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3章_4

福島兵庫助の援軍要請に応えてから幾日か経った頃、駿府館は久しぶりの涼を楽しんでいた。


猛暑の中に唐突に現れた雨雲は豪雨をもたらした。雨が上がる頃には、うだるような暑さもどこかへ消え去り、過ごしやすさすら感じられた。


そのことを最も喜んだのは、ほかでもない館の主、今川修理大夫氏親その人である。


もともと体調が思わしくないところに、この猛暑であった。情けないと思いつつも、寝所から起き上がれぬ日の方が多いありさまだった。

いや、この夏すでに二度倒れてからは、家臣や家族にまで寝ていてくれと頼まれる始末である。


だが、この涼やかな日は氏親に僅かながら活力を与えた。

さすがに政務へ戻れるほどではないが、子らの様子を見るぐらいはできる。


その日、氏親は奥の一室に座り、次男松寿丸の手習いを眺めていた。


「いや、これは見事にございます」


師僧が半紙を持ち上げた。

松寿丸の師を務める曹洞宗の僧は、何度も頷きながら書を眺めている。


「先月に比べ、筆の運びがまるで違いまする。この御年にしてこれほど筋が整うとは、まこと麒麟児と申すほかございませぬ」


そこまで言って、僧がちらりと奥に座す氏親を見た。


致し方なしと、氏親は手を出した。

師僧が慌てて半紙を差し出す。


確かに止めも跳ねも意識できている。悪くはない。ただ、年の割にはという枕詞が付く。

手本をよく見て書いたことも分かった。まずはその形を外すまいと、必死なのだろう。


「励め」


それだけ言って紙を返した。


「はっ」


松寿丸は肩を強張らせたまま、深く頭を下げた。

顔を上げても、こちらをまともに見ようとはしない。膝の上で指を揃え、次に何を問われるか待っている。


そんなに怯えられる理由があったか、と考えて思い出す。


そういえば、自分はこの子の兄を同じ年の頃に遠江へ流した。

そのうえ、形の上では武功を上げて戻った長男を、気に入らぬと蟄居させている。


なるほど、恐れられるわけだ。


そう納得すると、今度はこの子と自分の間に溝を作った原因である長男が、少し憎らしくなってきた。


「ふむ」


長男といえば、龍王丸が数え三つの頃を思い出した。


たしか、あれも師が置き忘れた唐本を勝手に開き、そこにあった文を半紙へ写していた。

幼児の手であっても字に歪みは少なく、形は整っていた。


だが途中で何を思ったか、それらを脇へ置き、草書やら崩した字やらを書いて遊び始めた。


いや、遊んでいたのか、あれは。


書いて、書いて、何やら納得してからは筆を置き、氏親の顔や師の顔を見ていた。

そしてその後、大人たちが望むような字を書くようになったのだ。


あれはきっと、自分から檻に閉じこもったのだろう。

思えば、あの頃からおかしかった。


「御屋形様」


師僧の声で、氏親は目の前へ戻った。


「いかがでございましょう。松寿丸様は筆のみならず、武芸にも並々ならぬ御心をお持ちにございます」


向かいにいた中御門殿が、わずかに眉を寄せた。


妻が口を挟む前に、氏親は首を振った。

父を恐れているのだ。せめて母まで遠ざけることはない。今後この子が駿府館で生きていくうえでも、中御門殿まで頼れぬ相手にしてはならなかった。


氏親は松寿丸を見た。


「武芸が好きか」


松寿丸の背筋がさらに伸びた。


「はっ」


「よきことだが、なぜだ」


一瞬、目が揺れる。


師僧の方を見そうになり、思い留まったらしい。

松寿丸は膝の上で拳を握った。


「今川は武家にございますれば、武芸こそ本分と心得まする」


「そうか。殊勝よな」


仮にも手習いの師や、公家の姫であった母の前で言うべきことか、と思った。

だが、この年頃であればこんなものかもしれない。


氏親は頷き、形だけは褒めた。


それでも父の感情を察したのか、松寿丸の顔に不安が浮かんだ。


「父上、松寿は何か間違えましたでしょうか」


「何も間違えてはおらぬよ」


そう言っても、我が子の顔は晴れなかった。


長男ならば、そうですか、で終わり、気にも留めまい。そういう太々しさがある。


ふと、繊細なこの子がこの先どのように生きていくのか気になった。

誰かの言葉に一喜一憂し、そのたびに振り回され、摩耗するだけの人生に終わる。そんな不安がよぎった。


それゆえに、かつて長男へ尋ねた問を、次男にも投げていた。


「松寿丸。隣国の主が敵に攻められ、今川へ助けを求めてきた。盟約もある。そなたならどうする」


松寿丸は突然の問いに目を見開いた。

一度、母である中御門殿へ視線を送り、それを厳しい目で拒まれると、今度は師を見つめた。


「自分で考えよ」


そう言うと、ようやく松寿丸は考え込んだ。


しばらくして、上目遣いにこちらを窺いながら答える。


「兵を出し、敵を退けまする」


「退けられるか」


「今川の精兵をもってすれば、容易うございます」


「ならば、退けた後はどうする」


重ねられた問いに、また少し黙った。

やがて恐る恐る口を開く。


「用が済めば、兵を収め、駿河へ帰りまする」


師僧が満足げに頷いた。


確かに間違ってはいない。

目的を達した以上、他国に留まる理由はない。


氏親はそちらを一度見ただけで、また松寿丸へ視線を戻した。


「父なら帰らぬぞ」


松寿丸が顔を上げた。

父の答えに驚きつつも、疑問を口にする。


「その、帰れと頼まれれば」


「それでも兵を置く。敵が戻る、国境が不安、理由など幾らでも作れる」


松寿丸は黙っている。


「帰る時には、向こうの嫡男も連れて帰る」


「なぜにございますか」


「なぜと思う」


松寿丸の顔が強張った。

しばらく迷った末、恐る恐る口を開く。


「それは、やはり、人質でしょうか」


「ほう、なんのための人質だ。その人質、何に使う」


松寿丸の顔に一滴の汗が伝った。

口は堅く結ばれている。


それゆえに、続きは氏親が述べた。


「その気になれば、なんにでも、使えよう。娘をめとわせ、傀儡とするか、隣国を攻め落とす、旗とするか」


「御屋形様っ」


声を上げたのは中御門殿だった。

幼い我が子に何を言うのか。そんな非難を込めた目で睨んでくる。


氏親は喉を鳴らした。


「いま見た通り人質は使える。現にそなたの母は、そなたが虜となれば、迷おう」


松寿丸は言葉を失っていた。

師僧も黙っている。


氏親は少し息を整えた。

長く話すと、胸の奥が妙に重くなる。


「書も怠るな。このような卑怯な手の使い方も、防ぎ方も、ともに記しておろう」


松寿丸が目を瞬いた。


そういうことだったのか、と納得した顔をする。


違う、と言ってやりたかった。


なぜ、そうも簡単に丸め込まれる。お前を虜とするものは何も武力だけを使わない。


それこそ、女、酒、血縁、何でも使ってお前の心を縛り、操るぞ。


いっそそのように叱りつけてやろうかと思った。いや、叱りつけてやるのが父親なのだとも思った。


だが、氏親にはもう、その力が残されていない。


一度息を継いだ。


「武芸を知らぬ者は敵に斬られる。人を知らぬ者は卑怯者に国を取られる。よく学べ」


「はっ」


返事だけは早かった。

理解したかどうかは分からない。


中御門殿や室内のものが満足そうな顔をする中、これではだめだと氏親は思った。


自分が倒れれば、この子を担ぐ者が出る。

松寿丸ならば御しやすい。

今も父の顔色を窺い、母を見て、師に答えを求めた。

家臣にとって、これほど都合のよい若君もあるまい。


だが、その従順さを弱さと見る者もいる。

その者はひたすらに強い当主を求めるだろう。


龍王丸。


きっとその者はあれを檻から出し、松寿丸へぶつける。


兄弟が何を望むかは関係ない。

互いに争う気がなくとも、片方を担ぐ者がいれば、もう片方にも人が集まる。そうして家は割れる。


松寿丸、そのままではいかぬぞ。


其方の兄は本当に必要とあらば、今川のためとあらば、弟を手にかける。

きっと今、父がやったようにそなたを安心させた後、刀を抜く。


松寿丸では兄に勝ち目はあるまい。


ならばもういっそ、寺にでも入れてやるべきか。


そう思い、氏親が顔を上げた。


その時、廊下を駆ける足音が響いた。


近習の制する声が続く。

だが足音は止まらず、そのまま座敷へ近づいてきた。


やがて障子の向こうで人がつまずく気配がし、荒い息が漏れる。


「申し上げます」


氏親は膝の上へ手を置いた。


「入れ」


障子が開いた。


土埃にまみれた男が這うように入り、額を畳へ押しつける。


「甲斐より、急報にございます」


中御門殿の顔が動いた。

氏親は男を見下ろした。


「許す。申せ」


「福島勢、武田勢の夜襲を受け敗北」


座敷の空気が変わった。

松寿丸の顔が青くなる。


「兵庫助正則様、深手を負われ、軍を制すること能わず。御討死との風聞まで広がり、諸勢の離散止まりませぬ」


氏親の指が膝へ食い込む。


「生きておるのか。軍はどうした」


「生存との報にございます。されど傷は深く、人前へ出ることかなわぬ由。率いられていた軍は富田城へ入りましたが、兵は減り続け、下知も定まりませぬ。

 武田勢は城外にあり、いつ攻め寄せるか知れませぬ」


男は額を畳へ擦りつけた。


「至急、御救援を願うとのことにございます」


なるほど、今日の活力はこの時のためか。


そう思い、氏親は立ち上がろうとした。


だが、膝へ力を込めた瞬間、視界が傾いた。

畳が遠ざかる。


「御屋形様」


中御門殿の声がした。


腕を取られたが、誰の手か分からない。

体の半分が急に自分のものではなくなったようで、踏ん張ろうにも足が動かなかった。


この夏、三度目だった。


「父上」


松寿丸の声まで聞こえた。


今川家の男が騒ぐな。


そう言おうとした。

しかし、声が出ない。


大御台様を呼べ、医師を、と近習が叫んでいる。

師僧は松寿丸を下がらせようとしていた。


これはいかぬ。

だが、甲斐をどうする。誰が下知を出す。


氏親の頭には、そのことが残っていた。


福島が敗れた今、並の将を送ったところでどうにもならぬ。

武田五郎信直を退け、富田に残る兵を連れ帰らねばならない。


誰にできる。


いない。


そう思った時、かつての問答が蘇った。


「龍王丸を」


その先は続かなかった。




-----


当主氏親が昏睡してから数刻後、重臣らは駿河の一室に集められた。

集められた者たちの過半は、何事かと困惑した面持ちであったが、御台所の青白い顔色を見て気を引き締めた。


ああ、これはとうとういかぬかもしれん。


そうして、御台所たる中御門殿から、氏親がまた倒れ、意識が戻らぬという話が始まった。

家臣らもその時点では神妙な顔をしながらも、すでに何度も経験したことであるため、内心さほど驚きはしなかった。


ただ、夏の暑さとはいえ、こうも頻繁に当主が倒れるのは今川としていかぬ。

ならば、別の当主をという話もあるやもしれん。


などと明後日の心配をしていたぐらいであった。

しかし、中御門殿の次の言葉で家臣らは息をのんだ。


「甲斐で兵庫助殿が敗北、負傷し、富田城なる城にて籠城しております」


「いま、なんと」


「何度も言えることではありません。ただ、今川軍が甲斐の一城に孤立し、これを救う手立てを考えねばなりません」


家臣らは顔を見合わせた。

まず、あの兵庫助殿が大軍を擁した状態で敗北などあり得るのかという点すら疑問だった。

室内に沈黙が満ちる中、三浦次郎左衛門が切り出した。


「まず偽報を疑うべきかと。ついこの間、増援を送ったばかり。直ぐに大敗とはあまりに」


「知らせを送ってきたのは其処にいる福島の家臣でした。兵庫助殿が深手を負ったと、言いにくいこともはっきり伝えてきました」


次郎左衛門が苦い顔で腕を組んだ。

今度は朝比奈備中守が口を開く。


「ということは、まず兵庫助殿は生きておるのですな。輿でもなんでも使って、駿府寄りの城に移動することはかなわぬのでしょうか」


座敷の端に控える急使が一歩前に出た。


「生きておられます。ただ一日の大半は意識がなく、到底軍勢を率いることなど」


「御一門衆は」


「御無事ですが、逃げ出そうとする兵をまとめるのがやっとで、到底下がるなどは」


「兵庫助殿のご家中ならば、力量のある古参もおられるだろう。その方に一時まとめていただくのは」


「先の岩間での敗北、この度の富田付近での敗北で各々負傷しております。今となっては武田五郎めの追撃をかわしながら撤兵できる者は」


急使が途中で言葉を途切れさせた。

それを聞いて、備中守も黙った。武勇ある大将は大抵、身の回りを子飼いの将兵で固める。

合戦の最中、本陣を強襲されたということは、下手をすれば兵庫助以上の傷だろう。

そのことは想像に難くなかった。


「御不快に思われようが、それでも聞かねばならん。兵庫助殿はどれほど持つ」


由比美作守が切り出した。

広間がまた静まる。

沈黙の中、急使は顔を歪ませた。


「と、殿は剛の者ゆえ」


「ならば御屋形様の意識が戻られるまでの一月、いや二月は安泰か」


それは、と急使が立ち上がった。

美作守はそれを見て、軽く頭を下げた。


「許されよ。言いづらかろう。ともかく一月はもたぬ。急ぎ富田城に救援を送らねばならぬ。でなければ今川は福島を失う」


福島兵庫助ではなく、福島を失う。

美作守はそう言った。

事実、援軍を求める大将をみすみす見捨てるとなれば、福島家の忠節に陰りが生まれうる。

たとえ、それが敗軍の将といえど、心の揺らぎは止められるものではないと、暗に述べた。


今度は三浦が問うた。


「では兵を出さねばなるまい。いくら出せよう。三千は出さねば武田勢は引かぬぞ」


「愚見をよろしいか」


前に出たのは岡部左京進である。

中御門殿が頷くと、喋りだした。


「和議、という手も捨てるべきではありませぬ」


室内の家臣らが和議、とざわめいた。

不忠、臆病、などという言葉も飛び交いだす。

ざわつきだした家臣らの中、庵原安房守が膝を打った。大きな音が室内に響く。


「なるほど、重要なのは、福島殿と軍勢の救援。そこさえ満たせれば形にこだわるべきではない、ということであるな」


「左様でございます。和議の中で河内の安泰も含めれば、穴山への面目も立ちましょう」


その言葉で室内は徐々に落ち着いていった。

和議、という穏当な手段は、当主不在の今川家の家臣らにとって望ましいものであったようだ。

誰もが、それでいいのではないか、そんな表情をしていた。


「手を捨てぬのは良いが、成らぬであろう」


そう言ったのは備中守である。


「武田勢にとっては大軍を蹴散らした後、その気があるのならば自分から言い出して恩を売っておろう」


「では武田の狙いとは」


安房守が、室内が再度ざわつく前に問うた。


「福島軍の壊滅、河内進出ぐらいは狙っていても不思議はありますまい」


「となれば、こうやって時間を使っておるのも相手の思うつぼか」


時がたつにつれ、富田城の兵糧は減り、兵は逃げる。兵庫助も死ぬだろう。

そうなれば、何もせずとも福島軍は壊滅する。

室内の中で誰かが小さく息を吐いた。


「兵を出し、兵庫殿を救援する。和議についてはそれから考えるほかあるまい」


美作守が言った。まずそれについては反対意見は出なかった。

だが、


「誰が率いる、誰が下知を」


そんな声が、ポツンと広間にこぼれた。

何か言おうとしていた美作守が口を閉じた。

豪胆で知られる備中守、次郎左衛門らも渋い顔をしている。


やがて安房守が口を開いた。


「さて、まずそれについて一つずつ決めようではないか」


さすがに声が通った。


「まず誰が兵を率いるか、その後、その下知を誰が出すか」


そこで言葉を止める。

安房守はちらりと御台所に視線をやった。

御屋形様が判断を下せぬ場合は、御台が出す。それは今川にとっては慣れたものである。

事実、先代の当主氏忠が没した後、家を切り盛りしたのはその正室であった北川殿であった。

ならば、今その役目を果たすのは、ほかでもない中御門殿ということになる。


「妾は」


公家の姫であった中御門殿は、唐突に湧いた荒事に口を開閉させていた。

決して愚鈍な人間ではない。公家衆との折衝や、奥の統制などは不足なくこなしている。

だが、家の存亡にかかわる軍事の号令などは、同じようにすることはできない。


それでも、中御門殿は何事か言い出そうとした。

まさにその時である。


「お待ちあれ、お待ちあれ」


外からそんな呑気な声が響いた。

小姓らの制止、床を乱暴に踏み荒らす音がだんだん大きくなっている。


「何事だ」


備中守が顔を向ける。

障子の外から近習が答えた。


「九英承菊殿が」


皆の視線が同族の庵原安房守に注がれる。


「某は呼んでおりませぬ」


安房守が嫌そうに言った。

しばらくして障子が開き、若い僧が屈託のない笑みを浮かべながら現れた。

承菊は悪びれた様子もなく座敷へ入り、丁寧に頭を下げた。


「これは皆々様、お揃いで、ずいぶんとまあ紛糾しておられた」


「承菊、そなた場所を間違えておらぬか。ここは呼ばれた者以外入れぬ」


安房守はいささか調子を崩した様子だった。

酸いも甘いも噛み分ける老臣の珍しい姿だった。

承菊は顔を上げた。


「左様でございましょうな。拙僧も呼ばれた覚えはございませぬ」


木で鼻を括ったような回答だった。

備中守が眉をひそめた。


「では、なぜ来た」


「行って来いと言われました故」


「誰にだ」


承菊は何を今さらという顔をした。


「御屋形様がお倒れになった今、今川を背負って立つべき御嫡男。龍王丸様にございます」


今度こそ座敷が静まり返った。

居並ぶ重臣らの反応はそれぞれ違った。

喜びを隠さぬ者もいれば、顔を青くする者もいる。だが一番多いのは困惑を示す者だった。

実の母親である中御門殿も、困惑を浮かべながら承菊を見ていた。


次郎左衛門が低い声を出す。


「なるほど嫡男ではある。だが若君は蟄居中だ、下知を出すなどありえぬ」


「ええ、蟄居中。存じておりまする。されど、廃嫡ではございませぬ」


承菊が剃り上げられた頭を撫でた。


「松寿丸様が御嫡男になっておられぬということは、御屋形様もそこは変えることではないと思っておられたのでは」


誰も答えなかった。

安房守がどっと疲れた様子でたしなめる。


「口を慎めよ、承菊。今そなたの戯言はちと重い」


「これは失礼を」


そう言って承菊は、微塵もそう思っていない顔で頭を下げた。


「そもそも」


下座に座る家臣の何某かが口を開いた。松寿丸のお付きの一人である。

明らかに我慢ならぬといった様子であり、隣席の者の制止も聞かず喋りだした。


「あの若君は、御屋形様の勘気を蒙り、蟄居となった身ぞ。そのような者を、今川を背負って立つべきなどと」


「はて」


承菊が顔を上げ、わざとらしく首を傾げた。

それだけで松寿丸のお付きは黙った。


「今川を背負って立つべきかは御屋形様の決めるべきこと。その才覚を惜しいと見たゆえ、嫡男としてとどめた。

 これがすべてではございませんか。ここに異論をはさむことこそ僭越ではございませんか」


幾人かがぎょっとした。

安房守は、冷や汗をかきながら胸元を緩めた。

だが、承菊は止まらない。


「また兵を束ねる者には、相応の格が要りましょう。本来であれば御屋形様がお立ちになる。それがかなわぬならば、一門。

 なかでも御嫡男が出る。さほど妙な話とも思えませぬが」


「そのために一門がおる。瀬名様や関口様、他にも小鹿様でも格に不足はなかろう。軍を率いたこともない若君を出すなど、捨て駒にするようなものだ」


また別の家臣が口を開いた。


「そもそも、捨てても構わぬのでは」


誰も動かなかった。

美作守がゆっくりと顔を上げる。

顔には明確に怒りがある。この老臣は龍王丸贔屓を常日頃隠そうとしない人物でもあった。


「坊主、今、何と申した」


「蟄居になった若君など捨てても構わぬのでは、と」


美作守がにわかに立ち上がろうとした。それを安房守が必死で留める。

だが、承菊は同じ言葉を繰り返した。


「甲斐がなだれ込んでくれば、これを受ける者が要りましょう。朝比奈殿、三浦殿、由比殿、並びに御一門衆。

 今川の屋台骨を、今この時に駿府から抜く方がよほど恐ろしい」


「だから若君を死地へ送ると申すか。助け舟を出したという言い訳のためだけに」


承菊は慌てたように両手を振った。


「拙僧には、とてもそのような恐ろしいことは申せませぬ」


誰も笑わなかった。

やはり、承菊だけが続ける。


「ただ、今川の信を保つためにも、嫡男が下知を出し、出陣するこの形が最も良いという愚見を申し上げたのみにございます」


「されど、蟄居になった人間が下知など」


松寿丸に近い何某かがなおも声を上げる。


「これは独り言でございますが。どうせ上手くはいきますまい。それで救援ならずおめおめ生きて帰ったとなれば、声を大にして廃嫡と訴えれば良し。なにより十中八、甲斐で死にま」


「承菊、承菊、もうよい」


安房守が立ち上がり、承菊の頭を下げさせた。

頭を押さえつけながら、安房守が周囲を見渡す。


「この坊主めは厳しく言いつけておくゆえ、皆はそのまま議論を」


「お待ちを」


中御門殿が悲痛な顔で承菊を見ていた。


「承菊殿、御屋形様は最後に龍王丸の名前を呼びました。これをなんとします」


安房守の押さえつけが解かれる。

承菊は変わらず穏やかな顔である。


「檻から龍を出すときと」


中御門殿は何かあっけにとられた顔をした。

それから、少し肩の力を抜いた。


「そなた、あの子が死ぬなどと欠片も思っていないではないですか」


----


「というわけで、蟄居は終わりでございます。返歌に悩むのも今日までにて」


承菊がそう告げても、龍王丸はすぐには顔を上げなかった。


手元では一枚の絵がまだ途中であった。

細い筆先を紙へ落とし、枝の先に梅の花を二つ三つ描き足してから、ようやく少し身を引く。

しばらく眺めた末、紙面に大きく×を書いた。


駿河では梅の花をご覧になるようなことはないのですね。

ああ、良いのです。心貧しきをあげつらうようなことは致しませぬ。


そんな、どこぞの姫が吐きそうな言葉が思い浮かんだ。

いや、おそらく言う。

枝の付き方がおかしい、色味がおかしい、など枝葉末節をあげつらう。

龍王丸は息を吐き、悲嘆にくれた。

どうして自分の好きなように筆を走らせることも許されないのだろうか。


そんな思いとともに、筆を硯の脇へ置いた。


「聞いておられまするか」


「聞いておる。そなたこそ見て分からぬか、龍王丸は蟄居を楽しんでおる」


「ずいぶん優雅な蟄居でございます。この分ならばもう少し塩や木綿だけでなく、色々とお願いしたほうがよろしゅうございますな」


「それはもう終えた。今は返歌に添える絵でも描いておる」


「おお、それはそれはようございました。暇ということでございますな」


悪びれた様子もない。


龍王丸は承菊を一瞥した後、絵筆を片した。台無しにした絵も丸め、部屋の隅へと追いやった。

龍王丸の部屋はここ一年で雑多を極めている。

壁際には唐本やら書状やらが積まれ、その横には描きかけの絵が何枚も重ねられている。

蟄居を命じられた頃には妙に広く感じた部屋も、いつの間にか物で埋まりつつあった。


庭へ出ることは許されなかったが、文まで止められたわけではない。

人の出入りにも抜け道はある。

その多くを見つけ、余計な仕事まで持ち込んだのが、目の前の坊主だった。


先ほどの口ぶりからして、また何事か厄介ごとを持ち込んだのだろう。

縁側で胡坐をかきながら、龍王丸は息を吐いた。


「して、蟄居が終わりとは」


「言葉通りにございます。ああ、処刑ということではございません。甲斐へ出兵する軍の大将になってもらいます。ああ、名目は救援ですが」


「大将、となると、下知は御屋形様よりいただいたのか」


承菊はまた声をもなく笑う。


「若君は、おそらく下知を出すところから始めねばならぬかと」


その言葉を受け、龍王丸は少し思案した。

福島兵庫助が大軍を率いて甲斐、河内の穴山のもとに向かったのは今年の二月である。

そこで敗北し、増援を求めてからは一月もたっていない。

それに対して下知からというのであれば、父氏親に何か不測の事態が起き、今駿府の館は混迷の中にあるということだ。

でなければ自分がこう安々と蟄居を解かれるはずがない。


「今川軍はどこに籠っている」


「甲府の入口、富田城。兵庫助殿のことは聞かぬのですか」


「下がらぬということは、そういうことではないのか」


「存命ではあります。負傷し動けぬということではあります。これを救うことも役目の一つでございます」


「そちらは間に合うまい。形だけになる」


承菊はしばらく黙っていたが、やがて口元を緩めた。


「もっともな考えかと」


福島兵庫助は遠江で随分交流を深めた。

血気盛んな男ではあるが、決して無能ではない、と龍王丸は見ていた。

そもそも万の兵を率いることができる将という点だけで、十分優秀である。

龍王丸はそれ以上何も言わず、部屋に戻った。

洗った筆の水気を取って箱へ戻した。硯に蓋をし、散らばっていた紙を重ねる。

そうして身の回りを片付け終え、最低限の身だしなみを整え、外に出た。


龍王丸の姿を見て、承菊が少し目を細めた。


「背が伸びられましたな」


「無駄に伸びた。これ以上は目立つ」


「大将は目立つのも仕事でありましょう」


軽口をたたきながら袖口を見ると、確かに蟄居の初めより短くなっている。

龍王丸は一度腕を伸ばしてから、襖の方へ向いた。


「して、どこへ行けばよい」


「御屋形様のもとへ」


その言葉に少し含みを感じた。


「話せるのか」


話せる状態なのか、それとも無理を押してでも話さねばならない状態なのか。

そう問うたが、承菊は答えない。

ただ笑みを深め、


「ええ、幸運にも」


とだけ告げた。


約一年ぶりに踏み出した廊下は、記憶にあるものと何一つ変わっていなかった。

庭の石も、柱の傷も、渡り廊下から見える木々も同じである。


ただ、そこを行き交う者たちの反応だけが違った。


龍王丸に気づいた小姓が足を止め、女房たちは慌てて道を空ける。

頭を深く下げる者もいれば、遠巻きにこちらを見たまま動かぬ者もいた。

近習の一人など、すれ違った後でもう一度振り返っている。


誰も声を掛けてはこなかった。


龍王丸もまた、何も言わず歩いた。

後ろをついてくる承菊だけが、時折面白そうに周囲へ目を向けている。


「まるで、死んだ人間を見たようだ、とでも言いたいのか」


「いえいえ、そのような。ただ、見慣れた館を怪物が徘徊していれば、このような反応なのかと」


「龍王丸は折り目正しい若君である。そなたをこそ見て驚いているのではないか」


「折り目正しくはおやめになられたはずでは。それに拙僧など路傍の石でございますゆえ」


奥へ進むにつれて人の数が増えた。氏親の寝所に近づけば、医師が出入りし、近習らは声を潜めている。

少し離れたところには、先ほどまで評定に出ていたらしい重臣の姿も見えた。

龍王丸が現れると、話し声が止んだ。


一礼して奥へと足を踏み入れた。

まず鼻についたのは、強い香の匂いだった。

香りの充満した部屋の中で、氏親は褥の上にいた。

傍らには中御門殿、その後ろに北川殿が座している。朝比奈備中守、庵原安房守らも控えていた。


氏親は、酷く痩せていた。最後に会ったのは福島の出兵前の夜である。

あの頃より頬は落ち、目元も深く窪んでいる。

かつては遺言などと軽口を叩けたが、今度はそうはいかないだろう。


龍王丸は父の前へ進み、頭を下げた。


「お呼びにより参上いたしました」


父からの言葉はなかった。

右手は布団の上に置かれたまま動かず、呼吸も浅い。

それでも目は開いており、入ってきた龍王丸をはっきりと見ていた。


氏親の唇が僅かに動いたが、声にはならなかった。

代わって中御門殿が口を開く。


「龍王丸。承菊殿を使わせたということは、分かっておられますね」


龍王丸は一度だけ隣を見た。

まず、この坊主に使いなど頼まない。頼むとすれば宣戦布告か降伏勧告ぐらいだろう。

龍王丸の視線を受けても、承菊は何食わぬ顔で座っている。こちらを見ようともしない。


まあ、良かろう。


「無論にございます。火急の事態ゆえ、今川のために龍王丸をお使いください」


今度は承菊の眉がほんの僅かに動いた。


「ならば話は早いでしょう」


中御門殿は疲れの残る顔で息を整えた。


「甲斐で福島兵庫助殿が敗れました。深手を負い、今は軍を率いることもかなわぬとのこと。

 軍勢は富田城へ入りましたが、兵は逃げ、武田勢は城外におります」


「存じ上げております。まず富田城を見捨てるは悪手。甲斐に向かうは龍王丸が最善かと」


中御門殿と重臣らが顔を見合わせた。


「難事です。それを承知しておりますか」


余りに早い返事であったため、こちらの理解が不安になったのだろう。

龍王丸は少し溜めた。


「万事、お任せください。取り残された者らを駿府に戻して見せます」


あえて福島兵庫助の名前は混ぜなかった。だがその一言で場に沈黙が下りた。

だが、龍王丸はそのまま続ける。


「まずそのためにも、龍王丸が率いる軍勢は如何程でありましょう」


今度は備中守が答えた。


「心苦しゅうございますが、直ちに動かせるのは二千余とお考え下さい。どうか駿府の窮状、御賢察のほどを」


二千余り。予想より少ない。まず三千は出せたはずだ。

遠江から引っ張ればもう少し出せる。

だが、この差異を突くことに意味はない。駿府が二千といえば二千なのだ。


「承いたしました。若輩者にそのような大軍をお任せいただいたご配慮、かたじけなく」


そう言って頭を下げると、室内の空気が僅かに動いた。

龍王丸は気にせず、さらに尋ねる。


「駿府から二千、あとはこちらでどうにか致しまする。で、良いでしょうか御屋形様」


龍王丸は臥した父を見た。

安房守、備中守らが間に入ろうとしたが、目で制する。


「この甲斐の一件、龍王丸の下知にてこの先進めさせていただきます。ただ、ことがことです」


甲斐からの偽報、駿府からの横やり、両方ありうる。

どちらも足をとられる暇はない。


「一度甲斐に向け、軍を発すれば、命を果たすか、この首が落ちるまで止まりませぬ。無論、駿府も止めぬ、そう思ってよろしいでしょうか」


「龍王丸、そなた」


「よ、い」


見かねた中御門殿が立ち上がったが、氏親の言葉が止めた。

布団の上の手が上がり、龍王丸を招いた。

了承など取らず、そっと近くまで歩み寄る。

数歩も進めば、痩せた父の顔が眼前にあった。


「以前、申したな」


龍王丸は黙って待った。


「五郎に」


そこで一度息が途切れる。


「甲斐を、破れるか」


昔、同じ問いを受けたことがある。福島の出兵前の話であった。

あの時は親子らしい会話ができたと、自画自賛したものだ。


そんな風に思い返していると、室内の視線が集まっていることに気が付いた。


龍王丸は少しだけ考えた振りをした後、はっきり答えた。


「まず負けましょう」


誰も言葉を発しなかった。

だがすぐに次の言葉を紡いだ。


「されど、勝ち負けなど気にする者はいなくなりましょう」


中御門殿の顔が強張った。備中守、安房守といった将らも同じだ。

その意味を問う者はいない。


氏親は長いこと息子を見ていた。

やがて、ゆっくりと口を開いた。


「万事、任す」


僅かな言葉を口にするだけでも、ひどく時間がかかった。

だが、さらに何かを言おうとする。


「甲斐は」


そこで言葉が詰まった。

龍王丸には、父が何を聞こうとしたのか分かった。


「少々、壊れましょう。されど駿河には来させませぬ」


氏親の目が見開かれた。

さもありなんと、龍王丸は申し訳なく思った。


名門今川の当主である、きっと甲斐のことを思っているのだろう。

だが、そこは致し方ないと受け入れてもらうほかない。


もう一度頭を下げて、父の前から去ろうと振り返った。

すると、部屋の中にいた重臣らが頭を下げていた。

氏親にではない、自分に向けてである。


まあ、よい。


龍王丸は訝しみながら、その場から退出した。


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