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3章_5

父の寝所を出て、廊下をいくらも進まぬうちに、龍王丸は足を止めた。

すぐ後ろを歩いていた承菊が危うく背へぶつかりかけ、片足を横へ逃がす。その向こうには、朝比奈備中守と庵原安房守がいた。


ちょうどよい。


「備中守は二千の支度を頼む。安房守は遠江の天野へ使いを出してくれ」


二人とも、すぐには返事をしなかった。


つい先ほどまで同じ部屋で、病床の氏親の言葉を待っていたのである。龍王丸とて父の前では呼び出された嫡男にすぎなかった。それが敷居を越えた途端、当然のように人を使い始めるとは思っていなかったらしい。


先に応じたのは備中守だった。

龍王丸とこの堂々たる武者の関係は浅くない。すでに遠江で幾度か頼みごとをしているし、お互いに無用な遠慮を嫌うことも知っている。


「承知いたしました。二千余、出立できるところまで支度を整えまする」


「頼む」


備中守についてはそれで済んだ。

だが安房守は小首をかしげている。承菊と並ぶと、こういうところまでよく似ていた。


「若君、そちらはよいのですが、遠江への使いには何と」


「蔵を開け。塩も米も銭も使う。天野宮内へそう伝えてくれ」


安房守は龍王丸の顔を見た。

何か言いたげではあったが、結局は口にせず、深く頭を下げた。


二人は命を受けると、それぞれ別の方角へ早足に去っていった。

それを見送っていると、背後で承菊が笑った。


「何だ。嘘が真になったと喜んでおるのか」


何が承菊を使わせただ。好き勝手言ってくれる。


「いえ。御屋形様も、ずいぶん気前のよいことをなされたと思いまして」


「ああ、ずいぶん気前よく仕事を任せられた。丸投げであろうよ」


「これも嫡男の仕事でございます。それともお嫌でしょうか」


「十年後ならまだしも、今は龍王丸が背負わねばなるまい」


承菊は口角を上げた。もっと腹の内を見せてみろ。そんな顔である。

相手にするだけ損だと決め、先を急いだ。


半刻後、氏親の寝所から少し離れた座敷には、二十人ばかりが集まっていた。


呼びたかった者は、おおよそ揃っている。

兵の支度に関わる者、蔵の出入りを預かる者、塩荷の扱いに詳しい者。

急な呼び出しに、何のために集められたのか分からぬ顔も混じっていた。

だが、さして問題はなかった。ここからはひたすらに忙しい、字が読め口が利ければ十分仕事がある。。


まだ空いた座はあったが、龍王丸は待たなかった。


「遠江へ文を出せ。形はそちらで整えよ。こちらから命じるのではなく、まず何を出せるか問いたい」


家臣の一人が筆を取った。よく見れば岡部与一郎の同輩である。

与一郎が壮健か気になったが、雑念として振り払う。


「国人も家臣も商人も問わぬ。人をどれだけ出せるか、米や材をどれほど用意できるか聞け」


「人とは、兵でよろしいでしょうか」


「人足も含めよ。荷駄もだ。それぞれ何を、いつまでに出せるか問え。文は以上」


次いで別のものに視線を飛ばす。


「遠江から返事が来る前に、二千の兵が先に出る。その二千に必要なものを先に出せ。遠江から来る物はいったん葵鳥屋の蔵へ入れよ」


相手は少し戸惑った顔をした。


「葵鳥屋というのは、塩を扱う豪商だということは知っておりますが」


「どこぞの坊主が塩を売るために作った店だ。駿河の北側の蔵は開けてある。遠江から来る者はひとまず駿府に置け。そう遠くないうちに呼ぶ。そなたも以上だ」


そして、また別の家臣へ目をやった。

駿府の塩の出入りを管理している者であり、福島の出兵に時にも大いに力を振るった。

今度も働いて見せる、いくらでも甲斐に塩を運んでやる、そんな意気込みが見えた。


「甲斐へ入る塩荷を止めろ。まとまった荷だけでよい」


座の空気が変わった。

筆の音が消え、何人かが顔を上げる。


家臣はすぐには返事をせず、慎重に口を開いた。


「すでに手付の払われた塩荷がございます。これを今川の都合で止めれば、塩座からも文句が上がりましょうが」


「遠駿の塩座は文句など言わん。気にせずやれ。商人らには、こちらで買い取ると伝えよ。値は割増しで払う」


遠江と駿河の塩座は、すでに掌握が済んでいる。

供給源を握り、輸送路を握り、塩座の会合も握っていた。文句など出るわけがない。

とはいえわざわざそのようなことは説明しなかった。

しばらく考えた末、家臣は頭を下げ、足早に部屋を出ていった。


「筆を」


小姓の差し出してきた筆をとり、目の前に積まれた仕事に取り組んだ。

具体的な兵の道筋と組頭の差配。あとは何だ。

龍王丸が頭の中に積んだ仕事を確かめていると、襖の外から声がかかった。


「若君、御評定中のところ申し訳ございませぬ」


その傍らに、小さな子供が立っていた。


松寿丸。

自分の同腹の弟である。

とはいえ、まともに顔を合わせたことすらない。

松寿丸がまだ赤子の頃に顔を見た。それぐらいだったはずだ。


「申せ」


龍王丸は横目で弟を見ながら、花押を書き続けた。

銭、米、塩。自分の隠し蔵と言えど、動かすには許しが要る。少なくとも天野宮内は無断の出し入れを許さないらしい。


そんなに真面目な男だったか。


疑問に思いながらも手を止めない。


やってきた家臣は、そんな龍王丸を見て少し顔をしかめた。それでも何も言わず、口を開く。


「松寿丸様が、御兄君の甲斐御出陣の折、一目でもお会いしたいと」


「そうか。殊勝である。されど今は多忙だ。このままで済ませよ」


ずっと蟄居していた兄など、どうでもよいではないか。

それに対してわざわざ機嫌伺いとは、いったい誰がそんなことを吹き込んだのか。


そう思ったが、今ここで問い詰める気にはならない。

花押を終えると、次の書付へ手を移した。仕事と仕事の合間に、またちらりと弟を見る。


松寿丸はこちらを見上げていた。

居並ぶ大人たちに気圧されているのか、口を開きかけては閉じている。やがて意を決したように尋ねた。


「兄上でしょうか」


「そうなる。母が御台様ゆえ、同腹の兄である」


松寿丸の顔が、ほんの少し明るくなった。

それを見て、この子が哀れになった。

父が目の前で倒れ、今は得体の知れない兄の顔色まで窺わねばならない。

このような男を兄と仰がねばならない。

そう思うと、ふと口が軽くなった。


「松寿丸。この龍王丸が死ねば、次はそなたが嫡男だ。まずはそのつもりでいよ」


また座敷がどよめいた。

松寿丸も目を見開いている。


「この龍王丸には子がおらぬ。甲斐では何が起こるか分からぬし、命を落とすやもしれぬ。ここまでは分かるな」


松寿丸が真剣な顔で何度も頷いた。

年の割に幼く感じる。それを見ると、可愛さよりも不安が勝った。


「そうなれば、そなたが今川の嫡男となる。不幸なことであるが、覚悟はしておけ」


「不幸なのでしょうか。皆は、嫡男になれと」


松寿丸を連れてきた家臣らが、さっと青くなる。

同腹の兄弟同士を殺し合わせて、どうするつもりなのやら。


呆れながらも、龍王丸は筆を動かした。


「不幸であるな。兵庫助を破った甲斐兵と相対し、背後では弟を嗾ける者まで潜む。安心などできぬ」


「龍王丸様、某は」


龍王丸が顎をしゃくると、護衛の一人がその者の肩に手を置いた。


「兄上様、甲斐の兵と一人でぶつかる必要はないのではないでしょうか。今川には精兵が」


「当主となれば、兵の精強さだけをあてにするな。己一人になろうとも、いかなる手を使ってでも臣民を守る。それぐらいの覚悟はしておけ」


松寿丸がぽかんとした。

なるほど、このぐらいの年の子へ言うべきことではなかった。

それに、今さら自分が言うことでもなかったかもしれない。


父代わりのつもりになったが、無意味であったか。


「ついこの間、御屋形様にも同じようなことを言われました。書を読み、何事にも備えよと」


ああ、やはり自分が兄貴風を吹かそうというのは無理だった。

必要なことは父がやっているではないか。


そう思うと、少し肩が重くなった。


「左様か。ならば父の教えを守り、書を読み、力を蓄えよ。あとは御台様らをそなたが守れ。以上だ。下がってよい」


急に多くのことを言われ、松寿丸はぽかんと口を開けた。

それでも少し遅れて頭を下げる。


「承知いたしました。本日はお時間をいただき、ありがとうございました」


「よい。すまないが、誰か松寿丸を戻してやれ。こんな所に長く置くな」


家臣が頭を下げた。


松寿丸は促されても、すぐには動かなかった。

まだ何か言いたげにこちらを見ている。


龍王丸はまた少し迷った。


「帰ったら話を聞く。それでよかろう」


今度は素直に頷き、松寿丸は家臣に連れられて出ていった。


襖が閉じる。


龍王丸は、止まっていた遠江宛ての文へ目を落とした。

自分の花押があれば、すぐにでも出せる状態だった。



----


駿府を発って数日、龍王丸は二千余の兵を率いて甲斐河内へ入った。

だが、すぐに富田城には進軍せず、河内に仮の陣所を構えている。

龍王丸は床几に腰掛けながら、あたりを見渡した。


やはり、貧しいという印象を受けた。


春から幾度も兵が通った土地である。

道沿いの村々に余分な米が残っているはずもなく、馬に食わせる草まで近場では足りなくなっていた。

しかし、河内の民の顔色は暗くない。

もうすぐ秋の収穫がある。そのことが心を上向きにさせていると窺えた。


ただ、そうはいっても、今日口に入るものが乏しいことも事実である。

二千が一夜を明かすだけで、それだけで翌日の支度に困るだろう。


龍王丸は自軍の一団に視線を移した。


駿府を出た時には一つであった軍も、河内へ入る頃には長く伸びている。

先頭が陣を定めても、後ろではまだ馬が坂を下り、人足が荷を担いでいた。

もしこれらをさらに北へ押し出せば、その尾はもっと長くなるだろう。


仮の陣所では、岡部左京進と関口彦三郎が広げられた絵図を見ていた。


顔を上げた二人と同時に視線が合った。

左京進がそれを機と見たのか、龍王丸に向け問いを浴びせた。


「このまま富田城へ入られるのでございますか」


「入りたくとも、そう容易くは入れてくれまい。仮に入れたところで、後が続かぬ」


それは、と彦三郎が尋ねかけたが、口を閉じた。


関口彦三郎はあくまで今川一門としての見届け役である。

軍事についての意見を申すことを避けたようだった。

軍の進退について意見を申すのは、まず軍監としてつけられた左京進の役目である。


双方とも駿府の信任が厚いが、龍王丸に心を許していない。

そのことを評価され、この度に目付け役に任じられたようだった。


左京進と彦三郎が互いに顔を見合わせ、遠慮をしあっている。

そんな中、ようやく折り合いをつけた左京進が何か言おうとする。

まさにその時、陣幕の外から承菊の声がした。


「若君。穴山殿がお目通りを願っておられまする」


龍王丸は絵図から顔を上げた。


「通せ。左京進、進めぬ理由が来た。ここから先は、しばらく何も申すな」


左京進の顔が露骨に曇った。

言いつけを守れぬ男ではない。だが子供に口を塞がれたようで面白くないのだろう。

龍王丸は気にせず、絵図を畳ませた。


ほどなくして、穴山外記が入ってきた。


礼を失するところはない。衣も乱れておらず、表情にも余計なものを出していない。

いかにも使者としてよく整えられた男だった。


互いに挨拶を済ませると、龍王丸は真っ先に尋ねた。


「信風殿ではないのか」


外記の眉がわずかに動いた。


「この外記では不足でございましょうか」


「不足だな。どこまで話してよいか分からぬ」


あまりに露骨だったのか、外記はしばし返事を失った。

横で承菊が口元を隠す。一方の彦三郎の口がぽかりと開いた。

左京進は何も言わなかったが、目だけが龍王丸を責めていた。


「この外記も穴山一門。殿の信任を受けて参っておりますれば、若君のお言葉は余さず持ち帰りましょう」


「だが持ち帰り、信風殿の裁可を得て、また戻るのであろう。ならば初めから本人が来た方が早い。

 これから甲府へ入ろうというところだ、時間が惜しい」


そこで外記が居住まいを正した。

顔を精いっぱい固め、これから真面目なことを言う、と全身で表現した。


「それでございます」


龍王丸は頷いた。


「甲府へ入ることは許せぬか」


外記は一瞬、言葉を選ぶように黙った。いや、意図的に作った溜めであった。


「今川の御軍勢がこの先へ進まれますれば、穴山としても看過は」


「そうか。分かった。気をつけて帰るとよい」


外記が目を瞬いた。

承菊が堪えきれず、肩を揺らした。彦三郎はずっと口が開いたままだ。

左京進は何か言おうとしたが、龍王丸が目を向けると口を閉じた。

先ほど何も申すなと言ったばかりである。


「ほかに何かあるのか。それとも別件か」


「い、いえ。しかし若君、穴山といたしましても、このたびのことは」


「分かっておる」


龍王丸は外記の言葉を遮った。

一つ一つ指を折りながら言った。


「八郎殿は甲府にいる、人質も同然。先の勝ちで甲斐衆は武田へ傾いたゆえ、今さら穴山だけ今川へ肩入れはできない。

 兵は出せぬ、道案内もできぬ、兵糧も出せぬ。信風殿が自ら来て話すこともできぬ。こちらと何か繋がったと五郎殿に思われたくない」


外記の顔から、少しずつ表情が消えていった。

龍王丸は構わず続けた。


「穴山の事情はよく分かっている。ゆえに甲府までの案内は求めぬ。兵も要らぬ。兵糧もそちらから融通してもらうつもりはない。八郎殿についても考慮する」


外記が口を開きかけたが、その前に龍王丸は言葉を重ねた。


「こちらからは以上だ。ほかにあるか」


龍王丸は外記の目を覗きこんだ。


本来ならば、穴山の難しい立場を説き、今川への義理も忘れてはいないと匂わせたのだろう。

そして、できぬことを一つずつ曖昧に断るつもりだったのかもしれない。


しかし、こちらが配慮すると言っている以上、言うべきことはないはずだ。

龍王丸は目を細め、外記を見つめ続けた。

やがて外記も息を整えた。


「いえ。御配慮、痛み入りまする」


取りすましたようにそう答え、外記は一礼した。

それでもすぐには立たない。

少々の不安を滲ませ、龍王丸を見つめてくる。


「して、若君。御滞在はいつまでをお考えで」


「五郎殿に聞け。以上だ。今日は疲れた。下がってよい」


外記はその言葉をどう取ってよいか、分からないようだった。

だが、会談は終わりと明確に言われた以上、結局は深く頭を下げた。


外記はそのまま承菊に案内されて外へ出ていった。

外記が陣所にいたのは、わずかな間だった。


左京進は足音が遠ざかるまで我慢していた。

だが、完全に外記が陣所から離れたと判断すると、堪えきれなくなったように口を開いた。


「若君。これは、いかなるお考えにございますか」


「左京進殿、声を、声をお抑えください」


左京進の声には怒りが混じっていた。彦三郎の制止も聞かない。


「このまま河内に留まれば、富田城への救援に間に合いませぬぞ。兵庫助殿は深手、兵は逃げ続けているのでしょう」


「だが、だからといって河内を無理に通れば、それを理由に穴山は公然と武田へ寝返る。いや、実際のところはすでに寝返っておるだろう。

 二千を北へ進めた後で背後を塞ぎ、いけしゃあしゃあと武田が回り込んだと告げような」


左京進の食いしばられた口が少し緩んだ。だがまだ目に力がある。

腕を組んで唸りだした左京進に代わり、彦三郎が引き継いだ。


「あくまで見届け役として確認をいたします。若君のそれはさほど的外れとも思えませぬが、やはり今は憶測と言わざるを得ません」


随分気を遣った言い方をする。そんな風に感心した。

彦三郎は左京進、龍王丸、双方を窺いながら続ける。


「すぐそこの富田城には、救援を求める兵がおります。穴山が裏切ったやもしれぬ、背後を断たれるやもしれぬ。それだけでここに留まれば、今川は何のために兵を出したのか。河内まで来て、恐れて足を止めたと見られましょう」


彦三郎は額に汗を浮かべていた。

だがそれでも、一門として、見届け役として言うべきことは言った。


「彦三郎」


「御無礼は承知しております。されど」


「正しい」


彦三郎、左京進の二人が目を見開く。

横でいつの間にか戻ってきた承菊が笑った。


「若君。お二人が困惑しておりますぞ」


「正しいものは正しい。今後もその調子で頼む」


「お二人ともこれは先達として忠告ですが、あまり真面目だと身が持ちませんぞ。若君は適当にいなすぐらいでちょうどよいのですから」


なんてことを言う坊主であろうか。

龍王丸は左京進の方へ向き直った。


「安心せよ。穴山が裏切っていようが、いまいが、どちらでもよいように動く」


左京進はなおも険しい顔をしている。


「そのようなことが」


「できる。が、そなたらは聊か気に入らぬだろうが」


また左京進と彦三郎が顔を見合わせた。


---


外記が陣所を訪れたその夜、河内の東で火が上がった。


初めは山裾に小さな赤みが見えただけだった。

やがて炎は屋根を破り、暗い空へ伸びていく。

しばらくすると、そこから半里ほど離れた場所でも火が上がった。

さらに三つ目、四つ目と異なる場所で火が上がった。

そのうちに陣所の兵たちも騒ぎに気づき、遠くの火を指さしていた。


龍王丸は床几に腰掛けたまま、それを眺めていた。

傍らには数枚の書付が広げてある。

かつて福島勢が河内へ兵を入れた折、兵糧を集めた村、馬草を求めた場所、商人が荷を入れた蔵の記録である。

そのすべてが揃っているわけではないが、今夜使うには足りた。


言うまでもないが、火をつけたのは龍王丸である。


ただ全軍二千の兵のうち、動かしたのは多くない。

夜道に慣れた者、馬を使える者を選び、小勢に分けて河内へ散らした。


狙わせたのは、小領主の蔵や馬草の置き場、兵が集まれば使われるであろう厩である。

民家には火を入れず、田畑も荒らさせていない。

追う者がなければ、人も斬らせなかった。

ただし、騎馬の一部には武田の旗を持たせた。


「三枝郷、蔵一つ。馬草も焼けたとのことにございます」


戻った物見が膝をつく。

龍王丸は書付へ目を落とし、該当する名の脇へ印をつけた。


「村の者は」


「斬っておりませぬ。火に巻かれた者も、今のところはないとのことにございます。こちらは二人追われましたが、いずれも戻っておりまする」


龍王丸が頷くと、物見が下がった。

少しして、別の者が来た。また一つ、書付の脇に印が増えた。


「左京進」


少し離れたところに立つ男へ声をかけた。


「焼き働きなど珍しくもなかろう。そう怖い顔はやめよ」


左京進はすぐには答えなかった。

火の赤みが、その横顔を僅かに照らしている。


「与一郎から聞いておりました」


昼間よりもさらに顔が渋い。

渋面を浮かべながらも、絞り出すように口を開いた。


「若君は、このようなことをなさらぬ方であると」


「遠江や駿河の、今川の民にはせぬよ」


龍王丸は火へ目を戻した。耳を澄ませば、子供の泣きわめく声が聞こえた。


「敵にも、できればやりたくない」


「では、なぜ」


今度は彦三郎だった。昼間より遠慮が薄れている。


「なぜ、このような真似をなさるのでございますか。脅しにしては、いささか」


「脅すつもりはない」


子供の叫び声が近くなった。

母を探しているらしい。喉が裂けんばかりの声で叫び続けていた。


「無論、腹いせでもない」


彦三郎が黙り、それ以上は言わなかった。

左京進が何かを問いたげに見ていたが、やがて諦めたように火へ向き直った。


夜が更ける頃には、最初に上がった火も勢いを失い始めた。

空が白み始める前には、出した兵もほとんど戻ってきた。死者はない。

追われた者はいたが、深追いはされなかった。焼いたものも、おおよそ見込んだ通りである。


そして朝日が山際から顔を出す頃、穴山外記が来た。


昨日とは違い、先触れからして慌ただしかった。

通せと命じると、ほどなく外記が陣所へ入ってくる。

衣こそ乱れていないが、昨日のように相手の出方を窺う余裕はないらしい。

挨拶もそこそこに、龍王丸を見据えた。


平伏はせず、床几に腰掛けたままの龍王丸を見下ろしている。


「若君。これは、いかなることでございましょうか」


「何がだ」


外記の頬が引きつった。


「火付けでございます」


「火が出たことは聞いておる」


「昨夜、河内の各所にて蔵が焼け、馬草が焼けました。武田の旗を掲げた騎馬が走ったとの話までございますぞ」


「そうか。物騒よな」


「何を悠長な」


昨日までの外記なら、もう少し言葉を選んだだろう。

龍王丸は少し哀れに思った。


「だが、なぜこの龍王丸に問う」


外記が言葉を失った。

一瞬、顔から感情が抜け、その後、盛大に顔をしかめて見せた。


「なぜ、と申されますか」


龍王丸はそこで初めて外記と目を合わせた。


「穴山は今川の友か、武田の友か」


外記の目が泳いだ。

だが、すぐに龍王丸を見返した。


「どちらの友でもありたいと思うております」


「良き答えだ。では、穴山は今川の敵か。武田の敵か」


今度は外記が息をのんだ。


「どちらの敵にも、なりとうございませぬ」


龍王丸は小さく笑った。


「五郎殿は、そのような答えを嫌っておろうな」


外記の口が食いしばられる。


「武田が火をつけたと申されますか」


「知らぬ」


外記が一歩前に出た。それを護衛が押しとどめる。

龍王丸はうんざりした顔を作ってから、言った。


「火をつけたところなど見ておらぬ。ただ、今川の友である穴山を憎むとすれば、武田殿ではないかと思っただけだ」


「そのようなことが」


外記はそこで言葉を切った。


龍王丸は待った。待ったが、何も返ってこないので迎えに行った。


「そのようなことが、何だ」


「今、武田が穴山を焼く利などございませぬ」


「それは一理ある」


武田五郎は今、待つだけで戦果が積み上がるのだ。

わざわざ河内に兵を送る理由は薄い。

そうあっさり認めると、外記の顔に苛立ちが浮かんだ。


「となると誰であろうか」


「若君」


外記は龍王丸を睨んだ。

龍王丸は何も答えなかった。


しばらくして、外記が低い声で言った。


「このようなことをしても、答えは変わりませぬ。穴山も変わりませぬ」


「承知している」


外記は眉を寄せた。

報告では慇懃な男と聞いていたが、その面影は感じられない。


龍王丸は見て見ぬふりをし、緩慢に述べた。


「無駄なことをするつもりはない。こちらには時間がないゆえ」


外記はしばらく黙っていた。

二度、三度と肩で呼吸したあと、脅すような口調で言った。


「では、もう火は上がらぬのでございますな」


龍王丸は少し考えた。


「ああ、気をつけよう」


外記の肩から、ほんの僅かに力が抜けた。


「お互い、武田をよく見張れば安泰であろう」


外記は何も言わなかった。深く一礼し、背を向ける。

昨日のように取りすました足取りではない。

地を踏む音が陣所の外まで続き、そのまま遠ざかっていった。


承菊が外記を見送り、戻ってきた。


「随分と怒っておられましたな。兵庫助殿の文では、つかみどころがない狸とありましたが、狸にしては気性が荒い」


「坊主にしては生臭い。それに比べれば幾分ましであろう」


おお、これはこれは、と承菊が頭を撫でた。


「若君」


低い声に目をやれば、左京進が険しい顔をしていた。


「先ほどの御言葉、違えられませぬな」


何のことか分からぬふりをしようかと思った。

だが与一郎と同じく、この一本気な男に嘘をつくのを厭う気持ちが勝った。


「気をつけると言った。それで許せ」


「向こうは、火を上げぬと取りましたぞ」


「だが己はそう言っていない」


「若君」


「許せよ。捨て置けぬのだ」


そう言って軽く頭を下げた。

左京進は何も言わなかった。

彦三郎も息をのむだけだ。承菊だけが小さく息を吐いた。


その夜、また河内で火が上がった。


前夜とは比べものにならなかった。

一つ、二つと数えられないほどの火。それらが山裾に沿って、赤々と燃え上がっていた。


今度の狙いは蔵だけではなかった。

収穫を待つ田畑へ火が入り、刈り入れを前にした実りが焼けた。

積まれていた藁も、来年へ残す種籾も狙われた。

牛馬は奪われ、連れていけぬものは殺された。農具は壊され、厩にも火が回った。


前の夜に使った書付のほかに、龍王丸の前には新たな紙が増えていた。

兵庫助が河内から兵糧を取り立てるにあたり、用意させた書付である。


どこに何人いるか。どの村なら米が残るか。牛馬はどれほどいるか。

それで秋まで持つか。自力で冬を越せるか。


兵庫助は万一に備え、そこまで調べさせていた。

だが福島勢の兵糧には余裕があり、結局その書付を使うことはなかったらしい。


今の龍王丸には、あの時以上の物資がある。


それでも燃やした。


昨日まで、もうすぐ秋だと顔を上げていた者たちの前で、田畑が燃えていた。

龍王丸は陣所から、遠くの火を眺めていた。


今夜は、子供の泣き叫ぶ声さえ聞こえなかった。

目の届くところにいる河内の民は、燃えていく田畑を前に、呆然と膝をつくばかりだった。


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