2章_15
正親町三条の霧姫は、文机の前で筆を持ったまま、庭へ目を向けていた。
永正十七年の暮れに駿府に下向し、五日ばかりが経過している。
ふと外を見るが、冬の日差しは思いのほか明るい。
京では山に遮られる頃合いになっても、駿河の空にはまだ青みが残っている。
庭に植えられた松の葉は風に揺れ、その向こうから、時折人の声が聞こえてきた。
館の外からだろうか。
何かを売る声にも、荷を運ぶ者の掛け声にも聞こえる。
「姫様」
呼ばれて、霧姫は文机へ目を戻した。
年嵩の女房が、いささか咎めるような顔でこちらを見ている。
その手元には文が三通、きれいに重ねられていた。
「こちらには御返事を。藤枝の御方には、先日の御贈物への御礼も添えられるのがよろしいかと」
「まだあるのですか」
「良きことでございます」
霧姫は筆を置いた。
「何がです」
「これほど皆々様が、姫様の下向を喜んでくださっているのでございます。遠国へ参って、誰からも文一つ来ぬよりよほどよろしゅうございましょう」
もっともな話だった。
それだけに、返す言葉がない。
ただ駿府へ着いてからというもの、挨拶ばかりしている気がした。
まず今川の御台所、中御門殿へ挨拶に上がった。
父や祖父から預かった言葉を伝え、京から運んだ品を渡し、向こうからも丁重なもてなしを受けた。
本来であれば今川修理大夫にも拝謁する予定であった。
だがこちらは病床にあるとのことで叶わなかった。
正直に言えば、武勇で知られた武家の当主には是非会ってみたかった。
それだけに残念でもあった。
ただ残念がる暇もなく、それからは、駿河に滞在している縁者や、正親町三条とつながりのある者たちとの顔合わせが続いた。
誰もが親切だった。遠方よりやってきた年若い霧姫に親身になってくれている。
だがそれに当然として、悠然と構えることなどできない。
乱世を生きるには、公家とはいえ気遣いがいるのだ。
具体的には礼をする必要がある。
文が来れば、文を返す。
品が来れば、やはり文を返す。ただ一層丁寧な文。
少し情けなさも覚えるが、こればかりは仕方がない。
ただ、これでも霧姫は美筆で知られ、歌にも一家言ある。
貰ったことをずっと誇りに思う、そんな文を送るので許してもらいたい。
そんな風に気を入れてみたものの、実のところ気が付いてしまった。
これでは京にいたころと変わり映えがしない。
京を離れれば、少しは違う日々になると思っていた。
馬の産地として有名な駿河である。
男子のように鷹狩りをなどとは言わない。
だがそれでも、ちょっとした遠出ぐらいはできるのではないかと期待していたのだ。
それがこうでは、なんというか、ひどく興が削がれる。
「こちらには、御歌を一首添えられればなお喜ばれましょう」
年嵩の女房が、さらに一通を差し出した。
霧姫はそれを見た。しばらく見た。
だが、しっくりこない。
それゆえ、また庭へ目を向けた。
「駿府の町は、栄えているそうですね」
女房の手が止まった。
「左様にございますね」
声に警戒が混じった。
霧姫は気づかないふりをした。
「京から参る途中にも、商人から聞きました。駿河の府中は、東国でも指折りの賑わいだとか」
「よく御存じで」
「見て回ることはできませんか、きっと」
「なりません」
返事が早かった。
霧姫は、その先の言葉まで用意していた。きっと駿府を知ろうとすれば、今川家中も喜ばれる、だ。
そう悪くはないと思ったが、いう前に打ち切られた。
霧姫はゆっくりと女房へ顔を戻した。
「まだ何も申しておりません」
「申されました」
「供も連れずに歩くとは申しておりません」
「そういうことではございません」
今度は、傍らに控えていた若い女房が笑いを堪えた。
年嵩の女房がそちらを見ると、すぐに口元を袖で隠した。
「正親町三条の姫君が、町娘のように府中を歩かれてはなりません。御身に何かあれば、我らが何と申し開きをすればよいのです」
「何も起こらぬかもしれません。駿府は治安もよいと聞きます」
「ええ、つい先日も三河と弓矢を交えた今川家ゆえ、微塵も殺気立ってはおりませぬでしょう」
皮肉で返されたが、また正しい。
霧姫は面白くなかった。
文机に置かれた料紙を一枚取った。
返事を書くつもりで筆を持つ。
書き出しを考えた。
月迫の、と少し書き出しをいじったが、これ以上は何も浮かばなかった。
やはり机に齧りつくようではだめなのではないか。
「このように座っていては、歌の一つも浮かびません。歌も添えずもらった相手が喜びましょうか」
「なんという変わりようでしょうか。先ほどまで御返事が面倒と仰せでしたのに」
まあ、と若い女房がわざとらしく驚いて見せた。
そのことに完全にへそを曲げた霧姫は筆を止めた。
そんな霧姫を見て若い女房が、とうとう俯いた。
肩がわずかに揺れている。
「笑うなら笑いなさい」
「滅相もございません」
「では顔を上げなさい」
若い女房は上げなかった。
霧姫は小さく息を吐き、庭を見た。
駿河まで来た。
京を出て、山を越え、いくつもの宿を過ぎた。
それなのに、ここでも御簾と壁ばかり見ている。
京では近ごろ、どこかで兵が動いた、誰それが洛中へ入った、また門を閉じよと、そのような話ばかり耳にした。
火が上がったと聞けば風向きを気にし、騒ぎがあると聞けば出歩くなと言われる。
父は顔をしかめ、細川が、大樹が、と頭を抱えるばかり。
外で何が起こっているのかは霧姫に伝えない。
京は広く、人も多いが、ずっと暗いのだ。
だが駿河は違った。
少なくとも、ここへ来てからは違う。
朝から荷車の音がし、人が動き、館へ出入りする者の顔にも妙な張りがあった。
それを見たいと思うことの、何が悪いのか。
「では、館の内を歩くのは」
「姫様」
「今川の御館は広いのでしょう。町へ出るわけではありません。当然、侍らの集まるところにも参りません」
年嵩の女房が黙った。
霧姫はそれを見逃さなかった。
「供も連れます」
「日が暮れる前にはお戻りください」
「分かっています」
「勝手に人の居室へ入らぬこと」
「そんなことを言わずとも分かっております」
年嵩の女房は何とも言えぬ顔をした。
霧姫はそれを見て少し腹が立った。
どうやら信用されていない。
その時だった。
「そういえば」
若い女房が顔を上げた。
年嵩の女房が、何です、と見る。
「御館の内でも、西の奥へはお近づきになりませぬよう」
「なぜです」
霧姫が聞くと、若い女房は少したじろいだ。
「いえ、その」
「申しかけたのでしょう。続けなさい」
年嵩の女房が先に答えた。
「あちらには、ご嫡男、龍王丸様のお住まいがございます」
霧姫は、ああ、と頷いた。
その名なら知っている。
知らぬ方が難しい。
今川修理大夫の嫡男。
幼い頃より神童と呼ばれ、遠江へ出されてからは荒れた土地を富ませたという。
先ごろは三河の大軍を、わずかな手勢で打ち破ったとも聞く。
数については、聞くたびに違った。
三千。五千。そして一万。
京を発つ少し前には、一夜で万人を殺したという話になっていた。
遠江の軍神。
あるいは悪鬼。
その才を父に恐れられ、今は館の奥へ閉じ込められている。
京では、そのように語る者もいた。
どこまで本当かは知らない。
少なくとも、今川の者に尋ねるような話ではなかった。
「存じています。遠江の軍神殿でしょう」
若い女房の目が少し大きくなった。
「姫様まで、そのような」
「褒め言葉です。今川のご嫡男を褒めて何が悪いのでしょうか」
霧姫は筆を取り直した。
「近づきません。親族とはいえ年頃の殿方の住まいへ押しかけるほど、物好きではありません」
「それがようございます」
若い女房が、ほっとしたように言った。
だが年嵩の女房はまだ何か言い足りないようで、じっと若い女房に視線を送った。
若い女房が何かを確かめるように頷いて見せる。
霧姫はそれが何か気になった。何か隠していると直感的に察した。
「何です」
「何でもございません」
霧姫は筆を置いた。
「今、何を隠しました」
「姫様」
「申しかけておいて、それで済むと思うのですか」
若い女房は困ったように年嵩の女房を見た。
貴方が気取らせたのですよ、などと責める目だった。
年嵩の女房がため息を一つこぼし、何事か言おうとした。
おそらく、霧姫を丸め込む言葉だ。
だが霧姫はその言葉が形になるのを待たなかった。
「龍王丸殿は今川の御曹司でしょう。正親町三条とも縁なき方ではありません。
良からぬことがあるなら、知っておくに越したことはないでしょう。京の皆々様の誤解を解くにも切っ掛けないと困りますゆえ」
口にしてから、自分でも随分もっともらしい理屈だと思った。
年嵩の女房も、それを分かっているらしい。
疑わしげな目を向けてきた。
しかし、若い女房はそこまで疑わなかった。
「なんでも」
声を少し落とした。
「龍王丸様は、気が触れられたとか」
「こら」
年嵩の女房が強くしかった。
若い女房は肩を縮める。
霧姫は眉を寄せた。
「それはお気の毒に」
思っていたより、つまらない話だった。
大軍を殺した。父に疎まれた。
館の奥へ閉じ込められた。
それで心を病んだというなら、不思議でもない。
京でもたまにそのような公家の男子は出る。
大概、病気になった、寺に入ったなど周囲はぼかすが、それでもある程度は察することができるものだ。
そして、そのような話が出たときは可能な限り目を逸らし、忘れるようにするのが心得でもある。
霧姫は人の醜聞を好んで見たいとは思わない。
「もうよいです」
霧姫が文机へ戻ろうとすると、若い女房が慌てた。
「ですが、ただ気が触れたというだけではないそうで」
年嵩の女房の顔が険しくなった。
「もう黙りなさい」
「このまま姫様の誤解を解かずにいれば、困ることになります」
若い女房がそう言うと、年嵩の女房が渋々と下がった。
それから若い女房は気を取り直して、ゆっくり話しだした。
「気が触れたというのは穿ち過ぎでございました。昼間はいたって聡明な若君でございます。
ただ、夜になると、誰もいない庭へ向かって話しかけるそうです」
霧姫は少しだけ顔を上げた。
「誰もいないのに」
「はい。初めは独り言かと思われていたそうですが、時折、もう一人の声が聞こえると」
「誰かいるのでしょう」
「見に行っても、おらぬそうです」
霧姫は黙った。
若い女房は声をさらに潜めた。
「遠江がどうとか、塩がどうとか。誰それの首がどうとか。そのようなことを、夜な夜な」
塩。魔除けに塩を盛るのはおかしな話ではない。
いや、武士で塩というと、少々おぞましいが首の塩漬けなどであろうか。
霧姫は少し身震いした。
「それで」
「それを聞いた者が、死んだそうです」
さすがに、霧姫は若い女房を見た。
話しが飛んだのだ気がしたのだ。
「誰が死んだのです。いつ死んだのです」
「そこまでは。ただ、館の者が申していたと」
「館の誰です」
「それも」
年嵩の女房が深くため息を吐いた。
「お聞きにならぬ方がよろしいと申し上げたでしょう。直ぐに偶然の死と怪異を結びつけるなど、まさしく下々の噂にございます」
「ですが、本当に以前にもあったそうです」
若い女房は引かなかった。
「まだ龍王丸様が幼かった頃、その御声を聞いた者が死んだとか。名を呼ばれた者が、ほどなく自ら喉を突いたとも」
霧姫は目を細めた。
先ほどまでより、少し話が具体的になった。
若い女房は、霧姫が聞いていることに勢いづいた。
「それで皆、遠江で亡くなった者らと話しておられるのではないかと。
あれほどの戦でございます。一万もの死者が、夜ごと龍王丸様のもとへ集まるのだと申す者もおります」
「馬鹿馬鹿しい」
年嵩の女房が切って捨てた。
「一万など、そもそも誰が数えたのです。三河にそれだけの人を出せる力などありません。姫様も真に受けてはなりません」
「真に受けてなどいません」
霧姫は答えた。
実際、信じてはいなかった。
死人と話す。声を聞けば死ぬ。
一万の亡者を従える。
そのようなことがあるはずもない。
「そう。全くそのような話は、何とも」
霧姫は文机へ目を戻した。
返さねばならぬ文が、まだ三通残っている。
一番上の料紙を取り、筆先を墨へ浸した。
何と書くべきか。
考えながら、ふと庭を見た。
西の奥。
先ほど、若い女房はそう言っていた。
霧姫は筆を置き直した。
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怪談話をした時より、三日ほどが過ぎた。
幸い、いや、霧姫にとっては不幸なことに平穏そのものの毎日である。
文を書き、挨拶をし、あとは日がな一日おとなしくしている。
その日も同じように文の返りを書き記して終わり、駿府館の一室にて眠りについた。
ただ、その日ばかりは勝手が違った。
普段は寝入っている時間であるのに、ぱちりと目が開いてしまった。
霧姫が目を覚ました時、部屋の灯はほとんど落ちていた。
わずかに残された灯明が、風もないのに細く揺れている。
夜は深いらしい。
御簾の向こうから人の気配はせず、隣の間に控える女房たちも、とうに寝入っていた。
霧姫はしばらく目を閉じ直した。
眠れそうにはない。それに厠にも行きたい。
両方とも原因は昼に出された遠江の茶である。
京では縁遠かったため、物珍しさから何杯も飲んでしまった。
濃い茶は眼が冴えるとは聞いていたが、やはりいささか多かったのかもしれない。
霧姫は身体を起こし、寝所の脇へ目をやった。
声をかければ、誰かが起きる。
そうすべきなのだろう。
だが、厠はほんの少し先である。
霧姫は薄い夜着の上から衣を重ね、音を立てぬように立ち上がった。
板敷きへ足を下ろす。
冷たさが足裏から上がってきた。
思わず眉を寄せた。
京の冬も寒い。
だが駿河は、昼の陽気に気を許している分だけ、夜の冷えが腹立たしかった。
障子を細く開け、あたりを窺った。
幸い廊下にも人はいない。
霧姫は少し迷ってから、一人で外へ出た。
そろりそろりと、足音を殺し厠へ足を運ぶ。
こちらも運がいいようで、誰にも見咎められることはなかった。
用を済ませ、戻る頃にはすっかり目が覚めていた。
夜の館は、昼とは別の場所に見える。
昼間は人が行き交い、武士の声や荷を運ぶ音が絶えない。
それが今は、どこか遠くで夜番が歩く足音がするだけだった。
月は雲の合間にあるらしい。
庭の石と枯れた草が、淡く白んでいる。
霧姫は衣の前を合わせ、足早に客殿へ戻ろうとした。
その時だった。
「遠江か」
と人の声が聞こえた。
霧姫は足を止めた。心の臓も止まるかと思った。
喉までせり上がった声を押し戻し、先ほどの声を思い出した。
聞き間違え出なければ、低い男の声だった。
夜番だろうか。
霧姫はそう思いながらしばらく耳を澄ませた。
声はしない。
やはり気のせいかと思った時、また聞こえた。
「遠江の座の者が、動き始めております」
霧姫は瞬いた。
座。遠江。と確かにそういった。
だが先ほどの声とは違うものだった。
最初の声は随分若く声変わり前の少年のようで、今度の声は大人の男性のものだ。
何の話だ。
そっと、霧姫は足音を殺したまま、声の方に近寄った。
話し声はこちらに気が付いていないようで、会話を続けていた。
「少し鈍いが、まずはよい。それで誰が始めた」
少年の声が問うた。近くで聞けば涼やかな声である。
それに対して男の方が何か答えた。
だがよく聞き取れない。おそらく男の方は声を潜めているのだろう。
霧姫は廊下の端から顔を出した。
せめて誰が話をしているか気になった。
だが、そこには誰もいない。
いや、庭の方、西の奥の方からまだ声がする。
その時、三日前の話を思い出した。
夜ごと、誰もいない庭へ話しかける。
遠江がどう。塩がどう。首がどう。
霧姫は、しばらく動かなかった。
喉が鳴った。
もしや、若君と三河の怨霊、と頭に浮かびあがりかけた答えを否定する。
馬鹿馬鹿しい。
三河の怨霊共が座の話などするものか。
きっと、誰かいるのだ。
若君が誰かと話している、それだけだ。
そう自分自身に言い聞かせると、背筋の冷たさが徐々に和らいだ。
しかし、冷たさがひくと今度は別の思いが湧き出て来た。
興味。
蟄居しているはずの今川の御曹司が、こんな夜更けに誰と話しているのか。
あの京でも謳われる若き軍神が、人目を忍んで何を話す。
霧姫は胸の中の興味に突き動かされるように、一歩進んだ。
だが、そこで足を止めた。さすがに不味い。戻るべきだと思った。
好意で駿府への下向を許してくれた今川家の恥部を暴くようではないか。
恩を仇で返すようなものではないか、とほかでもない霧姫自身が自分を叱りつけたのだ。
帰ろう。
女房たちが目を覚ませば騒ぎになる。
先日も西の奥へ近づくなと言われたばかりだった。
だが、そこでもう一度、声がした。
「舟手が二組、荷を断ちました。馬借も一部が値を上げております」
「いまさら抗うか。だが、良い。放っておけ」
霧姫の眉が上がった。
いや、放っておくのか。どうにかしないのか。
落ち着けたはずの興味がまた燃え上がった。
話しの中で少年に嫌がらせをしている相手がいることはわかった。
その相手を放置すると、それが最善手であるかのように少年が言った。
なぜそういえる。軍神にしては温厚ではないか。
そんな疑問がわき、気がつけば、また一歩進んでいた。
客殿から離れるにつれ、廊下は細くなった。
庭木が近くなり、枝の影が板敷きへ落ちている。
不思議なことに、人がいない。
いや、夜番の足音は聞こえる。
だが遠い。
普段はこのあたりには常に数人は張り付いている。
それがなぜか遠巻きになっている。
霧姫はそれを少し奇妙に思った。
だが、戻ろうとはしなかった。
もう声がはっきり聞こえる場所まで来ていたのだ。
「しかしこちら側の塩を扱った商人が一人、打たれております。荷も一部押さえられたと」
「その者は生きて帰ったか」
「はい、骨も折れておれませぬ。荷を取り戻そうとしたとき、地面に引き倒されたようですが、それだけです」
「折り目正しいな。随分余裕のある商人か」
「遠江では大手の塩商人ですからな。さもありなんというべきでしょうか」
で、どうするのか。軍神はこの嫌がらせにどういう手を打つのだ。
霧姫は先が気になった。
霧姫の期待とは裏腹に、軍神と思わしき声は穏やかなままであった。
「釜場には人を置け。荷は捨てても構わん。いっそ周囲のものに拾わせてしまえ」
「御身も剛毅ですな。安い荷でもないでしょう」
「取り返すために死人を出す方が高い。塩は今後余る。人の方が足りなくなる。
どれだけ荷を止め、奪おうが塩が止められんとなれば、相手も動きを変えよう」
霧姫は庭木の陰へ身を寄せ、そっと西の奥を覗いた。
木々の合間に小さな離れが見えた。
一つの明かりが灯り、障子を照らしていた。
浮かび上がる人影は二つ。一つは庭先に座っている小さな影。そしてその向かいに立つ男の影。
どちらが軍神、若君だろう。
霧姫は目を凝らす。
立っている方の影は年嵩の武士に見えた。
肩幅ががっちりとし、大小の刀を腰に下げている。
ただ庭先に座るもう一人は、灯の当たり方が悪く、顔まではよく見えない。
ただ、小柄だった。
「薪の方はどうだ。用意した分で足りているか」
「今のところ問題ございません。というより喜ばしいことに予定より少なく済んでおります」
「原因は何だ」
問うたのは少年の声だ。
おそらく縁側に座っている方だろう。
ただ、声色の訝しみがかすかに聞き取れた。
薪が少なくてよかったのに、なぜ訝しむのだろうと霧姫も不思議に思った。
「風ですな。御身が御料様であったとき、試したのは浜名湖であったかと。海沿いは風がそれより強うございます」
「その結果、塩水をより濃くできた、か。何割ほど減ったか、どの工程で起こったかまとめておくよう玄蕃に伝えよ」
「必ずや」
「ほかに何かあるか、塩の備蓄量は問題ないか」
「予定を下回りはしていません。されど余りが出始めております」
「どれほど」
数字が返った。
霧姫にはよく聞こえなかった。
だが、少年にはうれしい数字であったようだ。
「よい。予測した数字の内ではある。かまわん西へ出せ」
「堺へでございますか。向こうも塩座はございますぞ」
「堺に運ぶが売るな、送るだけだ」
男が黙った。
霧姫も少し考えた。
売らないなら、なぜ送るのだろう。
「皮屋へ、新五郎へ預けろ」
「新五郎殿へ、しかしそれなりに危ない橋でございますが」
「卸す木綿の量を年単位で確約せよ。ただ増やせないと伝えよ。その代わり、詫びとして塩も持たせろ」
「あくまで詫び、でございますな。量は誠意と」
塩。堺。
堺と京は非常に近い。
堺に大量の塩が流れるのであれば、京も無関係ではない。
霧姫は少し身を乗り出した。
「もし新五郎殿が乗り気になり、細川方へ入る口があれば、どういたします」
細川。その名前を聞いて、霧姫は背筋が冷えた。
幕府管領、細川武蔵守高国。近江に放逐されたにもかかわらず、舞い戻った男。
おそらく、京の不穏を生んでいる男の一人でもあり、京で一、二を争う有力者でもある。
その名に何も思わない、とは公家の姫として口が裂けても言えない。
男が慎重な声を出す。
管領の名に対する畏れが間違いなくあった。
「やはり細川方に売りますか」
「買うまい。細川殿は高貴な方ゆえ、上物だけを進上しろ」
霧姫は眉を寄せた。
若い声はおそらく、細川を嘲った。
言葉の上では褒めているが、そういう色があった。
「歓心を買えますかな」
「買えまい。だが無為な恨みも買わずに済む。あとは大樹だが、幕臣らにも送れるか」
「容易うございます。幕臣方ならば縁も脈もございます。少々餓えておるようですので」
霧姫に言わせれば、少々ではない。
幕臣らも京の不穏のあおりを受け、その日の米にも事欠きかねない。
塩を差し出せば、小身の者は内心では小躍りするだろう。
「京の畏きところはいかがいたします」
また霧姫の背筋が冷えた。
軍神がなんというか、すこし気になった。
知らず知らずのうちに、霧姫の手が祈りの形をとっていた。
「公家衆には安房守殿へ話せ、おそらく御台様を通して縁のある家々などに今川家から献上する、そのような形がよい」
一拍置いた。
「私の名は出すな」
公家衆の陰口はなかった。
数代前の縁を頼りに駿府に下向し、大して力にもなっていない霧姫らへの批判もなかった。
ほっと、胸をなでおろした。
そして、落ち着くとだんだんと頭の整理がついた。
軍神は塩を使って何か大事を企んでいる。
遠江の塩商人と争い、その塩を堺や京まで持ち込もうとしている
そこまではわかる。だが、そこからが分からない。
そうまでして塩を握ってどうするのか。
確かに冬は塩が必要だが、方々を敵に回してまでやることなのだろうか。
やはりお金なのだろうか。
だが、今川は、言いづらいが最近富に景気がいい。
霧姫には、今川が到底お金に困っているようには、見えなかった。
霧姫は庭木の陰から、もう少し顔を出した。
疑問を少しでも解決したかった。
身を乗り出し、離れに目を凝らす。
すると庭先に腰かけた若い方の姿が、少し見えた。
たまたま立ち上がり、こちらを向くところだったため顔がはっきり伺えた。
「あ」
と霧姫の口から声が漏れた。
見えた相貌が想像のものとはまるで違ったからだ。
遠江の軍神。万人殺し。悪鬼。
これらを自分よりも幼い時にあだ名されたのが今川龍王丸である。
霧姫は当然、龍王丸がそれらに相応しい獣のような恐ろしい男のように思っていた。
きっと、背は六尺を超え、巌のような肌をし、幾つもの切創を得た悪相の武士。
絵物語に出てくる敵役を勝手に思い浮かべていた。
だが実物はまるで違う。
龍王丸は年頃の少年だった。
顔立ちは、極めて、いやかなり整っている。
霧姫はその事実を認めた。
少なくとも、悪くない。
透き通る白い肌。若竹の葉のような目。柳眉。
特に鼻と口の形がいい。
鼻筋はすっと通るが、やや小ぶりで武張ったところがない。
唇は紅く、横にすっと細く結ばれている。
そして、何より背筋が伸びているのが良い。
涼やかな目元と相まって、清々しさすら感じられる。
なるほど、これがわが親族の今川龍王丸か。
「まあ、良し」
合格だ、と霧姫は頷いた。
龍王丸が何に合格したのかは、自分でも分からなかった。
その時、庭の男が立ち上がった。
話が終わったらしい。
「では、そのように」
「待て」
龍王丸が止めた。
「座の内で借銭を抱えている者を探しておけ」
「借銭、でございますか。よろしゅうございますが、ただ相手の取り込みは今少し後だったはずでは」
「少し相手の動きが雑だ。内部がまとまり切っておらんように見える。それに利の出ない荷止めなどに出れば、さらに纏まりがなくなる」
男が少し考えたようだった。
しかし、しばし後納得したように平伏した。
「あとは負傷をした者にも予備費の中から見舞金を出すように。大怪我でないのであれば一日、二日の賃金でよい。働かせよ」
随分細やかなところまで指示をする。
霧姫は意外に思い、可笑しさを覚えた。
それは男も同じであったようで、かすかな笑い声が聞こえた。
そのことが、霧姫の可笑しさを大きくする。笑い声が喉までせり上がるのを感じた。
緊張からの解放で気が緩んだのだ。
霧姫は慌てて口元を押さえる。
その時、衣の裾が枝へ触れた。
枝が引っ掛かり、引かれ、その後弾かれて元の場所に戻った。
ぱしん、と乾いた小さな音がした。
その小さな音だったが夜の庭では、ひどく大きく聞こえた。
男の動きが止まった。
先ほどの穏やかな空気など霧散している。
男がこちらを見た。
霧姫の心臓が高鳴る。
「誰だ」
不味い、と霧姫は一歩下がった。
その足が、今度は枯れ枝を踏んだ。
ぱきりと、また音が鳴った。
男が腰をかがめ、木々の合間を縫って走る。
ばれる、と思ったその時、霧姫の腹が据わった。
えいや、とあえて、男の前に足を踏み出した。
「なにやつっ、な」
男は腰のものに手をかけていた。
いや、半ば抜きかけていた。
しかし霧姫を見て、仰天すると腰のものを急ぎ隠した。
その反応に、霧姫は少しだけ気を取り直した。
大丈夫だ、堂々と行け。
そう自分に言い聞かせた。
「何です、夜分遅くにこそこそと、夜盗の類かと思いました」
男は顔をしかめたまま、答えなかった。
このまま押し切れるか、と思ったが、向こうから足音がした。
龍王丸が歩いてきていた。
近くで見ると、やはり顔は合格である。
霧姫としては満点に近い。
減点要素は、目が涼やかに過ぎる。
何をしても驚かないのではないか。こちらを見ていないのでないか。
そんな印象さえも覚える目だ。
そんな龍王丸に対して、霧姫は先に口を開こうとした。
道を間違えたが、なにか。
そんな言葉を吐こうとした。
だが、龍王丸が先に口を開いた。
「道をお間違えになりましたか」
龍王丸の言葉に咎める色はない。
顔も目と同じく涼やかだった。
やはり霧姫の存在など眼中にないかのようだった。
なんだこの男は、無礼ではないか。
盗み聞きをした自分を棚に上げ、そんな風に考えた。




