3章_3
西島を捨てた翌朝、兵庫助は駿府へ早文を出した。
武田五郎信直は侮れぬ。八郎が甲府へ戻るや、揺れていた国人衆を押さえ、こちらが兵を収める時を逃さず襲ってきた。
このまま河内を明け渡せば、穴山は再び揺らぎ、やがて駿河口まで脅かされる。
ゆえに兵を賜り、一度押し返して河内の形を立て直したい。
それが駿府への兵庫助の求めだった。
この求めにたいして駿府は難色を示した。
兵を収めよと命じた直後であり、ここでさらに増援を送れば、甲斐との戦を広げることになりかねない。
しかし、八郎の帰参、武田五郎信直の軍略。この二つを無視できなかった。
というより、八郎の帰参までもが五郎の策の内であれば、なおのこと五郎を野放しにすることは悪手に思われた。
武田五郎信直の才覚を頼りに甲斐衆が結束し、福島の背を突けば、どこまで崩れるか分からない。
皮肉にも五郎の才覚により、駿府からの増援は認めらる次第となった。
返書を読み終えた兵庫助は、それを畳んで脇へ置いた。
「これで足りる」
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岩間、西島での敗北より十日目、福島勢は再び北へ出た。
敗戦より戻った兵を集め、崩れた隊を組み直し、そこへ駿河から来た兵を加えた。
以前と同じ軍ではない。練度ではわずかに落ち、士気は低かった。
兵庫助はそれらをさほど気にしなかった。以前と同じ軍容にするつもりは毛頭なかった。
動ける者をまとめ、荷を減らし、前へ出す兵を一つに寄せた。
富士川沿いに今川の大軍がひしめき、一気に北上した。
明らかに目立つ行軍の前に武田軍が姿を見せる。
山際に三百程度の少数である。
それを見て、弥四郎が馬を寄せた。
「叔父上。横へ出ますか」
五郎信直の軍略を警戒する声であった。
兵庫助は山際の旗を見た。
「出さぬ。兵は割らぬ。武田勢に回られても、前へ出よ」
弥四郎の顔が動いたが、それ以上は言わなかった。
北上するうちに方々に武田勢の旗が見える。つい先日は見えなかった国人衆の旗もあった。
皆一様に福島勢の脇を窺い、こちらがどこへ兵を出すか見定めようとしていた。
その武田勢の動きを見て、前を行く隊の足が鈍った。
「止まるな」
兵庫助はその遅れを許さなかった。
怒声に近い命に、将兵が振り返った。
「武田勢、横腹を突きまするぞ」
兵庫助は馬上から武田勢を見やった。
「来させろ。向こうが三百なら、こちらは何人いる」
将は答えなかった。
「三百を怖れて千を割るな。前へ出ろ」
命が伝わると、福島勢は再び動いた。
そこからは何も変わらない。
武田はかつてのように左右に兵を見せ、福島勢を散らそうとする。
兵庫助はそのたびに声を出し、兵を固め前へ前へと進める。
大軍に兵法なし。
兵庫助の方針はそれだった。
武田の小勢がどこへ動こうと、決して主力を割らず、まとまったまま押した。
やがて、富士川沿いに布陣していた武田勢が下がり始めた。
じりじりと陣を退き、それにつれて左右からかかっていた圧も弱まっていく。
それでも福島勢は止まらず、急がず、左右へ出た兵にも食いつかない。
ただまとまった兵をそのまま北上させた。
そのうちに、武田方の列が少しずつ伸びた。
旗と旗の間が開き、後ろへ下がる者と踏みとどまる者が混じる。
兵庫助は馬上からそれを見ていた。
「今だ。押せ」
その命を待っていたと福島勢が前へ出た。
先頭の一隊が武田方へ食い込み、その後ろから兵が続いた。
支えきれずに下がった者が後ろを押し、そこへさらに福島勢が入ると、ほどなく武田方の前が崩れた。
今度は兵庫助も止めなかった。
「追え。ただし散るな」
福島勢は富士川近辺の武田勢を追い落とし、そのまま岩間まで兵を進めた。
日が落ちるころには道々に打ち取られた兵が骸をさらしていた。
首の数は多くなかった。取った旗もわずかである。
だがそれでも十分だった。
西島で敗れた兵が、十日後には武田勢を退けていた。
それだけで、福島陣中に漂っていた重苦しい空気は霧散していた。
弥四郎をはじめ、家臣らの顔にも明るさが戻っている。
「叔父上。ここまで押し返せば、岩間を固められます」
兵庫助は絵図を見ていた。
「物見を置き、道を押さえましょう。西島の兵も戻せます。ここを固めれば、五郎も容易には下れませぬ」
もっともな進言だった。
駿府へ求めた増援も、そのためのものである。
岩間を固め、大島まで目を置き、南へ道を通せば、河内はひとまず安定する。
ここで止まるなら、筋は通っていた。
兵庫助は絵図の上で指を動かした。
岩間から北へ進み、その先で一度止める。
そこに富田城があった。
河内から北へ進み、甲府の平野へ出る境。そこ設けられた城である。
ここを抜ければ甲府の盆地が広がっている。
この城は武田方が南へ兵を出す際、その筋を押さえる拠点でもあった。
岩間を固めても、富田が残れば信直はいずれ兵を整える。
今日退いた者をまとめ、国人衆を寄せ、また河内へ出てくるだろう。
一方で、武田勢は今まさに退き、こちらには増援もいる。
西島の敗北で離れた者も、今日の勝ちを知れば再び態度を変えるはずだった。
「お、叔父上」
弥四郎が恐る恐るといった具合に声をかけてくる。
視線の先には、富田城で止まった兵庫助の指がある。
「叔父上。そこに出れば河内を守る戦ではござりません。そこまでの進軍は話が変わりまする」
「分かっておる」
そういいつつも、兵庫助の指は富田城から動かない。
確かに弥四郎の言う通り岩間を固めれば、河内は守れる。
だが、それは十日前の繰り返しではないだろうか。
山間の道に兵を置き続け、襲われぬために物見を出し、五郎が動くたびに兵を散らす。
おそらく、また同じように敗れ、岩間を取られるだろう。
だが、この繰り返しを止める機はある。
今、この場でさらに前に出るのだ。
五郎は下がり、甲斐衆も萎えたように見える。
半面、こちらの士気は戻り、増援もまだ傷んでいない。
理のない話ではない。
兵庫助自身、そう思っていた。
十日前の敗因は山道、地の利のない場所で兵を分けたことだ。
大軍を活かせず、いいようにやられた。
だが、富田まで出れば話が変わる。そこから先は、兵庫助が望んだ平野の戦に近づく。
つまり、今日と同じように勝てるのだ。
兵庫助はようやく顔を上げた。
「岩間は固めぬ」
家臣らの表情が変わった。
「前へ出る」
兵庫助の指が富田で止まったまま動かない。
「富田城に出る」
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河内の山道で武田勢を退けた福島兵庫助正則は、そのまま岩間を越えて北へ進んだ。
西島の敗北で今川方から離れていた者も、勝ち戦を見れば態度を変えた。
道を開く者が現れ、兵糧を差し出す村が増えた。
甲府の入り口である富田城を囲む頃には福島勢の数もさらに膨らんでいたという。
結果、富田城は五日も持たないうちに落城した。
武田五郎信直はその知らせを受け、方々に散っていた軍を参集するとすぐに富田城に向かった。
赤鳥の旗と、福島の旗が富田城に悠々と掲げられていた。
それを眺める五郎の足元に、元富田城の使者が平伏した。
「御屋形様、この度はまこと不甲斐なく」
本当にな。ほとんど抵抗などしておらぬではないか。
そう思いながらも、五郎は使者の肩を叩いた。
「そのようなことはない。あれだけの大軍を相手に、よう頑張った」
その言葉で使者は唐突に泣き出し、報告は途中で止まった。
泣く元気があるのならば、今からでも槍を構えて城に戻ってくれないものか。
そんなことを考えながら、五郎は使者をあやした。
しばらくのち、立ち直った使者から話を聞いた後、重臣らを呼んだ。
甘利九衛門、板垣駿河守らが入室したまでは良かった。
だが、なぜかそのあとに舅である大井入道宗芸が現れる。
せめて息子のほうが来てくれぬものか。
討ち死にするにしても、舅ではうまみがない。
というより、舅を呼んだのは誰だ。
そんな目線を送るが、九衛門も駿河守も身じろぎ一つしない。
そんな中、宗芸が膝の上で手を組み直した。
「いかがなされる、婿殿」
五郎はその顔を見た。
努めて平静を装ってはいるが、声には隠しきれぬ硬さがあった。
小心、と内心で嘲笑う。
その気持ちが表に出て、五郎の口元を緩めた。
「舅殿、何一つとして心配はございません」
宗芸の眉が寄った。
「富田まで落ちたのだぞ。兵庫めは大島でこちらを破り、その勢いのまま出てきた。駿河からの増援も加わり、兵は増えておると聞く」
「承知しておりまする」
「ならば」
笑みを深め、頭を下げた。
「だからこそ、五郎は甲斐守護としての役目を果たすばかりにございます」
宗芸が言葉を止めた。
信直は膝を正し、改めて舅へ向き直った。
「今川勢が来るならば戦い、退ける。それだけのこと。身重の室もすでに要害山へ入れておりますれば、たとえ五郎が戦場で果てようとも、武田の家までただちに絶えるわけではございません」
宗芸は何か言いかけたものの、そのまま口を閉じた。
ぎょろぎょろとした目があちこちを睨み、そのうちに落ち着いた。
必死に何か、いや、喜びを噛み殺していることは五郎には簡単に察せられた。
お察しの通り、今、自分が死ねば、室はお前を頼るぞ。
五郎はわずかに視線を落とした。
少し間を置き、今度は先ほどより声を低くする。
「ただ、一つだけ気掛かりがございます」
宗芸は表向きは心配そうに一歩寄って来た。
お互いの息が触れ合う位置で、五郎はそっとつぶやく。
「懸念は府中の西筋にございます。今川勢が富田まで出た以上、こちらが前へ出ている間に後ろを騒がされぬとも限りませぬ。
要害山へ通ずる道まで乱されては、さすがの五郎も戦に専念できませぬ」
宗芸の目に困惑の色が浮かぶ。
察しが悪いな、と五郎は舌打ちをしかけた。
そこでぱっと宗芸の手を取る。
「舅殿にお願いがございます。大井勢にて、あの筋を押さえていただけませぬか。舅殿が後ろにいてくだされば、五郎は前だけを見て戦えまする」
返事はすぐになかった。
宗芸は信直を見つめ、それから顎へ手をやった。
やがて眉間の皺が薄れ、口元にも笑みが浮かぶ。
「なるほど。そういうことであったか」
そう。邪魔だから引っ込んでいていただきたい。
あなたも大軍とぶつかる勇気はないから渡りに船だろうに。
「案ずるな、婿殿。後ろは大井に任せよ。左衛門督にも申し含めておこう。娘と生まれてくる孫のためである。そなたは余計なことを考えず、存分に戦われよ」
「おお、舅殿」
五郎はもう一度頭を下げた。
宗芸は満足げに頷くと、ほどなく陣屋を出ていった。
外では供の者が動き始め、馬を引く声や具足の鳴る音が聞こえてくる。
五郎は黙ったまま、その物音を聞いていた。
やがて大井勢の出立を告げる声が遠ざかると、膝を崩した。
「あれが途中で賊にでも襲われて死んだら、娘も心痛で死なぬものかな」
九衛門が露骨に眉をひそめた。
「御屋形様」
「分かっておる。あと一人ぐらいは子供をこさえねば、大井をつぶしたとき少し面倒だ」
五郎は宗芸が座っていた場所を見たまま続けた。娘同様、その浅さに辟易する。
「御屋形様」
今度は明らかに咎める声だった。
五郎はようやく九衛門を見た。
「ああ、後添は今井あたりがいいか。それとも諏訪か」
年頃の娘はいただろうか。そう思案していると、駿河守が小さく咳払いした。
「大井殿のことは、もうよろしいでしょう。それより福島勢にございます」
信直は鼻を鳴らし、傍らに置かれた絵図へ手を伸ばした。
「甲斐の山道を来たというのに、存外元気よな」
「余勢をかって、さらに兵を出してもおかしくございませぬ。富田が落ちてから寄った甲斐衆もおるようで」
「それはいい。咎めだてする理由ができた」
駿河守がまた息を吐いた。隣では九衛門まで顔を顰めている。
駿河守はこちらを無視し、絵図を叩いた。
「先々のことはともかく、今はこの軍勢をどうしのぐか、これにつきまする。もはや隘路で防ぐという策は使えませぬ」
「岩間の戦で学んだのか、陽動には引っかかりませぬ。難敵ですぞ」
信直は返事をせず、富田から南へ延びる道を指で辿った。
岩間、大島、その先へと下り、今度はゆっくり富田へ戻す。
「あつものに懲りて膾を吹く。馬鹿の一つ覚えよな」
九衛門が顔を上げた。
「何のことでございます」
「兵庫助殿だ。西島で兵を割って負けたゆえ、今度は何があろうと固めて進むと決めた。それで全て片付くと思うておられるようだ」
駿河守が首をかしげた。
その指が富士川筋を指す。
「御屋形様はそう仰りますが、現に我らは押されておりましょう」
駿河守の言葉に、九衛門も渋々頷いた。
「そこに異論はない。引いたら引いた分だけ押してくるな」
兵庫助は一度の敗北で崩れず、十日ほどで軍をまとめ直した。
前と同じ揺さぶりにも乗らず、大軍を固めたまま押し通して富田まで取った。
なるほど一進一退と言われればそう見えるだろう。内情はともかく。
九衛門がなおも絵図を見ながら言う。
「ならば、なおのこと慎重になさるべきでは。兵庫めは数も増しておりまする」
五郎は鼻で笑ってしまった。
「たわけどもが。見えぬ目なら、いっそ穿り出してしまえばよい。雑軍に怯えてどうするか」
「御屋形様、雑軍などと」
「雑軍だ」
言いすがる九衛門を一言で切って捨てた。
岩間で兵を割って負けた。
だから固めた。それで一度二度、押せれば万事それで片付くと思い込む。
集めた兵を前へ進ませることと、一つの軍として扱うことの違いも分からぬらしい。
「浅い男だ。あれが今川の第一の将となれば、物かなしいものよな」
二人の顔がわずかに変わった。
「されど」
「されど、などはない」
五郎は笑った。
「ここが福島兵庫助の最期の地となろう」
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数日後、五郎は夜の中で福島勢の陣を見ていた。
富田城に挑発を繰り返すこと幾度か。決戦を求める文も数え切れぬほど送った。
ようやく城の外へ軍勢を引き出すことができた。
篝火は焚かれているが、軍勢の端までははっきり見えない。
月が雲に隠れ、夜闇は濃かった。
ただ、そのような中にあっても、昼の物見によっておおよその軍容は把握できている。
福島勢は富田からさらに前へ出て、広く陣を置いていた。大将である福島兵庫助は中央。
その周りを直轄の兵や一門が固め、外には駿河から来た増援や後から寄った者たちが続いている。
少なくとも、あそこまで無理に固めた陣容であれば、夜半に組み換えなどできない。
五郎はそう見ていた。
「頃合いかと」
九衛門が声を低くした。
五郎は首を振った。
「まだだ」
ほどなく左手の遠くで鬨の声が上がった。
福島勢の陣がざわめく。
しばらく遅れて、今度は右手に火が上がった。
乾いた草へ移った炎が夜気の中で揺れ、その近くにいた兵が動き始める。
言うまでもなく左右とも、武田方の陽動である。
「後ろも騒がせよ。ただし入るな」
そういうと使番が闇へ消えた。
五郎は眼前の福島全軍を、感慨もなく眺め続けた。
左右で現れた付け火に対し、福島中央軍は不動だ。掲げた篝火は揺れていない。
だが両翼は鼠のようにばたつき、わあわあと騒ぎ立てては、火の手へ人を集め、また散っていく。
「動きましたな」
「あれらはどうでもよい」
九衛門の低い呟きに、五郎が答える。
肝心要の福島勢は崩れていない。
ただ、それでも中央から人を出している。中央の陣から出る篝火の数が、徐々に多くなっていくのだ。
おそらく、両翼の騒ぎを収めようと兵が行き来し、そのたびに固く閉じていた陣の形が僅かに広がっているのだ。
五郎はそこだけを見ていた。
「餅のようだな」
思わず口元が緩む。
絵に描いた餅ではない。
目の前で、手の届くところで、引けば引くほど面白いように膨らんでいる。
九衛門が横を見る。鼻息の荒い兵たちが合図を待っていた。
「いかがなされます」
「もう少し待て。今少し見せよ」
五郎は急かす将兵をなだめ、なお待った。
行けという時は動かず、行くなという時は前に出ようとする。
良い気分が台無しだった。
そのまましばらく見続けていると、左右の騒ぎを収めるためか、本陣近くからも兵が、篝火が出始めた。
固めていた中央が薄くなり、篝火が減る。
やがて兵庫助の旗だけが、ポツンと闇夜に浮かんで見えた。
猪武者、間抜けめ。
「御屋形様」
「行くぞ」
五郎はようやく立ち上がった。
馬に乗り、兜の緒を締め直す。
九衛門の顔が引き締まった。
「兵庫の旗へ、でございますな」
「二度言わせるな、たわけ」
ようやく命が走った。
闇に伏せていた騎兵が動き始める。
五郎もそれに混じって駆けた。
鬨の声は上げさせない。
先頭の一団が夜の中へ溶け、その後ろからさらに兵が続く。
距離が縮まるにつれ、福島陣の人影がようやく形を持ち始めた。
敵がこちらに気づき、声が上がった。
だが槍をそろえ、こちらに向けるより早く、甲斐衆が入った。
「行け、乱せ、乱せ」
五郎も馬上から叫んだ。
人の声が重なり、槍のぶつかる音が一つの塊になって夜気を震わせる。
五郎に率いられた甲斐の兵らは、吸い込まれるように福島本陣へ突いた。
両翼の雑軍に手を焼き、人を出した本陣は、五郎の想像以上に緩かった。
「止まるな。前へ出ろ」
一度開いたところへ兵を入れれば、あとは早い。
驚いて下がる者を押し、向きを変えようとする者へ槍を入れ、そのまま奥へ進む。
まだ福島の直轄兵は戻り切っていない。
「武田五郎信直っ」
自身の名を呼ぶ声がした。
そちらを見ると、福島勢の中央で一本の旗が前へ動いた。
暗くて細かな紋までは見えない。それでも周囲の兵の動きで分かる。
「福島兵庫だ。かかれ」
追従していた駿河守が声を上げた。
甲斐衆が殺到した。
我先にと旗を目がけて突き進んでいく。
「旗など掲げた程度でどうするのか」
間抜けめ。
五郎は鼻で笑った。
ほどなく、福島本陣の奥で人が大きく動いた。
怒号が重なり、掲げられていた旗が揺れる。
次の瞬間、旗が折れた。
「御屋形様、そろそろ」
駿河守が指し示す方を見ると、外へ出ていた福島の兵が戻り始めている。
長居をすれば退路を断たれるだろう。
「首は」
「まだ取れておりません。されど兵庫らしき武者には、矢を射込んだとのこと」
「であればよし。下がるぞ」
駿河守が合図を出すと、撤退の命が伝わった。
五郎も手綱を取って返し、夜闇の中へ駆け出す。
駿河守をはじめとする討ち入り勢も続いた。
それは一糸乱れぬ撤退ではなく、方々へ散るような引き揚げであった。
だが福島勢から追撃は出ない。
ある程度進んだところで振り返ると、福島の本陣がなお騒いでいるのが見て取れた。
「死んだか」
「にしては騒ぎすぎかと」
五郎が呟くと駿河守が答えた。
確かに、と五郎も思った。
この状況で大将の討ち死になど喧伝すれば、傷は広がる。
何でもないように陣を整え、追撃の一つも見せる。
それぐらいできなければ、下がった士気は戻るまい。
だが、それができていない。
「死んではおらぬが、傷が深いか」
「首だけ持って帰ることもできず。さりとて動かすこともできず。困りましょうな」
駿河守が目で五郎を探った。
どうするか、もう一度突っ込むか、と口には出さず問うている。
「たわけ。あの程度の首などいらんわ」
そう言って、五郎は馬首を武田の本陣へ向けた。
翌朝になると、福島勢が陣を置いていた場所はきれいに片付けられていた。
ただ、富田城から撤退したわけではない。
泥で汚れた福島の旗が、城に垂れ下がっていた。




