


「ならば、少し機転を利かせてみようではないか。うむ。そなたらが決して叱られぬようにしよう」


---


その日のうちに富士川筋の街道にて、普請が始まった。

最初に動いたのは、十人にも満たなかった。方々の集落からまずは男手だけが集められたのだ。


彼らは今川陣に近い道に連れてこられると、まず昨夜の騒ぎで荒れ果てた道を直すことを命じられた。

事実、道の状態は酷いもので、荷駄が通るたびに車輪が沈み、馬が足を取られる。


「これをすぐに直せとは言わん。ただ、今のままでは河内の者も困ろう」


そういって普請のまとめ役は、脇の土を削って窪みを埋めるよう命じた。

何をさせられるのかと身構えていた者も、仕事の中身が分かると黙って鍬を取った。

この程度であれば、各々の集落でもやっていたことであるからだ。


煤けた肌を晒し、額に汗を流していても、農民らの鋤はあまり早くならなかった。

頭の中にある今後の不安が時間がたつごとに大きくなっていたのだ。

だが、昼近くまで働いた頃、陣から米が運ばれてきた。


大きな俵を見て、農民たちは手を止めた。

今川の兵が縄を解き、升で量る。働いた者の前に、一つずつ袋が置かれていった。

最初に受け取った男は、固まったまま動かなかった。


「何をしておる。今日は昼まででよいと言ったろう。さあ、持って帰れ」


後ろがつかえておる、と言って軽くその者の肩を押すと、男はようやく袋を持ち上げた。

思っていたより重かったのか、一度傾き、慌てて両手で抱え直す。

その後ろにいた若い者も米を受け取った。

誰も礼を言わなかった。困惑の中、これでいいのかと、何かを疑いながら米を受け取っていく。


今川の家臣もそれらを非礼と咎めることはなかった。


働きに出た男たちが村へ戻る頃には、今川のところで米が出たという話が先に走っていた。

ゆえに男らが帰ったあと、数刻が過ぎる前に、別の村から人が来た。


三人。先ほどの者らより聊か屈強な体をしている。


「その、働けば米を」


「おお、よう来た。よう来た」


今川の家臣は破顔しながら、道の向こうを指した。


「見れば分かろう。あそこが狭い。荷駄が通れぬ。あそこが通ればな、駿河や遠江からどっと米や塩が送れるのだ」


今川の家臣は、それだけ言った。

それだけであるが、三人の男らは顔を見合わせた後、やがて鍬を借りた。


そこからはその繰り返しである。

村々から男たちが現れる。それに対して、今川の家臣が、あそこを通せ、そこが詰まっている、など指示を出す。

それだけで徐々に普請は形になった。

道がましになり馬が通れるようになると、馬を扱えると言う者には荷を引かせた。

木を扱える者は川筋へ回し、渡しを直させる。背負える者には荷を運ばせた。


無論、刻限が来たら米と塩を渡す。

働きのいい者には、褒めた後割増しで渡した。


これらはこの場だけで行われているものではなかった。

今川の者たちは、あちこちでこれと同じことを行っていた。


その結果、夕方を待たず、河内のあちこちで人が動き始めた。


鍬で土を削って荷駄の通れぬ狭い箇所を広げ、雨でえぐられた道へ石を詰める。

ぬかるみには枝や木を敷いた。背に荷を負う者がいれば、馬を引く者もいる。

川筋では崩れた足場を組み直し、渡しの近くへ新しい杭が打たれていた。


人が人を呼び、普請に集まる数は時が過ぎるうちに増えていった。

最初に米を受け取った男は、午後には弟を連れて戻ってくる。

別の村から来た者は、仕事を終えると何も言わずに帰り、しばらくして親戚を連れて現れた。


河内全域から見ればあまりに狭い富士川の一部に、あまりに多数の人間がひしめき合って動いていた。


その様子を、少し離れた尾根の上から龍王丸が眺めていた。

傍らには左京進と彦三郎、それとただ一人満足げな承菊がいる。


龍王丸の座すそのすぐ下では数人の男が、大きな石を道の端へ転がそうとしていた。

その光景を見ながら、左京進と彦三郎は長いこと黙っていた。

承菊だけが何かと龍王丸に話しかけてくる。


「さて、穴山殿が何か言ってこないのが気になりますな。いっそ妨害でもしにくるかと思うておりました」


どちらも大して意味がない。

というより、妨害は明確に悪手である。

それを穴山が理解して沈黙を保っているのであれば、


「我慢強く、賢いな」


「ただ穴山の蔵を見に行って戻らぬだけではございませぬか」


「さてな」


龍王丸は下を見たまま黙った。

そこで左京進がとうとう口を開いた。


「これで穴山が味方になるとでも思われたのですか」


「穴山などどうでもよい。河内の民も、さして味方にしたいとは思っておらぬ」


眼下でまた掛け声が上がった。

四人がかりで押していた石がようやく道の脇へ落ち、土煙が上がった。

近くにいた者たちが慌てて身を引く。

左京進はその様子を見届けてから口を開いた。


「では、なぜ焼かれたのでしょうか。これでは河内は飢え、人が絶えましょう」


「絶えてもよかろう」


左京進の視線が、働く者たちの向こうへ移った。

そこにはまだ黒く焼けた田畑が広がっている。

朝には煙を上げていた場所のいくつかは、今も白く霞んでいた。


「河内が飢え、人が絶えるのであれば、よい通り道になる」


龍王丸は平然と答えた。


「だが、こちらの指図に従うのであれば、力として組み入れる。それでよい」


左京進の口元が固くなった。

すぐには次を言わなかった。


下では米の袋を抱えた男が道を上っていた。

途中で足を止め、下から来た少年に声をかける。少年は袋の端を持ち、二人でまた歩き始めた。

龍王丸はそれを見て頬を緩めた。左京進はその表情を見て、さらに顔をしかめた。


「では、河内の民らがそのどちらでもなければ、いかがなさいます。山々へ散り、その恵みで生き延び、恨みを抱けば」


龍王丸が目を向ける。


「恨みを武田へ向ける分には構わぬ。ただこちらへ向けば」


そうさな、と視線を眼下の子供らにやった。

松寿丸と大して変わらない年頃の子供も混じっていた。


「山を焼く」


龍王丸はそう答えた。左京進は何も言わなかった。

その後、無言のまましばらく山肌に目をやった。河内の山々もやはり貧しかった。

土地の者に聞けば大雨による山崩れが最近立て続けに起こったらしい。


「いや、焼くまでもないこと」


「若君」


「放っておけ。もはや組織立って動けまい」


尾根を渡る風が強くなった。

下では、今川の兵が何か怒鳴っている。荷駄の一頭がぬかるみに足を取られたらしく、近くにいた者たちが駆け寄った。

二人が馬具を引き、別の者が車輪の下へ木を差し込んでいる。


左京進はまた口を閉ざした。

隣にいた彦三郎は、しばらくその様子を見ていた。


「若君は、はじめから今のようになると見ておられたのでしょうか」


彦三郎は顔を白くしていた。

だが昨日よりもしっかりした口ぶりであった。


「まあ、そこまで意固地にならず、我らから食い扶持を貰って働くと思っておった」


だが、自分の見立てなどあてになるものではない。

燃やされた側にとっても何の慰めにもならない。


龍王丸の言葉を聞いて、彦三郎の眉が僅かに動いた。

龍王丸はまた足元の普請を見つめた。

人々の手は止まらないが、それでも普請の全体工程から見れば大した進捗ではない。

左京進もそれを見ながら、また口を開いた。


「されど、今ある道をいくら繕っても、大軍を通し続けるには足りませぬ。雨が続けばまた崩れましょう。

 橋も渡しも、これでは仮のものに過ぎませぬ。河内を真に我らの力とするなら、数年はかかりますぞ」


「河内の民の働きは勘定に入っていない」


龍王丸は普請の一か所を指した。

普請そのものではなく、報酬をもらう人の群れがそこにあった。


「重要なのは、河内の民が進んでこちらに従うという形に収めることだ。一度頭を下げ、食い扶持を得れば、あとは流される」


「そこまで単純な民ばかりではございませぬぞ。勘づく者も」


「そこまで賢ければ口には出さんよ。従わねば子供ごと飢えて死ぬのだから」


龍王丸は先ほど足元を通った子供を思い出した。

子供特有のふっくらとした頬。あれがこけていくのは忍びない。

黙りこくった左京進に代わり、彦三郎が前に出た。


「河内で足場を得たことは分かりました。されど、それで富田への救援が早まるわけではございませぬ」


龍王丸は答えず、山道の向こうへ目をやった。


「そちらは本命を呼んだ」


左京進と彦三郎も、そちらへ目を向けた。

しばらくは何も見えなかった。

風に揺れる木々の間から、ときおり鳥が飛び立つだけだった。

やがて、遠くで鈴の音、蹄の音が響いて来た。

そのうち、木々の間から馬の頭が一つ現れ、続いて二頭、三頭と姿を見せ、その後ろから人が出てくる。

それらの列は、いつまで待っても終わりが見えなかった。


先ほどまで眼下で道を直していた河内の者たちも、次々と手を止めている。

武田か、などとあらぬ疑いを抱き、身を隠そうとする者もいた。

それを今川の家臣らが大きな声で笑い飛ばした。


列の先頭近くにいた男が、龍王丸の視線に気づいた。

何かを後ろの者へ告げ、馬を下りる。

そのまま坂を上がってきた。龍王丸の前まで来ると、一度大きく息を吐いた。


「お久しゅうございます。御料様」


天野宮内右衛門がそう言った。

見覚えのある顔だった。少なくとも一年前は毎日のように拝んだ顔だった。

以前より幾分日に焼けたように見える。

だが、坂を上がってくる足取りも、龍王丸を見つけた時の顔も変わっていなかった。


「もう御料様ではないが、久しい」


龍王丸は口角を上げ、出迎えた。



-----


八郎が甲府へ戻ってから、しばらくが経った。


首をうたれるとまでは思っていなかったが、歓迎はされることはないとも考えていた。

事実、武田八郎は今川軍に参加していたのだ、侵略者として白眼視されて当然と認識していた。


だがそのような覚悟とは裏腹に、武田側の扱いは悪くなかった。

城の牢に閉じ込められることはなく、躑躅ヶ崎城下に粗末でない屋敷をあてがわれ、供を置くことも許された。

刀を取り上げられたわけでもなく、庭へも自由に出れた。

無論、門を出れば、誰に会ったかを詳しく詮議されるのだが、これについても八郎には不満はなかった。


これらは駿府での人質生活と大差なかったからだ。

いや、むしろ、今川を見限って甲斐に戻った一門ということで、甲斐の者らの気遣いを感じた。

特に八郎がこちらに戻ることになった契機、福島勢との戦の趨勢については詳細に教えてもらった。


やはりというべきか、福島の野心は八郎の想像を絶するものだった。

大人しく引き下がると思ったが、どうやったのか駿府から援軍を引き出し、そのまま富田城を占拠したのだ。

武田の御屋形様がこれに大勝をしたということで、胸をなでおろした。

だが、またさらに福島が援助を求めたと聞いてさすがに身構えた。


このまま延々と戦争が続くのか、自分の判断が間違いだったのかと眠れぬ日も続いた。

だが、その不安も徐々に薄れていった。援軍に来た兵は高々二千程度で、率いるのは幼い龍王丸という。

ああ、これは戦も折衝の段階に入ったのだなと、八郎はまた安堵することができた。


数え年十かそこらの子供に何ができようか。

きっと、甲斐の情勢は落ち着く。今川も頭を冷やそう。


ゆえに八郎の心は凪いでおり、いっそ富田城に残された敗残兵らを心配する余裕すらあった。


そのため、武田の家臣である駒井が訪ねてきた時も、富田の話だと思ったのだ。

当の駒井の来訪は昼を少し過ぎた頃だった。

それは八郎が庭先で供の者と話している時であり、ちょうど富田城について話している頃合いだった。


「八郎殿、少しよろしいか」


そういって駒井はひょっこりと庭先から声をかけた。

駒井は八郎の世話を焼いてくれている人間である。

それゆえずいぶん気やすい登場であったが、誰も気に留めなかった。


「もちろんにございます。何かございましたか」


八郎も別段気を張ることなく、敷物を用意したが、駒井はすぐには座らなかった。

ただ少々難しげな顔をして、八郎の周囲にいる者たちへ目をやった。


「御身の言葉を賜りたい。できれば二人で話したいのだが」


八郎は少し妙に思ったが、すぐに頷き、供の者たちは一礼して部屋を出ていった。

襖が閉じられ、足音が遠ざかるのを待ってから、駒井は懐へ手を入れた。


「本来ならば御身へ申すべきことではないと思うたのだが、どうにも腑に落ちぬことがある。やはり八郎殿にも見てもらいたい」


膝前へ置かれた文を、八郎は手に取った。

書かれていることは多くなかった。


河内の東で夜半に火の手が上がった。

ひとつではなく、複数の村で蔵や田畑が焼け、兵らしき者が動いたとの話もある。

何者の仕業かまでは分からない。


一度読み終え、もう一度目を走らせる。

尋常なことではなかった。

内心の困惑を噛み殺しながら、八郎は言葉を絞り出した。


「河内で、これほどの火が出たのでございますか。では、やはり今川が」


「まず疑うべきは今川であろうな」


八郎は文を膝へ置いた。手汗が文を僅かに濡らしていた。


「ですが今川と穴山は、表向きには事を構えておりませぬ。河内のことを考えれば、今川も穴山を軽々に敵へ回したくはないはずです」


「そうさな、信風殿や外記殿ならばうまく矛を避けるそう思っていた。だがやはり疑われておったのかもしれぬ」


駒井は静かな声で続けた。


「やはり自分が甲府に戻ったことを責められたのでしょうか」


「さて、それを疑ってのことであれば、福島兵庫が無事な折に手を下したのではないか」


八郎はすぐには返せなかった。駒井の言葉が気やすめだとわかっていたからだ。

今川が敗北を喫したから、旗色が定かでないものに強く当たる。このことは十二分に考えられる。

今川は敗北を穴山のせいだとして、さらに火をつける可能性すらあり得るように思えた。


「愚見でございますが、兵を出すべきではございませぬか。御屋形様は甲斐守護であらせられる。今川が河内へ入り、穴山を焼いたというのであれば、これを追い散らす大義も立ちましょう」


穴山もそうすれば正式に膝を屈するのでは、そういう意味も言外ににじませた。

だが駒井の顔が苦くなった。


「富田へ背を向けられるのであれば、とうにそうしておる。あの城がまだ落ちぬ以上、主力を河内へ振るわけにはいかぬ」


福島勢が減っていることは八郎も知っていた。最初の戦で傷つき、その後も死傷や逃散が出た。

城内にどれほど残っているか確かな数は分からないが、嘗ての一万に達しようかという大軍勢は見る影もない。

加えてこの士気の落ち切った軍勢をまとめ、反撃に転じることのできる将もいないはずである。


兵庫助正則は生死定かではなく、その代将となるべき古参家臣も二度の敗北で痛んでいる。

甥の弥四郎は無事らしいが、敗残兵をまとめ武田の御屋形様にぶつけられる能力はないだろう。


だがそれでも数は数である。

武田軍が背を向け、河内の隘路に歩を進める姿を見たならば、福島勢が自棄を起こさないとは言えない。


そのことは八郎も承知していた。


しかし、どうにも河内の穴山をあきらめきれない。

それで、いっそ少数の抑えを置き、本軍で河内にと提案しようとした。


だが、それより先に駒井がぼそりと呟いた。


「それに、ちと穴山殿の動きがおかしい」


一瞬何を言われたか八郎は分からなかった。

だがそれが穴山を疑う言葉と知ると、前へと身を乗り出した。


「穴山が今川に再度寝返るなどあり得ませぬ。この八郎めが城下にいるのがその証にございます」


駒井がはっとして、手を振った。


「いやいや、それを疑っているわけではござらん。家中もそこは信じておる」


「では一体何を」


これよ、と先ほど読ませた文を叩いた。

河内が燃えたという報告である。

八郎にとっては焦燥と恐怖をあおるものであった。

だが、駒井は別のものを見ているようだった。


「この火急の文だが。どこにも救援を求むような色合いがない」


それは、と八郎は一瞬、鼻白んだ。


「それは、おそらく文が今川方にわたることを恐れてあえて書かなかったのでは」


「この文を受け取った者はな、助けがいるか、援軍はいるかと聞いたらしいが、向こうの急使は苦い顔をしたそうだ」


「穴山の御当主か、一門が虜となった。そういう線はございませぬか。それで助けを求められずに困っている」


「なくはないが、この文、信風殿の直筆であろう。脅されたにしては平易に過ぎるというか」


ふむ、と駒井がまた唸った。

確かに八郎も腑に落ちない。穴山は別におとなしい国人衆ではない。

今川も手を焼き、武田も持て余している節がある。

自領を焼かれたならば、すごすごと膝を折らず、あちこちに手を回し、援軍をかき集める。

ゆえに、それがない、ということが奇妙に思った。


しばらくのち、駒井は少し困ったように笑った。考えたが、答えが出なかったらしい。


「とにかく、穴山は武田勢が河内へ入るのを嫌っておるようだ。だがその裏が読めぬ。戦の趨勢は決まったが、どうにも困ったものよ」


八郎は頭を下げるほかなかった。

自分が帰ったことで、穴山は武田へ近づいた。それが起因となり今川に焼かれた。

そして、さらにそれが元となり河内へ武田兵を入れようとしない。

武田にも穴山にも自分の判断が裏目に出ているような気さえして、居た堪れなさすら感じてしまう。

八郎はその感情から逃れたい一心で、ふとある疑問を口にした。


「御屋形様は、どのように見ておられるのでございますか。あの方は、この事態を」


その先は言葉にできなかった。

五郎という男を、八郎はよく知っている。知っているつもりではある。

もともと同族であるし、この度の甲府行きを決める際、人となりを吟味した。

思慮深いか、大将としての力量があるか、今川との関係をどうするつもりなのか、よくよく考え甲府に身を寄せると決めたのだ。

だが、近くに寄ってみると、存外その冷酷さが目に付いた。

駒井はその問いに顎へ手をやった。


「さて、本心までは分からぬ。ただ近頃、少し笑みが多くなられた」


八郎の胸が少し軽くなった。


「ならば御屋形様の目には、戦はむしろ良くなっているのでございましょうか。この度のことは穴山や甲斐に些事と見ておられるのでしょうか」


「そこが、どうも違うらしい。まあ、読めぬ方ゆえ、なんともいえぬが」


歯切れの悪い返事だった。

八郎は姿勢を正す。


「お教えくだされ。今や八郎も甲斐に身を置く者。微力ながら御屋形様へ尽くしたいと思うております」


嘘ではない。今川への恩、穴山への思い、双方とも八郎の胸にある。だが、いまさら武田に背く気はなかった。

駒井はしばらく考えていたが、やがて声を落とした。


「はっきり申せば、状況は悪くなっておる。どうも今川は、甲斐へ入る塩を絞っているらしい」


「塩で、ございますか」


唐突に出た塩という言葉である。

八郎には、その話がすぐには富田や河内と結びつかなかった。


「塩ならば、商人から買えましょう。冬も近いゆえ、どこの家でも多少は蓄えているはずです。今すぐ国中が困るようなものではないのでは」


駿河の暮らしが長かったが、甲斐の山暮らしを忘れたことはない。塩の蓄え方も同じだ。

駒井は腕を組んだまま、難しい顔を崩さなかった。


「無論、そこはまあ慣れたものよ。塩の備蓄はある。だがな、問題は、新しい荷が思うように入らぬことだ。来ても少ない。

 先々さらに値が上がると見て、商人は手持ちを出し渋り、国人衆も自領の分を抱え込み始めた」


「値が上がれば、いずれ別の商人も運んでくるのではございませぬか。駿河や遠江が駄目でも、信濃や越後の商人が嗅ぎつけましょう」


「皆がそなたのように冷静であればよいが、ほとんどの国人らは塩の備蓄が減れば気もそぞろになる。

 実際のところ、甲斐衆にも蔵が焼かれた者も出ておるし、橋を落とされた者もちらほらおる。気にし過ぎと笑い飛ばすのは、のう」


焼き働き。


戦であれば珍しくはないが、今川らしくない。

公家衆を駿府内に多く留める今川であれば、山賊まがいの真似は嫌がりそうな気もする。

無論、遠江の平定でもあったのだろうが、ここまで組織立って動くものだろうか。


「八郎殿もやはり気がつかれたか」


思い悩んでいると、駒井が覗き込んできた。


「正直、今川らしくありませんな」


駒井が膝を叩いた。


「で、あろう。某もそこが気になっておる。ゆえ、八郎殿に聞きたい」


そのまま、まっすぐこちらを見た。

どうやらここからが本題のようだった。


「龍王丸とは、いかなる男だ」


また、ぽん、と思いもよらぬ言葉が飛び出してきた。

それゆえに八郎は思わず顔をしかめ、駒井を見返した。

駒井はそれを受け、淡々と続けた。


「いやな、今川軍は十日ほど前に河内へ入った。そこですぐに穴山と事を構えた。そこまでは、一旦、武断の男であればと納得する」


河内を焼いたことは許せない。だがそれと切り離すと、確かに筋は通る。

八郎は頷いた。


「だが、武断であるとするなら、なぜ富田城に急行しない。なぜ迂遠に塩など止めだす。なぜ甲斐の国人の蔵やら橋を焼く。分からんぞ」


「たしかに二人の人間がいるようにも思えまするが、甲斐を苦しめるためなら手を変え、品を変えているだけでは」


「いや、さらにだ。なんでもこの男、河内では道を直しておるらしい。河内の民に大盤振る舞いしながらな、やらせておるそうだ。なんともまあ」


ちぐはぐな人間だ。

八郎はそう思った。


気に入らぬ従わぬから燃やす。これはわかりやすい。

相手を苦しめるため迂遠な手も使う。これもそうだ。

そこにさらに自分が焼いた民を慰撫するとなると、途端に気味が悪くなる。


少し間を置いて、駒井は尋ねた。


「八郎殿、駿府では、あれをどう見ておった。いったいどういう男だったのだ」


「それは、」


八郎は答えに窮した。

今川修理大夫氏親の嫡男、龍王丸の名も立場も知っている。だが、どのような男だったかと問われると困った。


意識したことがなかったのだ。


幼少期より聡明だとは聞き及んでいた。その扱いにくさも耳に入った。

それで何か問題を起こして遠江へやられ、その遠江でも騒ぎを起こした。

八郎の聞き及んでいる龍王丸と言えばこのあたりである。


駿府館のだれも進んで彼の名前を口にしようとはしなかった。

そもそも蟄居を命じられた龍王丸が当主になれない、八郎にはそう見えた。ゆえに早々に龍王丸の存在を頭の中から外していた。


八郎が警戒していたのは、むしろ福島だった。

武功を立て、その力を背景に己の孫を当主へと昇らせる。

その佞臣じみた動きの踏み台に、甲斐や穴山が使われる。

そう考えたからこそ甲府へ戻ったのである。


しばらく記憶を探った末、八郎は答えた。


「まず、そう大した人物ではないと思いまする。まだ若い。それに駿府でも随分と問題を起こしたと聞いております。

 今回の動きが一人の考えによるものだというのであれば、相当な曲者が傍らにいるのではありますまいか」


駒井はしばらく黙っていた。


「御身もそう見るか。まあそうよな。蟄居を許されたばかりで右も左もわかるまい」


駒井はそこで話を切った。

八郎の答えに納得したというより、ひとまず持ち帰るつもりなのだろう。


「済まなんだ。妙なことを聞いた。御身の話も含め、もう少し探ってみよう」


膝を立てた駒井につられて八郎も立とうとしたが、手で制された。

そのまま襖の前まで行ったところで、八郎は呼び止めた。


「駒井殿。河内は、どうなりまする」


駒井は振り返ったものの、すぐには答えなかった。


「それが分かれば、私はここへ来ておらぬよ」


苦く笑い、そのまま部屋を出ていった。

ほどなく、外していた供の者が戻ってきた。


何かあったのかと聞きたそうな顔をしていたが、口には出さない。

八郎も説明する気はなかった。


ただ、先ほど聞いた塩の話だけが妙に頭へ残った。


甲斐は海を持たぬが、商人はいる。蔵にも蓄えはある。値が上がれば、いずれ別の者が運んでくる。

今川がそこを絞ったところで、どれほどの意味があるのか、まだ腑に落ちなかった。

八郎と縁深い穴山は、塩で困ることはそうそうなかった。駿河、遠江から塩が途絶えず。欲すれば手に入った。


だが、甲府はどうだろうか。


ふとそう思い立って、供の者を見た。


「近頃、塩の値が上がったと聞いたが、甲府の街でもそうなのか」


男は少し驚いた。


「八郎様のお耳に入れるほどのことではございませぬが、ここ十日ばかりで随分と上がったそうです。

 もともと甲斐へ入る塩は、駿河や遠江から来るものが多うございましたゆえ、それが近頃はどうも入りが悪いようで」


「信濃や越後はどうなのだ、商人が来ぬのか」


「某も聞きかじりですが、どうにも駿河や遠江の塩が安く物が良いそうです。それで他国の塩商人が甲斐では塩が売れぬと離れたらしく」


「呼べばくる。いやそう単純なものではないか」


冬に向けて塩を欲するのはどこの国も同じである。

足りなくなった高値で買うぞ、といったところで売り先をすぐにふり直すのは難しいだろう。 


「まあ、まったく来ぬわけではございませぬ。ただ、前と同じ値では売れぬと商人らが騒いでおります。民らも安い塩になれたのか、中々気に入らぬようで」


「困った話よな」


八郎は言いながら、庭へ目をやった。

空は晴れている。富田城の方角までは見えない。


「だが、そう案ずることはなかろう。御屋形様が富田城を片づければ、また元へ戻ろう」


供の者は、そうでございましょう、と答えた。


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