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3章_2前

二月の末、福島兵庫助は氏親から三千に届かぬ兵を預けられた。


目的はあくまで甲斐河内の国人、穴山氏の救援である。

下知は限られていた。

河内の味方を支え、武田勢を押し戻し、道を確保すること。

それ以上の進軍、甲府を狙うような意図は含まれていなかった。


ただ、氏親は下知の際最後に一つだけ、


「甲斐はそなたの庭ではない。それだけ忘れるな」


と言い含めた。


兵庫助に少し勘づくところもあったが、理由を問うようなことはしなかった。


出立の支度は、思いのほか早く整った。

米も味噌も塩もあり、干魚まで揃った。支度はかつての出兵よりも数段早く済んだ。

遠江から入る荷もあって、荷駄の手配にも以前ほど難儀しなかったのだ。


そして、旗頭である武田八郎もまた、穴山方との間を取り持つため、駿府から河内へ入れられた。


当初は甲斐の山道に苦戦すると思われた。

だが、実際に兵を進めてみれば、戦は予想以上にうまくいった。


穴山方が道を開き、土地の案内をつける。

武田方の小勢を二度退けると、その後はまとまった軍も現れなかった。

その様を見て、やはり武田五郎信直は今なお、甲斐を掌握しきってはいないと兵庫助は確信した。

当然、追えばさらに崩せると進言する者もいたが、兵庫助は許さなかった。


長年の勘はまだ押せると言っていたが、下知が下りていない。

武田勢を討ち滅ぼせとは命じられていないのだ。

今回は道を取り、河内を守ればよい。


その上でさらに、相手の弱腰が見えれば御屋形様も考えを変えるやもしれん。

兵庫助はそう言い聞かせ、忠誠心と功名心に折り合いをつけた。


そこからひと月も経たぬうちに、少なくとも見かけの上では戦は一度静まった。


旧暦三月も半ばを過ぎた頃であった。


南部の穴山方の館では、庭の隅にまだ汚れた雪が残っていた。

昼の日差しで溶けた水が軒下を濡らし、館へ上がる兵庫助の草鞋にも泥がついた。


通された座敷には、河内の川筋と道を荒く記した絵図が置かれている。


上座には穴山甲斐守信風(※)が座り、その少し下には、駿府で顔を合わせた穴山外記がいた。

武田八郎も同席している。


「いや、まこと見事なものでございました」


信風は上機嫌だった。


「武田殿も、これで少しは大人しくなりましょう」


「ええ、ええ。後は少し水を向ければよろしゅうございます」


外記もにこやかに頷く。


「修理大夫様にも、福島殿にも、このたびは随分と骨を折っていただきました。改めて御礼申し上げまする」


二人から礼を受け、兵庫助も頭を下げた。


「いや、隣国甲斐の平穏のためならば、この程度どうということはござらん。

ただ、今しばらくは強う出た方がよろしかろう。ここで気を緩めれば、五郎殿がまた無理を通そうとするやもしれぬ」


外記の笑みが、ほんの少しだけ深くなった。


「いやいや、それでは福島殿にあまりに悪うございます。甲斐は山国。春とは申せ、日陰にはまだ雪も残りまする。

 この先まで兵を置いていただいては、修理大夫様にも面目が立ちませぬ」


「外記の申す通りよ」


信風も頷いた。


「すでに十分すぎるほど骨を折っていただいた。これ以上となれば、我らの立つ瀬もない」


なるほど。

随分と柔らかいが、そろそろ帰れという話らしい。


兵庫助は、駿府で三浦らが口にした懸念を思い出した。

武田を押し退ければ、穴山は何食わぬ顔でまた武田へ寄る。なるほど、あれは的を射ていたのかもしれない。


だが、それを許せば今川のためにならぬ。


兵庫助は、あえて力強く首を横に振った。

信風が訝しげな顔をする。


「ここで帰れば、御屋形様に叱られまする」


「修理大夫様が、まさか」


「河内の味方を支え、武田を押し戻せと下知を受けました。

 少し退いたからと申して背を向け、後からまた五郎殿が来たとなれば、何をしに参ったか分かりませぬ」


「されど、」


「それに、武田殿は少しでも気を緩めれば、また来ましょう」


兵庫助は傍らの絵図を引き寄せた。


富士川筋と、そこへつながる道が墨で記されている。細かな山襞までは分からない。

だが、このひと月でどこを兵が通り、どこで荷が止まったかは頭に入っていた。


指を北へ滑らせ、西島の辺りで止める。


西島は、河内路とも駿州往還とも呼ばれる道筋の途上にある。

ここを押さえれば、北から下る武田勢の動きを早く捉え、河内への進入を阻みやすい。


なにより兵庫助にとって都合がよいのは、そこからさらに北へ兵を進められることだった。

駿府がその気になれば、甲斐侵攻の足掛かりにもなる。

守るに良し、攻めるに良し。駿府がどう転ぶにせよ、押さえておきたい地点と見ていた。


「少なくとも、この辺りは固めねばなりますまい」


信風の目が絵図へ落ちた。

西島か、と呟いた顔は渋い。


「ここを空ければ、北から下る兵を見張れませぬ。道を押さえ、何かあればすぐ知らせる。それだけでも違いましょう」


信風はしばらく絵図を見ていた。


「お言葉だが、さすがにそこまで守る兵は我らにはおらぬ」


よし、言わせた。


外記が、あ、馬鹿、という顔で信風を見た。

信風も気づいたらしく、言葉を切る。


「うむ。穴山殿の兵が足らぬというならば、我らが前へ出るほかありますまい。

 ここは西島に福島の兵を置きましょう。武田勢を、これより南へ決して通さぬことをお約束いたす」


「いえいえ、福島殿」


やはり外記がすぐに口を挟んだ。


「それでは、ひと月どころか、田起こしの頃まで福島殿を河内へ留め置くことになりかねませぬ」


「構わぬとも、甲斐の水にも慣れてきた」


外記は咳払いを一つした。


「いや、何と申しますか。口惜しいことながら、河内は豊かな土地とは言えませぬ。これだけの御人数を長く支える兵糧など、とても」


兵庫助は、その言葉に乗ることにした。


「それならば心配は要りませぬ。駿河の蔵には米が溢れておりまする。

 塩も味噌もある。このあたりで少し吐き出さねば、御蔵役どもが困りましょう」


事実である。三千の兵など、数年居てもびくともしないだろう。

兵庫助が言い切ると、しばらく誰も口を開かなかった。


やがて外記が、ゆっくりと頭を下げる。


「ははあ。それは何とも、剛毅な」


それ以上言わなかった。笑みに少し硬いものが混じっていた。

当然だが、穴山方の話を、兵庫助は言葉通りには受け取っていない。


穴山方が欲しいのは、今川の旗の下で武田と争い続けることではない。

五郎を一度押し返し、少しでも良い条件で話をつけることだろう。


そのくらいは兵庫助にも分かっていた。

だが、当初の河内防衛という目的から見ても、今ここで退く方がよほど危うい。

五郎が一度兵を引いたからといって、河内を諦めた証にはならないのだ。


信風は困ったように絵図を見ている。

その時、それまで黙っていた八郎が口を開いた。


「福島殿。どちらにせよ、一度駿府へ知らせを入れられてはいかがでしょうか」


兵庫助は八郎を見た。


「福島家の奮闘により、五郎殿は意表を突かれ、一度兵を下げました。これは望外の勝利にございます」


「望外とは随分な言いようよ」


「これは失礼。では大勝と申し上げましょう。望外よりはお気に召しますか」


「いや。続けられよ」


八郎は少し笑った。


「この当初の見込みを越えた大勝を得たからこそ、改めて修理大夫様の御意向をうかがうべきかと」


もっともな話だった。

だが駿府へ伺えば、氏親はここで止まれと言うかもしれない。


武田勢を退けた。

道も開いた。

こちらの兵はまだ動ける。


今ならなお押して、より今川の利を増やせる。

その機を手放すのは惜しかった。


「それに、今すぐ北へ出ることだけが、五郎殿を弱める道とも限りませぬ。

 今川勢が河内へ入り、五郎殿が下がった。この話はいずれ甲斐中へ広がりましょう」


八郎は絵図の北へ目をやった。


「ならば、他の甲斐衆にも迷う時ができまする。このまま五郎殿に付き従うべきか。それとも、しばらく様子を見るべきか」


兵庫助は黙った。

確かに前へ出るばかりが圧ではない。武田が退いたという事実そのものが、五郎の力を疑わせる。

甲斐守護武田五郎の力を削ぐには、むしろそちらの方が強いようにも見える。


「おお、さすがは八郎殿。まさにそれよ。さすがは甲斐武田の」


信風が膝を打ち、何事か口走ろうとした。

だが、外記がまた咳払いをした。

今度は先ほどよりもさらに大きく、わざとらしい。


信風ははっとして口を閉じた。

わずかな間の後、外記が笑みを浮かべた。


「ええ、甲斐武田の御一門にございますな。まこと甲斐の心をわかっていらっしゃる」


八郎は何とも言えぬ顔をし、小さく頭を下げた。

それを横目で見つつ、兵庫助は絵図へ目を戻した。


駿府へ伺うことへの理は確かにある。

今ここで兵を止めても、武田が退いたという事実は残るため、咎められることはないだろう。


だが、それでも西島を空けておく気にはなれなかった。

蔵の鍵をせぬままに、深い眠りにつくようなものである。

ふむ、と兵庫助は頷き、結論を出した。


「八郎殿の言は正しい。駿府へ一報は入れましょう」


その言葉に信風の顔がわずかに緩んだ。

外記もいつもの笑みを戻す。


「されど、沙汰が来るまで今ある備えを崩すつもりはござらん。西島の支度も進めまする」


今度は誰もすぐには答えなかった。

やがて外記が口を開く。


「ええ、ええ。まずは修理大夫様の御沙汰を仰ぎましょう」


同じ日のうちに、駿府へ向けて早馬が立った。

西島へ向かう兵もまた、選び始められた。


-----------------


その夜、八郎にあてがわれた部屋へ、穴山外記が訪ねてきた。

夕餉を終えて間もない頃である。


外記は一人ではなかった。廊下には供の者が二人残り、八郎も護衛を下げなかった。

今川勢が河内に入ったばかりのこの時期である。穴山の者と武田の者が夜に二人きりで話していたなどと噂されては、互いに面倒が増える。


「いやぁ、本日はなんとも骨折りいただき、ありがたく。殿も大層感謝しておりました」


部屋へ入るなり、外記は昼と変わらぬ笑みを浮かべた。


「いえ。穴山と今川の間に、あらぬ誤解が生まれてはようございません。

 して、何用でしょうか。あまり夜分に訪ねられては、御身の評判にも差し障りがありましょう」


穴山外記とは血のつながりもあるが、か細い縁に過ぎない。近頃は話す機会こそ増えたものの、そのたびに八郎は、この男を近しいとは思えなくなっていた。


「ははぁ。穴山の者が、甲斐武田の御一門へ機嫌伺いをして、何が悪いと仰る」


どの口が言う、と八郎は内心で吐き捨てた。

甲斐武田の当主に歯向かうよう嗾けた口で、今度は甲斐武田一門を立てる。


できることなら、そのまま部屋から蹴り出したかった。

だが残念なことに、この男はこのたびの戦における穴山と今川の折衝役である。


それゆえに八郎は内心を噛み殺し、曖昧に笑った。

外記はそんな八郎を見透かしたように、大きく笑い声をあげる。


「八郎殿、冗談でございます。今後も、今川殿と河内の間に要らぬ行き違いが生まれぬよう、甲斐武田の御一門たる八郎殿にはお力添えいただきたい。それだけでございます」


福島兵庫を抑えてほしいとも、西島へ兵を出させるなとも言わない。

だが、わざわざ夜に訪ねてきた理由は、それで十分だった。


「御一門にできることがあれば」


「おお、それは心強い。河内だけでなく甲斐の者も喜びましょう」


外記は深く頭を下げた。


「では、まこと挨拶だけにございます。これ以上おりますと、今度こそ御身の評判に差し障りがありましょう」


そう言い残し、外記は帰っていった。

八郎がもう寝ると言うと、護衛らも部屋の外へと下がっていく。部屋には灯明の火と、外からかすかに届く兵の声だけが残った。


昼も夜も、甲斐武田の御一門。

随分と便利な呼び名だ、と内心でまた毒づいた。


八郎は武田から今川へ送られた身だった。

誰も面と向かって人質とは呼ばなかったが、少なくとも八郎自身はそう思っている。


もっとも、駿府での扱いに恨みはなかった。


修理大夫氏親はよくしてくれた。粗略にされた覚えは一度もない。

衣食に困らず、武田一門としての面目も保たれた。家臣の中には腫れ物のように扱う者もいたが、それも悪意からではない。


むしろ今川には恩がある。

向こうも八郎がそう思っていることは承知しているはずだ。


現に今回も、戦がうまく運べば甲斐に相応の所領を得る道があると、それとなく匂わされていた。

今川に従えば故郷へ戻れるかもしれない。それだけでも八郎には十分な恩賞だった。


だからこそ、昼の福島兵庫が引っ掛かった。


今川は甲斐を取らぬと聞いている。

穴山を救い、五郎の伸長を抑え、河内を武田の手に渡さない。少なくとも氏親から示された話は、そこまでだった。


兵庫助も下知に背いたわけではない。

実際、武田勢を退けた後も追ってはいない。


ただ、気になったのは福島が兵を置こうとした場所だった。


「西島、か」


思わず八郎はつぶやいた。


八郎も多少は軍略を齧った身だ。西島を押さえることの利点は分かる。

北から下る兵を見張るにも、河内を守るにも都合がよい。


問題は、その次だった。


西島まで出れば、いずれさらに北の岩間も押さえねば危ういと言い出すのではないか。岩間まで進めば、甲府への道はいよいよ近くなる。


そうなれば、ここまで来ては下がれぬ、いっそ武田の本城を落とせとでも言い出しかねない。


あの武勇の誉れ高き福島が、どうしてそう言い出さぬと保証できるだろうか。


なにより福島には前に出る理由があると、八郎は判断していた。

福島家の娘が氏親の子を産んでいるのだ。

もし仮に兵庫助がこの戦で大功を立てれば、福島家の声は今より重くなる。


その先に何を望むか。

今川の嫡男が蟄居している今、何を狙うか。


八郎は頭を振って、考えを散らした。

さすがにそこまでいくと下種の勘繰りである。


ただ、やはりあの男が功を欲していないとも思えなかった。

河内を守る。今川の利を増やす。武田を弱める。

おそらく、そのどれもが本心である。そしてそこに僅かばかりの功名心が混じっている。

八郎はそう睨んでいた。


この戦が長引けば、穴山の望む形にはなるまい。


信風が欲しいのは五郎を滅ぼすことではなく、呑まれぬだけの余地を得ること。ならば本来、どこかで止まるべき戦である。


だが福島勢が西島へ出て、さらに前へ進めば、五郎も今度はおとなしく下がらない。

甲斐の国人衆を招集し、今川と腰を据えてぶつかろうとする。

そうなれば福島は駿河に増援を願い、大軍同士が河内でにらみ合う。


穴山は引くに引けなくなる。

いや、武田には今川を引き入れた敵と見られ、今川には裏切りを疑われ、下手をすれば双方から真っ先に刃を向けられる可能性すらある。


八郎は重々しく息を吐いた。


昼、自分は他の甲斐衆にも迷う時ができると言った。

このまま五郎に付き従うべきか、それとも、しばらく様子を見るべきか。


なんとも随分と賢そうなことを言ったものだ。

迷っているのは、自分も同じではないか。


確かに今川には恩がある。穴山とは切れぬ縁がある。

そして、どれだけ駿府で暮らそうとも、自分も武田の者だった。


そんな自分に、甲斐の平穏を守るため何ができる。


兵庫助を押しとどめるのか。

今川と穴山の間を取り持つのか。

それとも、五郎とも話をつけるのか。


考えがまとまらぬうちに、外よりかすかな声がした。


「八郎殿。御文にございます」



-----


それから三月余り、河内では大きな戦のないまま、小競り合いだけが続いた。


福島勢は予定通り西島までの道を直し、渡しを押さえ、武田方の小勢を追い払った。

そうして確保した西島にも兵を置いた。


武田勢の反撃を防ぎ、あわよくば痛撃を与えてやろうという腹積もりで、福島兵庫助は守りを固めたのである。


しかし、どうにも武田方の動きは鈍い。


無論、黙っていたわけではなかった。物見を襲い、荷駄を狙い、夜陰に紛れて柵を壊す。

こちらが追えば退き、兵を戻せばまた現れる。それでも、まとまった軍を出してはこない。

甲斐統一に意欲的な武田五郎信直らしくないと、兵庫助は首を傾げざるを得なかった。


福島勢が押していることは間違いなかったが、武田方を河内から遠ざけたとは言い難い。


それゆえ六月、兵庫助は西島近くの陣に一門と主だった者を集めた。


座の中央には、河内から甲府盆地へ続く道筋を記した絵図が広げられている。

河内へ入った頃より墨書きは増え、川筋や渡し、狭隘な道ばかりか、武田方の小勢を見た場所まで印が付けられていた。

そのいくつかは西島の北にも散っている。


兵庫助の甥にあたる福島弥四郎が、その辺りを指した。

まだ若いが、身内びいきを差し引いても知恵の回らぬ男ではないと、兵庫助は見ていた。


「西島の備えは済みましたが、武田方の応じようがどうにも思わしくございませんな」


「小競り合いばかりでは埒が明かぬか。大きく出てこぬ分、こちらも決め手に欠ける」


兵庫助は絵図を見たまま答えた。

やはり武田の動きは鈍い。何より、五郎らしくなかった。


何かを待っているのではないかと、兵庫助は何度も考えた。

だが、何を待っているのかまでは読めない。


「随分と長うなりましたな。田畑も忙しい時分でございますし、秋も遠くはございませぬ。さてどう動くべきか」


そう呟いたのは穴山外記だった。

声色はいたって穏やかで、一度だけ八郎へ視線を送る。

八郎はそれを受けて、口を開いた。


「駿府からも、さらに進めとの御沙汰はございませぬ。ここで手を止めるのが妥当かと存じます」


これも何度か聞いた話だった。だが、兵庫助も間違いだとは思っていない。


西島まで来た以上、当初の目的はほぼ果たしている。

河内へ下る道を見張り、穴山方を支え、武田勢も一度は押し戻した。

その後、駿府から新たな沙汰もない。


ただ、武田五郎の腹が読めない。


当然ながら、五郎は河内を諦めてはいないだろう。

力を温存し、こちらが背を向ける時を待っているという線も捨てきれなかった。


兵庫助が黙っていると、弥四郎が絵図へ身を寄せた。


「いっそ岩間まで出て、向こうの腹を探るというのも手かと」


「それはいけませぬ。当初の駿府の下知から外れましょう。武田をいたずらに煽ることになりまする」


八郎の反対は早かった。


「八郎様。されど、ここで手を止めても武田方が退くとは思えませぬ。まして兵を下げるとなれば、なおさらでござる」


弥四郎は西島の北へ指を滑らせ、岩間と書かれた地点で止めた。

岩間は西島より甲府に近い。そこを越えれば盆地が開け、大軍も動かしやすくなる。

守りのために出た兵が、そのまま攻め気を起こしかねない場所でもあった。


兵庫助が思案している間も、若い二人は言葉を交わしている。


「この辺りは道も狭く、大軍を並べるには向かぬ。岩間まで出て北の動きを見定め、武田方を一度遠ざける。

 その上で兵を下げた方が、よほど安全にございましょう」


「理は分かり申す。ですが、それでは御屋形様の御意図と外れましょう」


「外れてはおりませぬ。甲府へ進むなとの御下知でござろう。岩間は甲府ではござらぬ」


「詭弁でござる。御屋形様は、武田と本格的に争うことを避けようとなされたのではないか」


少し熱が入りすぎたなと思い、兵庫助は外記へ向き直った。


「して、河内の御考えはいかがか」


「軍議の席で意見を求められましても、何とも申し難うございますな」


外記はいつもの調子を崩さなかった。


「我らは御助成を願った身にございます。福島殿が河内を守るため必要と見られるならば、それを遮るのも筋違いでございましょう」


八郎はしばらく外記を見た。

いや、唖然としていると言った方が近かった。


「意外だ。そなたは止めると思っていた」


確かに兵庫助にとっても予想外だった。

つい先ほどの外記の言葉は、手を止めることを匂わせていた。

だが、一転して兵庫助を支持するような言葉を吐く。

一体、この狸はどういう腹積もりだろうか。


「軍議の場を乱すような真似はいたしませぬ。まして我らは助けを願った側。総大将の御意こそ肝要にございましょう」


兵庫助は再び絵図へ目を落とした。

穴山には何かある。


だが、兵を挙げてこちらを挟むような真似まではできまい。

そんなことをすれば、今川は河内を守るべき味方の土地ではなく、討つべき敵地と見る。

穴山にとっても得にはならない。


そう判断すれば、今考えるべきは軍の進退だった。


弥四郎は軽く言ったが、岩間まで出る危うさは当然ある。

そこまで兵を進めれば、五郎が甲斐衆を集め、大軍同士の戦になる可能性もあった。


一方で、西島に留まり続けても状況は好転していない。


物見は襲われ、荷駄は狙われる。武田方はこちらを追い払えぬ代わりに、退く気配も見せない。

兵を下げれば再び南へ出てくる恐れがあり、このまま残れば小競り合いだけが続く。


そうなると、岩間までの進出は俄然魅力的に思えた。


今まで以上に武田勢の動きを早く捉えられる。

武田方が本当に戦う気なのか、それともこちらが疲れるのを待っているだけなのかも見えてくるだろう。

西島を前線のまま抱え続けるより、北に目を置いた方が、いずれ兵を下げる際にも安全だった。


前へ出る危うさはある。

それでも、相手の狙いも分からぬまま待ち続ける方が安全だとは、兵庫助には思えなかった。


兵庫助は絵図の上に置いた手を引いた。


「岩間へ出る」


軍議は静まった。

兵庫助の決定を覆そうとする者は、すぐには出なかった。


ややあって、八郎が膝を進める。


「福島殿。一度そこへ兵を置けば、容易には引けませぬ」


「分かっておる。城を攻めるわけではない。まず物見を出し、道を見る。武田方が大きく動けば、それ以上は進まぬ」


「ならば」


八郎はなお続けようとしたが、外記が脇からそっと袖を引いた。

八郎は一度外記を見た。その目には明らかに困惑が見て取れた。

困惑だけではない、言い表せない、懊悩ともいうべき色が見え隠れしている。


「八郎殿、何かあるか」


兵庫助が見かねて声をかけると、八郎ははっとした様子だった。


「いえ。ご無礼を申し上げました」


そしてそう言って深々と頭を下げ、一歩退いた。

正直、言えば八郎の様子は少し気に掛かった。

だが、岩間へ出て武田勢の動きさえ見えれば、この不安も消えるだろうと兵庫助は考えた。


ゆえに弥四郎へ命じた。


「西島の備えは崩すな。前へ出す兵は軽くしろ。荷駄を増やしすぎれば、それを守るためにまた兵が要る」


居並ぶ諸将が頭を下げると、軍議はそのまま出す兵の数と道筋を詰める話へ移った。


----


そこから半月は兵庫助の判断が当たった。

大当たりと言ってもよかった。


岩間筋へ物見を出すと、武田方の小勢はさらに北へ退いた。

そうなると道を知る者も増え、これまで半日遅れていた報せが早く届くようになる。

奇襲が用をなさぬと悟ったのか、西島へ夜襲を仕掛けていた者も姿を消し、荷駄の往来も落ち着いた。


新たに見つかった道へ人を置き、その先も探らせる。

大軍を動かしたわけではないが、今川方の目は少しずつ北へ伸びていった。


大会戦にはならないまま武田方が下がったことで、河内の者たちの顔も明るくなった。

穴山方の兵らからも、これでようやく落ち着くとの声が出る。

弥四郎ら一門の者たちは、やはり岩間へ出て正解だったと口々に言った。


兵庫助も、次第にそう考えるようになった。


武田五郎信直は結局、大胆な行動に出られぬのではないだろうか。

おそらく、甲斐で勢力を拡大するうちに、内に大きな不和を抱えたのかもしれない。


仮にそうであれば、今後も今川が圧を加えるたびに退く。

ならば、もう少し遠ざけておく方が河内のためにもよいかもしれない。


そんなことを考え始めていた七月半ば、呼んでもいないのに穴山外記が陣を訪ねてきた。


兵庫助は、また道か兵糧の話だろうと思った。だが部屋へ入った外記は、いつもの調子で前置きを重ねなかった。


「福島殿。少々、申し上げにくいことがございます」


外記はそこで言葉を切った。


「八郎殿が、甲府へ戻られました」


※官位:甲斐守ですが混同のため、信風と呼称

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