2章_14
龍王丸に蟄居の沙汰が下ってから、十日ほどが過ぎていた。
朝の駿府館は静かだった。
梅雨はとうに明けたはずだが、夜の湿りがまだ板敷きに残り、開け放たれた廊下から青い草の匂いが流れ込んでいる。
庵原安房守は、館の一室で僧形の男と向かい合っていた。
どこかの寺の高僧、というには若い。
剃り上げた頭にも、頬にもまだ張りがある。
座り方は僧らしく整っているが、伏せた目に殊勝さはなかった。
安房守が用向きを伝えてからも、しばらく黙っていたのは、驚いたからではあるまい。
何か面白い返しでも探しているのだろう。
昔からそういうところがあった。
「つまり、若君の御様子を見てまいれと」
若い僧の声に、わずかな不満の色があった。
京都五山の建仁寺で修行をし、秀才の誉れの高い男である。
わざわざ呼び戻されたあげく、父から蟄居を命じられた若君の面倒など御免だ。そんな内心が透けて見えていた。
「左様。説法の一つでもしてくれぬか」
安房守はそれに気が付かないように、穏当に言った。
若い僧は、薄く笑みを浮かべる。
「ずいぶんとお優しい。拙僧はてっきり、蟄居は形ばかりのものと思っておりました。ほどなく御病とでもされるのかと」
庭のどこかで鳥が鳴いた。
病、つまるところ、内々で死んでもらうか、ということである。
若い僧は、安房守の顔を見ていた。
怒るか。叱るか。あるいは、声を潜めよと周囲を気にするか。
安房守の心に起こるかすかな波すら見逃すまい。
そんな冷めた目線であった。
「そうさな。病などせぬように、なにくれとなく若君の御様子を見ねばならん」
安房守は腕を組み、頷いた。
その様子がやはり気に入らないのか、若い僧が少し声を固くした。
「それは御屋形様の御指図でございますか。生かせと、生かして晒せと」
「さて、己ごときが御屋形様の腹を読むなど、とんでもないことよ」
安房守は湯呑みに手を伸ばした。
若い僧は、わずかに眉を動かした。
「では、安房守殿のお考えは如何程に」
「蟄居すべしと沙汰が下った。ゆえに、蟄居していただいておる。それだけだ」
安房守は白湯を一口飲んだ。
言葉は足さなかった。
向かいの僧は、わずかに目を細めている。
納得した顔ではない。もう一言、何か引き出そうとしている時の顔だった。
引き出したうえで相手の自尊心を軽く踏んでやろう、と企んでいる顔でもあった。
「されど、後々の庵原を思えば、若君の首を惜しまぬと示した方がよろしいのでは。御屋形様の覚えも、いくらかは良くなりましょう」
安房守は、思わず笑った。
若い僧の眉が寄る。どうやら叱られることは考えていても、笑われるとは思っていなかったらしい。
「何か、おかしなことを申しましたか」
「いや」
安房守は湯呑みを置いた。
「そなたのその豪胆さと、余計なところまで回る知恵には、以前ずいぶん振り回されたと思うてな」
「昔のことでございましょう」
「そうであったか」
「拙僧も丸くなり申した。知恵も胆力も、坊主には不要ゆえ」
口ではそう言いながら、目元にはわずかな険が残っている。
安房守はまた笑いそうになった。
昔から変わらない。
才を褒められれば喜ぶくせに、昔を知る者から子供扱いされることには耐えられない。
都へ上り、五山で修行を積んでも、そのあたりまでは削れなかったようだ。
「さて、賢いとは思う。肝も据わっておる」
「それは何より」
「だがな」
安房守は言葉を切った。
意図したわけではなかった。
ただ、ふと館の奥が頭に浮かび、視線が廊下の先へ流れた。
どうにも手が付けられぬ、いくら檻を作っても飛び出していく怪物と比べれば可愛いもの。
そんな感慨が安房守の胸中に浮かんだ。
言葉には出さなかったが、そのわずかな視線だけで、向かいの僧は何かを察したらしい。
「件の若君と比べれば、井の中の蛙にございますか」
「知らぬ」
僧の片眉が上がった。
「これはまた、随分とあっさり」
「己より知恵の回る者同士を、どう比べよというのだ」
安房守は顎を撫でた。
実のところ、本当に分からなかった。
目の前の男も、幼い頃から妙に物事の裏を読む。
人の言葉をそのまま受け取らず、何を隠したかまで考える癖があった。
一方の若君は、そもそも何を見ているのか分からない時がある。
比べようがなかった。
「ただ」
安房守は、少し考えてから続けた。
「若君ならば、己より上だと誰かに申されても、腹は立てまいな」
若君の冷えた目を思い出す。
あの目はそれぐらいでは熱を持つまい。
「おそらく、さもありなんと頷いて、それで己には何が足らぬと聞かれるであろう」
若い僧は黙った。
表情は変わらない。
だが、安房守には少しだけ男の眉間に皺が寄っているように見えた。
「拙僧も腹を立てた覚えはございませぬ」
「左様か」
「檻へ入れられ、死罪を免れているだけの小僧と比べられたところで、何と思いましょうか」
それが怒っているのでなくなんとする、と安房守は思った。
しかし、そのことを指摘すれば数年は根に持つだろう。
もう一口白湯を飲み、湯呑みを置く。
「左様か」
安房守はもう一度言った。
すると今度は、若い僧は唇をかすかに嚙んだ。
やはり昔と変わらぬ。
これも若い僧が苛立つときの癖だった。
安房守はまた白湯へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
若い僧への依頼は、もとは安房守のものではない。
御屋形様からは、若君と合うかもしれぬから試しに説法させよ、その程度の打診だった。
だが、これは案外、妙案かもしれない。
「ふむ」
「何でございましょう」
「いや、ちょうどよいかもしれぬと思ってな」
若い僧が訝しげにこちらを見る。
その顔を見て、安房守は決めた。
「そなた、やはり若君と説法をしてきてくれぬか」
一瞬、返事がなかった。
「この話の流れでどうしてそうなります。拙僧は、」
「もとより、そういう話であったろうに」
若い僧がため息をついた。
「安房守殿。拙僧はまだ修行中の身にございます。神童と名高い若君へ説法など、とてもとても」
最初にそのように殊勝なことを言っていれば、安房守とて多少は考えた。
だが今となっては、と鼻で笑った。
「良いではないか。若君も修行中の身だ。互いに良い鏡になろう。それに若君など小僧といったのは他でもないそなただ」
「それとこれとは話が違いましょう」
「同じ話よ」
「そもそも、もっとふさわしい方もおられましょう」
若い僧はそう言ってから口を閉じた。
安房守はその顔を眺めながら、少し前まで若君のもとへ通っていた僧たちを思い返した。
誰も彼も、最初は張り切っていた。
殺生の罪を説く者。孝を説く者。無常を説く者。
だが、二度目、三度目となると、なぜか都合が悪くなる。
寺の務めがある、修行がある、別の法会が入ったと、もっともらしい理由を並べ始める。
「とはいうが、他の僧を入れてはみたが、どうにも長居せぬ」
「若君が癇癪でも」
「そういう方ではない」
護衛役に話を聞いたところ、若君は恬淡そのものであったそうだ。
「少なくとも、己が聞いた限りではな。話は聞く。礼もする。分からぬところは尋ねる。それだけよ」
向かいの僧が、初めて少し考える顔をした。
安房守は立ち上がった。
「まあ、軍神に説法は荷が重いらしい。皆、肩を小さくして寺にこもりよる」
「他の僧が投げた軍神とやらの相手を、拙僧が担うべしと」
「そなたにとっては、軍神ではなく死罪を免れただけの小僧ではなかったか」
そばまで歩み寄り、肩を軽く叩く。
「それくらいでなくては、あれの前へ座れまいよ」
若い僧は、肩に置かれた手を見た。
それから、ゆっくりと安房守へ目を戻す。
「安房守殿」
「何だ」
「以前より、性根が悪くなられた」
「そなたほどではない」
今度こそ、安房守は声を上げて笑った。
若い僧は面白くなさそうに口を結んでいる。
だが、断るとは言わなかった。
それで十分だった。
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翌朝、若い僧は約した刻限よりずいぶん早く屋敷を訪れた。
まだ朝餉にも早い頃合いである。
駿府の町には人影も少なく、昨夜の湿りを残した道を、箒で掃く音が遠くから聞こえていた。
別にこの時間に向かえと命じられたわけではない。
ただ、安房守にあのような言われ方をした後で、何の工夫もなく若君の前へ出るのが気に入らなかった。
神童。麒麟児。遠江の軍神。
何とでも呼べばよいが、所詮は十にも満たぬ童である。
説法を受けると知れば、それなりに身なりを整え、折り目正しい顔を作るだろう。
ならば、用意の前、早朝の頭の回らぬ時であれば、むき出しの心も拝める。
単純な手であるが、効果はある。
若い僧も京でやられたことだった。
だが、若い僧の目論見に反して、門前では止められた。
事前に門番らには、内密に早朝に伺うと伝えていた。
自分が庵原の出であり、今川の重臣である安房守の許しを得ていることも示している。
それでも、すぐには通されなかった。
門番が奥へ走り、別の男が出てくる。
その男にもまた名と用向きを聞かれ、さらに持っていた小さな包みを差し出すよう求められた。
「これはまた、随分と念入りなことで」
「御容赦を」
男は頭を下げたが、手を止めなかった。
包みの中には経巻が一つ、紙と筆、それに数珠がある。
経巻は端から端までめくられ、筆入れも開けられた。
懐だけでなく、袖の中まで改められる。
「このような坊主など見てどうしますか」
「若君の御身に関わるものは、すべて改めよとの沙汰にございます」
真顔で返された。
若い僧は少しだけ眉を上げた。
なるほど。
安房守の言葉に偽りはないらしい。
蟄居とは言いながら、いずれ病にするための形ばかりのものかとも思った。
あるいは逆に、重臣らが若君を憐れみ、名目だけ閉じ込めて好きにさせている可能性も考えた。
だが、少なくとも門前の者たちは本気だった。
本気で若君を蟄居させ、その上で危険を遠ざけようとしていた。
それゆえ、改めが終わり、ようやく中へ通されても、一人にはされなかった。
先に一人、後ろに一人。曲がり角には別の男が立ち、若い僧が通るたびに目を向ける。
その一方で、屋敷の内は妙に開けていた。
襖、障子と、通常は閉じられているものが開いている。
使われていない部屋まで、廊下から中が見えた。
不用心な、と最初は思った。
だが、二つ三つ部屋を過ぎたところで考えを改めた。
おそらくこれも若君を守るため。
そして、若君が遠江の人間とつながらぬようにするためだ。
閉め切った部屋がなければ、廊下を通る者から見える。
外から入るものは細かく改め、中にいる者には隠れる場所を与えない。
ずいぶんと手の込んだ檻である。
若い僧は、わずかに口元を緩めた。
死罪を免れただけの小僧。
それにしては、今なお駿府の館はその小僧の一挙手一投足を気にしているようだ。
「おや」
若い僧はさらに奥へ進んだところで、ふと足を止める。
一室に大きな屏風が立てられている。
墨で虎が描かれていた。岩の上からこちらを睨む虎である。
太い線を惜しまず使い、肩から前脚へ力を流している。
筆運びに迷いはなく、それでいて細部にも手が入っていた。
ただ墨だけを使い、今にも飛びかかろうとする躍動感を描き出していた。
おそらく豪奢が売りの狩野派ではない。
若い僧は少し眺めた。
「どなたの絵で」
案内役へ聞いたが、男は困ったように頭を下げただけだった。
「さて、己には」
若君がお抱えの絵師でも呼んだか。
そう思い、また歩いた。
やがて案内役が一つの部屋の前で膝をついた。
「若君。突然申し訳ございません。御僧がお見えにございます」
返事がない。
もう一度声をかけようとした男を、若い僧は手で制した。
「よろしい。拙僧から」
案内役が迷う。
だが来訪自体は御屋形様にも通っているためか、最後には頭を下げて退いた。
若い僧は部屋を覗いた。
最初に目に入ったのは、紙だった。
一枚、二枚ではない無数の紙。
机の上だけではなく、畳の上にも書が広がっている。
種類も雑多で、古い絵図、紙片、帳面らしきものまで散らばっている。
乱雑に見えるが、踏まぬよう細い道だけは空けられていた。
その中央に、大きな紙が敷かれている。
若君、龍王丸はそこにいた。
膝をつき、紙の上へ身を乗り出している。
まだ幼さの残る細い体で、右手に筆を持ち、何やら線を書き足していた。
時折思案し、それからまた筆を動かしている。
こちらを見ることも、反応することもない。
若い僧には、本当に気づいていないように思えた。
ゆえに少し待った。
気が付いたときどんな反応をするか、それに対して何を言ってやろうかと楽しみになった。
だが、若い僧が待ちわびるその時が訪れない。
龍王丸は一切、顔を上げない。
思案し、筆を運ぶ。その繰り返しだけだ。
ここまでくると、何を書いているのかが気になった。
そっと音を立てぬよう一歩入り、龍王丸が挑んでいるものを見た。
そして、困惑し、言葉をこぼしてしまった。
「これは、何でしょうかな」
「地図、に見えるとよいがな」
若い僧は黙った。
龍王丸は振り返らなかった。
筆先で紙の上をなぞりながら、当然のように答えただけだった。
「これはまた。気づいておられましたか」
「途中でな。だが声をかけてこぬゆえ、失礼と思ったが続けさせてもらった」
「なるほど」
少し面白くない。
無視をされたことではない。
用意していた企みを、するりと躱されたことだ。
若い僧は龍王丸の横へ回り込み、改めて紙を見た。
大きな紙に、島らしきものが描かれている。
龍王丸の言葉通り、地図なのだろう。
だが、若い僧が見慣れた国絵図とは違った。
駿河。遠江。三河。
その西に尾張、伊勢。さらに紀伊らしき大きな半島があり、海を挟んで四国が置かれている。
北へ目を移せば、若狭、越前、能登まである。
形そのものは怪しい。線も歪んでいる。
もし京の学僧らに見せれば、修行が足らんと笑われるようなものだ。
だが、国と国の位置が妙に分かりやすかった。
若い僧はひとまずそれを地図と認めると、今度は別のことに注意をひかれた。
それは龍王丸が先ほどから書き足している、地図の上へ引かれた線である。
「これで何をしておられます。先ほどから悩まれておられましたが」
「荷の道を書いている」
龍王丸は筆を止めた。
虚空を見上げ、わずかな思案が挟まった。
「いや、違うな。船の道も混じる。総じていえば商いの道とでも言えばよいか」
地図の一角を指す。
「遠江の荷がどこへ出るか。駿河の荷がどこを通るか。熱田へ行くもの、伊勢へ渡るもの、京へ上るもの。逆もある」
「そのようなことを調べて如何なされます」
「今のこの身には何にも使えぬ。だが、なんにでも使えよう」
龍王丸の答えは、明確なものではなかった。
だが、からかっているようにも、誤魔化しているようでもなかった。
若い僧は地図から龍王丸へ目を移した。
ちょうど地図から顔を上げ、虚空を眺めていた。
「ふむ」
と龍王丸が唸る。
噂ほど恐ろしい顔ではない。
むしろ美しい童だった。
肌は白く、鼻筋も整い、切れ長の目の上には柳眉が乗る。
同腹の御舎弟らのいずれよりも整っているだろう。
だが、伏せた目には愛想がない。
冷たいというより、こちらへ関心がないように見えた。
そのことがまた若い僧には面白くなかった。
「聊か気宇壮大に過ぎますな。今は自分を見つめ直すべきと、今までの僧らは叱りませぬので」
「叱られた」
龍王丸はこちらを見ずに即答した。
「では、なぜ改めませぬので」
「腑に落ちぬ、というべきか」
虚空を眺めていた龍王丸の目が、わずかに見開かれた。
それから、龍王丸は地図に目を落とし、また筆を動かした。
「外へ文を出すな。人を動かすな。遠江へ命じるな。それは当然のことゆえ破らぬ。
だが、考えるなとは言われていない。いや、言われたところで、という話か」
「随分と都合よく沙汰を読まれますな」
「自覚はしている」
これもあっさり認めた。
張り合いがない。
若い僧は部屋を見回した。
何か龍王丸の顔をこちらに向けられるものはないか、と探りながら口を開いた。
「しかし酷い散らかりようですな。駿府館では、折り目正しく、礼をわきまえた若君と伺っておりましたが」
「礼か。それはもうやめた」
今度は思わず龍王丸の顔を見た。
やはり表情は動いていない。
また地図への書き込みと、思案を繰り返している。
「礼節を守り、正しく振る舞う。これを続ければ害が出よう」
「礼儀が害になるとは、初めて聞きましたな。今までのご師匠らが悲しみまするぞ」
龍王丸は少し考え、筆を置いた。
目線はまた虚空。
自分の問いに対し言葉を選んでいるのではない。ただ地図に関する思案であろう。
「己を惜しむ者がおるらしい」
「それはまた、結構なことでは」
「弟らには迷惑だろう。なにかと龍王丸と比べられておるらしい」
自惚れ、とは若い僧は思わなかった。
そこで初めて龍王丸の声に感情、わずかな嫌悪感がにじんだからだ。
「父があれだけしても、まだ己を担ごうとする者がいる。ならば少しは、惜しまれぬ兄になった方がよかろう」
声音は平らに戻った。
悲しげでもない。自嘲しているようにも聞こえない。
本気らしい。
若い僧はもう一度、部屋を見た。
書き損じや、読みかけの本、取り留めもない覚書であふれている。
聡明な若君が反省しているとは、誰も思えないありさまだった。
「それで、これですかな」
「何がだ」
「乱行にしては、なんともまあ」
龍王丸の眉がわずかに動いた。
「やはり不味いと思うか」
「思いまする。これではせいぜい、行儀の悪い学僧か物書きでございましょう」
「改善、いや、改悪が必要か」
難しいな、と龍王丸はまた虚空を眺め、目を細めた。
若い僧は、少しだけ笑った。
「若君は乱行がお下手ですな。女、酒、そのあたりが相応しかろうかと」
「坊主の勧めることか」
初めて、龍王丸が笑った。
年相応の顔だった。
しかし、やはりこちらは見ない。
笑みを掻き消すと、すぐに地図へ目を落とした。
「女はやめておく。相手が哀れだ。十にもならぬ童の乱行に付き合わされて、何の得がある」
奇妙な答えだった。
若い僧は少しの笑いをかみ殺した。
「乱行に相手の得まで考える方では、女色は向いておりませぬな」
「では酒か」
「まず武士らしい乱行かと」
「好かぬな。薄めたものを飲んだことはあるが、旨いとは思わなかった。それに酔いにくいようだ」
「おお、それは良い。量が飲めるということでありましょう。酒の乱行は目がありますぞ」
「だが、大量の酒を飲めば、駿河の酒が減る。真の酒好きに悪かろうよ」
若い僧は内心に湧いた面白さを鎮めた。
それから、わざとらしくため息をついた。
「いけませぬな。やはり、乱行はお下手ですな」
「自覚はしている。ゆえ、筆で遊ぶことにした」
龍王丸は同じような言葉を吐き、素直に頷いた。
「遊ぶといっても、これですかな。乱行にしてはなんとも、まあ」
若い僧は足元の地図を指した。
「これを書いていたのは偶然だ。本当は屏風に虎だの龍だの書いている」
若い僧の頭に、先ほどの屏風が浮かんだ。
「もしや、あの虎は」
「昨日書いた。今日はあれに羽でも生やすつもりだった」
思わず龍王丸を見た。
「だが、そなたが嫌に早かった。やられたわ」
若い僧は内心ほっとした。
もし企みがなければ、龍王丸と虎の絵について益体のない話をせねばならなかった。
「それは早く来た甲斐がありましたな」
「そうか、それはよかった。だが、次からは昼前に来られよ。絵に現を抜かすのにも準備がいる」
龍王丸はそれから、地図にまた字を書いた。
その字は、他のものよりわずかに大きい程度であった。
だが、僅かに筆に力があった。
「塩、でございますか。随分力が入っておりましたが、何か他と違うのでしょうか」
「ああ、少しな」
龍王丸はそう呟いて、また虚空を見上げた。
今度はどう答えるべきか、悩んでいるように思えた。
「少し、今川で握れんかと考えていた」
「それはまた、なんとも意外な」
「意外か。遠江も駿河も海に面している。握れるなら握った方がよい」
「いえいえ、そうでなく」
若い僧は笑った。
「誤魔化さないのが意外でして」
龍王丸は頷いた。
「気取られた時点で負けだった。誤魔化せまい」
「と言いますと」
「この場で誤魔化しても、そなたは上へ話を上げるだろう」
若い僧の笑みが少し止まった。
龍王丸が、また地図に筆を走らせ始める。
「書き損じた紙も、後で持っていかれる。誰が来たかも、何を話したかも聞かれる。
所詮は隠し立てするつもりもないことで、押し問答など面白くない。ならば今ここで話した方が早い」
龍王丸は地図の端を押さえた。
「隠し立てされぬので、塩を握らんとする企みですぞ」
「行動に移さぬ以上、意味はない。所詮、妄言で終わる」
「と言いますと」
若い僧は少しだけ自分が嫌になった。
仏の教えを説きに来たのに、聞いてばかりの自分が馬鹿に思えた。
「上手くいかぬよ」
その解答に、若い僧は目を細めた。
内心で覚えていた苦さをごまかすように、少し刺を混ぜた言葉を返した。
「おお。神童らしからぬ物言いですな」
「神童とやらも最近はやめた。今はただの粗忽者よな」
「いえいえ、ぜひ、そこへ至ったわけを窺いたく」
龍王丸は視線はそのままに、少し嫌そうな顔をした。
だが、追い払うことはしなかった。
「塩を今より多く、労少なく作る算段はある」
「どのように」
「竹を組み、海水を何度も落として風へ当てる。濃くしてから煮れば、薪も釜も減らせるだろう」
その答えに、わずかな弱みを見た。
「聞いたこともない方法ですが、試しにならなかったので」
聞きかじりの知識などではうまくいくはずもない。
だが、龍王丸はそこではないと首を振る。
「遠江にいた頃、小さく試した。形にはなった」
若い僧は、やはり気に入らず、思わず身を乗り出した。
「ならば、なぜやらぬのです」
「売れぬだろう」
「あり得ませぬ。塩ですぞ。生きていく上では必ず用いましょう」
「売れぬ、というより、売らせてもらえぬ」
龍王丸は地図の駿河を指で叩いた。
「駿河の塩座は固い。座を無視して作れば騒ぐ。重臣へ訴える。寺社も絡む。押し切って売れば、いずれ作り方を真似る」
「それは仕方ありますまい」
龍王丸がこぼしたやり方は、そう難しいものではなさそうだった。
「ゆえ、最後には龍王丸めのやり方で今の座が太る。そして肥えた塩座は、何かにつけ今川を圧するようになろうな」
若い僧は黙った。
作れるのに作らない。
その考えが少し意外だった。
「では、遠江で塩づくりに腰を入れられれば良かったのでは。向こうの商人達は若君に首の根を抑えられておりましょう」
「暇がなかった。それになにより、領地に海がなかった」
「遠江が海に面していると仰ったのはご自身では」
「遠江の全ての差配など許されてはおるまい」
若い僧は一瞬黙り、それから笑った。
「これは失礼。ですが、国人衆らに儲かる、やれと命じることもできましょう」
「国人衆らには信が置けぬゆえ、過剰に肥えさせたくない。遠江は塩座の締まりが駿河より緩かったが、こうなると後回しにせざるを得なかった」
龍王丸はそこで話を切った。
口の端に苦みが見えた。
若い僧は、地図を見た。
まだ幾つも聞きたいことがあった。
気づけば、説法をしに来たことなど頭から消えかけている。
苛立ちは依然としてある。この童の顔を歪ませたいとも思う。
だがそれらよりも、今は聞きたいという思いがわずかに強かった。
「では遠江で、仮に御身の領地が海に面していたならば、如何しました」
「詮のない問いだ」
「禅問答の一種と思い、ぜひに」
龍王丸は少し考え、それから筆を遠江に置いた。
墨が遠江の一点を染める。
「あえて信用のできぬ国人を使う、というのもある」
若い僧は眉を上げる。
「これも先ほどと矛盾しておるようですが」
「今なお勢力を持つ家ではない。すでに滅んだ家だ。大河内あたりに人を出させる」
「今川が滅ぼした家ですぞ。塩など握らせれば裏切りましょう」
「金はこちらが出す。売る先もこちらで作る。製塩の根本も渡し切らぬ。そのうえで、大河内らに遠江の塩座と争ってもらうよう嗾ける」
若い僧は、しばらく龍王丸の顔を見た。
整った顔に罪悪感の色など欠片も見えない。
必要であるから、最善であるから、理が整っているから、それだけで凄惨なことを言ってのけた。
「しかしそうなると、遠江の塩商人、塩座が黙っておりますまい。駿河や遠江の重臣方へ訴えるでしょうな」
「そこを取り持つ」
「若君が」
「でもよいが、次の駿河を思えば今川が望ましい」
龍王丸は、そのまま続けた。
「争いが大きくなれば、どちらも勝ち切れぬ。大河内は塩の値で塩座を蹴り出せる。しかし、塩座が商路を細らせれば大河内は塩を余らせる。
塩は腐らないが、大河内は金が入らなければ困る。双方困る。そこを取り持ち、組み合わせる」
「塩座に大河内を組み入れる、わけではありますまい」
「塩座にはそう言うが、実態は新しく座を作り直す。大河内ら、塩座らで新たな塩座だな」
「ですが、今川の者が実権を握る」
「そうなればよい。ならなければまた壊す。望んでいるわけではないがな」
やはり龍王丸は淡々と言ってのけた。
若い僧は思わず笑った。
「憎まれ役だけ大河内へ押しつけますか」
憎まれ役、と龍王丸が言葉を転がした。
どういう意味だ、と暗に尋ねていた。
「塩座と争わせ、恨みを買わせ、最後は今川が仲裁する。大河内を当て馬にした、粗略に扱ったと騒がれましょうぞ」
龍王丸は不思議そうな顔をした。
「職を与える。働きに見合った俸給も出す。成果を出せば引き立てる。粗略になど扱っておらぬだろう。信賞必罰の内だ」
若い僧は笑みを消した。
少し前から、話が楽しすぎた。
目の前の童が何を考えるのか。
問いを投げれば、どこへ返すのか。
そればかり見ていた。
ゆえに、薄くなりだしていた苛立ちを掘り起こした。
その苛立ちを使い、少し言葉を尖らせた。
「その信賞必罰を、御身が語りましょうか」
龍王丸の目は、やはり地図を向いたままだった。
「死罪に相応しき罪を犯したにもかかわらず、生きながらえておられる身で」
部屋が静かになった。
外の廊下を誰かが通る。
足音は一度止まり、また遠ざかった。
龍王丸は怒らなかった。
そんなことかと言わんばかりに、また淡々と言葉を紡ぐ。
「大罪人とて、正道を語ることもできる。生臭坊主が仏を語るようなものだな」
若い僧は目を瞬いた。
差し出した刺が跳ね返ってきた。
「これはこれは。拙僧が責められているようで」
「白粉が耳についておる」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「何を持て余しておるかも知らぬが、女で紛らわすのはやめておけ。あれらは口が軽い」
ぞっとし、耳へ手が伸びかけた。
寸前で止める。
所詮、鎌かけだ。
龍王丸は入室以来、一度も自分を見ていないではないか。
腹が立った。
白粉が残っていたことではない。
それに気づかれたことでもない。
何を持て余している。
その言葉が妙に耳へ残った。
先ほどまでの楽しげな気分は完全に霧散し、苛立ちだけが腹にあった。
「なるほど」
若い僧は笑った。
少しだけ声が固くなったのを、自分でも感じた。
「ずいぶんと目ざといようです。三河の煙を火と見誤ったのも、その眼力でしょうかな」
筆が止まった。
今度こそ刺さった。
そう思った。
だが、龍王丸は地図を見ていた。
こちらを見ろと、無礼であろうと叱りつけたくなる。
いや、この童はそう思われたいのだ。
思う通りにしてどうするのか。
若い僧はぐっと我慢をし、龍王丸の反応を、怒りが触れだすのを待った。
だが、
「そうかもしれぬな」
龍王丸はあっさりしたものだった。
苦笑し、気にした様子もなく続ける。
「事実、三河に火は起きなかった。それがすべてだ」
言い訳をしない。
己が止めたからだとも言わない。
それがまた、気に入らなかった。
「ええ。火は起きず、御身は檻の中でございます」
こちらを向けと、苛立ちを舌に載せた。
「優れたる才覚も、このまま腐り果てる。今川の血も、何の意味も持たぬまま終わりましょう。これをどう見ます」
「是非もなし」
だが、これもあっさりと返す。
若い僧は口元を歪めた。
才をもって生まれた責任感、今川の長男としての気概がないのか。
そんな思いがまた胸に湧き、苛立ちに違うものが混じった。
「随分と聞き分けのよいことで」
「いや」
吐き捨てるように言った言葉に、思いのほか強い否定が返る。
見れば、龍王丸が筆を置いている。
いや、向き直って自分と正対している。
龍王丸の切れ長の目が自分を射抜いていた。
冷たい目ではあった。
だが、冷たいだけではなかった。
見通せぬ湖面のごとき目の中に、何かがあった。
飲まれかかった若い僧に、ふと龍王丸が苦笑した。
「そうなることこそ、望みではある」
若い僧は黙った。
何かを返そうと思った。
言葉は幾つも浮かんだ。
負け惜しみか。強がりか。罪人の諦めか。
どれも、口に出す気になれなかった。
才が腐る。
何も成せない。
それを言えば、どこかで怒りを見せると信じていた。
才ある者ならば、何も成せぬまま埋もれることを恐れる。
己に見えるものを前に、手を縛られて平然としていられるはずがない。
少なくとも、若い僧はそういうものだと信じていた。
京の高名な寺院の学僧や才人らは、皆そのようものだった。
だが、目の前の童は、それを望みだと言った。
腹の奥が不快に重くなった。
「さて」
龍王丸は何事もなかったように、地図を畳み始めた。
どうやら一段落がついたらしい。
「茶でも飲んでいくか」
「茶、でございますか」
「遠江より届いたものがある。直ぐに帰れば、互いに怪しまれよう」
若い僧は龍王丸を見た。
からかわれているのかと思った。
しかし、その顔に悪意はない。
「いえ、少々考えたいことがございますので、今日はこれにて」
「左様か」
そそくさと立ち上がった若い僧を、龍王丸は引き止めなかった。
「では、己は虎に羽でもつけよう」
そう言って、部屋の隅からまた別の筆を取り出した。
「そなたは、少し間を置いてから上へあげるとよい」
若い僧は足を止めた。
振り返る。
「何をでございましょう」
「今日見たものだ。地図。塩。話したこと」
「よろしいので」
「安房守が気を揉まぬように、うまく説明してみせよ」
若い僧は答えなかった。
龍王丸も、それ以上は聞かなかった。
若い僧は部屋を出た。
廊下には朝の光が差し始めていた。
来た時より人の気配が増え、遠くから膳を運ぶ音が聞こえる。
少し歩くと、先ほどの屏風があった。
虎がこちらを見ている。
改めて眺めると、惜しくなった。
京の公家屋敷に置かれていても違和感を覚えない出来である。
これに羽をつけてなんとするのだろうか。
「乱行も下手か」
誰にも聞こえぬ声で呟いた。
呟くと、思考が先ほどのことに戻った。
塩だ。
なるほど、作ることはできるか。
だが既存の権威が邪魔で売れぬ。
ゆえに、そ知らぬ顔で成り上がりと権威を争わせる。
そこを今川が取り持ち、提案する。
このままでは双方共倒れであろう。
こうしたらいかがか。
そのように親切面をし、裏では成り上がりを煽る。
自分の良いように仕組みを整え、全ての上に座る。
随分と勝手な話であるが、面白い。
なんというか、自分の趣味に合う。
好きなやり口だ。
だが、やはり気に入らぬ。
何かが気に入らぬ。
若い僧は足を止めた。
何かが引っ掛かっていた。
しばらくその場に立ち、やがて振り返る。
部屋へ戻ると、龍王丸は先ほどと同じ姿勢で地図を見ていた。
虎に羽など書いていなかった。
「若君」
「何だ、茶か」
「ええ、茶です。先ほど、遠江の茶と申しましたな」
顔が上がり、こちらを見た。
怪訝な顔をしている。
「わざわざ茶を送り付けてくるということは、遠江とのつながりは、まだあると見てよろしいか」
「多少はな」
龍王丸は答えた。
「向こうから連絡が来る。こちらからは何も言えん」
若い僧は黙った。
檻は本物だった。
だが龍を閉じ込めるその役目を果たしていない。
「そうですか」
若い僧は、ゆっくりと部屋へ入り直した。
「先ほどの塩の件、いくつか相談なのですが」
ずいと前に出ると、龍王丸が手を前に出した。
「待て。その話をするならば、名前ぐらいは聞かせよ」
若い僧は一瞬黙った。
それもそうである。
居住まいを正し、龍王丸に平伏した。
「拙僧、庵原左衛門の子、九英承菊と申します」




