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2章_13

峠道が落ち着き、三河側から流れてくる者がいなくなったのを確認したのち、龍王丸は代官地に戻った。

騒ぎ立てる遠江衆の祝いの言葉をいなしつつ、自室に戻ると、家臣や遠江衆の借用書を燃やした。

あとは仕掛中の仕事について、幾つか大枠の人事を申し付けると、代官屋敷を夜半の内に発った。


屋敷の外には、由比小次郎のほか、緊張した面持ちの駿府の使者、護衛がずらりと並んでいた。

それをさらに遠江の国人衆や、龍王丸直轄の兵らが囲み、不穏な気配が漂っていた。

どちらかが抜けば、そのまま血が流れる気配だった。


「待たせてすまんな。少し父の顔を見てくる」


笑顔と朗らかな声色を作り、そう言って見せると、遠江衆らは拍子抜けしたようだった。

直轄の兵らにも手を振り、見送りご苦労と言って、小次郎らの一団に身を預けた。

すると、不穏な空気は徐々に霧散した。


なんだ咎めだてはないのか、そんな認識が遠江の者たちの間に広まっていったようだ。


「そなたらは気を抜かん方がいい。龍王丸を恨んでいる者には通じんだろう」


小次郎ら、駿府方にのみ聞こえるように言った。

遠江衆と同じように肩の力を抜いていた護衛らが、雷に打たれたように身を正した。


そこからの流れは早かった。

日が昇らない内に、湊に移動し、船に乗り、二日後には駿府の館にたどり着いた。


二日前は嵐が過ぎ去り晴天であったが、今はまた気が重くなる曇天であった。

館の門前まで来た時、龍王丸はかすかに目を細めた。


普段厳かな駿府館の門前に、奇妙なほどの人垣ができていたのだ。


龍王丸が修行という名目で遠江へ出された時、ここに人垣などなかった。

それも当然で、人目を避けるように、出立日も言わず、朝日より早く旅立ったからだ。


だが今日はそれとは打って変わって人であふれていた。

門の周辺には、駿府館の城下町の民、近辺の商人、登城を許されぬ小身の者たちが詰め掛けていたのだ。

老若男女、年齢、身分すらもばらばらであった。

だが、それぞれが門の兵に押しのけられながらも、皆一様に龍王丸の姿を一目見ようと押しかけていた。


ただそれらは勝者を迎える凱旋の空気ではなかった。

好悪入り混じる、表現しようがない混沌とした空間がそこにあった。


群衆のざわめきが、波のように龍王丸の耳に届く。


「あれが、三河勢四千を三百で打ち破ったという」


「馬鹿を言え。一万の軍勢を一晩で砕いたと聞いたぞ」


「戸田何某とかいう三河の猛将を討ち取ったらしい」


「いや、牧野ももろともに一夜で切り捨てたとか」


「じゃあ、あれも本当か。ほれ、雲谷とかいう若君の面目をつぶした奴らを」


「一族皆殺しか。あながち嘘ではないかもしれんぞ。昔から気性が荒かったとか」


「遠江の軍神か」


「軍神のやることかね。悪鬼じゃろう」


口々に囁かれる声は、事実と途方もない尾ひれが滅茶苦茶に混ざり合っていた。


龍王丸は苦笑した。

一万という数を最初に打ち出すという、天野宮内の考えは正しかったのかもしれない。

そうでなければ、今頃どれだけ数が膨らんでいたか分からない。


その苦笑を見て、民衆がどよめいた。

さっと潮が引くように、門から数歩は離れ、遠巻きに龍王丸を見るにとどまった。

先ほどまでのように口を開くことはなく、じっとこちらを窺っている。


「進まぬのか」


そう言うと案内役が肩を震わせた後、進みだす。

門をくぐると、そこにはまたいくつかの人影があった。

先ほどのような無秩序な群衆ではない。

近習、小姓、門番、そしてどこかの女房衆らが足を止め、龍王丸に視線を注いでいた。


それらを認めながらも歩を進めていたが、ふと、龍王丸は足を止めた。

駿府館の視線の中に見知った顔があった。


与一郎だ。


文書方を務める彼もまた、仕事の合間を縫って様子を見に来たのだろう。

三年ぶりに見た与一郎の背はわずかに伸び、岡部家の男らしい生真面目さが強く顔に出ていた。

龍王丸は、彼が平穏無事にしている姿を見て、少しだけ心が緩むのを感じた。


「如何しました」


護衛の一人が声をかけた。


「いや、何でもない」


龍王丸は笑みを噛み殺し、また歩き出した。

歩み寄り、声をかけることもできない。


こちらから何もできない。

今の龍王丸とのつながりなど、与一郎には迷惑でしかない。

かつて間近に感じていた、生真面目な視線を受けながら、龍王丸はさらに奥へ進み、駿府館の内へと足を踏み入れた。


重厚な門扉が背後で閉ざされるわけではない。

だが、敷居を跨いだ瞬間、ざわめきはふっと遠ざかった。


安らぎは微塵も感じなかった。

館内の静けさの方が、むしろ重く、冷ややかだった。


「若君。よくぞご無事で戻られました」


出迎えた取次の者や奥向きの役人たちが、恭しく頭を下げる。

駿府館の奥から、物々しい屈強な男たちが現れ、周囲を囲った。

遠江からついてきた護衛らは下がる。

小次郎も一礼し、立ち去ろうとした。


「申し訳ない。世話になった」


小次郎に宛てた言葉とはしなかった。

護衛の一団に向けた言葉とした。


あの日、縛り付けた日より小次郎とは言葉を交わしていない。

駿府に戻ることを申し付けられた日も、それを伝えたのは別の人間だった。


おそらく、永く感謝も詫びも言えないだろう。

ゆえに今ここで、言うしかなかった。


小次郎は歯を食いしばったが、やはり何も言わず深々と頭を下げ、廊下の向こう側に消えていった。


「沙汰はどこで受ける」


訝しんでいた取次の者たちに向け問うた。

取次の者たちは何か言われるとは予測していなかったのか、わずかに顔を見合わせる。


「龍王丸の沙汰である。直接申し付けられるか、別の形か」


「身なりを整え次第、御屋形様より」


「承知した。では部屋を頼む」


取次の者たちはやはり、訝しむ顔をしたが、ぞろぞろと連れ立って、龍王丸を館の一室に通した。


がらんとした部屋に、水が張られた桶と、替えの着物が置かれていた。

部屋の内には、世話役も見張りもいない。


「済みましたらお呼びください」


そう言って取次の者も、護衛も下がった。


ここで斬られるか。


益体のないことを思いながら、水で手拭いを濡らし顔を拭った。


「船上か、駿河の道で斬れば、部屋は汚れぬものを」


「何を馬鹿なことを申しているのです」


その声に、ふと、龍王丸は顔を上げ、振り返った。

音もなく背後に老女が立っていた。


それは、今川の家を陰から支え続ける祖母、北川殿であった。


---


「お久しゅうございます。大御台様」


龍王丸は濡れた手拭いを桶の縁に掛け、居住まいを正して深く頭を下げた。


北川殿は、その礼を受けても表情を動かさなかった。

飾り気のない地味な打掛を羽織った、年を経た女の細い体である。

だが、彼女が部屋の隅に音もなく立つだけで、がらんとした一室の空気が変わった気がした。


「大御台ではありません。ただの世話役です。そう心得なさい」


ぴしゃりと撥ねつけるような言葉だった。

当主の母親である北川殿が、わざわざこのような控えの間へ、世話役という身支度の名目で入り込んできた。

それが意味するところを理解しない龍王丸ではなかった。


ただ、ほんの少し、予想と違う答えに龍王丸は眉を動かした。

その僅かな表情の変化を、北川殿は見逃さなかった。


「なぜそのような顔をするのです」


咎めるような声と、鋭い視線で射抜いてくる。

龍王丸は、変わらぬ祖母に苦笑しながら答えた。


「この場で腹を召せとでも仰せかと」


龍王丸はそれならそれでも良かった。

母親である中御門殿は言えぬであろうし、病床の氏親がやってくるとも思えない。

重臣らの誰もが言いたくないだろう。であれば、北川殿が内々に切腹を申しつけに来るのは納得できることだった。


しかし、その懸念を伝えても、北川殿は表情を変えなかった。

というより、口元はさらに固く結ばれ、声は一段と低くなった。


「駿府では、それを望んでおる者もおります」


襖の奥に控えた者たちが畏まる気配がした。

その気配から、北川殿の言葉が真実であると伝わった。


「当然かと」


龍王丸は静かに答えた。声に乱れはなかった。

龍王丸本人もむしろ出ない方がおかしいと思っていた。


北川殿は、しばらく龍王丸を見据えていた。


「当然と言えるのであれば、なぜ止まりませなんだ」


「止まれば、遠江へ入られました」


「三河の四千、遠江へ流れず、散ったやもしれませぬ」


「おっしゃる通りかと、されど流れると見ましたゆえ前に出ました」


「遠江で、朝比奈らと止めればよろしい」


「止められぬと見ましたゆえ前に出ました」


「愚か者」


龍王丸は肯定した。そのうえで自分の考えを添えた。

北川殿は納得した様子は見せなかった。

龍王丸は、それも当然に思えた。


北川殿の言葉は正しい。

戸田、牧野の正規兵と、統制を失った暴徒どもが、必ず遠江へ流れ込んだと断じることはできない。

嵐と飢えと峠の悪路が、彼らを勝手に自滅させたかもしれない。

あるいは、雲谷を焼いただけで満足し、三河へ引き返したかもしれない。

三河から遠江に流れても朝比奈、福島両将がこれを止められたかもしれない。

己の選んだ、三河の峠へ踏み込んで砕くという選択が、ただ一つの正しさであったという証はどこにもない。


だが、龍王丸は待たなかった。

東三河の敵対化、遠江の不安定化、今川当主の病、己の首。

それらすべてを秤に載せ、そのうえで前へ出ることを選んだ。


「咎められても、あれは必要であったかと」


「必要であったかどうかを決めるのは、そなたではありません」


北川殿の声は低かった。


「今の駿府は、三年前、そなたが遠江へ出された頃とは違います。御屋形様は病の床にあり、家中は乱れまいとして必死に堪えております。

規律を緩めぬよう、皆が息を詰めておる。その中で勝手をすれば、たとえ功であっても咎められる」


「当然のことかと。むしろ以前よりそうあるべきでしょう」


北川殿は、そこで一度口を閉じた。

重苦しい沈黙が落ちる。

桶の水面に、龍王丸の拭った水滴が一つ落ち、波紋が小さく揺れた。


「駿府方が気にしていることが、一つあります」


「この時世に悩み事一つで済むならば、安泰かと」


北川殿がきっと睨んだので、龍王丸は頭を下げた。

北川殿は、ため息をつき、それから口を開いた。


「悩みはそなたの力量です」


北川殿の声が、少しだけ密やかになった。


「大したものではありますまい。たかが三年、泥にまみれて代官の真似事で精いっぱいでした」


「外からはそう見えませぬ」


北川殿は、龍王丸の謙遜をすぐに退けた。


「三年で遠江の厄介な国人どもをまとめ上げ、旗頭となり、三河の万軍を殲滅せしめた。そう見える者には、そう見えましょう」


「多くて四千程度であったかと」


「外からはそう見える、と申しております」


龍王丸は黙った。

そして、城門前で見た民衆を思い出した。

彼らの頭の中では、龍王丸が寡兵で一万を打ち破ったという印象が根付いている。

一夜で軍勢を打ち破り、敵将の首をとった今川の御曹司。

騒動の発端であった雲谷一党の全滅ということすら、今や龍王丸の畏怖を煽るものに変質している。

情報化社会には程遠い戦国の世であっても噂が噂を呼び、何処までも広がっていく。


そして、それは決して良いことばかりではない。


「一部では、そなたが遠江の軍勢を率いて取って返し、今すぐにでも今川の当主を継ぐやもしれぬと囁く者もある。

 病床の御屋形様ではなく、若く才ある当主を、などと申す不忠者も」


その時、襖の向こうで、かすかに衣擦れの音がした。

唾をのむ音、そろそろと立ち去る足音、ずいぶん多くの人間がそこにいるようだった。


龍王丸はそちらを見なかった。

氏親に忠誠を誓う者、龍王丸に何かを見出した者、彼らがそのどちらでも意味がなかったからだ。

彼の内心がどうであれ、筋目は変わらない。


「寝言を申す者たちは、そろそろ起こした方がよろしい。一家臣が当主を決めようなどとは僭越にほかならず」


特に脅すつもりはなかったが、襖の向こうの気配が、わずかに硬くなったように感じられた。

北川殿は、細い目で龍王丸を見た。


「乗った方が、そなたは得でしょう」


「龍王丸風情を当主に据えれば、今川の損になりましょう」


北川殿は何も言わなかった。だがこちらの腹を探るような目をした。


龍王丸は相貌を崩した。気の済むまでお探りください、そう思い肩の力を抜く。


龍王丸は自分が当主に相応しいなどと思ったことはない。

たまたま長男に生まれてしまったがため、たまたま名門今川であったため、それに恥じない力量を身に着けようとした。

だが、ついぞふさわしい力量は宿らなかった。それは三年前の一件で知ったし、三年間でいやというほど骨身にしみた。


遠江の五千石ですら身に余ったのだ。

どうして駿河、遠江の二国を差配できると思えるのだろうか。


どれほど時間が経っただろうか、北川殿がようやく目を伏せた。

息を吐き、年相応の老女に戻った。


年月を感じさせる仕草に、龍王丸はふと、ずっと言わねばいけなかったことを思い出した。

この場で口に出すことに一抹の申し訳なさを感じながら、口を開いた。


「このような場で申し上げることではございませぬが」


「何です」


「この度は、弟君、宗瑞殿のこと。心よりお悔やみ申し上げます」


後に謳われる戦国大名の先駆け北条早雲こと、伊勢新九郎盛時。

北川殿の実弟であり、出家し宗瑞と名乗るようになってからも、関東で存在感を示し続けた稀代の傑物。

彼が世を去ったという報せは、遠江にいた龍王丸の耳にも届いていた。


北川殿の顔から、ほんのわずかに熱が消えた。


「取ってつけた言葉などいりませぬ」


「申し訳ありませぬ」


「謝るくらいなら、申さぬことです」


北川殿がまた、深くため息を吐いた。

それで終わるかと思った。


だが、北川殿はゆっくりと龍王丸へ歩み寄った。

それから、しばらく顔を見上げるようにして眺めたのち、皺の刻まれた乾いた手を伸ばした。

皺だらけの手。それが、龍王丸の頬に一度だけ触れた。

撫でるというほど柔らかくはない。確かめるような、測るような手だった。


龍王丸は内心でわずかに驚いた。

祖母と孫であるが、このように触れられるのは初めてのことだったからだ。


北川殿は面白くなさそうにしていた。


「武家の男としては整いすぎましょう。醜男のほうが武家は心を許せる。

 新九郎は醜男だったゆえ、坂東武者の心を掴んだ。そなたは諦めなさい」


龍王丸は新鮮な心地だった。

今生で顔を貶されたことは初めてだった。

少なくとも今まで顔について言及されるときは、美童だの、麗しだの、白貌だのと歯の浮く言葉が付いて回った。

だが、実の祖母だけは龍王丸の顔がいけないとはっきり言った。


龍王丸は、面白ささえ感じて、ははぁ、と唸った。

北川殿はそんな龍王丸の態度も気に入らないようだった。


「見目はまるで似ておらぬ。だが、その分、中身が似ておるやもしれませぬ」


「幕府政所の伊勢家らしく、折り目正しい方と伺いましたが」


「平時においてはまさしく」


北川殿は、懐かしむように言った。


「ですが、機と見るや無法も通しました。大樹の許しがあったとはいえ、大樹の御兄弟である茶々丸君を手にかけ、伊豆を奪い、相模へ手を伸ばす。これは折り目正しきだけの者にはできぬことです。肝心要では己が一分を押し切る力量と太々しさを持っていました」


北川殿がそっと龍王丸から離れた。


「そなたの無法も、血やもしれませぬ。上手く使われよ」


「弟たちも同じ血を引いておりましょう」


「そなたが一番濃い。その太々しさを見れば嫌でもわかろうもの」


北川殿が部屋に入って初めて笑った。

笑ってから、そのことに気が付いたようで、顔を一段と険しく形作った。


「喋り過ぎました。御屋形様を待たせるは不忠。はよう支度し、行かれよ」


北川殿はそう言って立ち上がり、背を向けた。

世話役としての務めは終わった、と言わんばかりの素気なさだった。


「不出来な孫で申し訳ありませぬ」


龍王丸は深く頭を下げたが、北川殿は答えなかった。

来た時と同じように音もなく背を向け、襖の方へ歩き、音もなく退出した。


北川殿が立ち去ってから、世話役として世話を焼いてもらっていないことに気が付いた。


----


急ぎ支度を終えた龍王丸は、息を整えてから襖を開けた。

待ち構えていた取次の者らが深々と頭を下げた。

その時、廊下の向こう側から幼い子供の声が聞こえた。

それをあやす、祖母の声もだ。


「御舎弟の」


「よい」


龍王丸には、聞いたところでもはや詮のないことだった。

何か問いたげな顔を無視し、先を促し、駿府館の奥へと進んだ。


廊下は静かだった。外の騒ぎはとうに聞こえない。

ただ、そこかしこで暑さを感じ、徐々に近づいてくる夏の気配がうかがえた。

昨年の夏は、遠江も冷夏であり、秋の実りを気に揉んだ。

だが今年の夏は暑くなり、作物の心配は無用だろう。

龍王丸は目を細め、西の方角を見ながら歩いた。


やがて一行が館の一室で止まる。

襖の前で取次が膝をついた。


「若君、こちらに」


龍王丸の頭に遠江の者たちの顔が浮かんだ。

だがそれも一瞬のことだった。小さく笑って胸の内へ押し込み、室内に足を踏み入れた。


そこは、評定の間というにはやや奥まっていた。病の身である氏親のために設えられた場なのだろう。

上座には御簾が下ろされ、その奥に人の気配がある。

うっすらと焚かれた香は、白檀のものだろうか。それを嗅いだ時、不思議と父の息遣いを感じた。


また氏親以外にも今川の重臣たちがそろっていた。

御簾の前には、庵原安房守が控え、その脇に岡部左京進、由比美作守、三浦次郎左衛門、関口、瀬名と主だった重臣が並んでいる。

だが誰も声を発しない。

皆、視線すら動かさない。ただ、静かに目を伏せ、事の始まりを待っている。


龍王丸は進み出て、深く平伏した。

御簾の奥から声一つ上がらない。

ただ、御簾の奥から己の首筋を見られているような気配だけがあった。


ややあって、安房守が口を開いた。


「では、知らぬ者もおりましょうゆえ、此度のこと、まずは改めましょう」


文書役が膝を進め、書付を安房守へ渡す。

安房守はそれを広げ、淡々と読み上げた。


内容は、此度の発端である雲谷への援助から、三河境の峠で敵勢が壊滅するに至るまでの一連のこと。

何一つとして、大きく誤ってはいなかった。

細かな数の違い、誰がどう見たかによる温度の差はあるが、筋は違わない。


由比小次郎は、よく見ていたと龍王丸は感心する。

小次郎はまだ甘い部分はあるが、経験を積めば、重臣の列に並ぶことも難しくないだろう。


「以上は、目付として遠江に遣わした由比小次郎の書付をもとにしております」


安房守がそう言い、龍王丸へ目を向けた。


「若君。何か付け加えることはございましょうか」


「ある」


室内がかすかにざわめいた。

龍王丸は顔を前に向けたまま言った。


「由比小次郎は目付ではない。見分であった。目付などという不愉快なものであれば、受け入れておらぬ」


安房守は、小次郎の同族である由比美作守へ目をやった。

由比美作守はわずかに目を伏せる。

次いで安房守は居並ぶ重臣に順番に視線を移すが、皆、何も言わなかった。

それを認めると、やがて安房守は短く頷いた。


「おお、左様でしたな。安房守の覚え違いでございました。由比小次郎は見分として遠江におり、此度の一件も殊勝にも見たものを書き送ったのでした。――で、よろしいですかな、若君」


「相違ない」


龍王丸は答えた。


目付であれば、なぜ止めなかった、そういう話になる。

見分であれば、大軍相手によく逃げなかった、そういう話にできる。

居並ぶ重臣も意図を汲み、それを認めた。ならば龍王丸に一切の異論はなかった。


安房守は書付を畳み、文書役へ戻した。

それから、少しだけ肩を落とすようにして言った。


「いけませぬな。安房守めは、この通りこの頃どうにも頭の回りが鈍くなりましてな。

 御屋形様、並びに皆様には申し訳ござらんが、ちと頭を回すために安房守との問答にお付き合いいただけませぬか、若君」


誰も止めようとしないということは、既定路線なのだろう。

龍王丸は前を向いたまま淡々と答えた。


「許す」


「おお、ありがたきことにございます。安房守は以前より若君とこのような場を設けとうございました」


安房守は、穏やかな顔を作った。

だが、その目に穏やかさはない。


「さて問答と言いましても、本当のところは、お知恵を拝借したく。

 というのも昨今、家中の若武者どもが、己も功を立てんと遮二無二に前へ出ようとしておりましてな。

 下知に従わずとも、首の数さえあればすべて許される。そう考えられては、今川の家風にそぐわぬのではないか。

 年寄りどもより、そのような不満が上っておりまする。若君は、これをいかが考えますかな」


答えは決まっていた。

たとえ三河の一件がなくとも、かくあるべきかは揺れないものだ。


「家中の下知に従わず前へ出るは、今川の家風に非ず。粛々と罰するほかなし」


「されど、武士が前へ出ることそれ自体は誉れ。その全てを否定はいたしかねる。そう申さば、何と答えますかな」


「程度で見るほかなし」


「詳しく」


龍王丸は、間を置かずに返した。


「戦の騒乱ゆえ下知が耳に入らざるは、罪なし。されど同じこと二度あれば、武功取り消し。

 下知を聞きながらそ知らぬ顔をするは、罪あり。一度目で武功取り消し。武功取り消しの後もなお繰り返すならば、放逐もやむなし」


安房守は、ゆっくりと頷いた。


「なるほど。では、その蛮勇が一度目で味方に損害を与えたならば、その時も同様に裁きましょうか」


「さにあらず。一度目でも切腹、斬首も当然なり」


場がわずかに硬くなった。

安房守は、さらに問いを進める。


「では、他国との戦を、下知を無視し、勝手に始めた者はどうでしょう」


室内が静まり返った。


安房守は真正面からこちらを見ていた。

左京進は口を結び、由比美作守は目を伏せ、重臣たちは顎を引いていた。

御簾の奥は動かない。


龍王丸の耳に、どこかで子供の声が聞こえた。

きっと会ったこともない弟だろう。


龍王丸は腹に力を入れて答えた。


「斬首のほかなし」


安房守はなおも問う。


「その者が、戦で類を見ぬ武功を上げたとしても」


「斬首のほかなし。たとえその者がどんな血筋であろうと、斬首し、規律を正すべし」


御簾の奥で、かすかに衣擦れの音がした。

安房守は目を細めた。


「では、そも下知が下る前に――」


その時だった。御簾の奥から、声がした。


「そこまででよい」


安房守が口を閉じた。

控えていた者が膝を進め、御簾を巻き上げる。


龍王丸は平伏し、頭を床につけた。


姿を現した氏親は、脇息にもたれて座している。

顔色は、長く日に当たらぬ者のようにひどく白い。

だが頬はこけておらず、病が底を抜けつつあるように見えた。


「双方、もうよかろう。互いの腹は知れた。これ以上は茶番だ」


安房守は深く一礼し、身を下げる。

場をおさめた氏親の声には力があった。

龍王丸はそのことに安堵した。


「面を上げよ」


氏親が言った。


「よい。顔が見たい」


龍王丸はそっと顔を上げた。そして三年ぶりに、父の顔を見た。

互いの目を見た。普段の龍王丸ならば、これで相手のことを凡そ察することができた。

曲者の代表格である天野宮内。面倒くさい武士そのものであった大河内左馬助。

この両名ですら、人となりというものを理解できた。


だが、龍王丸には父の心底を読み取れなかった。

冬の湖面のような寒々とした目を見返すことしかできなかった。


氏親は龍王丸の顔を真っ直ぐに見据え、言い放った。


「三河と揉める。これを良しとした理由を聞かせよ」


龍王丸は内心の僅かな動揺をかき消す。それから澱みなく答えた。


「遠江が燃えれば、戸田、牧野に言い訳の余地はございませぬ。

 こちらが下がっても、前に出ても三河ともめるのであれば、前に出て遠江を守るべきかと」


朝比奈、福島両名でも止められぬと見たことなどは言わない。

これは前に出ると決めたことである。

今求められているのは、三河との戦線を自ずから開くことに利を見出したわけだった。


「道理よな」


氏親は静かに言った。


「されど許さぬ。なぜかわかるか」


「越権ゆえ。これを許せば、今川が成り立ちませぬ」


「左様」


氏親は頷いた。


「乱麻の世に、頭目を二つ置くことはできぬ。駿府の下知を待たず、若君の名で兵と人が動くならば、今川は今川でなくなる。

 それが承知であるならば、三河の一件についてはこれ以上問わぬ」


氏親はそこで言葉を切った。

安房守がわずかに顔を上げる。左京進をはじめとした重臣たちが息を詰めた。

氏親は龍王丸を見たまま、続けた。


「いつぞやも聞いたが、そなたに相応しい沙汰は」


三年前は廃嫡と迷わず述べた。

此度も龍王丸は迷わなかった。


「斬首」


屏風の陰で、扇の骨が折れるような乾いた音がした。

母である中御門殿がいる。

そう感じたとき、龍王丸の胸中の一部がひどく痛んだ。

氏親は、低く唸る。


「ふむ。しかし、それに異を挟む者もおる」


「聞くまでもありませぬ」


「当主は聞く耳を持たねばなるまい。そなたも聞け」


「畏まりました」


龍王丸は再度頭を下げた。自分が斬首を求め、父がそれに異を唱える者の声を聞けと言う。

奇妙な話になったと思った。だが、ここにいる誰も笑わない。


氏親は言った。


「まず遠江のことよ。遠江の者らが申すには、そなたがおらねば荷が回らぬと。

 天竜川の普請も止まり、国人衆は殺気立ち、遠江の復旧が遠のくそうだ。これについてどう思う」


「戯言の類かと」


龍王丸は即座に答えた。


「龍王丸めは、遠江が今川の下知あらば回るようにいたしました。

 龍王丸の席に誰が座ろうと、川の普請はやがて終わり、遠江の富は増え続けましょう」


天野宮内や大河内の力添えがあればという前提ではある。

次の代官は龍王丸の方針を引き継ぐといえば、何事もなく遠江は回る。


「では次だ。そなたがおらねば商人たちが寄り付かなくなる、という意見がある。商人は人を見て信を置く。

 遠江を守った龍王丸を斬れば、この信も断たれよう」


「虚言の類かと」


龍王丸はまた答えた。


「龍王丸は商人たちの信を得たのではございませぬ。商人たちの銭を握り申した。後釜に座った者が、商人たちの借用書を焼いてやれば、彼らはその者を褒め称えましょう」


龍王丸が借りた金はない。だが遠江商人は龍王丸に金を借りている。

堺、近江の商人にも未回収の仕掛金がある。これらを最低でも減額すれば手のひらを返す。

龍王丸はそう見ていた。


氏親は、わずかに口角を動かした。


「なるほど。否定はできんな」


氏親の目は、笑っていなかった。少し間が置かれた。


「だが、最後の訴えがある」


氏親は、先ほどよりもさらに低い声で言った。


「龍王丸は遠江の軍神、守り神である。これを斬ることは遠江のためにならぬ。そういう向きがある。

 領民らの心に根付いた軍神を斬るは容易ではない。

 九郎判官のごとく遠江の民の口に長く残り、これを斬った氏親を憎み、今川の治世の邪魔となろう。これをどう見る」


「妄言の類かと」


龍王丸は、間を置かずに答えた。


「龍王丸の死が遠江の民に語られるは十日。百日もたてば忘れ去られましょう」


「そう見るか」


「はい。遠江の民の口に、今さら斯波の名が上ったことなどありませなんだ。

 富ませ、日々の忙しさに埋もれさせれば、死んだ者の名に囚われなどいたしませぬ」


より良い明日が約束されているのであれば、過去などいくらでも忘れることができる。

遠江の臣民は後ろ暗さぐらいは覚えるであろうが、それもやがて薄れていくだろう。

そのことに寂寥はない。龍王丸はいっそ清々しさすら覚えていた。


氏親は静かに龍王丸を見ていた。


「そなたの言葉には綻びがある」


「ありませぬ」


氏親は安房守へ目をやった。

安房守が差し出した書付を受け取ると、氏親はそれを龍王丸の前へ置いた。


「千代橋」


思考に空白が生じる。

ひゅっ、と龍王丸は自分から情けのない吐息がこぼれたことを恥じた。


「天竜川に架けた橋の名だ。由比千代丸の名を、忘れず残さんとしたのは、誰だ」


龍王丸は答えられなかった。言葉が喉の奥で消えた。


千代丸。

その名にこだわりがあったわけではない。

ただ、出来上がった橋に名前を付けろ、永く人々に使われるような名前がいい、そう宮内に求められた。

その時、無意識のうちに筆が運び、千代橋と名付けたのだ。


千代橋は増水のたびに壊れかかり、板を張り替えた。手のかかる橋だった。

だが、それでも天竜川に悠々とかかるその橋を見て、何も感じなかったというと嘘になる。

名前通り千代にそこにあれと、人々の記憶の留まれとそう願った。


氏親は、龍王丸の沈黙を見ていた。


「君主が法を守らぬのであれば、民もまたこれを守らぬ。

 君主が己を律せぬのであれば、民もまた己を律せぬ。

 君主が故人を忘れられぬのであれば、民もまたこれを忘れぬ」


氏親は書付から手を離した。


「異論ありしや」


龍王丸は何も言えなかった。

氏親は、それ以上責めなかった。

ただ、静かに告げた。


「沙汰を下す」


室内の空気が張り詰める。


「龍王丸は、無期限の蟄居。遠江代官の任を解く」


言葉が落ちた。斬首ではない。

龍王丸は腹に力を入れた。


「危うございます。このような者が生きておれば、また勝手に担ぐ者が出ましょう。お家のためになりませぬ」


氏親は即座に返した。


「そうは思わん。首を落とす方が危うい」


「されど」


「問答無用」


氏親の声が、強くなった。

室内の者たちが一斉に頭を下げる。


「そなたの首は落とさぬ。だが、遠江へは戻さぬ。そなたの名で人を動かすことも許さぬ。

 龍王丸は駿府にて蟄居。遠江の下知は、以後、駿府を通す」


取次の者たちが膝を進めた。

龍王丸はそれでも、その沙汰がどうしても正しいと思えなかった。

三河に踏み入った時と同じように、一歩前に出た。


「弟たちの邪魔になりましょう」


「そこもとが案ずることではない。龍王丸、当主の沙汰にこれ以上異論をはさむか」


家の序列をまた乱すか。そう問われた。

ここまでである。

龍王丸はもう一度、深く頭を下げた。


「御沙汰、謹んで承りました」


氏親は返事をしなかった。


龍王丸は立ち上がる。

足元に置かれた書付が、視界の端に残った。


千代橋。


その三字が、畳の上でやけに重く見えた。

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