3章_2後
八郎が甲府に戻った。
その言葉の意味を、兵庫助は咄嗟に理解できなかった。
最初は八郎が単独で攻め上がったとすら考えた。
だが、しばらくしてようやく別の意味に思い至った。
八郎は今川を離れ、再び甲斐武田の側へ戻ったのだ。
状況を把握すると、今度は怒りと別の疑問が湧いた。
「甲府へ戻った、とはなぜだ」
「それをこそ、こちらは伺いに参ったのでございますが」
外記の返しに、兵庫助は眉をひそめた。
ふとその肩越しへ目をやると、廊下に穴山信風が座していた。
いつからそこにいたのか、口を挟まずに話を聞いている。
外記の言葉に小さく息を吐き、信風は膝を進めた。
「外記、よせ。福島殿、此度の一件は我らも寝耳に水ゆえ尋ねに参った次第でござる。
八郎殿は今川方に身を置いておられた。それがなぜ甲府へ戻られたのか」
兵庫助の腹に、別の疑いが湧いた。
「異なことよ、八郎殿を甲府に送ることで我らは何を得られる。むしろ得なのはそちらであろう」
信風の顔に皺が寄った。
兵庫助は構わず外記へ視線を戻したまま、信風に問うた。
「穴山殿こそ何か知っていたのではないか。これ以上の進軍を止めさせるため、八郎殿を」
「それは奇妙なことでございます」
外記の慇懃な言葉に遮られる。
外記は薄く笑いながら、続けた。
「本当に福島殿を止めるつもりであったなら、先の軍議で岩間へ出ることを遮りましたとも。福島殿も穴山の意見を汲もうとしてくださった。
ならば、わざわざ八郎殿を甲府へ戻すなど、いささか危のうございますし、なにより迂遠でありましょう」
癪には障るが、言い分には理がある。
先の軍議で岩間への進出を問うた時、外記は止めなかった。
八郎がなお言い募ろうとしたところで袖を引いたことは気に掛かる。あれが何だったのか、疑いは消えない。
ただ、それだけで穴山が五郎と通じていた証にはならなかった。
兵庫助が黙ると、信風は少し居心地が悪そうに座り直した。
「外記の言いようはともかく。我らが手を回したわけではない。それだけは信じていただきたい。
八郎殿がどうして戻られたのかは、こちらでも探る。ただ、のう」
信風は話しているうちに怒りが薄れたのか、どんどん語気が弱くなっていった。
そして、深くため息をつくと絞り出すように言った。
「八郎殿がおられぬとなれば、今までと同じでよいものか。我らにも分からぬのだ」
「殿」
外記が声を掛けると、信風は一度だけ頷いた。
それを受け、外記は兵庫助へ向き直った。
「これまでは、武田御一門の争いとも見えましたが、八郎殿がおられぬとなれば、同じようには申せますまい。
周囲がどう受け取るかは、分かりませぬな。殿が仰りたいのはこういうことでございます」
兵庫助は鼻で息を吐いた。
詭弁である。
「甲斐衆が動かぬのは、そなたらと同じく五郎殿を信じておらぬからだろう。
現にここ三月余り、あれほど機会がありながら、まとまった兵を出せず、小勢を寄越しては引くばかりだった。
これこそが五郎が家中をまとめきれておらぬ証ではないか」
「なるほど、福島殿の仰せ通り、甲斐衆の中には五郎殿を快く思わぬ者は多いのでしょうな」
外記はあっさり認めた。
「されど、五郎殿を信じぬことと、今川殿に弓を引かぬことは別にございます」
一瞬、この男を斬れば少し静かになるかもしれぬと兵庫助は思った。
「外記、もうやめよ。なぜそういつも」
信風が疲れた様子で止めた。
それから兵庫助へ向き直る。
「福島殿。我らは河内を守っていただきたく、今川殿へ御助成を願った。その恩を忘れたわけではござらぬ。
ただ、のう、八郎殿までおらぬとなれば、この先随分と厳しくならぬか」
兵庫助の腹に鈍い怒りが溜まった。
岩間まで出たのは、穴山を守るためでもあった。西島を押さえ、武田方を北へ退かせ、ようやく河内の息がつけるところまで来た。
その穴山から、今はもう不要だ、消えよと暗に伝えられている。
「ずいぶんと都合の良い。もう走狗は要らぬか」
信風は返しかけて言葉を止めた。
しばらくして、苦い顔のまま答えた。
「そう仰せられれば返す言葉もござらぬ。されど穴山は今川と違い、甲斐全てを敵に回せぬのだ」
強く出られれば、まだ腹も立てやすかった。
今川に助けられたことは認め、その上で不安を隠しきれずにいる。
そう言われると、兵庫助も切り捨てにくい。
頃合いを見たように外記が口を開いた。
「そういえば、先に駿府へ早馬を立てておられましたな。修理大夫様は何と」
兵庫助の怒りがまた湧きだした。
だが、今、駿府方の意向を知りたいと思うのは当然ともいえる。
怒りを噛み殺しながら、表面上は穏やかさを保った。
「今聞いても意味がなかろう。状況が変わったのだ」
本当のところ、以前届いた返書には、甲府盆地へは出るな、穴山と事を構えるようなら兵を収めよとあった。
それを今ここで明かす気はない。
表に出せば、外記はいけしゃあしゃあと撤退を進めただろう。
「なるほど、確かに。では、改めて駿府へ伺わねばなりますまい。
その間、我らとしては、念のため和議の口を探っておきたいと存じます」
「今川に無断で五郎と話を始めるか。随分と都合のよい話だな」
「勘違い召されるな。五郎殿と約定を結ぶのではございませぬ。
修理大夫様がいずれの御沙汰を下されても動けるよう、話のできる道だけは設けておきたいのでございます」
咎め立てても外記は悪びれもしない。
視界の端で、信風は居心地が悪そうにしていた。
だが、信風は外記の言葉をこそ否定しなかった。
そこでようやく、穴山の腹が少し見えた気がした。
簡単に言えば両取りだ。今川の怒りを逸らしつつ、五郎にもいい顔をする。
両者の仲立ちをする中で、甲斐での立ち位置を確保しようとしているのだろう。
「勝手な約定はするな。口を探るに留めてもらう。こちらは駿府へ改めて伺う」
外記に抱いていた怒りを、言葉に載せると信風はすぐに頷いた。
二人を見送った後、すぐに、兵庫助は駿府へ早馬を立てた。
文には、八郎帰参の経緯が分からず、穴山方も関与を否定していることを記した。
八郎不在によって周囲の甲斐衆の見方が変わる恐れがあること。
そして穴山は五郎との和議につながる道を探りたいと申し出ていることだ。
その上で、これまで通り岩間筋へ兵を留めるべきか、情勢が変わったものとして兵を収めるべきか。
これらの判断を氏親に委ねた。
整備した道のおかげか、返書はほどなく届いた。
ひったくるように文を受け取ると、兵庫助は人を遠ざけ、一人で封を切った。
そして文目を通し、む、と唸った。
記された氏親の判断は明快だった。
八郎が甲府へ戻り、穴山も和議の道を探るというのであれば、もはや今川が兵を進め続ける理由はなし。
河内の守りを穴山へ返し、兵を収めて帰国せよ。甲府へ事を構えるな。
兵庫助は文を二度読んだが、当然内容は変わらない。
そこに隠された意図も、偽文の可能性もない。
息を吐きながら、胡坐を組み、文を睨んだ。
少々悩ましいが、意外な沙汰ではなかった。
以前の返書にも、甲府盆地へ出るな、穴山との関係が変われば兵を収めよとあった。
今回の報告を受ければ、氏親が帰国を命じるのは当然である。
氏親の判断に理があることは分かる。それでも、惜しさは残った。
岩間まで押し出してから、武田方の小勢は退いた。西島への夜襲も止み、荷駄の往来も落ち着いている。
五郎が何を待っているのかは最後まで読めなかったが、少なくとも今は福島勢が押している。
その形を、自ら崩して帰らねばならない。
まるで五郎にしてやられたようだ。武田勢に勝利を重ねた今でも、そんな風に思えてしまう。
兵庫助は荒々しく息を吐き、しばらく返書を眺めた後、畳んで弥四郎や家臣らを呼んだ。
「弥四郎、そなたも読め」
文を弥四郎に手渡しながら絵図を広げた。
「率直に言えば、駿府に戻る。支度をせよ」
家臣らは怪訝な顔をしたが、頭を下げた。
勝っているのに退く、そのことに不満があるのだろう。しかし、大将に文句を言うようには躾けていない。
兵庫助は絵図を指しながら口を開いた。
「まず撤退するのは岩間から西島へだ。ただし一度に兵を下げるな」
隘路で大軍の撤退は襲ってくれというようなものである。
少しずつ、撤退したことすら悟られぬように兵を抜くことを方針とした。
「ただ西島の備えは最後まで崩すな。ここの兵は撤退後に抜く」
悟られず全兵の撤退が望ましい。
しかし、仮に悟られた場合は武田を押しとどめる拠点も必要になる。
説明し終えた兵庫助は、将兵らを見回した。
下知に疑問はあるように見受けられるが、将の指示を理解できない者はいないようだった。
兵庫助は腹に力を込めた。
「急ぐな。だが、もたつくな」
また将兵らが頭を下げ、その後動き出した。
兵庫助は、喧騒の中で北へ伸びる墨線を見ていた。
脳裏にあるのは、武田五郎信直である。
つい先日までの侮りは、もうない。
してやられたという思いと、それ以上の警戒だけが胸に残っていた。
おそらく、五郎は動く。
そんな予感があった。
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兵を収め始めて四日が過ぎたが、今のところ目立った混乱はなかった。
兵庫助自身は西島近くに陣を置いていた。
そこから北の岩間筋へ物見と小勢を伸ばし、南へ兵と荷を抜いている。
川向こうの西岸にも、南北に通じる道筋があった。
傷の深い者はすでに南へ送り、余分な荷も減らしてある。岩間筋の北へ出していた小勢も、日ごとに少しずつ数を減らしていた。
ただし、兵を抜いたことを武田方に悟らせぬよう、残した者にはこれまで通り物見を出させ、夜になれば火の数も変えなかった。
一見すれば順調な撤退である。
それでも兵庫助の警戒は解けなかった。
こちらが背を向けたと知れば、五郎は兵を出してくる。
そう考え、兵庫助の意識はどうしても岩間正面へ向いた。
これまで武田方と睨み合ってきたのも、その北側だった。
だが、その心構えとは裏腹に武田方に大きな動きはない。
陣へ届く報せも、ここ三月と大差なかった。遠くに武田方らしき者を見た、物見が追われた、山へ入った者が戻らない。
不快な話ではあるが、いずれも珍しい話ではない。
結果だけを見れば、武田方はおとなしかった。
あれほど警戒していたことが、馬鹿らしく思えてくるほどである。
それでも兵庫助の内にあるものは収まらなかった。
むしろ、五郎が何を待っているのか読めぬために、日が経つほど嫌なものが残った。
そんな中、岩間筋へ出していた物見が戻った。ちょうど昼を回った頃合いだった。
先日こちらの物見が追われた辺りに、武田方の兵が二百ほど現れたという。
旗は少なく、それ以上の兵が続く様子も今のところは見えない。
「こちらが出れば退くのでしょう。今までと同じに見えまする」
横にいた弥四郎が言った。
兵庫助も同じことを考えた。
この三月、小勢を出してこちらの物見を追い、荷駄を窺い、少し兵を向ければ退くという動きが何度も繰り返されている。
「追うな。数だけ見ておけ。念のため岩間の北へ物見を二組増やせ」
それで話を切った。
武田勢から目は離さない。ただし、追い払うために兵を出すこともしない。
翌日に下げる兵も、南へ送る荷の数も変えなかった。
二百ほどの敵が姿を見せたからといって、こちらが兵を下げる手を止めれば、それこそ相手の思う壺だった。
日が傾き始める前に、今度は川向こうから馬が来た。
乗っていたのは福島勢に雇われ、道案内をしていた河内の男である。
馬から転げるように降りると、息を切らしたまま兵庫助の前に平伏した。
「川向こうに人馬が見えました」
兵庫助は絵図を引き寄せた。
男が示したのは、岩間正面とは別の西岸の道筋だった。
遠目で旗までは分からず、穴山方の兵かどうかも確かではない。
ただ、百や二百では済まぬように見えたという。
兵庫助は報告のあった地点へ駒を置いた。
まず、西岸の道筋に人馬がいること自体は珍しくない。
穴山方も動くし、地元の者も行き来する。
仮に武田方であったとしても、小勢ならこれまで何度も見てきた。
ただ、時が悪かった。
昼には岩間正面に二百ほどの武田勢が現れ、その後、西岸でもまとまった人馬が見つかった。
何かの策か。こちらを囲むつもりか。それとも単なる偶然か。
まだどちらの線も捨てきれない。
だが、岩間正面の小勢と西岸の人馬が何らかの策で動いていれば、おそらく面倒なことになる。
「西岸の筋は誰が見ていた」
絵図を見ながら問う。
「穴山方の地侍が見ております。福島勢の物見はまだです」
家臣の答えに、兵庫助は顔をしかめる。
穴山は敵ではない。
敵ではないが、穴山方の目だけでは安心できない。
「こちらから二組出せ。一組は道を見ろ。もう一組は川沿いを探れ」
西岸筋へ改めて物見を出させた。
それとは別に、兵庫助は岩間正面へ出している物見の位置も確かめるように指示する。
最初に現れた二百の武田勢と、川向こうの人馬。
その双方を福島勢自身の目で見張るようにした。
「岩間から兵を抜く手は止めぬ。ただし、明日下げるはずだった者の半分を今夜のうちに戻せ」
警戒は強める一方で、不確かな報せ一つで撤退そのものを止める気はなかった。
また時が過ぎ、太陽が甲斐の山間に沈んだ。
だが、今になっても西岸筋へ出した物見は戻らなかった。
代わりに岩間正面から、二百ほどの武田勢が少し前へ出ているとの報せが届いた。
数そのものは大きく増えていないという。
兵庫助は眉根を寄せた。
やはり妙だった。
北側に二百の武田勢。西岸には数の分からぬ人馬の大集団。
本気でこちらを押し込むつもりなら、岩間正面の二百は少なすぎる。
こちらの撤退を見送るだけなら、西岸に現れた人馬の数が多すぎる。
二つがどのようにつながっているのか、まだ分からない。
ただ、五郎が何もしていないとは思えなかった。
「弥四郎。岩間の者へ伝えろ。手柄はいらぬ。追うな。今夜のうちに戻せる物見は戻せ」
兵庫助は陣中で腕を組みながら命を出した。
その時、陣の外から馬の嘶きが聞こえた。
西岸筋へ出した物見の一人だった。
顔も衣も泥にまみれていた。物見はどよめく家臣らをかき分けると、兵庫助の前へ来るなり膝をついた。
「西側の集団、武田勢でございました。数はつかめませなんだが、穴山方の知らせより明らかに多く、旗の後ろにも兵が続いておりました」
家臣たちの腰が浮いた。
それを目で制しながら、兵庫助は尋ねた。
「西岸の武田勢、どちらへ向かっておる」
男は荒い息のまま絵図を指した。
兵庫助の顔が渋くなった。嫌な場所だった。
西島そのものではない。
だが、西岸の道筋をそのまま下れば、福島勢が兵を集めようとしている西島近くを横から窺える位置だった。
兵庫助は絵図の上へ目を走らせた。
北、岩間正面には二百ほどの武田勢。
西、川向こうの西岸筋には、それより大きな兵。
福島勢は岩間方面から兵を下げ、西島近くへまとめようとしている。
そこでようやく、別々に見えていた二つの動きが一つにつながった。
岩間正面の小勢は、こちらへ攻め込むためではないのかもしれない。
こちらの目を北へ残し、前へ出した兵を岩間筋に留めるための陽動である。
陽動が気を引いている間に、西岸の兵が下り横腹を突く。
五郎の狙いがそこにあるならば、確かに岩間正面の二百へ兵を足す理由はない。
兵庫助は唸りながら命を出した。
「岩間を下げる。今夜を待つな。前へ出している兵を戻せ。北、岩間正面の敵には構うな。荷はそのまま南へ行かせ、西島の備えは崩すな」
「本命である西岸の兵を追い払った方がよいのではないでしょうか」
立ち上がった弥四郎が尋ねた。
兵庫助も本音ではそうしたかった。西岸の兵を打ち破り、五郎の思惑を崩してやりたい。
だが、今の目的は勝つことではない。
兵を収め、駿河へ戻ることである。
「まだ触るな。数も分からぬ相手へ、こちらから出る必要はない。まず岩間から下がる兵を集める」
命を受けた将兵が動き出した。
だが、軍そのものはすぐには動かなかった。
問題の一つは、命を受ける兵が一か所にいないことだった。
兵庫助は、岩間筋の北には物見を置き、道を押さえる小勢も置いた。
一方で、西島には守備兵を残し、南へ荷も向かわせている。
さらにいうならば、撤収を始めた福島勢は、既に各所へ散っていた。
どれも武田方を警戒しながら兵を下げるために必要な備えだった。
だが状況が変わった今、その配置が兵を一度に収める妨げになっていた。
命を出したからといって、方々へ散った兵をすぐにまとめられるものではなかった。
さらに上がってくる報告も思わしくない。
岩間正面へ出した物見が二組戻らず、前進兵へ送った使いも戻らない。西島からも新しい報せは届いていなかった。
兵庫助には、命を出すたび、打った手が一つずつ裏目になっていく気すらした。
月が上った頃、兵庫助は遅々として進まぬ撤退にしびれを切らした。
武田勢の横槍がいつ始まるか分からぬ今、これ以上待ってはいられなかった。
「戻らぬ物見は捨てろ。岩間正面に残る兵を先に下げさせる。戻る道を空けよ」
兵庫助が命じた直後、岩間方面から使者が駆け込んできた。
「殿、前へ出した兵が下がり切れませぬ。武田方が新手とともに道際まで寄せておりまする」
陽動と見なしたはずの岩間方面の兵が、こちらの撤退に合わせて圧してきた。
詳しく聞けば、先ほどまで見えていた二百ほどの小勢に加え、別の兵も姿を見せたという。
「付き合うな。岩間の兵を下げよ」
「無論でございますが、下がろうと隊が伸びた隙に分断を図られております」
武田勢の動きは速い。岩間で先に退いた者と、まだ北に残る者の間も開き始めているらしい。
「岩間の新手と、元の陽動。武田勢は合わせてどれくらいになった」
「増えた者を合わせても、五百には届かぬかと」
五百、と兵庫助は数を舌で転がした。
こちらの兵は依然として多い。新手を含め岩間の兵が五百に届かぬなら、押し返すことはできる。
だが、そのためには西島近くに残している兵を岩間方面へ回さねばならない。
その間にも、川向こうの西岸筋には数の読めぬ武田勢がいる。
北に手をやれば西が薄くなる。かといって、西を気にして岩間の兵を易々と見捨てることもできない。
兵庫助はまた絵図へ目を落とした。
冷静になれと言い聞かせ、状況を整理し、命を下した。
「北に取り残された者に迎えは出すな。岩間の兵は下がれる者から下がらせろ。西島の兵を北へ回すな」
使者は苦い顔をしたものの、頭を下げて走り去った。
岩間に取り残された一部は、見捨てることになるかもしれない。
それでも岩間の大半を駿府へ戻すには、今は仕方がない。
兵庫助はそう自分に言い聞かせた。
ところが、さほど間を置かず次の報せが届いた。
「岩間正面の兵、下がれませぬ」
「退路はまだあろう。道は狭いが、いくらでも分かれておるはずだ」
「武田勢の攻勢が収まりませぬ」
使者の悲痛な訴えに、家臣の一人が低い声で進言した。
「誘いでございます。岩間の兵をなぶり、西島の備えを薄くするのを待っておるのです」
そこから先は家臣は言わなかったが、兵庫助は察した。
岩間の兵、その大半を切り捨てよということだ。
その献策はもっともだった。岩間の兵は三千の兵全体から見れば少数である。
だが、兵を数とだけ見れば別の危険があった。
残った者を易々と切り捨てれば、次から誰も殿に残らなくなるのだ。
兵を下げるたび、置いていかれる前に我先にと道へ入るようになる。
そうなれば、五郎が何をせずとも軍は崩れる。
兵庫助は唇を噛みながら絞り出した。
「手元、直轄から二百出す」
家臣らの視線が集まった。何か言い出す前に制する。
「無論、戦いに行くのではない。岩間に残る者を迎えに行き、西島まで連れて戻せ」
「さすが叔父上。その任、弥四郎にお任せください」
そう言って立ち上がったのは弥四郎である。
目を覗き込むが、血気に逸ったところは見られない。
これならば、と命を下そうとした時、また川向こうから馬が来た。
「西岸筋の武田方、動きました。西島近くへ向かっておりまする」
兵庫助は顔を上げ、思わず呟いた。
「今、ここで来るか。五郎」
そして我に返ると、絵図を食い入るように見た。
状況が雪崩打つように動いている。
岩間正面では、下がろうとする福島勢に武田の小勢が食いついた。
そして同じ時に、西岸筋の武田勢が南へ動いた。
待たれていたのだろう。
こちらが撤退を始める時ではなく、岩間の兵を救うため、予備を割かんとしたまさにその時を。
「弥四郎、待て。迎えは百五十に減らせ。残る五十は西島に置け」
「されど、それでは岩間の者が」
「百五十で連れて帰れ。全ては無理でも、まとまっている者から戻せ」
弥四郎の顔が強張った。
先ほどとは命が違うことは、兵庫助自身にも分かっていた。
だがもう、同じ戦況ではない。
岩間方面へ二百を出し切れば、西岸筋の武田勢へ向ける兵が減る。
そうなれば、北から戻す兵を受け入れる西島近くの備えまで危うくなる。
「急げ」
弥四郎は頭を下げ、走った。
そこから先は、各所から届く報せが重なり始めた。
岩間方面に残っていた兵は、迎えに出した福島勢と合流しながら下がっている。
ただ、武田方も離れなかった。
後ろへ食いつかれ、足を止めれば寄せられ、退けばまた追われる。
その間にも、西岸筋の武田勢は南へ下っていた。
「先ほどより近うございます。後ろの旗も動いておりまする」
別の物見がそう告げた。
兵庫助は唇を噛んだ。口内に血の味が広がる。
岩間の兵を戻さねばならない。
西岸筋から近づく敵にも備えねばならない。
西島は南へ逃れる兵や荷を収める拠点である。ここを圧せられれば、撤退そのものが崩れかねない。
だが、岩間へ向かわせた弥四郎がまだ戻らぬ今、すぐに動かせる兵は少なかった。
兵庫助は立ち上がった。
もはや陣にいても分からない。直接指示を出すべきだ。
馬を駆り、心もとない数の直轄兵とともに、西岸筋を望める場所へ向かった。
だが、兵庫助が西岸筋近くにたどり着いた時には、既に両軍がぶつかっていた。
目の前でぶつかっている兵だけなら、こちらが多い。だが形勢は明らかに悪かった。兵の質が雲泥の差だった。
西岸筋で構える福島勢、その大半は戦うために集まった兵ではない。
先に下がった者もいれば、ようやく戻った者もいる。追われたまま味方へ飛び込んできた小勢もあった。
だが武田勢は方々から集められた選りすぐりであり、疲れた様子など微塵もない。
また、その兵の向こう側ではさらに武田の旗が動いている。
全体の数は読めなかった。
目の前にいる者だけなら、押し返せぬほどではない。
だが林の奥にも旗が見え、どこまで続いているのか分からなかった。
兵庫助がそれを睨んでいると、また使者が転がるように飛び込んできた。
「川向こうの兵、なお下っておりまするっ」
兵庫助は一度だけ目を閉じた。
北は分断され、西は押されている。
このまま行けば、程なく崩れるだろう。
だが、このまま見過ごすわけにはいかない。
「こちらへ百を回せ。岩間から戻る者は、そのまま西島へ入れろ」
命を受けた兵が動いた。
だが、すぐに綻びが出た。
西岸筋へ向かう者の前を、岩間方面から戻ってきた兵が横切り、兵の流れが行き詰まったのだ。
狭いところで人と馬が止まり、後ろから来た者には何が起きたのか分からない。
兵庫助の背後では、それらの兵が重なり、怒号が上がっていた。
「かかれ、かかれ」
武田勢はその混乱を見逃さなかった。
温存していたのであろう精鋭を押し込むと、一気に福島勢を破った。
そこから崩れは早かった。
兵庫助が立て直そうとした時には、既に別の場所からも退く者が出ていた。
敵に押されたのか、前が崩れたと思ったのか、それすら分からない。
「ここは良いっ。引け、西島を固めろ」
声を張り、散った兵を集めようとした。
だが、一度崩れた兵らの動きは鈍い。まるで心折れた敗残兵であった。
これでは集めても意味がない。
兵庫助は歯噛みしながら周囲を見た。
兵はまだ混乱している。
武田から逃げようとする者、北に向かおうとする者、西に流れる者。
それぞれが兵庫助の命や指示を果たそうとした結果、何もなせぬままに混沌を生み出している。
負けた。
すとんと、その言葉が兵庫助の腹に落ちた。
ゆえに、次の言葉はあっさりと出た。
「西島を捨てる」
近くにいた者が息を呑んだ。
「荷は捨ててよい。兵を南へ抜け。旗をまとめろ」
「されど、ここを失えば」
「承知の上だ」
兵庫助は不思議と落ち着いていた。
確かにここで踏ん張れば、目の前の武田勢は押し返せるかもしれない。
だが、その間にも岩間方面から追う兵は寄せてくる。
西岸筋の武田勢も、さらに回り込んでくるだろう。
ここへ留まり続ければ退路まで塞がれ、全軍を失う可能性がある。
「退け。走るな。南へ抜ける。隊ごとに下がれ」
命を受けた福島勢は西島を離れた。
綺麗な撤退ではなかった。
荷の一部は捨て去り、岩間方面に取り残された兵も見捨てた。
それでもなお道を外れ、山へ逃れた者も出た。
だが兵庫助を中心とした直轄兵が殿の形を作れたため、武田方も深くは追ってこなかった。
夜も更ける頃になると、主力となった兵を中心に、多くの兵らが兵庫助のもとに集まっていた。
「やりおる」
腹立たしさと、僅かな納得があった。
五郎は勝機を逃さないが、決して無理攻めはしない。
西島から福島勢を退かせ、岩間方面へ伸ばしていた兵も引かせたことで、目的を果たしたと見たのだろう。
その夜、兵庫助はさらに南へ下がった陣で、戻った旗と兵を確かめた。
火は少なかった。
怪我人の呻き声と馬の鼻息が聞こえる。
失った荷は多くない。そう言い切るには、少し多かった。
兵庫助は戻ってきた兵らから一つずつ報告を聞いた。
答える者たちの声には疲れがあった。不満もあるだろう。
勝っていたはずなのに退いた。岩間から兵を収める途中で襲われ、西島まで捨てた。
兵庫助自身、忸怩たる思いがある。
それでも今は、膝を折っている場合ではなかった。
最後の報告が終わると、しばらく誰も口を開かなかった。
やがて家臣の一人が尋ねた。
「この先、いかがなされます」
兵庫助はすぐには答えなかった。
陣の外では、兵がまだ動いている。
傷の浅い者が水を運び、槍を拾い、戻ってきた者の名を確かめていた。
確かに、福島兵庫助正則は武田五郎信直に負けた。
そこに異論はない。
だが、と兵庫助は顔を上げた。
「十日あれば足りる」
尋ねた男が目を瞬いた。
「何がでございます」
「立て直す」




