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2章_12

時は戻り、由比小次郎が遠江の代官地へ向けて出発してから幾日か経った頃。


その日の駿府の空は、数日前から重く垂れ込めた鉛色の雲に覆われていた。


岡部与一郎は駿府館から、西の方角を見やった。


遠江の方角からは、絶え間なく湿った風が吹き込んできていた。向こうではひどい嵐になっているらしい。小次郎は無事についただろうか。若君とお会いすることがかなっただろうか。そんな心配をしつつも、険しい山々を隔てた駿府館には答えは返ってこない。ただ遠くの雨の気配が、じっとりとした湿りとなって届くばかりであった。


その日も駿府の館の一室で、与一郎は山と積まれた書状や控え帳の束に向き合っていた。


灯明の仄かな明かりが、墨の文字を静かに照らしている。幸い戦の急報ではない。そこに広げられているのは、遠江に設けられた若君御料からの定例の報告や、駿府に出入りする商人筋から集められた聞書の束であった。


駿府の時を刻むのは、あくまで平時の政務であった。


襖が静かに開き、岡部の同族、岡部左京進が部屋に入ってきた。左京進の顔には、いつものような深い皺が刻まれている。ただ、その目元にはどこか言い知れぬ疲労の色が濃く滲んでいた。


「少し話せるか、与一郎」


左京進は与一郎の同輩をちらりと見た。他聞を憚る話のようだった。ちょうど仕事は一区切りついたところだった。与一郎は同輩らに頭を下げ、左京進とともに駿府館の一室に入った。


平時は客人の控室であるその部屋は、がらんとし、敷物が二枚だけ置かれていた。左京進は座り込むと、懐から一枚の文を差し出した。


「まあ、読め。与一郎」


手に取り、少し読み進めると、それが小次郎から駿府に向けられた龍王丸代官地、通称若君御料の報告書と分かった。


「左京進殿。自分が目を通して良いのでしょうか」


「構わん、安芸守殿の許可は得ている。そなたの意見も聞きたいとのことだ」


与一郎は姿勢を正し、文を読み込んでいった。はじめから、終わりまでずいと目を通し、それから内容を咀嚼した。そして奇妙に思った。内容ではない、左京進の反応についてだ。


御料の状況は決して悪い内容の報告ではなかった。いや、むしろ良すぎるほどであった。


それについて、左京進が顔をしかめる理由が与一郎には分からない。与一郎は探りを入れるように、内容について触れた。


「五千石の御料と聞いておりましたが、これを見る限り、動いている荷の額が少々異常にございます」


「木綿やら材木が大きいかもしれんな」


与一郎は、ある文面を指先でなぞりながら言った。報告に記された御料が扱う品目は、米ばかりではない。左京進の言う通り、特に木綿の額が大きい。どうやら三河筋の実綿商人までが頻繁に御料へ出入りし、取引を行っている形跡がある。運び込まれた木綿は、ただの布として右から左へ流されるのではなく、御料内で仕立ても行われているようだった。木綿袋、荷布、あるいは戦陣で用いられる包帯用の布として仕立てられ、計画的に納められている。


また材木の動きも目立った。


天竜川の上流で切り出された材木が山から下り、掛塚の湊へと滞りなく流れている。それを運ぶ船手衆にはすでに手付が支払われ、陸路を担う人足たちにも前払いの銭が行き渡っていた。銭が血のように隅々まで巡り、滞っていた荷の流れを押し出している。


加えて、御料の枠を越え、周辺の村々や商人に対して米や銭が貸し出されている形跡すらあった。


「これだけの人をよく三年の間に集めたものですね」


「大河内、天野らを使っているようだ」


与一郎は文の端にあった、それらの名前に再度目をやった。文には、それらの旧臣を組み入れ、うまく使っているとだけある。ならばよいではないかと思いつつも、左京進の顔が一層渋くなったのを見て、与一郎は一歩踏み込んだ。


「この天野宮内という男がなかなか」


「であろう。どうやら付近の顔役として動いておるようだ」


文に何度も天野宮内という名前が出てくる。


主を失った大河内方の者たちや、荒くれ者の山方、人足たちを束ねるだけではない。それどころか若君御料の差配役、事実上の家宰として機能しているという。


木綿、材木、そしてそれらを産業として成り立たせるための人。


与一郎には少しだけ若君御料の一端が見えた気がした。左京進は、与一郎の指が止まった書状を静かに見つめ、低く唸るように言った。


「名目上の石高は、たかだか五千石、増加分を加味しても八千石に過ぎん」


米による収量だけを見るのであれば、間違いはない。与一郎は神妙な顔で頷く。


「されど、行き交う荷の量、動く銭の額、そして従う人の数までを仔細に見れば内情は違う。五万石を領する国人領主よりも、よほど大きく人と荷を動かしておる」


与一郎は、左京進の言葉に深く頷いた。


「見事なものにございますな」


それは、おためごかしの世辞ではない。実務を解する武士としての、偽らざる本心であった。


遠江という土地がどれほど治め難い場所であるか、与一郎も十分に理解している。駿府の威光が届きにくく、国人衆の利害が複雑に絡み合い、火種ひとつでたちまち燃え広がるような地である。


そこに、ろくな後ろ盾も与えられずに放り込まれた若き龍王丸。


与一郎は、内心で若君を案じていた。あの誇り高く、時に大人を竦み上がらせるほどの冷淡さを持った若君が挫折するのではないかと。泥に塗れ、思うようにいかぬ現実にぶつかって折れてしまうのではないかと。


だが、龍王丸はただ耐え忍んだのではなかった。


遠江の者たちをまとめ上げ、あれほど難しい土地に、新しい秩序と生きた動きを作り出してみせたのだ。


「あれほどの若君であれば、遠江で無様な失敗などしないとは信じておりました。ですが、よもやこれほどの成果を上げられるとは。これは、大いに褒め称えられるべき功績ではございませぬか」


与一郎は左京進の反応を見つつ、自身の喜びを小出しにした。


龍王丸が見事な統治者として成長しつつあることは、今川本家にとっても大きな慶事であるはずだ。しかし、与一郎の予想とは対照的に、左京進の顔は一向に晴れなかった。


報告書を見下ろすその深い眼窩の奥には、黒々とした憂鬱が澱のように沈んでいる。彼は何も言わず、ただじっと文を見つめていた。


その重苦しい沈黙に、与一郎はわずかに居住まいを正した。


「左京進殿。何か、お気にかかることでもおありですか」


左京進は、すぐには答えなかった。開けられた戸から湿った風が、遠江の方角から流れ込んでいた。長い沈黙ののち、左京進は重い口を開いた。


「御屋形様や重臣方の望みとは、少しずれておるやもしれん」


唐突に出たその言葉に、与一郎はぎょっとした。思わず胸の内の言葉が溢れた。


「それは若君の失態を望んで」


与一郎は言葉を途中で飲み込む。左京進が与一郎を睨んでいたのだ。


「馬鹿者。失態など望むわけがなかろう」


「では、どういう意図が」


与一郎が問うと、左京進はあたりを見回した後、そっとつぶやいた。


「失態など望まぬが、苦境は望んだ。ただそれは成長の糧としてほしい。泥に塗れ、己の思い通りにはいかぬ理不尽の中で、若君が少し丸くなる。それで二年ほどで駿府へ戻る。御屋形様の御心を某ごときが測り切れるものではない。だが、重臣方の間では、それを望む向きがあった」


絞り出すような、低い声だった。


与一郎はその言葉を少し飲み込めなかった。だが、左京進は続ける。


「類まれなる才覚をいかんなく発揮し、遠江を動かす柱となる。紛うことなき慶事である。だが、そうなれと御屋形様はただの一度も言っておらん」


その言葉の意味を咀嚼した瞬間、与一郎の胸の中に、普段の彼らしからぬ強い反発が込み上げた。尊敬する左京進に対しても、確かな怒りすら感じていた。


「左京進殿。それは、あまりに酷なお言葉ではございませぬか」


与一郎は声を強めた。


「誰も成し得なかった難行を立派に果たした相手に向かって、果たさぬ方がよかったと言うようなものではございませぬか。それでは、若君の並々ならぬご苦労は、いったい何だったと仰るのです」


与一郎の怒りに触れても、左京進は動じなかった。ただ、痛ましげに目を伏せた。


「分かっておる。与一郎の言う通りだ」


左京進は静かに首を振った。


「若君が苦労されておられること、遠江の安泰に大いに働いておることは、この報告を見れば痛いほど分かる。某とて、若君の手腕そのものを悪く言う気は毛頭ないのだ。某の懸念は御屋形様らのそれとは別にある」


左京進の言葉に、与一郎は眉をひそめた。勝手な親心以外の懸念などあるのだろうか。与一郎は己の腹にたまった反発を抑え込むと、居住まいを正し再度尋ねた。


「左京進殿の懸念とは」


「成功したことそのものではない。成功の仕方がな、少し気になる」


左京進は広げられた文中の一文、何度も出てくる名前を指さした。


「ただ一つ、この報告の中でどうしても気に入らぬ名がある。天野何某という男だ」


与一郎は、帳面に記された名を再び見た。


天野宮内。


「聞き取りによれば、至って人当たりが良く、柔和な人物のようですが。若君に拾ってもらった恩を返さんと影に日向によく働くとありますが」


「拾ってもらわねばならないようにしたのは誰だ」


与一郎は黙った。


三年前、天野を滅ぼしたのは他でもない今川修理大夫氏親。若君の父親だ。


「三年前はよう覚えておる。某も遠江の平定に出ておったし、天野佐内にも会った。天野は今川に楯突く気はないと、不忠はないと、ほかでもない天野佐内が泥の中に平伏しておった。天野佐内ごとき小者を寄越して、天野はどうするつもりだと、内心笑ったものよ」


だが、その後の天野は動いた。


「が、それも天野の演技であった。甲斐とつながり、御屋形様の背を虎視眈々と狙っておったわ。天野佐内のあれには騙されるところであった」


「天野の企みについては、天野佐内は聞かされていなかったのでは」


「それもなくはない。本人もそう言っておった。ただな、天野を滅ぼし、天野一族を放逐する際、某は天野佐内の目を見た。陰湿さで匂い立つような目であったわ。あれは企みを知っておったよ。知っておって、小者を演じておった」


そこで与一郎は合点がいった。


「左京進殿はこの天野宮内が若君に取り入って、御料をいいようにしていると」


「だけなら良い。現に御料はうまくいっておるのだ。だが某はな、あの天野宮内が腹に一物抱えておるようにしか見えん」


左京進の声には、冷ややかな響きがあった。


その懸念を念頭に置き、与一郎は文を読み返した。読み終えると、確かにと別の見方もできるようになっていた。


大河内残党、荒くれ者の山方、遠江の商人。全て今川に恨みを抱いていても不思議ではない。それらが天野宮内の下に集まっている。


宮内は今川の御曹司を祭り上げ、さも駿府の意向に従うように動きつつも、その実、遠江の反今川勢力を結集しようとしているようにも見える。


「しかし」


与一郎は食い下がった。


「それほどの曲者も必要あらば使うのは、若君の大器の証左ではございませんか。上に立つ者として、腹に一物あろうが、有能な者を取り込む力量は不可欠かと存じます」


統治者として、清濁併せ呑む度量がある証ではないか。与一郎はそう主張した。そうやすやすとあの若君が担がれるとは思えなかったのだ。


だが、左京進は深くため息をつき、与一郎を諭すように言った。


「与一郎。器とは、ただ水や物を入れるだけのものではないのだ」


左京進は、机の上に置かれた白磁の茶碗を指差した。


「世の中には、好んでその器そのものを壊そうとする者もいる。あるいは、すでに器の中に大切に納められているものを、力ずくで叩き出そうとする者もいる」


左京進の声が、低く、重く響いた。


「ただ力量がある、役に立つというだけで人を見るのは、あまりに危うかろう」


その言葉に、与一郎は息を呑んだ。左京進の言わんとしていることが、ようやく見えたからだ。天野を使うことが悪いのではない。だが、天野が龍王丸の傍らにあり続ければ、いずれ器の中身が変わる。左京進には、そう見えているのだ。


左京進はゆっくりと立ち上がり、外を見た。開け放たれた隙間から、遠江の方角から吹く湿った風が入り込んだ。


「若君は、少しも変わっておらぬのだとしたら、御屋形様や重臣方の考えに理があるやもしれん」


左京進はぽつりと呟いた。


「危ういか」


その絞り出すような一言が、部屋の空気を重く沈ませた。与一郎は何か反論の言葉を紡ごうと口を開いたが、結局、声にはならなかった。


与一郎はただ黙って、天野宮内の文字を、いつまでも見つめ続けることしかできなかった。




------




昼間であるというのに館の奥には薄闇が這い、絶え間なく降り続く雨が、瓦を打ち、庭の砂利を穿つ音だけが単調に響き渡っている。

遠江の方角で荒れ狂っているという大嵐の端が、険しい山々を越えて駿府にまで届き、じっとりとした湿気とともに館全体を冷たく包み込んでいた。


文書方を務める与一郎は、その日も文書方の一室で書付や書状の整理に追われていた。

筆を走らせ、墨の匂いに意識を集中させようとするのだが、どうにも気が散って仕方がない。


幾日か前、左京進と交わした会話の余韻が、胸の奥底にどろりとした澱のように張り付いて離れないのだ。


「危ういか」


左京進のその絞り出すような一言が、与一郎の脳裏で幾度も反響していた。


遠江における若君、龍王丸の振る舞いに、今のところ咎め立てされる筋はない。

与一郎は今でも思っている。


五千石いや、それ以下の僅かな石高の領地を始まりとしながらも、田畑を戻し八千石に収量を上げた。

材木、木綿という産業を興し、銭を行き渡らせた。

ここまで内治の手腕に富んでいるとは与一郎はおろか駿府館の誰も思わなかっただろう。


その成功が駿府の御屋形の望むところではなかったこと。

またそれを支えた人材に懸念があること。


この二点がどうにも龍王丸の成功に影を落としている。

与一郎は、若君の成功を心から喜べぬ自分にすら、暗澹たる思いを抱えていた。

左京進の言葉など聞きたくはなかった。


「考えても仕方のないことだ」


与一郎は自嘲気味に呟き、小さくかぶりを振った。


自分は駿府の文書処理を担う一介の役人に過ぎない。

重臣方の懸念は重臣方が対処すべきことである。

自分はただ下りてきた沙汰を正確に文書にするだけだ。

そう己に言い聞かせ、再び筆を握り直した。


その時だった。


静寂を破るように、館の表の方からひどく切羽詰まった足音と、人を呼ぶ声が響いてきた。


「何事だ」


与一郎が筆を置いて廊下へ出ると、ちょうど同輩の文書係が訝しげな顔で歩いてくるところだった。


「遠江筋から、急ぎの使者が到着したようだ」


「遠江から、この大雨の中を突っ切ってきたのか」


与一郎は驚きに目を見張った。


連日の豪雨で、遠江と駿河を結ぶ要路である大井川筋は大きく荒れ、渡しは使い物にならなくなっているはずだ。

海路もこの時化では、小舟一艘出せる状況ではない。


「正しくは北遠の険しい山道を大きく迂回して、ようやく駿府へ辿り着いたらしい」


同輩の言葉に、与一郎は背筋が粟立つような緊張を覚えた。

急ぎの使者が通された一室へ向かうと、そこには凄惨な光景があった。


使者の男は、全身に分厚い泥を被り、息も絶え絶えになって板間に倒れ伏していた。

草鞋は擦り切れ、腫れ上がった足からは血が滲み、顔色は死人のように青ざめている。

人の限界を越えた道行を強いられてきたことは、その姿を見れば一目瞭然だった。


「これを、急ぎ、御屋形様へ」


使者が震える手で差し出したのは、厳重に油紙に包まれた一通の書状であった。

雨と泥から命懸けで守り抜かれたその書状を、文書方の上役が恭しく受け取る。

封には、目付として若君に同行している由比小次郎の署名があった。


宛先は当主である今川氏親、ならびに安芸守ら駿府の重臣たちである。

与一郎は直接の受取人ではないため、その場で封を開くことは許されない。

その場は解散を命じられたため、与一郎は職務の場に戻り、筆を執った。


当然、気もそぞろである。

気にしていた若君に関わり合いのある知らせが、尋常でない様子で届けられたのである。


しかし、どうすることもできない。

雑念を振り払いながら、仕事に打ち込み、何とか本日分を終わらせる。


今日は眠れそうにない、そんなことを考えながら帰り支度をしていると、ふと同輩らの声が耳に入った。


「三河との境の雲谷が発端なのは間違いないだろう」


「いや、若君が米を流して火をつけたと見る向きもある」


「僭越であろう。遠江国境が燃えぬように便宜を図ることは重臣方も黙認していた」


与一郎は自席を立ち、同輩らに歩み寄った。


「待て、そなたら何を話している」


「おお、与一郎。なに、先の知らせの件だ。使者殿がなにやら呟いておってな、聞き取った内容を話しておるのだ」


それは、不味くないか。と思いつつも、与一郎は同輩らに一歩近寄ってしまった。


「どこまで信用できるのだそれは。意識が朦朧としての言葉だろう」


「存外、舌も回っておった。むしろ、自分から少しでも遠江の窮状を広めようとしておるようだったわ」


その使者は相当罰せられるだろう。

いや、これを聞いた自分も何らかの沙汰が下るやもしれない。

そう思いながらも、与一郎は口を開いた。


「で、結局どういうことなのだ」


同輩の語るところによると、やはり使者は小次郎からのものだった。

ただその内容は、戦の勃発を告げるものではなかった。しかし、そこに劣らず緊迫した沙汰を孕んでいた。


曰く、三河との国境に位置する雲谷という小勢力が、事の発端であるという。


雲谷は本来、三河の戸田や牧野といった有力国人に形の上で臣従している勢力である。

だが、その雲谷に対して、若君御料から戸田方には内密に米や銭の支援が行われていたそうだ。

そして最悪なことに、その事実が戸田方に露見した可能性が高いと記されていた。


戸田からすれば、自らの傘下にあるはずの雲谷が、今川からの援助を受けて寝返ろうとしていると映るだろう。

当然、戸田が裏切りを糺すために雲谷を責め立てる恐れがある。


要約すれば、そういう内容であった。


与一郎が唸った。


「三河国境へ米を流すこと自体は、いくらでもそ知らぬふりはできよう。遠江に火の粉がかかるとは思えん」


与一郎の言葉はやはり、龍王丸を自然と庇うものになった。

だが、自分自身の言葉が歪んでいるとも思わなかった。

国境の国人たちは各々血縁がある。

駿河と甲斐の境にある富士氏などが甲斐の縁者に、今川に大きな損害を与えぬ程度の便宜を図ることなど今さらだ。

それに比べたら、遠江境をおとなしくさせるため、少量の米や借銭を許すことなど、どうということはないはずだ。


同輩らもそこは異論がないようで、頷いて見せる。


「まあ、そうさな。商人が勝手に流したとか、言いようはある。戸田もそこまで責めまい。

 だがここまで雲谷に対して動くということは、雲谷が相当なしくじりをしたということだろう」


同輩は雲谷何某を嘲るように付け加えた。


「問い詰められ、若君の名でも出したか」


あり得なくはない。

軽輩が咄嗟に責任を押し付ける様が目に浮かんだ。


「小次郎は何と言っている。若君はどう動くおつもりなのだ」


「使者殿曰く、若君自身は三河に手を出す気はないようだ。ただ戸田らが遠江に来ぬように備えはしたいと」


「備え、か」


与一郎の頭に遠江の戦力が浮かぶ。

まず朝比奈・福島の両勢だ。これらが遠江の軍勢を動かし、国境を睨めば、東三河の国人衆は安々と動けなくなるだろう。


「正しいのではないかな。重臣方もご納得いただけるであろう。使者殿には良い知らせを持って帰らせることもできる」


同輩の一人がそう言ったが、別の同輩は頷かない。

少し顔をしかめている。


「許しはするだろうが、沙汰がいつ下りるやら」


その言葉に同輩らが押し黙った。与一郎も気が重くなった。

現状、今川家の当主、修理大夫氏親は病床にある。

快復に向かっているとは与一郎ら下の者らにも伝えられているが、それ以外の情報がしばらく下りてこない。

内々ではこれは相当良くない、とすら噂が流れ始めていた。


おそらく、重臣らはもめる。

朝比奈と福島そのどちらを主将とするかですらもめるだろう。

またその命を誰が出すかですらももめる。


「その間に遠江が動くやもしれんな」


難色を示した同輩がぽつりと言った。


「まあ、不思議はなかろう。朝比奈様と福島様が遠江に置かれたのはこのような時のためだ。

 きっとお二人が息を合わせ、遠江を守り切ろうぞ」


与一郎が言うと、同輩がまたも首を振った。


「使者殿の言葉を思い出せ。どうやら朝比奈様と福島様の間を取り持って、遠江の防備を実質差配しているのは若君らしい」


同輩らは、その言葉に、ははぁ、と感心したやら、驚いたような声を上げた。

だが、与一郎はそれを聞いて別の感想を抱かざるを得なかった。


危ういかもしれん。


その過日の左京進の言葉が思い出されたのだ。

危ぶまれている状況で、遠江の兵力を差配すること、いや、差配していると見られることは不味い。

駿府の状況が不安定な今、重臣らを揺らしかねない。


与一郎は歯を食いしばりながら、西の方を見て願った。

これ以上不穏な知らせが届かぬように。


だが明朝、知らせが来た。

嵐がわずかに収まったのを見計らい、遠江筋より駆け込んできた急使であった。


伝えられたことは三つ。


一つ、戸田・牧野勢四千が三河国境に着陣し、雲谷館を攻め落としたこと。

二つ、その兵と乱れ立った者どもが遠江境へ押し寄せたこと。

三つ、これを三河に踏み入り、壊滅せしめ、敵将、戸田佐内を討ち取ったのが今川龍王丸であること。


駿府はその報に大いに揺れた。

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